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第 1 章 物質循環論の人間像



終章 物質循環論の人間像   (副目次へ

物質循環論は人間もまた一個の物質であるという自明の事実を一つの思想に展開することを要求する。まず,人間はいかに優れた文化をもっていても生物を超えた存在ではない。生物が生態系というシステムの中でしか生存できないように,人間もまた生命の無限の連鎖の中にしか持続的存在の可能性を見い出せない。あたかも人間が生命の連鎖から独立して存在しうるかのような錯覚に陥っているときに,その生物的特質を強調することは一つの思想である。物質循環論の思想はさらに,人間がそもそも物質であることを克服できないでいることを強調する。人間の物質性をつきつめて理解すること,その中から人間本来のあり方を構成すること,これが物質循環論の課題である。これによって,人間精神の存在価値を見失うことにはならない。なによりも,このような人間のあり方の再構成の課題を遂行するのが人間の精神であり,再構成された人間のあり方の中に精神の意義を再び見い出すのである。

地球上のあらゆる物質は循環している。おそらく宇宙のすべての物質は流れの中にある。そして,地球を物質的に閉じた系としてとらえるような時間的,空間的視野の中では流れている地球の物質は循環している。もしわれわれの目前の物質が刻々と形や状態を変化させているならば,それは絶対的な意味で流れているのである。物質の電子や原子などの運動を捨象すれば,観察している物質が静止している場合もある。しかし,時間的視野を過去と未来に延長すれば,現在において静止している物質もまた状態を変化させるのであり,流れの中にある。このような時間に条件づけられてとらえられる流れは相対的なものであるといってよい。すべての生物は物質の絶対的な流れの中にある。しかもそれはかなり激しい流れである。時々刻々と膨大な生命が誕生し,またそのように死んでいく。緑色植物は無機物から有機物を構成し生命を持続させ,その裏腹の関係で動物や分解者は生命や有機物を無機化している。たとえば,食物連鎖*が生と死の連鎖であるように,物質の流れの中で生命が変転している。

人間の肉体も絶対的な物質の流れの中にある。たとえば,肉体のタンパクを構成する窒素元素の中には,どこかの畑の土壌中の硝酸イオンを構成していたものもあるだろうし,またバクテリアの働きによって大気中の窒素ガスが固定化されたことに起因しているものもあるだろう。人体の 6 割にも及ぶ水の分子の中には,どこかのどぶ川を流れていたものもあるにちがいない。水という分子のまま,どれだけ地球上をめぐってきたか,その全履歴を探ることは不可能である。水の分子がどれほど大規模な循環を繰り返してきたかは知る由もない。

一個の人間が生きている期間中に肉体を通過する物質の量ははなはだ少ない。一個の人間が肉体の外部で支配する物質に拡張したところで,その量はたかがしれている。それは地球のグローバルな物質循環を支配する時間の悠久さに比べて一個の人間の生きていられる時間が余りにも短いことによる。しかし,その一個の人間の物質的存在の発生と持続と死の特殊性は,地球のすべての物質循環に条件づけられている。物質循環論的に人間をみると,それは地球という非生命的物体と本来一体のものであったことになる。地球の全体を生命的なものと非生命的なものに分離することはあくまで便宜的なものである。地球は生命を生み出し持続させ,生命は地球を外的なものとし,両者は対立しているかのようであるが,それもまた本来母と子の関係のようなものなのである。当然,人間の外界にある物質が人間にとって汚染されたものとして存在するならば,人間の肉体にある物質もまた汚染されるか撹乱される。このような論理のもとで,人間は地球上のすべての生命および非生命的な存在に対して共感する能力を有している。

そして,このような論理を組み立て,地球の物質的な存在に対する共感する能力をもつものは人間の精神である。精神は,物質である人間の最も生命的な機能である。人間もそうだが,生物一般について,徹底的に物質であることを突き詰めると,本質的に生命的な作用が抽出できる。それはある意味で物質を対象とする自然科学によって理解不可能なものである。科学が生命を創り出す可能性を否定することはできない。しかしそもそも,生命を創り出すことと生命を理解することは同じではない。もし科学が生命を創り出すことができたら,地球上の歴史に理解不可能な新しい生命の系統を創りだしたことを意味する。というのは,生命は常にみずからを個別化する傾向をもつ。逆に,物質循環の中の無秩序の源泉としての流れから,個別的な物質化を持続させる能力が生命であるといってもよい。個別化された生命は個別的な履歴をもつ。生命は,みずから保持するすべての履歴を未来に流し込み,個別化された物質のまったく新しい状態を創造する。ベルクソンの「 持続」である。このように個別化された生命は,まったく物質であるが自然科学の理解を拒否する。どのような単純な生命もこのような創造性をもっている。そして,人間の精神は地球上のすべての生物の中で,このような創造性を最高に発揮しうる能力をもっている。このような精神の機能として,人間はみずからの物質的な個別性の背後にある,物質的普遍性を理解するのである。そして,この物質的普遍性のさまざまな図式を提供するべき理論が物質循環論である。

物質循環論は観念的な形ではあるが,個別化された人間を空間的には普遍性,時間的には永遠の中に溶解させていく。人間的個別化の部分的,観念的な超克である。人間はこのような超克を行なう能力をもっている。物質循環論が提供する新しい人間像である。人間はみずからの個体性を時間的,空間的に乗り越えて共感を広げることができる。そこに人間の本質的な自由がある。経済学的個人は,個別化された自由の主体であった。物質循環の中から自らを個別化するという,生物のプリミティブな本能をそのままに前提とした,自由の中で生きる主体であった。今求められているのは,個別化された人間の自由を基礎にして,真に人間らしい普遍的な自由を構成することであり,それによってはじめて人類の永続的な生存が可能になるのである。




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