第1章 富と経済的価値の理論

第1節 古典派価値論の基底としての価値尺度の不変性
1 「評価」価値尺度としての労働
 経済的価値は理論経済学の基本概念の一つである<1>。そしてこの概念のその重要性にふさわしい形で経済学に位置づけたのは古典派経済学の主要な業績の一つである。われわれははじめに、古典派経済学において価値という概念が導入される動機、なぜ古典派経済学はその出発点から価値概念を導入せざるをえなかったかについて検討を加えることにしよう。もしその動機が古典派経済学の特殊な立場に基づくものであって、現代の理論経済学において有効性を喪失しているなら、引続きその有効性を主張するわれわれには新たな動機づけが必要となる。すなわちなぜ価値概念が重要なのかについて明確な回答を出す必要があることになる。しかし、結果的には古典派経済学において、価値が導入されるべき必然性の認識は本質をとらえたものだったのであり、その後必ずしも十分に発展されなかったものの今日においてもその意義は確認される。この点をペティとスミスによって明らかにしよう。
 ペティは『租税貢納論』のなかで、われわれの問題からみて価値の問題についてきわめて興味深い議論をしている。その後の古典学派が経済学を政治経済学(Plitical Economy)と呼び、租税をどのように賦課すべきとの関連で議論を展開してるのと同様に、ペティも議論の出発点は同じだった。
 「諸々の租税との関連において、諸々の賃料について余りにも多く語る前に、
われわれは、前述の土地や家屋の賃料はもとより、貨幣その賃料をわれわれ
は貨幣賃料と呼ぶについても、それら(の賃料)の神秘的な性質をつとめて
解明しておかなければならない」<2>
 ここで、貨幣の神秘的な性質の解明が意識されていることは重要である。交換が一般的な経済においては、貨幣は特別の財貨である。それは普遍的な交換手段となることによって、諸財貨の交換比率を表現するようになった財貨である。しかし、それによって表現された財貨の価格が、時間を超えて財貨の価値を表現しているものではないというのがペティの問題だった。ペティは「世間では主として銀で諸物を測定する」が「銀の品位および量目が同一であるにしても、その価格は騰落する」として、次のように述べている。
 「そこでもし銀が、それで価値づける種々のものに対するその比例を異にし、その増減にもとづき、種々の時代によって、価値が異なるものとすれば、われわれは、金・銀の卓越した効用をきずつけることなしに、なにか他の自然的標準および尺度を吟味するために努力すべきであろう」<3>
 すなわちペティは一般的に価値尺度と考えられている銀の価値そのものが変動することをとらえており、そうした変動をまぬがれているような、すなわち時間的に不変な価値の尺度を求めていることがわかる。そうした不変な価値尺度の必要性とともに、ここでわれわれが注目しなければならないことは、彼がすでにこの段階で、経済的な「価値」というものについてのなんらかの観念を持っているということである。すなわち価値尺度がなんであるかの前に、価値という概念が意識されているということである。不変な価値尺度が何か明らかにする前に、そもそも価値が変わらないということが何を意味するかがわかっていなければならないのである。この点は、さしあたって留保しておいて、ペティのみずからのだした問題対する回答をみてみよう。
 「この問題について私の言いたいことは、すべての物は、二つの自然的単位名称、すなわち土地および労働によって価値づけられねばならない、ということである。すなわち、われわれは一隻の船または一枚の上衣が、これこれの数量の土地、ならびに別のこれこれの数量の労働に値するといわねばならない。そのわけは、船も上衣も、土地およびそれに投ぜられた人間労働の創造物だからである」<4>
 ここでペティは、そうした不変の価値尺度は土地か労働でなければならないと述べている。この土地あるいは労働が不変な価値の尺度となるということは、ある財の価値が土地あるいは労働において表示されているならば、もし時間が経てその量が変化したとき、それが土地あるいは労働の価値が変化したのではなく、その財の価値が変化した判定することができるということである。ここで、ペティがある財の価値が土地であれ労働であれどの様に測定されるのか、すなわちある財の価値としての労働あるいは土地の量がいくらになるのかについては明確には述べていないことに注目しなければならない。すなわち、土地あるいは労働の量は、その測定方法がどうあれ価値尺度となりうることを示しているのである。それは、彼がただ一つの価値尺度を示しているのではないところにもあらわれている。すなわち価値尺度の不変性は、土地と労働が備えている共通の性質に基づいているのである。ペティの最後の文から、それが生産要因としての機能に依存していることを読みとることはできるが、しかしそこにおいてもいかに測定されるかというのは問題となっていないのである。
 ペティは、このあとに、土地と労働の間の「自然的等価関係」が確立され、一つの価値尺度で表わされることが望ましいと述べている。そして、この価値尺度としての労働については、その測定をいわゆる体化された労働、すなわちその財の生産に必要な労働の量、投下労働量によると考えている。それは次の文章にあらわれている。
 「もしある人が、1ブッシェルの穀物を生産しうるのと同じ時間に、銀1オンスをペルーの大地の中からロンドンに持ってくることができるとしよう。この場合、一方は他方の自然的価格である。ところが、もし新しい、しかももっと楽な(採掘のできる)諸々の鉱山のおかげで、ある人がかつて1オンス獲得したのと同じ容易さで、銀2オンスを獲得することができるならば、そのときには、他の条件にして等しい限り、穀物は1ブッシェルが10シリングでも、かつて1ブッシェルが5シリングであったのと同様に安価である、ということになるであろう」<5>
 この文章も含めたとき、ペティは労働価値の創始者とも言われることになるのである。
 さて、われわれは以上のようなペティの価値に関する考え方を、以下のようにまとめることができる。すなわち、ペティには時間をとおして不変な尺度となるべき何物かの必要性が明確に意識されていた。そしてそれによって測られた物をその財貨の価値とするべきであると考えた。しかし、そのときにある財貨がその価値尺度でどの様に測られるかも同時に明確にされるべきであると考えては必ずしもいなかった。この点がわれわれが強調すべき点である。一つの例で考えてみよう。ある年に上着1着の銀で測った価格が10であったとしよう。それから10年後にそれが15となったとき、それは必ずしも上着1着の「価値」が上がったとは言えないとペティは考えた。銀の価値が下がって、そうなったといえる場合があるからである。そこで、それで測ると各財の価値の変化が端的に表わされるような価値の不変な尺度はあるのかということをペティは問題にした。そして、それは存在し労働であると彼は考えたのである。すなわち、銀で10であった年に、その1着の上着が労働8時間に値し、その10年後にそれが6時間に値したら、上着の価値は低下したと即座に判定できると考えたのである。このときにペティは、理論のこの段階において必ずしもその上着がどれだけの労働に値するかの測定の方法も含めて考えていたわけではない。あるいは、たとえそう考えていたとしても、彼の主張の全体は、価値尺度の選択とその測定の仕方を分離しているとみても矛盾を引き起こさないようになっている。
2 「いつでもどこでも等しい価値」
 この点は、スミスの『諸国民の富』になるとよりはっきりする。スミスは価値について二つの定義をし、その両者を混同していることが、その後のリカードあるいはマルクスによって指摘された。すなわち、スミスには財の価値をその財を生産するのに必要な労働、すなわち投下労働とする定義と、その財が購入しうる労働の量すなわち支配労働という2種類の定義が存在する。支配労働についてはスミス次のように書いている。
 「ある商品の価値は、それを所有してはいても自分自身で使用または消費しようとは思わず、それを他の商品と交換しようと思っている人にとっては、その商品がその人に購買または支配させうる労働の量に等しい」<6>
 この支配労働量というのは、その商品によって購入しうる労働の量にほかならない。したがって、それは直接的に交換比率を表わしている。すなわち、諸財貨の価値は貨幣ではなく、労働によってその交換比率、すなわち交換価値が表わされていることを意味している。たとえば、先の例でいくと1着の上着は労働6時間と交換可能であり、したがってまた1着の上着は6時間の価値を持つと表現されるのである。したがってまた、6時間の労働によって1着の上着に値する賃金をえているのである。いま6時間の労働に対する賃金が銀で15支払われているならば、そのときの市場では1着の上着は銀15という価格を持っていることになる。
 これに対して、価値をその財の生産における投下労働量ととらえているのは、次の文章にあらわれている。
 「物と物と交換したりしようと欲する人にとって、あらゆる物が現実にどれほどの値があるかといえば、それはこのものがその人自身に節約させうる労苦や煩労であり、またこのものがほかの人々に課しうる労苦や煩労である。・・・・・これらの貨幣または財貨は、一定量の労働の価値を含み、われわれはそのとき、それらを等量の労働の価値を含むと思われる物と交換するのである。労働こそは、最初の価格、つまりいっさいの物に支払われた最初の本源的な購買価格であった」<7>
 この投下労働量によって与えられる価値は、基本的に生産に、したがってまた技術に依存した価値である。いま、投下労働価値の視点からみて、1着の上着の価値は5時間であるという場合、それは1着の上着を作るのに人間の労働が5時間必要であることを意味している。
 この投下労働を基準とした価値と先の支配労働による価値とでは全く違った視点から規定されているので、それが一致することはなんら約束されていない。また、それらがどのような関係にあるかを考える場合でも、投下労働を与えるための技術的な体系と、支配労働を与えるための交換価値を与える体系をなんらかの形で想定しなければならない。われわれは、それらがどのような意味で異なっているかを簡単なモデルで示すことができる。たとえば穀物の生産部門で労働に対する賃金穀物で支払われ、またその生産には穀物それ自身しか支払われないという、きわめて簡単な場合を考えてみよう。穀物1が一人の1日8時間の労働で生産されると考えてみよう。この生産のために穀物それ自身が種子として200使用されるとしよう。そしてこの一人の労働者には賃金として500支払われるとしよう。(この8時間労働に対する賃金を定めるということは、この時点で穀物と労働の交換比率を定めたことになることに注意しなければならない。)さて、このとき穀物の支配労働量価値と投下労働量価値がどのようになるかを考えてみよう。まず穀物1の支配労働量価値は、労働8時間が500の穀物に値するのであるから、労働16時間ということになる。これに対して投下労働量は計算がやや複雑になる。1の穀物に対して直接的には8時間の労働が投下されているから、その投下労働価値は8時間であるとはならない。というのは、種子として使用されている200の穀物についても労働が投下されていると考えなければならないからである。この200の穀物を生産するのにも労働が必要でありそれは、技術の規模に関する収穫不変性を仮定すると8/5時間となる。また、この200の穀物を生産するのにも種子としての穀物が必要でありそれは40であることは簡単にわかる。この種子を生産するのにも労働が投下されていてそれは、8/25時間である。これを繰り返していくと、結局総投下労働時間はこれらの総和、すなわち、
8+(8/5)+(8/25)+(8/125)+・・・・・
この値は収束し、10である。結局、1の投下労働量価値は10時間ということになる。したがって、この場合次のような関係が成立していることがわかる。
     支配労働量(16時間)>投下労働量(10時間)
したがってこの場合、価値を支配労働量とするのか投下労働量で決めるのかは明確に違っていて、支配労働量で測ったほうが穀物の価値が高く評価されることがわかる。この点は、より一般的な場合についても確かめることができるがここでは省略する<8>。
 スミスは価値に関する議論の中で、こうした明確に違った基準を何等区別せずに、あたかも同じもののように扱っている。われわれが考えなければならないことはこのことが単なるスミスの誤りであると片づけることができるのかどうかという点である。結論的には、スミスにとってそうした定義の違いよりも、その二つの定義が結局は同じ単位、すなわち労働の量という単位を持つこと、すなわち価値尺度が労働であることが決定的に重要だったのである。そして、この点でまさに投下労働基準を提示する前の議論の段階におけるペティの立場、それがいかに測定されるかとは独立に財貨の不変な価値尺度は労働であるという立場と完全に一致するのである。そのことは、次の文章に最もよくあらわれている。
 「ところで、人間の足の長さとか一尋とか、一握りというような、それ自体の量が間断なく変動する商品もまた、ほかの諸商品の価値の正確な尺度にはなりえないのである。等量の労働は、いつどのようなところでも、労働者にとっては等しい価値である、といってさしつかえなかろう。彼の健康・体力および精神が平常の状態で、また彼の熟練および技巧が通常の程度であれば、彼は自分の安楽、自分の自由および自分の幸福の同一部分をつねに放棄しなければならないのである。彼が支払う価格は、それと引き換えに彼が受け取る財貨の量がおよそどのようなものであろうとも、常に同一であるに違いない。実際のところ、この価格が購買するこれらの財貨は、ある時は比較的多量であろうし、またあるときは比較的少量であろうが、変動するのはそれらの財貨の価値であって、それらを購買する労働の価値ではない。・・・・・それゆえ、それ自体の価値がけっして変動しない労働だけが、いつどのようなところでも、それによっていっさいの商品の価値が評価され、また比較されうるところの、究極の、しかも実質的標準である」<9>
 スミスはここで労働者を引き合いに出しながら等量の労働に対する評価は不変であることを述べている。そして、重要なことはその評価の不変性こそが労働の価値尺度としての不変性の根拠と考えられているのである。この「等量の労働はいつでもどこでも等しい価値」というスミスの価値に関する基本命題を等量の労働に対する実質報酬が不変であるというように解釈してはならない。それが主張しているのは、明らかに等量の労働に対する評価が量的に同一のものとして与えられるということである。スミスにおける価値規定の先のような二重性を指摘したマルクスは、スミスのこの文章について「個人的労働の主観的同権化」<10>をしていると述べて、その主観性を見抜いていた。確かに、スミスの価値はまず何よりも主観的評価として存在したのであり、またしたがって、価値の不変性はそのものに対して時間を超えて、同一の評価が与えられるということを意味したのであり、価値尺度とはそうした性質を持った特別な財を意味していたのである。スミスは、このあとにつづく文章の中で、そうした、労働に対する評価の同一性は単に労働者にとってそうであるだけではなく、使用者にとってもそうであると述べている。
 「しかしながら、等量の労働は、たとえ労働者にとっては常に等しい価値であっても、かれを使用する人にとっては、ある時には比較的大きな、またあるときには比較的小さな価値であるようにみえる。かれは、等量の労働を、ある時は比較的多量の、またあるときには比較的少量の財貨で購買するのであって、かれにとっては、労働の価格は他のいっさいの物のそれと同じように変動するように思われる。かれにとっては、前者の場合にはそれが高価で、後者の場合にはそれが安価であるようにみえる。けれども、実際には、前者の場合に安価で、後者の場合に高価なのは財貨なのである」<11>
労働に対する評価の不変性は、単に労働者あるいはその階級にとどまることなく一般的なものとして成立しているとスミスが考えていたことがこの文章でわかる。しかし、その一般性の主張は、労働者の立場からみた最初の文の彼の主張とくらべて根拠が明確でない。われわれは、後に労働を価値尺度とみなすことがどのような整合的な裏付けのもとにあらわれるかを後に検討するが、結論を先取りすれば、それは労働する階級の共同的評価としてあらわれるものである。したがって、これらのスミスの議論は、価値が階級的な評価としてあらわれることを最初にとらえたものとしての大きな意義を持つものであると同時に、それを不用意に一般化してしまったという点でのスミスの限界性を示すものとして理解しなければならない。
 スミスが考えていた、労働の一般的評価の不変性の意味についてはさらに検討されなければならない点がある。それは、同じ労働量は同じ価値物として評価されるというのは、異時点間の財貨の価値評価において本質的な意味を持ってくるということである。すなわち同一時点では、それが何で評価されていようと、「一物一価」の原則が成立している限り同一の物として評価されると考えてなんら問題が起こらないからである。しかし、異時点間で財貨の価値の変化を調べるときに、先のペティについて論じたような問題が起こってくるのである。スミスは、次の文章でも明らかなようにこのことをはっきり意識していたのであるが、それはまた、われわれのペティあるいはスミスにとっての価値理論の前提についての考え方の正しさを示すものとなっている。
 「それゆえ、労働の価値の唯一の不変的な尺度であると同時に、唯一の正確な尺度であるということ、すなわち労働は、いつでも、またどこでも、われわれがそれによってさまざまの商品の価値を比較できる唯一の標準ということは明白であるように思われる。われわれが、世紀から世紀にかけて、さまざまの商品の実質価値をそれらと引き換えに与えられる銀の量によって評価できないことは、すでにみとめめられている。われわれは、年々のばあいでも、穀物の量によってそれを評価することができない。労働の量によるならば、われわれは、世紀から世紀にかけても、年々についても、もっと正確にそれを評価することができるのである」<12>
 ここまでで明らかにされたペティ、スミスの価値についての理論をまとめておこう。彼らにとって、経済的価値とは、一般に社会集団が交換の対象となる財貨に与える共同的な評価である。そして彼らは、貨幣が必ずしもそうした評価が時間的、空間的に安定していないことを認識し、それとは異なる、共同的な評価が変わらないという意味での「不変な価値尺度」を求めた。そしてスミスにおいて最も明確にあらわれているように、それを「労働の量」というものに特定化した。そして、以上の点が古典派経済学の価値論の基底をなすものである。スミスには、この労働量かそれぞれの財についてどのように与えられるかについて二つの考え方が混在していた。一つは、その財貨の支配労働量によって与えるものであり、もう一つは投下労働量によって与える仕方である。この二つの違いは、価値尺度というものが与えられたもとで、どのように測定するのか、その測定の仕方の違いである。スミスにとっては、この測定の仕方の違いは必ずしも重要なものでなかった。何よりも不変な価値尺度そのものが重要だったのである。
3 価値の共同的主観性
 こうしたペティ、スミスの価値論の動機を重視するのは、価値というものが一つの主観的な評価であるという点をわれわれもまた強調するからである。スミス以後では、リカードによって投下された労働が価値論として展開され、また支配労働価値論はマルサスによって展開された。投下労働価値説はさらにマルクスによって発展させられ、古典派経済学の理論としてはほとんど完成された形に仕上げられた。そしてそれらに共通しているのは、ペティ、スミスによって前提とされていたこうした価値の評価としての側面が忘れられてしまっていることである。もちろん意識されないままでも、労働が価値の尺度となっている限り、同じように前提となっているとは考えられるが、結果的には彼らはその客観性を強調した<13>。ペティ、スミスにおけるこうした価値の主観性の指摘について重視しなければならない点は、そうした評価がなんらかの共同性を持っていることが明らかにされていたことである。以下、われわれはこうした人間集団において共同性を持った与えられる評価の性質を共同的主観性と呼ぶことにする<14>。ただし、こうした共同性を持った主観は客観的なものと考えられる場合がある。たとえばある芸術的な作品について、それがただ一人の評論家によって優れたものと評価された場合は、客観的な評価ではなく個人的な評価という意味で主観的なものと考えられるが、それがもし他の多くの評論家によっても優れたものと評価された場合、客観的な評価と言われることがある。しかし、われわれの客観性はこうした意味では用いていない。支配労働価値理論は、現実の交換比率そのものを前提にしているので、それ自体一つの客観性を保持していることになる。これに対して、投下労働価値理論は、それが直接には交換価値を意味するのではなく、投下労働によって与えられた異質な財の労働による量的一次元性によって、交換比率が与えられることを主張し、それを実現する過程の客観性が、価値そのものの客観性の基本的な根拠とみなすのである。
 リカードは次のように述べている。
 「そうしてみると諸商品の市場価格が、ある期間にわたって、引続きその自然価格(商品の投下労働価値の意−鷲田)をはるかに上回るかはるかに下まわることを妨げるものは、自分の資金をより不利な用途からより有利な用途へ転じようとする、各資本家の持つ要求である。この競争こそは、諸商品の生産に必要な労働に対する賃金、および使用される資本をその本来の能率状態におくのに要する他のすべての経費を支払ったあとに残る価値、すなわち利潤が、各自業において、使用された資本の価値に比例するように、諸商品の交換価値を調整するところのものである」<15>
 すなわち、リカードにとってその投下労働価値どおりの交換価値が実現されるのは、より有利な機会を求める資本の競争という過程によるのである。この点は、ほとんどそのままマルクスに引き継がれている。マルクスの場合、価値の現実の市場価格の規定性は価値法則という名前が当てられている。そして、投下労働価値の体系は論理的な展開において直接の生産費と一般利潤率によって構成される生産価格体系を形成し、その体系が現実の市場価格を規定するという構造になっている。マルクスは、単純に価値で与えられる交換比率が生産価格のそれと一致するというような意味で、価値法則を考えていたわけではない。これらの点については、細かく議論することはできないが、ここでは、価値が全体として市場価格を規定する客観的な過程をマルクスが考えていたということだけをとらえればよい。マルクスは次のように述べている。
 「価値法則は価格の運動を支配する。この支配は、生産に必要な労働時間の増減が生産価格を上下させることによって行なわれる」
 「諸商品の総価値は総剰余価値を規制し、その総剰余価値はまた平均利潤の高さ、
したがってまた一般利潤率の高さを規制する一般法則として、または諸変動を
支配するものとしてのだから、価値法則は生産価格を規制するのである」
 「競争が、さしあたりまずある一つの部面で、なしとげることは、諸商品のいろいろな個別的価値から同じ市場価値と市場価格を成立させることである。しかし、いろいろな部面での諸資本の競争が、はじめて、いろいろな部面のいろいろな利潤率を平均化するような生産価格を生み出すのである」<16>
 こうしたリカード、マルクスの投下労働価値説における価値の客観性についての議論は、一つの整合的な理論の上に組み立てられているものであることは明かである。しかし、彼らが想定していた現実の過程が、必ずしも完全に明確なもの、有効なものであるとはいえない。というのは、彼らには諸商品の投下労働価値が、理論においても、現実なものとしても、本源的な出発点としてアプリオリに設定されているからである。なぜ投下労働なのか、さらにさかのぼってなぜ価値尺度は労働量なのかが明確になっていないのである。結局それは、ペティ、スミスの共同的主観の評価として与えられる、価値の不変性を持つものとしての労働にさかのぼらざるをえないのである。
 ここで、「等量の労働はいつでもどこでも等しい価値である」と表わされるスミスの価値尺度の共同的主観性についての基本命題が成立するための前提について検討しよう。この命題の成立する上で、一つの重大な困難は現実の労働がその直接的形態において決して等質ではないという問題がある。そして、この等質でない労働を目の当たりにしながら、それでも労働の定量的な価値等質性を認識しスミスの命題が成立することを可能にする条件は何かが問題である。この困難は、実は投下労働価値説の提唱者がはっきりと意識していた問題なのである。スミスの場合、異質な労働の同一なものへの還元の困難性を指摘しつつ、それが市場によって調整されるという主旨の、その後の投下労働価値説の基本となった主張をしている。
 「二つの異なる労働の間の割合を確定することは、しばしば困難である。二つの異なる部類の仕事についやされた時間は、必ずしもつねにそれだけでこの割合を決定しないであろう。・・・・とはいえ、それはある正確な尺度によってではなく、たとえ正確ではないにしても、日常の仕事を進めていくのには十分な、ある種の大づかみな等式にしたがい、市場のかけひきや約定によって調整されているのである」<17>
 リカードの認識も基本的に同じである。
 「異なった質の労働が受ける評価は、すべての実際的目的にためには十分な正確さをもって、市場においてただちに調整されることになり、そしてそれは、たいていは、労働者の比較的熟練と遂行される労働の強度とに依存する。この等級は、いったん形成されると、ほとんど変動を受けない」<18>
 これらの認識は、われわれにとって、つまり価値の共同的主観性を問題にする立場からみてさほど関心をはらわなければならない問題ではない。注目しなければならないのはマルクスの主張である。マルクスは、スミス、リカードと同様に現実の市場において与えられる交換比率によって、異質労働の還元が行なわれるという立場をとりながら、さらに具体的有用労働と抽象的人間労働という概念によってこの問題をより厳密に考えている。マルクスは、商品に使用価値、つまりその有用性を与える労働を有用労働と呼び、価値として体化される労働を無差別な抽象的人間労働として区別した。この、価値形成労働が抽象的性格を持っていることの指摘が重要なのである。
 「互いにまったく違っている諸労働の同等性は、ただ、諸労働の現実の不等性の捨象にしかありえない。すなわち、諸労働が人間の労働力の支出、抽象的人間労働として持っている共通な性格への還元にしかありえない」
 「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらのものが彼らにとっては一様な人間労働の単なる外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、異種の諸生産物を互いに交換において価値として等置することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等置するのである」<19>
 マルクスは価値を形成する等質的な労働の性格を抽象的人間労働と規定しつつ、それが個人的主観に依存したものではなく一つの社会的、客観的過程として実現するものであると考えたのである。しかし、またそれは以上のマルクスの引用においても明かであるが、完全に人間の抽象化の能力と独立に与えられるものではない。それは、明らかに人間の精神の抽象化の能力とも関連しているとマルクスは考えていた。
 「すでに見たように、価値は、人間が彼らの諸労働を、互いに、同等かつ一般的な諸労働として、またこの形態において社会的な労働として取り扱う、ということにもとづいている。これは、人間のすべての思惟がそうであるような、一つの抽象であり、また社会関係が人間の間に[存在するのは]、彼らが思惟するかぎり、感覚的な個別性や偶然性を捨象するこうした能力を彼らが持っている限り、においてでしかない。同じ時間に行なわれる二人の個人の労働が絶対に等しいということは(同じ部門の中であっても)ない、という理由で労働時間による価値の規定を攻撃するようなたぐいの経済学者たちは、そもそもいまだに、人間の社会関係を動物のそれから区別するものは何か、ということがわかっていないのである」<20>
問題とする労働が抽象的なものである限り、意識するにしろしないにしろその能動的な主体としての人間が存在するのである。われわれが問題にする労働の等価値性が成立するために、ここでマルクスが指摘するような労働の抽象化が同時に行なわれることは一つの不可欠の前提である。われわれは、この最後に表れたような指摘を、それ以前の市場における労働の等質性の実現という主張とは切り離して、完全に受け入れなければならない。そしてもちろん、この抽象化を行なう主体と、労働を等しいものとして評価する主体とは同じでなければならない。
 この前提が認められたとしても、議論の有意性を明らかにするためには次のような点が明らかにされなければならない。(1)こうした価値尺度の不変性がどのような現実と結びついているのかという点が明らかにされなければならない。この点が明らかにされなければ、そもそもこうした古典派の価値論の基底を明らかにしたとしても無意味だろう。(2)なぜそうした不変な尺度が労働に限定されるのか、あるいは労働に限定するということはどの様な意味を持っているのか。これらいずれも、古典派の価値概念とわれわれがさきに問題にした富の概念との関係の中でだけ回答をえることができるものなのである。この点を次節以降で明らかにしよう。
脚注
<1>価値概念は経済学の占有物ではない。一般的な意味での価値概念は、人間の積極的実践というものと結びついている。それは、対象の秩序づけという側面を持っていることは容易に認識できる。すなわち、人間的実践の過程において、無秩序な対象を、目的適合的に秩序づけるというのは、重要な役割を果たすのである。それは、さらに情報とか、エントロピーといった概念と深い関連を持っている。
<2>ペティ(1662)、p.76。
<3>同、p.79。
<4>同。
<5>同、p.89。
<6>スミス(1776)、、p.150。
<7>同、p.151。
<8>支配労働と投下労働の関係についての厳密な議論は、置塩(1965)の該当個所を参照せよ。
<9>スミス(1776)、、p.155。
<10>マルクス(1859)、p.44。
<11>スミス(1776)、、p.156。
<12>同、p.163。
<13>経済的価値に限らず、一般的な意味での価値の客観性を主張しているものとして、トゥガリノフ(1968)がある。
<14>スターン(1962)は、一般的な意味での価値概念を、「客観と、評価する主観との関係」(p.165)と定義した上で、集団的価値というものの存在を積極的に主張し次のように規定している。
 「集団的価値これもやはり、客観と評価する主観の間の関係ではあるが、
評価する主観の個人的特質に依存するものではなく、むしろ、それらの価値を肯定する集団の集団的特質に依存する価値である。それらは、たとえば、特定の国民・階級・政党・カスト・宗教団体などの集団的特質に依存する」(p.217)
 このスターンの集団的価値の規定は、彼の価値規定の特殊性に依存する部分を除けばまったくわれわれとしても是認できるものである。その特殊性とは、彼が価値を「関係」としてとらえているのに対して、われわれは、評価の指標としてとらえることである。
<15>リカード(1817)、p.107。
<16>マルクス(1894)、p.226。
<17>スミス(1778)、、p.152。
<18>リカード(1817)、p.23。
<19>マルクス(1867)、p.99。
<20>マルクス(1861)、p.371。


第2節 富の双対概念としての価値
1 交換過程の双対性
 この節では、価値を富との関係においてどうとらえるのかについて検討する。そのために、前節に引き続いて交換という、市場経済の基礎を形作っている行為に再び光をあてる。交換というのは、質的に異なった財貨がある一定の量的関係においてそのもち手を取り替えるということである。一定の量的関係というのは、いまたとえば上着と銀が1着と10という比率で交換されているのなら、1着と11では交換されないということである。そして、この1着と10という、上着と銀の量的な交換比率に表現されているものを古典派経済学は交換価値と呼んだ。1着の上着は銀10に値するのであり、また逆に銀10は上着1着に値するのである。そうしてみると、1着の上着そのものには二重の性質が表現されている。まず上着の直接的で具体的な有用性であり、これは交換が前提にされていようがいまいが、それ自体に付着している性質である。もう一つは他の財貨との交換の関係におかれたときに明らかになる性質であり、上着が一定の交換価値の担い手になっているという性質である。こうした交換されることを前提にしている財貨、すなわち商品の二重の性質は早くから知られていたものである。これを、交換価値と使用価値という概念でもって経済学に本格的に導入したのは、スミスである。
 「注意すべきことは、価値という言葉には二つの異なる意味があるということであって、それはあるときにはある特定の対象の効用を表現し、またあるときにはその対象を所有することによってもたらされるところの、他の財貨に対する購買力を表現するのである。前者を「使用価値」、後者を「交換価値」とよんでもさしつかえなかろう。最大の使用価値をもつ諸物がほとんどまたはまったく交換価値をもたない場合がしばしばあるが、その反対に、最大の交換価値をもつ諸物がほとんどまったく使用価値をもたない場合もしばしばある」<1>
 この問題を、貨幣の起源との関係で精密な理論展開をしたマルクスも次のように述べている。
 「どの商品も、使用価値と交換価値という二重の観点のもとに自らを表わしている」<2>
 古典派経済学は、スミスからマルクスに至るまで、こうした商品の二重性の把握を受け入れていた。この使用価値というのは、その商品の直接的で具体的な有用性のことであり、それが消費財としてであれ生産財としてであれその具体的姿態においてなんらかの目的を実現する、結果をもたらすものである。そしてこのように、使用「価値」という呼ばれ方は、それがそうした直接的な有用性に対する評価である点が反映しているものである。重要なことは、古典派的世界においてこの使用価値は、個別的な意味での「富」の実体、すなわち Riches として考えられていたことである。マルクスの次のような記述にはその点が明確に表れている。
 「資本主義的な生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として表れる」<3>
 「使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかに関わりなく、富の素材的内容をなしている」<4>
 そして、これはマルクスの特殊な立場ではなく古典派経済学に共通した基本的立場であったことは容易に確かめられる<5>。したがって、財貨はそうした個別的な富と交換価値との二重性において商品なのである。そして、このような交換の場にある財貨の二重性の認識は、われわれが双対性(Duality、一般的な訳語としては「二重性」)と呼ぶものの第1次的な認識でもあるのである。すなわち、交換の場において交換される二つの財貨はそれ自体富の実体である。しかし、交換されるというからにはそれらの二つの財貨が異質なものでなければならないし、そこではその異質なものが量的に比較される。量的に比較されるということはそれがなんらかの共通な評価の指標が与えられるということであり、そこに交換価値というものが通訳者としてあらわれてくるのである。すなわち、さしあたって交換価値を価値と呼んでおけば市場経済においては、一つの商品自身にわれわれのいう「富と価値の双対性」があらわれているのである。
 先には、上着と銀の間の交換価値を問題にしたが、同一の市場経済においては、こうした交換比率が一般的に成立する。すなわち、他にもたとえば穀物がその領域に入っていれば穀物と上着、あるいは穀物と銀の間の交換比率が与えられることになる。もちろん、この二つの交換比率に上着と銀の間の交換比率を加えた三つの交換比率はそれぞれが完全に独立に与えられると考えることは現実的でない。こうして、財貨の数が増え、たとえばn個になるとその与えられるべき交換比率の数は、n(n−1)/2である。しかも、こうした交換比率のそれぞれについて、どの様な他の諸財貨の間の交換比率を媒介にしても矛盾が生じないようになっていなければならない。このことが、そのまま市場経済に要求するならば大変な無秩序を生む可能性がある。すべての交換比率の尺度として貨幣が現れることによって、この無秩序さを最小にすることができるだろう。実際すべての交換比率を貨幣を媒介にすることによって、交換比率が複数化されることを回避できるからである。その場合の交換比率はn−1個ですむ。こうした貨幣の現れる理論的、現実的必然性はわれわれの議論にとって大した意味をもたない。ただ、ここでは交換比率が一般的に現れざるをえないという点で一つの社会的性格をもっていることだけが確認されればよい。
 個別的な商品に関する富と価値との二重化は、同時にその商品を測る量的尺度、すなわち単位における二重化でもある。まず商品は個別的な富として、すなわち一つの有用物として自然な尺度をもっている。
 「有用物の量を計るための社会的な尺度を見いだすことも、そう(歴史的な行為)である。いろいろな商品尺度の相違は、あるものは計られる対象の性質の相違から生じ、あるものは慣習から生じる」<6>
 したがって、n個の商品が存在するならば、それらを表現するためにはn次元空間が必要になるのである。たとえば、上着ならばそれを1着、あるいは2着とか数えることのできる量の尺度をもっている。上着の量は、もしその上着が完全に同質なものであるならば、長さあるいは重さという尺度は意味をもたないであろう。そして、その単位が異なるものの間での加減算は意味をもたない。たとえば、上着1着と銀3を加えるというのは意味をもたないのである。こうした商品尺度は、区別される商品の数だけ存在するといってよい。しかし、もう一つの交換価値としては、それは異なった商品について比率しか問題になっていないがゆえに、どの様な尺度にしろ、1次元的なものでありうる。したがって、最も簡単な方法は、ある一つの財貨を尺度として、それとそのほかのすべての商品の交換比率を、それぞれの商品に帰属させればよい。その特殊な財貨を価値尺度財(価値ニュメレール)と呼ぶ。たとえば、銀をそうした尺度とすれば、すべての商品はそれと交換される銀の量によって交換価値を表わすことができるのである。
2 生産過程の双対性
われわれは、交換において現れる、それはまたここの商品それ自体に現れる富と価値の双対性を検討したが、次のもう一つより発展した形でのその双対性を調べることにしよう。それは、交換ではなく生産を媒介にして表現される富と価値の双対性である。そのためにまず、リカードのこの問題に関する議論を材料にして検討をはじめよう。リカードは『原理』の「第20章 価値と富(riches)それらの特性」中で、この点に関する重要な主張を展開している。彼は、「価値は本質的に富(Riches)と異なっている。というのは、価値は豊富に依存するのではなく、生産の難易に依存するからである」<7>と価値と富の間の関係の独立性を主張する。そしてさらに次のように展開する。
 「(機械の発明などによる生産の改良によって)社会は、諸商品の分量の増加にもかかわらず、その富の増加およびその享楽手段の増大にもかかわらず、より少額の価値をもつにすぎないであろう」<8>
 このリカードの議論において、価値体系は基本的に投下労働価値説に依っているることに注意しなければならない。ここでのリカードの主張の基本的内容は、労働生産性の上昇が価値と富に与える対称的な影響である。前節で議論した穀物生産モデルを例にしていえば、そこでは、穀物1を生産するのに8時間の人間労働と200の穀物種子が必要だった。ここで労働生産性が上昇したことが最も直感的に理解できるのは、直接必要とされた8時間の労働が少なくなることである。いまこれが2時間少なくなって6時間になると、前の計算からも明らかなように、穀物1の生産に直接、間接必要な労働量は7.5時間となる。したがって、直接の投入労働量の減少という形での労働生産性の上昇は明らかに投下労働価値を低下させる。また、簡単な計算によって、同一量の穀物の生産に必要な種子の減少という形での生産性の上昇も、間接的に投入される労働を減少させることによって投下労働量価値を低下させる。リカードが問題にしたのは、このような労働生産性の上昇は、生産される穀物をより多く生産する可能性を生み出すことによって、人間にとって有用な財貨の増大を可能にするということであった。
 こうしたリカードの理論は、富と価値の双対性の一つの性質を予感させるものであることは間違いなく、その意味で非常に先見的なものであった。しかし、リカードの議論はわれわれの富と価値の双対性という点からみると、正確さを欠いている。この点を理解するためには、生産における価値評価がどのように把握されるのかという点からみなければならない。われわれの簡単な穀物生産モデルにおいて、1の穀物の労働価値がどのように与えられたかをみてみなければならない。それは、前節と同じ方法であるから、1の穀物の生産に直接、間接必要な労働の量を帰納的に、機械的に計算したものである。したがって、そこには双対性の一面となるべき価値評価がなんら表れていないものである。交換における双対性は、異質なもが等値、ないしは比較されることによって評価としての価値が措定されたのであった。等値されるべき動機を与えたものが交換という一つの過程だったのである。生産においてあたえられる価値評価も基本的にこうした異質なものの強制的な等値、比較によって与えられるものなのである。では、いったい何が等値されるのか。それは、結局その商品を生産するのにかかった生産諸要素とその生産物である。生産もまた交換と同様に、その生産要素と生産物が完全に同質であることは有り得ない。生産というのは、人間がまったくかかわらないところでで行なわれている自然のとは異なった、一つの形態変換を表現しているからである。ある一定の量の生産物をえるのに必要とされた生産諸要素は、その生産における具体的な費用である。生産の個別的な工程において、その生産が意味あるものであったかそうではなかったかは、こうした現実的費用を償ったか否かによって判定される。生産物と諸要素が同等なものとして評価されることによって、現実的な生産行為は行なわれるのである。それはまた特に市場経済においては、生産のためにかかった現実的費用が生産物と等値されることによって、生産活動に貢献した生産要素の所有者にその貢献に対する所得を確定することになる。したがって、その同等性の評価は、この個別的な生産工程に対して与えられるものであるが、より一般的に考えれば、その評価は社会的なものとして成立することによって、したがって古典派的な価値という意味においてはわれわれが前節で議論したような共同的主観性が与えられることによって意味あるものとなることは明かである。また、こうした判定が行なわれざるをえないのも、最も一般的には経済活動が富を追求するものとして現れているからであり、そのようなものとして経済的環境が与えられているからである。この問題は、さしあたっては、これ以上検討しないでおこう。
 われわれのモデルの場合は生産物としての穀物1と、生産要素としての種子200と労働8時間(前節の場合)である。これらを等値するということは、富としては、すなわちそれ自身の直接的、具体的有用性においては絶対にできない。そうした状況そのものは、まったく交換の場におかれた2種類の商品と同じである。その費用そのものを償ったかどうかは次のようにして判定される。もし、1の穀物が、200の穀物種子と8時間の労働に値するものであるならば、それを償ったといえるだろうし、もしそれ以下ならば償えなかったということになる。そこで、われわれは交換の場合と同様にそれらを等値される仕方を考えてみよう。等値そのものは、すでに検討された交換の場合と同じであると考えられるが、問題は現実的費用が2種類の異質な要素から構成されているということである。しかし、この問題の解決は、われわれが交換における双対性のときに検討した、価値評価における量的単位の1次元性を考慮すれば困難ではない。すなわち、異質な生産要素を共通な単位に翻訳して加算するのである。すなわち、すでにこの加算する段階において、異質な財貨の価値評価が強制されているのである。
 そこで、いまかりになんらかの共通な単位、すなわち価値尺度で計った1単位の価値を穀物(1あたり)についてはgとし労働(1時間あたり)についてはlとしておこう。するとわれわれの例の場合、この価値尺度によって計られた生産費用が0.2g+8lとして与えられることになる。したがって、これが生産物である、1の穀物価値と等値させるならば、g=0.2g+8lとなる。これによって、交換比率はg/l=10として与えられる。すなわち、穀物対労働が10:1となるということである。古典派経済学のように、価値尺度財が労働である場合、それはl=1とあらかじめおくことを意味するから、結局穀物は10時間の労働価値をもつということになる。結果としては、先の必要労働という観点から導出した投下労働価値と同じになったわけではあるが、それにいたる理論的背景はまったく異なったものである。
 生産過程を内在させたモデルを想定した場合、双対性命題の評価価値という側面は現実の費用を構成する諸要素とその生産物の間の等値的関係によって与えられることをわれわれは確認したわけである<9>。このときもう一方で、その直接的、具体的有用性の体系はどうなるのかという問題が存在している。リカードはスミスに依拠しながら、ただ彼の個別的富の要素をそれとして考えるにとどめていた。労働生産性の上昇は必要労働という観点から定式化したものと同様に、われわれの価値評価としての穀物の労働価値を低下させる。リカードは、こうして価値が低下しつつあるときに、個別的富の増大が同時に可能であるという点から、富と価値の相互の独立性を強調した。こうしたリカードの認識の妥当性を完全に評価するためには、同時にに投下労働価値説が本来前提にしている富の概念がどのようなものであるかを明確にすることが必要である。しかもこの生産が入ったモデルにおいては、その富は個別的なものではなく社会的な意味でのそれ(Wealth)でなければならなくなるのである。そして、これはまさにこの章で行なおうとしていることであるから、重複を避ける意味でも、それが主題として議論されるところまで先送りすることにしよう。<10>
3 古典派価値論と効用価値説
 われわれは、交換と生産という本源的な経済行為の場において、人間の評価という行為が各財貨にたいしてなんらかの共通の単位による数量を帰属させることによって、われわれが双対性と呼ぶところの一つの二重性を与えることをみた。ところで、この生産の場においてとらえられる評価価値と、生産の場のそれとはどのような関係にあるのだろうか。主従の位置関係はどうあれ、相互に依存的であるのかそれとも独立して整合的な評価体系を与えることのできるものかということである。われわれのこれまでの記述だけでは、一見相補的なものであるかのようであるが、古典派以後の経済学の流れは、自らの理論的一貫性を明確に意識する学説ほど、どちらか一方の体系にのみこだわっていたようにみえる。スミス、リカードは自然価格という概念があり、それは価格の形成因をその費用においてとらえていた点をみても、古典派経済学はその完成者としてのマルクスも含めて双対性を生産過程においてとらえていたことは明かである。先にも述べたようにより一般的な生産モデルを想定するとき、単一の生産工程だけをみてもそこに完全な、財貨の評価体系をえることはできず、なんらかの社会的な総過程を考えなければならないのであるが、それは個別的な交換行為における双対性に頼らなくてもよいことが明らかになっている。それは、まさに次節以下に与えられるものである。したがって、古典派の評価価値の体系は生産の双対性において整合的に表現されるものであり、交換の双対性には依存しないと考えられる。そこでわれわれは、もう一方の交換の双対性の基礎の上にのみ評価価値の体系を構成しようという考え方について簡単な外観を与えておこう。
 個別的富とその双対的関係にある価値という点に関する学説は、価値を限界効用という視点からとらえようとした学説においてはっきり代表される。発表の時期と、主張内容に位相があるもののこの学説は、ジュボンズ、メンガーそしてワルラスらによって創始された。この学説においては、交換に際してそれぞれの個人が諸財貨のさまざまな量的組合せに対する有用性、したがってわれわれの議論してきた個別的富を矛盾なく数量的な指標化ができることを想定する。人々はその富を最大化するように行動し、その点でまさにわれわれのいう双対性において諸財貨の価値が表現されることになる。こうした効用価値理論は、今日では価値論としてではなく、消費者選択理論として議論されているが理論が開発された当時からみると、その効用の基数性の仮定からより弱い序数的な仮定に発展し、またそうして意味ある効用関数が存在する上で個人がとるべき公準が明らかにされるなど精密理論として発展してきた。この理論のもっているわれわれの意味での双対的な性質をここで簡単に概観することにしよう。
 この場合、効用に関する数量化された指標として、まず無差別曲線(超曲面)が与えられなければならない。すなわち同じ効用水準を示す財貨の組合せの集合である。すべての財貨の組合せに対して、それを通る等効用曲線がひかれていると考えよう。するとすべての財貨の組合せに対する価値が与えられることになる。ただし、それはそこを通る等効用曲線の効用水準ではない。その等効用曲線は、個別的な富の水準を示すものではあるが、価値を表現するものではない。価値は、その点を通る等効用曲線のその点における接線に垂直な方向を表わすベクトル、すなわち法線ベクトルによって表わされるのである。これを図で表わすことを考えよう。いま、対象となるn個の財があると考えてその量をq1,q2,・・・・,qnと表わし、n番目の財を価値尺度財としよう。そして、さしあたって第1番目の財がこの価値尺度財によってどのように表現されるかを考える。そこでまず、第1番目の財とn番目の財に関する等効用曲線群を考える。図1−1は縦軸に価値尺度財の量を表わし横軸は第1番目の財の量を表わし、3本の代表的な等効用曲線がひかれている。原点から外側の曲線がより高い効用水準を表わしている。そのうち真ん中のが、いまわれわれがその価値をあらわそうとしている(q1,qn)という点を通っている。そしてわれわれの表わすべき価値はそこにおけるvというベクトルになるのである。なぜそうなるのかを考えてみよう。いま、たとえば第1財がq1から微少量△q1だけ減少したとしよう。この減少は当然効用水準の減少をもたらすが、その減少を補償するためにどれだけの価値尺度財の増加が必要かを考えるのである。その比率こそがこの場合の交換価値ということになるのである。かりに、この補償水準が△qnだったとしよう。そうするとこの(−△q1,△qn)という変化は、その点を通る等効用曲線に沿った変化でなければならないが、われわれはここでは微少量の変化を考えているのでそれは、この点を通る等効用曲線の接線に沿った変化でもある。いま正規化された法線ベクトルv=(v1,1)とすると、このベクトルとその変化量によって表わされるベクトルが垂直の関係にあるということである。すなわちそれはそのベクトルの内積がゼロになることであるから、−v1△q1+△qn=0。つまり、△q1の減少に対する補償分はv1△q1である。この点は、右側の図に、ベクトルを原点に移行させたものとして示してある。すなわち、v1は価値尺度財ではかった1財の交換価値であり、この法線ベクトルによって交換価値がはっきりと表現されていることになるのである<11>。
 この、法線ベクトルである価値ベクトルは、実際その個人が自らの富、すなわち効用水準を与えられた制約のもとで最大化しようとするとき決定的に重要な役割を果たすことがよく知られている。また効用の極大化を人々が追求し、そのもとで特殊な障害がないと仮定するならば、交換経済の一般均衡モデルにおいて均衡における交換比率とこの価値ベクトルは一致しているのである。
 こうした効用価値説は、交換における双対性の認識を前提にしながら価値論を展開したものであるが、その点での理論の首尾一貫性を明確に意識して追求した立場の一つはシュンペーターの『理論経済学の本質と主要内容』という著作に現れている。シュンペーターにとって理論経済学とは、経済変量の相互依存関係を解明することに他ならない。それをふまえて、彼は経済的行為を次のように認識する。
 「すなわち、すべての経済的行為を交換行為と解し、また交換関係の存在しない場合にも、あたかもそういった関係が存在するかのように経済が行なわれていると仮定するのである。・・・・かくして交換は、いわば経済的体系を結びつけるクリップであり、あるいは他の比喩を用いれば、そのリード線である。すべての純経済的なものは交換関係のうちに存する」<12>
 「純粋経済理論は畢竟、交換問題の研究に尽きるのである」<13>
 したがって、彼において価値論とは交換に現れる双対性の認識の上にたつ限界効用価値説に他ならないのであり、その立場の徹底性から、直接的な効用理論からの価値原理を適用することのできない生産財の価値づけは、帰属価値の問題という形で前者引き出されるものとして展開しているのである。したがって、彼においてはさきに述べたように、生産過程における双対性の認識の上に展開される古典派経済学の価値理論は批判されるべきものだったのである。古典派的価値論は彼によっては「費用原理」と呼ばれているが、それに対する批判の一つの中心点は、それが一つの循環論法に陥るということである。
 「われわれをして費用原理を拒否せしめるゆえんは、実戦的な欠陥であり、科学的労作の実践に対する欠陥である。・・・・もし費用原理が一般に許容するところの還元を行なうならば、最後の要素として労働および土地に立ち戻る。ところがこれらの要素は、それ自身がまた、その一定量が生産した財貨とは別個の財貨対しても交換関係のもとにたつ。つまりこれらの要素は、費用原理を適用されるこなしに、価格をもつのである。・・・費用原理が賃金と地代の理論を与えないということほど明確なものはない」<14>
 彼は、古典派経済学が賃金と地代の理論を別なものとして構成せざるをえなかったとする。地代の理論は、われわれの関心をひくものではないので、賃金の理論に限定すると、シュンペーターは古典派経済学が問題の回避策として持ち出した再生産費賃金の理論にも問題があると主張する<15>。われわれは、彼が問題としてみたものは、今日までの理論経済学の発展、中でも線形経済学の発展において完全に克服されているものである。実際、古典派的再生産費がなんら問題なく、価格体系を与えることができることをこの章の他の部分ではっきりとみることができるだろう。また、古典派的再生産費理論の優位性は後の章で明確に示せるだろう。それにしても、シュンペーターの首尾一貫性は重要な意義をもつものであることは確認しておかなければならない。ただ、われわれは、そうした交換における双対性の認識を重視せずに、完全に古典派的な立場を採用する。何故か。それは、限界効用理論は、われわれが述べようとする理論を展開し導こうとしている結論を記述するために有用ではないからである。この点では、シュンペーターの次の主張に完全に一致するのである。
 「さてこれらの原理の選択は、われわれにとって、その正当性のアプリオーリな論議に依存するのではない。一般に、諸原理についてアプリオーリに論争するのは、われわれの原則ではない。のみならず、われわれが関心をもつのは原理の正当性ではなくて、もっぱらその有用性にすぎない」<16>
 われわれは、古典派的立場の限界効用原理と比較しての優位性、あるいはその欠陥について長々と議論する必要はまったくない。もし、われわれが述べようとすることが、限界効用理論において表わされればそれを採用したであろう(実際は不可能なのだが)し、また両者とも経済の現実に行なわれている行為に立脚している限り、現実には対立し矛盾するものではないと考える。それらがどのような意味において違ったものであるかを明らかにすることの方がはるかに意義があるであろうし、実際経済学においても価値理論とは複数存在してもなんら問題ではないと考える。というのも、根本的には、価値とは客観的確定的なものではなく、本来評価する主体に依存した主観性をもっていると考えられるからである。
4 現実生活の反映としての数学的双対性
 本説で議論した双対性とはなによりも現実的に存在する双対性である。しかし、双対性は語源的にみると数学の世界から経済学に持ち込まれたものである。特にそれはもともと、線形計画理論においてその有用性が確認されてきたものである。実際以下の議論では、双対性は厳密に数学的に議論されるが、われわれは、それを数学的論理における一つの有用な概念という立場をとっていない。われわれの立場は、双対性そのものを経済的現実に存在する性質として客観的実在であるという立場のもとづいている。数学的双対性もその一つの反映なのである。この立場は、A.ブロディによってはっきりと表明されたものである。かれの一つの重要な理論経済学に対する貢献は、双対性という概念を経済の数学的モデルの特性と限定する立場からはなれ、現実の経済関係の中に客観的に存在するその性質がモデルに反映しているととらえ直すことによって、その概念をより一般的な経済分析の概念としたことである。彼は、まず、双対性を次のように定義する。
 「双対性は提示されている経済体系の二つの側面の、物量的あるいは価値的パターンという生産過程の二つの側面の、すなわち”使用価値”と”価値”という側面の厳密な対称性を意味し、かつ、それだけでなく密接な相互関係をも意味する」
 双対性に対するこの定義も、非常に明確である。そしてさらに、現実の経済と双対性について次のように指摘する。
 「明らかに、数学体系における双対性の原理は、現実生活にあらわれている体系の現実的双対性の反映でしかありえない。経済体系の場合において双対性の実体は、体系を表現している数学的諸方程式の知識なしに、また実際に、いかなる高等数学の知識なしに、理解されるのである」<17>
 以下で議論される、古典派的世界における、富と価値の双対性に関する諸理論は、このブロディの主張の具体的展開に他ならない。われわれは、歴史的に現れてきた三つの富の概念とその双対体系としてのそれぞれの価値体系について検討を加える。まず、古典派経済学に直接に先行する、重農主義者の富の概念を検討する。そして、つづいて、古典派経済学の基本的な富の概念であるスミスの富概念、そしてもう一つはマルクスによって示唆された富概念であり、それが投下労働価値説をその双対価値体系としてもつ富の概念を検討する。
脚注
<1>スミス(1776)、??、p.146。
<2>マルクス(1859)、p.213。
<3>マルクス(1869)、p.47。ここでの富の原語はReichtum、ドイツ語では英語のような明確な区別はないが、これは「社会の富」の意としてはWealthと、「富の基本形態」は、Richesと考えるべきである。英語で、WealthとRichesはともに「富」の意味を持ち、古典派経済学者も厳密な区別をして使用しているとは思えない面もあるが、後者は諸個人を「豊かにするもの」として、個別的富の意を持つと考えられる。小林時三郎氏は、マルサス(1920)、p.47で、Wealthに「社会的富」、Richesに「個人的富」の訳語を与えている。
<4>同、pp.49。ここで、富(Reichtums)の社会的形態というのは、社会的富(Wealth)の形態、富の素材的内容とは個人的な富(Riches)と考えられるべきである。
<5>リカード(1817)、第20章を参照せよ。
<6>マルクス(1869)、p.48。
<7>リカード(1817)、p.315。
<8>同、p.316。
<9>マルクスの場合、この生産過程における双対性の認識は、彼が生産過程を労働過程と価値(形成)増殖過程の二重の過程としてとらえていたという点にははっきりとあらわれている。
<10>一つ注意しなければならないことは、古典派の場合生産体系の技術を土地に関する部分を除いては、線形な技術を想定していたことである。もしこの想定をはずすと違った双対性があらわれる。
<11> 一般的には次のようになる。いま、等効用曲線群に完全に対応する効用関数を考えよう。いまこれをU=U(q1,q2,・・・・,qn)とする。そしてそれぞれの財貨の限界的増加分に対する、効用水準の増分を考える。ただし、問題にする財貨の組合せがq1,q2,・・・・,qnとして与えられているとする。そのダに関する各財の限界的増加分を△qk、k=1、2、・・・、nとし、Uk=△U/△qk、k=1、2、・・・、nをかんがえると、それは限界的増加分に対する効用水準の増大する割合である。そこで次のようなベクトルを考えよう。
v=(U1/Un,U2/Un,・・・・,Un-1/Un,1)
そうするとこれが、この点を通る等効用曲線(超曲面)の法線ベクトルであり、したがって、この財貨の組合せに対する価値を表わしている。限界効用価値説が前提にする価値とはこれである。したがって、まず価値はきわめて局所的なものとして与えられていることが注目されなければならない。
<12>シュンペーター(1908)、上、p.112。
<13>同、p.118。
<14>同、p.123。
<15>同、下、第2章。
<16>同、上、p.122。
<17>以上、ブロディ(1967)。