第1章 富と経済的価値の理論
第3節 重農主義のもとでの富と価値
1 剰余としての富概念の確立
 スミスの富の概念は、彼以前の富の概念に対する批判のうえにあらわれてきたものであることはすでに述べた。この節では、その克服された富概念のうち、重農主義者たちの富の概念について検討しよう。重農主義がその富の概念によって本質的に特徴づけられることにまずわれわれは注目しなければならない。この点について重農主義者自身の言明をみておこう。重農主義の代表たるべきケネーは次のように述べている。
 「主権者、および国民は、土地こそ富の唯一の源泉であり、富を増加するのは農業であることを、決して忘れるべかざること。何となれば、富の増加は人口の増加を保証するが、人間と富とは農業を栄えせしめ、商業を拡大し、工業を元気づけ、富を増加し永続させるからである」<1>
 さらにチュルゴオは次のように述べる。
 「農業労働者はその労働が労働賃金以上に生産する唯一のものである。故に彼はすべての富の唯一の源泉である」<2>
 彼らは、農業部門で生み出された剰余、すなわち生産物総量からその生産にかかった現実的費用をすべて引き去ったもの、だけが富の源泉とみなした。この剰余としての富の概念の確立は、重農主義の決定的に重要な業績の一つである。そして、重農主義の場合、この剰余はほかの部門、彼らの意識していたものとしては製造業部門では生み出されないとしているのである。それは、まさに彼らが農業部門の労働を、それが富を生み出すがゆえに生産的労働としてとらえ、製造業部門のそれを不生産的労働としてとらえたことに対応している。彼らにおいて、その富の概念が指しているものは何か必ずしも明確ではないが、社会の富が農業部門で生み出される剰余とまったく同値なものとして意識されていることは、これらの短い引用だけでも明かである。
 この重農主義をスミスは次のようにみている。
 「土地生産物をあらゆる国の収入および富の唯一の源泉と主張する体系は、わたしが知るかぎり、まだどのような国民によってもけっして採用されなかったものであって、現在のところ、それはただフランスの博学で創意に富んだ少数の人々の思索のなかに存在するだけである」<3>
 ここで、スミスはこの学説が歴史上フランスのケネー以下の重農主義者の思索の中だけに表れたものであると述べている。しかし、この指摘はは必ずしも妥当ではない。というのは、日本においてこの「土地生産物を富の唯一の源泉とする体系」は、封建制が本格的に確立されてきた近世においてその社会の中軸的編成原理となったものとして実際に存在していたのである。これについては次節であらためて述べることにする。
 重農主義が、富を農業部門の剰余としてとらえたのはその部門において最も単純に、かつ具体的に剰余というものを把握できるからである。すなわちその部門においては、生産物が直接的な消費財であるがゆえに、もしその部門が直接的な労働によってのみそれを生産しているのであれば、生産者自身を扶養する分以上の生産物を供給できれば、それは明らかに剰余であることがわかるのであり、社会のほかの階級は、その剰余によって生活しているという点で、彼らの労働の生産的性格を確信することができたのである。ほかの部門からなんらかの生産財を購入していたとしても、彼らがほかのすべての階級を養っているという事実に変更はなかったのである。
 われわれのこの重農主義の体系についての理解をより深めるために、この体系について古典派経済学の中で最も緻密な評価を下したマルクスの記述に注目してみよう。というのも、マルクスにおいては古典派経済学のさまざまな理論的な成果の上にこの重農主義に分析を加えている点で、重農主義者自身の言明以上に豊かな内容をなしているからである。そして、マルクスの分析に基づくことによって、重農主義者の体系を、より精密な体系として築く糸口を見つけることができる。
 「まったく正当に、彼らは、剰余価値を創造する労働、したがって、その生産物のうちにこの生産物の生産中に消費された諸価値の総額よりも高い価値が含まれるところの労働、だけが生産的であるという基本命題をうちたてた(1)。ところで、原料と材料との価値は与えられており、しかも労働能力の価値は賃金の最低限に等しいのであるから、この剰余価値は明らかに、労働者が彼の賃金の形で受け取る労働量を越えて資本家に返してやるところの、労働の超過分以外のものではありえない(2)。もちろん剰余価値は、重農学派においては、この形態ではありえない。なぜなら、彼らは価値一般を、まだその単純な実体、すなわち労働量または労働時間に還元していないからである(3)」<4>
 この文章は理解するのにはかなりの難解さをともなうかもしれない。というのは、まず、第二の文章を見てみると、それはほとんど純然たる投下労働価値説の立場からかかれていることがわかる。すなわち、そこでは剰余は労働で計られた剰余(すなわちマルクスの剰余価値)にほかならない。これを前節までの簡単な穀物の1部門モデルに即してみると、次のようになる。そこでは、1の穀物を生産するのに、8時間の労働と200の種子としての穀物が用いられた。また、その8時間の労働には500の穀物が賃金として支払われていた。マルクスのいう「原料と材料の価値」はここでは200の穀物であるから、1の穀物が10時間の投下労働価値をもっていたことを考えると、それは2時間の投下労働価値に値する。また、マルクスのいう「労働力の価値」は、500の穀物の価値であるから、それは5時間の投下労働価値である。したがって、10時間の投下労働価値をもった穀物を生産するのに2+5=7時間の費用としての価値がかかったとみて残りの、10−7=3時間をマルクスは剰余価値とみたのである。これがマルクスの第二の文章の意味である。
 この点を確認した上で、第1の文章にかえってみよう。するとそこでは、重農主義が「剰余価値を生産する労働を生産的労働と正しく定義した」と述べている。したがって、もし重農主義者が、投下労働価値説に基づいてその剰余価値をとらえていたと考えるならば、われわれは何もこの時点では考察すべき事柄をもっていないことになる。しかし、第三の文章を見てみると、そこで、重農主義が価値を、マルクスにとっての価値である労働一般としてはとらえていないと述べているのである。では、重農主義はどのように剰余価値をとらえていたのかということが問題になる。
 この点でマルクスは、上の文につづいてさらに次のように展開している。
 「彼ら(重農主義者)の叙述の仕方は、もちろん必然的に、価値の性質についての彼らの共通の理解によって規定されている。彼らにおいては、価値は、人間の活動(労働)の一定の社会的定在様式ではなく、素材から、土地、自然およびこの素材のいろいろな変形から成り立っている」
 ここでは、重農主義における価値が素材から成り立っていると指摘していることが注目される。そして、別のところでも、重農主義においては労働者が「生産の期間中に消費する使用価値の総量は、彼がつくりだす使用価値の総量よりも小さいのであって、したがって使用価値の剰余が残るのだ、といわれる」<5>と述べている点につながっている。したがって、これらのマルクスの記述に沿って考えても、重農主義が価値として考えた使用価値とは、農業生産物にほかならないことがはっきりする。さらにこの点は、マルクスの次の指摘においてもより明確に確認される。
「労働能力の価値とその価値増殖的利用との差異したがって、労働能力の
購買がその使用者にもたらす剰余価値は、すべての生産部門のうち、農業に
おいて、原生産において、最も明白に反対の余地なく、現れる。労働者が年々歳々消費する生活手段の総額、あるいは彼が消費する素材の量は、彼が生産する生活手段の総額より少ない(1)。製造業では、一般に、労働者が直接に彼の生活手段を生産することも、また彼の生活手段を越える超過分を生産することも、見られない。その過程は、購買と販売によって、流通のいろいろな行為によって、媒介されている。そして、その過程を理解するには価値一般の分析が必要とされる。農業では、それは、労働者によって消費された使用価値を越えて生産された使用価値の超過分に直接に現れており、したがって、価値一般の分析がなくなっても、価値の性質に関する明確な理解がなくても、把握されうる。したがってまた、価値が使用価値に、またその使用価値が素材一般に、還元されている場合でも同じである(2)。それゆえ、重農学派にとっては、農業労働が唯一の生産的労働である、というのは、剰余価値を創造する唯一の労働だからであり、また地代が、彼らの知っている剰余価値の唯一の形態だからである。製造業の労働者は素材を増加させない。彼はただそれの形
態を変えるだけである。原料多量の素材は、農業から彼に与えられる
彼はもちろん素材に価値を付け加えるのであるが、それは彼の労働によってではなく、彼の労働の生産費によって、すなわち、彼が労働するあいだに消費する生活手段の総額つまり彼が農業から受け取る賃金の最低限に等しい額によってである(3)」<6>
 この第一と第二の部分からわれわれの主張が再確認できる。すなわち、農業生産部門においては、その生産物の使用価値において価値が与えられ、それによってその労働と労働の対象である素材の価値が評価され、そして生産物の総量との差において与えられるものにおいて、重農主義が剰余価値をとらえたということである。したがって、この点については、われわれの穀物の1部門モデルにおいてそれを記述することができる。すなわち、1の穀物の生産には、まず200の穀物が種子として必要になっている。そして、8時間の労働が受け取る穀物は500である。したがって、重農主義がとらえた剰余価値は、1000−(200+500)=300の穀物ということになる。確かに、きわめて単純にその剰余がとらえられることになる。したがって、マルクスは重農主義の体系について、その農業部門の剰余価値のとらえ方に関する限りきわめて整合的な把握をしていたことがわかる。
 では、製造業についてはどうだろうか。マルクスは同じ重農主義の論理を製造業に適用することはできないと考えていたようである。それには、「価値一般の分析が必要になる」といっている場合の「価値」とはマルクスにとって唯一の価値体系である投下労働価値体系である。しかし、第三の文章は注目に値する。マルクスは、基本的生産要素である素材と労働について分析を加えている。そしてまず、製造業部門では農業部門とは異なって、労働が「素材は増加させない」と指摘する。それは形態を変えるだけである。しかも、その素材としての原料は(重農主義の体系では)農業部門の生産物として与えられるのである。さらに労働については、それが生産物に価値をつけ加えるのであるが、それは彼の労働を生み出すのに用いられた農業部門の生産物の分だけであると指摘している。マルクスのいっていることを理解するために、製造業の生産工程が次のように表わされることを考えよう。いま、この製造業の工程が、穀物を原料として、なんらかの奢侈財となる、すなわち最低限生活を強いられている労働者の生活費に入らない、食料品を生産しているとしよう。したがって、その食品は地主らの「不生産的階級」の食料となるのである。たとえば、製造業部門は400の穀物と労働8時間で、その奢侈財1単位を生産しているとするのである。そうすると、その奢侈財1単位は、400+500=900の穀物で計った価値のみを有するということになるのである。したがって、製造業部門では穀物、すなわち農業生産物としての価値で計って、何等の剰余価値も生まれていない。マルクスは、これが重農主義の主張するところだと述べているのである。したがって、これは農業部門とともに、製造業についても首尾一貫した「価値」概念の使用によって、前者では、剰余価値をとらえ、後者では剰余を生み出さない生産というものをとらえているのである。したがって、これらの分析から重農主義の価値体系は農業生産物の使用価値そのものによる価値体系、具体的には穀物価値体系と言われるものであることがわかった<7>。そして、それによって、重農主義の基本的特徴である農業部門のみが剰余、すなわち社会的な富を生み出すという主張を整合的に裏付けることがわかるのである。
2 再生産の基本モデルの構成
 重農主義がこうした富と価値に関する体系を生み出したことは、一つの歴史的な業績であることは間違いない。しかし、重農主義の業績はこれにとどまらない。ケネーによって編み出された「経済表」というもう一つの、現代の理論経済学の視点からいえば決定的に重要な理論的創造物を残したのである。経済表は、農業部門、製造業部門そして地主階級という三つの経済主体の間の、年間の生産物と貨幣の流れを簡単な線で表わしたものである。それは、現実のそれをそのまま直接に表現することを目指したのではなく、それを単純化したモデルを構築し分析するという、現代の経済学にも引き継がれた方法をとっていることも注目される。さらにまた、その表は流通を表現しているにもかかわらず、その背後に社会的な再生産を明確に位置づけていることも注目されねばならない。すなわち、それは確かに生産が終了した時点以降の流通を追っているのであるが、それらの取引が済んだ後には再び翌年の再生産が少なくとも前年と同じ規模で行えるよう、生産財と消費財がそれぞれの部門で必要な量が補填されているのである。シュンペーターはそれを「経済循環の発見とその思考的再現」とよんで、重農主義が明らかにしようとした課題を次のようにあげている。
 「単に技術的な意味においてでなく、あらゆる経済期間が経済主体をして次の経済期間にも同様な過程を同様な形態で反復するのを可能ならしめるような結果を生
ずるという意味で、いかにして各経済期間は次の経済期間の基礎となるか、
経済的生産がいかにして社会的過程として成立するか、またそれがいかにして各人の消費を、またその消費が再び次の生産を決定するのか、さらに各個の生産・および消費行動がいかに他のすべての生産・および消費行動に関係するのか、またあらゆる経済的活力の要素がいかに一定の動因の影響のもとで年々歳々一定の道を踏み続けるのか」<7>
 こうした課題のもとで、経済表は一つの再生産モデルとなっているのであるが、それはまた今日的な意味で一つの多部門モデルになっていることにも注目しなければならない。多部門モデルになっているということは、単にそのモデルの中に、相互に関連した複数の部門が登場するという意味にとどまらず、それらが一定の量的な比率で関係づけられているということである。経済表に登場する農業部門と製造業部門は強い相互依存関係をもっている。すなわち、農業部門は製造業部門に対して原材料を提供し、また製造業部門は農業部門にその生産物を「原前払の利子」という形で供給するというように関係づけられていて、二つの部門が互いに相手の部門からの供給を前提にしているという点で、分解不能(Indecomposable)な再生産の体系になっているのである。こうした経済表において、農業生産部門の剰余としての富が表現されているのであるが、したがってそれは一つの社会的な再生産過程に媒介されたものとしての富である。この点においても、重農主義は重商主義と比較して優位性があると考えられるところである。
 そこで、われわれは、重農主義の富と価値をこうした社会的な部門間の相互依存関係を考慮して、体系的に表現することにしよう。さきに示した数値例では製造業部門は単なる奢侈財産業としてか考慮されず、したがってその部門の存在いかんが農業部門にその生産財をとおしてもその生産者の生活必需品を何の影響も与えないという点で、分解可能(Decomposable)な体系となっていた。したがって、われわれはまず、製造業部門をなんらかの意味で社会的な再生産にとって不可欠の部門として位置づけることが必要である。そして、これは今日の経済の社会的な技術構造を考慮するとき本質的に重要な意味をもっている。というのは、今日の経済の特質はこの製造業の巨大な発展によって表わされるくらいに、社会的な再生産過程の中で大きな比重をもつようになってきているからである。それは単に農業も含めた非製造業の生産財を供給するにとどまらず、われわれの消費財の中でもきわめて大きな比重を占めるようになってきている。以下で、できる限り共通したモデルで理論的分析に当たるためにも、この時点でこれらをすでに考慮したモデルを構築しておく方が望ましいと考える。したがって、農業部門をできる限り単純化し、製造業部門に大きな役割を持たせたモデルを考えることにしよう。
 農業部門と製造業部門という2部門モデルの枠組みは経済表からそのまま引き継ぎ、製造業で生産される加工品は、生活に不可欠な消費財としてもまた両部門の生産に必要な生産財としても用いられることにしよう。この後者の点も経済表からの引継と考えられないこともない。というのは、経済表において製造業の生産物である加工品は、それを地主階級が消費するとされているように、消費財であることは間違いない。また、それは生産階級である農業部門生産者に対して「原前払の利子」としても供給されるのであるが、それは経済表においては消費財としての意味も生産財としての意味も持たされているからである。ただし、われわれはここに決定的に重要な想定を盛り込むことにする。それは、製造業という部門で生産される加工品は、消費財として用いられるものと生産財として用いられるものとでは異なった財貨であるというものである。われわれは、部門としては製造業が一つの生産過程と想定するので、この同一の生産工程から消費財として用いられる加工品と生産財として用いられる加工品の二つの財が同時に生産されると想定することを意味している。これは、製造業部門についてその二つの財が結合生産されることを意味する。ここで、単に同一の財が消費財としても生産財としても用いられるという単純な想定ではなくて、異なった財の結合生産という想定を導入したのは、最初の単純な想定に問題があるからということではない。今日までの理論経済学は、結合生産の導入はそうでないモデルとの間に決定的ともいえる理論的断層を生み出すことを明らかにしてきた<8>。われわれがモデルの中に結合生産を導入するのは、今後の議論を、まさにその断層のこちら側、すなわち結合生産を前提にした世界で展開しようという意図を示しているのである。実際、結合生産が生み出す諸困難は随時示すことになるが、それは単なる理論的興味からそうしているのではない。まず第一に、現実の今日の製造業の技術的体系がさまざまな結合生産を抱えている、すなわち不可分の生産工程から同一ではない財貨が生産されるような例が多く存在しているからであり、また第二には、生産における固定設備の取り扱い、生産期間の非同期的性質の取り扱いなどにおいて、新たな理論の水準を提供することになるからである。
 そして、もちろんそれぞれの部門において労働は生産要素としての役割を果たすことが想定される。したがって、技術的投入構造についていえば図1−2のように描くことができるだろう。
 さらに、われわれは古典派経済学がそうであったように、それぞれの部門がすべて線形の技術、すなわちすべての生産係数が生産規模、要素投入量の組合せにかかわらず一定であると想定する。また簡単化のために、固定設備は生産に際して用いられていないと想定しよう。すなわち生産財は、すべて生産期間中に使用し尽くされる種類のものである。図に示された各係数について簡単な説明を加えよう。与えられた係数はすべて正である。まず、a1は生産財1単位を生産するのに必要な生産財自身の量である。a2は穀物1単位を生産するのに必要な生産財である。またbは、製造業部門において、生産財1単位を生産するときに同時に結合生産される加工消費財の量である。l1、l2はそれぞれ生産財と穀物1単位を生産するのに必要な労働量である。また、d1、d2は古典派的な再生産賃金(実質)であるとする。すなわち1単位の労働力は、加工消費財d1単位と穀物d2単位によって生産されると考えるのである。したがって、それは労働力も一つの人間的な生産工程によって生み出されていると考えているのと同じである。(この問題については、第3章において徹底的に検討される。)
 これによって、一つの国民経済がモデル化されたことになる。そしてそれは、完全に分解不可能な経済となっている。まず製造業は、労働力を生産するためにも穀物を生産するためにも必要であり、穀物は労働力を生産するために必要であり、その労働力は製造業において不可欠の投入要素であるから、間接的にではあるが製造業にとっても農業部門の稼働は前提となっている。
3 基本モデルによる富の表現
 このモデルを前提にして、重農主義における富と価値を正確に表現してみよう。重農主義における「富とは農業部門で生み出された剰余」であった。これは、まずさしあたっては農業部門で表現されるとした方がわれわれの上での検討からみて自然である。農業部門においては穀物を生産するのに生産財と労働が用いられている。したがって、その部門における生産物とそのための現実的費用との差として剰余を表現するのであるから、量的な比較を可能にするために共通な単位に翻訳されなければならない。共通な単位は、先の検討から明らかなようにその生産物、すなわち穀物である。生産物は穀物自身であるからそのままでよいとして、生産財1単位の価値を穀物で表わすとして、それをc11としよう。また労働1単位の価値をc3で表わすことにしよう。そうすると、穀物1単位を生産するために必要とされた要素の穀物で表わした価値はc1a2+c3l2ということになる。したがって、剰余sは
    s=1−(c11a2+c3l2) (1)
と定式化されることになる。しかし、これだけではその剰余が正確に定義されたとはいえない。というのは、生産財と労働の穀物で計った価値がどのように与えられるかがまったく不明確だからである。その価値の与え方いかんによっては何とでもその剰余が変わってしまう。ここにまず、単緒的に剰余という富を表現するのに価値を前提にする場合の困難性が表れている。しかし、それはこの時点では問題にせずに、さきに進もう。その価値が与えられていないのは、重農主義がその剰余を語った場合に宣言していたもう一つの条件、すなわち農業部門以外の他の部門、ここでは製造業部門がいかなる剰余も生み出さないという条件を無視しているからであることがすぐに思い出されるであろう。そこで、加工消費財の穀物価値をc12とすると製造業部門では剰余が発生しないのであるから、穀物で計った費用とその生産物の総価値は等しくなければならない。したがって、
    c12b+c11=c11a1+c3l1。 (2)
また、労働力の穀物価値は、先の数値例でも示したようにその再生産費用であるから、
    c3=c12d1+d2 (3)
である。ところで、これだけでは穀物価値の体系を決めることができないことは、未知数が三つであるのに式が(2)と(3)の二つしかないことからからあきらかである。((1)式は、剰余sを決める式であることに注意。)これは、われわれのモデルが結合生産を含んでいるがゆえに生じた困難である。というのは、もし、結合生産を含まず、たとえば製造業が生産財だけを生産するのであれば、この(2)と(3)の式からc12という未知数が取り除かれるゆえに残りの穀物価値を完全に決定できる。こうした結合生産を含む体系において価値の決定が困難になる点を指摘した古典派経済学者としては、J.S.ミルをあげることができる。ミルは次のようにその困難を述べている。
 「時として、二つの相異なった商品が、連帯生産費とも呼びうるものを有することがある。これらの商品はともに同じ一作業、同じ一組の作業の生産物であって、その支出は両者双方のために必要とされ、その一部は一方のために、他の一部は他方のために必要とされるものではない。たとえこの両者のうち一方は不必要であったとし、あるいは総じて使用されることがないとしても、他の一方のために同じ支出を負担する必要があるであろう。このように生産過程が関連しあっている商品の例は少ないものではない。例えば、コークスと石炭ガスとはともに同じ原料から、同じ作業によって生産されるものである。・・・・生産費は、このような関連生産物の相互に対する価値を確定することには、何の関与もし得ない。それはただそれらのものの連帯的価値を確定するのみである」<9>
 (このミルの指摘は、現代の理論経済学からみてもきわめて重要なものであった。)われわれの(2)、(3)式で表わされた価値も、このミルの指摘でいうところの生産費でその価値を決定しているものである。その生産費が、ただ一つの生産物にその価値が体化されることが明かであるのなら、価値の決定になんの困難もないことはすでに指摘したところである。この、結合生産を含む体系における価値決定における困難についてのミルの解決方法は同じところで、次のように表明されている。
 「この場合は、生産費にたよることができないのであるから、私たちは、生産費
に先行し、それよりもっとも基本的な価値法則需要供給の法則に立ち
戻らなければならない」
 ミルは、結合生産の困難を、価値における再生産費理論を放棄するしかないと考えていたのである。ここで、価値法則といっているものは著書の他のところで説明されているように<10>、それはある財に対する需要(供給)はその財の価格の上昇によって減少(増大)し(逆は逆)、超過需要(供給)があれば価格は上昇(下落)して、需給が均衡するというものである。それは今日の、ワルラス的な市場調整と言われているものを表現しているのである。そのために、なんらかの需給関数を想定して均衡価格を導出する一般的枠組みを構成して、結合生産された財の交換価値を決定することは可能であるかも知れないが、それはすなわち、古典派的な再生産費価値理論を放棄することになり、おそらくそれによって表現されていた古典派の経済学的内容が、著しく阻害されることになるだろう。したがって、われわれはそうした方向はとらないが、ただ、ミルが示したところの内容を、単に価値の体系に限定するのではなく需要と供給が考慮された数量的世界に困難の解決を求めるという意味にとって、分析を進めることにしよう。
 そのために、重農主義における富の概念について再度注目しよう。それは穀物部門で生み出される剰余であった。しかしまたそれは重農主義者自身も意識していたように、社会的な剰余であった。すなわち単に農業部門で独立に生み出された剰余ではなく、その剰余の生産はまた製造業部門にも依存していたのである。それがまた、われわれのいまたてた穀物価値のもとでの体系において、穀物部門だけで剰余が表現されなかった理由でもある。したがって、その剰余は農業部門での1単位の穀物を生産するするのにかかった社会的な費用でもあることがわかる。したがってわれわれは、そもそも1単位の穀物を生産するためにはどれだけの現実的費用がかかったのか、その費用はまた穀物で計られるのであるから、どれだけの穀物自身が社会全体として、すなわち国民経済的視点から必要とされるのかという点から重農主義の富の把握を試みることにしよう。まず、1単位の穀物を農業部門で生産するためにはa2単位の生産財と労働がl2単位必要とされる。ところで、a2単位の生産財を生産するためにはまた生産財と労働が必要とされるし、l2単位の労働が生み出されるためには加工消費財と穀物が必要となる。そこでこうした関係を静学的に表わすために、いま、農業部門における1単位の生産をを十分にまかない得る生産財の生産量をx1としまた労働の量をLとしてみよう。もちろんそれぞれは絶対に負の数にはならない。そしてそれは、次のような式を満たすものであればよいということになるだろう。
    x1≧a1x1+a2 (4)
bx1≧d1L (5)
      L≧l1x1+l2 (6)
 この(4)式の左辺は製造業における生産財の必要生産量そのものであり、右辺第一項はその生産に必要な生産財自身の量であり、第二項は農業部門において1単位の穀物を生産するために必要とされる生産財の量である。その不等式が意味しているのは、生産物に対する需要量はその生産量を上回ってはならないという意味に他ならない。(5)式の左辺は製造業においてx1単位だけの生産財の生産が行なわれるとき、同時に結合生産される加工消費財の量である。そしてそれは、必要とされる労働力による需要量を上回ってはならないという式になっている。(6)は労働力の需要に関する条件式である。そしてこの条件を満たす生産財の生産量と労動力についてそれを維持するために必要な穀物の量はd2Lに他ならない。したがってまた、穀物で表わされた社会的な剰余s'は、
    s'=1−d2L、 (7)
で表わされる。ただし、一見して明かであるがこのLは三つの条件式だけでは一意に表わされないことに注意しよう。条件式はx1とLが満たさなければならないある範囲を与えるだけである<11>。そこで、われわれはこのLがこの条件式を満足する最小のLによって目的とする社会的な剰余が与えられるとする。したがって、それは穀物でとらえた社会的な剰余が最大のものとされるということに他ならない。このことは、恣意的に設定されたものと考えてはならない。というのは、重農主義が対象とした経済は基本的には封建的な国民経済である。しかも、その中で商品経済が広範に発展している状況を考えている。そして、それは日本も含めた多くの国で高度な中央集権性を持った政治的、経済的構造が実際に成立している。これについてはさらに詳しく次節で検討するが、そうした状況のもとでは、現実に主要農業生産物、すなわちここでは穀物によって最大限の剰余を引き出そうとする社会的な傾向が働いていたのである。もちろんそれは現実においても、完全に整合的なものであったとは思えない。しかし、その傾向を重農主義の基本的内容を表現するためのモデルに組み込むことは必要なことなのである。このことによってわれわれは、重農主義の体系に一つの目的を設定し、国民的経済がそれによって動機づけられていると想定するのである。
 こうした、一つの経済を動機づけている目的因を分析するのは単に重農主義の場合にとどまらず一般的にも重要な意味を持っている。この目的因は、その経済を本質的に特徴づけているものであるがゆえに、理論経済学の立場からは、歴史的な実在としての諸個人、あるいはその集団の役割は単なるこうした目的因の人格的表現としてみることが必要になる。というのは、理論経済学は対象とする経済を純粋なものとして考察することから始まる。したがって、そこに登場する諸個人は純粋に社会的に規定された目的に動機づけられて行動することが前提とされる。したがって現実的個人が彼らの個性に起因している不純な諸動機はすべて捨象されなければならないのである。われわれの考える、全国的な市場経済が発展しているもとでの中央主権化された権力を有した封建領主は、重農主義体系が示した原則的目的である農業部門の生産物でのみ示された剰余を最大化するという動機の人格的表現にすぎないといえる。
 重農主義的な剰余がs'とsによって二重に表現されることは、富の概念との関係ではどの様な意味を持っているのだろうか。sの場合は、その剰余は決定的に農業部門に依拠して表現されていた。しかし、すでに述べたように、完全にその部門で独立に表現されるものではなかった。価値体系をとおして社会的にしか表現されないのものであった。しかしs'は、直接的に社会的に表現された剰余である。しかも決定的に重要なことは、異質な財貨を共通のものに翻訳するという、価値体系にまったく依存していないことである。すでに、繰り返しわれわれは富という概念の経済学における重要性、その根元的な性質について言及してきたが、その視点からみるならば富が価値体系に依存しないというのは保持すべき不可欠の性質であるともいえるのである。われわれは、必ずしも、富が価値体系に依存することを拒否するものではないが、富が価値に依存することなく表現されなければならないという立場は重視しなければならないと考える。ロビンソンは「経済学は富の科学的研究である。しかし、いまだに、われわれは、富を測定しえないのである」<12>と嘆じているが、われわれはそうした消極的立場はとらない。富とは、価値から独立に表現することが可能でなければならないと同時に、それはまた可能であるという立場をとるのである。
4 帰属価値体系と双対定理
 ここで、このs'とsとの関係について詳しい検討を加えることにしよう。(4)〜(6)は1単位の穀物を生産するのに社会的に「必要な」穀物の量が満たすべき条件を表わしている。それはまたa2、l2という農業部門で1単位の穀物を生産するのに必要な生産要素を生産するための穀物の必要量を示しているものでもある。そこで次ぎように考えよう。すなわち、d2Lという、穀物の量で表わされたその現実的費用をa2、l2それ自身に帰属(Imputation)させるのである。そのために、この問題の解についてもう少し詳しい情報をえよう。まず、(4)〜(6)の条件が満たされる領域をLとx1の空間上に示すことを考える。(4)式においてa2が正である限り、
            1>a1   (生産財の再生産条件)
が必ず満たされなければならないことは容易にわかる。この不等式が意味していることは、1単位の生産財が生産されるのに必要とされる生産財それ自身の量は1よりも小さくなければならないということである。もしこの条件が満たされないならば、製造業における生産は無意味な消耗でしかなくなってしまう。したがって、われわれはこの条件が満たされていることを仮定する。そしてこれを生産財に関する再生産条件と呼ぶことにしよう。これは、国民経済の技術水準、すなわち社会的な生産力に関する条件である。そしてこれについては、もう一つ満たされなければならない条件が存在する。それは、いまb単位の加工消費財を生産するためにはl1単位の労働が必要とされる。またl1単位の労働を生産するためにはd1l1単位の加工消費財自身が必要である。したがって、この面からも生産が意味あるものであるための条件が規定できてそれは、
b>d1l1    (加工消費財の再生産条件)
と表わされる。これを加工消費財に関する再生産条件と呼ぶことにしよう。もちろんわれわれのモデルがこの条件も満たしていることを仮定する。われわれが、制約条件を満たす領域を考えるときに、これらの生産力に関する条件、再生産条件を検討したのは、もしこの条件のどちらか一つの条件でも成立していないならばすべての制約条件を満たすものは一つも存在しなくなってしまうからである。逆に、この二つの条件が満たされるならば、必ずすべての制約式を満たす領域が存在することになるのである。この制約条件を満たす領域を図示すると、図1−3にあるように二つの場合が考えられる。
 この二つの場合の違いの意味するところは、最小のd2Lを与える点を考えるときに明らかになる。この図において、すべての制約条件式が満たされている領域は斜線で示してある。A図の場合制約条件における(4)式と(6)式が等号で満たされていることによって与えられる直線の交点αが最小値を与えるものとなるが、B図の場合は(5)式と(6)式のそれβが最小値を与えるものとなっている。したがって、諸係数がA図のような関係を成立させるものである場合は、最小値を与える解において(4)式と(6)式が等号で結ばれ、(5)式は厳密な不等号になっていることがわかる。また、B図の場合には(5)式と(6)式が等号で満たされ(4)式が厳密な不等号になっていることがわかる。このことは、製造業における結合生産物のどちらが社会的な生産力に関してボトルネックになっているかを表わしている。すなわちA図の場合には、製造業において生産財が加工消費財に比して社会的にみて生産性が低く、したがって使用労働を少なくし必要穀物の量を減らす上でのネックになっていて、加工消費財のほうは過剰に生産されていることを示している。これは、まさにそれらの二つの生産物が結合生産されていて、それぞれの生産水準を独立に調整することができないために起こっているのである。当然B図の場合とはそれとは逆のことが起こっている。
 以上のことから、一般に1単位の穀物を生産するのに必要な穀物自身の量を最小にする場合、それを実現する生産財の生産水準と労働の雇用水準は(4)式か(5)式のいずれかを必ず等号でみたし(6)式は常に等号で満たすものとなっていることがわかった。そこでいまA図のような場合を考えてみよう。そして、a2がほんの微少量変化するとしよう<13>。すなわちa2がa2+△aに変化したとする。このとき最小水準を与えるLが変化することによってd2Lもd2L+d2△L'に変化することは明かである。しかもそれらの変化は明らかに同じ方向に変化する。すなわち△aが正(負)ならばd2△L'も正(負)である。そこでこの変化する割合を穀物で表わされた生産財の帰属価値であると定義しよう。すなわち、それは必要生産財1単位あたりの増加が必要な穀物を増大させる量を表わしているから、費用という観点からではあるがそれが生産財の価値を表わすというのは意味ある定義であることは明かである。また、今度はl2が同じように△lだけ変化すれば、同じ方向にd2Lも変化しその量をd2△L"とする。そして、この変化の割合を生産財の場合と同様に労働の穀物で計った帰属価値と定義しよう。二つの価値をそれぞれc11とc3とかくことにしよう。すなわち、
d2△L' d2△L"
  c11= c3=
△a △l
である<14>。ところでそれぞれの場合に、次のような関係が成立している。すなわち、a2が変化した場合には、
    △x1'=a1△x1’+△a (8)
    △L'= l1△x1'、 (9)
また、l2が変化した場合には
     △x1"=a1△x1" (10)
 △L"= l1△x1"+△l、 (11)
である。そこで、あらたにLoとXo1というのを次のように定義しよう。
△L' △L" △X1' △X1"
  Lo=( a2+ l2) Xo1=( a2+ l2)
△a △l △a △l
このとき、このあらたなLo、Xo1も最小解を与えることが次のようにしてわかる。(8)、(9)の両辺をそれぞれ△aで割ってa2かけ、また(10)、(11)式の両辺をそれぞれ△lで割ってl2をかける。こうして、(8)式と(10)式の両辺をそれぞれ加え、また(9)式と(11)式の両辺をそれぞれ加えると結局次のような式をえることができる。
    xo1=a1xo1+a2
       Lo=l1xo1+l2
これはまさにX1o、Loが交点αの座標に他ならないことを示している。すなわちd2Lの最小解を与えることを意味する。最小解は一つしかないからd2oLは1単位の穀物を生産するのに必要な最小限の穀物量を表わしている。したがって、
△L' △L"
d2Lo=d2(a2+ l2)=c11a2+c3l2
△a2 △l2
をわれわれはえる。この等式は重大な意味を持っている。この最右辺は農業部門における1単位の穀物の生産に必要な生産要素を穀物価値で計ったものに他ならない。したがって、1単位の穀物の生産に社会的に必要な穀物自身の量(d2Lo)は農業部門における1単位の生産に必要な生産要素をさきに定式化した帰属価値で計った総費用に他ならない。そして明らかに、この帰属価値で計るならば、社会的な剰余をsでとらえてもs'でとらえても同じになるのである。すなわち、
      1−d2Lo=1−(c11a2+c3l2) (12)
となる<15>。ところで、われわれのこの結論はA図のような場合について述べた。しかし、この最終的な結論はB図の場合についても同じように導出することができる。ただ、異なる点は、B図の場合、a2の変化は最小のd2Lの変化を何等生み出さないことは図より明らかであるから、生産財の帰属価値はゼロとなる。図Bの場合は生産財は過剰に生産されているので、そうした財の価値がゼロとなっているのは、まさに自由財がゼロとなっているという通常の結論に対応しているのである。
 この(12)式において、重農主義のもともとの富の表現が直接に生かされていることになる。すなわちわれわれが示した富である左辺は、まさに農業部門で生み出された富という表現形式である右辺に等しくなるのである。しかし、重農主義のこの点での主張としてはもう一つ示されなければならない命題がある。それは、この価値体系のもとにおいては、他の部門では剰余が生み出されていてはならないのである。そこで、さらにこの帰属価値の体系について検討しよう。また、ここでも諸係数はA図のような場合について考える。このとき、これまで表れなかった加工消費財の帰属価値はどうなっているのだろうか。われわれの方法を、(5)式で表わされる加工消費財の需給条件式についても適用することからこの点を考えよう。そこで、外生的なこの財に対する需要が微少量だけ増大しても、この条件式は先に指摘したように厳密な不等式で成立しているので、その増大は最小必要穀物量に何の影響も与えない。したがって、その帰属価値はゼロである。これは先にも述べたように、このA図のような状況では加工消費財はその必要量との関係で過剰に生産されているために自由財になってしまっていることを意味している。すなわち、その帰属価値をc12とすれば、c12=0である。また、(8)、(9)式から、
l1△a2
△L'=
1−a1
をえるから、これを生産財の帰属価値の定義式に代入すると、
d2l1
c11=
1−a1
である。したがって、この式は、
     c11=c11a1+d2l1 (12)
となる。さらに(10)式において生産財に関する再生産条件を考慮すれば△x1=0でなければならない。これを(11)式に代入すると、△L"= △l2であり、これをさらにc3の定義式に代入すると、
              c3=d2 (13)
をえる。これを(12)式に代入すると、結局われわれは、
      c11=c11a1+c3l1 (14)
をえる。したがって、これはもともと検討しようとした(2)式と(3)式においてc12=0を代入したものに他ならない。すなわち、われわれが定義した帰属価値の体系のもとでは、農業部門以外の部門にはいかなる剰余も発生していないのである。われわれの定義した帰属価値はこの点においても、重農主義者の基本命題を完全に支持するものになっていることがわかった。
 ここまでで、われわれの定義した帰属価値の体系は、重農主義の富概念、あるいはその体系との関係においてきわめて有意な関係を持っていることがわかってきた。さらにここでもう一つの帰属価値体系の重要な性質を提示することにしよう。それは、物量的な相互依存関係のみを示している富の体系とその帰属価値の体系がブロディのいう「厳密な対称性」の関係にあることの一面を示すものである。まず、諸係数がA図のような関係にある場合について述べよう。このとき、(2)、(3)式を前提にするならば、そこでc12=0として解いたものが帰属価値の体系に他ならないことはすでに述べた。ところで、そこではc3は決して0にはならないので、c11=0とおいてc3とc12について(2)、(3)を解き、その解としての「価値」体系をc11、c3'、c12'としておこう。すなわち、それらは
c11'=0
            c12'b=c3'l1 (15)
          c3'=c12'd1+d2 (16)
を満たしている。そしてこの体系を用いて計算した農業部門における1単位の穀物を生産するための生産要素の総費用c11'a2+c3'l2(結局これはc11'=0だからc3'l2)と初めのわれわれの帰属価値によって与えられるc11a2+c3l2との関係はどうなっているだろうか。ところで、A図の場合、最小必要穀物量を与えるx1、L(さきに*をつけていたものと同じ)について(4)、(5)、(6)はそれぞれ次のような関係になっていることがわかっている。
     x1=a1x1+a2 (17)
bx1>d1L (18)
       L=l1x1+l2 (19)
そこで、いまこのらの式に順にc11'、c12'、c3'をそれぞれの式の両辺にかけて加えると、
     c12'bx1+c3'L>c12'd1+c3'l1x1+c3'l2
となる。また、(15)の両辺にx1、(16)の両辺にLをかけてそれぞれ加えると、
     c12'bx1+c3'L=c12'd1+c3'l1x1+d2L
となる。この二つの式を比較すれば、
d2L>c3'l2
となる。すでにd2L=c11a2+c3l2は確認しているので結局、
         c11a2+c3l2>c11'a2+c3'l2 (20)
となる。すなわち、このA図の場合われわれの帰属価値で計った農業部門の単位生産のための総費用の方が(15)、(16)によって与えられる「価値」体系によって計られるそれよりも大きいのである。さらにB図の場合、同じ問題はどうなるかを考えてみよう。このときの帰属価値体系は、まさに(15)、(16)で与えられることはすでに指摘しておいた。さらにこの場合、最小必要穀物を与えるx1、Lについて(4)、(5)、(6)は、
     x1>a1x1+a2 (21)
bx1=d1L (22)
          L=l1x1+l2 (23)
となる。これについて先と同じように比較の計算をすると、
(24)     c11'a2+c3'l2>c11a2+c3l2
と、前とまったく逆になるが、両者において、われわれの定義した帰属価値は常にもう一つの場合よりも農業部門の単位生産のための総費用を高く評価することがわかった。このことをまとめると、生産財の帰属価値と加工消費財の帰属価値がともにゼロになることはないので、富の体系から独立して、それに対応する帰属価値の体系を次のようにして求められることがわかった。すなわち、すべての価値が非負で、(2)、(3)の制約条件のもとで最大のc11a2+c3l2を求めるときに与える価値体系がそれに対応する富の体系の帰属価値体系になっているということである。そして、その最大解と富の体系の最小解が一致するということである。ここにも、富の体系と価値の体系との間のはっきりとした対称性が表れているのである。すなわち社会的剰余は二重に表現されて、一方は直接的に物量的な依存関係と生産水準の構成という直接的な像によってあらわされ、もう一方では人間集団の共同的意識という鏡に反射した像としてあらわされる。そして、二つの像は現実の像と鏡の像のように対象的関係になっている。そして、これがわれわれの呼ぶ双対性というものの特質となっているところのものである。社会的剰余の直接的像としての物量的に表現された富は、ちょうどその財の数だけの自由度(次元)を持った空間の中に映されるのに対して鏡の中の像はその工程の数だけ、技術の数だけの自由度を持った空間の中に映されている。たとえば、直接的像が右手をあげれば鏡の中の像は左手をあげているとしか見えないが、その対象は共通のものなのである。
5 効率的技術の選択について
 われわれが富の体系と価値の体系の間の双対性というものの表わしている内容が次第に明らかになってきた。しかし、これではまだ不十分である。双対性の内容を完全なものとして表わすために、ここで技術選択について考えてみよう。これまで、農業部門と製造業部門はそれぞれ一組の生産係数で表わされた技術しか持っていないと想定してきた。ここで、この想定を少しだけ緩めることにしよう。すなわち、製造業についてだけ、二組の生産技術を有していると考え、それに対応して二つの生産工程が存在すると仮定しよう。そのもう一つの生産技術をこれまでのに(')をつけた記号で表わし、(b'、a11'、l1')とする。もちろんわれわれは、この新たな技術についても先の生産財と加工消費財に関する再生産条件は満たされているとしよう。といういのは、もし新たな技術がこの条件を満たしていないならば、技術選択の対称になりえないことは自明だからである。さて、このときの富の体系を定式化することからはじめよう。この新たな技術を有した工程による生産財の生産量をx1'で表わすと、その富の体系は次の最小化問題の解として表わされる。
              min.d2L
     s.t. x1+x1'≧a1x1+a1x1'+a2
     bx1+bx1'≧d1L
         L≧l1x1+l1'x1'+l2
x1、x1'、L≧0
制約条件式はそのままでも、変数が一つ増えたことによって解析は複雑にならざるをえない。そこで、われわれはさしあたって、図1−4のような二つの場合について検討を加えよう。
 この図において一方の工程については両方とも前のA図のような係数の配置にしてある。そして、新たに導入した代替工程についてC図の場合は前のA図のような配置であり、D図の場合はB図のような係数の配置をもつ工程としてある。C図の場合は比較的簡単である。すなわち、最小必要穀物を実現するのはαかα'のいずれかになる。それがαになった場合には新たに導入した製造業における代替的生産工程は稼働されず、また逆にα'になった場合には代替的工程しか稼働されない。すなわちこのC図の場合には単純な二者択一の状況になっているのである。しかもそれぞれの場合において加工消費財は過剰生産されることによって自由財となっている。これに対してD図の場合はやや複雑である。ここでは、最小必要穀物を実現するのはα、βそしてα'のいずれかである。αの場合はもとの工程しか稼働されず、加工消費財が自由財である。またα'の場合は代替的工程しか稼働されないが、そのとき生産財が自由財となっている。問題はβの場合である。このβのような場合がどのような技術的状況のもとで起こるかを考えてみよう。この状況が生ずるためにはまず、γがα'よりもLの座標において低くなければならない。すなわち、加工消費財の労働生産性に関しては代替的な生産工程よりももともとの生産工程の方が高い水準を有していることが必要である。さらにまたαのLの座標水準がβのそれよりも高いことが必要である。すなわちそれが意味しているのは、もとの生産工程が生産財に関する労働生産性は比較して十分に低いということである。すなわち、労働生産性でみた工程のはっきりとした比較優位が、生産財に関しては代替的工程にあり、加工消費財についてはもとの工程にあるときに起こるということである。そのようなときに、二つの工程を共に稼働すること、すなわちx1もx1'も共に正の稼働水準を持つことが必要穀物量を最小化する上で有利になるということである。
 そこでまず、C図のような場合を前提にして分析を続けることにしよう。いま、この場合で、α点がα'点と比較してLの座標水準が低いとしよう。すなわち最小必要穀物を実現する体系がα点によって与えられるとする。このとき、帰属価値の体系は前のA図の場合に与えたものと同じになることは明かである。そこで、われわれが知りたいのは、この帰属価値の体系によって評価される、ここでは生産水準がゼロとなっている代替的生産工程の総費用と生産物総価値の関係はどうなっているだろうかということである。そこで、この場合の帰属価値をc11、c3、としよう。また、先に示したように、c12=0である。そこで、このときに代替的な生産工程
において、その生産物価値と投入要素総価値について、
        c11≧c11a1'+c3l1' (25)
という関係が成立すると仮定しよう。もちろん(13)、(14)式は成立している。また富の体系においては、x1'はゼロであるから、結局(17)〜(19)式の関係が成立している。このとき、x1>0であるような実行可能解(物量体系の制約条件を満たす解、最小解とは限らないという意)は、最小解であってはならない。その点が満たされているかどうか調べてみよう。そこで、問題の制約条件において、x1=0でx1'>0であるような一つの実行可能解を考える。それは次の条件を満たすものである。
     x1'=a1'x1'+a2 (26)
b'x1>d1L' (27)
       L'=l1'x1'+l2 (28)
C図のような状況においてはこうした条件を満たす実行可能解は存在して、それがα'に他ならないことは容易にわかるだろう。このL'は最小解を与えるLとは異なるはずである。この点を調べてみよう。(26)〜(28)式の両辺に、それぞれc11、c12(=0)、c3かけて加えると、
   c11x1'+c3L'=c11a1'x1'+c3l1'x1'+c11a2+c3l2
となる。また、(13)式の両辺にL'をかけたものと、(25)式の両辺にx1'をかけたものをそれぞれ加えると、
   c11x1'+c3L'≧c11a1'x1'+c3l1'x1'+d2L'
これら二つの式から、
d2L'≦c11a2+c3l2
となる。ところで、この式の右辺は最小必要穀物を与えるd2Lに等しいから結局、
            d2L'≦d2L
となる。すなわちこれは、α'点が最小解を与えないというわれわれの仮定と完全に矛盾する。したがって、(25)の想定は誤りであり、最小解に貢献しないという意味での非効率的な工程を帰属価値体系で評価した場合、
      c11<c11a1'+c3l1' (29)
という厳密な不等式が成立していることがわかった。この式は、こうした効率的ではない工程がこの帰属価値のもとでは、その投下費用が生産物に完全に実現することができない、いいかえれば投下費用を保存できないということを意味している。そして、この原則は、単にC図の場合にとどまらず一般的に成立することが、同じような計算を行なうことによってわかる。すなわち、D図の場合αが最小点ならばいま検討したのと同様に、代替的技術に関して(29)のような関係が成立し、それがβならばすべての工程が最小解を実現するのに効率的な工程となるので、製造業の代替的工程も、その投下費用を完全に生産物の中に保存することができる。また、α'が最小解を実現する点であるときは製造業のもとの工程が非効率的な工程となって、その価値を完全に生産物に実現することができなくなり、しかもそのときには、生産財が過剰に生産されて、自由財となっている。
 これらのことから、いま特定の場合にこだわらず、一般的に1単位の穀物の生産に必要な穀物自身の量を最小にするという富の体系から導き出された帰属価値の体系をc11、c12、c3とするとき、この体系は次のような条件を満たしていることがわかった。
         c12b+c11≦c11a1+c3l1 (30)
     c12b'+c11≦c11a1'+c3l1' (31)
       c3≦c12d1+d2 (32)
c11、c12、c3≧0
ただしここで、第三番目の式が厳密な不等号になることは有り得ない。また、第一番目の式と第二番目の式が共に厳密な不等号になることもありえないことは、わかっている。したがって、この不等式の体系を一般的に表現すれば、すなわち、帰属価値体系のもとでは、投下費用以上にその生産物が評価されることはありえないということである。そこで、われわれはこの不等式を前提にして次のような計算をしてみる。すなわち、この不等式にそれぞれ順にx1、x1'、Lをかけて加える。それによって得た式と、富の体系を与える基本問題の三つの制約条件式にそれぞれc11、c12、Lをかけて加えたものを比較することによって、われわれは、
         c11a12+c3l2≦d2L
という不等式を得る。この式はそれぞれの不等式を満たす実行可能解についてはすべて成立する式である。したがってもちろん最小解としてのd2Lについても成立する式である。ところで、われわれの帰属価値の体系で評価されたc11a12+c3l2は結局最小解として実現したd2Lと等しいことがわかっている。ということは、(0)〜(32)の制約条件のもとでc11a12+c3l2を最大化する問題の解としてのc11a12+c3l2と最小化問題の解としてのd2Lは等しくなるのである。そして、そして、その帰属価値体系についての最大化問題の解としての価値体系は、すでに指摘したような帰属価値体系のすべての性質を満たすことが確かめられる。したがって、最大化問題、
max. c11a12+c3l2
s.t.
         c12b+c11≦c11a1+c3l1
         c12b'+c11≦c11a1'+c3l1'
  c3≦c12d1+d2
c11、c12、c3≧0
は、富の体系に対応する帰属価値体系をそれとは独立に与える問題であることがわかる。
 これで、われわれが重農主義者の場合の富と価値の双対性と呼ぶところのものが、それぞれの体系を与える二つの問題として完全に定式化されたことになる。それぞれの体系が結果的には一つの社会的な剰余を表現する対称的な体系であることがわかった。
 この帰属価値体系を今後、穀物価値体系と呼ぶことにしよう。ここで、この穀物価値体系をこれまで議論してきたわれわれの価値というものについての議論の中に位置づけることにしよう。われわれは、価値体系というものを、その共同的主観性という観点と、双対性という観点からみてきた。これまでのこの節の議論の中で、この観点と穀物価値体系が完全に整合的なものであることがわかった。前者の、古典派経済学がその価値論を考えていくうえでの出発点として持っていた価値に対する考え方との関係で、この穀物価値体系がどのように評価されるものであるかを考えてみよう。重農主義的な富の概念は、すでに若干ふれたように全国的市場経済が成立しているもとでの封建的領主層にとっての経済的目的因である。したがってそれはまた、何よりも彼らの階級的な主観の中にはっきりと位置づけられるものであることはあきらかである。すなわち、富の概念そのものに価値において議論したと同じような共同的主観性が成立しているのである。したがって、その富の概念を成立させる体系の双対体系としての帰属価値の体系がまたそうした性質を持っていると考えることはまったく自然である。すなわち、重農主義的な富を共同的目的因としてとらえている階級にとって、個々の財貨の穀物価値はその財貨が彼らの目的としている富に対してどの程度確実に費用として位置づいているかを示しているものである。そしてそのことは実際現実的な意味を持っている。すなわち、いま製造業部門にこれまで存在しなかったような新たな生産技術が発明されたとしよう。このとき、その生産技術を体化した工程を稼働することが彼らの富を増大させる上で有効かどうかが問題となる。このとき、前の技術を前提にして成立した穀物価値体系によってその生産工程の費用と生産物価値を評価することによって、もし、その生産物価値が費用を上回るようなことがあればその生産工程は全体としての富を増大させることがそのことだけによって、すなわちその工程を実際かどうして社会的な穀物価値体系がどうなるかを調べるまでもなく、わかるのである。この価値体系はまさに大域的な効率性を小域的に確かめられるという性質を持っているのである。
脚注
<1>ケネー(1758)、p.74
<2>チュルゴオ(1766)、p.27。
<3>スミス(1776)、、p.459。
<4>マルクス(1862)、、p.14。
<5>同、p.21。
<6>同、p.15。
<7>シュンペーター(1914)、p.68。
<8>本節の数学的補論参照。
<9>ミル(1871)、、p.254。
<10>同、p.41。
<11>以下、こうした制約条件を満たす解を実行可能解と呼ぶことにしよう。
<12>ロビンソン(1969)、p.26。
<13>以下の議論については、DOSSO(1958)、上、p.185以下を参照せよ。
<14>この帰属価値は、以下のように、一見複雑な議論をすることなく、等号で結ばれた(4)、(6)式をLについて完全にといてそれを変化させるものについて微分して直接導出できる。すなわち、(4)、(6)式から、
a2l1
L= +l2
1−a1
となるが、これをa2とl2について微分したものにd2をかけたものが、c11とc3に他ならない。すなわち、
d2l1
c11=
1−a1
c3=d2
である。これを用いると(12)式は、もっと直接に導出できる。
<15>ここの数学的双対定理の基本的な結果があらわれている。以下での参考のために、ここで線形計画における双対定理を示しておこう。
 いま、なんらかの意味をもった行列Aを考えよう。A=(aij)、すなわちその第i行j列の要素がaijであらわされる、m行n列の行列であるとする。いまこの行列に対して、たとえば制約条件が、Ax≦cであらわされるとしよう。いまこのxに関する加重ベクトルpを考えて一つの最大問題が次のように構成できる。
max. px
s.t.
Ax≦c
x≧0
そうすると、これに対応する双対問題が次のように構成できる。すなわち、
min.  yc
s.t.
yA≧p
y≧0
である。。
 この問題について、次のような定理が成立する。
<双対定理>
 次のいずれかの条件が成立すれば、最大問題の解と、最小問題の解について目的関数の値は一致する。すなわち、px=ycである。
 (1)最大問題も最小問題もともに制約条件を満たす解が存在する。
 (2)最大問題が制約条件を満たす解をもち、かつこれらの解について目的関数の値が上に有界である。
 (3)最小問題が制約条件を満たす解をもち、かつこれらの解について目的関数の値が下に有界である。
 この線形計画の双対定理については、ゲール(1960)、二階堂(1961)を参照。