第1章 富と経済的価値の理論
第4節 石高制における富と権力の重層的双対性
1 石高による社会的剰余の把握
 この節では、われわれは数百年の歴史を遡らなければならない。日本において近世初期、すなわち幕藩体制という日本独特の封建的社会制度が形成されてくる時期は、その中軸的編成原理としての石高制が確立されていく過程でもあった。この石高制は前節で議論した穀物価値体系を含む重農主義の体系として、一つの見逃しがたい例となっている。すなわち、重農主義体系というのは、スミスがいうように単に「思索の中」だけに存在した体系ではなく、歴史上現実に存在した体系なのである。そして、重農主義体系が持っている理論的特徴をふまえることが、日本の歴史上存在した近世の社会編成原理を理解する上で、必要であることを示そう。
 この石高制についてはすでに多くの議論があるが、それらのほとんどは、石高制の具体的な展開についての実証分析、その社会発展市場の位置づけなどについてであり、それが経済理論の中にいかに位置づけられるかという分析、記述はきわめて少ない。また理論経済学の立場からこの石高制についてなんらかの議論が加えられたという例も知らない。さらに、そうした位置づけが可能なのかどうかすらはっきりしていないのが現実であろう。われわれは、前節で展開した理論的枠組みを活かしながら、この石高制の理論的意味を探ることに集中する。
 近世社会の政治的、経済的編成原理となった石高制は16世紀末の秀吉が全国的規模で行なった太閤検地によって確立されていったものである。太閤検地において全国の田と畠の基準的な生産高が、統一した度量標準(すなわちその面積を計る際は6尺3寸を1間とする検地竿を使用し、また収穫量を計るものとしては京枡を使用)のもとで把握されていった。この度量標準の統一はそれによって与えられた数量が一つの大域的で社会的な性格を持った数量としての性格をもつという点で重要な意味を持っている。面積が測定された田畠はその生産性の段階に応じて上・中・下などにランクづけされ、単位面積に対する基準的な米の生産量、すなわち石盛が与えられた。この石盛は、実施された年代あるいは地域に応じて若干の差があるがおおむね統一していたと考えられる。たとえば1594年(文禄3年)に伊勢国で実施した検地では、上田(1石5斗)、中田(1石3斗)、下田1石1斗)、上畠(1石2斗)、中畠(1石)、下畠(8斗)となっている。さらに、検地には直接には生産物をもたらさない屋敷も対象になり、この伊勢国の場合はその石盛が(1石2斗)となっている<1>。これらの石盛はいかなる控除も前提としていない、生産高そのものの基準値である。こうして、一つの地域(村)の石高(村高)が与えられ、領域は順に集計され、最後には全国の石高にいたるのである。1598年の全国石高は約1850万石となっている。
 またこの石高制が都市部においても基本的に貫かれていたことは注目しなければならない。たとえば大阪では夏の陣で豊臣氏が滅亡した後、松平忠明によって1反につき最高4石5斗から8斗7升にいたるまで斗代が定められた。さらにその周辺の町である、平野郷・富田林では農村と同様の検地がなされ最高1石7斗の斗代が定められている。<2>
こうして定められた石高は、社会秩序の編成原理としては、経済と政治という二つの面をそなえたものであった。経済的にみれはそれは年貢納入基準という側面をもちまた政治的には封建的統一権力の一翼を担うものとしての軍役の基準という面も持っていた。
 「年貢収納の原則と軍役賦課の原則が石高制によって統一されている」<3>
 「石高は将軍から大名へ、大名から家臣に宛行われる知行高であり、それは現実的な土地というより、収納を許された年貢高の基準値であり、同時に軍役高の基準値でもある」<4>
 当時の最大多数の生産者である農民はその生産物の一部を封建的支配階級に年貢という形で収める。その収めるべき数量が確定された石高に対する一定の割合として決められたのである。それは当初の二公一民(生産物の三分の一が年貢)からその後は五公五民という比率などへ変化していった。また、こうした年貢を農民に強制させた力は何よりも封建支配階級の中央集権的に組織された武装力に他ならない。そして、その武士と武器などによる武装力、すなわち軍役がまた、それぞれの地域ごとに、その地域の石高(知行石高)の数量にもとづいて秩序づけられたのである。この石高制は日本の歴史が生み出した最高に精密で独創的な政治的、経済的支配の原理の一つであることは間違いない。秩序づけ(order)とは本来それ自体ではなんの順序をも示していない対象に整合的な順序を与えることであり、石高制においては米の生産高によってすべての異質な対象の一次元的空間への写像としてその順序を与えているのである。
 この石高制の経済的側面と政治的側面をわれわれはさしあたって分離して分析を加える。まずその経済的側面に注目しよう。石高というの直接的な意味は、米の生産高に他ならないが、制度としての石高制はその直接的な意味からは離れてしまっている重要な特質を持っている。第一は、基準財としての米を生産する田ばかりでなく、社会の基本的で本源的な資財(ストック)のすべてに共通の数量的評価を与えている点である。すでにみたようにそれは、畠も屋敷も、さらには都市の土地も、対象としているのであって、それらは社会の再生産過程における必要な用役(service)をもたらす資財を対象にしているとまとめられる。そして、第二は、それらの共通の数量的な評価が米の生産量によって与えられているということである。それらの共通の数量的評価は必ずしも米に限らずに、それ以前に実際に貫高制として行なわれていた銭によって行なうことも可能である。しかし、太閤検地によって貫高制は否定されて米が基準となった石高制が確立するのである。もちろん、こうした二つの特徴は、同時にわれわれが解明しなければならない問題でもある。
 石高制が経済的には年貢収納のための基準だったということは、その生産高の把握そのものが最終的な問題だったのではなく、そのうちからどれだけの年貢が獲得し得るのかということであり、すなわちその生産高のうち獲得可能な剰余がどれだけであるかが問題であったことは間違いない。したがって封建領主階級にとって問題だったのは、生産高のうちの剰余部分であり、それを確実に捕捉するために、生産高そのものによって秩序づけたのである。そうすると、この第一の特徴とした、「社会の基本的で本源的な資財に共通の数量的評価を与えている」ということは、その資財が供給する用役を、直接であるか間接であるかは別にして、供給されているすべての生産部門が生み出す剰余が捕捉の対象になっていたということであろうか。すなわち、単に農業部門だけでなく、都市の製造業部門をも含むすべての生産部門の剰余を、この石高制によってとらえることを、封建領主層は意図していたのであろうか、ということが問題である。もし、そうであるならば、彼らのこの立場は重農主義的な富の世界を超えて、スミス的な富の世界に立脚していることになる。彼らの再生産過程についての認識は、単に、農業部門にのみ剰余をとらえた重農主義的な立場ではなく、それを否定しすべての生産部門における剰余の可能性というスミスの段階に到達していることになる。
 この点について詳細に検討をする前に、石高制をめぐるこれまでの議論にわれわれと同じ観点からの記述があるのでそれについて若干の評価を加えよう。石高制を富の把握という視点からみることは、それを経済理論の観点からとらえる糸口になるのであるが、こうした議論は少ない。そのなかで注目されるのは脇田修氏の次の記述である。
 「石高は米作を行なわない畑・屋敷を含めて算定され、また農村・都市を問わず実施されている。その際、石高は米の生産高といいながら、現実の生産高ではなくて、町場における石高は純農村部よりも高く、大阪では反当四石二斗となっている。したがって石高は米の生産高に一定の社会的富を考慮して決定されたもの(1)といわれるのである。この規定は誤りではない。しかし、さらに掘り下げてみるならば、石高自体の性格には、現実の生産高を示す内容とさらに広く社会的富の基準を示す内容が含まれている(2)のではないかと考えられる。それは米という生産物の性格に由来するのであった。つまり石高自体が米の生産高を基準としつつも、社会的富の表現であり、使用価値としてのみでなく、商品価値を有するものとして実現したのではないか」<5>
 この(2)には、われわれと同様に、石高が社会的富(Wealth)を示す基準としての意味を持っていることが指摘されている。また、(1)で言おうとしているのは、ある面積の土地の石高を決定するのに、そこで米の生産が行なわれたと仮定したときに可能な生産量に拠ったのではなく、そこで実際に行なわれている経済的活動が生み出す富が基準となっていると指摘していると考えることができる。そして、この点は、石高を生産高という直接のあり方においてとらえるのではなく富の表現としてみるわれわれの立場からは支持し得るものである。ただし、この商品「価値」との関連は、氏の指摘はそれが社会的富だから石高は価値表現ということなのであるが、結論的には、われわれは氏の記述を支持するがこの段階では保留しておこう。
 朝尾直弘氏の次の記述も同様なものであろう。
「当時の領主は自己の領地と領民を一体のものとしてとらえ、その農奴と封土の結びつきの全体からえられるところの社会的な富を、石高によって表示したのである」<6>
 脇田氏らの石高制を富(Wealth)の表現とすることは明瞭に記述されているが、その富が生産高全体を表わすのかそれとも、そこから再生産に必要な生産財と生産者の生活手段必要量を差し引いた剰余の部分を示しているのかは、直接明らかにされてはいない。しかし、それが剰余部分をあらわさなければ、無意味な概念になってしまうことも明かである。というのは、ある生産工程が、あるいは生産諸工程の社会的編成が剰余を生み出さないものであれば、その生産高をとらえても、そこから剰余としての年貢を引き出そうとしている封建領主層にとってはなんの価値もないからである。(ただし、この記述については、価値評価が生産工程ごとに行なわれていることを前提にしている)。富について語る場合、誰にとっての富であるかという視点は不可欠である。ここでの富概念は決して生産者にとっての富概念ではないのであり、封建領主層にとっての富概念でしかありえないのである。したがって、脇田氏の議論はわれわれの観点からは、すべての生産活動における剰余を把握するものとして石高制は機能していたという主張に対応しているのである。もちろん、それは脇田氏が本来意図していたことであるとはいえない。あくまでもわれわれの議論に引き寄せた場合のことである。
2 剰余把握の範囲
 一見すれば、石高制において、すべての部門における剰余の把握というスミス的認識が当時の封建領主層にあったかのようであるが、実際はそうではない。この点をみるために、当時の経済の基本的な再生産構造をモデルとしてとらえておくのが望ましい。当時のモデルとしては、都市と農村という枠組みで社会の再生産構造を把握するのが最も単純で、しかもその本質的特徴を逃さない。ただし、ここでの都市とは、製造業と商業の複合した社会的再生産の一部門として考えていることをはじめに注意しておく。農村においては、生産者としての農民によって生み出された農業生産物は、その一部が農民自身の生活手段にまわされ、またその一部は時期の再生産用に保持される。そして、また残りの生産物の中から剰余としての部分が領主層に年貢として収められるのである。年貢として収められた農業生産物(もちろんほとんど大部分は米である)は、まず領主とその家臣団の直接の生活の糧となることはいうまでもない。しかし、彼らはまたその残りのほとんどを都市において、その市場をとおして販売することによって、その非農業的生産物を得て支配層としての自己の生活水準を維持していたのである。ここまでのところでいえることは、封建的支配層が農村に向けていた顔と、都市に向けていた顔とがはっきり異なっていることである。彼らは農村に対しては、武装力にもとづく強制力によって彼らにとって都合のよい秩序維持以外のいっさいの対価を支払うことなく、すなち非市場的に農民からその剰余をとり上げる階級として振舞った。農民に対して、彼らは土地用役権の提供という対価が支払われていると考えるかも知れないが、それは誤りである。太閤検地は、近世全体をとおして貫かれた農民を土地に拘束することも確立したのであり、封建領主との関係においては、農民は決して交換当事者ではなかったのである。ところが、その封建領主層は都市の町民に対して経済的な側面ではまったく違った顔で現れるのである。すなわち、市場の一構成員として現れるのである。もちろん、封建領主層が政治権力の担い手である限り、支配と非支配という関係は農民と同じであるが、経済的側面では基本は対等な関係になるのである。したがって、都市の手工業者、商人が収める商品に対しては、封建領主層も基本的に市場で認められた対価を支払うのである。後者が近代に通じるような経済主体間の関係であるという点において、封建的支配層はヤヌスだったのである。そして、このようなヤヌスであることが、あとでみるような解決しがたい矛盾を引き起こすことになるのである。
 封建的領主が都市に対して対価として支払うものは、主要に農民が年貢として収めたものであるが、こうした封建領主を媒介にした生産物の流れが流通経済の主要な運動だったことは否定しがたいものである。しかし、都市と農村の間の直接的な交易関係はどうだったのであろうか。この点では、農民のおかれていた経済状況の主要な側面が自給的なものであったことは、多くの研究者の共通に指摘するところである。それは、農業生産物の大部分が年貢として支配階級によって収納され、またそのほかに彼ら自身の生命の再生産と、次期の再生産に必要なものを差し引けば、都市の商品に対して大きな有効需要を形成するほどのものが残らなかったことに起因している。もし、たとえば農村が都市に対して完全に自給的ならば経済は完全に分解可能(Decomposable)な技術体系を形成していることになる。すなわち、農村は社会の基礎部門であり、都市は、この基礎部門に対してその再生産のためになんの貢献もしない。都市は農村の生産を抜きにしては自らの生産活動を維持することができないが、農村は都市とは独立にその再生産を維持することができるという、位階的な再生産構造を形成していることになるのである。そして、その場合、都市の生産者が農村とは違って、都市の生産物をもその生活上の必需品としてとらえていても、その彼らに必要なものを除いた剰余生産物は領主階級の軍需品・奢侈品としての性格を持つと考えられる。
 「商工業者の都市集住の主要な狙いは、領主経済への奉仕であったと考えられる。近世的市場において、主要な商品となったものは、貢租として徴集された領主米・領内特産物であり、領主階級はこれを中央市場と領内市場に販売し、必需品を入手していた。農民経済に対する影響は、この米納年貢と小物成りの収奪であり、これによって、農民は自給経済に抑えこまれていた」<7>
 しかし、農村の自給経済的側面が強調される場合でも、こうした完全な経済的独立性としては考えられていないようだ。完全な分解可能性を想定することは極端すぎ、また現実性も欠いている。脇田氏も、この論文で地方都市においては「領内農民経済との分業のにないてである」大工・鍛冶・紺屋などの存在を特色としていた、と指摘しているように、都市が農村における非自給的な商品の供給を行なっていたことは事実として確認されるからである。
 「農民もまた一定の商品流通を必要とした。米作の困難な土地に課せられた貨幣貢租の納入には、その土地でとれる生産物の商品かが必要であったし、塩・鍬・釜など生活および生産のための非自給的な必需品は購入しなければならなかった」<8>
 「農民には再生産に不可欠なぎりぎりの商品販売しか認められず、過度の商品経済との接触をたつためにも、領主は城下町および若干の在町にのみ商業を認めた。そして城下町は領内の商工業の機能を集中し、自給たることを強制された農村の非自給部分の生産および流通を担当した」<9>
 こうした農村の都市への経済的依存性は17世紀の後半から非常にはっきりとした形で明らかになっている。それは、農業における生産技術が、したがってまたそれによって実現可能となる生産水準が都市から供給される生産財に強く依存するようになるからである。そしてまた、それは農業生産力の発展が農村から都市への直接の農産物の供給が行なわれるようになる、したがってそれが、都市にとって農村が一定の有効需要の担い手であるという現象と裏腹の関係になっていることは明かである。都市から農村に供給される非耐久的生産財の代表的なものとしては、干鰯、採種油粕などの購入肥料があげられる。葉山禎作氏は17世紀末の大阪周辺のある農家の記録をもとに次のように指摘している。。
 「これらの栽培には、稲も含めてすべての作物に干鰯が投与されている。多量の購入肥料の利用は、同家の手作経営が農産物の販売を目的とした商品生産であることを示している」<10>
 また、三橋時雄氏も、17世紀末以降の商業的農業の発達における購入肥料の利用の重要な役割に注目している。氏は、江戸・大阪・京都などの都市の発展が農村における商品作物の栽培を発達させ、それが魚肥(干鰯・鰊粕)、油粕類、人糞尿などの肥料の購入を可能にしたと述べている。そして、こうした購入肥料と農業における労働生産性の関係について次のように指摘する。
 「いずれにせよ近世後期には、このように前期の自給肥料より肥効の高い金肥を使用して、追肥の方法もより精密になったのであるが、このことは土地利用の集約化、すなわち作付回数の増加と集約作物の導入となって、土地生産性の向上に大いに役立ったのである。金肥の使用はしかしそればかりでなく、従来草肥がないために開墾できなかった、平場の低湿地にも耕地が開発されることを可能にし、また労働生産性の向上にも寄与したのである。すなわち、金肥の導入と多投は、きわめて多くの労働量を必要とした刈敷刈り労働を節約させ、収穫量の増大とも相まって労働生産性を著しく上昇させ、この期における生産力発展の基本となったのである」<11>
 また、耐久的な農業生産財も近世において重要な発展を見せている。特にその点で代表的なものは鍬である。
 「近世前期には各地で比較的廉価に良い鍬が入手できるようになり、その結果、開墾が各地で進行し、深耕が可能となって、農業生産力が発展した。すなわちこの期には鍬を中心とした小農法の成立にともなう、小農生産の発展を考えることができるのである」<12>
 またこの時期は、千歯扱き、唐箕(とうみ)、千石通などの、労働生産性を向上させる固定設備が数多く登場し今日に通じる日本農業の基礎的方法を確立する、農業部門における産業革命の時期でもあったのである。そして、もちろんこれらの農具は、都市を中心として行なわれた手工業的な産物として、農村に供給されたのである。ただし、こうした農業用生産財は、基本的にそれが農村における再生産のための用具であるがゆえに、その剰余と交換に得たものではない。また、農民の生活用品に都市から供給される加工品が入るようになったとしても、それらは彼らの生命と生活水準の再生産のためのものであるがゆえに、これもまた剰余との交換に得たものではないことに注意しなければならない。明らかなことであるが、農村が商品経済に巻き込まれることと、農民が彼らの剰余を商品化することとはまったく別な事柄である。
 したがって、近世全体をとらえたモデルとしては、都市と農村が相互依存的な関係になっているものがはるかに現実的なモデルであることがわかる。すなわち、社会的な再生産構造は、都市と農村に関して分解不能(Indecomposable)な構造を持っていなければならないのである。こうした構造は、ケネーが彼の経済表において表現しようとした、農業と製造業の関係とまったく同じものである。図示すればおよそ図1−5のようになるだろう。
 この、基本的モデルを前提にして、先の、石高制の剰余把握の範囲という問題を検討することにしよう。まず指摘するべき重要な事実は、主要都市における石高制年貢収納は17世紀に至って地子免許という形で事実上廃止されてしまうということである。1591年に秀吉によって京都市中に対する地子免許が行なわれ1634年の将軍徳川家光大阪の地子免許が行なわれるまでには主要な城下町のほとんどで地子免許が行なわれたといわれている。近世のこれだけ早い段階で都市に対する石高制に基づく年貢徴集原理が放棄されたということは、石高制がその制定の段階の意図はどうあれ都市における剰余の把握とその取得という内容を持っていないとみる他はない。したがって、この意味で石高制は重農主義的な富と価値の体系そのものになっているといえる。すなわち、農業部門でのみ社会的剰余をとらえ、製造業部門では剰余が生み出されないという原則になっているということである。
 この主張の論拠を確実にするために、封建的支配層がなぜ都市における石高制の貫徹を諦めたかについて検討を加えなければならない。脇田修氏は、石高制が都市における課税体系としてふさわしいものでなかったという点をその理由としてあげている。
 「都市は非農業地域であるため、農地のように稲作生産力を基準とした石高制を適用するのは問題があるといってよい。たとえば上田1石5斗の反当収穫量は、農地としては基準となるが、立地条件・職種あるいは資本力によって、3間間口の平均店舗でも、商業利潤は明らかに異なっている。したがって、石高制による高は、本来、都市では基準があってなきが如きものであった。・・・・・都市の地子徴収は、稲作生産力を基準にした石高制によるかぎりもともとその経済活動にふさわしい課税体系ではなかったといえるであろう。地子免許は、いわばその結果であった」<13>
 たしかに、実際に米の生産の行なわれていない土地に対して、米の生産高によって課税水準を決めるということに無理があるというのは当然である。しかし、問題はそこにあるのではない。農村においても、実際にそれが行なわれていない畠や屋敷に対しても、石高は定められたのであり、実際その石高の制定に対しては、商品流通の度合などの社会的な条件も加味されたということであるから<14>、その原則を都市に貫いてもよかったのである。もし、そうした稲作用ではない土地の貢租徴収基準を米の高で定めるというのが問題であるというならば、それは単に都市で問題であるだけではなくなってくるのである。したがって、農村と都市という対比をするかぎり、さらにはっきりした理由が要求されるのである。石高制定が、そもそもそこから貢租が収められるべき剰余の把握を本質的意図としているところを考えるならば、都市のおける地子の免除の理由はその剰余の把握に関連しているとみるべきである。それには二つの場合が考えられる。第一は、封建的領主階級が都市における剰余把握の方法、すなわち都市における貢租の源泉となるべき剰余とは何か、そしてそれはどのようにして定量的にとらえられるものであるのかなどについての認識をまったく欠いていたということが考えられる。彼らは、いっさいの剰余把握の方法についての認識を欠いていたわけではないことは明かである。というのは、もしそうであるならば、彼らの階級と社会的再生産過程をともに持続させることは不可能だったからである。実際、彼らは農業部門における年貢の源泉となるべき剰余把握については十分な確信を持っていた。したがって、彼らが都市における剰余把握ができなかったということは、農村における剰余把握の原則を都市に適用することができなかったということを意味する。農業においては、それが自給的な経済であればあるほど、その生産者の生活資料も含めた総費用とその生産物との差としての剰余の把握が容易になり、またしたがってそれがあたかも自然の賜物のような形で現れてくるのである。そしてまたそれは、主食となる主要な農業産物の生産高をとらえることによって可能になる程度のものなのである。これに対して、都市ではそうした単純さが期待できない。そこでの剰余を把握するためには、市場価格を前提にしたとしても、個々の経営が経営余剰を明確にするだけの簿記の技術が必要になる。しかし、単に都市のそれぞれの手工業者と商人が独自の簿記の原則を持っているだけでも十分ではない。それがまた封建的支配層によっても認められるものでなければならないのである。ということは、石高制が統一的な計量的基準を設定して石高を定めていったように、たとえ厳密で完全なものでなくても権力によって公認された簿記の基準が必要になることは明かである。そのようなことは実際には行なわれなかったし、また行なう必要を為政者が認識していたとも思えない。こうした都市の産業における剰余把握の方法的根拠を欠いたというのが、石高制による地子の徴収が行なわれなかった主要な理由であろう。
 しかし、第二に都市の経済活動における剰余の貢租としての取得の可能性を封建領主層が認識していたとしても、それがもたらす否定的な効果を考慮して実行しなかったという可能性もある。まず、封建領主層は都市に対して、経済的側面だけをみるならば市場の一参加者として、すなわち貢租として取得した米の販売者として向き合っていたということがある。そうした状況のもとで封建領主層が都市に対して課税を実施することによって、彼らの実質的収入の増加が期待できるかどうかがまず問題である。この点では、社会的なそう生産物の中に占める農業生産物の割合はその当時においては圧倒的に大きかったであろう事が前提とされなければならない。そこで、もし課税の実質的な負担を都市が拒否するとそれは都市との経済的つながりが比較的小さい農村に転嫁されるよりも、都市生産物に対する領主層の販売米の相対価格低下によって領主層自身が実質的に負担するということになる。この割合が大きくなることが考えられるのである。したがって、課税による実質的所得増の効果は小さいということになる。しかも、領主階級にとっては、都市の発展は重要な要請であった。というのも、年々の農業における農業人口当りの生産水準の発展は、その農業外需要者が同時に増大することによって農業生産物の大きな下落の回避が可能になる。都市に対する課税が、都市における資本の蓄積を妨げることは、封建領主層にとって避けなければならないことであったことはいうまでもない。またもう一面では、都市加工品の価格の上昇は、農業部門における再生産費用を増大させることによって農村を疲弊させるか、農村における租税率の低下を招くことになる可能性もあるのである。
 この二つの理由のどちらが主要なものであるかを確定することはできないが、第二の理由は剰余の把握も含めた経済活動全体についての深い認識が必要であることを考えれば、第一の方がはるかに自然な理由であるとはいえるだろう。そして、石高制が農業生産における剰余のみを農業生産物それ自身で把握するという内容を持っているということは、それが本質的に前節で議論した穀物価値体系に他ならないことを意味している。この石高制が導入される段階では、都市においても石高に基づく課税がはかられていたということは、すべての生産部門の剰余を、この石高制にもとづいてとらえようとしていたのではなく、すべての生産部門を農業部門と同様に扱う、という穀物価値体系からの逸脱でしかなかったのである。
3 価値尺度としての「米」
 この穀物価値体系としての石高制においては、価値尺度は米となっているのである。これは、米の生産部門でのみ剰余をとらえるという価値体系の性質に当然含意されていることである。というのは、米の生産部門で剰余をとらえるというのは、米が主食であり社会的な主生産物であるからである。それによって、重農主義の体系がそうであったように、最も端的な形で剰余がとらえられたのである。もし、剰余を米の生産部門でとらえるがそのとき、価値体系としてはそのほかの、たとえば鉄でとらえるというのであれば、それは形式的整合性はあっても内容的にはまったく無意味である。ところで、われわれはこれまで剰余が農業部門でのみとらえられるという面についての分析に終始してきたが、ここで価値尺度が米であるという側面に注目しよう。なぜ価値尺度は米なのかというのは、いま述べたように剰余把握の問題との関係でも答えられるのであるが、そればかりでなくもう一つ別解ともいうべきものがある。それは、人々の間で米というのが、われわれがこの章の1節で述べたような意味において、現実の価値尺度であったということである。すなわち、米が人々の共同的主観性において不変な価値尺度であったということである。すなわち、スミスの言い方をすれば、「等量の米はいつでもどこでも等しい価値」だったのである。
 この点で注目しなければならないのは、太閤検地が実施された時期は、現実に米が取引における支払い手段として機能していた時期でもあるということである。浦長瀬隆氏<15>によれば16世紀後半に西日本全体で広く支払い手段が銭から米に変わっている事実が確かめられることを詳細に実証している。たとえば、奈良の場合、「多聞院日記」によると1569年から1586年までは取引の80%が米で支払われ、その後一時期銭が復活するものの1593年から1596年までは再び米が主要な支払い手段になっている。また京都の場合でも、「妙心寺文書」では、1571年に銭から米の使用に変化し、それが80年代をとおして継続していることが示されている。さらに、氏はこれらの傾向が西日本一帯に現れていることを示している。そして、こうした銭の使用から米の使用への変化は、当時「悪銭の流通が支配的となり、銭に対する信用の低下により、より信用ある支払い手段として米が使用されるようになった結果生じた現象」ではないか、と一つの仮説を提示している。そしてまた、石高制の採用が、こうした価値基準として米が機能していた事実に起因していると考えられると指摘している。
 これと同様の指摘は、脇田修氏によっても行なわれている。氏は、「少なくとも石高制採用は撰銭令をめぐる経済活動の中に、くっきりと示されていると考える」としている。ここでの撰銭令とは信長によって1569年に実施されたもので、当時の悪貨の流通による混乱を回避し貨幣流通を円滑にするために悪貨と良貨の間の交換割合を定めたものである。これは、その意図に反して逆に貨幣流通を不安定にしたことが指摘されたいる。氏は次のように述べる。
 「撰銭令によって、貨幣流通に一定の規制が加えられると、現物取引が安全であり、米が流通手段としての比重を高めたのであった。もちろん現物取引といっても、これは物々交換ではなく、貨幣流通の混乱により、米が代貨として用いられたのであり、いわば米に内包される商品価値によって「貨幣」的性格を表わしたのであった。・・・・貢租米をもつ領主層は、かかる経済状況のもとでは、むしろ優位にたち、市場への発言権を増大させたのであった。かくして撰銭令は貨幣流通の円滑化を意図しながらも、かえって米のもつ経済的機能を明らかにしたのであった」<16>
 「米のもつ意味は、この撰銭令の中でくっきりと示されている。米が主要食料として最も重要な食品であり、その比較的均質化された内容から最も確実な流通手段となりえたのであった。もともと首都市場圏の発達の中で米の商品化は進んでおり、それが畿内近国における「石」高の基盤となったのであるが、それとともに貨幣流通の混乱の中で、米のもつ意味を領主として認識したと考えられる。しかも、このような状況のもとで、貢租米取得者としての領主が、かかる性格を有した米の所有者ならびに販売者として、市場関係の中でも優位にたったことは明かである」<17>
 以上の事が示しているのは、当時において、米が最も安定した価値基準財だったということである。この安定した価値基準財だったという意味は、米の一定量に与える人々の評価の水準が日本国内においては、時と場所によらず最も安定しかつ共通しているということである。それは、米という財の特殊な立場に規定されている。それはまずなによりも、脇田氏が指摘するように「米が主要食料として最も重要な食品」だということである。西川俊作氏は1石がちょうど、一人の人間の1年生きるのに必要な最低限(それで十分という意味ではなく、生きるだけという意か)の米の量であると計算している<18>。そう考えると、もちろん当時とは日本人の体格も、また主食としての米の位置も大きく変わってているが、現代に生きるわれわれにとっても当時の人々が1石という米の量に与えた評価に、多少同感することができるように思える。われわれと当時の人々とでは、余りにも時代がかけ離れてしまっているが、当時においてはもっとはっきりととらえられる評価だっただろう。価値尺度とは、まさにそうした一つの時代一つの共同体の中での一般的共感が基礎になっているものなのである。
 価値というものの本質的な規定性の一つは、こうした共同的主観性であるが、当時の悪銭の流通といった状況が米にさらに現実性を持った価値尺度としての機能をもたせた。しかしその後、金・銀鋳貨による貨幣制度が調っていったために、米が実物貨幣として意味をもつ時代は16世紀末に限られ、近世全体としてはそうした現実性をもたなかった。しかし、石高制というのが価値体系であり、したがってまたわれわれのいう共同的主観性において、不変な価値尺度であったことは否定されない。また、封建的支配階級からみれば常に米は主要な支払い手段として機能したのであり、したがってまたその他の財貨との交換比率としての現実的価値が常に問題になったのである。この点についても、脇田氏が興味ある議論を行なっている。
 「豊臣政権化においても銭貨の流通は安定・整備されていない。したがって織田政権下でみられたような米の流通事情は生きているといってよいであろう。そこでは米は代貨としての役割をもち、これを掌握することで市場への発言権を強めるといった状況にあった。石高制の実現は、まさに、このような状況をふまえておこなわれたのであった。つまり石高制における米納年貢制の本質は、このような性格をもつ米を可能な限り収奪しようとするところにあった。したがって、米は使用価値としてのみ通用したのではない。この点、米を兵粮米の性格で判断する見解は間違っている。兵粮米として把握するのであれば、織田政権のように、現実に、米は水田中心に限られ、ほかは大豆・ひえ、銭として収納すればよいのであるが、単に統一基準としての「石」高でもなく、実際に、米納年貢制を強制し、水田以外にも石高制を施行するのは、明らかに、それが貨幣と同様、価値の基準として考えられたからであり、最も商品化しうる米を最大限収奪しようとしたからであった」<19>
 ここでの氏の主張が注目されるのは、封建領主層にとって米の使用価値だけが問題になっていたのではなく、価値基準として考えられていたがゆえにそれによる収奪の最大化が意図されたとする点である。すなわち、単に米の使用価値、すなわちその有用性だけが問題になっていたのであれば、封建領主層にとって彼らが消費する分だけが問題であり、それ以上に米が必要になることはなかった。ところが、米は交換価値の実体として、他のすべての有用性をも代表するがゆえにそれを最大限に収奪しようとしたということである。
4 石高制が内包する基本矛盾
 ところが、この交換価値の実体としての米による最大限の収奪というのは、封建領主層が解決し難い一つの矛盾に陥っていることも意味している。封建領主層が、単にその使用価値に関してだけ、社会的な剰余を米の剰余としてのみ獲得しようとする限りにおいては、彼らは矛盾に陥ることはない。しかし、それを価値として、すなわち他の財貨に対する交換支配力において最大化しようとするときに一つの矛盾に陥るのである。まず、社会的な剰余を米で最大限獲得しようとという意図は、結局社会的な生産人口を可能な限り農業部門に集中することを意味していることを知らなければならない。ある時代の人口水準は、よほど長い時間的視野を考えない限り操作可能な変数ではなく外生的に与えられていると考えなければならないだろう。またその大多数は被支配階級であるが、簡単化のために彼らがまたすべて生産人口であるとしよう。このとき、正常な再生産過程の進行を想定する限り、彼らが1年なりの生産期間に標準的に消費する主食としての米が量が与えられている。この米を社会的必要米と呼んでおこう。そして、この生産人口の前提のもとで最大可能な米の生産高とこの社会的必要米の差が最大限に獲得可能な、米によってとらえられて社会的剰余に他ならない。この最大限可能な米の生産高は、すべての生産人口を農業生産に向けることによって獲られるのではない。なぜなら、農業の生産財は都市から供給されなければならないので、これらの都市人口も農業の生産にとって不可欠だからである。したがって、このことから米で計った社会的な剰余を最大限に獲得するためには、都市の人口は最小限に抑えなければならない。そして、この都市人口の最少化は農村から収奪した米を商品化して都市に販売することと相容れないことは明かである。封建領主層は、近世をとおして、彼らの米を支払い手段として一貫して用いていたのとまったく整合的に、都市人口の最少化ではなく、都市の発展を政策的に追求した。ところが、この彼らの基本的立場と、もう一方で、彼らが石高制を採用していたことは決して相容れない原則的矛盾だったのである。というのは、石高制というのは、その収奪の対象としたものを他の財に対する交換価値のにない手として位置づけるか否かにかかわらず、社会的剰余を最大限、米によって獲得するための制度であったことは明らかだからである。
 石高制が都市の発展を最小限に制約する傾向をもち、生み出した剰余のはけ口としての市場の確保が困難になるという矛盾は、重農主義の体系そのものの抱えている矛盾でもある。そして、この矛盾はすでにスミスによって指摘されているところでもある。スミスは、「あらゆる国民の商業の最大で再重要な部門は、、都会の住民といなかのそれとの間で営まれるものである」と指摘し、重農主義体系のように農業だけを一方的に促進することが結局都会の産業を縮小し、その生産物の価格を引き上げ農業生産物の価格を相対的に低下させ結局農業を阻害する傾向をもつと次のように指摘する。
「どこの国でも、およそ工匠や製造業者の数を減少させる傾向をもつものは、土地の粗生産物にとっていっさいの市場の中で最も重要な国内市場を縮小させ、またそれによってさらにいっそう農業を阻害する傾向をもつのである。それゆえ、農業を促進するために、他いっさいの職業に対してそれを優先させ、製造業や外国貿易に諸制限を課しているこれらの体系は、それが設定しているまさにその目的に反する作用をおよぼし、間接的にはそれが促進しようときとするまさにその部類の産業を阻害しているのである」<20>
 そしてこの矛盾は、日本近世を通じて本質的なものだった。農業部門にのみ社会的な剰余をとらえる石高制のもとでも、非農業部門、とくに都市商業部門に大きな剰余がもたらされていたことは明かであり、したがって、石高制のもとであるべき剰余よりも、実際の剰余は少なかったしまたその現実の剰余がもたらす購買力も明らかに小さいのである。したがって、非農業部門に富が蓄積されることは、相対的な意味で封建領主階級が経済的に低落すること以外の何ものをも意味していない。そして、実際に、近世をとおして封建領主階級の経済的地位は傾向的に低落していったと考えられるのである。そしてこの矛盾は、近世の思想にも反映せざるを得なかった。たとえば、荻生徂徠は『政談』の中で、この矛盾に対する鋭い認識を示している。
 「武家御城下にあつまり居るは旅宿也。諸大名の家来も、その城下に居るを、江戸に対して在所とはいえども、これまた己が知行所にあらざれば旅宿也。その子細は、衣食住初め箸一本も買い調えねばならぬ故、旅宿也。故に武家を御城下に差し置くときは、一年の知行米を売り払うて、それにて物を買い調え、一年中に使いきる故、精を出して上へする奉公は、皆御城下の町人のためになるなり。これによりて御城下の町人盛んになりて、世界次第にあしくなり、物の値段次第に高値になりて、武家の困窮、当時にいたりてはもはやすべきようなくなりたり」<21>
 ここで徂徠は、武士階級が都市に集まることによって、商品経済に完全に巻き込まれ、ものの値段が次第に高くなり彼らの困窮が深まることをはっきりと指摘している。いいかえれば、武士の困窮が彼ら自身の定めた石高制の原則からはずれていることによって引き起こされているということである。石高制は、米によって剰余を最大に獲得することを動機にしているとしても、それを商品化すること、すなわち、それを支払い手段にしてとし加工品を購入することは意図していないものであり、この原則を破るとは、すなわち剰余を最大限取得できなくなるということである。したがって、石高制の原則にもとづくならば、徂徠の指摘はまったく正当なものとなっていることがわかる。そして、徂徠はこの問題の解決方法として、「武家を皆土に有り付けておく」こと、それぞれの知行所に在住するようにすることを提案しているのである。そうすれば、彼らが都市加工品をみだりに購入することなく生活が可能となるということである。すなわち、それは封建的章主階級が農村の、自給的環境の中で生活せよということであり、歴史に逆行するものであり彼らには受け入れることのできない提案であろう。したがって、われわれの指摘した近世経済の本質的矛盾は、解決不可能な内容を持っていたことになるのである。
 徂徠よりもはるかに控えめに、すなわち石高制の基本原理の現実的再興ではなく、そこに含まれている米を現実の価値尺度としていくという思想を展開した一人に熊沢蕃山があげられるだろう。
 「民のためのたからは五穀なり。金銀銭などは、五穀を助たるものなり。五穀に次たり。しかるに金銀を重くして、五穀をかろくする時は、悪しき事多し。・・・・・金銀をたからとしてたくわへ、うりかい物金銀にてする時は、諸国在在所所に米なく、軍国には金銀持ても、先々にて扶持方なく、飢饉には民人多餓死するなり。其上商のみ次第に富て、士貧く、民窮するものなり。金銀は多持よければ、手廻をして、手くろ成よければ、奢長じ易し。五穀は多もたれぬものなれば、五穀つかひにすれば、商の利をあみするを成りがたし。故に物下直に成て、奢長ぜず。市民ともにゆたかにして、工商常の産あり」<22>
 「粟を以て諸物にかふる事次第にうすくなり、金銀銭を用いるを専なる時は諸色次第に高値に成て、天下の金銀商人の手にわたり、大身小身共に用不足するもの也」<23>
 もちろんこれは徂徠のような矛盾の抜本的解決をもたらさない。しかし、その基本的方向は徂徠と同じであり、石高制が本来意図している方向への復帰を目指すものであった。この点については中村孝也氏の次の主張が注目される。
 「経済発達の大勢より見れば交換経済の中心たる貨幣を抑圧して、米穀をこれに代へしめんとするは、正しく進歩に逆行せるものなれども、交換経済は商業の依って生ずるところたり、商業は資本の集中を要件とするものたり、資本の集中は町人階級の社会的地位を向上せしむるものたり、町人階級の社会的地位の向上は武家階級の存立に影響を及ぼすものなりとせば、苟も武家階級本位の特権的差別的思想を以て経済政策を按ずる場合において、翻って、交換経済の中心たる貨幣を抑圧するは、むしろ当然の理路なりといわざるべからず。・・・・・(この思想は)畢竟、これ土地の経済的価値に対し、資本の経済的価値が向上しくることを抑圧し、町人階級の勃興に対し武家階級が自家の特権と地位とを維持せんと努る要求より生じたる思想というべし」<24>
 こうした、徂徠・蕃山らの方向とはまったく逆に、石高制の原則を否定することによって近世の矛盾を解決するという思想もその末期には現れてきている。青陵は、封建領主による年貢を利子としてとらえ、経済を貨幣経済の原則によって編成しなおし、石高制的原則の一掃を主張した。
 「田も山も海も金も米も、およそ天地のあいだに存在するものはみな、しろもの(経済的財貨)である。しろものがまたしろものを生むのは、理である。田から米を生ずるのは、金から利息が生まれるのと何もちがったことはない。・・・・・・田の年貢も、山の年貢も、海の年貢もみな利息に当たるのである」<25>
そして武士がより積極的に交換経済の中にはいるべきであると主張する。
 「ものを売ることがないならば、買うことはないはずだ。ものを買わねばならない世の中の趨勢ならば、他方では売らねばならぬはずである。武士はものを売らぬものであることが、そもそもおかしいのである。武士が貧乏になる証拠なのだ。ものを買う金はいったい何から出たものであるのか。もともと武士は事の理を追求してみないこと、まことにはなはだしい」<26>
 青陵の主張は、商取引をとおして利潤を得ていくというものであり、その点では、まさに松浦玲氏が「青陵の経済論は、経済学説史でいうところの重商主義の特徴をほとんど全部備えていることにならないだろうか」<27>と主張するような理論になっている。したがって、日本では、素朴な形での重農主義的な経済理論が先行する形で展開され、それを追う形で重商主義的な、商人資本の蓄積方法を合理化するような理論が展開されていったことになる。蕃山と青陵との間の論説の差異の背景には、近世における経済環境の時代的な変化があることは否めない。
 ここまで、石高制の経済的側面からみた特質について検討を加えてきたが、そこで明らかになった点は前節で明確にした重農主義体系における富の体系と価値の体系の間の双対的関係としてまとめることができる。すなわち、石高制において、すべての生産的ストックが米の収穫高として与えられているのはそれが剰余を表現する価値体系に他ならないことを示している。それは、前節で議論された穀物価値体系なのである。一方、米の量によって示される剰余は、いかなる価値評価による関係も含まない純粋の物量的関係としても示される。それは、上で議論した最大剰余を米の生産量として得るためには、都市における人口を農村との分業関係において必要な最小限の水準にしなければならないことを示したときのモデルが、その物量体系に他ならないのであり、すなわちそれは前節で定式化した富の体系に対応するものである。すなわち、石高制においてはこうした経済的双対性がはっきりと現れており、その意味でわれわれの前節における議論が、まったく抽象的なものではなく分析のための有効性を持ち得るものであることが示された。
5 石高制の政治的側面
 ところで、こうした双対性は石高制の政治的側面においても確認することができる。この点を、以下検討することにしよう。それは、石高が単に貢租取得の基準であったばかりでなく、統一権力の根拠としての軍役の基準でもあったということに現れている。近世における政治権力は中央集権的でそのもとに、権力機構の構成要素としての大名およびその家臣団が整然と秩序づけられている事を特徴としている。そしてその秩序づけがそれぞれの位階に応じた支配権のおよぶ範囲の石高(知行石高)に応じているということである。そして、その形式的秩序の実質的で本質的な内容が、知行石高に応じた軍役にについての秩序なのである。軍役とは、統一権力の武装力に対して貢献しなければならない、軍事的な用役の事である。封建制のもとにおいては、こうした一定の領域に対する軍役がその領域の土地の生産物の量によって規定されているために、軍役の位階的秩序はまた石高(石高以前は貫高)にもとづくものでなければならなかったのである。
 具体的に、秀吉による朝鮮出兵時においては、およそ100石高に対して5人の兵が軍役の基準になったといわれている。近世を通して軍役は、単に兵士の数として示されたのではなく、主要な武器としての鉄砲、弓、鑓、騎馬の量がそれぞれの石高に対して定められたのである。
 戦国時代に、こうした統一的な軍役基準が成立していく必然性について、安良城盛昭氏は次のように述べている。
 「いざ戦争という際に、家臣自らの判断に基づいて、一定の武具と兵をもって主体的に戦闘に参加した段階から、その家臣が、どれだけの武具をもち、どれだけの兵をひきつれて戦国大名のもとに馳せ参ずるか、その基準が次第に家臣団に強制されることになる。その統一的基準の設定をてこに、戦国大名領全域に対する戦国大名の統一支配権は発展していく。多くの戦国大名が検地を行なっているのは、その家臣の諸領=土地所有を統一した基準のもとに把握し、これに統一した基準の軍役(家臣が軍事力、すなわち、どれだけの武具とどれだけの兵をもって参陣するか)を課すためである。所領=土地所有の大小に応じた軍役を定めることが、戦国大名領に対する戦国大名の統一的支配権が形成されていく端初となり、ここから、農民より徴集する年貢の賦課基準が、統一性をもったものとして形成されざるをえない必然制が生じてくる。なぜならば、軍役は単に戦国大名の家臣のみに関するものでなく、農民にとっても大きな関わりあいがあったからである。たとえば、竹・なわ等の徴集から始まって陣夫の形での農民夫役・人の徴発もこれにともなうからである。ここに軍役・年貢・夫役の統一的賦課の設定が戦国大名にとっても避け難い課題として登場してくる」<28>
 この「統一した基準」が注目される。この概念で、安良城氏が意図している意味は石高あるいは貫高によるに基準である。したがって、それは各家臣の個別性を捨象し、それを軍事力強化、戦争を目的として一次元的数量に基づく順序を与えることによって実現される統一性に他ならない。したがってそれは繰り返し述べているように一つの秩序形成に他ならない。またここでは、軍事力として必要なのが、単に兵力だけではなく、兵力を維持するものとしての兵糧、兵力以外の夫役、そのほかの所物資も含まれていることが指摘されている。戦国大名にとって問題となる各家臣の個別性とは彼らの人格的個別性ではなく、彼らが所持しているこれらの互いに異質で個別的な必要物の量的組合せであり、これらに対して一次元的数量を帰属させて目的適合的な秩序を形成することが貫高制あるいは石高制の意図するところだった。したがってそこにあるのは、初めに述べたわれわれの、権力に対する双対的な帰属価値(しかもそれは経済的な、すなわち富に関連した価値ではなく、政治的な価値概念である)を確定することに他ならない。また安良城氏はこの著作の他の個所で、銭による統一基準を設定した貫高制が、当時の軍事力の象徴であった鉄砲と深い関連をもっていたと指摘している。すなわち「戦国動乱の渦中にあった戦国大名にとっては、まさに、鉄砲導入の正否に、その命運がかかっていた」と述べ、それを得るために彼らが貨幣を必要とし、年貢貨幣納制を生み出したと考えられると述べている。貫高は、単にそれが銭の量を表わしているのではなく軍事力の抽象的数量化に他ならないということである。石高制においてもこの点は同じであると考えなければならない。すなわち、石高というのは軍事的用役の抽象的数量化なのである。
 この点については、水林彪氏の次の指摘とまったく一致している。
 「豊臣権力の体制において所領の石高が有する機能は、ちょうど市場経済において商品の交換価値(価格)が有する機能のようなものであった。交換価値(価格)を基準とする物・労働力商品の流通が緊密に組織された一個の市場経済を形成するように、知行石高を基準とする土地と労働力(軍役)の交換が緊密に組織された一個の武士団を形成するのである」<29>
 こうして、石高制はその政治的側面においても経済的側面とどうような双対性が確認できる。政治的側面における目的因は、より強固な権力の構築であり、そのときそれ自体としてはなんらの秩序、順序も表わしていない対象に対して与えられる数量的秩序づけが政治的価値体系である。したがって、石高制というのは経済的双対性、すなわち富と経済的価値の体系についての双対性と、権力と政治的価値の体系についての双対性が重なりあった重層的な双対性を形成しているのである。
脚注
<1>三鬼(1975)、p.115など参照。
<2>脇田(1975)、p.175参照。
<3>三鬼(1975)、p.87。
<4>永原(1980)、p.172。
<5>脇田(1977)、p.8。
<6>朝尾(1969)、p.204。
<7>脇田(1975)、p.172。
<8>安岡(1975)、p.246。
<9>同、p.249。
<10>葉山(1975)、p.206。
<11>三橋(1965)、p.71。
<12>同、p.26。
<13>脇田(1975)、p.175。
<14>三鬼(1975)、p.92。
<15>浦長瀬(1985)。
<16>脇田(1977)、p.16。
<17>同、p.18。
<18>西川(1985)、p.31。
<19>脇田(1977)、p.20。
<20>スミス(1776)、、p.501。
<21>荻生(1727)、p.69。
<22>熊沢(1709)、p.191。
<23>熊沢(1672)、p.334。
<24>中村(1922)、p.245。
<25>海保(1813)、p.346。
<26>同、p.366。
<27>松浦(1964)、p.130。
<28>安良城(1969)、p.75。
<29>水林(1987)、p.123。