第1章 富と経済的価値の理論
第5節 資本制経済における富と価値
1 スミスによる重商主義、重農主義的富の批判
 近代的な富の概念を確立したのはアダム・スミスである。スミスの『諸国民の富』の中心的なテーマは、一国にとっての富とは一体なんであるかを明確にし、それを増加させるための道筋を明らかにすることであった。その富概念は、重商主義的な富概念と重農主義的な富概念の批判の上にうちたてられたものである。まず、この二つの概念に対する批判がどのように行なわれたのかについてみておこう。
 スミスによれば、重商主義は二つの原理から成り立っている。第一に、富は金銀に依存するというものであり、第二に、それを自国内に持ち込むために、有利な貿易差額を達成するというものである<1>。『諸国民の富』の第四編における重商主義批判は基本的に二つの部分から構成されていて、一つは重商主義の原理そのものに対する批判であり、もう一つは重商主義的政策がスミスが富と考えたものにどのように影響するのかについての検討である。この後者は結局スミスの貿易理論の内容を成しているものであって、それは別のところで論じられなければならない。ここでは、前者についてのスミスの主張を簡単に整理しておこう。ただし、われわれはマルクスが論じているように重商主義的政策が歴史的にどのような積極的意義を有していたか、あるいはケインズが論じているように現代的視点からどのように再評価されるのかといった点は問題にしない。経済学において、それ以前の学説の批判の上に新たな学説が打ち立てられるとき、批判されるべき旧来の学説が新たな学説の構築に都合のよいように解釈されている場合が少なくない。そして、スミスの重商主義批判についてもその可能性の存在を否定できないかも知れない。ただ、われわれはスミスの重商主義批判が彼の理論そのものを反省的にとらえ、その理解を深める上で有効であるからとり上げるのである。
 スミスは、こうした重商主義の富に対する考え方が、日常的意識に立脚した通俗的な考え方であることを最初に指摘する。そして、常識的な個人を富ませる方法が国を富ませる方法とは決してならないことを繰り返し主張する。また、国がそれを購入する手段さえ持っていれば金銀が必要量に対して不足することはありえないと指摘する。したがって、彼にとって金銀を得るために貿易に対して規制を加えることは意味がないことになる。次の記述には、スミスの重商主義批判の真髄があらわれている。
 「自国にぶどう園のない国がそのぶどう酒を諸外国からとりよせるのと同じように、自国に鉱山の全然ない国は、疑いもなくその金銀を諸外国からとりよせなければならない。それにもかかわらず、政府の注意が前者の対象よりも後者のほうへ、より多く向けられる必要があるとも思えない。ぶどう酒を買う手段を持っている国はいつでも必要とするぶどう酒を獲得するであろうし、また金銀を買う手段を持っている国がこれらの金銀に不足することは決してなかろう。金銀は、すべての他の商品と同じように、一定の価格で買うことができるし、それらがすべての他の商品の価格であるように、すべての他の商品もまたこれらの金属の価格なのである。われわれは、政府の注意などが全然なくても、貿易の自由がわれわれの必要とするぶどう酒をいつでも供給してくれるものと安んじて信じきっているが、それと同じ程度の安心感をもって、貿易の自由は、われわれの商品の流通においてもそのほかの諸用途においても、われわれが購買または使用しうるいっさいの金銀をいつでも供給してくれるのもと信じていてさしつかえないのである」<2>
 そしてまたスミスは、たとえ自国の生産物をもって金銀を購買することができなかったとしても大きな問題ではないと指摘する。すなわちそれは、特定の一商人が彼の倉庫に潤沢な財貨をもっていて、時期を逃したためにそれらを売り残す、すなわちそれらの対価としての金銀を得ることができなくて一文無しになってしまうことがあったとしても、一国民がそうなることは決してないと、以下のように指摘する。
 「一商人の全資本は、しばしば貨幣を手にいれるために予定された滅失しやすい財貨に存する。けれども、その近隣の諸国から金銀を購買するためにいつも予定しうるのは、一国の土地および労働の年々の生産物のごく一小部分にすぎない。そのはるか大部分は、この国自体の中で流通し消費されるのであって、海外に送られる剰余部分でさえも、その大部分は、総じて他の外国財貨の購買のために予定されているのである」<3>
 また彼は、一国内において金銀に対する需給の関係から他の諸国に比して金銀の諸財貨に対する交換比率が下落するような事になれば、すなわち金銀で測った一般物価水準が上昇すれば、どれほど政府が規制したところでより安い財貨を求めて金銀が流出することを妨げることができないとも指摘している。また、再生産と国民生活の必需品の不足は耐えることはできないが、流通に必要な貨幣としての金銀の不足は、信用、紙幣あるいは物々交換などによってしのぐこともできると述べている。
 結局、スミスが重商主義的な富の概念を批判する上での基本的な立場となっているのは、金銀が社会の再生産活動にとっての目的因となるべき富にふさわしいほどの重要性をもっていないということに他ならない。重商主義的な、富は金銀にありまたそれを得るためには一国の貿易差額を有利にすべきであるという主張は、富が流通段階で生じるものという考え方がその背景にあることはいうまでもない。すなわち、それは一商人が自己の商行為において豊かになることと同じ方法を一国においても適用としたものである。これに対して、スミスは社会的な生産物の中における金銀というものが、決して大きな比重を占めていないことを重視した。そして、それはスミスの直面していた経済がそれを裏付けるくらいに農業・製造業もふくめた産業というものに対する商業の比重が大きくないという状況の反映だったに違いない。
 したがって、スミスの富の概念は少なくとも生産部面でとらえられるものでなければならないのだが、その点ではもう一つ検討すべき富の概念として重農主義者のそれがあった。重農主義者の富の概念が富を生産部面でとらえたものであることはすでに述べた。しかしスミスからみればそれは不必要かつ非現実的な限定であった。彼は次のように指摘する。
 「しかしながら、この体系の主要な誤謬は、工匠・製造業者および商人の階級をまったく不妊的で不生産的だとしている点にあるように思われる」<4>
 ただしこの指摘は、直接に製造業部門において剰余が発生しないとしていることに対する批判を意味してはいない。それは、製造業に不生産的という評価を下すことに対する批判である。この理由としてまず、製造業が少なくともその雇用者も労働者も含めた生産者自身の生活の継続のための必要部分は再生産していることをあげているのである。この部分はスミスにとって収入となっている部分であり、スミスの富の概念は、彼の意図するところでは国民の収入の全体に対応しているのである。したがって、まさに製造業にたずさわる生産者が彼らの収入を再生産していることはスミスにとっては富を生産していることに対応するのであり、決して不生産的ということはできなかったのである。そして、スミスにとって製造業部門がそうした収入を再生産していることから、同時に社会的な剰余をも生産していることを示すことに大した距離はなかった。スミスは次のように述べている。
 「この体系の擁護者たちが、工匠・製造業者および商人の消費は彼らの生産するものの価値に等しい、と断言する場合、おそらくその意味は、彼らの収入、すなわち彼らの消費のために予定された元資が彼らの生産するものの価値に等しい、ということなのであろう。ところが、もし彼らがもう少し正確にものを言い、この階級の収入は彼らが生産したものの価値に等しい、と断言しておきさえしたならば、読者はただちに、この収入のなかから自然に貯蓄されるであろうものは、必然的に社会の実質的富を多少とも増加するに違いない、ということを思い浮かべるであろう」<5>
 この自然に貯蓄される部分とは、彼らがそれによって窮乏する事なく貯蓄される部分という意味であり、その部分こそ製造業部門によって生み出された剰余部分に他ならない。スミスがこうした確信をもつにいたるのは、彼が製造業部門の生産力の発展に強い信頼をおいているからに他ならない。
 「有用労働の生産諸力の改善は、第一に、職人の能力の改善に依存し、また第二に、職人がそれを用いて仕事をする機械類の改善に依存する。ところが、農業者やいなかの労働に比べれば、工匠や製造業者のそれはいっそう細分化しうるし、またおのおのの職人の労働はいっそう多くの単純な作業に還元しうるものであるから、この労働にはこの両種の改善をはるかに高度に加えることもできる。それゆえ、この点において、耕作者の階級は工匠や製造業者のそれに対し、どのような種類の長所をももつことができないのである」<6>
 すなわち、スミスが『諸国民の富』の冒頭で述べた分業の生産力発展に対する積極的に働くことに対する主張がここでも繰り返され、それが農業部門より製造業部門に対してより強く働くことが指摘されている。
 以上のような重商主義と重農主義の富の概念の批判を通して、スミスの富についての考え方がはっきりとわかってくる。まず、何よりも富は経済の流通部面においてではなく生産部面において生み出されてくるものであり、しかもそれは農業といった特定の部門ではなく産業全体について剰余を生み出す可能性を前提にしているものである。スミスは、『諸国民の富』の中でほとんど決まり文句のように「実質的富、すなわち土地および労働の年々の生産物」という主張を繰り返している。ここには、スミスの富を生産部面でとらえるという立場が表れていると同時に、それをフローとしてとらえる立場、そしてまたそれを社会的な付加価値の総計としてとらえる立場に表明されているのである。富をフローとしてとらえているという点は、あきらかに生産部面を富の源泉をとらえるという立場と不可分の関係にあるものであり、またそれは『諸国民の富』の編者として有名なE.キャナンの強調するところでもある。それは、スミスがこの文章で「年々の」としているところにはっきりと表れている。もう一つの富が社会的な付加価値の総計であるというのは、それぞれの生産部門で生産額からその生産に要した生産財にかけられた総費用を差し引いた部分を付加価値として、そのすべての部門の総計をスミスはここで生産物と呼んでいるのである。
 スミスのこの立場は、キャナンが指摘するような一部の例を除いて、ほとんど首尾一貫している。そして、スミスはすべての生産物の価値額が利潤、賃金そして地代というものに分かれると考えていた。それは、彼が社会の技術的再生産構造を、結局ある財を生産するのにその財自身が必要になるような再帰的なものではなく、そういう自体のいっさいおきない完全に単線的な投入構造を想定していたことによるが、経済を巨視的にとらえる上でのその有効性は結局ケインズによって支持された。したがって、現代的用語でいえば、スミスが富と定義していたものは国民所得に他ならないのであり、それはときにスミスが「全住民の、実質的富、つまりかれら全部の実質的週収入または年収入」<7>といっていることに一致している。
2 利潤と資本
 このように、スミスの富概念はすべての部門で生成される付加価値部分、所得部分の総計に他ならないのであるが、これまでの議論から明らかなようにそれには重大な前提がある。すなわちその付加価値部分には生産に直接たずさわる人々の生活の意義のために必要な所得部分だけではなく、「自然な貯蓄」が可能な剰余部分が存在しなければならないのである。そしてその部分こそ重農主義的なものとは違うもっともスミス的なものを表わしているのであり、しかもそれは重農主義が富を「剰余」として考えていたことと比較すれば、社会的剰余としてのスミスの富に対応するのである。そして、この剰余部分とは、労働の所得が費用として考えられるので、スミスの利潤に対応している<8>。すなわち、スミスが規定した富概念はこの利潤部分も含む一国民の全収入に他ならないが、その概念を本質的に特徴づけているのはこの利潤部分に他ならないということである。
 スミスが対象としていた経済において、この利潤が特別に重要な役割を果たしていること彼は発見していた。この経済では利潤が獲られることが期待されて初めて資財が生産に投じられる。
 「資財(Stock)が特定の人々の手に蓄積されるや否や、彼らの中のあるものは、勤勉な人々を就業させるために自然にそれを使用し、彼らの所産を得ることによって、あるいは、彼らの労働が原料の価値に付加するものによって利潤をあげるために、彼らに原料や生活資料を供給するようになる。その完成品を貨幣・労働またはそのほかの財産のいずれかと交換する場合には、こういう冒険に自分の資財をあえて投じるこの事業の企業家にも、その利潤として、原料の価値や職人の賃金を支払うにたりるものをこえるなにものかがあたえられなければならない」<9>
 すなわち、利潤とは生産における決定的目的因なのであり、したがってそれはこの経済の全運動を動機づけているのである。それは、まったく富であるべきものだった。スミスはこの目的因としての利潤を徹底的に擁護する。利潤とは基本的に個々の工程、企業においてとらえられるものであり、したがって、その単位における生産の目的としてまず現れる。その段階における利潤とは社会的な富ではなく、個別的な富に対応するものである。利潤の追求は確かにその資財の所有者に富をもたらすかも知れない。しかし、社会全体にとってどうだろうか。すなわち、個々の利己的な動機にもとづく利潤の追求が社会全体にとって、スミス自身の定義による富の増大という一つの目的を実現するのであろうか。この問題について、スミスは確信をもって両者の間の完全な整合性を主張する。
 「産業の生産物とは、それが使用する対象すなわち原料に付加するものをいう。この生産物の価値の大小に比例して、雇主の利潤もまた同様にそうなるであろう。ところで、ある人が産業の支持に資本を使用するのは、ただ利潤のためだけにそうするのであり、したがって彼は、生産物が最大の価値をもちそうな、すなわち、それが貨幣またはそのほかの財貨のいずれかの最大量と交換されそうな産業の支持に、それを使用しようとつねに努力するのである。ところが、あらゆる社会の年々の収入は、つねにその産業の年々の全生産物の交換価値と精確に等しい、否むしろこの交換価値と精確に同一なのである。それゆえ、あらゆる個人は、自分の資本を国内産業の支持に使用すること、したがってまた、その生産物が最大限に多くの価値をもちうるようにこの産業を方向づけること、この双方のためにできるだけ努力するのであるから、あらゆる個人は、必然的に、この社会の年々の生産物をできるだけ多くしようと骨折ることになるのである」<10>
 すなわち個々の企業家が自分の富すなわち利潤を最大化しようとすることは、同時に社会全体の生産物、すなわちスミスの富をも最大化することになるということである。そして、この点についてスミスは、まさにそれと同じ個所で「見えない手(an invisible hand)に導かれ、自分が全然意図してもみなかったような目的を促進することになる」という、よく知られた指摘をしているのである。
 このように、スミスにとって利潤とは、個別的な意味でも社会全体としても経済の活動を動機づけているものとして決定的に重要なものとして認識されていたのである。しかも、この利潤が他の収入部分、特に労働者の収入とはまったく違った性質をもったものであると考えていた。スミスの次の指摘に注目しなければならない。
 「利潤は、労働の賃金とはまったく異なるものであり、それとは全然異なる諸原理によって規定されているのであって、監督し指揮するというこの想像上の労働の量や辛苦または創意となんの比例を持たないのである。利潤は、使用される資財の価値によって全部的に規定され、この資財の大きさに比例して大ともなり小ともなりうるのである」<11>
 スミスの対象としていた経済の段階において、かれの言う賃金も利潤も生産物に対する購買力の分配項目であり結局は個人の手にわたるものである。しかし、その分配量を規定するのは両者においてまったく違っているとスミスは考えるのである。というのは、賃金はまさにその分配される個人による労働の提供という生産に対する貢献に応じて支払われるものとして規定されている。ところが、利潤の方はその資財の貢献の度合に規定されていて、直接それが分配される個人とは結びついていないのである。では、なぜそれが結局はある特定の個人にそれが分配されていくのか、それはその個人が資財の所有者であるからに他ならない。労働する個人は、その総収入の分配において直接的な権利者としてたち現れる。これに対して、利潤は、人格がその分配において一度所有というものに媒介されなければならず、直接的にその量を規定しているのは資財の有する交換価値の量に他ならないのである。もし、資財が労働者自身のものであれば、そのこと自体には、すなわち社会的条件を考慮しなければ特別に利潤という分配項目が現れる理由はまったく存在しないのである。
 この点で、スミスが資財(Stock)をそうした利潤をもたらすものとして考えたときに、資本(Capital)という別な呼び方をしていることが注意されなければならない。
 「人が、自分を数カ月または数カ年の間扶養するにたる資財を所有する場合には、かれは、その大部分から収入を引き出そうと自然に努力し、自分の直接の消費のためには、この収入が入るようになるまで自分を扶養するだけのものを留保しておくのである。それゆえかれの全資財は、二つの部分に区別される。すなわち、かれが自分に収入をもたらしてくれるものと期待する部分は、かれの資本と呼ばれる。他の部分は、かれの直接の消費を充足する」<12>
 スミスにとってここでの収入とは、利潤をさすものに他ならない。このあとでかれは、この資本が流動資本と固定資本に分かれ、それぞれが利潤を引き出すものであることを前提にしているからである。われわれにとって、利潤の獲得を目的とせずに蓄積された資財はさしあたって検討の対象とならない。したがって、これまでスミスに倣って資財としてとらえていた部分を以下では、まさにそれが利潤の獲得を前提に生産過程に投下されている限り資本と呼ぶことにする。この資本が利潤を規定する一次的な要素であるということは、まさにこの資本によってスミスが対象とした経済は特徴づけられているのであり、それゆえ、われわれはこうした経済を資本制経済と呼ぶことにする。
 この資本制経済を規定している、資本あるいは利潤といったものをより注意深く検討しよう。資本とは生産財とその生産のための労働者の生活資料としての資財につけられた特別の名称である。いかなる意味で特別なのか、それはその資財に対して労働者に対するものとは異なった利潤という分配の規定が与えられるからである。そしてまた、その要因となるものが社会的な規模においてその資財を労働者自身が所有していない事実によるものである。また、そうして資本に対して支払われる収入に利潤という分配の規定がされるのに対応した形で、労働者には賃金、その労働に対する報酬という形での分配の規定がされることも明かであろう。資本、あるいは利潤、賃金といった概念がこの生産資財の特殊な所有関係、すなわち直接的生産者がその生産資財の所有から排除されていることに対する結果、すなわち一つの歴史的現象であることを最も強調したのはマルクスである。
 「資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときに初めて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである」<13>
 「資本と賃労働(われわれがこう呼ぶのは自分の労働能力を売る労働者の労働のことである)とは、ただ同じ関係の二つの要因を表わしているだけである。貨幣は、労働者自身によって売られる商品としての労働能力と交換されることなしには、資本になることができない。他方、労働が賃労働として現われることができるのは、ただ、労働者自身の対象的な諸条件が労働に対して労働に対して独力な力として、他人の所有物として、自己を主張し自己を固持する価値として、要するに資本として、相対するときだけのことである」<14>
 このように資本と賃労働という関係が一つの歴史的段階において初めて支配的な生産に関する関係として現われることを明らかにしたことはマルクスに固有の業績であることを認めなければならない。こうした見地は、したがってまた資本制の経済関係が一つの歴史的なものでありしたがってまたそれが人類史において変わらない経済の様式であるとは、必ずしも言えないことを意味している。
 労働が賃労働という様式で行なわれるのは、「労働者の対象的諸条件」すなわち生産手段が他人の所有物となっているからに他ならない。それゆえ、社会的な再生産過程を全体としてみれば、労働の諸条件を失っている労働者は自らの生活条件を得るために労働力を資本家に売らざるを得なくなる。そしてまた、当然その対価として支払われる賃金はかれの労働能力を再生産する水準から大きく違っていてはならない。余りにも大きければ再びかれの労働力を売りに出すことがなくなるだろうからであり、そのときは資本が資本として機能できなくなるからである。かれが賃金と引き換えに手放した労働能力は、それからは資本の支配するところとなる。したがって、あくまでこの資本制経済を主体的に動機づけているのは労働者ではなく、資本である。マルクスは資本家とは「人格化され、意志と意識をあたえられた資本」<15>にすぎないという主張を『資本論』のさまざまな個所で繰り返している。それは、かれの「経済の社会構成の発展を一つの自然史的過程として考える」という、かれの分析の立場を表明するものであると同時に、それはまた資本という非人格的物的条件が経済において主導的役割を果たすこの資本制の本質的側面を鮮明にするものでもある。それゆえ、この資本制の運動がもたらす結果、この体制の本質的性格から必然的にもたらされる結果がどのようなものであれそれは労働者の責任ではなく、生産諸手段を資本たらしめている経済のあり方、すなわち生産手段の所有関係の問題である。
3 双対動機としての利潤と成長
 スミスにそくしてこの資本の一つの運動法則を検討しよう。すでに述べたようにかれは自由競争のもとで資本が最大の利潤率を実現する投下部門を求めて運動すると考えていた。しかし、結果的にはこうした資本の運動が利潤率を低下させていくことを『諸国民の富』の中で繰り返し指摘している。
 「資財の増加は、賃金を引き上げるけれども、利潤を引き下げる傾向がある。多くの富んだ商人の資財が同一事業にふりむけられている場合には、彼ら相互の競争は自然にその利潤を引き下げる傾向をもち、また同一社会で営まれるあらゆるさまざまの事業の資財が同じように増加する場合には、同一の競争がすべての事業で同一の効果を生じるに違いないのである」<16>
 「ヘンリ八世の時代以来、この国(イングランド)の富および収入は間断なく増進し、その推移の過程において、増進の歩調は次第の減速したというよりも、むしろ加速したと思われる。・・・・同一期間に、労働の賃金も間断なく増加し、そして商業および製造業のさまざまの部門の大部分における資財の利潤は減少していたのである」<17>
 こうした利潤率の減少は、結局ある最低の水準に向かうと指摘している。
 「その地味や気候の性質、ならびに他の国々に対するその位置がゆるすかぎりで、富の全量をあますところなく獲得した国、したがってまた、これ以上前進も後退もできない国では、労働の賃金も資本の利潤もきわめて低いであろう」<18>
 「富の全量をあますところなく獲得してしまい、また事業のあらゆる特定の部門で使用しうる最多量の資財があるような国では、純利潤の通常の率は非常に低いものであるから、それから与えられる利子の日常的な市場率もはるかに低く、はるか最大の富者でないかぎり、自分たちの貨幣の利子で生活することは不可能になるであろう」<19>
 スミスが指摘した利潤率の低下の要因は、基本的には、これらの文章にもあらわれているように、市場の原理がはたらくことによるものである。すなわち、スミスの言う富の増大の原因でもあり結果でもある、資本の増加によって、生産物が過剰に供給される傾向を生み出すことによって生産物の価格を引き下げる一方、賃金などの要素価格を増大させることによって利潤率が下がっていく。したがって、それはより利潤率の高い部門に資本が集中することも意味しているのである。したがって、そこでスミスの主張が意味しているのは、最大利潤率が全体に対して規定的な役割を果たし、それが与えられた条件のもとでは最低の水準に向かうということにほかならない<20>。この点をわれわれのモデルで表現すると次のようになる。すなわち、工業部門で成立している利潤率と、農業部門で成立している利潤率のうち、より高い方の利潤率をrとすると、
         p11+p12b≦(1+r)(p11a1+wl1)
           p2≦(1+r)(p11a2+wl2)
        w=p12d1+p2d2
が成立する。ここで、p11、p12およびp2は、それぞれ、生産財、加工消費財そして穀物の貨幣価値を表わしている。wは貨幣賃金率で、古典派についての議論であるから、再生産費賃金理論で定式化しているのがそのこの第三式である<21>。スミスに厳密にそくするというのであれば、これらの価値尺度は支配労働でなければならない。しかし、それは単にすべての価格をこの貨幣賃金率で割ることによって実現されるものであるから、ここでは一般的に貨幣を価値尺度としている。この体系において、諸価格がすべて非負で、すべてがゼロでないという当然の前提のもとで、この利潤率が、スミス的な原則にもとづいて、最低の水準に向かうとしよう。当然そのときこの利潤率の低下の運動がどこまで進行するのかという問題がある。これについてスミスは、それ以上低下することのできないある限界が存在していて、そのときでも利潤率が正であると指摘する。
 「最低利潤率は、使用されるあらゆる資財がこうむる随時的なもろもろの損失をつぐなうにたりるものよりも、つねににいく分か大きなものでなければならない。正味の利潤または純利潤というのは、この剰余だけである」<22>
 こうして、低下が行き着いた先でも利潤率が正であるというのは上の利潤率を定義している式の体系でも成立するであろうか。すなわち、それらの体系とすべての価格が非負ですべてがゼロでないという条件のもとで、利潤率rを最少化したときにそれでも正でありうるのかという問題がある。もしそれがゼロであるならば、スミスが考えていたすべての部門における剰余の存在とこの利潤率の低下法則がただちに両立するとは言えなくなる。この問題は、利潤の存在条件を問う問題であり、マルクスによって経済学におけるもっとも主要な問題としてとらえられたものである。われわれは、他の富と価値の体系における剰余の存在条件との関連の中でこの問題に対する解を与えるだろう。
 いま、この最低利潤率が正であるならば、そのとき同時にその利潤率を実現する均衡価格が与えられたことになる。容易にわかるように、その均衡価格体系において貨幣賃金率がゼロになることはないので<23>、この均衡の貨幣賃金率ですべての価格を割ることによってスミスの支配労働価値体系が与えられる。すなわちそれは、われわれが重農主義体系のときに指摘したように、剰余を表現する価値体系に他ならない。したがって、その双対的関係にある剰余を物量的体系で示すこと、すなわちそれはスミスのではなくわれわれの意味での富の概念、資本制における富の概念を示すことが次の問題になる。しかし、この物量的体系において資本制の富の概念を示すことはただちに一つの決定的な困難にぶつかる。というのは、重農主義体系の場合は、剰余が農業部門の生産物によって表現されたのでそれは物量体系においても農業の剰余生産物の量として示せたが、その剰余を表現する特定の財は存在しないからである。剰余生産物は一つの財ベクトルとしてしか示せないのである。すなわち、製造業部門と農業部門のある稼働水準(x1、x2)が与えられたときに、われわれの場合の剰余生産物は、
    生産財 x1−(a1x1+a2x2)、
加工消費財      bx1−d1(l1x1+l2x2)、
    穀物         x2−d2(l1x1+l2x2)
ということになる。こうした、剰余生産物ベクトルを資本制におけるわれわれの意味での富概念とするのは問題がある。なぜなら、富とは経済の運動を規定する目的因であり、一般的にその変化が一意に評価されなければならないからである。重農主義体系における富の場合は、それがはじめから一次限的数量として指標化されていた。しかしここで得たのはそうした指標化されたものではまったくない。たとえば、加工消費財剰余は増大したが穀物の剰余は減少したとき、別の基準を追加しない限り富が増大したかどうかは判定できない。しかし、ここで簡単にあきらめる必要はない。指標としての富という場合、われわれに必要なのは、富の絶対的水準ではないということである。必要なのは、異なった時点における富の水準が、増大しているとか減少しているとかの比較の可能性である。次のことは少なくとも解るだろう。すなわち、異なる時点間で、すべての生産物の生産量が、ある率g(>0)以上で成長したとすれば、その期間に資本制における富はその率g以上で増大したとはいえるであろう。われわれのモデルでこの点を叙述すると、いまt−1期の生産活動によってt期の期首にストックとして存在する生産財の量をxt1、同じく穀物の量をxt2としよう。さしあたっては簡単化のために、資本家の消費がないものとする。このとき、それによって可能となるt期中のそれぞれの生産量をxt+11、xt+12とすると、賃金前払いのもとでは次のような条件が成立する。
    xt1≧a1xt+11+a2xt+12
        bxt1≧d1(l1xt+11+l2xt+12)
        xt2≧d2(l1xt+11+l2xt+12)
この期間中の生産財としての生産財の成長率と、穀物の成長率のうち小さい方をgとすると、上の式から次の諸式も成立することが容易に解る。
     x1≧(1+g)(a1x1+a2x2)
      bx1≧(1+g)d1(l1x1+l2x2)
      x2≧(1+g)d2(l1x1+l2x2)
ただしここでは、tというサフィックスを不用なので落としている。それの生産物の生産量が負ではなく、ともにゼロでもないとき、成長率gが正のものでありえるならば、規範的な意味でその期間に富は成長したことになる。「規範的な」という意味は、与えられた技術と、実質賃金率のもとで、経済はこの両部門のある与えられた稼働水準のもとで少なくともgだけの成長の可能性を有しているということである。ただし、これだけではどの点にgが決まるかが与えられない。そこで、いまここでは産出の構成(x1,x2)がt期の水準に固定されていたが、この制約を取り払って、一般的に上の条件のもとで可能な最大成長率を考えることができる。これによって、一つの物量体系からの富の増大の指標を与えることができる。そして、このときこの最大成長率は、さきに定義した最小利潤率と等しいことが次のように示されるのである。いま、最小利潤率をrについて、β=1+rとして、次のような最大化問題を考える。
max. p12d1+p2d2
s.t.
         p11+p12b≦β(p11a1+l1)
           p2≦β(p11a2+l2)
p11,p12,p2≧0
この解が、p12d1+p2d2=1となるものであることは次のようにしてわかる。まず、先にも述べたように最小利潤率を与える問題は、貨幣賃金率は正となるので、上の線形計画問題のすべての制約条件式とp12d1+p2d2=1という制約のもとで、βを最小にするのとまったく同値な問題である。そして、このときの最小利潤率はβ−1である。したがって、上の線形計画問題において、p12d1+p2d2=1となる実行可能解が存在することはすでにわかっているが、さらに、p12d1+p2d2>1となるようなものが存在するならば、最小利潤率を与える問題においてさらに小さい利潤率が存在することになってしまう。というのは、このときω=p12d1+p2d2(>1)とおくと、このωを新たな貨幣賃金率と考えると、
p11a1+ωl1>p11a1+l1
p11a2+ωl2>p11a2+l2
となるから、最小利潤率によるβよりも少し小さいβ'がそんざいして、
         p11+p12b≦β'(p11a1+ωl1)
           p2≦β'(p11a2+ωl2)
            ω=p12d1+p2d2
とすることができて、βが最小利潤率によって与えられているという想定に矛盾するからである。したがって、この線形計画問題の解においては、必ずp12d1+p2d2=1とならなければならないのである。この線形計画問題の意味は、与えられた利潤率のもとで、実質賃金率を最大にするという問題となっている。なぜなら、貨幣賃金率は1と固定されているのに対して、その1単位の貨幣賃金率で購入できる消費財バスケットの単位数がp12d1+p2d2の逆数となるからである。これに対してもとの最小利潤率を与える問題は、逆に与えられた実質賃金率のもとで利潤率を最小にする問題となっているのである。したがって、この二つの問題が基本的に同じ均衡にいたる理由は容易に理解できるであろう。
 そこで、この線形計画問題と双対的な関係にある問題を構成することにしよう。それは、次のようになる。
min. β(l1x1+l2x2)
s.t.
     x1≧β(a1x1+a2x2)
      bx1≧d1
      x2≧d2
x1,x2≧0
 そこで、双対定理によって、この解は一致する、すなわち、β(l1x1+l2x2)=p12d1+p2d2=1となる。すなわちこの問題の解において、
     x1≧β(a1x1+a2x2)
       bx1≧βd1(l1x1+l2x2)
        x2≧βd2(l1x1+l2x2)
が成立しているのである。そこで、、先の最大成長率を実現する問題における解を、x'1,x'2,g'として、1+g'=β'とおこう。すなわち、
     x'1≧β'(a1x'1+a2x'2)
      bx'1≧β'd1(l1x'1+l2x'2)
      x'2≧β'd2(l1x'1+l2x'2)
をみたしながらβ'は最大化されている。上の線形計画問題の方の解は、この成長率最大化問題の実行可能解でもあることになるから、必ずβ'≧βでなければならない。またさらに、β'>βであったとしよう。そして、α=β/β'とするとα<1である。また成長率最大化問題は規模が決まっていないので、
α=β(l1x'1+l2x'2)
となるように、正規化できる。これを上の第2,3式に代入すると、
      bx'1≧d1
             x'2≧d2
をえる。また第一式とβ'>βより、
     x'1≧β(a1x'1+a2x'2)
が成立する。したがって、これら3つの条件式と、β(l1x'1+l2x'2)<1であることを考慮すると、線形計画の最小解が目的関数を1にしていることと明らかに矛盾する。したがって、β'=βでなければならないのである。このことを総合すると、最小利潤率と最大成長率は一致する。すなわち、r=gである<24>。
 したがって、この資本制経済における富としての社会的剰余は、こうした経済の最大の成長を可能にするものであると考えられる。そのことがもし目的因としてあるならば、それは何よりも経済の最大の成長を可能にすることであると考えられるのである。しかし、この経済の最大成長を意識的に追求する追求する主体的要因は何かと考えると、直接的なものとしては見あたらない。あくまでも、資本制経済の能動的な運動要因は資本であり、その資本は個別的に利潤を追求しているだけである。ここに、資本制経済の不可解な双対的関係が現われている。より多くの利潤を追求することは、より多くの貯蓄の可能性を生み出すことである。したがって、それはまた生産拡大の可能性を増大させるものであることは明らかだがそこに必ずしも完全な連続性をもたらさないかも知れない。しかし、古典派経済学は長期的な意味でこの利潤追求という資本の動機とわれわれの意味での富の増大という目的は一致すると考えていた。それはセイ法則と言われるものによって表明されている。
 スミス的な富の概念は、今日的な用語でいえば国民所得である。かれは、「見えざる手」というきわめて巧妙な概念装置を使って、利潤追求はこの国民所得の増大を必然的に引き起こすと主張した。そして、スミス自身はこの国民所得の増大はまた経済の拡大再生産の進展でもあることを前提にしていたと考えられるので、われわれの富の定義とかれの意図していたところになんらの不整合もない。また、今日の資本制経済において、利潤追求と同時に、経済の成長は社会的目的と意識されていることに注目しなければならない。もちろん、経済の成長を目指す直接的能動的主体は存在しないのであるが、結局われわれの示した資本制における社会的剰余をめぐる双対的関係が社会的意識において認識されているのである。経済の成長を検討することは資本制経済の基本的特性を検討するという意味をもつのであり、この点の詳細な検討は次章で行なうことにする。
脚注
<1>スミス(1776)、、p.47。
<2>同、p.19。
<3>同、p.26。
<4>同、p.480。
<5>同、p.483。この文章を理解する上で、スミスにとって生産あるいは生産物とは常に社会的な純生産部分、あるいはその価値評価額としての付加価値部分をさしていることについての注意が必要である。この点はあとでまた詳しく述べる。
<6>同、p.484。
<7>同、、p.259。
<8>本来、これに地代を加えなければならないのだが、以下われわれは簡単化のためにその部分を省略する。
<9>同、、p.187。
<10>同、、p.55。
<11>同、、p.187。
<12>同、、p.235。
<13>マルクス(1867)、p.223。
<14>マルクス(1863)、p.57。
<15>マルクス(1867)、p.200。
<16>スミス(1776)、、p.266。
<17>同、p.271。
<18>同、、p.281。
<19>同、p.285。
<20>もちろんこうした利潤率の低下の運動が問題なく進行するためには十分な貯蓄が供給されることが必要である。
<21>再生産費賃金理論については第3章で詳述する。
<22>同、、p.284。
<23>第1章7節を参照せよ。
<24>最大成長率と最小利潤率の一致を示すのに、線形計画の双対定理を利用する方法は、Fujimoto(1975)に依拠している。

第6節 富としての自由な時間
1 「真の富」概念の展開
 重農主義的富概念と資本制経済の現実的な目的因たるスミス的な富概念は一つの決定的な性質を共有している。それは、いずれにおいても富を社会的な剰余生産物としてとらえていることである。これに対して、富を非労働時間としての自由な時間とする経済学説が存在している。この学説は、1821年にチャールズ・ウエントワース・ディルクによって書かれたパンフレット『政治経済学の原理から演繹された国民的諸困難の原因および救済』<1>において示されている。
 「人々が以前には12時間労働していたのに(生産力の発展にともなって)今度は6時間労働をすることになるであろうし、そして、これが国民の富であり、これ
が国民の繁栄なのだ、ということであろう。・・・・富とは自由休養を求め
る自由生活を享楽する自由精神を向上させる自由であり、富とは自
由に利用できる時間であって、それ以外の何物でもない」<2>
 この指摘の中に、自らの体系との密接な関係を読みとって、深い検討を加えたのはマルクスである。かれは、この著者の理論には、剰余価値したがってまた利潤を剰余労働としてとらえている点で、「リカードを越える本質的な一進歩を含んでいる」と指摘し次のように述べている。
 「万人が労働しなければならず、過度の労働させるものと無為に過ごすものとの
対立がなくなるならばそして、これは、いずれにせよ、資本が存在しなくな
るということの生産物がもはや他人の剰余労働に対する請求権を与えなくなるとい
うことの、帰結であろう、そしてさらに、資本が生み出した生産力の発展を
考慮にいれるならば、社会は、必要なものの豊富さを、いま12時間で生産している以上に6時間で生産するであろうし、同時に、万人が6時間の「自由に利用できる時間」を、真の富を、もつであろう。この時間は、直接に生産的労働によって吸収されないで、享楽に、余暇に、当てられ、したがって自由な活動と発展とに余地を与える。時間は、諸能力などの発展のための余地である」<3>
 マルクスは、この「富とは自由に利用できる時間でありそれ以外の何物でもない」という指摘を、何回か引用し「あの見事な文句」といっているように、それを大きな意味があると考えていたことは間違いない。また、『剰余価値学説史』はもともと『資本論』第一巻の刊行に直接先立つ草稿の一部分であるが、この草稿の他の部分でも、あるいはさらにそれに先立つ『経済学批判要綱』でも、マルクスはこの富に関する文章を繰り返し引用し、その内容を彼なりに展開しているのである。たとえば、次の個所である。
 「植物大地によって、動物が植物または草食動物によって生きていくのと同様に、社会のうち、自由な時間をもつ、生活手段の直接的生産に吸収されない、思うままに処分できる時間をもつ部分は、労働者の剰余労働によって生きていく。それゆえ、富とは思うままに処分できる時間である」<4>
 ある期間、社会の構成員が一定の生活水準で生存するためにはその期間中の生活資料となるべき諸財貨と次の期間の生産のための生産財が生産されなければならない。そして、そのために供給しなければならない社会的総労働のある一定量が与えられるだろう。この総労働量が誰によってどのような水準で担われなければならないかは、歴史上のあらゆる時代が解決を要求された根本的問題であった。そして、それはそれぞれの社会的な生産力水準に規定されながら、いくつかの基本的な方法で解決されてきた。資本制経済もその一つの解決方法を提供している。労働者が賃労者であり、基本的にはかれらによって社会的総労働が担われ、かれら自身にとって必要な資財だけでなく、それよりも厳密に多い社会が持続する上で必要なすべての資財が生産されているのである。もちろんそれは、かの生産手段の所有者が直接労働にたずさわらなくてもいいように、十分な生産物なのである。すなわち、この資本制経済においては、労働と資本の関係がまた労働と非労働、すなわち自由時間との関係にもなっているのである。そしてそこでは、労働者がかれら自身の必要を満たすためにしなければならない労働時間が平均して一人の労働者当り6時間でよいのにもかかわらず、労働しない部分のために追加的に6時間の労働をしなければならないという先の引用の状況が生み出されているのである。この追加的労働時間部分こそマルクスが剰余労働と定義しているところのものである。
 そしてマルクスはこの自由な時間こそ、人間がその能力を発展させることのできる、本質的な時間であると考えていた。
 「この剰余生産物は同時に時間を自由にして、これらの階級に、そのほかの能力の発展のための、思うままに処分できる時間を与える。一方の側での剰余労働時間の生産は、この様に、同時に他方の側での自由な時間の生産である。人間の自然的な生存のために直接必要な発展を越えるものである限りの人間的発展の全体が、この自由な時間の利用にほかならないのであり、この時間をその欠くべからざる土台として前提にするのである。社会の自由な時間はこのように不自由な時間、つまり自分自身の生存に必要な時間を越えて延長された労働者の労働時間、この時間の生産によって生産されている。一方の側での自由な時間が他方の側での隷属化された時間に対応するものである」<5>
 ここでマルクスは人間の発展を二つにわけている。一つは「生存のために直接必要な発展」ともう一つはそれを「こえるものである限りの人間的発展全体」である。前者は労働者がその生産力の発展段階に応じた直接生産者として必要な能力の発展と考えていたのに対して、後者についてマルクスは自由な時間が「社会の全発展の、また文化一般の物質的土台である」<6>と述べているように人間にとって本質的な発展とみていたことは間違いない。そして、次の文章に注目しよう。
 「真実の経済節約は労働時間の節約にある。・・・・だが、この節約
生産力の発展と同じである。したがって、享受を禁ずることでは決してなく、生産のための力、能力、したがってまた享受の能力とともに、その手段を発展させることである。享受の能力は享受にとっての条件であり、したがって享受の第1手段であって、この能力は個人の素質の発展、生産力である。労働時間の節約は自由時間の、つまり個人の完全な発展のための時間の増大に等しく、またこの時間はそれ自身ふたたび最大の生産力として、労働の生産力に反作用をおよぼす。・・・・それ
どころか直接労働時間それ自体が自由時間ブルジョア経済の立場からそう見
るようなとの抽象的対立のうちにとどまりえないということは明白である」
<7>
 ここには自由な時間の創出の本質的意義がはっきりと示されている。そしてまず「真実の経済」である「労働時間の節約」それ自体が生産力の発展を意味していると指摘されている。またそのもとで、労働時間と自由な時間の間の相互依存的で発展的な関係を生み出すことを示している。労働時間の節約が享受の能力と手段を発展させることは、芸術、学問などの多様な能力の発展と人間的欲求の発展をも意味している。そしてまたそれが労働の生産力にも反作用を及ぼすということである。ここでは、労働時間と自由な時間との対立という立場が資本制的なものであることが指摘されているように、労働時間の節約が目的とされているような共同体的な生産が想定されていることは明かであろう。また、この「真実の経済」としての「労働時間の節約」が共同体的生産、すなわち生産手段の私的所有が廃止され、労働する階級としない階級の対立が存在せず、生産が合理的に編成されている社会的生産、のもとでは、ますます高度に発展することが次のように主張されている。
 「共同体的生産が前提されている場合でも、時間規定はもちろん相変わらず本質的なものであり続ける。社会が小麦や家畜などを生産するために必要とする時間が少なければ少ないほど、社会はますます大きな時間をその他の生産、物質的または精神的な生産のために獲得する。個々の個人の場合と同じく、社会の発展の、社会の享受の、社会の活動の全面性は、時間の節約[Zeitersparung]にかかっている。時間の節約[Oeconomie der Zeit]全ての節約は結局のところそこに帰着する。社会が自己の諸必要全体に即応する生産を達成するためには、その時間を合目的的に分割しなければならないのは、個々人が、適切なわりふりでもろもろの知識を得たり、あるいは彼の活動に対するさまざまの要請に満足を与えたりするために、彼の時間を正しく分割しなければならないのと同様である。したがって時間の節約は、生産の様々な部門への労働時間の計画的配分と同様に、共同体的生産の基礎の上でも相変わらず第一の経済法則であり続ける。それどころか、共同体的生産の基礎の上で、それが法則となる程度は、はるかに高くなるのである」<8>
2 剰余時間の定式化
 この共同体的生産における労働時間の節約とそのほかの経済体系におけるそれとの違いについては、また別に詳しく検討しなければならない。ただ、はっきりしているのは、マルクスのいうように共同体的生産のもとでは、こうした時間配分の合目的性は完全に実現する可能性をもっていることである。ここでは、こうしたマルクスのいう社会的な労働時間の節約、したがって富としての自由な時間の創出がわれわれのモデルにおいてどのように定式化されるのかを考えてみよう。いま、いままで考えてきたのと同じ生産期間を考えて、その期間に何人かの人間集団で構成されている1単位の成人集団がかれらの生活にとって必要な財貨のバスケットを考える。これまでの体系との比較可能性を残す意味で、それは生活資料だけではなく、子供の養育費などいっさいの費用を含んでいる、われわれがこれまで考えてきた労働者の再生産費実質賃金と同じような意味をもっているものであると想定しよう。したがってまた、これまでのモデルとの関連性をつけるために、この一単位の成人集団とは、資本制のもとではこの生産期間中にこれまでと同じ単位での一単位の労働時間を標準的に提供できた成人集団であると考えよう。資本制のもとでは、この一単位の成人はこの生産期間中に標準的にはこれまでの一単位の労働を提供することが可能とされていたのである。したがって、そのときに必要な財のバスケットは、完全に実質賃金バスケットの構成、すなわち(d1、d2)と同じになっている。ただし、この一単位の諸個人が賃金労働者であるかそうでないかは何にも規定していないのである。ただそれは、この一まとまりの諸個人が生産期間中にかれらにとって必要な財貨のバスケットなのである。いままさに、マルクスの「真実の経済」が貫徹しているとして、このバスケットを生産するのに最小限必要な労働時間を考えよう。それはわれわれのこれまでの想定のもとで次のように定式化される。
   min. l1x1+l2x2
       s.t.
            x1≧a1x1+a2x2
     bx1≧d1
   x2≧d2
  x1、x2≧0
したがって、この一単位の諸個人はかれらの必要を満たすためにこの解としての与えられるl1x1+l2x2単位の時間だけは誰かが労働を提供しなければならないのである。ところで、もしl1x1+l2x2>1であれば、資本制のもとでこの1単位の諸個人が標準的に提供していた労働時間以上に、かれらの必要資財を得るために労働しなければならない状況となる。あとの節で議論するように、このもとでは前節で議論した利潤が発生し得ないような状況である。したがって、われわれはl1x1+l2x2<1であると想定しよう。これを前提にして共同体的生産のもとでの総必要労働の分配と資本制のもとでの分配を比較しよう。
 共同体的生産のもとではそのすべての個人が労働することになるであろうからその一人当りでは割合として資本制のもとでの標準的労働の提供時間のl1x1+l2x2の割合だけ働けばよいことになる。すなわち、資本制と比較すると1−(l1x1+l2x2)だけの剰余としての自由な時間、マルクスの「真の富」があらわれてくるのである。一方、資本制のもとでは一単位の諸個人にとっての必要資料を生産するために、それよりも少ないl1x1+l2x2単位の人間だけがすべての労働を担うことになる。マルクスはこのことを想定してこのl1x1+l2x2を必要労働と定義し1−(l1x1+l2x2)を剰余労働と定義しているのである。すなわち、必要労働とはその生産にたずさわる人間自身にとってのみ必要な労働時間であり、結局彼らはその時間を越えて剰余労働を提供することになるのである。そこでは、労働する階級としない階級との対立は、労働者の労働時間の中での対立としても表現されるのである。資本制のもとでは社会的な生産力水準が生み出した自由に処分できる時間である1−(l1x1+l2x2)が特定の階級に集中することになるのである。その必要労働をすべてになった諸個人にとって、すなわち労働する階級にとってかれら自身の生活手段のために労働しなければならないのはその生産期間中の標準的提供可能労働時間を1とするとそれよりも少ない時間のl1x1+l2x2でよいのであるがかれらが生産手段を所有していないために、すなわち自らの労働能力を資本家に売らなければならないという現実のために1−(l1x1+l2x2)だけ余計に働かなければならないことになる。もちろんこの問題では剰余労働部分で生産されるのは資本家の消費財だけのように見えるが、労働者の必要労働が明確に定義されている限りでは剰余労働も明確に定義されているのであり、したがってまたその剰余労働部分で、単に資本家の消費ばかりでなくかれらの資本を増大させるために必要な財貨を考えても、それはこの剰余労働によって担われなければならないのである。あるいは、問題を資本制経済だけに限定するならば、直接にこの(d1、d2)を単位労働に対して支払われる実質賃金バスケットと考えて、かれらのそうした生活手段を得るために必要な労働を定式化していると再解釈した方が分かりやすいだろう。もちろんそのときも、剰余労働は1−(l1x1+l2x2)と同じである。生産手段が私的に所有されることのない共同体のもとでは、この自由に処分できる時間である「真の富」はすべての個人に平等に分配される可能性があるのである。そして、マルクスはこの分配された真の富が人々の能力を発展させることによってさらにその富を増大させていくと考えていたのである。
3 資本制経済における剰余労働の性格
 この必要労働と剰余労働というのは人類史をみる上で重要な概念であることをマルクスは説く。
 「この剰余労働が直接的生産者から、労働者からとり上げられる形態だけが、いろいろな経済的社会構成体を、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から区別するのである」<9>
 労働の生産性が極端に低く、社会構成員の全体に必要な財貨を供給するための労働がすべての労働可能人口によって支えられなければならないような原始的社会においては、こうした剰余労働というのは発生しない。しかし、一定の生産力の発展は、あるまとまった社会的な剰余を生み出すようになる。歴史的にその剰余は構成員の労働時間を減少させることによって解消されてしまうことはなかった。自然的人為的条件によってそうした剰余が生み出されるようになった未開の状況においては、実際その剰余の処分に戸惑っただろう。そうした古代の共同体の中にはさまざまな処分方法が考案されたのに違いない。その中には、その剰余を祭りなどによって浪費したものもあるだろうし、また共同体構成員の労働時間を平等に減少させることによって、その剰余を解消したものも存在するだろう。そして、その処分方法の違いが、その自立した共同体のその後の命運をわけることになる。というのは、その中で、この剰余を構成員の一部を直接的労働から開放し、なんらかの原理に基づいて支配者として認めていくことによって、武装力も保持した国家として成立させていった共同体が生き残っていったのである。そうした初期の段階には、侵略され滅ぼされた共同体の構成員は再び新たな共同体における直接的生産者として、あるいは奴隷としてまた剰余労働を生産することになるのである。その後、この働く者の集団と働かない者の集団が社会的な生産活動における地位によって固定化され、それぞれが一つの階級として存在している社会においては、常に剰余労働は労働しない階級にのみ奉仕するものとして行なわれ、直接的生産者の労働時間の減少によって解消されることはなかった。しかし、資本制の経済とそれ以前の経済においては、この剰余労働の提供のさせられ方は次の二つの点でまったく異なっている。
 第一に、資本制以前における剰余労働のとり上げられ方は目に見える直接的な形で行なわれるのに対して、その賃労働という形態のもとでは市場における労働力の等価な交換という前提のもとで目に見えない形で、影に隠れてしまっているということである。日本の石高制によって組織された近世封建制を考えてみよう。そこで、最大多数の直接的生産者である農民は封建領主階級に米納年貢を収めることで、同時にかれらの生み出した剰余労働を渡していたことになる。しかし、それは近代的な地代の納入といえるものではない。すなわち、封建領主層が農民に貸し出した土地用役の供給に対する対価物としての地代では決してなかったのである。農民は一定の土地の生産者として人格的に拘束、束縛され、それは決してかれの自発的意志に基づくものではなく領主階級の武装力による強制がさせているものに他ならないのである。したがって、またそれは農奴と言われるものにふさわしいような経済的地位だった。これに対して賃金労働者はかれの自発的意志でそれぞれが平等の人格であるという前提のもとに資本家と契約関係を結ぶ。しかも、そのときかれの全人格を売り払うことは許されないことになっている。かれが売ることのできるのは一定の条件づけられた時間の労働する能力である。しかし、結果的に社会全体として、かれ自身の生活資料だけではなくかれが直接的生産者とはいえない資本家階級を扶養しまた、かれらの財産としての、あるいはもっと正確には労働者自身の非所有物であるところの生産諸手段を増大させることになっているのである。したがって、そうした関係の中に剰余労働が収奪される仕組みを見抜くことこそマルクスが解明することを目指した経済学の分野における中心課題だったといえるのである。そして、マルクスは現代の理論経済学からみればかなり強い仮定のもとではあるが、当時の経済学の水準からいえばほぼ完全な形でこの問題を解決することができた。それは古典派的な労働価値体系を適用することによってである。これについては後に詳しく検討することにする。
 第二に、資本制以前の経済においては市場経済、すなわち商品経済が完全に、一般的に発展していなかったことによって社会的な剰余労働の収奪が一つの自然な限界をもっていたのに対して、資本制経済はまさに発達した商品経済の上に形成されるがゆえにそれが最大限度まで追求されるということである。すなわち、市場経済が不十分なもとでは獲得した剰余生産物はその有用性、すなわち使用価値においてその階級自身必要を満たすことが主要な目的となる。
 「使用価値が優勢である状態において、労働時間は、労働者たち自身の生活手段の他に支配者たちに一種の家父長制的富を・ある量の使用価値を・提供するところまでそれが延長されさえする限り、比較的どうでもよいことである。・・・・たとえば、奴隷制や農奴制が商業のほとんど営まれていない諸国民のもとで行なわれている場合には、過度労働は考えられない」<10>
 マルクスは、こうした奴隷制や農奴制でも商品経済が発展している状況では過度労働が可能な限り強制されていくとも指摘しているが、日本の近世はまさにそのような体系であった。すなわち、封建的農奴制のもとで同時に市場経済が全国的規模である程度の発展を見せていたために封建領主層はまさに米納年貢を商品としてとらえ、彼らの必要以上に収奪の対象としての米を求め、商品経済のもとで発展したかれらの欲求を満たそうとしていたのである。したがって、人口の圧倒的多数を占めていた農民は彼らの欲求の犠牲となっていた。そして、同様に資本制経済もこうした過度労働の徹底した追求が行なわれる。
 「資本主義的生産においてはじめて、交換価値が全生産を、また社会の全編成を、支配するのだから、労働に対してその必要の限界をのりこえさせるために資本が加える強制は最大である」<11>
 マルクスがここで述べている「資本が加える強制が最大である」ということを、われわれのモデルに即して記述すると、次のようになる。資本制の場合であるから、先のモデルは1生産期間に標準的に提供される1単位の労働に対して支払われる実質賃金が(d1、d2)であるとして、その実質賃金の必要労働を定式化していると考えよう。ところで、われわれはここで、1生産期間に提供可能ななんらかの意味で標準的な労働時間を1単位の労働時間としているのであるが、これをもし資本が1単位以上提供させることを強制したらどうだろうか。資本にとっては、契約はこの1生産期間に限って、その労働者の労働力を買い取ったのであるから、その期間の労働力に関する使用権は資本にあるのであり、何時間使用させるかは資本が決定できるという理由が成立すると考える。このとき、彼らの実質賃金は変わらないので必要労働が変わらないとすれば当然剰余労働は増大する。これが、この段階でマルクスが考えていた過度労働の内容である。実際、こうしたか度労働は再生産費賃金そのものを上昇させる可能性が強いのであるが、それについての精密な議論はもっと後の章で行なわれるはずである。
 先に共同体的生産のもとでの自由な時間の創出の積極的意義についてマルクスが評価していることはすでに指摘したが、マルクスの主張で注目すべきなのは、こうした資本制のもとでの剰余労働の創出においてもその積極面を見ていることである。
 「社会の大衆に彼らの直接的必要をこえるこの労働を強制するものが資本の強制であるという点からみれば、資本が文化を創造するのであり、資本が一つの歴史的社会的機能を発揮するのである。それと同時に、労働者自身の直接に物質的な諸欲望によって必要とされる時間を越える[労働を行なうような]、社会一般の全般的な勤勉さが創造される」<12>
 「資本は、労働時間を、労働者の自然的必要の充足すべく規定された限度をのり
こえて、推進することによって、社会的労働の社会の全体における労働の−
分割[社会的分業]の増大、生産の多様性の増大、社会的諸欲望の範囲とそれ
らの充足の手段との拡大を推進し、したがってまた人間の生産能力の発展をも、それとともに人間のもろもろの素質の新たな諸方行での実証を推進するのである」<13>
 こうした剰余労働と必要労働の人々への分配のあり方をとらえるという方法は、人類史の一つの重要な側面を明らかにしている。そこでは、経済的な意味での人類の進歩がすべてその社会的な労働生産性の進歩によってとらえられることになる。その労働生産性の増大は必要労働に対する剰余労働の割合の増大としてとらえられるのである。その際、人間労働は常に共同労働としての性格をもっているのであり、その意味で個別的な労働の生産性ではなく全体としての生産性であることを忘れてはならない。スミスはそうした生産性の発展の起動力としての分業を指摘した。分業とは一つの労働の支出過程が、異質ないくつかの過程に分割されることをいう。そしてマルクスはこの分業理論を人間労働の共同性の中に位置づけた。すなわち分業は共同労働の生産力の具体的な内容であり、分業の進展がその増大の指標ととらえたのである。分業は単純に直線的過程がいくつかの部分的線分に分割されるのではなく、分業の対象となる過程どおしが相互に依存したような技術の発展もともなっている。したがって、それは一つの授精卵が細胞分割を繰り返していく過程に類似されうる。一個のの有機体の生成において細胞分裂が行なわれていくと、それによって生成された個々の細胞は細胞膜によって隔てられることによって一定の自立性を獲得する。しかし、それは完全な個体としての自立性ではなく完全に有機体の秩序の中に組み込まれている中での自立性である。そうした秩序づけられた自立性を獲得している一つ一つの細胞がまた分裂していくのである。経済的有機体としての共同体も同じような発展過程をたどる。労働は分割され共同体全体の相互依存関係はより複雑なものとなっていく。しかし、細胞分裂の展開過程が一貫して秩序を保持していくのに対して、共同労働はその直接的形態においては崩壊していく。すなわち、それは生産資財の私的所有が進展していくからである。私的所有権が分割された労働過程のそれぞれに、あるいはそれらの一つのブロック打ち立てられるにしたがって、その過程の所有にもとづく支配権に対する完全な相互承認が行なわれている。有機体の成長において個々の細胞に全体に対して責任おおうべき機能が与えられているように、経済的有機体においても独立した一つ一つの過程がそうした全体に対する個別的な機能を担っている。しかし、私的所有のもとでその独立な機能の指示は外的には与えられなくなりそれぞれの個別的目標において生産が行なわれることになる。われわれが共同労働ということで意図したのは、それぞれの労働が分割されてもそれぞれの依存関係が直接的であること、すなわち統一した意志のもとに秩序づけられていることであり、その意志を分割されているものによって媒介されていないということである。そうした共同性の直接的形態における崩壊によって、それぞれが全体に対する個別的機能のにない手であるという意味での労働の共同性が本質的に失われることではない。ただし共同性は個別的な交換によって媒介されてしまっている。交換というものを通してはじめて共同性が現象し実現されるようになっているのである。この、交換による共同性の発現をとらえる場合、われわれは、情報という側面に注目しよう。すなわち、有機体の成長において個々の細胞の自立性とそれぞれの細胞が全体に対する個別的機能を担うという意味での秩序維持される上でそれぞれの細胞の情報の交換が重要な役割を果たしていることは確かである。すなわち、情報が個別的細胞が一方では自立していながらかつ有機体の全体的機能のにない手であるという二つの側面を統一させているのである。私的所有によって媒介された共同労働という二つの側面を統一させているのは一つの特殊な経済的情報である、価値である。一時的で、偶然的な交換において成立する交換価値はわれわれは問題にしない。われわれが古典派的伝統に依拠して重視するのは、生産過程と深く結びついた価値の体系である。その個別的財貨の価値において共同的情報が現われていると考えるのである。分業によって直接的形態においてはバラバラにされた経済において、その共同性を維持するためにもたらされる情報が価値であり、それはまたその交換支配力を表わし、総労働のそれの一つの部分としての力である。そうした価値の体系は労働価値説において与えられるとマルクスは考えた。
4 帰属価値体系としての労働価値体系
 われわれの場合、剰余労働と必要労働という定義は何等の価値体系とも関連しない形で定義したが、マルクスにおいてはその概念そのものが明確に労働価値説というものと結びついている。ペティに始まりスミスそしてリカードへと発展させられた古典的労働価値説はマルクスによってその内容をほとんど完全に表現された。その労働価値体系のもとで、剰余労働は剰余価値として現われる。剰余労働は自由に処分しうる時間としての富であるから、これまで他の富に関して述べてきたように、その富を価値体系においてとらえたものがマルクスの剰余価値に他ならない。マルクスの剰余価値は労働力の現実の行使としての労働時間からその労働力の価値をひいたものに他ならない。こうした演算が可能になることそのものが、一つの双対性の表れである。われわれのモデルに即して考えれば、一単位の標準的労働時間を行使する労働力を再生産するために必要な財バスケットは(d1、d2)である。したがってマルクスの定義による労働力の価値t3は、加工消費財と穀物の1単位当りの労働価値をそれぞれt12、t2とすると、
t3=t12d1+t2d2
と定義されている。したがって、1単位時間当りの剰余価値sは、
              s=1−t3
となるのである。ところで、この剰余価値が完全に定義されるためには加工消費財と穀物の労働価値を与える体系をも同時に示されなければならない。われわれのモデルには、製造業部門と農業部門の二つの部門があり、それぞれが一つの生産工程をもっていると想定している。そこで、それらの過程において生産における双対性がどのように認識されているかを検討しよう。マルクスにおける、生産工程におけるこの双対性の認識は、それをまた価値形成過程としてとらえることに現れる。いま、生産工程において何単位かの直接労働が行使されて生産が行なわれるとしよう。このとき、その生産物にはこの直接労働の量はそれ自体が価値としてつけ加わるのであるが、この直接労働はもう一つの重要な機能を果たすとマルクスは指摘している。
 「労働者は、かれの労働の特定の内容や目的や技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、見いだす。つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのである。この移転は、生産手段が生産物に変わるあいだに、つまり労働過程の中で、行なわれる。それは労働によって媒介されている」<14>
 これを、われわれのモデルの製造業部門の工程について表わそう。そこでは、1単位の生産財とb単位の加工消費財を生産するのにa1単位の生産財と直接労働l1単位が用いられている。t11を生産財の価値とすると、この工程における価値の保存式は次のように表わされる。
         t11+t12b=t11a1+l1
また、農業部門の工程におけるそれは次のように表わされる。
      t2=t11a2+l2
しかし、ここで再び、重農主義の価値体系を表現するときと同じような困難、すなわち式の数と未知数の数が合わないという困難に出くわす。この体系では財の価値を一意に決定することができないのである。この理由もまた、前の場合と同様にわれわれのモデルには結合生産を行なう工程が存在していることである。マルクスは、こうした結合生産を想定しなかったのであり、その場合すべての労働価値は一意に決定される。したがって、この結合生産の存在がわれわれをしてマルクスの世界から離れることを余儀なくさせるのである。それは、マルクスの労働価値体系の批判ではない。ただ、われわれはマルクスの時代の経済学の水準に戻って議論するのではなく、現代の理論経済学の水準にたって、労働価値説の本質的意義をとらえようとすることである。
 われわれは先の必要労働と剰余労働を定式化した問題、すなわち自由な時間としての富の体系の問題における諸財貨の帰属価値をとらえることによって労働価値体系を導出することにしよう。この問題に実行可能な解があるかどうかをまず問題としなければならない。すなわち問題の制約条件を満たす解が存在するかどうかである。その条件は、重農主義の体系において示した生産財の再生産条件が成立することである。これが成立するときに、制約条件を満たす領域はおよそ図1−6のように描ける。
 ここには、a2/(1−a1)の値の違いに応じて二つの場合が描かれている。目的関数であるl1x1+l2x2を最小にするものが解としての製造業部門と農業部門の稼働水準となる。それはいま両部門とも労働は不可欠の生産要素であるから、それはαの点かβの点のいずれかである。すなわちa2/(1−a1)が相対的に小さい場合はαの点であり、そうでない場合はβの点である。αの場合は生産財の需給条件を表わす式が厳密な不等号になっている。すなわち、生産財が過剰に生産されていることになる。βの場合は加工消費財の需給に関する制約条件式が厳密な不等号になっている。すなわち、それが過剰生産となっている。これもまた、製造業部門がその結合生産する二つの財に関して、どちらが生産性が高いかにかかっているのである。穀物については、その需給条件式が常に等号で結ばれていることがわかる。われわれの導出すべき帰属価値は重農主義の場合と同様な方法によって得られる。それは、この富の体系においてそれぞれの財の必要量が限界的に増加した場合に必要労働量を増やす割合によって与えられる。われわれの帰属価値を先の記号と同じ、t11、t12、t2としよう。ここで、t11は富を与える問題の解において生産財の必要量が限界的に増大した場合に必要労働量が増える割合である。またt12は加工消費財の場合のそれであり、t2は穀物の場合のそれである。したがって、この帰属価値体系としての労働価値体系が意味しているのは、自由な時間としての社会的富を生み出す上でそれぞれの財にかけられた費用を労働の量として表わしたものである。したがって、この帰属価値はまた重農主義体系の場合と同様な方法で、富としての剰余労働を価値体系において示すことになる。つまり、この帰属価値の体系によって測られた1単位の労働力を標準的に提供する労働力の価値をt3とすると、それはt3=t12d1+t2d2であり、これは富の問題の最小解としての必要労働とまったく等しくなるのである。すなわち、
l1x1+l2x2=t3
である。これは、1単位の労働力を再生産するのに必要な労働量と、労働力の価値が一致することを示している。マルクスは、この両者が一致することを常に前提にして議論しているが、それがわれわれのモデルにおいても、すなわち富の帰属価値体系としての労働価値体系においても示せたわけである。したがってまた当然であるが剰余労働と剰余価値は一致している。そしてまた、この帰属価値体系は、富の体系とは独立に与えることもできる。ほとんど重農主義の場合と同様な論理的展開によってそれが次のようなものであることが示される。
             max.t12d1+t2d2
s.t.
         t11+t12b≦t11a1+l1
      t2≦t11a2+l2
t11、t12、t2≧0、
まさに、この問題の解として与えられる価値体系がわれわれの定義した富の体系の帰属価値体系にまったく一致するのである。この制約条件式の不等号は、一つの解釈を与えるならば、各工程で直接労働と生産財の労働価値が無条件に「保存」されるのではなく、投下労働総価値をこえることができないという意味である。しかし、この場合この不等号は本質的役割を果たさない。というのは、最大解のもとで両制約条件式は必ず等号で結ばれているからである。そのことは他の方法でも示せるがここでは図で確かめよう。生産財の再生産条件が満たされているもとで、制約条件を満たす領域は図1−7のOABCDEで囲まれた部分であるが、目的関数はt2軸とt12軸を正象限で切りt11軸と平行な平面であるが、その値が最大である点はA点かD点のいずれかである。明らかにこの二つの点とも実行可能領域を作っている二つの平面に接しているから、制約条件式は等号で結ばれていることになる。したがって、もともとこの制約条件式は等号で与えていてもよいのである。この不等号が本当の力を発揮するのはどちらかあの部門でも生産技術が複数存在するときである。その場合、富を生産するのに効率的な技術のみが投下総価値を保存することができる。したがって、そうした工程のみが制約条件式を等号でみたし、そのほかの工程は投下価値を保存できずに、厳密な不等号しか成立しなくなるのである。このことは、すでに指摘したように生産的労働および不生産的労働の問題である。
われわれのこの労働価値体系はマルクスのそれをその特殊な場合について含むともいえる。というのは、マルクスの労働価値体系は、そこに結合生産ともなわないことを前提にした体系であるといえる。その場合あらゆる最適化の論理を持ち込まずに各財の労働価値を決定することができるからである。いま、生産財部門で結合生産を含まず、したがって、生産財部門はその工程で生産財のみを生産し、また労働者の実質賃金バスケットは穀物からだけなると考えよう。その場合、もともとわれわれが行なおうとして、帰属価値を意識せずに財貨の労働価値を決定する方法が有効になる。その場合、製造業部門と農業部門でその投下労働が完全に生産物に保存されるという前提だけで価値が決定できるのである。すなわち、
         t11=t11a1+l1
      t2=t11a2+l2
の二つの式で生産財の労働価値と穀物の労働価値が決定できる。したがって、そのとき労働力の価値はt2d2であり、1−t2d2が1単位の労働が生み出す剰余価値に他なくなる。しかし、われわれの帰属価値を独立に定式化する最大化問題において、同じように製造業部門において結合生産が存在しなければ、最適解においてかならずこの二つの式が成立するものとなり、各財の労働価値はまったく等しくなる。こうした意味で、マルクスの労働価値理論は、この帰属価値としての労働価値論の特殊な場合に他ならないということもできる。
5 古典的労働価値説との差異
 しかし、それでもなおマルクスの労働価値体系とわれわれの帰属価値体系としてのそれとでは基本的に異質なものであることは否定できない。
 マルクスは、その労働価値体系が客観的なもの、特定の主観に依存しないものとして考えていたことは間違いない。マルクスにとって、財貨の価値というのは一つの社会関係の表現であり、そして何よりも彼は「価値法則」というものを強く支持していた。価値法則は端的に述べると、財貨の労働価値は根底において現実の交換比率の体系を規定しているという内容である<15>。そして、具体的にマルクスが考えていた価値法則は置塩信雄氏の要約に従えば、第一に生産価格の総計は価値総計に等しいので、したがって、一商品が価値以上に売られれば必ず少なくとも他の一商品は価値以下に売られる、第二に、利潤の総計は剰余価値の総計に等しいので、ある部門の利潤がそこで生産された剰余価値よりも大きいならば少なくとも他の一部門でそれ以下になる、第三に、中位より有機的構成の高い商品は価値以上に、低い商品は価値以下に売られる、第四には一商品の生産技術の改善は価値とともに生産価格を下落させる、最後に労働力の価値の上昇は、有機的構成が中位の商品の生産価格と価値をともに不変なままにし、より高い商品の生産価格は下落し、より低い商品のそれは上昇する、というものである。こうした価値法則は、その命題の理論的正確さいかんを問わず、マルクス自身にとっては労働価値体系というものが強い客観性をもつものとして意識されていたことの証となる。というのは、マルクスにとって理論的把握が可能な資本制のもとでの経済現象は自然史的過程としてとらえられ、その法則を明らかにすることができるほどに、人間の意識とか主観といったものから独立なものとして考えられていたからである。したがって、そうした現象の背後にありそれを規定するものとして存在している労働価値体系というのも、またそうしたほとんど無条件の客観性をもつものとしてとらえられている。
 しかし、われわれの規定した労働価値体系というのはその前提と方向においてマルクスのそれとまったく異なっている。われわれの体系においてまず大前提として存在するのは、あるいは存在しなければならないのはわれわれのすでに指摘した意味での社会的な自由に処分する時間を富とすることについての共同的な了解である。そして、それを富とすることは同時に経済現象におけるあらゆる価値判断の究極の根拠を定めたことになる。それゆえまた、経済の運動における進歩とは何かという点をもそれは規定していることになる。富とは、それを了解している人間集団にとっては最大に実現されなければならないものである。したがって、われわれの富の体系は必要労働の最小化問題として、すなわち自由に処分できる時間の最大化問題として定式化されたのである。そして、この前提の上に帰属価値体系としての労働価値体系が初めて意味あるものとして定義されるのである。この労働価値体系は、富を最大に実現するにあたって、すべての財貨と生産工程を意識的に秩序づける。この点は、後にもっと詳しく検討されるが、たとえば新たな生産技術を導入するにあたっても、この労働価値体系の価値評価でその生産工程における費用と生産物価値を評価することによってその技術が社会全体としてみて富を増大させるのに貢献するか否かが、小域的に判定できるのである。すなわち、さきに述べたように価値体系は大域的な秩序に関する情報であり、信号なのである。したがって、また技術の進歩はそうした富の増大に対する貢献としてみられるから、価値体系は生産力増大の方向、進歩の方向を定めるものでもある。したがってまた、マルクスの労働価値説におけるような、価値法則の成立がこの価値体系の有意性を裏付けるものとしての意味をもつことはない。
 ところで、資本制における支配的富概念はこうした自由に処分できる時間としてのそれではない。それは、前節で明らかにした、スミスによって打ち立てられた富の概念である。われわれがそれをもっと精密に定式化しなおしたものとしては、経済の最大成長をもたらすような社会的な剰余生産物こそ富の概念として最もふさわしいものであり、まさにその双対体系としての価値体系において資本によって利潤の最大化が目指されていることこそ、経済を全体として動機づけているのである。そしてこの資本制における富の概念と、われわれの自由に処分できる時間としての富概念は、確かに一部重なり合うところがあるが、基本的に異なったものであることは間違いない。(これについては次の説で詳しく論じる)。したがって、資本制経済のもとでは自由に処分できる時間としての富はその客観性、現実性をまったく剥奪されているのである。それは自由な時間を富としてとらえる社会集団、あるいは、それを富としてとらえざるを得ないような経済的地位におかれている集団、すなわち労働者階級の共同的主観性の上にのみ存在しているものであるといえよう。労働者階級は、本来彼らが生み出しているすべての自由な時間が資本によってとり上げられてしまっていることによって、全体的にみればまさにマルクスの指摘するように発展喪失状態に押しとどめられているのであり、彼らにとって自由に処分しうる時間とは一つの絶対的な希少性をもつものとして意識せざるを得ないのである。自由に処分しうる時間としての富が完全な現実性と相対的客観性を獲得するのは、マルクスによって指摘されているように、すべての経済がそこに帰着するところの労働時間の節約が共同的目的因となるところの共同体的生産が行なわれる社会においてである。そして、その場合にこそ、その富の帰属価値体系としてのわれわれの労働価値体系はその十分な力を発揮することになるだろう。
 われわれの労働価値体系のこうした展望を考えるとき、人間にとっての労働時間というものの意義を考えざるを得ないことに気づくだろう。一般に、労働時間の節約が労働する側からみた目的因として設定されているとき、そこには労働が彼らにとって消極的なもの、回避されるべき理由があるものとして考えられているように見える。実際、資本制経済においては、単にその時間の長さの点ばかりでなく、それは資本の指揮のもとに労働が行なわれるために、すなわち単に労働は利潤を生み出す一つの生産要因としてのみとらえられているために、その目的に適合した人間的能力の偏頗な支出だけが求められることになる。そして、そうした労働能力の支出は、かれにとって自由で自発的な意志のもとに行なわれたとしても、そうすること以外に生活手段を得る道がないために、自由とはまったく形式的なものであり、したがって、かれの労働は常に強制労働的側面をもたざるを得ない。労働は苦役としてとらえられるのである。では、自由に処分しうる時間としての富を最大化しようとする動機は、そうした苦役からの開放を目的としているのであろうか。確かに資本制における労働というもののあり方を考えるときには、そうした点を見逃すことは絶対にできない。しかし、その富の概念はそうした資本制的経済にとどまらない展望をもった富の概念である。そして、問題はそうした共同体的生産の場合をも展望したとき、この富の概念が前提にしている労働というものの意義であり、必要労働の最小化が動機づけものはなにかである。
 はじめのところで引用しておいたように、この問題にマルクスは一つの鮮明な回答を用意していた。すなわちそれは個人の能力の全面的な開花である。それは自由な時間がすべての個人に分配されることによってその自由な時間がもたらす能力の発展がまた彼らの労働生産性に反映してさらにその発展が遂行されるという展望である。そしてまた、その労働そのものも単なる苦役ではなくかれの積極的な欲求にまで発展していくという展望をもっていた。われわれはこうしたマルクスのパースペクティブを完全に支持するものであるが、さらにこれが個人においてどのように自由な時間の創出というのが動機づけられるのかが検討されなければならない。資本制経済において支配的であるように、労働が単なる苦役であるならばそれは個人として動機づけられることは考えるまでもない。またマルクスの議論においても、それは個人の動機としてもとらえられる。つまり、各個人としても自由な時間がかれ自身の多様な人間的能力を発展させることは明かであり、またその能力がかれの労働の質を発展させるであろうことは、マルクスの議論の前提である。しかし、個人の立場からこの問題を考える場合、それだけでは動機として不十分である。というのは、社会的にみた労働者というのは基本的にその生命が時間的に有限であることを想定しなくてもよいが、個人の立場からみればその生命はその持続可能な時間において絶対的な限定性、解決不能な希少性をもっているのである。それはまた、まさに生命にとっての時間の意義から必要労働の節約の動機を根拠づけ可能性を示している。確かに、人間的生命というのは特殊な時間の蓄積された実体としてとらえることができる。蓄積されているのは、一つの可能態にある時間である。生命過程というのは、かれ自身の終局に向かって一列にならんだ、どの同じ量の有限部分をとっても異質な可能性としての時間の流れを逐次的に消費していく過程である。そうした潜在的な時間は多様な形態での消費の可能性を保持している。しかし、現実には彼は常にたった一つの選択しか可能でないのである。その個人が生きていくというのは、常にそうした時間の使途に関する選択問題を解決していることに他ならない。かれの能力の多様な展開は、こうした意味では時間の希少性を常に高めるであろうし、それはまた生命的時間に対する需要の絶対的増大であり、われわれの議論してきた富としての自由な時間は多様な時間の使用可能性に対するその時間の供給を意味していることに他ならない。もちろんこれは資本制経済においても、労働者の立場において現れるであろうし、何よりも共同体においても個人の立場からみての必要労働の節約を切実に希求する動因となるであろう。そしてそれは自由な時間としての富に現実性もたせ続ける原動力となるだろう。
脚注
<1>ディルク(1821)。
<2>本訳文は、マルクス(1861)、、p.311にある[注解]に依拠している。以下、下線は鷲田。
<3>マルクス(1862)、、p.335。
<4>マルクス(1861)、、p.299。
<5>同、p.297。
<6>同、p.306。
<7>マルクス(1857a)、、p.660。
<8>マルクス(1857a)、、p.93、マルクス(1857b)、、p.162。訳文は後者に依拠している。一部訳語を変更した。
<9>マルクス(1867)、、p.282。
<10>マルクス(1861)、、p.306。
<11>同、p.307。
<12>同、p.306。
<13>同、p.309。
<14>マルクス(1867)、、p.261。
<15>この労働価値の価格規定性については、本章の補論でもふれている。