第1章 富と経済的価値の理論
第7節 剰余条件の同値性と富の差異性
1 社会的剰余の三つの形態の同値性
 これまでにとり上げた三つの富の概念は経済学にとって本質的重要性をもつ富概念である。この節ではそれらを比較検討する。
 われわれはこれまでそれぞれの富概念を裏付けている社会的な剰余について、その発生の条件をいっさい問題にしてこなかった。ただその存在を想定していただけである。重農主義におけるとは農業部門でのみ発生するその生産物に関する社会的な剰余であり、資本制における剰余とは経済の持続的な成長を約束する剰余生産物であり、さらに自由な時間としての富は、利用可能な時間から社会的な剰余としての必要労働時間をひいた残りの時間である。これらのさまざまな剰余は、われわれが最初に示した社会的な再生産の基本モデルのうえで表わされるが、その剰余の生産条件がそのモデルを構成している諸係数に依存することは明かである。すなわち、さまざまな技術的な生産係数だけでなく、労働者への実質支払いを表わす係数にも依存するのは間違いない。さらに、われわれが考えなければならないのは、その条件が剰余の定義にも依存するかということである。同一の再生産モデルのもとで、ある剰余を成立させる条件が、他の定義のもとにおける剰余の条件と異なることがあるかという問題である。この点を、われわれのモデルに即して調べてみよう。
 まず、重農主義的な剰余を成立させる同値条件を検討しよう。そこでの必要穀物量は、図1−3のα点かβ点において決まる。αのような状況になるためには、諸係数が次のような条件を満たさなければならないことは簡単にわかる。
ba2 a2l1
> + l2 (33)
d1(1−a1) 1−a1
したがって、この条件が満たされるときは、この重農主義的剰余が生み出される条件は、1−d2L>であるから、
a2l1
     1>d2( +l2) (34)
1−a1
もしこの条件が成立しないなら、すなわちβのような状況にあるのであれば、
    bl2
        1>d2() (35)
  b−d1l1
となる。(33)式が等号で結ばれているときはこのどちらの条件が成立していても剰余は生じる。基本的に、こうした条件はすべての係数が関係している。そして、(34)、(35)式に関してはそこにでてくる係数のうちで、bを除くすべての係数について、どの一つについてもその増大は剰余条件の成立に負の要因となることを示している。それは、bを除くすべての係数が生産において実質的な費用要因として加わっているからである。
 重農主義的な剰余条件が示されたので、これが他の二つの体系のそれと比較することによってそれらの異同を示せる。ここでは、他の条件を一つ一つ導出することによるのではなく、ある一つの体系において剰余が発生することと他の体系におけるそれがまったく同値であることを直接に示すことにしよう。そこでまず、重農主義体系における剰余の発生条件と資本制的な剰余の発生条件が同値であることを示そう。われわれは、剰余を富の体系においてとらえても、価値の体系においてとらえても同じでることはすでに示したので、以下ではそれぞれの価値体系において検討する。便宜をはかる意味で、それぞれの価値の体系をここにもう一度示しておこう。重農主義の価値体系、
       c11+c12b≦c11a1+c3l1 (36)
     c3≦c12d1+d2 (37)
c11、c12、c3≧0
の制約条件のもとで、c11a2+c3l2を最大化するような価値体系がそれである。もちろんこのときc11a2+c3l2は、先の必要穀物量に一致する。またこのとき重農主義的剰余が発生するとは、その最大のc11a2+c3l2について、
     1>c11a2+c3l2 (38)
が成立することに他ならない。また、資本制的な体系においては、富の増大を約束する成長率が正であることが、その剰余発生の条件に他ならないが、それはまた利潤率が正であること同値なのである。その利潤率は次の体系において示される。すなわち、
   p11+p12b≦(1+r)(p11a1+wl1) (39)
   p2≦(1+r)(p11a2+wl2) (40)
w=p12d1+p2d2 (41)
           p11、p12、p2≧0                 のもとで、最小利潤率を与えるものが、資本主義的な価値体系、すなわち生産価格体系である。いまわれわれが示そうとしているのは、(38)式が成立することとこの利潤率が正であることの同値性である。
いま、(36)、(37)においてc11およびc12、c3がc11a2+c3l2を最大化したものとして実現していたとしよう。このとき、もし(38)式が実現していれば、最小利潤率rは正でなければならないことが次のようにして解る。(39)〜(41)において最小利潤率が成立しているとしよう。このとき、1+rが負になることはありえないことは明瞭である。そこで、1+rが1か1よりも小さい正の数だったとしよう。すなわち、利潤率が正でなかったと仮定しよう。すると次の式が成立することは明かであろう。
  p11+p12b≦p11a1+wl1
   p2≦p11a2+wl2
w=p12d1+p2d2
このとき、生産財と加工消費財に関する再生産条件が成立している限り、穀物価格が負にならないことは簡単な計算によってたしかめられる。したがって各式の両辺を穀物価格でわることによって、次の式が成立する。
 q11+q12b≦q11a1+ωl1
   1≦q11a2+ωl2 (42)
ω=q12d1+d2
これは、明らかに(38)が成立することと矛盾する。というのは、(38)が成立しているときは、c11a2+c3l2<1≦q11a2+ωl2であるが、このq11、q!2およびωは(36)、(37)に対応する制約条件を満たすことが(42)の第1、第3式より解る。このことは、c11a2+c3l2が最大のものであるという前提に矛盾するのである。この矛盾は、われわれが利潤率が正でないという仮定をしたことに起因している。従って、重農主義的な剰余が発生しているときは利潤率は正となるのである。
 また逆に、最小利潤率が正ならば、(38)が満たされることは、次のように解る。対偶をとって、(38)が満たされないならば、最小利潤率は正にならないことを示そう。そのとき(38)が等号でみたされる。というのは、そこで厳密な不等号が成立していれば、c3を少し増大させることによってc11a2+c3l2を必ず増大させることができるからである。となるとその穀物価値によってc11=p11、c12=p12、c3=wおよびp2=1とおいたものが、(39)〜(41)の条件をみたすものとなる。したがって、最小利潤率は1以下となる。以上で、重農主義的な体系において、剰余が発生する条件は、利潤率が正となる条件とまったく同値であることが解った。
次に剰余労働を与える体系における剰余条件との同値性を調べよう。これも価値体系を調べればよいので、その体系を再度示すと、
           t11+t12b≦t11a1+l1
t2≦t11a2+l2 (43)
t11、t12、t2≧0
の制約のもとで、t12d1+t2d2を最大にするという問題になる。この体系のもとで剰余が発生するとは、1>t12d1+t2d2となることに他ならない。
まず、この価値体系における解のもとで、t2が0となることは有り得ない。なぜなら、もし0とすると(43)の第二式で、右辺は必ず厳密に正であるからt2をわずかに0から増やすことによってt12d1+t2d2を増大させることができるからである。そこで、(43)の各式をt2でわった体系を考えてみよう。
       s11+s12b≦s11a1+s3l1 (44)
1≦s11a2+s3l2 (45)
このとき、
           s3>s12d1+d2 (46)
である条件と、重農主義者の穀物価値体系において、剰余が発生する条件が等しいことを示しておこう。そこで、(38)式が成立するならば、(46)式が成立することを示そう。そこで、(46)が成立しなかったとしよう。このとき、
               s3≦s12d1+d2
となっている。するとあきらかに、
c11a2+c3l2<1≦s11a2+s3l2
となり穀物価値体系の最大性に矛盾する。また逆に、(46)式が成立するならば(38)も成立することは、それぞれの体系をs3(>0)とc3(>0)でわった体系を考えることによって簡単に証明できる。したがって、剰余の条件は、いずれの体系においても結局同値となることが解った。
2 同値性命題の意味するところ
 この剰余条件の同値性命題は、マルクスの想定した労働価値体系と生産価格体系においても成立する。なぜなら、われわれの体系はマルクス的体系を、その形式に限定すれば、特殊な場合として含むからである。そして、マルクスはかれの体系における同値性命題をきわめて重視し、それに特別な解釈を与えている。マルクスの労働価値体系において、必要労働は労働者にとって支払い労働を意味し、また剰余労働は不払い労働を意味している。すなわちかれの総労働時間は、それは同時に労働対象に対して付加する価値量でもあるがそのうちのその労働に対して彼は必要労働部分の価値量を支払われるのである。そしてまた、剰余労働は労働者からみて不払い労働に値することになるのである。これを搾取と呼ぶのであるが、この搾取の存在こそ利潤の源泉であることを示すことが、マルクスの『資本論』における中心的課題の一つであったことは間違いない。実際かれの経済学批判、すなわちスミス、リカードあるいはマルサスらの古典派経済学に対する批判において、古典派経済学者たちが分配の諸要素である利潤、労賃、地代といったものを剰余価値まで還元しなかったところに最大の誤りでがあることを強調している。したがって、マルクスは労働価値体系における剰余労働の存在が利潤存在の条件であるという形で、われわれの剰余の同値性命題を表現したのである。こうしたマルクスの、利潤の存在の源泉を剰余労働にみるという形での論理を支えているものは、労働価値体系が生産価格体系よりも本源的なものであるという、さきにわれわれが価値法則という形で述べた命題である。そして、そのときと同様に、われわれの労働価値体系においては、その意味での労働価値体系の優先性を認めることはできない。
 われわれの剰余の同値性命題は、それ自体としてはあたかもそれぞれの富の体系あるいは価値の体系を並列的にとらえているかのようであるが、それは形式的外観がそうさせているだけである。剰余条件が同値であるというのは、人間の必要を満たす上での与えられた技術水準が、ある一定の段階に達していれば、そのもとでどの富が選択されるかについての外見上の困難が存在していないことを意味する。外見上の困難が存在しないというのは、経済の技術的、物量的な相互依存関係、価値評価における秩序が実現されれば、その富を再生産するのに困難は現れないということである。しかし、そのことが現実にその社会的再生産の技術水準においてどの富をも目的因として現実的なものとなりうることを意味してはいない。逆に、どの富の体系が客観的に採用されるかを規定する質的な差異、内容的な差異をこれらの体系の中に見抜くことこそ重要な問題であることをこの命題は示していると考えなければならない。
 これらの体系を区別している決定的なものは、社会的な富が何であるか、すなわちその社会的な再生産過程における支配的な目的因が何であるかの違いである。重要なことは、こうした富あるいは目的因自体が社会的な生産力に規定されているということである。われわれが再生産の基本モデルで示しているのは、社会的な技術水準と直接生産者に対する必要支払いであるが、それだけで社会的生産力をすべて表現してはいないということに注意しなければならない。生産力は、社会的な富を生み出す、人間の結合した能力に他ならない。生産力は、われわれの簡単な再生産モデルで表わされるような、技術的条件などばかりでなく、自然、あるいは資源といったものに規定され、さらに人口、文化的環境、そして重要なのは国民の欲求の多様性と水準にも規定されている。そしてそれはその国民の歴史的に到達した段階において条件づけられているのである。そして、そうした生産力水準に、国民の共同的主観において支持されている富概念がどれであるのかが依存しているのである。従って、歴史的には並列的にいくつかの富の概念が選択の余地のあるものとして社会に提示されているわけではないのである。あるとすれば、一つの富の概念がその生産力からみて、経済を動機づける目的因とならなくなってしまったときには、従来の富の概念のままでいくのか、新たな富を措定していくのかが問われることがあったし、これからもあるだろう。重農主義的富の概念が、現代の資本制経済からみればより低い生産力の水準に対応していることは直感的に理解できるだろう。それはまさに社会的生産が自然のもたらすものの量によって、すなわち農業生産物によって大きく制約されている場合に最も適合的である。近世石高制に現れた重農主義体系は、この意味では富概念の末期に現れたものである。もちろん、より高い生産力を到達した後でも、なんらかの事情によって、そうして農業生産物の生産が社会的再生産を大きく制約するときに復活するかも知れない。生産力の発展は、そうした農業生産部門に全経済の発展が制約されている状況を克服し、新たな生産力の発展の条件を創り出したのである。それは、まさに人間的欲求の発展を通して生産規模の全面的な拡大によって表現され、経済の最大規模の成長を約束する、資本制的富概念の樹立である。
3 諸価値体系の新技術に対する評価
 富の概念は、目的因としてはそれぞれがはっきりと異なったものであるが、われわれが示した剰余条件の同値性命題にも表れているように、それらが抽象的な意味でのある共通の社会的剰余を表現しているように見えることから、その差異を識別しにくい面があるかも知れない。問題を次のようにたててみよう。すなわち、それぞれの富を追求することは両立し得るのか、ということである。これに答えるために、われわれは新しい技術に対してそれぞれの価値体系がどのような評価を与えるのかを検討しよう。すなわち、ある価値体系が成立している状態に、新しい技術が発明された場合、それを現在の価値体系がどのように評価するのかということである。これを、実際にわれわれの再生産モデルの諸係数に数値を当てはめて検討することにしよう。そしてわれわれは、利潤率を与える体系と労働価値体系について調べることにする。当てはめられる数値は次のようなものである。

 a1=0.5 l1=2.0  b=0.4
         a2=0.8 l2=1.0
d1=0.1 d2=0.2

これらの係数が、われわれがさきに示した、生産財と加工消費財の再生産条件を満たしていることは簡単に確かめられるだろう。さらに、これはこの節の初めで示した剰余条件をも満たしている。このとき、まず利潤率と生産価格体系がどのように与えられるかを示しておこう。それは、(39)〜(41)の条件のもとで最小利潤率を実現するものとして与えられる。そこで、まずその最小利潤率を実現しているもとでは、(39)と(40)式がどちらかでも、厳密な不等号になることは有り得ないことを、指摘しておこう。というのは、もし(39)式が厳密な不等号になれば、p12をわずかに増大させその不等号を維持できる。このとき貨幣賃金率もわずかに増大し、それによって(40)式まで厳密な不等号にできる。ということは、同じ価格体系のもとで利潤率をさらに小さくできることを意味している。もし、(40)式が厳密な不等号であれば、まったく同じことを逆向きに繰り返すことによって(39)式まで厳密な不等号にできる。したがって、最小利潤率を実現する価格体系のもとでは条件式はすべて等号で満たされているのである。
 また、穀物価格は必ず正であることが同じ推論でわかる。もし、ぜろであれば、(40)式が厳密な不等号になるからである。したがって、貨幣賃金率はゼロでないので、それを1とおいてほかの相対価格を求めよう。利潤率をrとして、新たにβ=1/(1+r)とおくと、(39)〜(41)は次のようになる。
  β(p11+0.4p12)=0.5p11+2.0
     βp2=0.8p11+1.0
1=0.1p12+0.2p2
これらの式をβとp12について解くと、
2.2(2β−1)
p12−10=
β2−1.14β
となる。右辺の値が、βの値に対してどのような形状になっているかを示すと図1−8のようになる。ここで、その値はA、B、Cの三つの曲線によって示されるが、Cである場合は、βが負になり価格の非負条件と両立しないのでこの領域は初めから除外される。さらにAの領域も除外される。というのは、このときp12>10、β>1.14であるが、この値のもとではp11は必ず負になっていることが上の式から確かめられる。
 したがって、有効なβの範囲はBの領域のみである。この領域の中で、利潤率が最小となる、すなわちβが最大となりかつp12≧0であるのは、右辺の値が−10となるとき、すなわちp12=0のときであることがわかる。このときのβq0.9352349となる。これにもとづいて利潤率ならびに諸価格を求めると次のようになる。
rq0.069
p11q4.595
            p12=0
            p2=5.0
w=1.0
利潤率は約6.9%である。また、加工消費財の価格がゼロであることは、富の体系において、最大成長を実現するときに加工消費財が自由財になっている可能性を示している。
 また、労働価値体系がどのような解を与えているかも調べておこう。それは、図1−7にここでの諸係数の数値をいれて、1単位労働の必要労働を表わす目的関数0.1t12+0.2t2を最大にする点を求めればよい。それは、結局A点であることがわかる。このとき、各財の労働価値は次のようになっている。
             t11=4.0
             t12=0
              t2=4.2
必要労働は0.84であるから、1よりも小さいので剰余労働は正であり、マルクスの表現では、労働の搾取が行なわれていることになる。
 いま、こうした状況のもとにおいて、生産財部門で新たな生産技術が開発されたとしよう。今までの技術は、1単位の生産財と0.4単位の加工消費財を生産するのに0.5単位の生産財と2.0単位の労働が必要だったのであるが、新たな生産技術は、同じ生産を行なうのに、労働は今までより少ない1.9単位しかいらないかわりに生産財が今までより多い0.523単位必要になるというものである。ところで、この技術が資本制的な価値体系、生産価格体系のもとでどのように評価されるかを調べてみよう。まず、もともとの技術は、生産財1単位の生産に賃金単位ではかって約4.298だけの費用がかかっていたことは簡単に計算できる。ところが、新たな技術は同じく賃金単位ではかって4.303かかることになり、新技術の採用は1単位の生産財の生産費用を増大させ資本家になんの特別な利潤ももたらさないものであることがわかる。
 この新たな技術は、資本制経済のもとでは何の魅力もない技術であるにもかかわらず、労働価値体系のもとでは特別に重要な技術であることが次のようにしてわかる。もとの価値体系において1単位の生産にかかった直接間接の投下労働は4.0である。ところが、その価値体系のもとで、新たな技術の費用を計算すると3.992と以前のよりも少なくなるのである。そしてそのとき、前の技術に変わってこの新たな技術を採用すると社会的な必要労働が小さくなることが次のようにしてわかる。同様に、図1−7に新たな係数をいれて、調べると、
t11q3.983
            t12=0
t2q4.187
となる。そして、これによって必要労働を計算すると約0.837となり、以前の技術よりも必要労働が小さくなり、労働時間が節約され、社会的な自由な時間としての富は増大するのである。
 すなわち、この技術は資本制的な富の体系のもとでは、何の評価も受けないのに、自由な時間としての富の体系のもとでは進歩的技術として評価されるのである。もちろん二つの体系のもとで、技術の選択はまったく対立するものであるということではない。もちろん、どちらの富に対しても進歩的な技術も存在する。たとえば、いまのような例において、同じ生産を行なうのに、生産財の労働もともに少なくなるような技術は、どちらの体系においても評価されるものとなることは明かである。また、一方の低下に対するもう一方の補償的な変化が小さければ小さいほど、すなわち、その進歩的性格が鮮明であればあるほど、両者にとって進歩的である可能性が高まる。しかし、それらが微妙になると、この例のようにまったく対立する評価が与えられていくことになるのである。
 また、この例は、富の双対体系としての価値体系の特別な役割を示す例ともなっている。つまり、価値体系というのは社会の相互依存関係についての大域的な状況に関する情報でもあるということである。したがって、この労働価値体系の場合でそうであったように、その大域的な情報を担っている価値体系によって、小域的な部分、すなわちここの生産工程において新たな技術を評価するだけで、それがまた大域的に評価されるものであるかどうかが即座に判定できるということである。したがって、これはまた富の双対体系としての価値体系の軽視できない重要な性質である。

 【補論1】
「マルクスの基本定理」をめぐって
1 古典的世界を超えて
 われわれが、剰余条件の同値性で示したものは、マルクスの基本定理と言われるものを含んでいる。マルクスの基本定理とは、利潤の存在条件を剰余労働(したがって剰余価値)の存在、搾取の存在にあることを数学的に厳密な理論モデルの中で示したもので、置塩氏によって初めて問題として提示されまた証明された<1>。そのことは、労働価値説とマルクスの経済理論の発展にとって画期的な意味をもつものだったといえよう。マルクスの経済理論の基礎が古典派経済学にあることは確かである。そして、彼が古典派経済学に対する批判の中心点としたものは、所得の源泉となるもののの把握を、その現象形態から本質的なものの認識へと徹底させなかったという点だった。すなわち、賃金、利潤および地代といった分配の形態と、それに対応する源泉としての労働、資本、土地所有といったようにである。マルクスはこれを三位一体的定式と呼んだ。その中でも、マルクスの分析の中心におかれていたものは、この利潤の源泉であり、それが剰余労働、剰余価値の現象形態でしかないことの究明を、経済理論の基本的課題と考えていた。そしてマルクスの基本定理は、数学的整合性の枠組みの中で、このことをはっきりと示していたのである。したがって、それは確かに「基本定理」と呼ばれて然るべきものだった。そして、このマルクスの基本定理を評価する上では、労働価値というものがどのように評価されるかがきわめて重要な意味をもつ。というのは、利潤の存在条件がなぜ、労働価値体系によって初めて表現される、剰余労働、剰余価値という「基礎」から説明されなければならないか、労働価値体系がなぜそのような規定的な意味をもつかが必ず問題になるからである。また逆に、労働価値の本質的な存在意義そのものがこのマルクスの基本定理によって与えられているとも考えられているからである。すなわち、利潤の存在条件を示すものとして、労働価値体系の存在が不可欠ともみられているのである。
 マルクスにとっては、労働価値説というのはアプリオリに正しいものとされていた。すなわち諸価値の源泉が体化された労働にあることは、証明されるべきものではなく、自然な前提となっていたのである。もちろん彼は、現実の交換比率がこの労働価値通り行なわれないことは知っていたが、労働価値の究極的な価格規定性、すなわち価値法則は現実の経済において貫かれるべき法則とみていたのである。古典的な労働価値説の意義と価値の価格規定性の問題を語る上では、R.ヒルファディングによるベーム=バベルクへの反批判を取り上げるのが最も自然であるように思われる。ベーム=バベルクが『資本論』第3巻の刊行を機会に行なった批判の書『カール・マルクスとその体系の終結』(1896年)<2>の中心的内容は、労働価値が価格と乖離する点についての問題、したがってまた価値と価格の一致を前提に議論されている3巻以前の内容との矛盾の指摘であった。それは同時に、交換価値の実態としての抽象的人間労働を定立していく理論的過程の問題など、古典的労働価値説に対する典型的な批判を含んでいるものだった。これに対して、ヒルファディングは『ベーム=バベルクのマルクス批判』(1909年)においてかなり徹底した反批判を行なった。その批判は基本的には2重構造となっている。すなわち、そこではまず労働価値説の経済学的な意義が明らかにされ、その前提の上に労働価値と価格との関係についてのベーム=バベルクに対する批判が行なわれているのである。<3>
 立論の第一段階で労働価値説の基本的な意義が明らかにされる理由は、それ自体一つのベーム=バベルクに対する反批判となるからである。すなわち、それはベーム=バベルクが、交換過程から共通の尺度として労働生産物という共通属性が定立される点について労働価値を強く批判しているのに対する、ヒルファディングの反批判である。ヒルファディングは、ベーム=バベルクが経済的カテゴリーとしての労働価値について基本的認識を欠いている点を強く指摘する。経済学が分析の対象としているのは高度に発展した商品経済である。この商品経済においては社会的な必要を満たす財貨が私的な生産者(ヒルファディング自身によると「私的『労働』を行なう、相互に独立的な、そして平等な生産者」)、あるいはその生産代理人の手によって供給される。私的な生産は、人間が本来持っている、あるいは存在の仕方としての社会的な連関を背後に隠す。そしてそれは直接的な形では現われないで、「交換」という形で現われることになるのである。
 「それゆえに、私有性と分業とによってその原子にまで分解されている社会の社会的関連は、生産の交換によって樹立されるのである」<4>
 この社会的連関はそれ自体としては抽象的な連関である。すなわち生産をめぐる人間の連関は具体的には労働をとおしてのそれに外ならない。すなわち「社会の構成員は、彼らが相互に労働することによってのみ、相互に経済的関連を結ぶことができる。こうした物質的関連は、その歴史的な形態規定性において、商品
交換のうちに現象する。総労働生産物は、総価値として個々の商品のうちに
交換価値の量的規定性において現象する総価値として、現われるのである。」そして「個々の商品は、社会的労働生産物の可除部分として[またはそういうものとしてのみ交換取引において機能する]、その中に含まれている総労働時間の分け前に応じて、量的に規定される」のである。そしてヒルファディングは次のように結論する。
 「したがって、労働が価値の原理であり、価値法則が現実性を持つのは、労働が、原子にまで分解されている社会を結び付ける紐帯にほかならないからであって、労働が技術的に最も重要な事柄であるからではない」<5>
 ヒルファディングの議論の第一の段階は以上のようなものである。こうしてみると、これらの内容はすでに『資本論』第1巻の商品の章に含まれているものであり、ヒルファディングの議論はそれを労働価値説の意義という視点から新たに展開し直したものであることが解る。ベーム=バベルクは同じ章のマルクスの労働価値定立に至る展開をとらえてその論理的不合理を暴き出そうとした。しかし、ヒルファディングはその同じ章に価値が労働価値でなければならない積極的理由がはめ込まれていることを明らかにしたのである。
 生産における社会的連関を労働をとおしてとらえるということは、一つの社会認識が基礎にあることは明かである。同時にそれは歴史認識でもある。ヒルファディング自身も、この点について「だから経済学の基本概念(価値のこと・・・鷲田)は、唯物史観の基本概念と同じものである」と述べている。労働の社会的連関とは、人間の共同的な本質と同じことを意味している。実際、労働が常に協同労働であるということは、人間の本質的な特徴である。人類の百万年を越える歴史の中で、その出発点において新しい類を形成していく上で決定的な指標となったものは労働の協同性にあったと考えられる。集団としての目的を理解し、その目的の実現のために各々が異なった役割を果していくことに協同性は現われる。そしてその目的は、様々な状況の中で多様に変化するのである。そしてその労働の協同性そのものが人間自身の形態変化を生みだし、協同の中での各々の役割を果たすための強制による直立歩行の展開と完成、言語機能の発展的な進化をもたらしていったのであろう。労働とはこの意味で人類発生と発展にとって価値あるものなのである。人間は労働の協同性を基礎としてその社会を形成してきた。その社会の組織形態を縦糸にとれば、人間労働の協同性による生産力はその横糸である。人間の全歴史はこの縦糸と横糸によって織り上げられてきたものである。その意味で労働価値説によって人間労働の協同性を価値実態とすることは、一つの自然な結論である。労働価値説は、労働の社会的、歴史的に重要な意義の上に打ち立てられているものである。したがって、それは価格すなわち現実の財貨の交換比率との関係においてのみ意味をもつというものはなにもないのである。価値というのは、それとは独立なある実態についての表現なのである。またそれは客観的な実態についての表現であり、人間がこれまで存在してきた全期間にわたって存在してきたことについての必要な条件としての実態の表現である。したがって、価格関係もまたこの実態の表現としての価値から説明されるべきものなのである。
 ヒルファディングの議論の第二段階は、まさにこの価格体系との関係についての議論である。ヒルファディングもマルクスにそって、価値的な交換比率が価格としての交換比率に必ずしも一致しないことを認めることから議論を出発させる。しかし明らかに、第一段階の議論を踏まえればそこから価値そのものの問題性に行き着くことはあり得ない。価格が価値から乖離する事を、ヒルファディングは「変形」と捉える。
 「マルクスは、第1巻においては、諸商品がそれらの価値で交換される場合にあらわれる交換関係だけを展開しているのであって、こうした前提の下でのみ諸商品は等量の労働を含むのである。しかしながら価値どおりの交換は、交換一般を条件づけるものではない。たとえそれが特定の歴史的前提の下での交換にとっては必然的であるとしても、そうした場合にはこの歴史的前提は、社会的生活そのものの機構によって、異なったかたちで不断に再生産されなければならない。歴史的前提が変化した場合には、交換の変形(Modifikationen)が生じる。すなわち問題は、こうした変形が合法則的なものとして認識されるかどうか、またそれが価値法則の説明として認識されるかどうかという点のみである。もしこのことが認識されるならば、今や価値法則もたとえ変形された姿態においてであるとはいえ、交換ならびに価格変動を支配していることになる。その場合には、この価格変動は、もっぱら、本源的な、価値法則の直接の支配の下にある価格変動の変形として把握されうるのである」<6>
 「したがってマルクスの価値法則は、第3巻の結果によって廃棄されてしまうものではなくて、ただ一定の仕方で変形されたものに外ならない、と考える」
 「むしろ価値法則は社会的生産物およびその各部分には直接に妥当するけれども、資本家的に生産された個々の商品の価格においては一定の合法則的な変形があらわれることによってのみ、みずからを貫徹するのである。だが、この合法則的な変形は、社会的連関の暴露という、価値法則がわれわれによって与えてくれるものによってのみ、把握されるのである」
すなわち、ヒルファディングによると、価格の価値からの乖離は、資本制経済における価値法則の変形であり、その変形が価値法則から合理的に説明されるかぎり価値法則は引続き貫徹していることになるのである。この点で一つは、マルクスが第3巻で端緒的説明を与え、その後議論が発展していった、価値体系からの生産価格体系の導出といういわゆる転形問題を意識していることは明かであろう。
 以上のように、ヒルファディングは、労働価値説に対するベーム=バベルクの批判に対する反批判として、第1段階ではまず労働価値説が持っている歴史的かつ社会認識上の意義に基づいて、労働価値が人間の生産をめぐる社会的連関の表現であることを明らかにする。したがってそれは客観的でありまた現実性を持ったものである。そして第2段階では、労働価値法則が実際の価格関係を支配するし方について、価格は価値から乖離するがそれは一つの「変形」であり、それが合理的に説明されれば、価値法則が貫徹していることになる点を強調する。
 ヒルファディングのベーム=バベルクに対する反批判の中心点は、この労働価値説に関する第1の点を指摘したところにある。したがって労働価値説に対する批判は同時にマルクスの歴史観、社会観そのものに対する批判でなければならないのである。そしてそれはベーム=バベルクのまったく意図しなかった点であろう。
 このヒルファディングの議論によってわれわれは、マルクスの労働価値の規定性についての立論の整合性を確認することができる。したがって、マルクスにおいては利潤の存在条件は剰余労働から説明されなければならなかったのである。そして、先にも述べたように、マルクスの基本定理はさらに数学的整合性をもってこのマルクスの立場を補強したのであった。したがって、このマルクス自身の経済学の重要な展開という意味で、すなわち肯定的なものとして、われわれはその第1の意義を確認できるのである。しかし、この定理は、同時に否定的契機としての意義をもつものでもあったのである。
 それはこの命題が数学的な定理として証明されたことによる。まず、それは単純に形式的な同値命題としてあらわされている。すなわち、その形式からすれば一方的な条件づけの関係を意味しているのではなく、相互規定的なのである。そうした同値命題そのものから、一方的な規定性は絶対にでてこない。しかし、これについてはすでに述べたように、この命題の外で労働価値のより規定的な理由が示されているので問題とはならない。この問題は、簡単にクリアできるのである。より根本的には、それが数学的な整合性を掲げて登場することによって、労働価値がどのような意味で現実性をもつのかについての疑問が提示されたことである。置塩氏は、線形の等式体系モデルでその定理を示したが、これに対して森嶋通夫氏が、そのモデルでは複数技術あるいは結合生産といった、現代の生産技術で無視できない側面を表現することができないと指摘したのである<7>。置塩氏のモデルでは、各産業がだ一つの生産物を生産するだけであり、またその生産物はただ一つの技術によって生産されるとなっている。この、一つの産業が複数の生産技術をもっている場合については、ただ、現実の最も支配的な生産技術を考えればよいのであるから、結合生産というのは回避できない欠陥となっている。それは、穀物体系のところで、結合生産を含んでいるわれわれの基本モデルでは、等式の体系にすると価値を決定できないことを指摘したが、それとまったく同じ構造をもった問題なのである。しかしこの限界をどう評価するかという点では、いろいろな立場が考えられる。結合生産が現代の資本制経済において大きな現実的意味を持っていることは明かであろう。その経済の基幹的産業であればあるほど、そこのおける結合生産の位置づけも大きなものとなっている。この点は、置塩氏も指摘している点である。
「現代の生産過程においては、結合生産物の存在は無視できない。これを考えに入れたとき価値規定がどうなるかは、極めて重要且つ困難な問題である」<8>
また、塩沢由典氏の、この問題についての考え方は、一つの典型であろう<9>。すなわち、それは問題の存在は認めつつ、それ自体を大きな問題としないということである。確かに、結合生産の場合において、価値が表現できないというのを、大きな問題ではないと評価してしまえば、それで理論としては自己完結的である。また、それによって労働価値体系そのものも、軽視してしまうことも可能である。しかし、それはこの問題を一つの否定的契機として新しい理論的発展の可能性に目をつぶってしまうことでもあるのである。置塩氏のよって示されたマルクスの基本定理は、古典的な労働価値体系のもつ意義の最も完成された表現の一つである。そして、その問題との関連でだされた森嶋氏の指摘は、古典的枠組みの中では解決できない問題であり、新しい理論の枠組みが必要なものなのである。われわれが、本書において展開しているのは、この問題を正しく位置づける一般的な理論的枠組みに他ならないといえるのである。すなわち、それは決して、数学的論理において提起された問題だから、新しい数学的な議論によって解決されるというものではないのである。それは古典派経済学が提起した、経済学の基本概念そのもの、すなわちこの章で議論した富、あるいは価値といった基本概念そのものの再考が求められるような課題なのである。
脚注
<1>置塩(1965)、(1977)参照。
<2>この文献と次の文献は、SWEEZY(1949)に負うている。
<3>種瀬(1986)も参照せよ。ただし、そこでの効用価値説についての評価にはまったく同意できない。
<4>SWEEZY(1949)、邦訳 P.159。
<5>同、P.163。
<6>同、P.187−。
<7>Morishima(1973), Morishima and Catephores(1978)など参照。
<8>置塩(1965)、p.25。
<9>塩沢(1983)、参照。
2 「一般化された基本定理」の再構成<1>
(1)はじめに
 ここでは、は森嶋によって与えられた「一般化されたマルクスの基本定理」の証明を再検討し<2>、その中で明らかにされていない、仮定と命題の間のより精密な関係を明らかにしていくことである。それはまた、われわれが剰余条件の同値性で示した結論の、剰余労働の存在条件と利潤の存在条件の証明の一般化ともなる。
 森嶋氏の証明では財体系と評価体系についての命題が不可分のものとなってている。しかしこの論稿では保証利潤率の存在の必要十分条件としてのマルクスの基本定理と、能力成長率の存在の必要十分条件としてのマルクスの基本定理はそれぞれ独立に証明され、そのために最低必要な仮定も同じでないことが示されるだろう。厳密には前者のための仮定は後者のそれよりも一つ少ないのである。そしてそれは、森嶋氏とは異なった証明方法を用いて示されるだろう。
(2) 有効価値領域と搾取の定義
 以下では、フォン・ノイマン型の技術を前提にしよう。すなわち、A を n×m の投入マトリクスで、その第 i,j 要素は j行程を単位水準で稼働させるのに必要なi財の投入量である。B は同じ次元の産出マトリクスであり、その第 i,j 要素は j行程を単位水準で稼働させることによって生産される第i財の量である。当然だが A,B0<3>である。lを直接労働投入行ベクトルとしてその第 j要素は、j行程を単位水準で稼働させるのに必要な労働の投入量である。lについてはフォン・ノイマン技術体系を用いることの意義を生かすために完全な正ベクトルであることを前提にしない。すなわちl0である。
<定義 1>
  集合 T={t|tB≦tA+l,t≧0}を有効価値領域とよぶ。
 この定義が意味していることは、有効価値領域に属するどの価値ベクトルを用いても各アクティビティについて投入された直接労働量と投入財価値以上に産出された財の価値は評価されない、また逆にその条件を満たす非負ベクトルは全てその領域に属する、ということである。この定義は、これまでと異なった何か全く新しいものを持ち込むためのものではない。そのことは、後に示される、この有効価値領域を用いたわれわれの搾取の定義が森嶋のそれとと全く同一の内容を持つものであることをみればはっきりするだろう。
<仮定 1>
技術体系は純生産可能条件を満たす。Bx>Ax を満たす x≧0 が存在する。
 この条件は生産が意味を持つために、いかなる活動も全て消耗になってしまうことがないように、技術の最低満たさなければならない条件である。ゲールの二者択一定理<4>によればこの仮定は次の仮定と全く同値である。
<仮定 1'>
pB≦pA を満たす p 0 は存在しない。
 ところで、この自然な仮定は有効価値領域に一つの重要な性質と全く同値な内容を持っていることが次の補題によって解る。
<補題1>
体系が純生産可能条件を満たすための必要十分条件は有効価値領域が有界であることである。
  証明
 有効価値領域Tは凸閉集合である。閉集合であることは明らかなので凸性だけを示すと、t1、t2 T で、t1B≦t1A+l、t2B≦t2A+l、t1,t2≧0 ならば 0≦α≦1 を満たす任意のαについて [αt1+(1-α)t2]B=αt1B+(1-α)t2B≦αt1A+(1-α)t2A+l=[αt1+(1-α)t2]A+lであるから、αt1+(1-α)t2 Tとなるからである。
 いま純生産可能条件を満たすにもかかわらず、Tが有界でなかったとしよう。Tが原点を含み凸閉集合であるから、原点を通り正象現内に延びる半直線でTに含まれるものがある。その構成比をsとしよう。s 0 である。sB−sA≦lであるが、sの正数倍したベクトルが全てTに含まれることを考えると sB−sA≦0でなければならないことが解る。これは純生産可能条件が満たされていることと矛盾する。逆に純生産可能条件が満たされていないならば、pB−pA≦0 である p 0 が存在する。その正数倍ベクトルは全てTに含まれるので、Tは有界ではない。 証明終わり
純生産可能条件が全く技術体系に関する条件であるので、ここまでそのために必要な記号だけを用いてきた。ここでは、さらに分配に関わる条件として実質賃金バスケットをあらわす列ベクトルを d ( 0)としよう。以下でわれわれが注目しようとしているのはこの d ベクトルと有効価値領域との関係である。そしてそこでの議論を虚しいものとしないために必要な次の仮定を導入しよう。
<仮定 2>
実質賃金バスケットを生産するために労働は不可欠である。すなわち、Bx≧Ax+d を満たす任意の x≧0 について lx>0 である。
 これも極めて自然な仮定である。必要労働が 0 となる場合を排除している。この仮定が有効価値領域との間に持っている関係は次の補題によって明らかにされるだろう。
<補題 2>
実質賃金バスケットを生産するために労働が不可欠であることと有効価値領域に含まれる価値ベクトルの中で実質賃金バスケットの価値を正にするものがあることは同値である。
証明
 いま Bx≧Ax+d を満たす任意の x≧0 について lx>0 であるとしよう。線形計画の双対性の定理によって tB≦tA+l,t≧0 を満たすtのなかで lx=td となるものが存在する。したがってそれは td>0 となるものの存在を意味する。逆に、Bx≧Ax+d を満たすx≧0 のなかでlx=0 となるものが存在したとしよう。そのx と有効価値領域にある任意のt について lx≧tdが成立する。したがって td=0 である。 証明終わり
 以上の二つの補題はわれわれが搾取を議論することが無意味ではないこと保証している。そこで搾取を次のように定義しておこう。
<定義 2>
有効価値領域に含まれる価値ベクトルの中で実質賃金バスケットの価値を1にするものが存在しない場合を搾取があると定義する。すなわち S={s|sd=1、s≧0}として、ST=φ を搾取が存在するという。
 この定義が意味あるためには次の点を考慮しなければならないだろう。まず、いかに実質賃金を低くしようともこの定義によって搾取が存在しないことになってしまわないかが検討されなければならない。しかしこのような状態は補題1によって排除されているのである。さらに、もしいかに実質賃金を高くしようとも搾取が存在するという状態は起きないかという問題もある。しかしこの状態は補題2によって排除されているのである。
 このわれわれの搾取と森嶋が定義した搾取とは数学的には全く同値である。すなわち一方の定義によって搾取が存在する状態では他方の定義においても必ず搾取が存在するのである。森嶋の定義によれば Bx≧Ax+d を満たすx≧0 のなかでlx を最小にする x について lx<1 を搾取のある状態と定義している。線形計画の双対性の定理より tB≦tA+l,を満たす t≧0 と、Bx≧Ax+d を満たすx≧0 のなかでtd=lx となるものが存在し、それは各々の制約の中でtdを最大にしlxを最小にするものでもある。したがって、われわれの定義は次の搾取の定義と全く同値である。
<定義 2'>
Bx≧Ax+d を満たすx≧0 のなかでlx<1となるものが存在する。
 ただ、森嶋の定義との違いは、われわれの場合は必要労働が特定の値に定まるかどうかを問題にしないだけである。しかし、そのことで線形計画の方法が持っている人の思考に与える一種の呪縛性を取り除けるし、さらにそれは搾取理論を新たな方向に展開するのに非常に重要な働きをするだろう。
(3) 保証利潤率とマルクスの基本定理
 
 保証利潤率は、森嶋と同様に次のように定義される。
<定義 3>
pB≦βp(A+dl),p 0 で、βを最小にする解についてβ−1を保証利潤率とよぶ。
 通常の解釈では、これは経済全体として最大利潤率が支配的で、かつその最大利潤率が競争などの条件によって最小にされて行くと考えていることになる。リカード、マルクス以来それは順調な資本移動が最大利潤率を達成している産業に移動することを考えられてきた。資本移動の動学的過程が長期的に安定であることを暗黙の前提にしていたように思われる。しかしそうした考え方による直感的理解が必ずしも支持されないことが議論されてきている。二階堂氏は二部門線形動学体系で両部門の有機的構成の条件によって不安定な経路の可能性を指摘し<5>、置塩氏は同じく二部門のハロッド動学体系が基本的に不安定で一般利潤率がバンバン過程の長期的な傾向としてのみ現実的であるとしている<6>。いずれにしても保証利潤率が成立する状態は現実の経済の本質的な抽象かの結果であると考えるのが妥当である。
この節では、この保証利潤率が正であるための必要かつ十分な条件が搾取の存在であることが示される<7>。しかし、経済の何等かの均斉成長状態を考慮できる財体系については全く検討の対象とせず、それとは独立に評価体系のみで議論している。というのは、マルクスの基本定理が本質的に分配の問題として提起されているものだと考えるからである。例えばたとえ搾取が存在しなくても経済は成長能力を持ちうる。これについては、労働者が所得を受け取ったその期に必ずしも消費せずその一部を退職後に消費するという消費のラグを考えると成長能力を持ちうることがフォン・ノイマンの技術の下で証明されている<8>。マルクスによる搾取の定義そのものが分配の問題として定式化されているのであるから。
ここでの証明は極めて簡単である。
<定理 1>
仮定 1、2 の下で、保証利潤率が正であるための必要十分条件は搾取が存在することである。
証明
 十分条件から示そう。いま、搾取が存在するにもかかわらず 0<β<1 だったとしよう。(ここで β は 0 にはならない。なぜならそのためには B の中に正の要素を全く持たない行がなければならないが、そうであれば純生産可能条件を満たせないからである。) ところで、その最小のβに対応する価格ベクトルは明らかに pB≦p(A+dl)、p 0 をも満たす。もし pd=0 ならば、pB≦pA、p 0 となり、純生産可能条件と矛盾する。pd>0 ならば、pd=1に正規化できる。すなわち、pは有効価値領域Tに含まれかつpd=1であり、搾取が存在しているという条件と矛盾する。
次に必要条件を示す。最小値がβ>1であるにもかかわらず、搾取が存在していないとしよう。したがって、tB≦tA+l、td=1、t 0 を満たす t が存在することになる。tB≦t(A+dl)、t 0 だから、β>1 に矛盾する。 証明終わり
われわれの証明は財体系とは独立に正の保証利潤率の存在のための必要十分条件が搾取の存在であることを示している。森嶋の方法では、評価体系だけではその十分条件しか示せないのである。しかも、重要な点はそのことによって仮定を一つ節約しているのである。森嶋の方法でこの必要条件を出すためには次節で定義する能力成長率についての仮定が必要なのである。
(4) 能力成長率とマルクスの基本定理
 ここまでの議論を支えているのはごく自然な、従ってまた現実的な仮定であった。それによって導き出されてきた保証利潤率と搾取の存在との同値関係は本質的な関係である。それは、マルクスが提起した資本の諸特徴を決定的に規定しているのである。なぜなら利潤追求こそが資本の規定的目的だからである。それに比較すると「成長」というのは従属的な問題である。資本の直接の動機からみれば利潤が約束されると期待するからこそ投資をおこなうのである。経済学は投資が行われなければ資本にとって好ましくない状態が生じることを明らかにしてきた。しかしそれは資本にとってさしあたりどうでもよいことなのである。定理1を証明するに当たって森嶋より一つ仮定を節約したことの意義はこの点からも確かめられるであろう。
森嶋の一般化されたマルクスの基本定理は経済が成長能力を持つことと搾取存在の同値性も証明している。われわれの方法の有効性を確かめるためにもこの問題も検討しておこう。
<定義 4>
Bx≧η(A+dl)x、x 0 の制約の下でηを最大にする解についてη−1を能力成長率とよぶ<9>。
この能力成長率について直ちに次の補題が証明される。
<補題 3>
仮定 1、2の下で、搾取が存在するならば能力成長率は正である。
証明
純生産可能条件が満たされているので Bx>Ax を満足する非負ベクトルx が存在する。そのベクトルを適当に正数倍することによって、
      Bx>Ax+d
とできる。財の順番を並び変えて、
d1
d=( ) d1>0 
0
となるようにする。それに対応して投入、産出マトリクスも分解しておこう。
B1 A1
B=( ) A=( )
B2 A2
したがって、
   B1x>A1x+d1
   B2x>A2x
である。ところで、仮定2によりlx> 0 だが、それは必ずしも1より小さくないので、実質賃金バスケットで正の要素となる財の番号だけを更に並び変えて、 B11x>A11x+d11lx
B12x≦A12x+d12lx
B2x>A2x
となるようにしておこう。
次に搾取が存在しているということは、先にも述べたように、
     By≧Ay+d、 0<ly<1
を満たすyが存在するということである。したがって d1>0 に注意すれば、
B11y>A11y+d11ly
B12y>A12y+d12ly
B2y≧A2y
となる。ここで、z=(1−α)y+αx、0<α<1としよう。αを十分 0 に近付けると、
Bz>(A+dl)z、 z 0
とできる。従って、
Bz≧η(A+dl)z、 z 0
で、η>1 となるものが存在する。従って能力成長率は1より大きい。
証明終わり
 この補題の内容そのものは、森嶋の命題から予想されるものである。森嶋の方法と比較した場合重要な違いはこの命題が定理1から独立に証明されることである。さて最後に、能力成長率についてのマルクスの基本定理を証明しよう。しかしそのためには、今までの仮定だけでは足りない。次の仮定が必要である。
<仮定 3>
経済が能力成長率で成長するためには労働が不可欠である。
この仮定の意味は次のように考えるといいだろう。もしこの仮定が成立しないとすると、労働を使わずに成長しているのだから完全なオートメーションを考えれば良いかも知れない。しかしそこでは労働者の消費にはいるような財は全く生産されていないのである。仮定2が効いているからである。しかし人間の労働を全く用いない経済の運動はそもそも想像することが困難である。人が死滅した後の世界に機械(コンピュータ?)だけが動いている。たとえ仮定2がなかったとしても、そういった経済はいったい誰が動機づけるだろうか。
これで森嶋が用いた仮定が全て出揃ったことになる。
<定理 2>
仮定1、2、3の下で、能力成長率が正であるための必要十分条件は搾取が存在することである。
証明
すでに十分条件は補題3で証明されているので、ここでは必要条件だけを証明しよう。いま能力成長率η−1が正で、その解ベクトルをxとしよう。すなわち、 Bx≧ηAx+ηdlx
である。仮定3よりlx>0 であるから ηlx=1であるようにxを正規化する。η>1だから、
lx<1
である。さらに、
   Bx≧ηAx+d≧Ax+d
すなわち搾取が存在する。 証明終わり
脚注
<1>以下は、基本的にWashida(1988b)の再掲である。
<2>Morishima(1974)(1978)。
<3> ベクトルの不等式は次のように表す。ベクトルx、yについて、全てのそれらの要素が xi≧yi のとき x≧y、また x≧y でそのうちの少なくとも一つの要素についてxi>yi のとき x y、さらに全ての要素について xi>yi のとき x>y と表す。
<4>Gale(1960)参照。
<5>Nikaido(1985)。
<6>置塩(1977)。
<7>Fujimori(1987)も参照せよ。
<8>Washida(1988a)参照。
<9>ここまでの条件では能力成長率が有限になるとは限らない。もし財を全く使用せず、労働も使用しないで生産を行う行程が存在すると無限の能力成長率を持つことになる。一般にフォン・ノイマンモデルを考慮する場合は全ての行程は何らかの財の投入を必要とするという仮定によって排除されているのである。確かに、全くなんにも用いずに生産される(空気のようなもの)というのは非経済的かつ非現実的であるが、この段階までの議論ではそれをあえて排除する必要はない。そういう場合を考慮しても次の補題3は全く有効である。そして、最後で導入される仮定3はこうした無限大の能力成長率という状態を排除しているのである。また、定理2においてはその有限な能力成長率を前提に証明が行われている。