第2章 経済成長の理論
第4節 経済成長と欲求の論理
1 ヘーゲルと欲求発展の動学
 経済体系の動学的な変化、特にその長期的傾向を成長という言葉よって表現することは、われわれにまた新たな検討すべき題材を提供する。成長というのは、先にも述べたように、一般に対象の個体としての完成への変化を意味している。生物の成長は必ずその完成の段階、成熟の段階を迎える。そしてまたそれはいつか個体としての生命の終わりへ行き着くのである。したがって、一つの富によって導かれた経済体系が成長していくのも、これと同じような過程を経ていくのだろうかという問題があらわれるのである。この節と次の節で、この点に関する手がかりを探ることにする。
 さしあたってわれわれが問題にするのも、この資本制経済である。この経済が歴史上本格的に登場して二百年以上の歳月が流れた。そして現代において、先進諸国では爆発的な成長を実現している。この成長は短期的な恐慌を含みながらも、長期的には終末を予測させることなく続くのであろうか。この問いはまた同時に資本制経済は成長と同じように持続的なものであるのかという問いでもある。というのは、この経済は成長が富の存在そのものと不可分に結びついている特殊な経済体制だからである。したがって、成長が持続するかという問題はまた資本制経済が持続するかという問題でもあるのである。資本制経済を前提にしながら、成長しない経済を考えることは、はなはだしい自己矛盾なのである。
 資本制経済においては、経済の運動が利潤追求によって動機づけられている。それこそが社会的な富の実現と措定されているのである。その富の追求は必然的に資本の蓄積を実現し、社会的な生産物を拡大していく。そしてその量的にも質的にも拡大された生産物は、また拡大された社会欲求によって消費されていく。古典派経済学がその中心的テーマとしたのは、この経済のエンジン部分の理論的実証的な分析に他ならなかった。古典派経済学は、この資本制のエンジンが基本的に健全に、そして長期的に有効に稼働していく見通しを結論として表明した。先にも述べたように彼らのこの見通しは、それ以後のまさに長期といえる期間をとってみると基本的に正しい見通しであったことが証明されている。それは、彼らが経済学の内容としてとらえていた諸現象、理論的対象においてこの彼らの基本的見通しを覆すほどのものが存在しなかったのである。したがって、彼らの見通しは今日経済が長期にわたって成長してきた段階において対象となり得ているすべての現象を考慮にいれ場合に、同じようにまた正しいといいきれるとは限らないのである。
 こうした古典派経済学者たちがとらえた基本的な資本制経済の動学的な体系において、ここでより解明しなければならないのは、経済的諸財貨の生産水準の発展に対応して人間の欲求が発展していくという事実である。それは、必ずしも物的発展に比して欲求の発展が消極的な内容を持っているとは限らない。二人三脚的な発展を実現するのである。すでに述べたように、こうした側面をはっきりと認識していたという点でリカードはまた偉大である。彼の欲求の無制限性についての命題は必ずしも理論的内容、根拠といったものを持ってはいないが、その重要性をはっきり認識しているという点ですぐれているのである。したがって、資本制のもとでの長期的な経済成長の実現というものの現段階までの現実性と将来の可能性を分析しようという、われわれの意図からみれば、この人間的な欲求の無制限性というものを正確に分析することが大きな意味を持っていることは明かであろう。問題は、人間的な欲求の無制限な発展はどのようにして実現しているのかということである。一般に、この問題は資本制における蓄積のメカニズムの解明という課題にたいして、補足的で受動的な位置しかもち得ないと考えられていた。すなわち、欲求の問題は単なる生産に対する需要の問題として、マクロ的には総生産に対する総需要が十分に発生するのかという問題として、ミクロ的には諸財貨に対する需要の構成比はどのようなものかという側面としてしかとらえられてこなかった。しかし、こうした古典派経済学が提起した長期的な成長理論に直面するとき、そうした欲求の静学的、一時的な問題ではなく、より動学的な性質を問題にせざるを得ないのである。すなわち、長期的な生産の巨大な展開に、大きく遅れることなく、あるいはそれらをリードするかのように、いかにして人間的欲求は発展を遂げてきたのか、という問題である。
 資本制経済における欲求の問題の重要性をとらえている点で無視しがたいのは、ヘーゲルである。かれは、『法の哲学』の中で市民社会(われわれの議論からは、資本制社会と考えてよい)の契機を「欲求の体系」としてとらえている。市民社会において具体的人格は「もろもろの欲求のかたまり」であり、欲求の体系とは、資本制における、私的所有にもとづく諸個人の目的の独立性と、社会的に展開された生産の相互依存性を、主観的側面から把握したものである。さしあたってヘーゲルは、市民社会を主観的欲求の相互依存体系としてとらえているのである。経済学的にこの理論を再評価すれば、それは主観的な評価の体系であり、したがって前章で議論した価値体系というものにつながるものである<1>。この欲求の体系における彼の主張はこの点が主要なテーマとなっているものであるが、われわれが注目するのはその側面ではなく、そこで語られている人間的欲求の無制限性についての彼の指摘である。ヘーゲルは人間的な欲求の動物的なそれとの違いについて論じている。
 「動物の欲求は制限されており、それを満足する手段および方法の範囲も、同様に制限されている。人間もまたこうした依存状態にあるが、それと同時に人間はこの依存状態を越えて行くことを実証し、そしておのれの普遍性を実証する。人間がこれを実証するのは、第一には、欲求と手段を多様化することによってであり、第二には、具体的欲求を個々の部分と側面とに分割すること、および区別することによってである」<2>
 「もろもろの欲求や手段や享楽をとめどなく多様化し種別化する社会的趨勢には、自然的欲求と文化的欲求との差異と同じように、限界がない」<3>
 動物の場合、その欲求の制限と手段の制限は直接的には因果的な関係ではなく相互規定的なものである。しかし、人間との比較においてみれば、動物の欲求の制限性は彼らの手段の制限性として見えてくる。これに対して、人間的なものとしてヘーゲルが対置するのはその普遍性である。ここでのヘーゲルの普遍性という概念はきわめて哲学的な概念であるが、敢えてそれを経済学的に翻訳すれば、人間の生産活動における全面的な相互依存性である。こうした全面的な相互依存性を実証することによって、人間はその欲求の制限性を克服しているとヘーゲルはみるのである。ヘーゲルがあげたこの実証化の二つの内容のうち、第一のものは欲求に直接関わるものである。すなわち、欲求の無限定性とは多様化の無限定性に他ならないことを、われわれは見落としてはならない。資本制経済の発展に対応した人間的欲求の発展とは、単なる量的な発展ではなく、必ず質的な多様性を伴わなければならない。われわれが、これまで提示してきた成長の理論モデルは、こうした質的な展開を捨象して、議論を量的な側面に限定しているという点で、こうした質的な多様性を取り扱う枠組みを持っていなかった。多様性を伴わず、完全に同一のものの量的発展が、人間の欲求に関わっても起こるとはまったく考えられない。欲求の対象となってきたものは、単に量的にのみ増大してきたことはほとんどなく、質の多様化と統一してだけ発展してきたのである。人間にとって質的な多様化が遅れたような、あるいは困難な欲求の対象は、量的にもほとんど発展しなかったといってよい<4>
 動物においては、こうした欲求の多様化はきわめて限定されている。存在しないのではなく、限定されているのである。しかもそれが外的環境に対して、本質的には受動的なものとしてか、あるいは偶然的である。
 こうした欲求の多様化はまた、人間においては同時にその実現手段の多様化でもある。それは、人間の生産活動のあり方に関連している。人間の欲求の多様化はすでに生産された対象に対して、それに追随して欲求があらわれる形で多様化するのではない。その生産に先立って、すでに主観的な欲求が確認されているのである。動的にとらえられる欲求の多様化は、一つの精神の創造的な運動の結果となっている。こうした創造性が動物的欲求との決定的な違いである。
 ヘーゲルが指摘する第二の点も欲求の無制限性を裏付けるものとして重要な意義を持っている。具体的欲求の分割とは、相互依存性に対応した欲求の体系の形成をあらわしている。私的所有にもとづく諸個人の独立性と、もう一方での全面的相互依存性の状態においては個人の特殊な欲求はそのすべてが自己の労働によって充足することはできない。自己の多様な欲求を実現するためには、彼自身の労働、生産活動の結果が、また他人の欲求に対応したものになっていなければならないのである。自己の労働生産物が、確実に他人の欲求に適合したものであることは強い要請である。他を排除して彼自身の生産物をそうしたものとするためには、他人に形成されている欲求を確実に把握することとともに、逆にそうした欲求の形成を促すことも重要な意義をもってくる。したがって、こうして欲求が個人の狭い領域にとどまらないこと、ヘーゲルの語法でいえば普遍性と特殊性の分裂という市民社会における事態が人間的欲求の多様な発展の重要な契機となっているのである。
2 自己実現への衝動としての欲求
 こうした経済学的にみた欲求の問題では、マルクスの欲求の生産に関する理論にふれざるを得ない。彼は『経済学批判要綱』への序説の中で、欲求の生産を媒介にして生産と消費の同一性をといている。マルクス自身「ヘーゲル学徒でもあれば、生産と消費の同一性を措定することほど簡単なことはない」と述べているように、ヘーゲル論理学の影響を強く受けた仕方で、この問題をといている。彼の生産と消費の同一性の命題の全体を検討する必要はないので、それが欲求の生産と関わらせて述べられているところだけに注目して検討しよう。まず彼は、消費が欲求を生み出し生産への衝動を形成することを次のように述べている。
 「(消費が生産を生産するというのは)消費は新しい生産に対する欲求をつくりだし、こうして生産の前提であるところの、生産を内部から推進するその観念的な根拠をつくりだすからである。消費は生産の衝動をつくりだす。それはまた、生産において目的を規定するものとして作用するような対象をもつくりだす。それゆえ、生産が消費の対象を外的に提供をすることが明らかだとすれば、消費が生産の対象を、内的な像として、欲求として、衝動として、目的として、観念的に措定することもまた同様に明かである。消費は、生産の対象を、いまだ主観的な形態においてつくりだすのである。欲求がなければ生産もない。しかし消費は欲求を再生産する」<5>
 また逆に生産もまた消費の衝動、欲求を再生産すると次のように述べている。
 「生産は欲求に材料を提供するだけでなく、また材料に欲求を提供する。・・・・消費が対象に対して感じる欲求は、対象の知覚を通じてつくりだされる。芸術作
品は他のどんな生産物も同様だが、芸術を理解して審美鑑賞する能力
をもつ公衆をつくりだす。それゆえ生産は、主体のために対象を生産するだけでなく、対象のために主体をも生産する」<6>
 このマルクスの議論のうち、後者の議論は具体性があり、またわれわれがこれまで議論してきた点とも直接関連している。それまで、すでに個人が知覚したさらには消費した対象でなくても、新たに生産されている対象であるならば、確かにそれに対する欲求の生産は強い可能性をもっている。実際、先にもこの点は一般的に指摘したところであるが、生産する側が自己の生産物に対して人々の欲求をつくりだせるかどうかは、この競争社会においては決定的は重要性をもっているのである。資本制経済は、この生産物の宣伝のために膨大な費用を投入しているのである。新製品とは、それがすでに公衆の中に欲求として存在している対象ではなく、公衆の欲求とすることが生産の側からみて可能なものなのである。したがって、資本制経済が対応した富を生産しなければならないということは、またその対応した欲求を生産しなければならないということである。しかし、これはまたわれわれの出発点の疑問に立ちかえってしまっていることになる。というのは、何故にまたこの資本制経済はその巨大な富に対応した欲求をつくりだすことが可能なのかという問題がまたここであらわれるからである。
 われわれの問題に対して、マルクスの最初の指摘の方がより注目すべきものである。消費が欲求を生み出すというのは、後者の指摘ほどの直接性と具体性はもっていない。逆に消費は、欲求を消滅させる側面をもっている。消費とは、それ自体欲求の実現だからである。
 消費とは、対象の獲得であり、破壊的な一体化である。そして、重要なことはそれによって自己実現が行なわれることである。人間の自己実現は、単にその生命を維持することではない。人間はそのあり方とともに自己を実現するのである。したがって、欲求とは実現されていない自己の自覚と、その成就への衝動をあらわしているものなのである。人間は、本来そうであった自己、そうであるべき自己、そうありたい自己に対して、欠落したものをとらえるとき欲求が生み出されるのである。それゆえ、欲求とはまた自己否定でもある。自己の否定に直面した意識である。欲求とはその意味で、人間自身の再生産への衝動に他ならない。
 こう欲求をとらえたとき、消費によって欲求が生み出されるということは何を意味しているだろうか。消費とは、欲求が充足されることであり、対象が破壊されていく過程である。しかし、この消費としての破壊の過程はさしあたって二つの種類のものが確認される。物理的な破壊と精神的な破壊である。精神的破壊というのは、あらゆる消費対象が常にそれとしての精神的充足をともなうものであることによって、その帰結として生じるものである。人間にとっての充足という行為は、また常に充足すべき対象であることを否定するのである。あらゆる対象の消費過程は、両者の色合いの違いはあれ常にこの二つの破壊の過程である。そして、その破壊の過程はまた、自己否定の過程であり、したがってまた欲求の創造の過程でもあるのである。われわれは、マルクスの消費が同時に欲求の生産でもあるとする場合以上のような枠組みで理解することができる。
 ヘーゲルからマルクスにかけての人間的欲求についての理論は、相対的な意味で外面的な分析である。人間的欲求が人間的な過程として、その内面的な過程と分析されているとはいいがたい。欲求の創造過程を内面的に探るというのは、経済学ではひどく嫌われることである。なぜならば、それは経済学の領域を飛び出して、心理学の世界に行き着くようなものであるからである。経済学は、人間の心理的側面からはなれて、客観的世界の法則を明らかにすることを徹底的に好むからである。しかし、われわれはこの種の危険を犯さなければならない。マルクスの、消費が欲求を再生産するという主張は、われわれが人間的欲求創造の、内面的な過程に入っていくのを導いた。われわれは、マルクスに沿ってさらに先に進まなければならない。
3 必要としての欲求と剰余としての欲求
 注目するのは、マルクスの「必要」と「剰余」という概念である。マルクスの経済理論の中心的概念は剰余価値、剰余労働である。これにはまた、労働力の価値、必要労働という概念が完全に対応している。これらの概念の基本的構造については、すでに前章で議論しているので、あらためてここで繰り返す必要はない。これまで議論した欲求の理論との関連で、マルクスがこれらの概念を定式化する上で、必要と、剰余という概念を経済学的にどのようなものとして設定しているかに簡単な分析を加えることから始めよう。
 マルクスは、その必要労働というのを、労働力を再生産するのに「必要」な労働として次のような内容をもつものとして定式化する。まず第一にその労働力の維持に直接必要な生活資料を生産するのに必要な社会的な労働である。第二には、労働者そのものの再生産のために、労働可能な年齢になるまでの必要なその子孫の生活費である。第三には、社会的に平均的な熟練度をもって労働力となるために必要な教育費である。こうしたものが、厳密にはどのように計算されるべきであるかというのは、次章において示される。これらはすべて、労働力の再生産に「必要な」消費水準に帰着する。というのは、これら三つの分類のそれぞれが社会的な生産物を消費するから、その必要な労働が計算されるのである。したがって、その「必要な消費水準」は、明らかに欲求というものに媒介されて設定されるのである。実際、マルクスはこの第一の点に関して次のように述べている。
 「食物や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲求そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。他方、いわゆる必要欲求の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか、によって定まるものである。だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合と違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである」<7>
 ここで、自然的な欲求と必要欲求を対立した概念ととらえてはならない。マルクスが対比させているのは、それらの欲求の自然的な規定性と、歴史的な規定性についての違いなのである。マルクスの必要欲求と自然的欲求はまったく同値なものであるとは言えないにしても、前者が後者を含むことは間違いない。実際、マルクスの必要労働という概念は、ここで自然的欲求の対象となったものの生産に必要な労働も含んでいるからである。マルクスは、まさにここで欲求というものの中に必要としての欲求というものが存在していること、そしてそれが彼の「必要労働」という概念に即して、労働者の労働力の再生産に必要な消費水準というによって限定的に与えられていることを示しているのである。したがっていま、一人の社会的にみて平均的な労働者、すなわち彼の労働力の熟練度は平均的で、彼のその労働力の再生産に必要な消費の水準も社会的にみて平均であるような労働者である。マルクスの、必要労働力を構成する第二、第三の点を省略すれば、彼のそのような消費への欲求の水準は、必要としての欲求の水準ということになる。マルクスは、一定の期間の平均をとってみれば労働者の消費水準は、この必要としての消費水準に押し込められていると考えている。マルクスは一日の労働時間(すなわち労働日)のうちから彼の一日分の労働力の再生産に必要な労働時間、必要労働時間を差し引いたものを剰余労働と規定している。では、この必要としての欲求に対応した剰余としての欲求は、このマルクスの枠組みにあらわれるかというのは、直接に答えがあらわれる問題ではない。
 必要としての欲求は、ここの労働者に関して二重の仕方であらわれていることに注意しなければならない。個別的なあり方と、社会的なあり方である。労働者個人にとっては、彼が消費しようとするところのものすべてに対する欲求は、必要としての欲求である。すなわち、彼自身の生命と、その労働能力を生み出すために必要なものに対する欲求である。しかし、それはまた社会的なその全体の一部分としての意味ももっている。すなわち、そうした労働者の全体によって消費される財貨は、社会的にみた必要な消費財であり、それに向かう欲求の総体は社会的にみた必要としての欲求である。というのは、それは社会の全生産物を生産するのに「必要な」労働力を生み出すものとしての欲求だからである。したがって、そこに登場する「必要としての欲求」はそれ自体としては、異なったものなのである。個人が、その生命と労働能力の維持に「必要な欲求」と、社会がその生産物の全体を生み出すために必要な労働力を再生産するために必要な諸財貨に対する欲求という意味での「必要な欲求」が、二重に労働者個人に対象化されているのである。したがって、この後者の観点、すなわち社会的観点に立つと、労働者の消費に向かう財貨以外の財貨に向かう欲求は「剰余としての欲求」と定義してもよいような気がする。しかし、このように単純に結論してはならない。われわれは、マルクスがこうした議論を労働価値体系を前提にしながら行なっていることに注意しなければならない。実際ここまでの議論は、マルクスのこの議論の仕方に強く影響されているのである。
 そこで、マルクスの議論から抽出してきた「必要としての欲求」と「剰余としての欲求」という概念を、もう少し一般性のある舞台で用いることを考えよう。マルクスの場合、必要という概念が人間的な能力と結びついて用いられていたことに注目する必要がある。必要欲求とは彼の労働能力を維持するための欲求であるのだが、その労働能力とについてマルクスは次のように定義している。
 「われわれが労働力または労働能力というのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである」<8>
 このマルクスの指摘の中にもあらわれているように、労働能力ということで人間の内に存在しているすべての能力をあらわしているのではないし、またそうした能力から独立してその能力が存在しているわけでもない。労働能力が維持されるというのは、人間が人間的生命として維持されることによって、すなわち単に労働に関わる能力だけでなく、人間の肉体と精神の総体そのものが維持されることによって実現されるものなのである。すなわち、労働能力が再生産されるというのは、人間的生命が、その生命力の総体が、再生産されることによる単なる副産物にすぎないのである。このことから、われわれは、必要としての欲求によって実現が意図されるのは、単に労働能力ばかりでなく、人間的生命力のある一定の水準も意味していることを知らなければならない。以上のような考察を前提にして、必要としての欲求を人間の一般的な能力を維持するための対象を獲得しようとする主観的衝動と定義しよう。
 また一方で、前章のマルクスによる「自由な時間としての富」のところで詳しく検討したように、彼には剰余労働、すなわち社会的な剰余時間が人間の一般的能力を発展させる上で不可欠の条件であるという考え方が存在している。いまこれが労働価値の上で規定されていることを捨象して、一般的に剰余こそが、人間的能力の創造的な発展を実現するものであるととらえると、剰余としての欲求とは、その対象が人間的能力の発展を可能にするものを獲得しようとする主観的衝動と規定される。
 すでにわれわれは、欲求が一つの自己否定の意識である点について述べたが、それを併せて考えれば、必要としての欲求というのは、もしそれが実現されない場合、すでに獲得したところの自己の人間的能力の喪失状態を生み出すような欲求である。しかもまた、人間は、その欲求の実現はその欲求の解消であると同時に、また対象の物理的および精神的破壊を通して、欲求そのものを生み出すことになるような、一つの欲求の単純再生産状態に陥る。これに対して、剰余としての欲求はその実現が、必要の場合と同じような過程を通して欲求を生み出すことになるのであるが、それによって拡大された人間的能力は、それを維持するための欲求を必要としての欲求として再生産することに注意しなければならない。そして、また剰余としての欲求は、必要としての欲求とは異なり、その実現によって新たな欲求を創造する特別な機能をもち得るものなのである。したがって、剰余としての欲求は常に拡大生産的である。第1章第6節にあるマルクスの人間的能力の発展に関する引用が意味するところは、この点なのである。
4 資本制のもとでの欲求発展の個人主義的性格
 マルクスの場合、こうした必要と剰余という観点がすべて時間の観点から、すなわち労働価値説の観点からみられているので、こうした欲求の発展が資本制経済の場合にどのような内容をもつのかというのが直接にはでていない。しかし、われわれが、この節で解明しようとしているのは、資本制経済において欲求の無制限的な発展がどのような内容あるいは構造をもっているのかであった。そして、資本制における、欲求の必要と剰余という二つの側面のあいだの直接的な関係性は、徹底して個人の立場からのみとらえられるということが重要な特徴となっている。これに対して、マルクスのようにこの経済を労働時間価値というフィルターからみていくと、必要労働時間としての欲求が社会的集団としての労働者階級に帰属し、それによって生み出される剰余としての時間を対象とする欲求が資本家階級に属するという形でとらえられるのである。このとき、それらの欲求が直接、間接に時間に対する欲求になっている。マルクスのこの観点は、後に詳しく検討するが、ここでは資本制経済の直接性に基づく分析が主題であるから、この個人的立場からの欲求の動学的あり方に注目しよう。
 まず、資本制において必要としての欲求と剰余としての欲求の関係性が個人においても、しかもその個人がどの階級に属しているかを抜きにしてもとらえられるとする立場を確認することが重要な意味をもっている。というのは、そうしなければ、少なくとも発達した資本制の経済においては、経済成長の結果として労働者階級の生活水準も向上したことを、すなわち彼らの欲求の水準が向上したことを根拠づけることができないからである。経済学的にみて、問題となる資本制における個人的な欲求の対象は、さまざまな消費財(サービスも含めて考える)である。ある時点をとってみれば、個人はそれぞれの一定の消費水準(これまでもそうで、以下でもそうだが水準というのは量的な側面と質的な側面を統一したものである。もちろんどちらかの形容詞をつければその意味に限定される)に到達している。すでに述べたように到達した消費水準いかんする欲求は、その時点ではすでに必要としての欲求に転化しているのであり、個人にとっては必要消費水準である。われわれは、労働者階級が定常的に、その消費水準が必要な範囲にとどまっているという立場はとらない。労働者階級の生活水準が向上しているとするならば、彼らもまた新たな欲求の水準を創造するのであり、したがって消費には常に剰余としての欲求の実現となっているものが存在しているのである。したがって、この段階では労働者というのを他と特別に取り扱う必要はなく、一般的な個人を考えればよい。
 剰余としての欲求は常に創造的な側面をもっているのであるが、それがどのように形成されるかは一つの無視しがたい問題である。それは、具体的には、いかに個人が現在の消費の水準より高い消費の水準を彼の欲求の対象とするようになるか、ということである。こうした創造的な欲求の形成は、あの労働における人間の創造的な能力と共通のものである。この創造的な欲求、剰余としての欲求は、欲求が成就された現実には存在していない自己を観念的に実現することでもある。そうした観念的な自己形成は、まったく人間らしいやり方で、すなわち社会的な過程として行なわれる。第一には、労働における人間の創造的能力の発揮が直接にその消費における欲求の形成につながるという形で行なわれる。これは、マルクスの生産が消費の能力を形成すると指摘したのに対応している。この資本制経済においては、生産、労働と消費は一人の個人的な過程において完全に統一してはいないので、すなわちその間には社会的な全生産体系が割り込んでくるので、この欲求の形成はまさに社会的なものとして行なわれるのである。しかし、このことは消費主体としての個人がその剰余としての欲求の形成において完全に受動的であることを意味してはいない。個人はそこで選択的な能動性を発揮して、個性的に観念的な自己形成を行なう。第二には、個人間の総体的な消費水準の違いが、部分的にではあるにしろより遅れた水準にいる個人をして、進んだ他人の必要水準を自己の剰余水準として、欲求を形成することも、無視し得ない重要な点である。
5 成長経済における「陳腐化」現象
 人間の創造的な欲求の形成は、社会的に規定されたものとして存在している。資本制経済においては、経済成長が、すなわち諸財貨の生産の拡大が、経済活動の目的因、富の増大として設定されているために、財貨の消費水準における個人の能動性は形骸化され、本質的に個人に対する外的な強制になってくる。欲求の形成における強制はまた、自己否定の強制でもある。これは、またワクテルが『「豊かさ」の貧困』の中で行なっている指摘通じる。ワクテルは主として現在までのアメリカの現実を念頭におきながら経済成長と、それが「豊かさ」につながると信じて追い求める人々の心理を徹底的に批判する。経済成長は、所得を増大させ人々により多くの消費の可能性を生み出してきた。しかし、一方でそれは環境破壊とそこからくる健康の破壊、資源の浪費など、様々な社会的問題を引き起こしてきた。ワクテルがそのなかで最も問題視するのは、人々が成長のなかで常に不安に付きまとわれ、不満を解消することができない精神状態に追われることである。そして、さらに大きな消費を求めて人々は加速化した成長を追い求めていると指摘する。
 「常に「より多く」を求めるわれわれの飽くなき欲望こそ、これまで経済成長を押し進めてきた原動力であった。しかし、それはまたその成長を空しい勝利に変えるものである。われわれの満足感は、単に成果の絶対水準が高いから生まれるのではなく、比較の基準によっても左右される。・・・・・期待以上の成果が上がれば、われわれは満足するが、高きを望んで到達できなかったときは、たとえ客観的にはかなりの水準に達していても失望感をおぼえる。そして期待は常に膨らみ続けるのである。成果が上がるごとに期待も大きくなる。「これで十分」といえる地点は常に地平線の少し向こうにあり、その地平線は、われわれが近づくにつれて徐々に後退していくのである」<9>
 こうした状況を、ワクテルは社会経済制度が「安心をえようと努力すればするほど、その努力によってかえって安心が損なわれていく」<10>という、一つの神経症にかかっていると分析する。ワクテルによって提示される、こうした状況の打開のための方策も大変興味深いものがあるが、それはまた別のところで検討しよう。
 また、われわれの議論そしてこのワクテルの議論との関連で、ミシャンが『経済成長の代価』の中で行なっている分析が重要な意味をもっている。非常に広範に展開されている議論の中で、最も注目されるのは、経済成長と「陳腐化」の問題について議論している点である。ミシャンはまず、「持続的経済成長への離陸」には人々の間での不満感の増大が必要であると指摘する。
 「伝統的生活様式が現に変化にも乏しく機会にも恵まれていなかった限りにおいて、それに対する不満は反対されるべきではない。しかし、現代が忘れがちなのは、現状に対する不満があまりにもたやすく一種の習性になってしまうことであって、このことは、現代の世界を作り上げた商業社会の副産物であると同時に、この種の社会が前進するための条件でもある」<11>
 ここでの不満というのは、成長指向の意識と相互補完的に肯定的に結び付いている。しかしそれは、成長率が高まるにつれて「不安」を引き起こす。
 「かつての時代には将来についての不安が多かったそれには十分な根拠が
あったわけで、飢饉、疫病あるいは失業の不安がそれであることは確かだが
今日の富める社会では、(貧困の核と呼ばれる問題を別とすれば)物質的な豊かさと医療手当とが一般大衆まで保証されている以上、不安の生ずる根拠は明らかに以前よりも少ないはずである。そうであるにもかかわらず、現代の人々の中には、生産者としてであれ、消費者としてであれ、あるいは社会人としてであれ、この加速化される変化の時代に生きて、不安の意識をもたぬと言えるものが、実はきわめて少ないのだ」<12>
 そして、自由職業人、労働者などに、彼らの築き上げてきたものが陳腐化することからくる問題を指摘している。
 ワクテルにおいては、そこで強調されている不安の因果関係は必ずしも明確になっていなかった。ミシャンの指摘は、それを明らかにしている点で注目されるのである。すでに述べたように一般に経済成長は欲求の成長を不可欠な要素とし、それ参加する諸個人の自己否定をともなうものであり、そこにこそ本質があるとまで言い切ることができる。高い経済成長のただ中においては、広範な対象に評価上の陳腐化としてもそれは発生する。経済学者にとって、陳腐化とは必ずしも馴染みの薄いものではない。経済成長を理論的に取り扱う場合、資本の構成要素の物理的、経済的寿命は常に問題になる。機械が陳腐化するという場合、それが実際使用できなくなってしまう場合と共に、それが経済的に陳腐化する、すなわちその機械が退化している技術が経済的な環境の変化によって、あるいは新しい技術が開発されることによって陳腐化する場合にも用いる。特にここで問題になるのは、後者のようなそれ自身の変化によってもたらされるのではないような陳腐化である。消費財においてもこれは問題になる。自家用車でもエレクトロニクス製品の場合でも、次の新製品が登場するまでの期間が非常に短い。そして、その製品の物理的耐用年数よりもはるかに短いのである。その製品を購入した消費者は、次の製品が登場することによって、自分の商品常に劣ったものであることを、徹底して宣伝されるのである。それは、さきに述べた財の精神的な破壊の強制に対応する。私企業によって製造された商品には、未来にわたって最高のものであるということはあり得ない。私企業からみれば、人々が所有している商品が、できるだけ早く陳腐化することが、自らの利潤を維持するためにも絶対必要である。 
 この陳腐化現象は、そうした財貨の陳腐化にとどまらない。もちろんサービスも同じように、あるいは多くの場合、財よりもはるかにすばやい陳腐化が起こる。そして、人々の意識、価値観、そしてまたイデオロギーにも陳腐化を引き起こすことが、成長においては必要になる。そもそも成長とは、自然と人間の物質代謝の過程により高度な秩序(あらゆる秩序がそうであるように、それが必ずしもよきものであるという意味ではない)を形成する過程でもある。そしてエントロピーの増大という熱力学の第二法則だそこでも働くように、一方での秩序の形成は必ず他方での秩序の崩壊を招く。実際、交通の問題にしろ自然破壊にしろ、あるいは都市の過密化にしろ、ワクテルとミシャンが指摘する、経済成長のマイナス効果の多くはそれ以前の秩序の崩壊という面をもっている。そうした成長のダイナミックな過程をうまく切り抜けるためにも、常に新しい意識、価値観が必要になる。人々は、古い価値観を捨てることを常に求められるのである。したがって、また人間関係にも同じ様な陳腐化現象が起こってくる。これは、ワクテルが先の著作の中で指摘している共同体の問題とも関連している。
 成長指向の経済に生きる人々は、常に、いま彼を支えているものが「陳腐」という烙印を押される状況に甘んじなければならないのである。しかも、決定的な問題は、彼自身が陳腐化の烙印を押される可能性があるということである。それは、労働者にとっては、職場で「余剰人員」といわれる場合もそうでるし、そして自発的なものではない失業ということになればなおさらそうである。人格の余剰か現象が起こるのは、実に広範な領域においてである。もちろん家庭、地域においてもその可能性がある。それは成長指向社会がもたらす、人格としての自己否定である。そして、そうした状況が「不安」をもたらすというミシャンの主張には、鋭い説得力がある。
 ワクテルの議論は、豊かさと貧困という対概念の意味を問い直すものにもなっていたが、これらの概念をわれわれの欲求に関する論理の中に位置づけるというのは重要である。豊かさがわれわれの議論してきた剰余に関連していることは、容易にとらえることができる。一般に、必要としての欲求の単純再生産状態に押し込められている状態を、われわれは豊かであるとはいわない。豊かさとは、剰余を獲得した状態、剰余としての欲求を成就した状態をさしているのである。それに対して、貧しさ、貧困とは必要としての欲求の実現に押しとどめられている状態をさす。豊かさは一時的で、貧困は継続的な現象である。したがって、豊かさの実現はそれ自体が貧困の世界への回帰という側面をもっている。資本制の経済のもとにおいては、その所属する階級に依存せずに、それぞれの個人が豊かさを実現する可能性をもっている。もちろん、階級の違いはその所得水準の違いを生み出し、それのよって消費の水準、あるいは欲求の水準は異なっているだろう。われわれは、これまで資本制経済において、その欲求の論理に関する限り階級的な差異を問題にしなくてもよいとして議論を進めてきた。実際、こうした欲求の水準、あるいは消費の水準に差があったとしても、それは階級に決定的に帰属された差ではないと考えているからである。特に、このように、資本制経済においてもその階級という枠を越えて豊かさを実現する可能性が存在することは否定できないのであり、階級的な差は、比較可能なものでしかないのである。しかし、それはあくまでもこれまで考察してきた資本制経済における、経済成長とその条件としての欲求の発展に関する論理の範囲でのみ成立する点である。欲求とそれと関連している人間的な能力の発展に関する階級差の問題は、次節で改めて検討される。
 古典派経済学が見通した資本制経済の長期的な成長の可能性について、その決定的な側面である欲求の問題から、接近してきた。こうした経済成長と欲求の発展の論理を探る限り、彼らの見通しに暗い影を落とすものはなかった。諸個人は、彼らの欲求の水準を増大し続け、それと二人三脚で経済は成長し、その富は増大し続けてきた。そして、古典派的な論理の枠にとどまる限り、将来もそのように続くとしか見えてこないのである。
脚注
<1>この市民社会に関する記述の中で、主観的相互依存体系としての欲求の体系と、労働の体系を平行的に記述しているが、これはヘーゲルによる経済体系の双対性に関する認識である。
 「人間は彼の欲求のうちある一つに応ずる労働しか行なわず、それ以外の欲求のために必要なものはそれと交換して手に入れる。彼の労働は、欲求なるものに応ずるもの、すなわち、彼の欲求ならざる普遍的なものとしての欲求という欲求の抽象態に応ずる労働である。そして、彼の欲求の総体を充足するのは、万人の労働なのである。
 個々人の欲求の全域と、欲求のための彼の活動とのあいだに、全国民の労働が入り込む。そして、各人の労働は、その内容からみれば、万人の欲求に応ずる普遍的な労働であり、また、彼のあらゆる欲求を充足するのに適合性を持つ普遍的な労働でもある。すなわち、この労働は価値をもつ」(ヘーゲル(1803)、p.168)
<2>ヘーゲル(1821)、p.423。
<3>同、p.426。
<4>われわれが第1章で考察した重農主義の限界は、穀物を特別な財貨として扱い、欲求の多様な発展に対応できなかった点にあったともいえる。
<5>マルクス(1857b)、p.37。
<6>同、p.38。
<7>マルクス(1867)、p.224、訳は一部修正してある。
<8>同、p.219。
<9>ワクテル(1985)、p.22。
<10>同、p.72。
<11>ミシャン(1969)、p.196。
<12>同、p.197。

第5節 同期化社会と時間の経済
1 享受における階級差の本質
 マルクスの人間の能力の発展に関する理論は、必要と剰余の関係を人間に与えられた時間の観点からとらえるところに決定的な特徴があった。 そこで、必要労働時間とは、人間がその能力(労働能力を基本に据えた)の維持のために必要な財貨を得るために要求される労働時間であった。それに対して、剰余労働時間とは、人間の能力の発展を可能にする労働時間である。このマルクスの意味における、必要労働時間と剰余労働時間の具体的な定式化についてはすでに前章において厳密に与えらえているのでここで繰り返しはしない。このマルクスの定式化において、時間は一般的に人間が利用可能な時間ではなく、労働時間という規定性を有する時間であることに注意が必要である。労働時間において必要と剰余時間が規定されているのは、マルクスが個別労働についてそれを設定しているからである。言い替えれば、労働に対してその生産物の享受にあずかる多数の人の中で、その労働を担う集団が労働者階級として固定しているということを前提にしているからである。いま剰余労働時間と必要労働時間を社会的にみれば、剰余労働時間は、労働者階級の剰余労働によって資本家階級が獲得した、社会的にみた剰余時間である。この剰余時間によって生活している階級は、彼がその生命力において与えられている処分可能な時間<1>のすべてが社会的にみた剰余時間を構成しているのである。一方、マルクスによれば労働者階級は、彼の処分可能な時間の全体を、必要労働時間として、社会的にみた総必要時間の一部として提供しなければならないのである。すでに述べたようにマルクスは、剰余労働時間において、人間の能力を発展させる可能性をとらえていた。われわれは、このマルクスの立場をふまえて、より一般的に、人間に与えられた処分可能な時間のうちその使用によって人間がその能力を発展させることが可能となる時間を剰余時間と定義しておこう。また、人間がその能力の維持にのみ使用する時間を必要時間と定義する。こうすることによって、この二つの対概念を個人的視点と社会的視点からとらえることが可能になる。たとえば、個々の労働者を考えると、個人的にみて必要時間が彼の処分可能な時間の全体となっているが、社会的にみれば彼の労働時間の一定の部分だけが社会的な必要時間となっている。そして、そうであることによって、その社会的な剰余時間が他の労働しない階級の個人的な視点からの剰余時間を構成するという関係になっているのである。
 われわれは、欲求<2>と人間的な能力の発展に関する分析のところで述べたように、資本制経済においては剰余としての欲求とその実現は基本的にその階級の枠を越えてすべての個人において可能なもので、またそうすることが経済成長の不可欠の契機となっていることを指摘した。しかし、われわれの視座を時間という地平に上に据えたらどうだろうか。上でも述べたように、マルクスは労働者はその処分可能な時間のほとんどを必要時間として使用すると考えていた。『資本論』の労働日の限界に関する記述の中で、マルクスは労働日(1日の労働時間)には生理的限界はあるがその範囲内では変動の余地があると指摘している。そして、その範囲内で実際に決まる労働日に関しては、資本家と労働者のそれぞれの権利についての二律背反が生じるとしている。すなわち、資本家は労働者の1日分の労働力について支払ったのであるから、その1日の範囲でどれだけ労働力を使用するかは資本家の購入者としての権利に属する。したがって、その生理的な限界にまで労働することを要求する。一方、労働者はその1日分の労働力に対して受け取ったものは、彼の労働力がある標準的な年数だけ提供できるということが前提になっている。もし、1労働日の過度労働によってその期間が縮められるようなことがあれば、それは結局労働力に対して不当に安い対価しか与えていないことになる。したがって、労働者はその労働力という商品の売り手としての権利において、その1労働日がある範囲に収まることを要求する。
 「つまり、どちらも等しく商品交換の法則によって保証されている権利対権利である。同等な権利と権利のあいだでは力がことを決する。こういうわけで、資本主
義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争総資本
すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級とのあいだの闘争として
現われるのである」<3>
 こうしてマルクスにおいて、1日の労働時間がどの範囲で決まるのかは、経済理論としては弾力性があり、理論的にみて不確定な部分があるのであるが、われわれが必要とするところはこれで十分である。すなわち、どちらの基準においても完全に自由な時間、すなわち労働時間そのもの、あるいはその労働能力の回復(能力の単純再生産)に必要な時間を除いた自由に処分する時間は考えられていないということである。
 こうして、マルクスにおいては労働者にとってその処分可能な時間は必要時間に押し込められてしまっていると考えられているが、それは妥当であろうか。これに対して、基本的には妥当であると結論すべきである。すなわち、個々の労働者が平均からの乖離として獲得する自由な時間ばかりでなく、歴史的な経済の発展の中で、彼らの自由な時間がわずかに生じていたとしても、それはなんら本質的ではない。たとえば、100年前の国民的平均として一日12時間の労働がいま8時間になったとしても、そこに純然たる4時間の自由な時間が生じたとはいえない。その4時間は、100年前には直接労働で、いまが直接労働ではなかったとしても、その4時間は結局必要とされる労働能力の回復、あるいは本来必要とされている能力の実現のために用いられているならば、それは自由な時間として存在しているのではない。たとえ、外面的には趣味・娯楽に使っている時間であっても、寝ころんでいる時間であってもそれが労働能力の維持回復に必要とされる時間であるならば、それは自由な時間ではないのである。
 したがって、われわれは人間の能力の発達に関わる必要と剰余を、必要時間と剰余時間という観点からとらえると、この資本制経済においてはそれぞれが労働者階級と資本家階級に帰属させられることがわかる。しかし、前節で議論したようにその必要と剰余を消費財に対する欲求、すなわち必要としての欲求と剰余としての欲求としてとらえると、それは個人の問題が主要な側面となり、階級的な差異は存在はするが本質的なものではなくなる。そして、重要なことは資本制経済において、その成長の不可欠の要因として位置づけられ、かつ人々に日常的に意識されているのは、時間ではなく欲求における必要と剰余なのである。もちろんこれは、この経済の構成原理としての富の概念に関連していることは明かである。すなわち、経済が成長するとは富の生産規模の増大であり、それはまた、それに対応した人々の欲求の増大なくしては不可能だからである。したがって、欲求と消費という観点からみているかぎりこの資本制経済における階級差が本質的なものとして見えてこないのである。
 必要時間と剰余時間という視座が据えられるための条件、あるいはその必然性に関する分析は不可欠だが、それを行なう前に一つの問題を片づけておかなければならない。これまでの論述の中には不整合なものが存在している。それは、この資本制経済のもとで、一方ではすべての個人にとって能力の発展がその欲求の観点から可能であることが述べられ、もう一方で労働者階級はその処分可能な時間が必要時間の範囲に押し込められてしまっているので、その能力の発展が阻害されていると議論していることである。欲求の実現と時間の使用はまったく分離し無関係なものではない。そうするとなおさら議論が矛盾的なものに見えてくる。しかし、この問題で、第一に確認しなければならない点は、剰余としての欲求の実現は剰余としての時間の使用として行なわれるのでは必ずしもないということである。したがって、労働者階級は、彼らの剰余としての欲求は、基本的に必要時間の範囲で実現されるのである。第二には、剰余時間が可能にする人間的な能力の発展と、剰余としての欲求の実現が可能にするそれとは同一ではないということである。消費欲求の実現が可能にする人間の能力の発展は、主要な側面として消費そのものが目的化される。そして、人間の能力が物に従属する。しかし、だからといって、人間にとってのその積極性が否定されるわけではない。ただその一面性において、消極性を有するのである。剰余時間における人間の能力の発展において消費が必要であったとしても、それは手段化し、能力が物に従属することはない。したがって、資本制経済における労働者階級の個人的能力の発展は、全体としてその一面性において歪められている。
2 欲求の体系から時間の体系へ
 さて、われわれは本節の主要なテーマに取り組む段階にきている。すなわち、欲求の体系から時間の体系へ人間の共同的意識が発展する可能性とその契機についての検討である。それはまた、人間の価値体系の転換についての検討でもある。すなわち、前章で議論したような資本制的な価値体系から非資本制的な価値体系への共同的主観の転換の可能性について、それはさしあたっては、自由な時間としての富の双対体系としての価値体系への転換の可能性を調べることである。個々で、その転換が一次的なものであることを指摘するのは、後で述べるように、それが根本的な転換ではないからである。
 人間が自己の充足を実現する上での欲求の体系から時間の体系への転換は、結局、諸個人の時間というものに対する関わり方の転換である。ヘーゲルは市民社会における人間を「欲求のかたまり」としてとらえたが、同じようにわれわれは人間を「時間のかたまり」としてとらえることができる。日々各個人は、その一日分だけ死んでいるのであるが、それはまた彼自身の生命力として与えられている時間を消費していることに他ならない。それは、選択の余地のない消費である。それは消費せずにはいられないのである。しかし、個人は時間を消費し続けることはできない。なぜなら、個人にとって時間は絶対的有限性をもっているからである。したがって、個人にとって時間は絶対的有限性という意味での希少性を有している。そして、この希少性の自覚、それについての高い意識こそ、労働者階級が欲求の体系から時間の体系へ彼らの共同意志を転換する条件である。そして、その転換は資本制経済の成長の必然的帰結として実現する。その第一の根拠は、資本制経済の成長は諸個人の欲求の水準の発展を意味するが、労働者階級にとってその実現の場としての時間は常に必要時間という制約のもとにあるからである。この欲求の発展と時間の制約はともに、資本制経済においては不可欠の契機であり、したがって、またそれらの間の矛盾も必然的である。欲求の発展は、すでに述べたように対応する人間の能力の発展であり、その能力は常に人間に与えられて一次元的な時間軸上において発揮される。したがって、いかなる多様な能力も常に人間にとっては可能的に存在しているものとしての能力であり、その発揮は単一の形態のもとにしか行なわれないのである。
 第二の根拠は、資本制のもとでの経済成長は、労働の高密度化によって、われわれの定義した意味での必要時間を実質的に増大させる傾向を有しているということである。必要時間の実質的な増大とは、労働者が直接労働にたずさわっている時間が変わらない、あるいは減少したとしてもその労働内容が高密度化することによって、その能力の回復のために必要な非労働時間が増大するということである。これはわれわれの定義した意味で、個人的にみて必要時間の増大であるとともに、本来社会的にみた必要時間に換算されるべきものの増大である。資本制のもとでの労働密度の高度化そのものは、すでに古くはマルクスにおいてもはっきりと指摘されているところである。それに対して、労働の高密度化の現代的様相の本質的特徴は、同期化された信号体系の直接的な権力のもとで行なわれているということである。
 マルクスは『資本論』のなかで、機械制大工業のもとにおける労働の高密度化について詳細な分析を加えている。現代の発達した資本制経済においても、マルクスの機械制大工業の定義はそのまま当てはまるので、彼の分析の有効性は変わらない。彼は、機械制大工業のもとで、一日の標準的労働時間、すなわち標準労働日が設定され労働時間の延長が制限されると、資本家は労働の強化によってそれを打ち破ろうとすると指摘している。
 「機械の進歩と、機械労働者という独特な階級の経験の堆積とにつれて、労働の速度が、したがってまたその強度が自然発生的に増大するということは、自明である」<4>
 そして、その労働強化の内容が「同じ時間内の労働支出の増大、より大きい労働力の緊張、労働時間の気孔のいっそう濃密な充填」<5>であるとしている。そして、それは「機械の速度を高くすること、同じ労働者の見張る機械の範囲、すなわち彼の作業場面を広げること」<6>によって実現される。すなわち、労働強化を客観的に可能にしているのは、機械の体系であり、また資本家が機械と労働の支配者であり監督者であったとしても労働者に直接的に労働強化を強制しているのも機械だったのである。そして、こうした労働強化の側面は、現代産業においてもそっくりそのまま行なわれている。しかし、現代産業によって実現されている労働強化、労働の高密度化はこれにとどまらず、もっと広範で、人間にとっての根本的なところまで進んできている。
3 同期化による時間の高密度化
 同期化とは、異なった存在の異質なリズムが同一の共通なリズムになることをさしている。また、より一般的には、周期的な変化をともなう運動の主体の間での、その周期の同化をさしている。そして、この同期化という現象は産業の発展と、その技術的基礎を形成する上で不可欠の内容をなしていた。手工業的な分業と協業という技術様式においても、そのもとで同期化の進展という側面を有しているのである。マルクスは協業に関する例として、煉瓦積み工が煉瓦を足場の下から頂上まで運ぶためにたくさんの手で一つの列を作るというのをあげている<7>。彼は、これによって結果として労働の生産性が高まることを示しているのだが、われわれは、これを違った視点からみることができる。すなわち、このときたくさんの手は必ず同期化されたリズムのもとに機能していなければならないということである。この一列にならんだ手が、同期化されず、その中の一つの手が他とはまったく違ったリズムで動いていたとしたらこの作業によって労働生産性は必ずしも高まらなくなるだろう。すなわち、その一つの手が他よりも速く動いていれば労働のむだが生じ、逆に遅ければ煉瓦が滞るだろう。そして、この場合直接にこの複数の労働者を指揮しているのは、そこに同期化しているリズムそのものなのである。
 機械制大工業においてこの同期化が重要な要素であることを、直接にその語を使ってはいないが、マルクスは認識していた。
 「それぞれの部分機械は、すぐその次にくる部分機械にその原料を供給する。そして、それらはみな同時に働いているのだから、生産物は絶えずその形成過程のいろいろな段階の上にあると同時に、また絶えず一つの生産段階から別の生産段階に移って行くのである。マニュファクチュアでは部分労働者の直接的協業が特殊な労働者群のあいだの一定の比例数をつくりだすのであるが、同様に、編成された機械体系の場合には、いろいろな部分機械が絶えず互いに関連して働いているということが、それらの数、大きさ、速度のあいだの一定の割合をつくりだすのである。結合された作業機、すなわちいまではいろいろな種類の個々の作業機から、またそれらの群から、編成された一つの体系は、その総過程が連続的であればあるほど、すなわち原料が第一の段階から最後の段階まで移っていく間の中断が少なければ少ないほど、つまり人間の手に代わってその機構そのものが原料を一つの生産段階から次の生産段階に進めて行くようになればなるほど、ますます完全なものになる」<8>
 機械体系は、それ自体一つの同期化された体系となっている。したがって、その機械に対して協労の関係にある労働者の労働は、機械を媒介にして同期化されているのである。機械体系が部分機械からなっているとすると、その部分機械の間の運動の周期が同一化しているのであるが、これはどのように達成されるだろうか。おそらくマルクスの時代においては、その運動の動力源によって達成されていただろう。すなわち、もしその機械体系が動力源を共通のものとしてもっているならば、その共通の動力源が全体の共振すべき周期をつくりだし、全体の同期化を実現していただろう。もし動力源が共通のものでないならば、異なった動力源の運動のが、部分機械が同期化するように調整されることによって実現していただろう。
 われわれは、機械体系が工場内の機械体系であることを前提にしていたが、工場と工場間、あるいはもっと一般的に社会的な分業関係にある複数の機械体系間においてはどうであろうか。分業関係にあるとは、それらが相互依存的な関係にあるということである。しかしその場合、工場内のような直接的な同期化は実現しない。工場内のような、機械に対する指揮が統一的には行なわれないからであり、また動力源を通したような、具体的なものを媒介にした同期化が困難になるためである。しかし、それらが相互依存関係にある限り同期化する傾向は絶対に存在している。したがって、そこには必ず相互にそれぞれの機械体系の運動の周期を、直接的であれ間接的であれ知らせ合うことが必要になってくる。もちろん社会的な分業体系において、完全な同期化、すなわちわれわれがこれまで用いた数学的モデルにおいて想定しているような完全な同期化は実現することはない。しかし、先にも述べたように経済が相互依存的である限り、その傾向を有していることを否定することはできない。
 社会的な分業体系において、相互に周期を知らせ合うとは、その間に情報のやりとりが存在するということである。情報という包括的な概念を用いるよりも、われわれにとっては信号というより限定された概念を用いる方が、一般性があり有用である。たとえば原料を供給される工場は、それを供給する工場に対して、それを必要とする時点において周期性をもった信号を出し続ければ、供給する側はそのリズムに合うようにその機械体系の周期を調整すれば両者の同期化が実現するのである。したがって、こうした機械体系にもとづく社会的な分業体系においては、信号の送受というのがきわめて重要な意味をもっていることがわかる。こうして、同期化を実現する上での信号というものの役割を考慮すると、工場内における同期化の実現も、信号の送受によって実現されているとみる方が合理的であることがわかる。動力源が同期化を媒介するという場合でも、結局その動力が機械体系伝達される過程を通して、信号が伝達されているとみることができるからである。
 同期化ということで、われわれは複線的な構造における同期化も想定していることに注意が必要である。すなわち、投入構造が、社会的な分業体系であれ、工場内における機械体系であれ、A→B→C→D→Eというような、単線的な構造になっているのは特殊な場合である。したがって、信号を送受する関係も同様に複線的な構造になっているのである。こうした信号を送受する相互関係を、同期化された信号体系と呼んでいるのである。またさらに一般化して、われわれはこうした信号体系が必ずしも単一の周期的によって同期化されているとは考えないでおこう。あるいは、同期化そのものを単一の周期によるものと考えない。非周期的な運動主体の間での関係であれ、両主体の周期性の間に一定の規則的な関係が成立している状態をも、同期化している状態ととらえるようにしよう。これは、何等特別な一般化ではなく自然なものである。たとえば、1台の自動車を生産するのに、同一のタイヤが4つ必要なのに対して、前照灯は2つ必要であるという場合、タイヤを生産する工場は自動車の生産周期の4倍の周期で生産する必要があるのに対して、ライトは2倍の周期の生産になるといった具合いである。こうした周期の違いが存在しても、われわれの考えている同期化の内容としてとらえなければならないのであることは明かである。したがって、われわれが同期化された信号体系という場合、それはさまざまな周期と位相をもった信号の間の相互関係が、調和がとれていること、秩序づけられていることを意味していると考えてよい。
 資本制経済における信号体系の同期化の問題では、コンピュータを中心とした情報処理手段の果たしている役割を無視することはできない。コンピュータ自身が一つの完全に同期化された体系となっている。その中央処理装置(CPU)は自立的に発せられる超高速のリズムのもとで、データを読み込み一連の命令群に基づいてそれを処理するという点で完全に同期化された体系になっている。そして、コンピュータはそれ以前においてはまったく人間の知的活動と考えられていたものを、代行することが可能にした。もちろん、それが人間の知的活動をどこまで代行できるかは必ずしも見通しが立っていない。その限界性を指摘されることもあるが、人間の頭脳が行なっている知的処理の、より正確にシュミレーションを追求することによって、すなわちそれにどこまでも近づいて行くことによって、限界の克服とその発展は続いていくだろう。そして、このコンピュータによる情報処理手段は、まず明らかに、社会的な信号体系の受容体である。また、もう一つ重要な点はそれが同期化因子(シンクロナイザー)となっていることである。同期化因子というのは、異周期の主体の間の同期化を媒介するものをいう。一般的には同期化を媒介するのは人間の知的な情報処理活動である。したがって、直接的なな同期化因子は人間そのものであると考えられる。しかし、同期化の信号体系が複雑になればなるほど、それは人間の情報処理能力を超えるようになる。そして、その点ではコンピュータがその代行をする事柄が一方的に増大して行くのである。
 運動の周期性は機械の本質的な特徴であり、活動にいかなる周期性ももたない機械はそもそも存在しない。そして、この周期性が、生産にかかわる信号体系の同期化の基本的な動機なのである。しかし、この同期化という現象は機械に関わる部分だけにとどまらない。実際、この社会的な分業の相互依存関係にある機械体系が同期化されるということは、社会的な生産のそのほかの部分に影響を及ぼさざるを得ないのであり、結局は、すべての労働者を同期化に巻き込んで行くことになる。
 また一方で、資本制経済においては、私企業の生産に関わる独自の決定を排除できない側面を有している。したがって、現実にその経済が完全な同期化に至っていないように、非同期的側面を排除しきれないのである。その非同期化は、支配的な同期化された信号体系との矛盾という形で現れてくる。しかし、生産が社会的な分業体系として存在し、それらが技術的な相互依存関係にある限り、資本制経済における同期化は、決定的な傾向である。私企業は、その同期化を実現するために、生産系列の、資本の支配を実現しようとし、私企業の枠を越えた関係を通して非同期化からくる歪を排除しようとする。
 こうした現実の社会的な生産体系の同期化と非同期化との矛盾による運動の中にあって、信号体系はもともと個々の生産主体の機械体系から発せられた信号に依存しているのであるが、それが一般的に編成される中でそれらから自立した同期的なものとなっていく。機械体系は、この信号体系の付属物となり、労働もまたこの信号体系に従属することになるのである。そして、もちろんこれは機械に直接関連している労働だけではなくあらゆる労働に関連をもっている。そして、この労働者との関わりにおいて問題なのは、経済成長の過程で、特にその中での技術進歩の過程でこの自立した信号体系が発する周期的なリズムが常に速くなってきたということである。技術進歩の重要な内容の一つがこの、同期化が高い密度で実現していくということだったのである。そして、この同期化の高密度化に対応できないような機械は取り替えられ、労働は信号体系の傀儡として、それに追随していったのである。もちろんこうした追随はたんに肉体的従属としてのみ存在しているのではない。労働者の精神活動における従属をも意味している。そして、肉体と精神活動のリズムが、労働者にとってよそよそしく高速化していくことになるのである。
4 機械のリズムと人間のリズムの対立
 人間は、資本制経済の成長がもたらした高密度な同期化に対して同調を強制される。人間が生まれ落ちてから、その最終教育機関を卒業するまでの教育過程において、社会の同期化に順応することを非明示的な形ではあるが、徹底的にしつけられる。決められた時間に、決められた事柄を、決められた時間内に行なうこと、教育過程にはこの様式の強制が充満している。しかもそれは、その個人の個性に即して決められているのではなく、まさに他の大勢との同期化を前提にしているのである。したがって、その教育過程は高密度な同期化社会にに順応できる人間を選択していく、一つの淘汰の過程ともなっている。しかし、それは自然淘汰ではなく、機械による淘汰である。機械が自らの発する信号に同期化できるような人間を選択する過程となっているのである。この淘汰は、短い年数の内には具体的な効果を類に及ぼすことはないだろうが、長期的それが持続するようなことになれば類そのものを変化させていくかも知れない。
 こうして、高密度な同期化社会により順応的な者ほど、この社会のよりよい位置につくことが可能になるわけであるが、その信号体系に支配されるのはこの社会の活動に関わるすべての人間である。そしてその人間は、信号体系の高密度化、それらのリズムの高速化にいつまでも対応し続けることが可能ではないのである。確かに訓練によって、さまざまなリズムに順応して行けるような面も存在している。しかし、人間には生命としての原始的なところで規定されている、生理的なリズムの体系が存在している<9>。それは、人間自身が自然の一部であることの証であり、したがってそれは自然のリズムと同期化しているのである。人間はさまざまなリズム、すなわち周期的な変化からも構成されている。呼吸と脈拍はすぐにも意識できる生理的なリズムである。このリズムに、人間の物質代謝の過程は強く規定されていることは明かである。もう少し長いリズムで重要なのは、一日の周期をもったリズムである。そのリズムで最も大事なのものの一つは睡眠である。そして、食物の消化もそうしたリズムを構成している。これらは、比較的人間自身がとらえられやすいリズムであるが、人間の生理的なリズムは、もっと複雑で、しかも人間の活動を根本的に規定しているものであることをわれわれは知らなければならない。
 「人の生理機能をみると、体温、酸素消費量、血圧、脈拍数、呼吸数、ヘモクロビン濃度、白血球数、血糖、血中アミノ酸濃度などが日周リズムによって変動しているし、血中の副腎皮質ホルモンをはじめ各種ホルモン濃度、脳組織の生化学成分の濃度も同様である。尿の分泌も単に飲物の摂取時間によるだけでなく、日周リズムの影響をうけて尿量と塩分排泄量が変わる。肝での唐や脂肪の代謝から細胞分裂の速度にいたるまで、ほとんどすべての生理機能に24時間を単位とする周期性変
動のあることがわかった」<10>
 こうした生理機能におけるリズムの体系は、人間の精神的、肉体的活動を根本で規定するものとして、決定的重要性をもっていることがわかってきている。すなわち、こうしたリズムが人間の精神的および肉体的活力の高揚と停滞、あるいはその質を規定しているということである。こうしたリズムは、われわれが定義してきた意味において同期化されたいるのであり、それこそが心身の健康と安定の前提となっているのである。そして、外的な要因による一時的な撹乱による非同期化は、なんらかの機会に調整されなければならないし、それができない場合は、人間は健康を失うことになるのである。そして、重要なことはこれらのリズムは全体として教育や訓練によって早めたりすることができないということである。その一方で、すでに述べたように経済成長は社会の変化のリズムを一方的に速くし、高密度な同期化社会を形成してきている。もちろんそうした、社会の高密度化は、人間の固有のリズムの体系を無視する形で進行している。というのは、人間自身がそのリズムを必要な程度に意識していないからである。内外の同期化体系の間の不整合は、人間の内的な矛盾に転化し、それをストレスとして蓄積させることになる。
 昔、人間が自然と同期化し、その生活を営んでいた時代には、こうした矛盾の蓄積はありえなかった。農耕経済にしろ、牧畜経済にしろ、そのもとでは太陽の運動とともに、すなわち太陽の運動に同期化して人間は活動した。太陽は、1日というリズムと、1年というリズムを人間に提供した。実際この二つの活動では、生産活動も含めた人間の活動に十分なリズムの体系ではなかった。そして、その間を月の運行のリズムによって補完した。もちろん、月と太陽のリズムは完全に同期化したものではなかったが、人間はそれを知識で補ってより有用で完全なものにしてきた。今日までの人類史の大半の期間は、これらの基本的なリズムで人間の生活は十分に営めたのである。こうした、ゆっくりとした生活のリズムは、人間の生理的なリズムとほとんど摩擦を起こさなかったに違いない。しかし生産技術の進歩、産業の発展は、もっと短い周期で社会全体が同期化することを要求していった。
 そして、このことと人類における時間をはかる機器としての時計の発展とが密接に関連している。ヨーロッパにおいて、1日が24時間で刻まれるようになり、14世紀には、1時間60分という周期と、1分60秒という細かい周期が成立してくる<11>。時計というのは本質的に二つの機能を有している。運動とか変化の持続の量をはかるという側面である。ここには、何等他の時計との関連、時計どうしの関連は問題にならない。すなわち、何時をさしている時計であっても、刻んでいる周期の長さが正確であれば、そうした時間をはかることは可能なのである。しかし、時計はもう一つ、すべての時計が同期化しているということを重要な機能を有しているのである。いくら、周期を正確に刻んだとしても、それぞれの時計がバラバラな時間を刻んでいるならば、それは時計とはいえない。この意味で、時計は社会の同期化を支える決定的な基礎だったといえる。そして、時計に依存した社会的な同期化の基礎のうえで、社会的な分業の構造、さらには機械制大工業が発展していったのである。
 人間の固有のリズムを認識することの重要性を示した書『ボディ・タイム』の冒頭で、G.G.ルースは、基本的にわれわれの問題意識と軌を一にしているものとして、次のように述べている。
 「現代人は、時間を骨抜きにしてしまった。そして、私たちは、内的な要求とは無関係なペースで生活するようになった。私たちはもはや、先祖たちが何千年にもわたってしてきたように、自然の周期と調和の下に、昼間働いて夜休み、季節を待ち、動物の足や船の帆が運んでくれる速さに満足しているというふうではなくなってしまった。人はこのようにして約三千世代を暮らしてきたというのに・・・・。とどまることを知らない技術革新の波が、突然私たちをそれまでのあらゆる時間と空間の概念の外へほうり出してしまったのは、まだほんの50年前のことでしかない。今日私たちは音速で旅をし、何世代もかかって手にいれてきた情報を、テレビのようなメディアを通して1、2カ月に濃縮してしまうことができる。このような現代は、生きるには面白い時代であるが、同時に住みにくい時代でもある。なぜなら、人の体や脳は、太古の祖先たちとそんなに変わっていないにもかかわらず、私たちはたゆみない変化に適応し続けなければならないからである。この加速度的な変化の原動力は科学技術であり、自由競争が経済成長のペースを決めている。そして技術の豊かさをむやみに追い求めた結果、私たちは、経済的に有効で機械の使用を最大限にするような、一種の社会計画に順応せざるを得なくなった。しかし、このようなペースは、必ずしも人類に有益であるとは限らないのである。生物学的な系においては、時間は、私たちがものを食べたり消化したり、息を吸ったり吐いたり、エネルギーを吸収したり使ったりする、周期的な代謝過程によって表現される。しかも、私たちの体内の時間的な過程が社会的な機構と調和しない場合も多く、このギャップの犠牲となった多くの人々が、精神的、肉体的病気に苦しんでいるのである。わきたつような細胞の興奮が私たちの奥深くで組織化され、互いにからみあった周期のタイミングが、私たちの体を一つにまとめる接着剤となっている」<12>
 この指摘にもあるように、機械のリズムと人間のリズムの間の矛盾は、前節で述べたような財貨の消費とか、それに対する欲求ということを直接に関係がない。それは、時間の問題である。しかも何よりもまずそれは、人間が同期化された信号体系の命令にしたがうことを要求される労働時間の問題である。労働時間とは、人間がかれ自身のリズムと機械のリズムとの過酷な相克にさいなまれる時間である。したがって、技術革新による信号体系の高密度化は、また労働の高密度化でもあり、生理的なリズムとの間の矛盾の深刻化である。そして、それはまた単に直接労働にたずさわる時間ばかりでなく、非労働時間も大きく労働時間のあり方に規制され、自由な時間としての意味を喪失していく。非労働時間は、労働時間によって失われた人間の精神的・肉体的な同期化の内面的な乱れを回復し、安定した同期体としての自己を回復する時間として「必要な時間」に組み込まれざるを得なくなるのである。したがって、直接労働時間がかれ自身の能力を維持するための諸財貨を獲得するために必要時間であるばかりでなく、まさに非労働時間そのものも、単純に能力を回復するために必要な時間として組み込まれざるを得なくなる。したがって、それらの必要時間の中では彼の能力を発展させる余地はなく、労働者は直接労働時間が短いものになっていたとしても、能力の単純再生産状態に追い込まれてしまうのである。したがって、そこにはかれにとっての剰余時間、真に自由な時間は存在しなくなるのである。
 こうした検討を前提にすると、われわれは前章で議論した自由な時間としての富について、新たな分析視角を得ることになる。この富をあらわす体系とは、必要労働時間を、社会的に最小にする事を目的として設定されている経済体系であり、したがって、そこでは社会が働かざるを得ない階級と、働かない階級に分かれ続けることはできない。なぜなら、資本制とは違って、そうした自由な時間が富となっている経済においては、働かない階級とは明瞭に、富を独占する階級となってしまっているからである。歴史的に、そうした状況を維持することは、誰にも困難だったのである。したがって、この節で明らかにしたように、人々が、特に労働者階級が時間の希少性に対して高い意識をもってくる状況の下では、前章のような必要労働時間を最小化するという経済的な目的が、必要かつ有効であることは間違いない。すなわち、自由な時間が富として、人々の経済的な目的因となるならば、必要労働時間の最小化は追求されなければならない必然性をもっているのである。それはまた、資本制的な富の概念の、歴史的な転換でもあることはいうまでもない<13>。しかし、この節で議論した点をふまえると、その必要労働の最小化というのは一つの単なる通過点でしかないことになってくる。というのは、労働時間に関する人間にとっての最終的な目的は機械的な同期化の体系からの開放であり、人間のリズムが主人公となるような自由の回復だからである。自由な時間としての富の概念が究極的に意図していることは、時間における人間のあり方の回復に他ならないのである。それは、時間に関する古代への復帰であると同時に、古代の時間についての人間のあり方の絶対的な否定である。
脚注
<1>もちろん人間の生理的に消費しなければならない時間は以下問題にしない。
<2>この語を以下では前節での意味、すなわち消費財を対象とする欲求という意味に限定する。というのは、一般に時間に対しても人間は欲求を感じているのであるが、以下では、それがこの可能的に存在する時間という概念に含みこんであると考える。
<3>マルクス(1867)、p.305。
<4>同、p.534。
<5>同、p.535。
<6>同、p.538。
<7>同、p.429。
<8>同、p.496。
<9>生物一般にそうしたリズムが存在していることについてはクラウズリー(1981)参照。
<10>伊藤(1977)、p.8。
<11>アタリ(1986)、p.111。
<12>ルース(1972)、p.2。
<13>マルクスは富の発展について次のように述べている。
 「全社会との関わりでいえば、自由に使える時間の創出は、やがてまた科学、芸術などの生産のための時間の創出ともなる。社会の発展の歩みは、一個人が彼の必要を充したから、今度は彼の過剰物をつくりだすのだ、というようにはならない。そうではなく、一個人または諸個人からなる一階級がその必要を充すのに必要であ
る以上に労働しないわけにいかないから剰余労働が一方で生み出されるから
、他方で非労働と剰余の富が生み出されるのである。現実性からすれば、富
の発展はもっぱらこれらの対立のうちに存在するのだが、可能性からすれば、他ならぬ富の発展がこれらの対立の止揚の条件なのである」(マルクス(1857b)、p.525)