第3章 再生産費賃金理論の現代的展開
第1節 古典派分配理論と再生産費賃金理論
 この章にいたるまでに、われわれはすでに古典派経済学における基本的な分配概念である賃金、あるいは利潤について定式化し、かつある程度の分析を加えている。しかし、そこには一つの無視しがたい曖昧さが存在していた。というのは、古典派経済学の体系においては賃金と利潤というのは相互に条件づけられた概念であって、どちらかが決定されなければその量を確定することができないのである。そして、古典派経済学は、再生産費賃金理論という形で、賃金を外生的に決定することでこのジレンマから離脱した。
 古典派経済学の賃金理論の定式化にいたる、学説史を網羅的に記述しているM.T.ワーメルの『古典派賃金理論の発展』<1>によれば、賃金問題が初めて重視され出したのは17世紀までさかのぼるということである。古典派再生産費賃金理論は、洗練されていない形式では、労働者の最低生活水準を維持するものとして定式化されるのであるが、初期のこの理論の主張についてワーメルは次のように述べている。
 「労働者は働くことを少しも喜ばないこと、また労働は飢餓をもって強制しなければならないこと、この二つは最も初期のほとんどすべての著者たちの出発点であり、また基本的な主張であった」<2>
 こうした初期の主張には、賃金労働という制度を自明のものとして受け入れていく世代と人口がまだ希薄な時代における、雇用者側の考え方、焦りがはっきりと現れている。もちろん、現代のような労働者階級というのがかなり安定的に形成されている時代においては、こうした主張が露骨に出されてくることはない。そして、実際この主張にあるような懲罰が具体的に行なわれて、飢餓が目に見えるように存在することはなくなった。しかし、それはこの主張が現代においてはまったく意味あるものではないということでは決してない。現代の労働者においても、飢餓の恐怖が強制的に労働に向かわせるという構造は、どんな高額の賃金を得ている労働者においても、潜在的には存在しているのである。それは、労働者という直接生産者のあり方に規定されているのである。階級の一員としての労働者は、彼の労働賃金が彼と家族の生活手段を得る主要な方途となっているものとして定義されるべきだからである。
 重農主義者は、この賃金理論の発展に重要な役割を果たしている。古典派経済学における賃金の再生産費理論の内容としては、労働者自身が再び労働を提供することが可能になるという賃金水準という意味での、一つの均衡水準を示していると同時に、その均衡が安定であるという内容も含んでいる。重農主義者はこの点をほぼ完全に示した。ケネーの賃金理論が、「重農」主義的な要素を強く含んでいるのに対して、チュルゴーの主張にはその後のスミス以後の古典派経済学の、再生産費賃金理論の基本的な観点が完全に含まれている。『諸国民の富』の十年前にかかれた『富に関する省察』では、賃金の均衡水準について次のように述べている。
 「両手と手仕事しかもっていないふつうの労働者は、他人にその労働を売る場合に彼が受け取るもの以外には何ももたない。・・・・それは、彼の仕事に対して支払う人の協定の結果として決定される。この後者は、できるだけ最低の額を支払い、また彼は多数の労働者の中から選ぶ機会があるので、最低の賃金で働こうとするものを選ぶ。すると労働者たちは、たがいに他の者にならって賃金を下げざるを得なくなる。あらゆる種類の仕事において、賃金は、労働者が生活のために不可欠とする金額によって限定されざるを得なくなるのであり、現実にもまたそうである」<3>
 労働者にとっての賃金の性格が、非常に洗練された形で述べられている。そして、このような賃金水準が、労働者人口の変動を媒介にしながら安定性を確保することについては、ワーメルが紹介している『グラスラン氏の覚え書きにたいする所見』の中で次のような明快な主張を展開している。
 「土地の生産物の交換価値が高くなり、所得が増加すれば、地主と農業経営者とは、労働の収入だけによって生活している人々に前より高い賃金を支払う機会を得る。他方、このように賃金が高くなれば、雇われた労働者は、その消費を増大し、かつその福祉を向上する機会を得る。他方、この福祉と高賃金とは人口の増加を促進する。土地が肥沃であれば、外国人を引きつけ、人口を増す。人口が増加すれば、次に、競争の力によって賃金が下がるが、その人数が消費と交換価値とを以前の水準に維持する。食料生産物の交換価値、利潤、賃金水準、人口は、相互に関連をもちまた相互に依存する現象である。それらの間の均衡は、独特の自然的比率にしたがって定まり、そしてこの比率は、取引と競争が完全に自由であれば、絶えず一定である」<4>
 スミス、リカードに代表される古典派経済学者の再生産費賃金理論は、このチュルゴーの観点の精緻化として位置づけられるべきである。『諸国民の富』における、スミスの賃金理論は、様々な要素を含みそれ以前の賃金理論の一つの総合となっていて、必ずしも再生産費賃金理論こだわってはいない。そうした自由な発想の中でも、彼は再生産費賃金理論に重要な貢献をしている。それは、次の節で述べるように古典派経済学者自身が行なおうとしなかった、その理論の本質的に重要な側面を展開し、その理論を完成させる上で決定的な契機を与えているからである。この具体的な内容は次節で与えることにし、ここでは『諸国民の富』の中で語られている再生産費賃金理論についてのスミスの観点を、彼自身の次のような記述で確認しておこう。
「人間というものは、常に自分の労働によって生活しなければならないし、また彼の賃金は、少なくとも彼を扶養するに足るものでなければならない。たいていの場合、賃金は、いく分かはこれ以上のものでなければならないのであって、さもないかぎり、彼は家族を扶養することは不可能であろし、このような職人たちの家系は一代限りになってしまうであろう」<5>
 後に展開するようなわれわれの議論に照らしてみると、スミスが再生産費賃金理論における労働者の再生産を世代を通して実現されていくという観点を強調している点が注目されるところである。そしてこの点は、リカードの定式化においてもはっきりと述べられているところである。そして、次のリカードの均衡水準としての賃金水準の定式化は、チュルゴーのそれよりも内容的に豊かになっている。
 「労働の自然価格とは、労働者達が、平均的にいって、生存しかつ彼らの種族を増減なく永続させるのに必要な、その価格のことである。労働者が、彼自身と、労働者数を維持するのに必要な家族とを維持する力は、彼が賃金として受け取る貨幣量ではなくて、その貨幣が購買する食物、必需品、及び習慣から彼に不可欠となっている便宜品の分量に、依存している」<6>
 マルクスは『資本論』で、この再生産費賃金そのものについてスミス、リカードに比してより精密な分析を加えている。マルクスの場合、賃金というのを現象形態としてとらえ、それを規定するものを労働力の価値として分析しているが、われわれに取ってこの区別はさしあたってどうでもよい。われわれが、再生産費賃金を構成するものという場合、マルクスにおいては労働力の価値の規定要因ということになっている。マルクスは、その構成要因として、労働者自身の生活のために必要な財貨、そして労働者の「補充人員すなわち労働者の子供」<7>の生活手段、そして労働を可能にするような教育費などをあげている。マルクスの理論の重要な特徴は、それが「最低水準」といった、固定した水準と考えるのではなく一定の幅をもっているものとしてとらえていること、またその水準が「ある歴史的な精神的な要素を含んでいる」と、柔軟な、幅をもったとらえ方をしているということである。もちろんそれが何ら規定されない、自由に変動するものといったものであることを意味してはいない。彼自身「とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、生活手段の平均範囲は与えられているのである」<8>と指摘している。
 この再生産費賃金理論については、シュンペーターの批判がある。それは『理論経済学の本質と主要内容』の中で展開されているものである。彼の批判は二つの内容を持っている。第一はこれまでわれわれが用いてきた価格の費用理論(費用原理と呼んでいる)が必然的に循環論法に陥るというものである。したがって、それは単に労働の再生産費だけでなく、古典派的な価格理論一般の批判となっている。それは次のように述べられている。
 「われわれをして費用原理を拒否せしめるゆえんは、実践的な欠陥であり、科学的労作の実践に対する欠陥である。・・・・もし費用原理が一般に許されるところの還元を行うならば、最後の要素として労働および土地に立ち戻る。・・・・たとえ労働と土地を他の財貨量に還元し売るとしても、当該財貨量は再び労働と土地とに還元されねばならないために、循環論法に陥るであろうから。かくして、費用原理によっては完全な分析に達することは到底できない」<9>
 第二の点は労働を生産費に還元することそのものが不可能であるという主張である。
 「(賃金の再生産費説を検証するために)確証されなければならぬ第一の成果は、『生産費』と賃金との等式であろう。・・・・右の等式が存立しないのは、一切の『高級の』職業においてもっとも明瞭である。再び官吏を例にとろう。官吏は費用として、勉学その他のための出費、のみならず勉学等の際の労働、最後に任官に到るまでの生計費を算定しなければならないであろう。そしてこの総額は、算定の時点まで割引された、彼の将来収入の値と等置されるべきである。こうした計算に関する細目の問題には立ち入らない。なぜかといえば、こうした計算は実行不可能であり、現実の事象に十分近似的でないと思われるからである」<10>
 この再生産費確定の不可能性についての理由として次の五つをあげている。
 (一)教育費の一部は、一定の職業のための費用と解することはできない。(二)他の(労働以外の)財貨では決して怠られることのない右の計算が、ここ(労働)では事実上、通常は実行されない。(三)特に、教育における自分自身の労働に含まれた費用要素は、右の図式と相容れない。(四)費用と効果とはたいていの場合、あるいは、、ともかく極めてしばしば同一の人物には帰せられない。(五)そして最後に、費用の支出と効果取得の間には、大抵長い時間が経過する。そのあいだに一切の事情が変化しうるし、また実際ほとんど常に変化する、ということである。
 シュンペーターの第一の主張は、すでにわれわれがその整合的なモデルを提示し、与えられた線形な技術と、実質賃金バスケットのもとで、整合的な古典派価格体系を構成することができることを示したので、今日では問題とならないものである。これについてのシュンペーターの批判は彼の理論経済学についての考え方に必ずしも一致していないことを指摘しておくことは意味あることのように思える。彼が古典派の価格の費用理論を批判するのはその特殊な立場に依存している。すなわち経済行為を全て価値関数(限界効用関数)に基づく交換行為としてとらえ、実際の交換が行われていないときでもあたかもそれが行われているかのようにしてとらえる、というものである。この立場は価格現象をより構造的なものとしてとらえる古典派経済学のそれとはっきりと違っているのである。一方、同書では理論経済学を立場の違いに対して極めて寛容なものとして定義している。すなわちその基本的前提、あるいは、仮定が明らかに否定されるもの出なければその後の理論的展開が整合的なものであれば有効な理論としてとらえる、というものである。この立場は今日においても決して古くなっていない。しかしこの立場を受け入れ、現代の理論経済学の到達点から古典派経済学の価格理論を検討すると、線形な技術体系の下での生産価格理論として多くの成果をあげていることは明かである。したがって、シュンペーターの理論経済学に対する立場と経済行為に対する彼の定義との間には矛盾が存在している。
 一方、シュンペーターのこの後者の主張は特に重要なものである。というのは、それが古典派経済学の賃金に関する再生産費説の重要な弱点、すなわちその再生産費の現実の計算方法についての無関心を鋭く衝いているのであり、また特に労働者の形成にかかった総費用と、将来収入の等値というのはわれわれが後に検討するモデルにおいては、結果として現れてくる重要な内容なのである。具体的な計算についての無関心さは、カンティヨンの「ところで、この問題について正確な計算をすることはできないが、どうしても正確に計算しなければならないというわけでもなく、あまり真相から離れてさえいなければそれでよいのである」という主張に端的にあらわれている。賃金の再生産費の具体的な計算方法が、理論的に特に関心をひくものでないならば、古典派経済学の無関心は責められるものではない。しかし、実際は再生産費賃金理論は、資本制経済のもとでの労働者の生命のあり方についての決定的に重要な視点を与えるものなのである。それはまた、古典派の再生産費賃金理論を徹底的に検討することによってのみ解明できるのである。
脚注
<1>ワーメル(1939)。
<2>同、p.13。
<3>チュルゴー(1766)、p.26、ただし、以下の訳文はワーメルの上の著作にあるものを用いている。
<4>ワーメル(1939)、p.98。
<5>スミス(1776)、、p.227。
<6>リカード(1817)、p.109。
<7>マルクス(1867)、p.225。
<8>同、p.224。
<9>シュンペーター(1908)、上、p.123。
<10>同、下、p.86。

第2節 エンゲルによる古典派賃金理論の完成
1 機械論的な生命論
 古典派経済学の制約を打ち破り再生産費賃金理論を完成させ、それを経済学的な生活過程の理論、さらに言い替えれば生命把握の理論へ引き上げたのはエンゲル(1821ー96)である。エンゲルは、エンゲル係数などのその消費理論が余りにも有名なためにこちらの方は忘れ去られてしまっている。統計学者としてのエンゲルは生き残り古典派経済学の再生産費賃金理論を継承発展させたエンゲルは忘れ去られてしまったといってもいいだろう。後者の理論は『労働の価格』とその後の『人間の価値』という二つの著作によって展開されている。エンゲルは自己の理論が決定的にアダムスミスの影響を受けていることをはっきりと認めている。
 スミスとエンゲルを結び付ける最も重要な考え方は「機械論的な人間生命論」とも言われるべきものである。それには、スミスの著作の中にある次の一節が決定的な役割を果している。
 「ある高価な機械がすえつけけられるばあいには、それが摩滅してしまうまでに、それによってなされるべき異常な仕事は、それに投ぜれた資本を少なくとも通常の利潤を伴って回収するであろう、ということが期待されるに違いない。多大の労力と時間をかけて、異常な技巧と熟練とを要する職業のあるものについての教育を受けた人は、こういう高価な機械の一つになぞらえることができよう。彼が習得する仕事は、普通の労働の日常の賃金に加えて、彼の全教育費を、少なくともそれと同等の価値あるの資本の通常の利潤を伴って回収するであろう、ということが期待されているに違いない。そればかりではなく、この回収は、耐用期間がより確実な機械についてさえ払われるのと同じような考慮が、生存期間の極めて不確実な人間の生命についてもはらわれ、そのうえで、合理的な期間内になされなければならないことなのである」<1>
 ここでの機械は資本としての生産手段である。はじめに指摘しておかなければならないのは、この記述は本質的に先に掲げたシュンペーターの賃金生産費説のとらえ方と同じだということである。この人間的生命を一つの機械に例えることができるというのは再生産費賃金理論の一つの必然的な帰結なのである。労働者の生命もそれ自体としては自然的生理的実体である。しかしそれが賃金と結び付けて考える場合には一つの価値の塊になってしまうのである。生命が資本制経済の中で労働力の担い手としてみなされるとき、それはそれは対象化された価値でしかなくなるのである。スミスはこの一文章で、この点についての鋭い認識を述べ、エンゲルはこの主張を理論的により精密に考えそして実証的な研究を試みたのである。ただしエンゲルには古典派経済学者に共通する一つの欠陥がある。それは労働あるいは、労働力をいかなる時代にも共通するものとしてとらえ分析していることである。しかし労働あるいは、労働力の価格という問題がマルクスの強調したような賃労働−資本という特殊な関係の下でのみ発生するという歴史的視点を欠落させているのである。たとえば、次の一節にはそのことが端的に現れている。 
 「(ナポレオンやシェイクスピア等の)精神上の英雄もまたすべての他の人間とちょうど同じく、一定の教育費及び統治費を引き起こし、この費用が彼らの親たちにとって余りにもしばしば非常に散文的なものと考えられたであろうことは否定することも許されず、またできもしないのである。ここではかような純粋に物質的な出費のみが問題になるのであって、自然が一人の人間には潤沢に付与し、大勢には中位に、さらに他のものにはほんの僅かばかりを装備したところの、評価不能の賜が問題となるのではない。・・・・・自然は至るところで、そしてあらゆる事情の下で、無償で創造する。そしてその賜と力とではなく、それらの占取と用益化とのためにする労苦の費用のみが計算の対象となり、価格の要素となるのである」<2>
 エンゲルの考え方によれば資本家の労働力の価格も計算されることになるだろう。そして極めて「常識的」な利潤は資本家の労働力の価格という結論に近いものとならざるを得ない。さらにその考え方は、先のシュンペーター、スミスの引用にもあるように労働力の価格の計算においても異時点間の価格を利子率をもちいて評価し直すという考え方にも通じていくのである。労働力の生産費を問題にする場合、機会費用はいかなる現実的根拠も持たない。資本制経済の下における労働者の立場は自己の労働力を資本である生産手段の所有者に売って実現しない限りその生命を維持する手段を持ち合わせていない。その状況の下では労働者はその労働力をその費用以上に、あるいは、同じことだがその平均的な生活水準を実現するための費用以上に売るることはできない。その平均的水準を上昇させるより外はないのである。したがって、労働者はもしこの期に必要な生活資料を少なくして金融的に投資したらとか、子供を作らずにその費用で工場を作ったらとかいうのは一般的な状況として、社会的に有意な可能性をもっては、起こりえないのである。労働者が受け取る利子率から彼らが支払う利払いを差し引いたものが全体として正になるとしたら、その純投資は彼らが受け取る所得の流列と必要な消費の流列の間のアンバランスを補正することによって生じたといえる以上のものではないのである。
2 保険料を含む労働費用の算出
 エンゲルは『労働の価格』において人間の生存期間を若年期、労働期、そして老年期の三期に分けている。そして各々の期に対応した費用にもとづいて労働力の費用を算出している。
 「すなわち第一には、若年期における子供の維持が両親に生ぜしめるところの出費の補償に対して、第二には、労働期にわたる生命と労働力との維持に対して、第三には死亡に至るまでの老年期間の維持に対して、配慮されなければならない。
 さて価格計算の規則にしたがうと、労働の自己費用の各個の項目は次のごとくである。
一、次の諸項目に関し、若年期において充用されたる教育及び統治資本の償還
  (1)この資本の償却及び償却の時点に至るまでの未償却残余資本の利払い
  (2)この償却の完行されぬ場合の次の危険に対する保険
     (イ)償却期経過前の死亡
(ロ)病疾または労働期の短縮
(ハ)内的及び外的事由による労働期における利得能力の一時的中断
二、次の諸項目に関し、全労働期間わたる生命及び労働力の維持
  (1)力の維持及び力の更新の費用の支払い
(2)早期病疾の危険に対する保険
(3)利得活動の一時的中断に対する保険
(イ)疾病による場合
(ロ)恐慌及び事業停滞による場合
三、次の項目に関し、老年期にわたる生命の維持
(1)あらゆる関係における生活維持費及び養老費の支弁」<3>
 これがエンゲルが労働力の価格を計算する際の基本方法になっている。ここで注目されるものの一つは「保険」という考え方であり、その後の『人間の価値』の中での展開されている部分も含めるとエンゲルによって積極的に展開された価値ある部分である。われわれは後にこの保険という考え方が再生産費賃金理論の一つの必然的帰結であることを示し、理論的にもより精密に定式化することになるだろう。また老年期にわたる費用を労働力の価値に含めているがこれは一つの大きな問題であり、後のわれわれの理論分析の一つの結論として、この費用は労働力の価値に含めることは再生産費賃金理論の観点からは妥当でないということを示すだろう。エンゲルはこれらの項目をもとに労働力の価格が上昇する要因をいくつかあげられているが、その理由に「労働が健康と生命にとって危険であればあるだけ」をあげているのは注目されるべきである。この視点は、次節で展開するように、マルクスには強く意識されていた点であるが、古典派経済学において一般的な考え方ではなかったからである。
 ここで、エンゲルが行なっている数値例を、できるだけ彼の展開に忠実に、ただし数値そのものに惑わされないように、記号を用いて再現することにしよう。したがって利子率が考慮にいれられ、それをrとしておこう。また青年期において教育と養育のためにかかった費用を D0 とし労働期をT期間とする。したがってこのD0という費用はT期間の間に償却されなければならないことになる。各期の償却額をRとしよう。先ず第一期にRの額だけ償却されると残りの価値額は (1+r)D0−R となる。同じように第二期に再びRだけ償却されると残りの価値額は(1+r)[(1+r)D0−R]−R となる。同じ様に繰り返して第T期目で残額がゼロになるとすると、
(1+r)TD0−(1+r)T-1R−(1+r)T-2R−,・・・,−R=0.
さらにこれは次のようにも書き換えられる。
R R R
D0=++,・・・・・・,+  
1+r (1+r) (1+r)T .
利子率と青年期の費用とTが与えられればこの式によって毎期償却すべき額が簡単に決定できる。このRという額は各期の労働者自身の生活資料価値額(ここでは第t労働期のそれをDtとしよう)に加えられるべきものとなっている。このrはシュンペーターの割引率であり、スミスの通常の利潤率にほかならない。したがって第t労働期に提供される労働力の価値は Dt+R である。エンゲルはさらにこれに生命保険料が付け加えられるべきであるとしている。すなわち「真の保険料は各年次に現存する債務の未償却部分に当該年次の病疾の確率数を乗じ、かようにして総額を計上するという仕方によって見いだされるのである」。彼の計算は次のように実行されている。t期の生命がt+1期においても労働力を提供しうる生命でありうる確率をet+1としよう。ただしこの確率は主観的確率ではない。それは時系列的な統計資料から得られる平均的生存率と考えてよく、客観的なものである。またt期末、したがってt+1期期首における残存償却額は、
 (1+r)tD0−(1+r)t-1R−(1+r)T-2R−,・・・,−R
であるから、これに 1−et+1 をかけたものがエンゲルの保険料である。すなわち、
 It=(1−et+1)[(1+r)tD0−(1+r)t-1R
                  −(1+r)T-2R−,・・・,−R]
である。もちろん実際は保険会社の費用と利潤が加わるからこれよりも高いものとなるが、ここでは無視している。この保険料Itを加えると労働力の価値は Dt+R+It となる。上でも指摘したように、このことから危険の増大、したがってet+1の低下はItを増大させ労働力の価値を増加させることになる。この保険料を労働力の価格に加えることについて、各個人については結果的にでも次期に労働力を提供できる生命であるかどうかははっきりするのだから、生存確率は問題とならないのではと疑問が出されるかも知れない。しかしこの資本制経済については労働力は常に集団現象であることを忘れてはならない。それは集団としてしか問題とならないのである。労働力の価格も個人的な側面は捨象して分析しなければならない。社会的にみれば次の期まで誰が生き残るかではなくどれだけの割合で生き残るかが問題なのである。エンゲルの定式化が細かい点ではどのように問題を含んでいるものであろうと保険料を労働力の価格に含めることは現象の単なる表現ではなく資本制経済の本質的な側面をとらえているのである。なぜなら、労働者は、病気であるにしろ事故にしろ常に死ぬ可能性を秘めて生きているのであるから。
 この点についてより詳しく分析するために『人間の価値』において保険料がどのように取り扱われているを調べよう。人間の価値は『労働の価格』を発展させたものであり、簡単に述べれば人間の資本価値により分析の重点をおいているものである。したがってそこには当然保険料も十分に扱われていると予測されるのであるが、実際は明示的には現れていない。それは、すでに前著で分析済みであるから再び取り上げなかったと考えられるが、実は分析はさらに発展しているのである。次の記述をみてみよう。
 「失敗に帰した生産物の費用並びに生産物の作出中における出費または不払いの設備および経営資本の利子は同じく計算に繰り入れられて、成功した生産物の価格においてその補償を見いださねばならぬ、ということであるから、人間の費用価値の正しい計算はこれを回避してはならない。・・・生残者の費用価値は、不幸にして失敗に終った死児のためにした両親の出費だけ増額される」<4>
 ここでのエンゲルの分析は青年期の人間に対して行われているので彼の主張はわれわれの記号で簡単に再現できる。われわれの記号では青年期にかかった総費用をD0としている。そのときは一人の人間に対しての費用と暗に考えていたが、今後は人間のあるまとまった数、したがってまた生命の数を何等かの単位で計ることにしよう。それは千人を一単位と考えても、百万人を一単位と考えてもよい。いずれにしても一単位の生命が青年期に必要な教育と生活資料の総価格をD0としているのである。その一単位の生命が青年期を終ったときに、したがってまた労働期の最初の期に生命を維持している割合は、われわれの記号ではe1である。よって、1−e1は青年期における死亡確率にほかならない。エンゲルの主張は一単位の青年期生命が消費した価格総額D0が e1 単位の生命に体化されるということである。したがって労働期の最初の期の期首の生命一単位に体化されている生命価値は D0/e1 となる。もちろん 0<e1<1 であるから、D0/e1>D0 となる。これはさらに次のようにも書ける。
(1−e1)D0
>0
e1
この左辺は単位生命がその費用以上に評価されている分である。というのは、その分母が死亡した生命に費やされた費用にほかならないからである。しかしそれはまた、われわれが『労働の価格』についての議論の中で明らかにした保険料と同じものであることにすぐに気付かれるだろう。したがってこの左辺は生き残った生命が何も知らないうちに獲得した価値ではなく、ネットで支払う保険料として換算されるべきものなのである。すなわち生き残った単位生命当りその左辺の額だけ保険料を支払うことによって、そしてそれが死亡した生命の補償としてもちいられることによって、全ての費用が償われるのである。しかしエンゲルの分析は、生き残ったものの生命価値の過大評価については述べてもそれが保険料と深い関係を持つことにはなんら言及していない。というのはそこにやや複雑な問題が残されているからなのである。保険料を支払うといってもそれは前にも述べたように労働力の価格に上乗せされることによって、そしてそれによって賃金を受けることによって初めてその支払い能力が発生する。しかし青年期の考察だけでは労働力の価格に関わっていく仕組みが明らかにされないのである。青年期の保険料といえどもそれは労働期の労働力の価格に転嫁されて初めて支払い能力が発生するのである。エンゲルは『労働の価格』の中で明らかにした、生命価値の未償却部分にかけられる保険が労働力の価格に上乗せされるという理論と『人間の価値』の中で提出した死亡者に費やされた費用は生存者に上乗せされるという理論を整合的に結び付けることをしなかったために、保険料の問題であることに言及しないままになってしまったのである。青年期の保険料は体化された生命価値の中に含まれている。したがってそれはその生命価値の償却を通じて行われることは明かである。したがってちょうどその保険料分がそうでなかった場合の償却額に更に上乗せされて労働力の価格に積み上げられるのである。
 問題がやや複雑になってきている。というのは青年期にだけ人間は死亡するのではない。労働期においてもそのうちの一定の割合が死亡していく。その保険料も加算される。また死亡していく部分によって本来償却されなければならなかった分が、毎期生き残っていく分によって追加的に償却されなければならないのである。さらにもっとも大きな問題はそれにもかかわらず、労働期にある生命によって生み出される労働力の価格は同じでなければならないのである。これらの困難を解決するためのもっとも合理的な方法は、生命価値の償却をこれまでのように表すのを諦めることである。そしてその方法は生命を労働力の結合生産物として扱うことである。後にそのより精密な議論が行われるだろう。
3 新生命の価値
 『人間の価値』においてエンゲルが提起しているもう一つの興味深い問題は新しく生まれた生命が価値、あるいは、価格をもっているかということである。ここまでは青年期末の生命価値について確定する際に、新しい生命については価格ゼロと仮定してきた。しかし、エンゲルはこの著作の中で、新生命についても生の価格を想定している。その理由としてエンゲルはE.ヘルマン(E. Herrmann)という学者の『経済の原理(Principien der Wirtschaft)』という著作の次の一節をあげている。
 「遺憾ながら、今日なお余りに多くの民間人士も政治家も、人間をもってそれ自身としては費用のかからない自然の産物で、たかだかやっと後々になって教育と修業の結果若干の支出を引き起こすものと考えている。一体しかしそれは真理であるか。決してそうではない。父親は肉体と精神力における資本を生児に与えるのであって、それは彼が努力と労働により愛撫と養護によって、一部分は自ら獲得し、一部分は先行諸世代から相続分として継承し保全してきたものである。そうして母親の肉体と精神が妊娠可能となる程度の発達するまでに、いかに多くの配慮が費やされなければならず、いかに多くの力と時間が犠牲にされねばならなかったであろう。一つの家庭を建設するためにたいていの場合どれだけの努力が必要とされたであろうか。妻が妊娠している間、その労働力はほとんど半減される。待望される若き生命のために最善の力が蓄積され、そして今やそれは急速に消費される。・・・・・これらの示唆は、人間がまさしく無費用でこの世に出てくるものではない、ということを証明するに足りるのではなかろうか」<5>
 ここでも書かれているように新しい生命がそれ自体として価値をもつというのは一般に考えられていなかった。あのマルクスにあっても同じである。すなわち、『経済学批判要綱』の中で「人口の増加は、それに対して支払われることのない労働の自然力なのである」<6>と述べている。古典派経済学においては人口は常に過剰化傾向を持つものであっった。その典型は、マルサスの『人口の理論』で述べられているものであろう。スミスにしろリカードにしろ生活資料が平均的に供給されれば人口成長が制約となることはならないという立場をとっていた。マルクスは絶対的過剰人口という立場は取らなかったものの、その相対的過剰人口理論によって労働人口の資本に対する過剰の恒常性を強く主張していた。人口が過剰なところでは、それが実際売買されるのではないにしろ、新しい生命は自由財と考えられていたとみるのが最も妥当であろう。いくら費用がかかったとしてもそれが全く希少性をもち得ないものだとしたらその費用はなんら社会的に評価されないであろう。エンゲルはそこまで考えて、新しい生命がなんらかの希少生をもつ場合を考えてそうしたのであろうか。実際はそうではない。より安易に、この引用の前で彼は小馬の場合を議論しているが、そこでは新しく生まれた小馬が必ず正の価格を持つとされていて、それを人間的生命の場合へ適用したものであると考えるのが適当だろう。われわれは後に新生命の価値についても精密な定式化を与え、それが古典派経済学の想定とは異なり、正になる場合をいくつか調べるだろう。そしてその結論は、エンゲルが想定したように新生命が生の価値を持つとする方がそうでない場合よりもより現実性を持つことを明らかにするだろう。
 われわれは、ここまでエンゲルの理論に沿うかたちで、生命の価値という概念を、特に深く検討することもなく用いてきた。しかし、この生命の価値を問題にすることは現代においてふさわしいものではないと考えられるかも知れない。生命の価値、あるいは価格、すなわちそれは命の値段であり、その値段が成立するような市場は、この資本制経済においては存在しないからである。命に値段がつけられ、実際にその売買が行なわれるのは、奴隷制の経済である。そして、その奴隷制は歴史的に否定された。それでも、少し考えると、確かに市場は存在していないかも知れないが、生命に値段がつくというのはまったく非現実的な事象ではないことがわかる。というのは、生命保険に加入するとき、あるいは自動車事故などで死亡した人の賠償金が問題になるときなど、きわめて現実的な問題として「生命の値段」が問題にされる。われわれが、ここでエンゲルに依拠しながら検討を加えている命の値段は、これらの命の値段と同類であり、それを一つの体系的な理論として取り扱っているのである。すなわち、再生産費賃金が問題になるときの、一つの影の価格として命の価格が与えられるのである。再生産費賃金理論は、資本制経済における分配理論を構成している。そして、この賃金制度のもとで、労働の用役、あるいは同じ意味で労働力が売買されるとき、同時に実際には売買されない労働者の生命そのものが一つの売買可能な財として扱われ、それに影の価格としての値段がついてしまうのである。したがって、再生産費賃金理論がとらえている現実は、それが形式的には自由な当事者の間の自由な交換としてあらわれている、労働力の売買が、その背景に、一つの実質として、奴隷制のという性格を隠し持っていることをあらわしている。ここに、再生産費賃金理論の資本制を告発するものとしての鋭い内容の一つがはっきりとあらわれている。
4 エンゲルの進歩性と限界
 最後にエンゲルがその分析から出した結論について検討を加えることにしよう。『労働の価格』においては彼はまず第一に労働力の価格を安くする手段として若年期の不自然な短縮、そして労働期の引き延ばしに反対する。例えば彼は次のように述べている。
 「(若年期の短縮は)全く嘆かわしいことだ。それによって子供の精神的及び肉体的発展にこの上もない損害が及ぼされる。すなわち弱い世代が生育し、新世代毎に体力は必然的に若干程度だけ低下する。というのは弱者は自然の定めた期間に償却を終えるという任務には強者よりも適当していないから。こんなふうにして非常に幼い時代に彼らの労働力を使用させられた子供においては、かの不自然な早熟が現れ、それは容易ならぬまでに弛緩した家族の紐帯とほとんどあらゆる家族的追憶の欠乏とによって厭はしき特質を与えられるのであ」<7>
第二には、労働力の価格はその費用にふさわしいものであるべきであると主張している。
 「それ故に、若年期の短縮やその自然的程度を超えた労働期の延長は、一世代のうちに生きている肉体的・精神的・道徳的労働を維持し強化する手段ではない。それはただ一つに自然の定めた労働期を完全に利用することに存している。そしてそれがためには、何よりもまずその自己費用に適応した労働の価格が必要である。その生産物及び売品の自己費用に関して不十分な知識しかもっていないで、引続き自己費用を割って償却する工場または商店は必ず破綻するものであるが、継続的にその労働を自己費用価格以下で提供する国民はそれと同じ確実さと抑止しがたさでもって破滅するのである」<8>
この、労働力を適正なその費用で評価すべきであるという主張こそ彼にあって中心的なものである。この立場は『人間の価値』の段階に至るとより詳細に展開されるようになる。
 「国家内における最大多数の家族は、彼らの扶養者の知能と四肢の力による以外の支持をもっていない。一方においてはこの所有のかような不安定と、他方においては(恐慌と不景気が労働中止をやむなくする場合)その収益性の不安定、これが、われわれの論述してきたように、第四身分の社会的受難のもっとも力強い原因である。むろん、労働力の衰退と死亡とに停止を命ずることは許されない。しかしなぜにわれわれは無性の資本を手本としないのか。この資本の所有者はそれを徐々に、そしてその蓋然的存続に比例して、償却をする。彼は建物・機械その他一切の損耗を計算してそれを制作費に加算する。しかるに、人間の損耗は彼には考慮に入っていない。・・・・もしも国家が例外なく産業を強制して、彼らによって損耗された力にたいして配慮させようと思えば、換言すれば、労働者のための一般的疾病=及び死亡金庫、寡婦=及び孤児金庫に醵金するように産業を強いようと思えば、疑いもなくたちどころに無権限の干渉だという叫びが上げられるであろう。人はかような事情の下において他の国々と競争することの不可能であることを計算してみせ・提説してみせるであろうし、また多くの事業の閉鎖のやむなきことを証明するであろう。人々がそれで慰撫された、と仮定しよう。しかしそれによって何物かが利得されたであろうか。確かにそうではない。製品が何ほどか廉価であることのために、人間の損耗と費消とは妨げられずに存続していかねばならず、しかして貧民の帯列は益々稠密に満たされ、貧民に対する配慮と負担は益々大きくなるであろう」<9>
 このような彼の主張は資本制経済の確立過程において一定の進歩的な側面を持ちうることは明かである。資本制経済の勃興期において生命が浪費されていたことは一つの歴史的事実である。人間的生命の価格は一国における文化的、歴史的諸条件に依存するが、そうした初期資本制経済の再生産費を割る労働の価格、したがってまた生命価格の過小評価は、それが生命を大きく浪費するというような意味においては、現代の発達した資本制経済においては少なくなってきているように見える。しかしもし生命、労働力がその費用にそって正当に評価されたとすれば、それで進歩として十分なものであろうか。資本制経済において労働がその費用どおり評価されたとしても、そこにこの経済体制の存続に関わるような問題はなにもない。というのは資本制経済は労働力にその費用どおりな価格がつけられたとしても、経済の進行の必要条件である利潤の存在が保証されるくらいに社会的な生産力が高いことを前提にして成立するからである。成熟した資本主義においては、また労働の価格が正当に評価されなければその経済の進行が決定的に妨げられることになるだろう。なぜなら奴隷制と比較した賃労働制の決定的優位性はこの点に関係しているのである。その優れた点は、本質的な人間的生命の隷属性を形式的な自由に置き換えたことなのである。確かにそれは一面において進歩である。その形式的自由は、この高度に発達した分業体系をともない人間的生命がますます普遍的な労働能力の容器となったこの経済において決定的に重要なイデオロギー的機能をしているのである。形式的自由を本質的自由と錯覚させるイデオロギーに人々は浸りきっている。諸個人にとっての本質的自由とは自己の生命について完全な支配者になることである。その個別的生命の維持と発展についての諸条件を完全に認識しまた制御することである。たとえ、エンゲルの主張するように労働力がしたがってまた生命がその費用に応じて評価されたとしても、そこの本質的自由がないことは明かである。奴隷と同じように生命に価格がつけられることのもつ意味を検討しなければならない。もしある個人が彼の生命を維持するために彼の労働能力以外にその手段がないとしよう。また仮に彼の労働能力は零ではないとしよう。そのとき彼の生命は必ず正の価格がつけられるだろうか。エンゲルはこの点をもっと検討すべきだったのである。明らかに、その労働力の生産において非常に効率の悪い生命について資本は簡単に「無価値である」という烙印を押すであろう。この点は、後の理論的分析においてはっきりと示すが、例えば同じくらいの生活資料が必要で、同じくらいに生殖を行いながら、一方はより少ない労働力しか生み出さないような生活様式を選択した生命は無価値である。資本にとってその様な生活様式を選択した生命は意味がないからである。人々は自己の生活様式が、自己の生命を無価値にするものではないように修正しなければならないのである。生命に価格がつけられるというのは、それが意識や意志あるいは一切の感情を剥奪された一個の物として評価されることを意味している。人間は自己の生命を常にそのような物として評価されるように生活様式を選択するのである。それというのも彼の生命を維持し発展させる手段が他人の意志の支配下におかれているからである。彼に本質的自由は有り得ない。次のようにいい変えてもよいだろう。労働者にとって彼の労働時間を選択する自由はないということである。労働は、彼にとって本質的には、その主観に依存せず一種の強制労働なのである。ただどのような意味での強制労働であるかは問題である。いずれにしても、諸個人がどの様な種類の労働をどれだけの量だけ支出するのかが完全に諸個人の自由な判断に任されるような社会でない限り労働は常に強制的側面を持つだろう。資本制経済においては、彼らが生命を維持するためには労働力が社会的にみて意味のあるものであることが示されなければならないという形で強制力が働く。生命の価値が正であるように自己の生活様式を選択することは常に強制されるのである。
脚注
<1>スミス(1776)、、p.295。
<2>エンゲル(1872)、p.116。
<3>同、p.137。
<4>エンゲル(1883)、p.319。
<5>エンゲル(1883)、p.293。
<6>マルクス(1857b)、p.523。
<7>エンゲル(1872)、p.181。
<8>同、p.182。
<9>エンゲル(1883)、p.284。

第3節 労働者生命をめぐる二律背反命題
 この節で注目するのは、マルクスによって議論された労働力の価値(それは古典派的再生産費賃金率と同じものである。その労働価値版である)を巡る一つの二律背反(アンチノミー)命題である。まず、この議論において、彼が次のような事実を理論的に認識していることが注目されるのである。資本制経済において、労働力がその費用どおりに評価されるとした場合、剰余価値率あるいは利潤率を上昇させるためには、労働強化を行う、すなわち一定期間内に行使する労働の量を増加させることができるが、それは同時に生命の自然な寿命を縮めることによって同時に労働力の価値を上昇させ剰余価値率、利潤率を低下させる側面をもつ、というものである。このこと自体は、二律背反ではなく、労働供給量と労働者生命の寿命に関する一つの否定的関係を示しているものでしかない。しかし、マルクスは現実の労働力の売買において、この関係を前提にして、その権利を主張する労働者と、購入したものとしての権利を主張する資本家の間での権利の二律背反が成立すると議論しているのである。われわれは、権利の二律背反命題そのものよりも、その背後にある労働と寿命の否定的関係そのものが重要な意味をもっている。
 この二律背反命題は1861年から1863年にかけて書かれた資本論のための草稿にすでにあらわれている。それは絶対的剰余価値に関するノートの中の「b 必要労働に対する剰余労働の割合。剰余労働の限度」の節に含まれている。そしてさらにそれは『資本論』の労働日の章につながっていくのである。マルクスは先ず資本が剰余労働を増大させるための無際限の傾向を持つことを指摘する。
 「労賃に支出される対象化された労働と引き替えに、資本は最大限の分量の生きた労働時間を取り戻そうと努める。すなわち、賃金の再生産のために、つまり労働者自身の日々の生活手段の価値の再生産のために必要な労働時間を超えて、労働時間の最大限の超過分を取り戻そうと努める。資本のこの点での無軌道ぶりについては、資本の全歴史がその証拠を提供している」<1>
 そして資本家が手にいれた一日の労働力から実際に何時間の労働力を絞り出すのかについて、何か外的な規準がないかのように見えると述べている。資本家は一労働日の労働能力にふさわしい賃金を支払った。そこで行われているのは一つの等価交換である。価値にふさわしい対価を払ったのであるからそれをどう使おうとその買い手である資本家の勝手であるというのである。
 「すなわち換言すれば、労働能力そのものの生産費によって規定される一定量の対象化された労働と交換に資本の入手する生きた剰余労働の大きさが、したがって生きた総労働時間の大きさも、この経済関係そのものの本性によって限界を画されていないのは、買い手が商品の使用価値を利用する仕方が売買の関係によっては全く規定されていないのと同様であるように見える」<2>
 しかしつづけて実際はそうはならないと指摘する。
 「しかしながら、次のことを考慮にいれなければならないのである。資本の
側では労働能力の価値獲得的利用(あるいは、われわれが以前呼んでいたところによれば、それの消費。それの消費が同時に価値増殖過程であり労働の対象化であるということこそ、正に労働能力の本性である)であるものが、労働者の側では労働、
つまり生命力の支出である。労働がある長さの時間以上に延長される言い替え
れば、労働能力の価値獲得的利用がある程度以上になるならば、労働能力は、
維持される代わりに一時的或は最終的に、破壊されてしまう」
 したがって、マルクスは労働者が自分の労働力を価値どおりに売るということのうちには次のようなことが前提とされていると指摘する。
 「すなわち、労働者が彼の在来の仕方で労働者としていき続けることを可能にする日々の平均賃金を彼が受け取るということ、つまり、彼が翌日にも(自然的年齢が必然的にもたらす衰耗または彼の労働のやり方がそれ自身としてもたらす衰耗は別として)その前日と同様に同じ正常な健康状態にあるということ、彼の労働能力が、一定の正常な期間、例えば二十年の間、再生産され、あるいは維持されており、したがって前日と同じ仕方で再び利用されるということである。したがって剰余労働が、労働能力の正常な寿命を強力的に短縮するような、あるいは一時的に駄目にする、すなわち損なうような、あるいは完全に破壊してしまうような過度労働の域にまで延長されるならば、この条件は損なわれるのである」
 この様な点をふまえて、この段階における二律背反命題は次のように定式化される。
 「さて上述したところから出てくるのは、ここでは一般的関係そのものにおいて一つの二律背反が生ずるということであって、そこから生じる二律背反とは次のよ
うなものである。一方では、労働時間をある時間以上に延長することを絶対的
に妨げる自然的諸条件を別とすれば、資本と労働の一般的関係労働能力の販売
からは、剰余労働にとってもどんな制限も出てこない。他方では、剰余労働が
労働能力そのものの価値を労働能力の使用が売られているのは、ただ、それが
労働能力として維持、再生産され、したがってその価値も一定の標準的な期間にわ
たって維持される、という範囲までのことであるのに破壊する限りでは、境が
はっきりしないある限界を超えて行われる剰余労働は、労働者による労働能力の販売とともに与えられている関係そのものの本性に矛盾するのである」<3>
 ここに述べられているような二律背反命題の中心にあるのは労働力の売買である。その売買において、買い手はその使用に関して売買関係そのものから受ける制約はない。肉体的制約を別にすればどれだけの労働時間を行使させてもよい。しかし労働時間に対する自由な行使は労働力を破壊させるに至る。ここでマルクスが労働力価値の破壊といっているのは、労働能力が維持される「一定の正常な期間」が短縮される、ということである。ところがこれは労働者の側からみれば、その労働力を売るときに全く前提とされていないものである。そして、すでに前章でも指摘したように、この点は『資本論』では権利と権利の間の二律背反としてはっきりと定式化されている。
 「要するに、全く弾力性のあるいろいろな制限は別として、商品交換そのものの性質からは、労働日の限界は、したがって剰余労働の限界も、出てこないのである。資本家が、労働日をできるだけ延長してできれば一労働日を二労働日にでもしようとするとき、彼は買い手としての自分の権利を主張するのである。他方、売られた商品の独自な性質には、買い手によるそれの消費に対する制限が含まれているのであって、労働者が、労働日を一定の正常な長さに制限しようとするとき、彼は売り手としての自分の権利を主張するのである。だからここでは一つの二律背反が生ずるのである」<4>
 こうした二律背反命題の事実的基礎は労働時間の延長による労働能力の持続期間の短縮である。この労働力の持続期間を労働力寿命と呼ぶことにしよう。マルクスは、ここでは、こうした労働強化と労働力寿命の間の否定的関係を主題としているが、これは例えば労働強化によってその後の労働力の再生産効率が悪化される場合にも直接に適用できることは明かである。すなわちある年齢において労働日が極端に延長されたためにその後の年齢においてその年齢に応じた標準的労働時間に耐えられないような肉体になってしまったときにも労働者の売り手としての権利は侵害されたことになる。またマルクスは特に触れていないが、われれは個々の労働力、したがってまた単一の生命を問題にしていないので一つの世代がその期中になん割その生命を失うか、すなわちその死亡確率も問題にできる。もし、ある世代に対する労働強化によってその後その世代の死亡確率がある標準値より大きくなればそれも労働者の売り手としての権利を侵害したことになる。これらの意味においてもマルクスの二律背反命題が完全に当てはまることも明らかであろう。
 次にこの命題のもう一つの側面もみておくことにしよう。この側面においては労働力の買い手と売り手の両方に関係するのではなく、一方的に買い手の側に現れる自己矛盾である。すなわち労働時間の延長が労働力寿命を短縮する、労働力の再生産効率を悪化させるあるいは世代の死亡確率を増大させるならばそれは必要労働時間を増加させる強い可能性をもっているのである。これについては次章で精密な議論を行うが、もしそうであればもともと労働時間の延長が剰余労働の増加を意図して行われたのに必要労働を増加させることによってその効果が相殺されてしまうことになるのである。目前の効果だけみるならば労働時間の延長は剰余労働を直接に増大させる。個々の資本家は短期的視野しかもっていない。したがって、自らの短期的視野の下での衝動が生命の幾世代かの繰り返しの中で起こる長期的効果については無関心である。
 「資本は労働力の寿命を問題にしない。資本が関心をもつのは、ただただ、一労働日に流動化されうる労働力の最大限だけである・・・・・つまり、本質的に剰余価値の生産であり剰余労働の吸収である資本主義的生産は労働日の延長によって人間労働力の萎縮を生産し、そのためにこの労働力はその正常な精神的及び肉体的発達と活動の諸条件を奪われるのであるが、それだけではない。資本主義的生産は労働力そのものの早過ぎる消耗と死滅とを生産する。それは労働者の生活時間を短縮することによって、ある与えられた期間の中であの労働者の生産時間を延長するのである」<5>
 このような資本の短期的衝動は、その意図と逆の結果もまた生み出す。
 「しかし、労働力の価値は、労働者の再生産または労働者階級の生殖に必要な諸商品の価値を含んでいる。だから、資本がその無際限な自己増殖衝動によって必然的に追求する労働日の反自然的な延長が個々の労働者の生存期間を、したがってまた彼らの労働力の耐久期間を短縮するならば、損耗した労働力のいっそう急速な補填が必要になり、したがって労働力の再生産にはいっそう大きい損耗費が入ることになり、それは、ちょうど、機械の損耗が早ければ早いほどその毎日生産されるべき価値部分がいっそう大きくなることと同じである。それだからこそ、資本はそれ自身の利害関係によって、標準労働日の設定を指示されているように見えるのである」<6>
 ここでの最後の文章を除いてこれらの引用が、資本家の短期的衝動とその長期的結果の間の矛盾をはっきりと示しているだろう。しかしここで、マルクスの最後の文章に注目しよう。「ように見える」とは「実際はそうではない」ということを暗にほのめかしている。これは、彼が直面していた資本制経済の現実において、著しい生命の浪費を許すようなその供給が行われていたためであると思われる。この点において、まさにマルクスと同時代人であったエンゲルとの共通点をみることができる。エンゲルの直面していたのも産業によって行われている生命の浪費であり「価値どおり評価せよ」という要求で生命の浪費を批判したのであった。マルクスの次の指摘は、この確かな根拠となり売るものである。
 「経験が資本家に一般的に示すものは、一つの恒常的な過剰人口、すなわち資本家の当面の増殖欲に比べての過剰人口である。といっても、この過剰人口は、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟なうちに摘み取られてしまう何世代もの人間でその流れを形作っているのではあるが。もちろん、経験は、他面では、賢明な観察者には、歴史的にいえばやっと昨日始まったばかりの資本主義的生産がどんなに速くどんなに深く人民の生活の根源をとらえてきたかを示しており、どんなに工業人口の衰退がただ農村からの自然発生的な生命要素の不断の吸収によってのみ緩慢化されるかを示しており、そしてまた、どんなに農村労働者でさえもが、自由な空気にも関わらず、また、最強の個体を栄えさせるという彼らの間であんなに全能的に支配している自然淘汰の原則にも関わらず、すでに衰弱し始めているかを示している。自分を取り巻く労働者世代の苦悩を否認するためのあんなに「十分な理由」をもっている資本が、人類の将来の退廃や結局どうしても止められない人口の減少やの予想によって、自分の実際の運動をどれだけ決定されるかということは、ちょうど、地球が太陽に落下するかも知れないということによって、どれだけそれが決定されるかというようなものである。・・・・・・我が亡きあとに洪水はきたれ!これが、全ての資本家、全ての資本家国家の標語なのである。だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されない限り、顧慮を払わないのである」<7>
 同じ様な主旨の文章はすでに草稿の中にも現れている。すなわち、こうした自己矛盾が資本家自身の問題として現れることは現実的でないというのがマルクスの一貫した見方だったのである。生命が浪費されその萎縮した生産が行われたとしてもその萎縮した生命がより多く供給されることによってその萎縮した部分を補うという見方なのである。しかしそうした萎縮がマルクス自身も指摘しているように、労働者の損耗費を増大させることは事実なのである。労働者の損耗費、それはエンゲルの言葉を用いれば若年期に投資された費用の償却費にほかならない。したがってすでに指摘しているようにそれは労働力の価値を増大させている。まさに資本家自身の利害に大きく関わっているのに、この現実性を、上のようにマルクスが否定しているのは、萎縮した生命の不断の過剰な供給が労働力の価値の増大分を相殺し更に萎縮する前の価値以下に現実の賃金を引き下げていることを示していると考えられるのである。マルクスはその前後の理論分析においては商品の価値どおりの販売を前提としている。従ったここでは現実の賃金の問題となっている。マルクスにそのような確信を与えたものは、その労働日の章で無数の例をあげている、生命の浪費の現実であろう。われわれは、マルクスの理論分析の方法を踏襲し労働力もその価値どおりの販売されることを一般的に前提とする。したがって後者の、資本家自身の利害をめぐる自己矛盾も重要視するのである。そのことが、現代の成熟した資本制経済の分析においてより鋭い認識を与えうると考えるからである。
脚注
<1>マルクス(1861)、、p.279。
<2>同、p.283。
<3>同、p.286。
<4>マルクス(1867)、p.305。
<5>同、p.347。
<6>同、p.348。
<7>同、p.352。