目次
   1.2 節 持続可能性と循環系
    1.2.1 環境・資源問題と経済循環
    1.2.2 生態循環と経済循環
    1.2.3 価値的循環と経済循環
    1.2.4 経済循環の回復

1.2 節 持続可能性と循環系   (目次へ
 
1.2.1 環境・資源問題と経済循環   (目次へ

前節で議論したように、経済が成長しなければならないという観念は進歩をもとには戻らない過程として考えることに通じる。成長する経済は、生産物の量あるいは規模が増大するという変化ばかりでなくさまざまな質の変化も含まれている。またそこでは、人間の物質的環境がめまぐるしく変化し、変化をなんらかの望ましいものの指標で測るとそれは増大している。われわれがこれまで、このような意味での進歩を求めたがゆえに経済成長は可能になった。しかし逆に、経済成長はわれわれに進歩を強制してきた。われわれが消費する財貨は次々に陳腐化の烙印を押され、新しいものあるいは変化を求め続けることを強制されたのである(注1)。このような状況の中では、成長し続けること、変化し続けることが地球という絶対的な自然制約の中で限界を持つことを正当に認識することができなかった。

ヘーゲルに代表されるような19世紀の歴史観は、不可逆的な発展の形をとっていた。世界が与えられた内在的なプログラムのもとで自己展開するという論理で、人間の進歩を理論化したのである。ヘーゲルの歴史観の観念性を批判したマルクスもまた不可逆的発展の歴史観を共有している。すなわち、進歩はもとに戻らないものとして語られたのである。それらはまた、経済が物質的な富の増大を常に継続しなければならないという産業革命以来の信念、ダーウィンによって展開された進化論、その間の自然科学の不可逆的な知識の蓄積とも対応している。

現在、こうした不可逆的な変化を進歩の重要な内容とみる信念は、深刻な変更を余儀なくされている。その理由は、これまで述べてきたように経済成長が環境と資源に関する限界に突き当たってきていることであるが、この限界の認識を可能にした人間の能力の拡大もみておかなければならない。科学の発展は、人間の生存がどのように自然に依存しているのかを明らかにした。そして、巨大な経済活動と地球的規模の自然との関係も明らかにすることができるようになったのである。二酸化炭素の排出という、光合成によって蓄積されたバイオマスから酸化の過程を経てエネルギーを確保するという機能の直接的結果が、地球というシステムの中でバランスを崩せば環境の劇的な変動をもたらすことを明らかにしているのもまた科学である。さらに、地球そのものを地球の外側からリアルタイムにみることができるようになったことも、われわれの認識を大きく変えるものであった。地球もまた、ある距離をおいてみれば、一人の人間の視野にはいるような、人間の生存を拒絶する宇宙空間の中に浮かんだ一つのもろい有限なシステムに他ならないことを直接にとらえることができるようになったのである(注2)。

地球が人間の経済活動と比較しても、一つの有限なシステムであるということは、そこに含まれているすべての資源および廃棄物の同化能力の母胎としての環境が有限であることを意味している。そして、こうした有限性と両立するようなわれわれの存在のあり方を考えるとき前節で議論した「成長しなければならないシステム」としての経済から、ある一定の規模を変えずに持続する経済、すなわち定常系としての経済への転換は必要条件の一つを満たすにとどまる。すなわち、われわれの経済が定常的に持続するもとで、それを条件づけている資源と環境が不可逆的にその状態を変えなければならないとしたら、地球という有限なシステムと整合的であることは不可能だからである。したがって、われわれは、資源の利用においても、環境の利用においても、経済そのものにおいても統一的に定常性を実現しなければならない段階にきている。

このような、人間と自然の普遍的な定常性の実現をめざすことは、運動の終息を意味してはいない。定常性は、人間の存在と両立するものでなければならず、死んだ定常性はまったく無意味である。なによりも、人間にとっての外的な自然そのものが運動と変化の中にある。超長期的には、地殻のグローバルな運動などの形で地球そのものが不可逆的な変化をしていると考えられるが、さしあたってわれわれが問題にしているのは、長くてもおよそ百年後の未来くらいまでである。この時間的な視野のなかでは、巨大化した人間の活動の影響をのぞけば、地球環境そのものの自立的でグローバルな不可逆的な変化は無視しうるほど小さいと仮定できる。したがって、その範囲のなかでは地球は平均的には定常的であっても、その定常性は運動と変化の中にしかあらわれないのである。そして、われわれが直面している自然は事実として、1日の時間の変化の中にも、季節的な変化の中にもさまざまに違った環境をわれわれに与えるのである。

また、人間はこの変化の中で、外的な自然との間で物質を交換し、またそれに体化したエネルギーを消費することによって自らを維持している。この意味でもわれわれのいう定常性は、死んだ静的なものではない。人間の側からみればそれは経済の中に資源としての物質・エネルギーを投入し利用不能になった物質・エネルギー(廃棄物および廃熱)を自然に廃棄することである。物質・エネルギーの流れをこうのような人間の側からだけみるのでは、人間と自然もともに含んだ普遍的な定常性をとらえることはできない。自然から経済に取り込んだ資源は、廃棄物となったときに物質的には変化した形態になっている。その変化した形態が再びもとの資源と同じ形態に復帰することが定常的に維持されない限り、普遍的定常性を実現することができない。こうした、経済に対して資源を提供し、経済から廃棄物を受け取る自然が、自己回復できるかどうかが大きな問題となる。この点に関する人間の側からの十分な理解と実践が行われていないところに、今日のあらゆるレベルにおける環境破壊・資源浪費問題の本質が存在している。そして、それは自然と人間をともに含んだシステムの内部における、物質循環の問題なのである。この循環が定常性を維持できなくなってしまっていることとがわれわれの経済の持続可能性を崩壊させている、経済成長とは異なるもう一つの本質的な要因なのである。

われわれの経済が、経済の外にある自然との物質的な交換によって成立していることを認識することは決して困難なことではない。大気からも、水圏からも大量の資源を取り入れ、またそこに大量の物質を廃棄している。また、さまざまな地下資源を経済は投入し、不要になった廃棄物を大量に生成している。また、生物圏と自然との統一的なシステムとしてのさまざまなレベルの生態系(ecosystem)にたいしても、大量の搾取を行っている(注3)。そして、重要な点は、経済を除くと、これらのすべてのシステムは、物質的な循環の中にあるということである。巨大化した経済のもとで、われわれは、この外的な循環システムを理解し、また感じることは困難になってきているが、われわれが多少の思考を働かせば、この点は容易に認識できる。われわれが生きているということ、生命を持続させることが可能になっているのは、この循環が働いていることを示している。

定常系としての経済は、こうした外的な物質循環が持っている定常性の中で経済を無理なく持続させるということを意味しているにすぎない。すなわち、われわれの経済の外で、この経済を支えている自然および生態系はすべて成長の持続を基本にしていない。一次的な撹乱と、規則的な変動を除けば、基本的に定常性の中にある。定常的なもに支えられたシステムが非定常的な成長を長期的に持続させることは不可能である。経済とその外にある自然、生態系の物質循環との関係、これが今日の経済に課せられている最も主要な問題であり、この解決抜きには、われわれの持続的な存続は決して約束されないのである(注4)。
1.2.2 生態循環と経済循環   (目次へ

循環とは、主体がある区分された期間のそれぞれで一連の過程を繰り返すこと、もとの状態を回復する規則的な運動を意味する。そして、われわれの生存は、われわれの外部的な自然の中にある水、大気などの、無機的な、あるいは生物の存在によって直接に担われていない物質循環と、生物によって駆動されるあるいは生物活動に直接関係している循環すなわち生態的な物質循環に支えられている。これら二つの循環は相互に密接に関連している。たとえば、水の循環に関してみれば、ある地域に森林が存在しているかどうかは、そこの地域の保水能力を規定し、森林が破壊された地域では、保水能力の低下から降雨が減少することになる。逆に、水の循環が生態系に重要な影響を与えることは明かであろう。ここで、生態系を軸にした物質循環を概観しておこう。

地球上の現在および過去の生物体のほとんどのエネルギー的源泉は植物の光合成によって構成される炭水化物に起因している。その有機物と、体化された太陽光のエネルギーが、人間の生物的能力の究極要因である。したがって、われわれは植物の成長を支える環境と物質的な循環に常に注目していなければならない。

一般に、緑色植物は、二酸化炭素と水および太陽エネルギーによって炭水化物と水と酸素を生み出す。したがって水と二酸化炭素の循環は、地球上の物質循環の中で最も重要なものである。海洋から太陽エネルギーによって水蒸気として汲み上げられた水は降雨などによって陸上に降り、その多くは再び海洋に戻る。この水の循環は、生態循環の基本的な構造を作り上げる。また、この水の循環はその中にさまざまな物質を溶かし込むことによって、物質の循環的な運動の一部を構成するものになっていることにも注意しなければならない。

二酸化炭素の循環は、生物活動に駆動されている循環であり特殊な意味を持った循環である。植物によって生産された炭水化物は、最終的には酸素と化合(酸化)することによって保持していたエネルギーを放出し二酸化炭素と水を再生する。そして、その二酸化炭素は光合成によって再び炭水化物に変化するという形で循環しているのである。人間も含めた生物の呼吸によって放出される二酸化炭素も、石油あるいは石炭などの化石燃料の使用によって放出される二酸化炭素もこの再生プロセスの特殊な形態に他ならない。また、二酸化炭素は炭素の一つの存在形態でもあるので、二酸化炭素の循環は一般的な炭素の循環の中の特殊な循環でもある(注5)。炭素は、生物体を構成し地球上への生物体の蓄積は大気中の酸素を増加させてきた。蓄積された植物体の中で分解されずに残ったものは、石油・石炭などの化石資源として地中に蓄積された。植物体の多くは、自らの力で太陽エネルギーを固定化ないしは利用する能力のない生物の呼吸によって分解されて行くのであるが、化石資源は数億年間にもわたって呼吸による分解を免れた生物体である。

今日、二酸化炭素の循環は、化石資源の大量の利用によって大気中へのその残留濃度が継続的に増大し、地球を過剰に暖めてしまう温室効果、それがもたらす気温の上昇、海水面の上昇という問題によって特に注目されている。酸化を免れた炭素としての化石資源が大量に地中に存在することは、大気中に保存されている炭素の濃度をそれだけ低い水準におさえられてきたことである。したがって、現在人間がこの地中の炭素を酸化させ大量に大気中に放出し、その結果としての二酸化炭素の大量蓄積問題と取り組む姿は、数億年の時間の流れと闘っている姿ともみることができる(注6)。

光合成に関わる要素としては二酸化炭素と水が基本的なものであるが、植物の成長過程では他にさまざまの化学元素が必要になる。二酸化炭素自体が酸素化合物であり、その意味で酸素も必須元素である。一般に生物は、30から40種類の元素を必要とすると言われる(注7)。炭素と酸素以外に取り上げるべき重要なものとして、植物体にとって制限要因となりやすい窒素(N)、リン(P)などがある。両者の循環の基本的特徴をとらえておこう。窒素は大気の最大の構成要素(78\%)であるが、植物は一般にこの窒素を自らに体化する能力を持ち合わせていない。しかし、豆科植物の根粒などにいる窒素固定菌(注8)、一部の藻類などによって植物に利用可能な状態に固定化される。また、植物に固定化された窒素は、脱窒素細菌の作用によって再び大気中に戻されるという形で一つの循環を構成する。さらに今日、人工的に固定され肥料として用いられる窒素の量も無視しがたいものになっている(注9)。

リンは窒素と異なり大きな貯蔵庫を大気中ではなく岩石などの堆積物中に持っている。したがって、窒素は大気の運動によって地域的利用度の違いを少なくできるが、リンの場合、海に洗い流されることが大きな問題となる。洗い流されたものが堆積し、再び近くの変動によって陸上化されるまでには途方もない時間が必要になる。この点では、鳥が魚を捕食し、その糞を地上にもたらすことによる循環も無視できない(注10)。

植物に必要な、したがってまた生物一般に必要な化学元素の循環は、以上のような自然と植物という関係における循環の側面ばかりでなく、生物の食物連鎖を通した循環としてもとらえられる。その基本的な循環は、一次生産者である植物を菜食動物が栄養としさらにその菜食動物を肉食動物が食べる。その過程での、排泄物あるいは死体をさまざまな分解者が栄養とする。最終的な分解物は自然そのものによる分解過程も通して再び植物に必要な化学元素の供給物となる。またこうした食物連鎖は、植物に固定化した太陽エネルギーの散逸過程でもある。すなわち、利用可能なエネルギーの廃熱化の過程、したがってまた熱力学の第二法則にいうエントロピーの増大過程である(注11)。エネルギーは、最終的に分解物として植物に利用される段階においてはそのエネルギーを失ってしまっているので、すでに述べたようにエネルギーはこの基本的な循環の中を化学元素と同じように循環することはない。

生態系は、さまざまな生物の間の相互依存関係によってその外的自然も含めた物質循環を媒介している。この相互依存関係はすでに述べたような食物連鎖をとおして化学元素の循環およびエネルギーの散逸を行っているが、そればかりではなく昆虫などによって植物の生殖が媒介されるように、活動そのもの、経済学的にいえばサービスの必要と提供という関係によっても構成されている。生態系が、また、外部から化学元素などの資源、太陽エネルギーなどのエネルギーを投入し、相互依存関係の中で自らを維持している状況は経済そのものと類似の構造を持っていると考えられる(注12)。

時間をさかのぼれば人間はこの生態循環の中の埋もれた一つの主体を構成していた。すなわち人間は、採取と狩猟によって自らの必要物を一定の限界の範囲内で確保している間は、人間をのぞく生態系の相互依存関係が産みだした「自発的な剰余」によって必要物を確保していたのである。採取と狩猟が農耕と牧畜に転換していくことは、生態系の中に埋もれていた人間が自らのより安定した生存のために、その一部を改変し、生態系からみた「意識的な剰余」の生産をおこなうことであった。さらに人間の生産が社会的な分業によって生態系からの相対的自立性を高めることによって独自の経済的な相互依存関係を生み出してきたのである。生態系の意識的な改変によって表現される経済的相互依存関係は農業にとどまる。さらに、こうした生態系からその主要な素材を直接の生物的生産に依存しない経済的相互依存関係の体系、すなわち工業の独自の発展を実現していく。そして、実現された相対的自立性のもとで、自然との間で独自の物質の交換を構成するようになったものが今日の経済である(注13)。
1.2.3 価値的循環と経済循環   (目次へ

すでに指摘したように、外的自然との物質の交換において、経済は正常な循環を行えなくなっているのが現在の問題である。それはもともと、経済が外的自然との物質の循環を正常に行うことを少しも考慮していないことに起因する。更新不可能な資源である石油が大量に汲み上げ続けられていること自体は、物質循環と矛盾するものではない。なぜなら、資源をある状況から別の異なった状況に移すこと自体は循環と特に対立しないからである。しかし、大量に汲み上げられ大量に燃やされて二酸化炭素と水蒸気に分解され続けている状況は、その二酸化炭素が再び光合成によって水と化合し炭水化物になり、さらには炭化水素になる時間的な長さからいえば、循環からほど遠い状況になってしまっている。また、そうした二酸化炭素の排出にしても、海洋へのプラスチックなどの分解不可能な素材の廃棄にしても、人間が有効に考えられる時間の範囲内でもとには戻らないものの廃棄はすべて物質循環を破壊しているのである。

ここで、われわれのいう経済循環、すなわち経済活動に駆動されている物質循環が一般にこれまで語られてきた経済の内部的な循環とは異なった概念であることに注意しなければならない。ここでの経済循環は経済の中を運動するすべての物質的要素が外部的自然との関係においても整合的な循環となっていることをあらわす。すなわち、経済が自然から搾取した資源は、一定期間の自然の自己回復能力によって規模を変えないくらいの量に制限され、また自然に返される廃棄物の量も自然の同化能力をこえない量に制限され、自然の定常性も維持されることが経済が循環的であることの条件とみているのである。一方経済学は、ケネーが18世紀に「経済表」によって毎年同一の生産と消費が維持される形での財貨および貨幣の交換体系をあらわしたように、経済内部における交換行為によって媒介される循環を経済循環としてとらえてきた(注14)。われわれのいう経済循環とこれまで経済学が考えてきた経済循環の本質的な違いは、後者が物質の循環ではなく経済的価値の循環になっているという点にある。これまで考えられてきた経済循環は、経済の内部に限定されていたが、その「内部」と「外部」を区別する境界は、価値を有する対象であるか否かによって与えられてきた。すなわち、ある財貨なり活動が価値を有するものであればそれは経済のシステムの内部にあるものであり、無価値なものは経済の対象ではないと考えられてきたのである(注15)。すなわち、これまでの経済学は物質循環としての経済循環を取り上げてきたのではなく、財貨に対象化された価値の循環を経済循環としてとらえてきたのである。

経済的価値の循環についてより明確にしよう。この循環がわれわれのいう経済の物質循環とどのように異なるのかは、生産過程においてはっきりと確認できる。分業化された今日の生産工程においては、ある財貨の生産に数多くの生産要素が投入される。しかし、生産された財貨の物質的な構成と、投入された生産要素の全体的な物質的構成との間には必ずしも物質を保存するような連続性はない。たとえば生産されるものがサービスであり、投入要素に物的な財貨があれば、このことは明確であるが、ほかのほとんどの生産においても、生産された財貨の素材となるもの以外の多くの生産要素、たとえば機械類などは生産物に体化しない。生産物に体化しない物的な生産要素は、一部再利用のために他の再生産工程の投入物となるもの以外は、廃棄物となる。すなわち、その生産工程がその財の最後の価値ある場となるのである。しかし、それらの財貨の価値はそこで終わらずに、生産物に転嫁されるのである。生産工程で運動を収束する物質も、それに与えられていた価値は、生産物に体化されることによって運動を継続する。もちろん、経済的な状況の変化から、価値を生産物に転嫁できないままに価値を失う生産要素も存在する。しかし、そのような生産要素を生み出す生産工程が定常経済のもので、すなわちあらゆる規模と質の変化を行わないままに毎期継続している経済のもとではありえない。そして、こうした定常経済のもとでは、すべての生産部門が生産期間の開始に当たって毎期同じ状態を「価値的に」回復している。

経済的価値の循環は、交換過程においても十分に確認できる。財と財とを交換する場合を考えてみよう(注16)。両方の持ち手にとって、所持している財は価値を有するものである。交換に先立って所持していた、交換の対象財は、交換によって相手の所有物になるが、そのことは交換前の対象財の価値が交換後に獲得した対象財へ移転したことを意味する。しかし、この点については次のような疑問が生じるかも知れない。すなわち、交換の当事者が生産者であった場合には、彼等は交換した対象の価値を最終的に生産物に転嫁するから価値の循環は継続するが、一方の当事者が消費者であった場合は価値はただ失われてしまうだけなのではないかという点である。確かに、最終消費段階においては価値は失われると考えることもできる。もちろん、最終消費とは人間の手によって消費される場合であり、投資のたぐいは生産物に価値が移転する。

しかし、このように人間による最終消費によって財に対象化された価値が消滅するという事実は、労働が貨幣賃金をもたらすという事実、労働がなんらそれ以前の価値の源泉を持たずに価値を発生させるものになるという事実にちょうど対応している。人間の消費と労働という二つの行為の両側面においてちょうど価値が消滅し発生しているという事実は、経済的価値の切断としてではなく循環としてとらえるべきである。すなわち、人間も一つの労働能力を生み出す生産工程と考えるべきなのである。そして、この考え方は古典派経済学によって、再生産費賃金説としてすでに明確に、経済学の領域に持ち込まれていたものなのである。再生産費賃金説は、労働はちょうどそれを維持する、すなわち再生産するのに必要な費用に一致すると、主張する。この再生産費賃金説は、今日余り受け入れられていないように見える。その理由は、消費を単に労働能力の維持という目的に結びつけるのが現代の状況にそぐわないためであるように思われる。というのは、人々は自らに与えられた時間を単に労働だけではなく、多様な自己の能力の支出のためにも用いているからである。しかし、この点は、実は、労働能力を人間の生命の結合生産物としてとらえることによって解決するのである。人間の財貨の消費は、生命という主生産物を生産する、すなわち生命を持続させるために行なわれるのであって、労働はその生命の副産物、結合生産物にすぎないととらえることによって、このような問題は基本的に解決するのである。生命とは、多様な人間の能力の発揮を可能にするストックであって、労働はその部分的な能力の支出にすぎないと考えるわけである。ただ、労働が特異なのは、その支出によって賃金という消費による価値の支出を補填する所得が獲られるという点だけなのである(注17)。そして、市場経済のもとでこのような構造において賃金をとらえること、すなわち再生産費賃金理論の今日的有効性を確認することは、主生産物である生命そのものの価値評価が与えられることを認めることである。実際、今日の社会では生命保険などをみても明らかなように、倫理的には価値評価が不可能であると思われる生命にも価値づけが行なわれていることから、この考えには、事実的裏付けが与えられる。

毎期、定常的に進行している経済を考えれば、消費財に対象化された価値は労働の価値、すなわち賃金に移転する。もちろん、価値が失われる場合、あるいは逆に価値が先行する価値がないのにもかかわらず発生することは、この市場経済のもとでも存在するが、その割合は小さい。市場経済のもとでは、経済的価値は基本的に循環の中にあるのである。そして、経済におけるこうした価値的な循環と、物質循環とは厳密に区別されなければならない。
1.2.4 経済循環の回復   (目次へ

われわれは、経済循環を前節で議論したような価値的循環ではなく、外的自然との物質交換も含めた経済−自然の総過程における物質循環と考えている。この物質循環の崩壊は、まず経済への自然からの資源の獲得段階にあらわれている。すなわち、外的自然からの非更新性の資源の獲得および更新性資源の再生能力をこえた獲得は正常な循環を破壊する。また、自然のなかで分解されない物質の廃棄、あるいは自然の分解能力をこえた物質の廃棄もまた循環を破壊する。このような問題を解決する道は、まず第一に、経済への資源投入を更新可能な資源に限定し、しかも資源の自己回復が可能な量に限定され、かつ廃棄物も自然の分解能力を破壊しない水準に制限されなければならない。第二には、いったん経済に投入された資源は、経済のなかで最大限再循環(recycle)させるように用いられなければならない(注18)。

この二つの道は、非常に困難な道である。それはわれわれの生活様式、経済の様式の根本的変更を迫るものである。先進的な市場経済の中に生きるわれわれは、余りに物的富を追いすぎてきたし、いまだにそれに執着している。この執着を捨てることは問題解決の前提条件である。資源投入を物質循環の可能な範囲内に減少させ、いったん投入された資源は内部的循環を可能な限り追求する。これは、われわれ人間が、自然に対して、あるいは他の地球的生態系の構成員に対して、あたかもその生態系の定常性を維持する一員であるにすぎないかのように振舞うことである。そして、それによって初めてわれわれの経済の長期的持続可能性が約束されるのである。

脚注
(1)これは、またP.L.ワクテルが『「豊かさ」の貧困』(土屋政雄訳、TBSブリタニカ、1985年刊、原著、P.L.Wachtel, The Poverty of Affluence: A Psychological Portrait of the American Way of Life, The Free Press, 1983.)の中で行なっている指摘に通じる。ワクテルは主として現在までのアメリカの現実を念頭におきながら経済成長と、それが「豊かさ」につながると信じて追い求める人々の心理を徹底的に批判する。経済成長は、所得を増大させ人々により多くの消費の可能性を生み出してきた。しかし、一方でそれは環境破壊とそこからくる健康の破壊、資源の浪費など、様々な社会的問題を引き起こしてきた。ワクテルがそのなかで最も問題視するのは、人々が成長のなかで常に不安に付きまとわれ、不満を解消することができない精神状態に追われることである。そして、さらに大きな消費を求めて人々は加速化した成長を追い求めていると指摘する。また、われわれの議論そしてこのワクテルの議論との関連で、E.J.ミシャンが『経済成長の代価』(都留重人監訳、岩波書店、1971年刊、原著、E.J.Mishan, {\em Growth: The Price We Pay}, Staples Press, 1969.)の中で行なっている分析注目しなければならない。非常に広範に展開されている議論の中で、最も注目されるのは、経済成長と「陳腐化」の問題についての議論である。(もどる
(2)われわれの環境としての地球のとらえ方は、こうした「宇宙船地球号」という認識から、地球自体を一つの生命体としてとらえるような「ガイア仮説」を生み出すまでになってきている。後者においては、地球が単にその中の生物にとっての環境ではなく、生命そのものによって内的な構造を維持するシステムになっているというとらえ方である。すなわち、生物が地球という生命にとっての一つの細胞組織のように位置づけられることになる。以上については、J.E.Lovelock, GAIA--A New Look at Life on Earth, Oxford Univ. Press: New York, 1979.(『地球生命圏』、スワミ・プレム・プラブッダ訳、工作舎、1984年刊)、ibid., {\em The Ages of GAIA -- Biography of Our Living Erath}, Oxford Univ. Press, 1988.(『ガイアの時代』、スワミ・プレム・プラブッダ訳、工作舎、1989年刊)、K.E.Boulding, ``The Economics of the Comming Spaceship Earth", Environmental Quality in a Growing Economy, Essays from the Sixth RFF Forum, H.Jarett ed., Johns Hopkins Press, 1966.(『経済学を超えて』、公文俊平訳、学習研究社、1970年刊、所収)、E.P.Odum, ECOLOGY and Our Endangered Life-Support System, Sinauer Associates, Inc. Publishers: Massachusetts, 1989.などを参照せよ。(もどる
(3)生態系という概念は、生態学の発展の中で形成されてきた概念である。それは、自然環境と生物種、生物種間の関係を統一的なシステムとして研究対象とする生態系生態学の領域の中で、研究の蓄積が行われてきた。生態学、あるいは生態系の概念については、R.P.McIntosh, The Background of Ecology, Cambridge University Press, 1985,(『生態学---概念と理論の歴史---』、大串隆之他訳、思索社、1989年)、『生態系---人間存在を支える生物システム---』、瀬戸昌之著、有斐閣、1992年、などを参照せよ。(もどる
(4)ただし、経済がエネルギーと関わる仕方はまた違って語られなければならない。すなわち、エネルギーは変換の過程で急速に利用不可能な廃熱に変わっていく。われわれの利用するエネルギーの究極の源泉はもちろん太陽である。エネルギーにはこの循環という概念が適用されない。エネルギー自体は常に一方向的な流れのみを構成する。これに対して、物質は外部からのエネルギーの投入によってもとの形態を回復する可能性を有する。(もどる
(5)炭素の循環については、生態学の概説書の中に触れられているが、最近の議論では「炭素などの物質循環と大気環境」、角皆静男著、(『地球環境の危機---研究の現状と課題---』、内嶋善兵衛編、岩波書店、1990年刊、所収)の循環図を参照。(もどる
(6)IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)の報告によれば1985年時点の世界全体の二酸化炭素排出量は炭素に換算して51.5億トン、科学技術庁の研究報告によると1987年の日本の二酸化炭素排出量は同じく炭素換算で2.72億トンとなっている。『IPCC地球温暖化レポート』(霞が関地球温暖化問題研究会編訳、中央法規出版、1991年刊)、『温暖化への世界戦略』(地球産業文化研究所編訳、省エネルギーセンター、1991年刊)、『炭酸ガスで地球が温暖化する----EPA予測報告書』(ハイライフ出版、1984年刊)、「アジア地域のエネルギー消費構造と地球環境影響物質(SOx,NOx,CO2)排出量の動態分析」(科学技術庁科学技術政策研究所第4調査研究グループ、1991年)などを参照。(もどる
(7)これについては、R.L.Smith, Ecology and Field Biology, Third Edition, Harper & Row, Publishers: New York, 1980, に、必須元素の基本的なもの、およびその機能について詳細に示してある。他に、E.P.Odum, Fundamentals of Ecology, Third Edition, Saunders College Publishing: Philadelphia, 1971. pp.86-99.(『生態学の基礎、3版』、三島次郎訳、培風館、1974年刊)も参照。(もどる
(8)固定のためのエネルギー源は植物の光合成によって獲得し、植物には窒素を供給するので一つの共生関係にある。(もどる
(9)窒素循環については、前掲「炭素などの物質循環と大気環境」を参照せよ。また、窒素の固定と環境の浄化能力については「集中する窒素をわが国の土は消化できるか」、三輪叡太郎、小川吉雄著、(前掲書、『地球環境の危機---研究の現状と課題---』所収)を参照(もどる
(10)リンの循環における鳥の特別な役割については「イランの Pigeon-house について(紹介)」、副留高明、Z.Shoaei、槌田敦著、『えんとろぴい』、第22号、1991年、また、「エントロピー環境論」、槌田敦著、同上、第23号、1991年を参照。(もどる
(11)生物におけるエントロピー問題については、Tsuchida,A., T.Murota and N.Kawamiya, 1985, Entropy studies on Ecology and Economy, discussion paper, を参照。(もどる
(12)経済学が経済の相互依存関係を整合的に表現するために開発した方法を生態学が応用している例がある。すなわち、経済の投入産出分析によって生態系のエネルギー的相互依存関係を分析するというものである。B.Hannon,1973, ``The Structure of Ecosystems",Journal of Theoretical Biology, Vol.41,pp.535-546. R.Constanza,and C.Neill,1984, ``Energy Intensities, Interdependence, and Value in Ecological Systems: A Linear Programming Approach", Journal of Theoretical Biology, Vol.106, pp.41-57.などを参照せよ。(もどる
(13)この点は、次節の最後でもう一度議論する。(もどる
(14)シュンペーターは、ケネーの経済表を「経済循環の発見」ととらえた。「分析的な関係の樹立に必要なあらゆる更に一歩の前進のための大いなる突破口を切り拓くことは、フィジオクラット若しくは「エコノミスト」が行なったところであり、それは特に経済循環の発見とその思考的再現とによって行なわれたのである。もちろんかかる事実が通俗的な意味で---たとえば周期的な耕作および周期的な収穫の事実のような点で---その時までに知られていなかった筈はない。問題はその過程の経済的意義および経済的機構にある。すなわち、単に技術的な意味においてでなくて、あらゆる経済期間が経済主体をして次の経済期間にも同様な過程を同様な形態で反復するのを可能ならしめるような結果を生ずるという意味で、いかにして各経済期間は次の経済期間の基礎となるか、---経済的生産がいかにして社会的経過として成立するか、またそれがいかにして各人の消費を、またその消費が再び次の生産を決定するか、さらに各個の生産・および消費行動がいかに他のすべての生産・および消費行動に関係するか、またあらゆる経済的活力の要素がいかに一定の動因の影響のもとで年々歳々一定の道を踏み続けることができるか、すべてこれらの点が確定されなければならなかった」(J.A.シュンペーター、『経済学史』、中山伊知郎、東畑精一訳、岩波書店、1980年刊、p.68。)(もどる
(15)価値についてのより厳密な議論は次の章で与えられる。(もどる
(16)さしあたってここでは、二人二財の純粋交換均衡を考えればよいだろう。純粋交換均衡については D.M.Kreps, A Course in Microeconomic Theory, Princeton Univ. Press, 1990. などを参照せよ。(もどる
(17)この点に関する理論的考察は、T.Washida, ``Economic Theory of Life Process: On Life and Labor Power As Joint Products", Artes Liberales, No.45, 1989, pp.105-130. を参照せよ。(もどる
(18)本書第3章で、この資源の再循環問題についてより詳細な検討を行なう。(もどる

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