目次 |
第 4 章 定常循環系とエネルギー 4.1 節 エネルギーと持続可能性 4.1.1 エネルギー資源と時間認識 4.1.2 資源賦存量と地球環境 4.1.3 功利主義と将来割引率 4.1.4 技術的代替の可能性 4.1.5 非更新性資源と世代間衡平性 |
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第 4 章 定常循環系とエネルギー (目次へ) |
4.1 節 エネルギーと持続可能性 (目次へ) |
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4.1.1 エネルギー資源と時間認識 (目次へ) |
人間は一般に、物質的対象の状態を変更する能力を持った客観的な実体を、エネルギーという概念で認識している。人間は、自らの生活の維持に必要な財を自然にあるがままの資源そのものではなく、その状態に本質的な変更を加えることによってより有用な形態で消費している。したがって、変更の深さに応じた追加的なエネルギーの支出に常に直面している。人間が自らの能力の直接的な支出の増大によって、より大きなエネルギーの支出を行うのには生物的な限界がある。すなわち、人間の肉体はある一定量以上のエネルギーを処理する能力を有していないのである。したがって、道具を通して、より大量のエネルギー支出を行うようになっている。 古くは、石器を使うことも過去に蓄積した人間のエネルギーの追加的支出であり、農耕に牛を用いることは植物によって保存した太陽エネルギーの追加的支出である。薪を用いてさまざまなエネルギーの支出を行うこともまた、太陽エネルギーそのものを人間にとって有用な仕方で用いることだった。人間が直接獲得する食料、すなわちさまざまな植物あるいは動物もまた太陽エネルギーの蓄積主体であり人間の生物的なエネルギー支出もまた太陽エネルギーの利用である。このように考えると、人間のエネルギー支出による物質状態の変更は、潮力あるいは地球内部のエネルギーの利用などの、特殊なものを除けば太陽エネルギーの間接的支出である。また、太陽エネルギーそのものは地球に到達したのち、熱力学第二法則が教えるところにしたがって、最終的には利用不可能な拡散した廃熱となりそのほとんどは宇宙空間に捨てられる。人間はその過程を意識的に自らに有用なように変更を加え、一部の廃熱化を自らの力で行うようにしているのである。 この太陽エネルギーの利用には不可避的に時間的な遅れが伴う。たとえば、植物は光合成によって太陽エネルギーを生体の形で保存する。したがって、それを利用することはこの時間的遅れを伴っていることになる。植物以外にも、水の流れを利用することも太陽エネルギーの利用だが、ここにも不可避的に時間的な遅れが存在する。そして、この時間的な遅れは一様ではなく、人間にとって利用可能な形になる経路の違いによって、多様なものが存在している。すなわちたとえば、あるものは1年という遅れであったり、あるいはそれよりももっと長かったりまた短く1カ月というのもありうるだろう。人間は、文字によって記録を残すようになるはるか以前から、自らの存在を条件づけているものが太陽の機能であることを意識していた。そして同時に、歴史以前の人間たちがこの時間的な遅れも意識していたことは否定しがたい。また、この時間的な遅れの多様性は必然的に人間に時間を正確に管理する必要性を意識させたに違いない。 このように、人間の歴史上のある一定の段階まで、自らの生活の維持に必要なエネルギーの管理は時間の管理という側面と一体となっていたと考えられる。人間が他の動物から区別される、高度な知的活動の特徴を明確にあらわしてきた期間を百万年としても、それだけの長い期間にわたって人間は、一次的な撹乱の時期は存在したろうが、必要な時間の管理を持続させてきたのである。時間を管理することは、同時に、太陽が同期化因子となった自然のリズムを認識することでもある。太陽はエネルギーの供給源であり、振り子時計の振り子のように時間の流れにリズムを与え、すべての生物の活動を規則正しく同期化させる要因でもあったのである。 時間を管理することは、時間の流れを理解する、あるいは認識することの上に初めて成立するが、人間は自らの寿命を大幅に越えるような時間の認識は歴史をさかのぼればさかのぼるほど困難であった。この点で微妙な位置にあった資源は樹木である。樹木はもちろん太陽エネルギーの産物であり、道具あるいはさまざまな素材として利用可能であるばかりでなく、薪という直接的なエネルギー資源としても利用可能になる重要な資源だった。この樹木は、人間の時間認識のちょうど臨界点を前後する時間的広がりを持った資源なのである。樹木は短いものでは人間の寿命の範囲内で生命の区切りをつけるものから数百年以上にもまたがって成長するものも存在する。この長い時間の流れの中に存在する樹木は、「神木」などという言葉が存在するように、ある時には宗教的信仰とも結びつき、人間にとって特別な存在であったことは否定しがたい。 このように、エネルギー資源と人間の時間認識との関連を明確にとらえておくことは19世紀に起こった支配的なエネルギー資源の薪から化石資源への代替の意味をより深くとらえる上で決定的に重要である。イギリスにおける産業革命の進展は、文明の基礎である鉄の生産に必要な木材資源の枯渇という事態をもたらした。木材資源を枯渇するまでに使用するということは、人間が臨界的時間認識の中でエネルギー使用の徹底的な増大を図ったことを意味する。そして、この支配的なエネルギー資源としての木材をあきらめ、化石資源に移行したことはエネルギー使用における人間の時間の認識の革命的な広がりであるとともに、もっと冷静にみるならば、それはエネルギー使用における時間管理の放棄を意味しているのである(注1)。 薪から化石資源への支配的エネルギー資源の代替は、このようにエネルギー使用に関する時間の管理を放棄したことになるが、それはまた言葉を変えれば、支配的エネルギー資源が更新性のものから非更新的な資源に代替したことを意味している。化石資源は数億年前の特殊な地球環境と、時間の流れがつくりだしたものであるが、その点で、完全に更新不可能なものとはいえないかも知れない。しかし、必要な時間が薪のそれとは比べのもにならないくらい長いのである。数億年という期間を人間は観念的に「理解」しているかも知れない。しかし、ここで問題にしている時間の流れの認識あるいは理解は、その時間的な距離にある未来が現在の人間の行動に影響を与えるという意味でのものである。それはおそらく、百年を大きくこえるものとはならないだろう。 |
4.1.2 資源賦存量と地球環境 (目次へ) |
われわれの経済がエネルギー資源の大半を非更新性のものとして投入していることは次のような二つの大きな問題を引き起こしている。 まず第一は、人類の経済的規模が巨大になり、非更新性エネルギーの有限性が経済の持続性を脅かすものであることがはっきりしてきたことである。これを今日の主要エネルギーである石油について考えてみよう。一般に考えられている石油の究極埋蔵量は、原始埋蔵量で7兆バレル、究極可採埋蔵量は2兆バレルである。究極可採埋蔵量に3次回収による期待分0.26兆バレルを加えて2.26兆バレルである。これから、これまでの累計生産量を6,000億バレルを差し引くと、現在の技術で1.66兆バレルが究極的に採掘可能な石油となる。もちろんこれは、未発見の埋蔵石油が運よく発見できたとしての量である。一方、1989年の世界の採掘量は約217.6億バレルである。したがって、この採掘水準が続くと仮定しても究極可採年数は、76.3年しかない。また、1989年の確認可採埋蔵量は1兆16億バレルであり、これに対する可採年数はさらに短くなり46.2年になる。確かに、この確認可採埋蔵量に対する可採年数は、毎年増加しているが、ここ数年の増加分が新規大油田の発見よりも既存油田の周辺部や深層等の再評価によるものが多いことをかんがえると、今後の伸びはあまり期待できない上に、究極可採埋蔵量を考えれば、その頭打ちは確実に近づいてきている(注2)。 すなわち、今日の世界の一次エネルギーの供給の40\%を占めている石油の寿命については、多くても80年しか期待できないということである(注3)。80年といえば、今日の先進国の人の寿命くらいしかない限られた時間的視野の内の問題である。数億年の年月をかけてつくられた資源を人の寿命の年月の内に使い尽くすということは、将来の世代の、このすぐれた資源に対する権利を奪うという点でも深刻な問題なのである(注4)。 第二は、非更新性のエネルギー資源はエネルギー密度が非更新性のものよりもはるかに高く、その使用は環境に対して強いストレスを加える廃棄物を生産するが、これもエネルギー使用の規模の拡大とともに深刻な問題になってきていることである。エネルギー密度が高いということは、利用効率が高いことを意味している。しかし、そのことはまた、このエネルギー資源を使用すること(有用なエネルギーから使用不能なエネルギーに転換すること)が、自然の流れあるいは自然の循環の中にもともとは位置づいてはいなかったことを意味する。人間は、技術によってこのエネルギーの使用を可能にしたが、それはまた、廃棄物によって自然環境と強い緊張をもたらすことになったのである。今日このエネルギー使用による環境との緊張の最も大きな問題は、地球温暖化問題である。すなわち、石油、石炭などの化石エネルギーの使用によって排出される二酸化炭素(CO2)の大気中の残留濃度の増加が地表から大気圏外への熱の放射を妨げ、地球を必要以上に暖めてしまうという問題である。これによる気温の上昇、あるいは海水面の上昇は地球のグローバルな生態系、あるいは人間の活動に深刻な影響を与える可能性が指摘されている。二酸化炭素そのものは、他のメタン(CH4)、フロン(CFC's)、亜酸化窒素(N2O)などの温室効果ガスに比較すると同じ量の放出による地球温暖化効果は低いが、排出されている量が圧倒的に大きい。IPCCの報告によると1980年から1990年にかけての放射強制力(大地と大気に対する熱放射力、したがって地球地球温暖化をもたらす力)の変化に対する温室効果ガスの寄与度では二酸化炭素が55\%と圧倒的に大きい(注5)。したがってまた、人間活動の種類からみてもエネルギーの寄与度が46\%と他の林業(18\%)、農業(9\%)などと比較しても大きなものになっている。 この二酸化炭素は、大気中での寿命が長いために、短期的な努力で改善しがたいというやっかいな性質をもっている。IPCCの推計によれば、1985年段階の二酸化炭素排出量は炭素換算で、51.5億tである。そして、1990年のレベルで二酸化炭素を安定化するためには、二酸化炭素の排出量を現在の60\%以下にまで削減しなければならないと指摘している。さらに、21世紀中の大気中の二酸化炭素濃度を現在の水準より12、3\%程度多い水準にとどめるためにも、1990年から毎年2\%ずつ減少させなければならない(現在1.8\%の増加率)と指摘している。いずれにしても、化石エネルギー資源の使用による二酸化炭素の排出は劇的ともいえる削減が求められているのである。 |
4.1.3 功利主義と将来割引率 (目次へ) |
非更新性のエネルギー資源は存在量が有限である一方、人類は永続的な存続を前提に現在の活動を行っている。支配的なエネルギー資源である化石資源、特に原油の枯渇が迫っている中で、この資源の有限性と永続的な存続との間の矛盾は深刻な問題として認識されている。すべての世代に何らかの有限な量以上の衡平な資源利用の配分を行うことは不可能である。すなわち、その利用を前提にする限り利用できない世代の方が必ず多数の世代になるのである。 こうした矛盾に、ある種の調和的回答を与える議論の枠組みを経済学は用意している。それは多数世代の無数の分布を、同一時代の個人の無数の分布と同様に扱い、「最大多数の最大満足」、つまりすべての世代が獲得する効用の総和を最大にするような非更新性資源の利用の分布を実現するというものである。それは一つの有限なケーキを無数の人間に分けるのだが、受け取った人々の効用の総和を最大にするように分配するという問題と基本的構造は同じである。ここでは、選好の違う人間の効用を比較できるかというのは問題にならない。問題にならないとは、問題そのものは存在するであろうが、焦眉の問題とレベルの違う問題なのである。すべての人間が同じ効用評価を行うと仮定してよい。 ケーキ分配問題を、異世代間の非更新性資源の配分問題と解釈すると次のようになるだろう。いま、非更新性資源の初期賦存量をSとしよう。第t世代の使用量をst \hspace{2mm}(t=0,1,2, \ldots, \infty)としよう。いま、生産過程あるいは固定設備を通した異時点間の生産投資決定問題をすべて捨象して、単純にこのstからくるさまざまな効用をこの世代が評価関数UによってU(st)という評価を与えると考えよう。そして、すべての世代は同一の評価関数で評価するものと仮定しよう。するとこの功利主義的決定問題は通常、\sumt=0\inftyU(st)を、\sumt=0\inftyst\leq S、すべてのtに対してst \geq 0、という条件のもとで最大にするという問題として定式化される。ここで、現在の世代の使用量はs0であらわしている(注6)。 まず、明らかに効用関数がいかなるものであっても、すべての世代が正の一定量を使用するような最適解は存在しない。最適解の存在およびその性質は効用関数に依存している。たとえば、効用関数がU(st)= \alpha st\hspace{3mm} \alpha > 0というような場合には最適解が存在する。この場合、最適解は無数に存在するが、その最も特徴的なものは、現在の世代がすべて消費するという解である。すなわち、解をst*であらわすと、s0*=S,st*=0 \hspace{3mm} (t=1,2,\ldots,\infty)、となる。しかし、この解には経済学者も功利主義者も納得しないだろう。なぜならば、この世代が資源賦存量の最後の限界的量からえられる効用と、この特殊な最適解で資源をまったく割り当てられない世代が、無から限界的に使用を開始する効用が同じである事態はとうてい納得されないだろうからである。 そこで、最も単純な形で、資源使用の限界効用がなめらかに低下するような効用関数を想定すると、今度は最適解の存在が一挙に危うくなってくる。たとえば、効用関数をU(st)=st^\alpha, 0<\alpha <1のように変更すると、解は存在しない。なぜなら、この場合すべての世代にできるだけ少なく分配すればするほど目的関数たる総効用は増大するからである。もちろん、すべての世代が使用ゼロになれば、総効用もまたゼロになってしまう。すなわち、目的関数がすべての世代をゼロ使用にするような点で特異点になってしまっているのである(注7)。 したがってこのような状態では、基本的に功利主義的解は存在しないと考えるのが妥当なのである。そして、ここまでの分析を概観しても明らかになるように、最適解が存在しなくなる事態は各世代の個別的効用関数の同型性に強く依存している。しかし、この同型性の仮定をはずすことは大変である。確かに、生産の問題を考えれば、将来になればなるほど現在のように非更新性資源に依存しない生産技術が可能になればそれは評価態度が異なることとみれるかも知れない。ここでは、こうした生産の問題を捨象しているので評価の差異は世代ごとに主観そのものが違っていると考えるしかなくなる。これは、余りに奇妙である。文化、あるいは科学的知識などが不可逆的に人類に蓄積されるから、こうした差異が世代間で生じることを否定することはできない。しかし、いずれにしてもそれが恣意的な想定という非難を免れるほど理論的に明確なものとして定式化されることはない。 効用関数の形態を変えることなく、世代間の評価態度を巧妙に変える方法として経済学で多用されているのが、効用の時間的割引率である。いま、この時間割引き率を各世代に関して一定の \gamma \hspace{2mm}(>0) とし割引要素 \delta を \delta=1/(1+\gamma) とすると、総効用関数は \sumt=1\inftyU(st)\delta t で表わされることになる。ただし \gamma が正であることから、0<\delta< 1である。もし、\delta = 1ならば、明らかに上と同じになってしまうので、このような場合は除いてある。 この時間割引き率の導入はどのように合理化されるだろうか。まず、この総効用は個人の各年における効用の総和とは異なるという点に注意が必要である。すなわち時間割引きは、個人の主観的な将来消費と現在消費の間の評価態度の違いということではないのである。ここでは各世代の独立した総効用関数として定義しているのであるから、確かに、世代のとり方によってはいくつかの世代にまたがることが一般的になろうが、それでも単に個人の将来の有用性に対する低い評価ということでは済まされないのである。将来は、なんらかの技術的な進歩が存在するだろうから、それだけこの資源の有用性は低下するという議論もありうるが、それは生産の問題であって、効用評価の問題ではない。すなわち、技術的な機能の中に組み込まれるべきである。結局、この割引率は現在の世代が将来の世代を低く位置づけること以外に、合理的な解釈は存在しない。 この割引率を導入することによって、最適資源配分問題にはきれいな解があらわれる。先の最適問題は次のような変更される。すなわち、 \sumt=0\inftyU(st) \delta t を、\sumt=0\inftyst\leq S,、すべてのtに対してst \geq 0、という条件のもとで最大にするという問題として定式化される。いま、効用関数が限界効用が逓減する正象現で連続微分可能な関数であるとすると、解の必要条件は、 U'(s0)=U'(s1)\delta =U'(s2)\delta 2= \ldots = U'(st)\deltat= \ldots で表わされるのである。これは、割り引かれた限界効用が均等化するという条件である。これはもっと一般に知られた解釈を見出すこともできる。すなわち、いま、pt=U'(st), t=0,1,2,\ldotsとおく。この pt はこの最適問題の影の価格という意味をもっている。すなわち、それはt期の資源の価値をあらわしている。このとき上の式から次の式をえる。 (pt+1-pt)/(pt)=\gamma これは資源価格の上昇率が効用の時間割引率に等しいという条件で、Hotellingの法則といわれているものである。 もしさらに、先ほど例示したような弾力性が一定の U(st)=st^\alpha で表わされるような効用関数を考えると、最適解は st=(1-\delta^(1)/(1-\alpha))\delta\frac{t{1-\alpha}}S となる。0 <\alpha <1であることに注意してこの式をみると将来世代になればなるほどその割引率要素がきいてきて資源の利用水準が漸減していく。評価水準を割り引かれた将来世代は、利用水準も割り引かれるのである(注8)。 結局、非更新性資源の世代間配分を功利主義的な最適問題として考えることは、将来世代の効用を割り引くことによって、現在世代に有利なバイアスを解に持ち込むことになる。将来世代の資源の有用性を低く見積ることが、たとえ妥当であっても効用水準に対する割引率という形で持ち込むべきではないということである。 |
4.1.4 技術的代替の可能性 (目次へ) |
ここで、非更新性資源と他の資源あるいは生産的資本の間の代替の問題について議論しておこう。 最も単純な問題として考えると、ある一定量の生産をあげるのに必要な非更新性の資源量が他の更新性の資源なりあるいはそれらによって製造可能な設備によって代替できれば、非更新性資源の希少性は失われ、自動的にそれによる廃棄物問題も消失する。逆に、ある一定量の生産をあげるのに必ずある一定量以上の非更新性の資源が必ず必要な場合は、代替不可能ということになるのである。いま、個々の企業の問題ではなく、ある程度集計された生産を考えたときに、非更新性資源の代替がまったく不可能であるというのも一つの極端であって、妥当性が希薄である。しかし、他の要素への完全な代替が可能であるというのももう一方の極端で許容しがたい。 この中間的な代替の技術的可能性も含み込んで、非更新性資源の最適利用を考える場合に、経済学では生産関数が用いられる。そして、この生産関数の生産要素間の代替可能性の程度をあらわすために「代替の弾力性」という概念が用いられる。代替の弾力性とは、生産物の生産水準を固定したまま、生産要素の投入構成が変化した場合に、その構成比の変化とそれぞれの点における等産出量曲線の接線の傾きの変化との関係をあらわしている。 図~F1をみてみよう。 \vspace*{9.5cm}\caption{投入構成比の変化と弾力性} (F1) いま、sが非更新性資源投入量をあらわし、rをたとえば更新性資源の投入量をあらわすものとしよう。図の曲線は、ある一定の生産量の水準に対応する等産出量曲線とする。すなわち、この曲線上のどの点の投入要素の構成で行なわれる生産も、ある一定の等しい生産量をもたらす。この曲線上のA点とB点を比べてみよう。B点よりもA点の方が同一の生産をあげるのによりない非更新性資源の投入で済ませていることが分かる。BからAへの技術の代替を考えたときに、それぞれの点における接線の傾きの絶対値をあらわす Δ r0/Δ s0 は Δ r1/Δ s1に比べて増大している。また、r0/s0とr1/s1という両者の投入要素の構成比を比べてみると、これもまた前者の方が増大している。ところで、r1/s1からr0/s0への増加の割合に比べΔ r1/Δ s1からΔ r0/Δ s0への増加の割合が大きければ大きいほど、この等産出量曲線は原点に対する凸性が強い。そして、この凸性が強ければ強いほど、非更新性資源の減少を補償するために増やさなければならない更新性資源の量が大きいという意味で、代替が困難な技術ということができるのである。そして、この傾きの絶対値の変化率に対する投入構成比の変化率の比を代替の弾力性と定義しているのである。すなわち、代替の弾力性が小さければ小さいほど代替が困難なのである。 いま、一次同次の生産関数でこの弾力性が一定の生産関数である、CES型の生産関数を考えてみよう(注9)。そして、この生産関数を前提にして、有限な非更新性資源と更新性の資源から、なんらかの生産物を生産している場合を考える。そのうえで先と同じ様な問題を考えてみよう。すなわち、非更新性資源の賦存量はSであり、更新性資源には量的な制限がないとして、非更新性資源を更新性資源に代替しながら、ある一定量の生産を限りなく続けることが可能であるための弾力性に関する条件は何かということである。ある一定量の生産量をxとしよう。非更新性資源と更新性資源の投入量をそれぞれ、s,rとすると、これらの関係は、 x=A[\beta s^(\sigma-1)/(\sigma)+(1-\beta)r^(\sigma-1)/(\sigma)]^(\sigma)/(\sigma-1) であらわされる。このような等弾力性生産関数の場合、生産水準に対応する等産出曲線は、図~F2のような三つの場合がありうる。 \begin{center} \unitlength=1mm \begin{picture}(90,90) \thicklines \put(10,10){\vector(0,1){70}} \put(10,10){\vector(1,0){70}} \thinlines \put(10,82){r} \put(82,8){s} \put(22,22){I0} \put(30,30){I1} \put(35,35){I2} \bezier{400}(10,75)(10,10)(75,10) \bezier{400}(12,75)(15,15)(75,12) \bezier{400}(20,75)(20,20)(75,20) \bezier{40}(18,18)(18,45)(18,80) \bezier{40}(18,18)(45,18)(80,18) \end{picture} \end{center}\caption{弾力性と無差別曲線} (F2) I0は等産出曲線が軸に漸近的に接する場合であり、I1は軸にどこまでも近づいていくが接することはないという場合であり、I2は軸から一定の距離以上には近づかないという場合である。I0が上の問題において、生産を持続させることができる場合であることは明かだろう。なぜなら、更新性資源をある程度投入できれば、非更新性資源抜きでもこの一定量の生産を持続させることができるからある。逆にI2は更新性資源をどれだけ投入しても必ずその投入量に依存しないある一定量以上の非更新性資源の投入が必要なのであるから、ある時期以降には生産を継続することが不可能になる。問題はI1の場合である。この場合、いかに頑張っても、非更新性資源を投入しないわけにはいかない。それでも、実はこの場合もI0の場合と同様に、いつまでの生産を継続させることができるのである。たとえば次のように工夫すればよい。最初にS/2の非更新性資源とより多量の更新性資源で、xの生産を行なう。次の期には、S/4の非更新性資源の投入で必要な生産を行なうというように常に前期の半分の非更新性資源の投入で必要な生産を継続させるのである。非更新性資源は無限に枯渇せずに、生産を継続することができる。したがって、生産の持続可能性が失われるのは、I2の場合だけだということが分かる。 この三つの等産出量曲線と代替の弾力性の三つの場合に対応している。すなわち、I0は、1 < \sigma に対応し、I1は\sigma =1に、そしてI2は0< \sigma < 1にそれぞれ対応している。すなわち、この型の生産関数の場合代替の弾力性が1よりも小さい場合にのみ非更新性資源が希少性を持つのである。代替の弾力性が1の場合の生産関数はコブ=ダグラス型の生産関数として実証研究などでも多用されるが、その中に非更新性資源が含まれている場合は、それによって自動的に希少性も失われていると考えなければならない(注10)。 高い生産水準を維持したまま、石油などの非更新性資源が、希少性を失うくらいに技術的な代替可能性が増大することは非常に困難である。われわれが実際必要とされているのは、経済社会の構造を変革することによる非更新性資源の希少性の喪失なのである。 |
4.1.5 非更新性資源と世代間衡平性 (目次へ) |
現在の世代の諸個人の間の衡平性を実現することと、世代間の衡平性の追求との間には本質的な差異がある。最も大きな差異は未来が不確実であることである。百年先の未来の世代がどのような環境の中でどのような価値観を持って生きていくのか、われわれの想像はきわめて貧困である。われわれはただ、過去をただ単純に未来に延長したものから、われわれが現在努力していることを付加して思い描くだけである。第二の大きな差異は、因果の序列が一方向にしかないことである。われわれの行動の結果は未来に影響を与えるが、未来の行動はわれわれ自身に影響を与えることはない。現在世代のわれわれは常に、たとえ未来の世代のために現在を犠牲にしたとしても、未来の世代によって裏切られる可能性を持っているのである。また、現在の享楽のために未来を犠牲にしたとしても、われわれはいかなる罰を受けることもない。 われわれは市場経済の中で、社会的な合意としての法律上の形式的制約をはずさなければ、自らの条件の中で自由な経済行動が許容されている。自らの行動が他人の利益を阻害したとしても、その行動が法律上の形式的秩序に違反しない限り、それが批判されることはない(注11)。不利益を受けた個人もまた、この法律上の形式的秩序に合意し、またそれによって間接的な利益を受けている面も存在するのである。ここには、行動と秩序の間の整合性が存在している。非更新性資源にしても、それを採掘し使用するすべての過程で、こうした行動と秩序の間の整合性は保たれている。しかし、決定的な問題は、許容される行動に対する、この社会的な合意の形成に未来の世代のほとんどがまったく参加していないことである。 次のような議論もあるかも知れない。われわれはただ、われわれが所有している財産を少しずつ処分しているにすぎない、というのである。しかし、ここにもまた上と同じ様な問題がある。すなわち、所有とは社会的合意の上に初めて成立するものだという点である。物理的に他人の処分可能性を排除しているだけなら、所有などという美しい言葉を使ってはならない。未来の世代に対して、われわれは単にこの資源を所有していると宣言しただけで、われわれは一方的にその処分を行なっているのである。 このような状況の中で、われわれはいかにして非更新性資源に関する世代間の衡平性を実現することができるのだろうか。まず、確実にいえることは非更新性資源の利用を自由な市場の動きに任せてはならないということである。ジョージェスク=レーゲンもいっているように、市場価格が衡平であるのは、将来世代もその市場に参加できる場合だけである(注12)。非更新性資源は地球全体で管理されなければならない。そして、その管理の原則は、現在の世代の必要を満たすために最低限必要な量に使用をおさえ、最大保存を実現することである(注13)。もちろん、この政策は未来の世代によって裏切られるかもしれない。すなわち、保存された非更新性資源が未来の世代の浪費によって使い尽くされてしまう危険性は存在している。はっきりしていることは、完全な代替技術の存在しない状況のなかで、われわれの世代が先行的に非更新性資源を使い尽くす権利は存在しないということである。(注14)。 |
脚注 |
(1)この時間認識の飛躍的な広がりは、ちょうど同じ19世紀に科学における革命的な進歩をもたらした。それはダーウィンによる進化論の創始である。すなわち、進化論は、ライエルによる、地質学的変化にそれまでに考えられていたとは比較にならないくらい巨大な時間がかかっていること、すなわち地球の歴史が少なくともそれだけ長い時間的流れの中にあることの指摘に強く依存しているのである。ダーウィンは次のように述べている。「実地の地質学者ではないであろう読者に、時間の経過をぼんやりとでも理解させるようにする事実を思いうかべさせることさえ、私には困難である。将来の歴史家が自然科学に革命をおこしたものとしてみとめるであろうチャールズ・ライエル(Charles Lyell)の大著『地質学原理』(Principles of Geology)をよんで、それでもなお、過去の時代が時間的にいかに無量の広大さをもっていたかを承認しようとしない者は、ただちに本書をとじるがよい」、『種の起源』(中)、岩波文庫、p.141。(もどる) (2)『石油年鑑1990』(石油年鑑編集委員会、日本経済評論社、1990年刊)、『石油の実際知識第4版』(藤沼茂他著、東洋経済新報社、1986年刊)、『国際比較統計1991』(日本銀行調査統計局、1991年刊)、World Resources Institute, {\em op.cit.}, などを参照。(もどる) (3)今日の低開発国あるいは発展途上国が先進国並の石油の使用を要求するようになれば、加速度的に使用量は増大し、安価な石油の供給はもっと短時日の内に途絶えてしまう。また、オイルサンド、あるいはオイルシェールからの石油の取り出しも可能だが、それが付加的な石油抽出という工程を必要とすることからも、現在の石油の延長線上にあるものでは決してない。(もどる) (4)石炭の確認可採埋蔵量は1兆755億t(高品位炭、1987年末)で可採年数は328年、同じく天然ガスは112兆m3(1988年末)で56年となっている。前掲、『総合エネルギー統計』より。(もどる) (5)前掲、『IPCC地球温暖化レポート』、『温暖化への世界戦略』、『炭酸ガスで地球が温暖化する----EPA予測報告書』など参照。(もどる) (6)非更新性資源の最適消費をこうした数学的総効用の最大問題として定式化し解いた最も初期のものは、H.Hotelling, ``The Economics of Exaustible Resources", {\em The Journal of Political Economy}, Vol.39, No.2, 1931, pp.137-175.である。(もどる) (7)この結論は効用関数がU'(0)=\inftyであることに依存していない。一般になめらかに限界効用が増加している効用関数であるならば成立する。(もどる) (8)以上の議論をより一般的なモデルで議論しているものに、N.Vousden, ``Resource Depletion with Possible Non-convexities in Production", in {\em Applications of Control Theory to Economic Analysis}, J.P.Pitchford S.J.Turnovsky ed., North-Holland, 1977, pp57-79. がある。また、割引率の問題については、R.M.Solow, ``The Economics of Resources or the Resources of Economics", {\em American Economic Review}, Vol.64, May 1974, pp.1-14. も参照されるべきである。(もどる) (9)以上の点については、J.M.Henderson and R.E.Quandt, {\em Microeconomic Theory}, 3rd ed., McGraw-Hill, 1980.(『現代経済学』、小宮隆太郎、兼光秀郎訳、創文社、1973年刊)などを参照。(もどる) (10)一般的な動学的最適化モデルの枠組みで、弾力性、および割引率がどのように資源使用経路に影響を与えるのかについて議論したものに、P.Dasgupta and G.Heal, ``The Optimal Depletion of Exaustible Resources", {\em The Review of Economic Studies}, Symposium on the Economics of Exaustible Resources, 1974, pp.3-28.がある。他にも同じ著者による、{\em Economic Theory and Exaustible Resources}, Cambridge Univ. Press, 1979.が参考になる。(もどる) (11)法律上も、「公共の福祉に反しない限り」といった、きわめて広い解釈が可能な、必ずしも形式的厳密さを保持していない文を含む条文もある。(もどる) (12)「天然の資源については、現在の世代だけではなく、将来のあらゆる世代もまた呼び値をつけなければならないということである。そして将来の世代は現在登場することができないから、われわれが彼等の代わりをしてやらなければならない。この点がわれわれを生物経済学の原則に連れ戻すのであるが、それは人類は将来を割り引いてはならないということである」、前掲、『経済学の神話』、p.39。(もどる) (13)ソローは、ロールズの、「不公平は最低福利享受者の厚生水準を増大させるときにのみ許される」という基準を功利主義的基準に対する挑戦であるとし、ロールズ自身が回避した、世代間問題にこれを適用した。そして、この基準を動学的モデルの枠組みで考えると、消費水準一定の経路になるとし、新古典派成長論の枠組みの中でこの問題を議論している。R.M.Sollow, ``Intergenerational Equity and Exaustible Resources", {\em The Review of Economic Studies}, Symposium on the Economics of Exaustible Resources, 1974, pp.29-45.(もどる) (14)この世代間衡平性の問題を考える上で、E.B.ワイスの議論は基準的なものとして注目される。ワイスは、世代間衡平性の問題について、三つの原則を提起している。第一に、将来世代の利用可能なオプションを不当に制限しないという「オプション保護」の原則、第二に、将来世代が一定の地球の質を享受する権利を奪わないという「質の保護」の原則、第三に、将来世代がその構成員に衡平なアクセスを可能にするという「アクセス保護」の原則である。これらの法的な原則を、具体的な経済原則の翻訳する作業が必要である。E.B.Weiss, {\em In Fairness to Future Generations: International Law, Common Patrimony, and Intergenerational Equity}, The United Nations Univ., 1989.(『将来世代に公正な地球環境を』、岩間徹訳、日本評論社、1992年)。(もどる) |
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