最新論文



2014年7月12日:公開

救助行為の社会的合理性と個人的合理性

鷲田豊明
上智大学地球環境学研究科
全文(PDFファイル)
 
 
概要


3.11 東日本大震災では、多くの尊い命が犠牲となった。巨大な津波の襲来という、日常の生活 の中では想像できないような危機的な状況が出現し、限られた情報や自らがおかれた環境の中で、 ある人はとっさにその危機を察知し避難し、ある人は避難行動の開始をためらったり諦念にまか せ、ある人は自らの避難よりも他者の救出を試みる行動を起こした。津波に直面した幾百万人の 人達の行動は、このような単純な区分ができないほどに、それぞれに色合いがあり、どれ一つと して同じではないともいうべきである。どのような行動を起こしたが故に、ある人は生き残るこ とができ、ある人は残念ながら死を避けることができたかなどと、一般的な議論も許されないだ ろう。まさにそこには、「運」という言葉でしか説明できないようなことが無数にあったはずであ る。だからといって、そのような危機的な状況の中で人はどのような行動をすべきかについて、何 の教訓も引き出さなければ、多くの方の命を犠牲にした災害から学ぼうとしない無責任な態度に なってしまうだろう。そのような努力はあの日以来なされてきた。そして、短い論考もまたその 一つの試み、生き残ったものの責任を果たそうとする試みである。

今回の津波において、他者を助けるために自らが犠牲になった方が数多くいることを、私たち は心の痛みとともに知った。しかも、そのような場合、その助けようとした対象者もまた命を落 としている。しかし、その結果どうはどうあれ、私たちはその他者を助けようとした勇気に感動 し、そこに人間としての誠実さを強く感じないわけにはいかない。誠実さというよりも、人間と しての根源的な倫理的動機を感じるのである。その一方で、津波という危機的状況の中で、情報 が必ずしも完全に与えられない状況の中では、他者のことよりも前に、自分自身の命を守る行動 をとるべきだという考え方がある。それは、たとえば「津波てんでんこ」という言葉で代表され る。私たちは、他者を助けるために自己が犠牲になるという状況を知れば知るほど、まず自分の みを守るという行為の大切さを思い知らされ、この津波てんでんこということの教えるところの 重要性を感じるのである 1。

ただ、事実として、助け合ったために、多くの命が救われた事実を忘れてはいけない。実際、あ の津波という状況の中で助け合いによって多くの命が救われたことはまちがいない。その事実の方が、助け合いによって命が失われた事実よりもはるかに支配的であると考えるべきである。そ れは、一方の、助けようとしたものが助けるべき相手とともに命を失うという悲劇な状況の強い 印象の影にかすんでいるだけであると信じたい。

以上のことは、津波の場合に限定して語ったが、自らを助けることを優先すべきか、自らを危 険を軽視しても他者の救助に向かうべきかというのは、実は、私たちの生活の中で様々な形で起 こりうることなのである。私たちの社会は、潜在的に、さまざまな事故の可能性を含んでいる。実 際に、プラットフォームから落ちた人を助けようとして、自らを危険の中に追い込み、結果とし て助けようとした側が命を失った事例、踏切の中に取り残されたお年寄りを助けようとしてなく なった女性の事例などはよく知られている。また、バスや電車利用などにともなう交通事故、火 災、風水害など、多数の人々が危険にさらされたときに、自己の命を守ることと他者の救助とい うジレンマに見舞われる可能性は誰にもある。

上記のような状況下の個人的救助行為は、単なる他者に対する援助行為と異なる面がある。た とえば、電車の中でお年寄りに席を譲るという場合を想定してみよう。実際相手が了解するかど うかは別にして、自分が席を立つことによって発生する事態と、相手のお年寄りが席に座るとい う状態はほぼ確定的に予測できるものである。あるいは、路上の貧しい人にお金を渡すという行 為も、自らの効用を下げる度合いは金額で確定しているし、相手の受け取るお金も確定している。 しかし、たとえば、誰かが今暴漢に襲われている、近くにいる自分が助けるかどうかは、状況が異 なる。なぜなら、自分が助ける行為によって自分自身が傷つき、最悪殺される可能性があり、また 相手も確実に助かるかどうかはわからない。行為の結果が行為者にとっても対象者にとっても、不 確実なのである。本稿で問題にする状況は、このような不確実性を本質的に含む援助行為である。

本論文は、このような不確実性下で、自己の命の保護と他者の救助が必ずしも両立し得ない状 況が生じたときに、人々の行動とその結果の合理性を議論してみる試みである。したがって、本 論文の目的は、人々の倫理的な問題は議論の対象となっても、人はこう行動すべきだと言う提言 をすることを目的としていない。いざという事態の中で、人がどう行動するかは、それぞれの人 の全人格をかけたものであり、人格の発露であり、一般的な倫理的提言を行い干渉すべきではな い。しかし、本稿での試みによって、これまでの議論の中にある、個人の行動と社会全体の帰結 の間の区別の不明確さ、さらには両者の間の矛盾などによる数量的整合性ある知見を得ることが できる。そして、個人の救助行動がどのような文脈の中で肯定されるのかを明らかにすることが できると確信している。