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副目次
第 1 章 物質循環と生物システム
  1 節 大気と水の循環
  2 節 物質循環の「場」と「渦」
  3 節 生物システムに拘束された物質循環
  4 節 「場」における秩序の散逸
  5 節 秩序の結晶としての生物システム
  6 節 生物システムにおける自由度と目的
  7 節 マクロ目的とミクロ目的
  8 節 システム進化とマクロ目的
  9 節 目的論の復権



第 1 章 物質循環と生物システム   (副目次へ

経済とその環境の最も基礎にあるのは激しくかつ普遍的な物質循環である。この物質循環を基礎にし,かつそれと対立しながらシステムを作り上げているのは目的*である。物質循環とは基本的に物理現象である。一方,目的*もまた物質の現象であるが,有機体とそれによって構成されるシステムにのみあらわれる現象である。この二つの現象は共に物質の現象でありながらまったく異質な現象である。物質循環は物質の流れによって構成されるために,常に秩序を解体に導くように作用する。一方,目的*は秩序を形成するための動機となる。 流れのカオス*(混沌:chaos)的性質は,秩序を形成する力としてのテロス(目的:telos)*と対立する。経済や生態系などの生物によって形成されたシステムすなわち生物システム*は,秩序の崩壊と秩序の形成という二つの傾向を内在させた微妙なバランスの上に存在している。本章では,物質循環と生物システムの相互浸透的な関係を解明する。

1 節 大気と水の循環   (副目次へ

太陽エネルギーによって駆動される大気と水の大循環は生命の生存を可能にしている最も根元的な物質循環である。地球の表面をおおう大気が,ただ静かに存在しているというだけでは生命の持続は不可能である。大気は地表と上空,同時にさまざまな地域間を移動し,大循環を構成する。この循環によって生命の持続に不可欠である新鮮な大気が供給されるのである。また大気の大循環は,水蒸気となった水を重力の束縛から開放し,地球上の水の大循環の形成に決定的な役割を果たす。地球上の生命は,水を主要な基質とする 水の生命*であり外界との物質交換で水が最も主要な役割を果たす。生命にとっての外界に,新鮮な水が供給されるのは,水の大循環が存在するからなのである。そして,多様で大量の生命の存在を媒介にしてはじめて人間の存在が可能になっている。

生命が新鮮な外界を必要とするのは,生命が常に外界との間で物質交換をおこなうことによって,新鮮な物質を取り入れ,外界に対して老廃物を排出しているからである。物質交換は常に環境*としての外界を劣化させる。それは同時に,必要物を獲得するための条件の劣化でもある。生命が外的条件の劣化から開放されるためは,新しい条件下に移動するか,外界の変化に期待するしかない。地球上の生物現存量の圧倒的部分は,太陽エネルギーの固定化能力をもった緑色植物である。動物はこれに比してほんのわずかの割合の現存量を地球上で維持しているにすぎず,その維持のためのエネルギーは植物に依存している。その植物はみずから移動する能力をもたない。したがって,環境の劣化*を回避するためには,外界の変化に期待するしかない。そして,この外界の変化は大気と水の循環によってもたらされるのである。一般的にいって,移動可能性の低い生命ほど,外部的な物質循環への依存度が高くなる。

植物にとって大気は二酸化炭素(CO2)のプールとして重要な意味をもっている。光合成*による太陽エネルギーの固定化と植物体の生産には二酸化炭素を必要とする。大気中の二酸化炭素濃度*は体積比で0.034\%(340ppm)にすぎない。大気中の二酸化炭素の存在量を炭素重量で測ると 730\times 109t と推定されている。一方,地球の全陸上植物が,呼吸で排出する量を差し引いた正味の二酸化炭素の固定化量は年あたり 50\times 109t と推定される。したがって,動物や微生物の呼吸による二酸化炭素の大気への供給が存在しないと,15年弱で地球の大気中の二酸化炭素をすべて使いつくしてしまうことになる。植物と大気の間の二酸化炭素をめぐる物質交換がいかに激しいものであるかをこのことは示している(注1)。

陸上植物が行なっているこの激しい物質交換に比べて,移動できない植物が大気と接触できる空間はきわめて限られたものである。対流圏*といわれる大気の層は地表からおよそ12kmの範囲にある。一方,植物は地上 10m ほどの範囲で大気との接触ができるだけである。この点からも,地上においてこれだけの植物相が繁栄している決定的要因の一つが,この大気の大循環にあることは明らかである。また実際に,植物の光合成速度*は二酸化炭素濃度が1,000ppmなるあたりまでは飽和に達することがないと推定されている(注2)。すなわち,二酸化炭素は植物にとっての一つの重要な制限要因となっているのである(注3)。もちろん,植物相もこのような二酸化炭素飢餓という状況を緩和させるために群集*を構成しさまざまな動物,菌類*,バクテリア*などの分解者*を住まわせることによって二酸化炭素の循環を身近な領域で実現する努力をしている。

一方,水は地球上の存在量の97.2\%が海洋*に存在している。生命に関わりの深いものとしては他に,河川に0.0001%,淡水湖に0.009\%,大気中に水蒸気として0.001\%,存在しているにすぎない(注4)。水は海洋を偉大なプールとしながら地球上を大循環している。液体としての水は,重力によって地上,地中,海洋などに束縛される。これらの束縛された状況でも,水は流動性が高く温度差などの影響で運動する。しかし,最も重要な循環は水蒸気化することによって大気中に吸収され,再び降雨によって液化し地上,海洋に回帰する運動である。それによって,ある程度浄化された淡水の地上への絶え間ない供給が可能になる。地球表面の7割を占める海面から蒸発する水の量を100とすると,92が海面そのものに降雨として還って行く。残りの8と地上からの蒸発散*によって供給された16の合計24が降雨,降雪となって地上に還るのである。降雨の内,16は再び蒸発散し残りのほとんどは河川水として海洋に還っていく(注5)。この水の大循環によって地上での生命の持続が可能になっている。

この水の大循環の激しさをとらえることは重要である。まず,河川水の平均滞留時間*,すなわち,存在量を時間あたりの供給量(=流出量)で除した値は2週間である。すなわち,地球上のすべての河川は,降雨による水の供給が平均して2週間途絶えると干上がってしまうことになる。一方,大気中の水蒸気は平均滞留時間は10日しかない。さらに,莫大な存在量を誇る海洋ですら平均滞留時間は4,000年にとどまるのである。

水と大気の循環は,他の多様な物質を移動,循環させる媒体にもなっている。たとえば,水は構成する水素が正電荷に,酸素が負電荷に偏る*極性分子であるために,物質に対する高い溶解力を持っている。窒素,リン,カリ,硫黄,マグネシウムなどの元素を含む栄養塩類は植物の生育に不可欠だが,これらのほとんどは水の流れに溶解したかたちで供給されるのである。水も大気も大循環の過程で,生物のさまざまな排出物を取り込み,物理・化学的な浄化を行ない,また,それらの排出物を必要とする別な生物群に供給することによって,生物的浄化も可能にする。もちろんこの大気と水の循環は,人間の経済活動による自然の浄化能力を超えた排出に対して,汚染を循環させるという機能も不可避的にもつことになる。

2 節 物質循環の「場」と「渦」   (副目次へ

地球上の生物は,物質循環の中にみずからをさらすことによって,常に新鮮な外界を実現し個体の物質交換を持続させている。物質循環はこの意味で生物にとっての本質的な(field)*なのである。生物は物質循環という場の中で,物質交換を基本とした相互作用を行なう。また,この相互作用をとおして,場そのものを変容させる。生物は個体としてではなく同一種からなる個体群(population)*として,さらには多様な種の個体群の集合としての群集(community)*として存在する(注6)。群集の存在がもたらす物質循環の場*の主要な変容は,物質循環の*を形成することである。この渦とは,物質循環の大循環の部分過程であると同時に小循環,部分循環として,生物にとっての物質交換をより効果的に行なうために機能する。

たとえば,森林は多様な生物種の個体群*から構成されているが,そこにはさまざまな物質循環の渦*が発生する。森林が大気や水の大循環の中に存在していることは明らかである。その物質循環の中で,一定の閉鎖性をもった準循環としての渦*を形成することによって,大循環の不確実性,無秩序性を克服しようとするのである。先に述べた二酸化炭素の場合,緑色植物*にとっての希少性を克服するためには植物の遺体や,動物の遺体・排泄物がより速やかに呼吸によって分解されることが必要になる。呼吸は二酸化炭素を再び供給するからである。このような分解は森林を支える土壌表面,土壌中で行なわれ土壌呼吸*となる。土壌は最も重要な二酸化炭素の供給源となるのである。十分な太陽光によって,森林の高層で光合成*が盛んになると二酸化炭素が不足するが,風による撹乱によって土壌表面の高濃度の二酸化炭素が高層へも供給されるようになる。また,呼吸による有機物の分解は,同時にその中に固定化されていたさまざまな栄養元素の開放を行ない,再び植物に利用される。この栄養塩類をめぐる物質の循環は二酸化炭素よりはるかに閉鎖性の高い渦となる可能性がある。

また,水の大循環は森林が存在することによって大きな変容を受ける。一般に植物は光合成*の直接の材料として水を必要とする。たとえば 1g の有機物を生産するために材料として必要とされる水の量は 0.6g にすぎないが,実際はこれよりはるかに大量の水を必要とする。光合成*というエネルギー転換から発生する廃熱や呼吸廃熱*の体外廃棄の目的*のほかに,植物体のさまざまな生理状態を正常に維持するために多量の水が必要になるのである。1g の有機物生産には200〜1,000g の水が実際に必要とされるといわれている(注7)。これら光合成*以外の目的で利用された水は植物体の表面から蒸発散*によって大気中に放出される。森林に流れ込んだ水の大きな割合が河川や地下水脈*に流れ去るのではなく,森林によってため込まれ大気中に水蒸気として放出されることになるのである。したがって,森林の存在する上空の水蒸気濃度は高まり,そのうちの少なくない部分が再び降雨となって森林に還ってくることになる。これもまた渦*であり,しかも栄養塩類などのような高い閉鎖性はないものの,大規模な渦になっている。森林伐採*が進むことによって降雨量が減少し,究極的に砂漠化した地域は,この物質循環の大渦を完全に失ってしまったことを意味するのである。

森林以外の生物群集においても,物質循環の渦*は多様に発生する。さまざまな草原,耕地あるいは外洋や入り江においてもまた,そこに生物が存在することによって渦*が発生する。ただし,砂漠や乾燥地帯においてはこの渦の発生がきわめて弱い。物質循環の渦*の強さは,そこに存在する群集の一次生産能力にあらわれる。陸上において最も高い一次生産能力を誇る熱帯多雨林*の場合,平均的な純一次生産*は 2,200gm-2y-1(y = 年)であるのに対して,砂漠や半砂漠では平均 90gm-2y-1しかない(注8)。その原因は,物質循環の場*が弱いことである。物質循環の強度*は流速や多様性などさまざまな要因に依存する。重要な点は,場の強度*が生物の存在との相乗作用によって変化することである。生物群集*が外的要因によって失われると加速度的にその場の強度は失われていく。このことは,生物そのものが物質循環の強化要因であることを示している。

さらに明確なことは生物それ自身が一定の閉鎖性をもった物質循環の渦*を保持していることである。植物も内部的に養分を移動させる能力をもち,多くの動物の場合ははっきりとした循環器*を内部に維持している。植物の場合は外部的な物質循環に対する依存性が動物より高く,動物の場合には,相対的な意味でしかないが外部的な物質循環に対する依存性が低い。したがって,一般に次のようにいうことが可能である。外部的な物質循環に対する依存性が低ければ低いほど内部的には閉鎖性の高い物質循環の渦*を形成する機能をもつ。また,そもそも生物自身が局所的な意味で物質循環の場*の積極的形成要因になっている。生物は,外部に対して不可避的に物質交換をおこなう。それは,内部的な物質循環の外部化であり,それによって外部的な物質循環の場が変容するが,これがまた外部的に物質循環の場*を強化することになるのである。

3 節 生物システム*に拘束された物質循環   (副目次へ

*とは,物質のより大きな循環からみた局所的な準循環である。より大きな循環からみればその循環は不完全で閉鎖性が弱い。渦は局所的,部分的かつ開放的な物質循環である。ここで問題にしているのは,生物によって形成される渦であり,生物が構造をもって存在していることによる物質循環である。場*としての物質循環の中に渦が形成される条件は,個々の生物あるいは個体群の間における必要物と不用物の相互転化のバランスが高まることである。生物にとって排出された不用物の累積は物質交換を困難にする。したがって,ある生物にとっての不用物が別な生物にとっての必要物となり,相互転化することによって局所的な物質の渦*の形成が可能になる。したがって,生物群集の存在をより確実なものとするための物質循環の渦の形成は,群集そのものがバランスのとれた構造をもつことを必要とする。

すべての生物は物質交換を行なう。すなわち,外部的な物質循環からの必要物の取り込みと内部的に発生した老廃物の排出である。この物質交換自体が,それを行なう生物の外部的な物質循環の流れを変化させる。一般にその生物にとって,必要物と老廃物は異なったものである。しかし,生物界ではほとんどの場合,すべての生物にとって老廃物としてしかあらわれない物質はすべての生物にとって必要物ですらないものである。老廃物が再び他の生物の必要物になるとという過程を繰り返すことによって,めぐりめぐって老廃物を生みだした生物にとっての必要物に転化することがあれば一つの循環が形成されたことになる。この循環の過程は多様で複雑なものとならざるをえない。なぜなら,生物は単純な物質から複雑な化合物を形成する能力を有し,循環を形成するためには複雑な化合物を分解する多様な過程が必要になるからである。したがって,生物によって形成される物質循環は,それを担う生物層が多様であることによって,より完成度の高い循環となる。そして,生物相互の物質的な相互関係は不可避的に精密なものとならざるをえない。

このように,外部の物質循環の大循環の中に渦*としての準物質循環を形成し維持し,多様な生物とそれらの相互依存関係によってとらえられる実体を生物システム*と呼ぶことにしよう。生物システムは多様な主体とそれらの間の表現された,あるいは表現可能な多様な関係によってとらえられる。そして生物システムは システムに拘束された物質循環を形成する能力をもっているのである。

再び森林を例に考えてみよう。森林は一つの生物システムである。森林を構成する林木一つをとっても,それを構成する多様な物質をとらえることができる。マクロ的にも,葉,幹,表皮,根,芽,花,果実,花粉,樹液,種子などがすぐさま観察ができる(注9)。また,ミクロ的にみるとそれらを構成する細胞は細胞壁と原形質からなる。細胞壁は,林木の形を支えるセルロース**ヘミセルロース,あるいはそれらをつなぐリグニン*といった物質,原形質は多数の種類のタンパク質,脂質,炭水化物から構成され,林木のさまざまな部位でそれらの構成要素や割合の異なった細胞が存在している。さらに林木には,主に他感作用(アレロパシー:Allelopathy)*のために合成された化学物質,二次代謝物*も含まれている(注10)。すなわち,林木一つをとっても,無数ともいえる多様な物質によって構成されていることが分かるのである。林木は生成の過程において太陽エネルギーを光合成*によって固定化するとともに炭素,水素,酸素,窒素の他,さまざまなミネラル分を固定化し,それによって多様な合成物質を作り上げているのである。

森林が部分的物質循環を構成する能力があるということは,これらの多様な物質を分解するメカニズムが存在するということを意味している。林木のマクロ的に異なった部位に対して,ほとんどの場合,それぞれ異なった摂食者が存在するといわれている。たとえば,比較的タンパク質などの原形質成分の比重の高い葉は限定された昆虫やそれらの幼虫によって摂食され,樹液はまた特定化された昆虫によって,表皮には菌類が寄生し,果実は鳥や哺乳類によって摂食される。しかも,たとえば葉を摂食したガ(蛾)*の幼虫が葉に固定化された物質とエネルギーを分解しきるのでもない。葉の幼虫はそれによって大量の糞をあたりにまき散らすが,その糞はある程度分解されていたとしても再び林木が吸収しえるような栄養塩類には完全になっていない。それらを分解するためには,さらに無数の菌類やバクテリアの活動が必要になるのである。また,ガの幼虫のバイオマスそのものもいずれは分解される必要がある。一部は,鳥によって捕食され部分的な分解が行なわれるであろうし,ガ*の成虫になった場合は,それらの死によって遺体化したときに,再び遺体処理に特化した昆虫や菌類・バクテリアの活動が必要になる。また,セルロース*など,ほとんどの生物が対応する*消化酵素(セルロース*の場合セルラーゼ)をもっていない物質は,体内にこの酵素を生産する微生物を共生*させているシロアリ*によって分解されたりする(注11)。このように多様で複雑な分解過程を経て林木群は全体の再生産のための物質の多くの割合を内部循環的に獲得することが可能になるのである。

森林における水の循環も,森林の規模が大きくなればなるほど 拘束された物質循環 *としての性格を強める。しかし,拘束された物質循環は,生物システム*が存在する空間内部の循環になるとは限らない。森林からの大量の水の蒸発散は,一次的には森林という空間からの水の開放であるが,結果的にその多くの割合が森林に戻る場合,その水はやはり森林という生物システム*に拘束されていることになる。もっと一般的に,対象としている生物システムが広域的であればあるほど,生物システムの拘束を受ける物質の循環ループがとらえられることになるが,もう一方で全体の物質循環の大きさに比べて拘束性は希薄になる。ただし,そのような広域的な物質循環が生物システムの影響のもとにあるといえなくもない。たとえば,*ゾン}アマゾンの*熱帯多雨林の急速な減少は,グローバルな大気と水の循環に影響を与える可能性が存在するなど,地球上の森林という生物システムの全体は,グローバルな物質循環に一定の影響を与えている。しかし,影響を与えることと拘束することとは意味が異なる。生物システム*が物質循環を拘束しているとは,物質循環を生物システムの制御下においているという意味が含まれていなければならないのである。この点で,地球を一つの生命体としてとらえるラブロックの ガイア仮説*は,地球の物質循環が,地球全体の生物システムの拘束下にあるとする仮説とも考えられる(注12)。

個々の生物は内部的に物質循環を拘束している。もちろんそれは外部の物質循環と物質交換をとおしてつながっていなければならないという点では,一つの渦*なのであるが,相対的独立性を維持している。動物における循環システムは,まさにこうした物質循環の拘束のためのシステムとなっている。

ここまで,生物システム*という概念をあたかもその構成要素には人間を含まないような用い方をしてきたが,そのような制限は不必要である。人間による経済もまた一つの生物システムである(注13)。すなわち,経済もまた物質循環を拘束し,それを基礎としてはじめて成立する。この点を理解するためには,まず農業を見なければならない。農業が人類史上に登場したのは数千年から一万年前と推定されている。農業が一つの文化として導入されると,社会制度の根本的変化をもたらし,社会は一定の方向性のある不可逆的な発展の道にはまりこむ(注14)。潅漑という農業技術における革新は物質循環の拘束であり,また制御された渦*の形成である。潅漑によって経済の生産性は飛躍的に増進し,政治形態の革新がもたらされた。経済以外の生物システム*がそうであるように農業においてもまた栄養塩類などの内部的な物質循環の形成に大きな力が払われてきた。

たとえば古くは,牧畜と農耕を結びつけ,動物の排泄物を利用することによって土壌への栄養塩類の回帰を実現する工夫や,近世日本の江戸*などで行なわれていたように都市の人糞尿*が農耕地に施肥されることによって物質の拘束された循環*を形成する努力が行なわれてきた(注15)。現在では大気中の不活性化した窒素を肥料化することによって,全体では自然界の窒素固定菌*などによる固定量に劣らないくらいの窒素化合物としての栄養塩類が農耕地に投入されている。これもまた,人為的な物質循環の拘束である。そして,農業ばかりでなく工業など,他のさまざまな経済部門において外部的な物質循環の内部的な拘束が行なわれている。もちろん,それはすでに繰り返し述べているように完全な循環ではありえない。あくまで,大循環の渦*という性格は免れないのである。

このように,生物システム*の中から人間が支配的な構成要素となった経済というシステムを特別にとらえるようになったとき,人間以外の生物が支配的な構成要素となった生物システムを,以下では 生態系(ecosystem)*と呼ぶことにしよう。生態学において生態系は生物群集を非生物的環境*とともにとらえる場合の概念であることが強調される(注16)。もともと,ここでの生物システムは,本質的な非生物的環境である物質循環と共に与えられている概念である。物質循環は生物および生物システムに深く浸透している。物質循環の中では,生まれつつある生物あるいは死につつある生物と非生物的物質を厳密に区別することは不可能である(注17)。その意味で,ここでの生態系という概念も,従来の生態学における生態系概念と基本的に整合的である。ただし,物質循環と共に重要な非生物的要素であるエネルギー流のことはこれまで明確に位置づけてこなかったが,物質の大循環がエネルギーによって駆動されているように,生物システム*における物質循環もエネルギー流によって駆動されている。生物システムにおけるエネルギー流は物質の流れに担われている。生態系はエネルギー流という重要な非生物的要素を含むのである(注18)。

したがって,生物システムは経済と生態系という二つのシステムを含んでいる。もちろんこれらの二つのシステムは常に画然と区別可能なものではない。農業などは確かに経済としての生物システム*の部分システムであるが,農業の基盤である土壌の機能もさまざまな昆虫と無数の微生物の相互依存関係によってはじめて有効になっている。農業は,かならずしも完全に制御できない生態系そのものを取り込んでいるのである。これは,経済の中に生態系が浸透している一つの例である。また逆に,今日の地球においては,すべての生態系が経済からまったく独立したシステムではありえなくなっている。経済活動の規模が巨大化することによって大気や水の大循環に与える影響が無視できなくなっているために,この大循環によって持続可能になっている生態系もまた不可避的に影響を受けることになったのである。すなわち,地球上のあらゆる生態系に経済が浸透しているのである。

4 節 「場」における秩序の散逸   (副目次へ

大気や水の大循環がもたらす*環境は,生物システム*にとってかならずしも好ましいものではない。生物は物質循環に依存しなければならないために,循環の条件の悪い状況を少しでも回避する必要から多様な主体からなるシステムを構成している。生物は他の生物との相互依存関係の中でのみ安定した存在が維持できるのである。システムによって物質循環を拘束することは,外部的な物資循環の不都合を取り除く一つの工夫である。

外部的な物質循環は場*としての物質循環である。この場としての物質循環は,生物にとっては時間的にも空間的にも不規則性に満ちた振る舞いをする。この物質循環の不規則性*そのものについて,より正確にとらえておこう。物質循環とは物質の運動をマクロ的にとらえている概念であり,よりミクロ的にみれば 流れである。生物や生物システム*にとっての外部環境としての物質循環は 流れとして存在している。*場の不規則性はこの流れの不規則性なのである。たとえば,大気の複雑な流れは無限に多様な気候を創造する。この複雑な流れは,緯度による太陽の照射効率*の違いによる温度差,地球の自転が生み出すコリオリの力*,地表や海面の状況の違いによるものなどが複雑に影響し合っている。それに何よりも,大気の流れそのものが不規則性を内包している。不規則な流れによって創り出された不規則な気候は,予測のきわめて困難な現象である。天気の予測は,予測するべき天気の時点が現在に近ければ近いほど確からしさが増す。気象衛星を見れば,数時間後の空が晴れるか曇るかはかなりの確からしさで予測することが可能である。しかし,時点が現在から離れれば離れるほど,予測の信頼性は急速に低下する。

予測の信頼性が,現存する状況から空間的あるいは時間的に離れるにしたがって急激に低下するのは,場*を形成する物質的流れの本質的な特徴である。予測の信頼性が低下するとは,規則性が希薄になるということである。この規則性が希薄になるという状況により厳密な表現を与えよう。そのために次のように定義された 秩序*という概念を用いる。秩序とは,複数の状態や要素あるいは主体に対する認識可能な相互関係の支配を指す。あるいは,それらの相互関係の認識を媒介するさまざまな図式(スキーマ)*式}*}に構造化された知識や直感的表象が,すでに人間の側に用意されていて,現実に対象がその認識を大きくはずれない場合に,秩序*が存在するという(注19)。規則性もそうだが,認識可能性と結び付けられているという意味で秩序とは主観的な概念である。認識する主体すなわち人間の存在から切り離された秩序は無意味である。場*を形成する流れにも秩序は存在する。しかしそれは,特定の時間的あるいは空間的な一つの点のごく近傍においてのみ存在するのである。時間的,あるいは空間的にその点から離れるに従って,急速に秩序は散逸して失われていく。

秩序の散逸*は次のようにも表現可能である。時間と空間の次元を共に与えられたある一点を,流れを形成しているかあるいは形成する潜在的可能性のある場の中に定めよう。ただし,この点は数学的な幅をもたない点ではなく,必要に小さく保たれた区域と考えるべきである。今,この点がいくつかの状態変数(例えば,温度や流れの速さなど)によってあらわされるとする。その状態変数のベクトルをS1とあらわすと分かりやすいかも知れない。場の中にもう一つ別の点をとろう。この確定した状態をS2であらわそう。これら二つの点は時間と空間の少なくともいずれか一つが異なっていなければならない。秩序が散逸するとは,時間と空間を共に考慮した二つの点の距離が離れるにしたがってS1とS2の間の関係が急速に認識不可能になることである。いいかえると,これら二つの点の関係に対する適用可能な図式が存在しなくなることを意味する。流れを形成する場においては,任意の二つの点において,そのあいだの距離に応じた関係の認識不可能性*があらわれるということである。S1が現存する事実の認識であっても,そこからS2を推測することが遠い現象であればあるほど困難になる。

場を形成する流れにおいて,なぜ状態や要素の相互関係が認識困難になり秩序が散逸してしまうのであろうか。流れは,秩序の散逸の激しさに比較すると相対的に単純であり緩い外部的制約条件,境界条件の制約を受けている。生物や生物システム*が流れを拘束する理由は,拘束されていない流れ,すなわち外部的な条件の弱い流れの生み出す不規則性*によって,生物の存在が不安定化するのを回避するためである。したがって,秩序の散逸*は流れそのものの内部的な特質によって発生していると考えるべきである。流れそのものが,自然科学的にとらえることがきわめて困難な現象であることは古くから知られていた。コンピュータがこれほど発達した現代においても,大気の流れの中を動く飛行機や,水の流れの中を進む船の適切で効率的な形の決定に,風洞や流水を実際に用いた実験が不可欠である。流れを規定する数学的関係は分かっても,それを直接に解くことが著しく困難であり,したがってどのような流れがどのような条件のもとに発生するかを正しく知ることができないからである。

この秩序の散逸*は流れのカオス*的性質として理解することも可能である。カオスとはある数学的システムが示す振る舞いに与えられられた名前である。この数学的システムは一般に一つ以上の差分方程式あるいは微分方程式として与えられるものである。たとえばそのシステムが三次元の連立常微分方程式で与えられる単純な構造をもつものであったとしても,その解の軌道がある限られた領域に一度入ると再びその領域から出ていくことがないという意味でのある種の安定性をもつ一方,軌道そのものは不規則な挙動をする可能性がある。しかもそれは,初期値のいかなるわずかの違いであってもいずれはまったく異なった不規則な軌道になっていくという特質をもっているのである。すなわち,たとえば二つの初期状態から出発する軌道があったとする。初期値がごくわずかな違いであれば,しばらくの間は二つの軌道はよく似た振る舞いをするが徐々に二つの軌道は勝手な振る舞いをするようになっていく(注20)。

このカオス*の存在は,非常に単純な構造をもった,しかもその構造は何ら不確実性に支配されていない決定論的なものであったとしても,予測不可能な不規則性*に陥るということを意味している。カオス*的な構造をもつ現象は,時間的あるいは空間的に非常にせまい範囲内でしか有効な予測ができなくなるのである。確実な現象から時間的に空間的に離れた現象を予測することができないことになる。カオス的現象の予測不可能性はまず第一に,初期状態の違いがその後の経路をまったく異なった不規則性に導くことからくる。具体的な現象で初期状態とは,認識可能な現存する状態である。しかし問題は一般の現実において,ある時点の状態を正確に把握することがほとんど不可能な場合が多いということにある。たとえば大気の流れがカオス的な構造を含んでいるとしよう。そのとき,仮に大気の循環を正確に数学的システムとして表現できたとしても,大気の循環の中にある微妙な乱れ,たとえば木の葉が搖れたり鳥がはばたいたりすることによる初期状態の違いまでとらえることは不可能である。この微妙な乱れがまったく異なった大気の循環を引き起こしてしまうこともありえる。したがって,このような物質の流れからなる循環は,構造が分かったとしても予測不可能になってしまうのである。

第二には,これと密接な関連をもっているが,現象を規定している構造が分かったとしても,それをコンピュータなどによって数値的にシミュレーションすることが,重大な誤差を生み出す可能性が存在するということである。一般に非線形の構造をもった数学的システムを,数式処理的方法によって解くことは困難または不可能であり,数値的シミュレーション*によって近似解を与えることによって解くことが必要になる。しかし,カオス*を含むような現象の場合,シミュレーションが不可避的に生み出す誤差が,結果の本質的な違いを生み出す可能性がある。

また,第三に,現象の具体的な構造を正確に確定することが非常に困難であるために,モデルそのものが粗い近似にならざるをえなくなり,それが予測の結果に大きな影響を与える可能性もある。ただし,これはカオスに特有なものではない。一般に現象を数学的なモデルにあらわす場合は不可避的に生じる問題である。構造の特定化が,モデルのリアリティに重大な影響を与える場合とそうでない場合に区別できるならば,カオス*を含む現象は前者である可能性が高い。

大気と水の流れは,このようなカオス的構造を多分にはめ込んだものになっていると考えられる。確かにその流れの中には定常流,すなわち穏やかな大気の流れの中に感じることができるような,あるいはきれいな水流の中にみることができるような定常流もある。しかし一般に物質の流れは,規則性をとらえられる範囲,あるいは秩序をとらえられる範囲が,より高い規則性,秩序を求めるほど,微小な範囲にとどまってしまうものなのである。カオスとは,拘束されない物質循環,すなわち生物システム*にとっての場*を形成しているような物質循環の特質を非常によくあらわしている性質である。

5 節 秩序の結晶としての生物システム*   (副目次へ

生物システムそれ自体が秩序をもっていることは,秩序の定義から明らかである。生物システムはそれを構成するさまざまな生物的要素ないしは主体が認識可能な関係に支配されている。それはまた,生物システムの定義そのものでもある。すなわちもともと,多数の生物からなる秩序ある実態を生物システムとここでは呼んでいるのである。もちろんそのことは,生物システムに関わるすべての秩序が明らかにされているということを意味してはいない。おそらく,潜在的に認識可能な秩序のほんの一部しか人間は理解していない。そして,これが逆に生物システムの高度の秩序性をあらわすものとなっている。

したがって,生物システムが物質循環を拘束するという場合,それはの中にある拡散する無秩序に支配された物質循環に秩序を与えることを意味している。これは生物システムだけではなく,生物それ自身についてもいえる。生物および生物システムは物質循環の秩序*を高めるものである。そして,物質循環をより高い水準で拘束すればするほどその存在可能性そのものも高めることができる。熱帯多雨林*の高い生産性は,陸上生態系*の中で最も高い水準の物質循環効率によって支えられていることはよく知られた事実である。生物システムとしての経済についてもまた,より高い治水能力*を実現する経済が,より高い剰余生産能力,すなわちより大きな経済的富*を実現することができてきたのであり,現在もまた根本的にはこの原理がほとんどの経済で機能している。

しかし,生物および生物システム*によって拘束された物質循環*も,それが物質の流れ,流体としての性質をもつ限り,あるいはカオス*的な振る舞いのあらわれる可能性が存在する限り,そこから 秩序の拡散*を取り除くことができない。たとえ高度の秩序を誇る動物の循環器*においても,不規則な循環を完全に排除することができないことを忘れてはならない。したがって,緩い関係で構成された生物システムが拘束する物質循環が不完全なものであること,すなわち秩序の拡散が取り除けないこともまた明かである。

生物および生物システム*が拘束した物質循環から,より完全な形で秩序の拡散を防ぐ方法は物質循環から 流れという性質を取り除くこと以外にありえない。それは,物質循環の中に一種の 澱み(よどみ)*をつくりだすことである。そして,このような澱みこそ生物体である。そしてそれらの生物からなる生物システムとは構造をもった物質循環の澱みに他ならないのである。ただし,それが澱みである限り物質循環の一環であり,時間的視野を広げれば再び循環の中に還るような存在であることは変わらない。物質循環に秩序を付加するものとしての生物および生物システムそれ自身が,再び物質循環の一つの部分,物質循環が澱んだ部分に他ならないのである。そして,そこに物質循環の最も高い秩序性が結晶化されている。

生物が不断に行なっている新陳代謝*とは,澱み*の物質循環への回帰をあらわしている。地球上の生命は水を基質とし生物体は基本的に水からできている。たとえば人の場合でも,重量比で60\%が水であり,成人男性(70kg)で平均一日2.5lの水を必要とする。また,たとえばほうれん草の場合93\%が水であり,大腸菌の場合でも70\%が水からできているのである。したがって,物質循環の中で,水を澱ませ少しずつ入れ換えているのが生命*だと言える。水以外の物質についても,生命は対応する物質循環の澱み*となっていることはまったく同じである(注21)。

6 節 生物システム*における自由度と目的   (副目次へ

生物および生物システムにおける秩序の形成過程をより詳細に検討しよう。出発点は流れのもつカオス*的な予測不可能性*である。生物および生物システム自身は物質循環の澱み*であり,その中に物質循環的秩序を結晶化させている。しかしそのことは,生物および生物システムの内部に流れが存在しないことを意味していない。場*を構成する物質循環に比べるとはるかに高い秩序性をもった物質循環をその内部に実現しているが,流れが存在する限りカオスがあり予測不可能性*が存在している。植物における栄養と水の循環,動物における血液や体液の循環などは高い規則性をもっているが,それでも流れであることは変わらない。動物や植物の中に高い割合で水が存在していることは,このようなマクロ的な流れの他に,細胞内や細胞間にも流れが存在していることを示唆している。そして,そこにもまたカオス*的構造と予測不可能性*が存在しているのである。また,多数の生物とそれらの間の相互依存関係からなる生物システム*になると物質循環の拘束性は生物それ自身よりもはるかに緩いものになる。したがって,そこには生物よりはるかに多くの,しかもより深刻な予測不可能性*が存在している。

しかし,これらの予測不可能性*は場*としての物質循環がもつ予測不可能性とは本質的な違いがあることを認めなければならない。生物や生物システムに拘束された物質循環*の予測不可能性*は主体的なものである。そして,その主体の側からみれば,予測不可能性は選択可能性なのである。たとえば,観察する側からみたある個人の行動の予測不可能性は,当の個人にとっては行動における多様な選択可能性*を意味している。システムとしての主体にとっても同じことがいえる。このように生物や生物システム*に拘束された物質循環*における予測不可能性*を自由度*と呼ぶことにしよう。自由度は,変化や運動の範囲を限定できるような,あるいは選択肢が一定の範囲に絞ることができるような予測不可能性*ということができる。生物や生物システム*がそれらの多様な変化,運動に関して自由度をもつということは物質循環の本質から不可避なのである。

したがって,生物および生物システムは一方に物質循環の秩序を結晶化させているとともに,もう一方で物質循環の流れが生み出す予測不可能性*としての自由度を抱え込んでいることになる。生物システムは,その意味で,秩序と無秩序という相反する性質を内部に体化させている実体なのである。このような矛盾した性質を統一させているからこそ,生物および生物システムは状態変化の柔軟性をもち,その安定した存在が可能になるのである。

この統一は生物や生物システムがその自由度*の中から秩序に向かう傾向を常に選択しようとする動機をもつことによって実現されている。自由度は多様な方向の選択可能性を示しているが,その中から特定の秩序形成に向かう方向を選択する動機が存在している。一般に,多様な自由度が存在する中で一つの方向の選択を引き起こす結果的合理性の表明を, 目的*とよぶ。つまり,ある選択の合理性を,その選択の結果との関連で示す言明を目的*と呼ぶのである。したがって,生物や生物システムにとっての結果的合理性を示すさまざまな秩序はまさにこの目的*として機能しているのである。

アリストテレスは事物の原因を,(1)事物の素材,(2)事物の形,(3)始動因*,(4)目的因*,に区別した(注22)。始動因とはある事物がそれに先行する存在の結果としてあらわれる場合を指す。そして,最後のものは物事の終わり(テロス*=目的)よって規定されている原因を指す。生物や生物システム*のような多様な自由度*に彩られているものは,始動因*の中に変化の原因を探すことができない。なぜなら,過去はどうあれ未来はさまざまな可能性が存在して,それに先立つ事象によって一意に与えられないのである。したがって,このようなシステムは,終わり(テロス*=目的*)から逆にさかのぼる形で現存する変化や運動が説明されなければならないのである。すでに述べたように秩序は主観的側面をもつ。すなわち,秩序は規準が与えられなければ具体的に定義できないのである。そしてこの規準を与えるものこそ目的*である。

もちろん目的*もまた主観的なものであり,それをとらえることができかつそれにもとづいて評価が可能な観察者*が存在することを前提にしている。しかし,そのことは観察者の存在いかんに現実の秩序形成機能の存否が依存していることを意味しない。現実の傾向は常に存在する。問題は,その傾向を認識する概念的な枠組みが,観察者としての人間の存在を前提にすることによって与えられることにある。一般に,目的*は主体としての人間が関わっている場合にのみ語られるが,ここでの目的*は秩序を形成する傾向が存在するところでは,人間がそれに関わっていなくても一般の個体や一定の統一性を有するシステムに関して存在する。この場合,ただ目的*に動機づけられた個体やシステムの観察者としての人間の存在が前提にされるだけなのである。

7 節 マクロ目的とミクロ目的   (副目次へ

生態系と経済は,生物システム*として共通の構造をもっている。すなわち,自由度*のある多様な方向性の中から特定の方向を選択しうる能力をもっているという意味で独立した個別主体と,それらの相互依存関係という構造を共通にもっているのである。この相互依存性がシステムを構成する主体にとって不可欠のものであるという点では,主体の独立性は相対的なものにとどまっている。

生態系において,主体としてはまず個々の生物,個体を考えることからはじめるべきである。それぞれの個体はほとんどの場合,個体としての相対的独立性を与えられた瞬間から,成長し,成熟し,それによってより多くの子孫を残すという目的*のもとに,内的な,あるいは外部との関係を作り上げていく。それぞれの個体が子孫を残すという目的*を本能的にもっていなければ,その個体の属する種は自然淘汰*の力に抵抗することができなかったはずである。しかし,このように視野を一定の地域に生息している種の全体,すなわち個体群まで広げると,個体を超えたものとして存在する目的を認める必要がでてくる。個体群は基本的には個体の集合からなっているが,その集合としての個体群にも個体そのものから独立した目的が存在することを認めざるをえなくなる。個体群全体としてより多くの子孫を残し,より持続的な生存の拡大を実現することと,それを構成する主体の個別的な目的*とはかならずしも整合的ではないのである。

生態系を構成する個体群は常に何らかの限られた資源・環境の中で存在を余儀なくされている。それらの条件を個体群の目的*のために最も効率的に活かそうとすると,すべての個体の目的*の実現を等しく認めることができなくなるのである。すなわち,個体群の目的*にとって望ましい個体の目的*の実現が優先される。たとえば,動物の世界ではより強い雄が,雌のハーレム*を支配できるという場合が数多く存在している。これは個体群全体の目的が個体の目的に制約を加えることをあらわしている。個体の目的*と個体群の目的がそれぞれ相対的自立性をもち,後者は前者を狡猾に利用しながら実現をめざすのである。この場合,個体の目的を ミクロ目的*と呼び,それに対応するものとして個体群全体の目的を*マクロ目的と呼ぶことにしよう。

個体群を構成する種の行動は,視点の異なった二つの目的に支配されているのである。二つの目的は特定の局面で対立することはあっても基本的に相互依存的である。個体からみれば,個体群全体が効率的にその目的を実現していない限り,みずからの存在は与えられなかったのであり,個体群からみれば,それぞれの個体が個体の目的のために力をつくすことなしに個体群の目的の実現は不可能なのである。たとえば,サッカーの試合中のボールの動きもまた,二つのチームのそれぞれが異なったゴールにいれるという,異なった目的に支配されながら運動している。この二つの目的の存在を認めない限り,ボールの動きの意味が理解できないことになる。

ところで,個体群のマクロ目的*クロ目的}はそのミクロ目的*のように明確な閉じた境界をもった主体によって担われているのではない。したがってマクロ目的はミクロ目的の主体をとおして発現するのである。ハーレム*を獲得しようとする雄の場合はミクロ目的そのものをとおしてマクロ目的が発現するとみることができる。生物の個体群の場合,マクロ目的は個々の生物の遺伝子*の中にコード化されているのである。さらに言えば,より適合的なマクロ目的を個体の遺伝子*にコード化している種が自然選択の中で生き残ってきたということになる。

しかし,目的*の構造を分析する場合,対象を個体群までに限定することには合理的理由がない。さまざまな種によって構成される個体群は群集を構成する。そして,この群集全体としても秩序の存在を否定することはできない。さまざまな個体群は生物群集の中でバランスのとれた位置を占めるように,個別目的の制約を受けている。逆に,すべての個体群が全体としての秩序を受け入れそれに支配されているような群集が,他の構造をもった群集に自然淘汰*されることなく,成長と成熟そして持続的な存在を実現できるのである。したがって,生物群集もまた目的*をもっていると言わざるをえない。この生物群集のマクロ目的に対して,個体群の目的はミクロ目的*となる。個体群の全体としての目的は,それを構成する生物の目的に対してはマクロ目的*クロ目的}であるが,より包括的な群集目的に対してはミクロ目的となるのである。

生態系は以上述べたような目的の構造*をもっている。ただ,上に述べたような目的の構造はかなり単純化したものである。生態系の現実の目的の構造はもっと複雑である。たとえばアリのような個体群の中で肉体的にも機能的にも異なった個体が多数存在しながら全体の目的の整合性*を実現しているものや,広く存在するさまざまな形態の共生*は,上のような生態系の目的の構造*に対する単純な適用の困難性を一面で示している。それでも,生態系の目的の基本的構造が,上で述べたようなマクロ目的とミクロ目的の対立性と相補性という性質をもっていることは間違いない。

もう一つの生物システム*である経済についてもこのような*目的の構造化がそのまま確認できる。最も原子的な経済の主体は個人である。個人は肉体的にみれば一個の生物であるが,経済の中にある個人は,経済というシステムの相互依存関係の中にみずからの地位を見い出すことによって生存を持続させている。個人は生物システム全体の中で最も直接的で完全な意味での目的*をもった,あるいはもつことが潜在的に可能な主体である。個人は発達した大脳皮質をもつために,他の生物と比較するとはるかに高い自由度*をもっている。もちろんこの自由度は,行動上の自由度に先行する形で思考の上での自由度として与えられる。そして,高い質の目的形成能力*とそれの実現のための能力をもっている。もちろん個人の目的のすべてが経済に関連した目的ではないが,個人の目的は経済にとって最も原子的なミクロ目的*である。

個人はさまざまなレベルの中間的組織*に属するが,それらすべてが何らかの目的を持っている。ここで問題になるのは,経済に関わる中間組織である。たとえば,消費と労働供給単位としての家計,生産主体としてのさまざまな企業,あるいは政府や公的な団体などがある。これらの中間組織の目的*は個人の目的に対してはマクロ目的であり,個体群の場合と同じようにマクロ目的*クロ目的}とミクロ目的*の間の対立と統一の問題ががあらわれる。

経済の場合,最も問題となるのは,一つの国民経済全体としてのマクロ目的とそれに対応したミクロ目的である。このときミクロ目的は,個人の目的というよりも主要に家計や企業といった経済的中間組織*の目的*である。このミクロ目的の存在は容易に認めることができても,市場経済*を基本的な組織原理としている経済において,マクロ目的は存在するのか,という疑問が生じる可能性がある。しかし,完全な自由主義経済*が現実には存在しえないことは歴史的に示されている。市場によって普遍的に組織されている国民経済は,抑制的であるか促進的であるかに関わらず,経済へのマクロ的関与なしには持続不可能なのである。このマクロ的関与を方向づけているのが,国民経済のマクロ目的に他ならない。そして,近代工業社会*においてマクロ目的*クロ目的}は経済の成長による社会的剰余の持続的増加である(注23)。

人間の社会においてマクロ目的*クロ目的}とミクロ目的*がどのように調和しまた背反しているかは,社会科学の基本的問題*である。アダム・スミスの「見えない手(an invisible hand)」*という概念は,経済におけるマクロ目的とミクロ目的の整合性についての一つの洞察をあらわすものである(注24)。そこでは,ミクロ目的*が必然的にマクロ目的を促進する側面,その方向での調和が強調されている。つまり,経済主体がみずからの利益を追求し行動することは,結果として経済のマクロ的な目的の増進に貢献するとスミスは主張する。

これに対して,スミスに少し遅れて登場した哲学者のヘーゲルは,マクロ目的*クロ目的}(ヘーゲルにおける絶対精神*あるいは理念の普遍性に対応する)そのものが主体的にその実現をめざす側面を強調する。したがって,ミクロ目的*との関係では単なる調和だけではなく対立の存在もまた示される。哲学的歴史観を語るヘーゲルは,調和ではなく二つの目的の間の葛藤,および結果的にマクロ目的がミクロ目的*をあざむきながら貫かれるという側面を強調する。ヘーゲルはそれを「理性の狡智(List der Vernunft)」*と呼んだ(注25)。この,ヘーゲルにおけるマクロ目的*クロ目的}とミクロ目的*の関係の描写はダイナミックである。ヘーゲルにとって歴史はミクロ目的なしに,すなわち個人の情熱なしには実現しえないが,そのミクロ目的とはまったく異なったマクロ目的が,ミクロ目的を踏みにじりながら自己を貫徹する側面が強調される。「個人は犠牲にされ捨て去られる」のである。ヘーゲルの議論には,生物システム*のもつ構造化された目的*のダイナミズム*に対する正確な認識があらわれている。

二重化された目的*に関するこのようなダイナミックな議論とともに,市民社会*を分析するヘーゲルにはマクロ目的*クロ目的}とミクロ目的*の対立と調和をどちらかといえば静学的に描写する議論も存在する。すなわちヘーゲルは市民社会を,理念が普遍性と特殊性に分裂した社会としてとらえる。理念の普遍性とはここでいうマクロ目的であり,特殊性とはミクロ目的である。特殊性がもつ欲求は普遍性と整合的でない限り実現できない。特殊性を担う人格としての個人に権利としての自由を与えながら,みずからの欲求の実現はかならず他の個人の欲求の実現を必要とするために,普遍性との整合性が要求されるのである(注26)。

以上のように生物システム*は,生態系も経済も目的を構造化することによって物質循環がもたらす秩序の拡散に抵抗し,秩序の能動的な形成を行なっているのである。そして,この目的の構造化*とは,目的がまた目的に依存しているという点で,再帰的なものである。さらに,このような形で目的が構造化するところに,有機体,あるいは生物システムとそれを構成する部分システムの本質的特徴がある(注27)。

8 節 システム進化とマクロ目的   (副目次へ

生物システム*のマクロ目的は,さまざまな主体のミクロ目的およびそれらの複合から相対的に独立に存在している。そして,このマクロ目的はシステムを構成する個別主体の目的に対して,究極的優位性をもつ。つまり,一時的には主体のミクロ目的によってシステム全体が翻弄されるように見えても,時間をより長い視野でとらえれば,システムのマクロ目的がミクロ目的をもつ個別主体の運命を規定するのである。このマクロ目的の優位性*クロ目的!のゆういせい@---の優位性}の原因を理解することはそれほど困難ではない。*生物システムにおいては,個別主体はシステムから独立に存在できず,また全体的なシステムの優位性に個別主体の存在の確かさが規定されているからである。生態系においては,それに属するさまざまな種の個体群の生存は生態系がもたらす環境に直接的に規定される。人間もまた,もともと生態系の一員だったが,火や道具の使用および言語による情報の集積によって,この直接的規定性から相対的に自由となった。それでも,個人の生存条件は経済というシステムに直接に結びつけられているのである。

しかし,これだけではマクロ目的のミクロ目的に対する優位性が貫かれる過程が明確になっていない。たとえば,二人の個人 A と B について,A のミクロ目的が B のミクロ目的に対して優位にあるという場合,何らかの理由が存在しなければならない。たとえば,B は A の奴隷であるとか,B は A から暴力的に脅されているとか,借金があるなどの理由が考えられる。あるいは,食物連鎖の過程で下位の生物のミクロ目的が上位の捕食者のミクロ目的によって踏みにじられることについても,理解可能である。これらと同じように*生物システムの目的の構造の中でミクロ目的がマクロ目的に規定される理由,過程が明らかにされなければならない。

ミクロ目的に対するマクロ目的の優位性*クロ目的!のゆういせい@---の優位性}の理解を困難にしている原因は,われわれの観察可能性と関連している。すなわち,生物システムにおけるマクロ目的の主体は,それに対応しているミクロ目的の主体に比べて直接的な観察可能性*が弱い,ないしは存在しないことである。生物システムにおけるマクロ目的の主体は抽象的なものとなる。たとえば,国民経済の全体はそれを構成する個別の家計や企業といった主体に比べて抽象的な存在である。経済のマクロ目的*クロ目的}はそのシステムとしての全体が主体であるが,企業に比べれば抽象性は高い。もちろん,企業もまたそれを構成する具体的個人に対しては,マクロ目的の主体なのであるが,この個人に比べれば抽象性は高くなる。生態系のマクロ目的も,それを構成する個体群のミクロ目的に比べれば,明らかに抽象性が高い。たとえばアリという個体群の目的性に比べれば,それを含む森林生態系*の目的は抽象的である。

この観察可能性の問題は,一面では個別的人間の時間の限界に関連している。人間が直接観察可能なのは,かれが生きている期間に限定されているのである。さらに,個人としての観察者にとって,最も親しみある目的がミクロ目的であることは,かれの観察する目的に対する理解の強さがミクロ目的*の方に偏りをもつ根本的な原因であるのかも知れない。しかし,*生物システムを理解するためには,ミクロ目的よりもマクロ目的を理解することが重要なのである。

ここではまず,人間にとって相対的に遠くにある存在であるために,理解がより困難であると思われる生態系について,マクロ目的がミクロ目的を規定するメカニズムを明らかにしよう。生態系のマクロ目的に関する具体的仮説は,次章で提起するが,ここでの議論においてはマクロ目的そのものが何か明確でなくてもよい。まず,生態系にマクロ目的が存在することから必然的に帰結される一つの進化に関する仮説を提示しよう。この仮説の前提としてまず,進化論でいわれる自然選択*は個別的な種に対して適用されるだけではなく,さまざまな種から構成される生態系のシステム全体に対しても適用されることを認めなければならない(注28)。そして仮説は,個別種に関する自然選択とシステムに関する自然選択の関係について,後者の上位規定性を主張するものである。すなわちそれは,

*生物システムに対する自然選択は個別主体に対する自然選択に対して支配的である

という命題として表現できる。これをここでは, システム進化の仮説*と呼ぶことにしよう。

生態系における個別主体の自然選択*とは,ダーウィンによって創始された伝統的進化論*と基本的にその系譜上に位置づく進化論を念頭においたものである。すなわち,与えられた環境により適するように変位した種が,他の種に対して競争上優位にたつことによって選択(=自然選択)され,進化が方向づけられるというものである(注29)。また,アリなどにあらわれる社会性の進化*についても,同一種内の進化でありこのような個別主体に関する自然選択であるという点では同じである。受粉する昆虫が受粉される植物と相互に相手を特殊化する方向で進化するなどの共進化*の場合も,種が限定され,システムまで広がるものではないという意味で,この系譜に属している(注30)。環境に対して有利でも不利でもない,その意味で中立的な遺伝的変異が進化に支配的な影響を与え,自然選択は有害な変異を除くために働くとする進化の中立説*も,自然選択に対する位置づけは伝統的なものとは異なるが,個別主体に注目する点では同じ系譜に属する(注31)。

これに対して,システムの自然選択*という考え方はやや複雑になる。生物システムは単にそれを構成する個別主体の集合ではない。主体間の関係の仕方,それと不可分の関係にあるバランスも含まれる。個別主体は,それぞれ生命の繰り返される更新の中でも保持されている特質をもち,それは一種の蓄積された情報である。ある生物システムが自然選択される,あるいは逆に淘汰*されることは,これらの全体の有利性,不利性が問題になるのである。そして,ある生物システムが,与えられた環境の中で代替的な生物システムに対して選択されるのは,システムの全体としての有利性の帰結なのである。複雑な点は,システムを構成するそれぞれの主体がまた他の主体とのあいだで選択的有利性*をめぐって競争関係にあることである。

分かりやすくするために,*生物システム間の差異性を,構成する種の違いに代表させて考えてみよう。いま X という生物システムが a, b, c という異なる種から構成され,同じく Y という生物システムが a, d, e ,Z という生物システムが a, c, d という種から構成されているとしよう。この三つのシステムともに,与えられた環境のもとで持続可能であり,簡単化のためにこれら以外に持続可能なシステムの構成がありえないとしよう。生物システムが持続可能であるとは,与えられた環境の中で,物質やエネルギー,あるいは受粉サービスなどの用役も含めてバランスがとれ,システムの再生産が維持できるということである(注32)。この環境の中で,これ以外に持続可能なシステムが存在しないということは,a という種は競争にさらされることもなく安定してその存在を確保できることを意味している。しかし,他の種は生存をかけた厳しい競争関係の中にある。

いま,ある客観的な指標が存在し,それにもとづいて環境の中でのシステムの優位性が与えられるとしよう。この指標を \Re( ) という関数であらわそう。 \Re(X) は生物システム X の優位性を与える(注33)。このシステムとしての優位性とは,環境による撹乱に対する頑強性や安定性,あるいは環境における物質循環の場の強度などの条件に対するシステムとしての優占性などの形であらわれるものである。いま仮に,システムとしての優位性が次のように与えられたとしよう。

Y>X>Z

すなわち,十分長い時間的視野の中では Y というシステムが選択されるのである。この環境の中で,撹乱などをとおして三つのシステムが無差別にあらわれる時期もありうるだろう。しかし,結果的に繰り返し Y が選択され続けることによって,そのシステムを構成する個別の種の遺伝子*コードの中に,最初からできる限り効率よくそのシステムを選択するような傾向が書き込まれることになるだろう。これは,みずからの生活形式がそのシステム選択を容易にするような種が,より確実により効率よく存在を確保できることを意味している。

このことは,生物システムを構成する個別主体の競争にどのような影響を与えるであろうか。種としての,c と d は持続可能なシステムの中の二つのシステムのもとで生存が可能になるという点で,他の b や e とは異なっている。それぞれの種はいかなる状況のもとでもみずからの存在を確保するために闘争する。これは普遍的な原理である。b や c という種も,その存在を可能にするシステムは現存する環境のもとでは最高の優位性を確保できないということはあっても,みずから生存のための闘いを放棄することはありえない。c にとっては Z というシステムの中で存在するよりも,X というシステムの中で存在する方が,高い確率で持続を実現できる。したがって,c は d と共存するよりも b と共存する方が望ましく,また,d にとっては c との共存よりも e との共存が望ましく,この意味で,d と c は厳しい相互排除の競争を行なう。そして,d は e を,その存在が何らかの意味でみずからの犠牲,たとえば個体群規模の縮小をともなうものであったとしても,システムの共存者として迎え入れるために努力するだろう。これは一種の利他主義*(altruism)が働く可能性を示唆している。同じことは,c にとっての b についてもいえる。しかし,結果的に,この環境のもとでは,d の競争と共存に関する戦略が c に対して勝ることになるのである。

これらの,個別種のみずからの生存をかけた闘争は,すべて個別種に関する自然選択*の結果としてあらわれるものである。しかし,ここでみたような形で,システムに関する自然選択が個別種の選択の結果を支配することになる。個別種の生活様式や,行動はマクロ目的に規定されている。この*生物システムとしてのマクロ目的は,システムの優位性 \Re( ) を増加するように,構造を組織することに他ならない。システム進化の仮説*は,進化がミクロ的なものとマクロ的なものに二重化されていることを認め,ここに述べたようなメカニズムをとおしてシステムレベルの選択が優先する形で進化が実現することを示しているのである(注34)。

システム進化の仮説は,マクロ目的のミクロ目的に対する優位性*クロ目的!のゆういせい@---の優位性}が生態系という生物システムにおいて貫かれることを表現している。経済という,人間によって構成される生物システムについてもマクロ目的の優位性は貫かれ,そのプロセスは生物システムと根本的に異なるものにはならないだろう。ヘーゲルの歴史認識における「理性の狡智」*という概念と論理は,明らかにこのマクロ目的の優位性をあらわしている。人類史上でも,一つの経済的システムが別の経済的システムに置き換わる現象は無数に発生してきた。したがって,システム進化の仮説はこのような人間のシステムについても妥当する可能性は十分に存在する。確かに,生態系におけるシステムの繰り返される選択が,全体として種の変異がわずかな状態で行なわれる期間は,農業の開始以降の経済というシステムに関して繰り返されてきた期間と比べると比較にならないくらい長い可能性がある。したがって,経済においてはシステム進化の仮説が妥当するほど,選択の繰り返しが行なわれていない可能性が存在する。ただし,生態系において生物種が遺伝子*の中にマクロ目的との整合性を刷り込むのに必要な時間に比べ,経済において,文化として個別主体のマクロ目的との整合性が蓄積されるために必要な時間がはるかに短いという点に注目しなければならない。すなわち,生態系の個別種が繰り返されるシステムの選択から学ぶのにかかる時間に比べ,人間が歴史から学ぶのにかかる時間が短いために,生態系より短い時間で優位なシステムの選択が行なわれる可能性は存在する。

また,人間の社会や経済はマクロ目的とミクロ目的の対立を緩和するようなシステムの構造を作り上げることができる点で,生態系などの*生物システムとの著しい違いが存在することもみなければならない。経済や社会のマクロ目的が民主的手続き*によって形成されれば,個人や中間組織*のミクロ目的との対立が緩和される可能性が存在するわけである。このようなマクロ目的とミクロ目的の対立の緩和はシステム進化の仮説の妥当性を弱めることになる。しかし,それでも経済が*生物システムである限り,ミクロ目的とマクロ目的の対立を完全に排除することはできない。

全体として,システム進化の仮説*は,生態系においてはもちろん経済においてもまた妥当する可能性は高いといわざるをえないのである。

9 節 目的論の復権   (副目次へ

生物システム*における秩序が目的*の機能として与えられることを認めるならば,生物システムに関わる秩序の自己形成機能と現象の認識あるいは理解も,それを規定する目的と関係づけられることによって行なわれなければならないことになる。生物システムは,選択可能性のない,自由度*のない,力学システム*のようなものとしてのみ扱うことは不可能である。選択的に行なわれた変化や運動は,それらの結果的な合理性をあらわす目的との関係が明確にされることによって理解可能になる。これは科学の世界に目的論*を新しい形で復活させることを意味している。すなわち神の目的*でも絶対理念*のような目的でもなく,長い進化の過程の中で獲得した無限に多様な形態の目的がはめ込まれることによって,生物システムは変化と運動を繰り返していると見るのである。

生物システムに目的論的なアプローチをとることの最も重要な意義は,それによってマクロ的に形成される秩序の理解をえることができることである。このアプローチによって生物システムのマクロ的現象を,ミクロ目的*やそれによる秩序の集合としてとらえるのではなく,逆にマクロ目的からミクロ目的の意義や限界をとらえることができるようになる。たとえば,生態系の場合,単に個体群の生存のための活動の集合として,生態系の全体的な秩序をとらえるのではなく,生態系が個体群の目的を超越した統一的な目的をもっていることを前提とし,それによって形成されるマクロ的な秩序にミクロ的な目的が従属している側面を見なければならなくなる。経済の場合も,ミクロ的な主体の秩序からマクロ経済の目的*クロ経済の---}があらわれるというのではなく,経済が秩序あるシステムとして存在している限り,マクロ的な目的がミクロ的な目的から相対的に独立して存在していると見なければならないのである。

さらに重要なことは,目的論*によって生物システム*の秩序を認識していく作業をおし進めることで,生物システム全体のあるべき秩序についての理解が深まる可能性があるということである。すなわち目的論は,あるシステムの秩序をそれを含むより大きなシステムの秩序の中に位置づけることを必然的に要求する。経済にとって*環境である生態系と,経済そのものの秩序との共存を可能にするような生物システム全体の目的は,生態系と経済をそれぞれ目的論的に認識する作業の結果としてのみ与えられるだろう。

この認識論としての目的論*という立場は,基本的にカントが目的論に与えた意義に一致している。カントはニュートン力学*もふまえて,すべての事象が機械論的に説明されなければならないと主張しながら,もう一方で目的論的原理*の必要性も認める。カントは説明されるべき現象の中に,特に有機体にあらわれる現象の中に機械論的原理*では説明できないものが存在することを認めていたのである(注35)。

ただし,極端で観念的な目的論*に陥ってはならない。つまり,生物システム*全体あるいはその部分システムについて,現実的な根拠をもちえない超越的な目的*を与えてそれによって現象を説明しようとするような目的論であってはならない。それは,すべての現象を超越的な神の意図によって説明しようとする目的論と同じように現象に対する理解を歪める。そもそも生物システムやその部分システムにおいて,秩序そのものがなんであるかが単純に決定できないのである。たとえば,生態系はどのような秩序のもとに変化と運動を繰り返しているのか,という点すら現在一般に受け入れられた説が存在しない。そのような,秩序すら把握できないところでは,当然,目的も与えられない。ミクロ的な目的との関係で与えられるマクロ目的*クロ目的}は,生物システムおよびそのさまざまなレベルの部分システムにおいて正確に与えられていない場合が多いといってよい。したがって,ここでの目的論は,現象を統一的に説明するような,さまざまな要素の間の統一的秩序を与えるような目的を見い出すことの重要性を示すという意味での,方法的な枠組みを示したものであると考えるべきである。

本章の目的は,物質循環という,太陽のエネルギーによって駆動されながら地球が不断に行なっている物質の繰り返される運動の中に,生態系も経済も位置づけようというものだった。もちろんそれは,非生物的,物理的運動としての物質循環に,生物的な物質の運動主体である,生態系や経済を解消してしまおうというものではないし,またそうであってはならない。物質循環の生物的側面は,秩序の形成,より具体的には目的が機能しているという点に,集中的にとらえられることを示した。議論は一般的あるいは抽象的な側面をもたざるをえなかったが,この枠組みを基礎にしてはじめて,具体的な生態系や経済の機能を統一的にとらえることができるのである。



脚注

(1)角皆~ 。吉良~ , p.3。(もどる
(2)宝月~ , p.75。(もどる
(3)この点で興味深いのは,地球規模での気候変動を引き起こす*地球温暖化問題をめぐって,二酸化炭素のミッシングシンク*が北半球中緯度あたりにあり,それが二酸化炭素の濃度の上昇による森林の光合成*の促進にあるのではないかという説である。これは二酸化炭素が植物の制限要因*になっていることを前提にした説である。田中~ 。(もどる
(4)北野~ 。(もどる
(5)田瀬~ 。(もどる
(6)Odum~ 。(もどる
(7)宝月~ , p.69。勝木~ 。(もどる
(8)ホイッタカー~ , p.205。(もどる
(9)松本~ 。(もどる
(10)アレロパシーとは,化学物質を媒介にした植物相互間の促進的あるいは阻害的な相互作用を指す。われわれになじみの深いタンニン*や,カフェイン*もアレロパシーの媒介物質である。アレロパシーは,植物どうしの一種の情報交換を意味するとも考えられる。Rice~ , ホイッタカー~ 。(もどる
(11)安部~ 。(もどる
(12)ラブロック~ 。(もどる
(13)経済システムに関する定義や基本的なモデルは本書の後半でより詳細に与えられる。(もどる
(14)第 6 章を参照。(もどる
(15)本書の第 6 章,第 7 章および槌田~ など参照。(もどる
(16)生態系の構造と機能については次章で詳述する。(もどる
(17)本書 p.\pageref{page:lindeman} 参照。(もどる
(18)生態系におけるエネルギー流の果たしている重要な機能については次章でより詳細に展開する。(もどる
(19)スキーマについては Rumelhart~ 。(もどる
(20)グリック~ , グッドウィン~ , 長島・馬場~ 。(もどる
(21)鈴木~ , 島原~ 。(もどる
(22)アリストテレス~ 。(もどる
(23)本書第 6 章および鷲田~ 。(もどる
(24)「あらゆる個人は,自由になる資本がおよそどれほどのものであろうとも,そのためにもっとも有利な用途をみいだそうと不断に努力している。実をいえば,かれの眼中にあるのは自分自身の利益なのであって,社会のそれではない。ところが,自分自身の利益を考究していくうちに,かれは,自然に,否むしろ必然に,この社会にとってもっとも有利な用途を選好するようになるのである。」, スミス~ , p.52。他にスミス~ , p.281。(もどる
(25)「世界史の中では人間の行為の結果として生ずるものは,それが目指し,求めたもの,それが直接に意識し,また意欲したものとはまったくちがったものだということである」, ヘーゲル~ , p.93,「人間が理性目的*を充すと同時に,またこの理性目的をキッカケにして,内容上は理性目的と異なる自分の個別目的を満足させる。しかし,また進んで,この理性目的そのものに関与するのであって,その点で人間は自己目的なのである」, 同, p.103。また,「理性の狡智」とヘーゲルの機械論との関係を論じたものとして吉田~ , pp.26-56。(もどる
(26)「市民社会においては,各人が自分にとって目的であり,その他いっさいのものはかれにとって無である。しかし各人は,ほかの人々と関連することなくしては,おのれの諸目的の全範囲を達成することはできない。だからこれらの他人は,特殊者の*目的のための手段である。ところが特殊的目的*は,ほかの人々との関連を通じておのれに普遍性の形式を与えるのであり,自分の福祉と同時に他人の福祉をいっしょに満足させることによっておのれを満足させるのである」,ヘーゲル~ , p.414。(もどる
(27)「有機体は,それぞれに自分のために生きている諸組織からなる」, ベルクソン~ , p.66。このベルクソンの命題は有機体からなるシステムにまで一般化されるべきであろう。(もどる
(28)多数の種からなるシステムも自然選択の単位となることを認める進化論の立場(選択の階層理論*)は実際に存在する。柴谷~ の中の太田邦昌氏および河田雅圭氏の論文参照。(もどる
(29)進化論については,ダーウィン~ が現在でも読むべき価値がある。学説史については,ボウラー~ 。(もどる
(30)共進化については石川~ 。(もどる
(31)木村~ 。(もどる
(32)生態系の具体的な構造については次章で明確にする。(もどる
(33)このシステムの優位性に関する仮説として次章で与えるものは群集総呼吸である。(もどる
(34)システム進化の仮説が生態系モデルでどのように機能するのかという点については,本書 p.\pageref{page:sysevo} 以下を参照。(もどる
(35)カント~ 。(もどる



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