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第 6 章 生態系の剰余から経済の剰余へ
  1 節 生態系からの自立と剰余の発見
  2 節 農耕の開始と剰余の自己目的化
  3 節 農業社会の剰余と構造
  4 節 農業社会から工業社会へ
  5 節 労働社会という選択肢
  6 節 剰余と環境危機
  7 節 あらゆる形態の剰余を自然に返す



第 6 章 生態系の剰余から経済の剰余へ   (副目次へ

生態系は,そこに人間が含まれていない場合でも,全体的構造をより望ましい方向に自己組織化する能力をもっている。この能力は,生命誕生以来の想像を絶する長い時間の持続によって作り上げられたものである。人間は大脳*の働きによって意識的に環境*を自己の望ましい方向に改変する高度な能力を有している。文明*という状況はこの能力の蓄積の結果である。しかし,人間もまた生態系の一員である。確かに裸のままの一員ではない。文明という堅いよろいを身につけていて,相対的に自立しているが,豊かな生態系なしには存在を持続させることは不可能である。人間の物的生存条件を確保するための,生態系から相対的に自立したシステムは経済である。この経済もそれを構成する個人や企業といった個別主体のミクロ目的*を超えた,全体構造のマクロ的組織原理を有する生物システムである。生態系と経済という二つのマクロ的組織化原理をもつ生物システムが,物質循環を媒介にしてどのように関係しあっているのかの解明が,本章および残された章の中心課題である。特に本章では,人類史を通観しながらこの二つのシステムの相互関係の分析を行なう。

1 節 生態系からの自立と剰余の発見   (副目次へ

人類進化*の初期の段階を概観すると以下のようになる(注1)。原始的類人猿*から人類の出現の指標を単に直立歩行*に求めれば,その時期は300万年以前にさかのぼる。猿人*に属するアウストラロピテクス・アファレンシス*の足跡がタンザニアの 370〜300 万年前の地層から発見されている。さらに,この猿人はホモ・ハビリス*(約200万年前)へと進化し,この時期には石器が製作されていたといわれる(礫石器)。この石器によって皮はぎや肉の切断を容易にし栄養条件は高まったと考えられる。さらにかれらのあとには,組織的な狩猟や計画的な石器の製作を行なったといわれるホモ・エレクトス*が登場する。これらの猿人類は,基本的にアフリカという地域に生み出され進化*した。人類がアフリカから諸大陸に向けて歩を進めたアウト・オブ・アフリカ*(out of Africa)は次の原人段階(160万〜20万年前)*のことである。この原人段階のよく知られた化石としては,ジャワ原人*,北京原人*などがある。この原人段階になると石器もより高度な技術によって作られるようになり 真に道具らしい道具としてあらわれる。そしてさらに今日の人類につながる決定的な進歩の跡として 火の計画的使用*がこの原人段階に至って開始されるのである。火を使用するための知識が人類の生存可能領域をアフリカから新しい大陸へと広げる条件だった。その後,人類はさらにネアンデルタール人*に代表される旧人(20万〜4万年前)*へと移行し,さらに基本的に形態上現生人*と変わらないクロマニヨン人*ニヨン人}に代表される新人*へと移行していく。

人類の原人段階において火の使用を文化として成立させたことの意義は大きい。猿人から旧人への人類の進化*は,生態系からの相対的自立*への歩みと理解することができる。相対的自立とは生態系が人類の生存の場としての位置を失うことはありえないながらも,生態系が人類に強制する不具合を文化的に克服していくことを意味している。この自立性をもたらす本質的契機としての火の使用の主要な機能は,防寒,食糧の前処理による消化能力の増大*や食糧の多様化*,肉食獣からの防衛である。これらはいずれも受動的なものであるが,狩猟などで獲物を追う,あるいは採集をより効率的にするために乾燥度の高い森林を焼き払うことも人類の文化的知識*の蓄積した段階では行なわれた可能性が高い。世代から世代に受け継がれていった火の使用の知識は計画的な石器の使用とともに,人類の生存条件をよくするための文化というのにふさわしいものであった。この生態系からの相対的自立は,生態系に対する知識を増大させる契機とならざるをえない。そして,その知識もまた文化として世代から世代へ受け継がれ蓄積されていったのである。

人類の原始的段階,旧石器時代*における食糧調達方法*は狩猟・採集*である。狩猟・採集は,人為的な改変が行なわれていないか,行なわれていたとしてもわずかなものにとどまる生態系から植物や動物を直接搾取することを意味している。このような定義においては,他の雑食獣が行なっている食糧調達法と変わらない。もちろん,具体的に*狩猟・採集をどのように行なうかという点では,人類らしい巧妙さがあったはずだが,さしあたってここでは問題にしない。100万年以上にわたってこのような方法で食糧調達が持続したということは,*狩猟・採集が多くの場合,生態系を破壊しない形で行なわれていたということを意味する。すなわち,被食者にとって人類の食糧として捕食される部分は,その個体群の規模を維持するために必要な部分を超えている部分にとどまっているということである。もちろん,人間の狩猟によって絶滅された生物種が存在することは,狩猟が生態系の撹乱要因となりえたことを示している。しかし,人間が閉じた領域の中での移動と,*狩猟・採集によって生存を持続させていた限り,生態系の決定的劣化を引き起こさなかったと考えられるのである。

すでに述べたように,人類は旧石器時代*からすでに生態系からの相対的自立*を開始している。それは,同時に生態系に対する理解の深まりをもたらした。そして,生態系に対する知識*はより体系的なものになり文化*として蓄積されていった。生態系に対する知識の中心的なものは,生態系がもたらす植物性,動物性の食糧に関してでなければならない。たとえば,日本の*狩猟・採集社会であった縄文時代*においては,全体として,動物性食物*として貝類* 300 種以上,魚類約 70 種,獣類 70 種,鳥類 35 種ほど利用していた。また,植物性としては 400 種以上を利用していたと推定されている(注2)。 生態系の生物をこれだけ利用できたということは,それらの生物がいつの時期にどの場所でどれだけの量と質で存在するのか,あるいはそれらからどのようにアクを抜*き食糧とできるのかについて明確な知識を持っていたことになる(注3)。自然の豊かさに直接依存した*狩猟・採集社会であるからこそ複雑な生態系の振る舞いに対する知識は豊かだったのである(注4)。

生態系に対する知識としては,「 生態系からいったいどれだけの食糧供給が可能であるか」という点に関わるものが最も重要である。すなわち,生態系からの搾取可能な量の見積りである。すでに生態系をこうした対象としてとらえていた人類は,生態系にとっての搾取可能な部分が,生態系の持続に必要な部分ではなく「 剰余*部分として存在しているものであることを認識していた。 剰余の発見である。意識ある存在としての人間が生態系から相対的に自立していくことによって生態系自身の剰余*がとらえられることになったのである。

ここで,剰余*の概念*について一定の定式化をしておこう。一般に,経済や生態系という生物システム*にとって剰余とは,対象となっている全システムに対して,それに含まれる部分システムが相対的に自立したものとして認識されたときに,全システムの生産のうち,それを定常的に持続させるために必要な部分以外の,部分システムのために用いられるものを指す。



図(F1) 剰余の概念図

図~F1 において,S が剰余をあらわしている。Y は全システムの生産であり,M は全システム自身が利用する部分である。S が剰余であるためには,このような生産のフローによって全システム自身が持続可能でなければならない。剰余という概念を定義する上で最も困難なものは,部分システムの生産をどうとらえるかである。一般に部分システムもまた生産する。この部分システムの生産も,R のように再び全システムに利用されたり,D としてシステム外へ移出されたりする。しかし,S が剰余であるためには,R が全システムにとって不可欠のフローであってはならない。R の存否は,全システムの*持続可能性に影響を与えないものでなければならない。このことは,R や D の起源としての S が 自由に処分可能なものをあらわしていることを意味している。またそれは,全体システムが一種の冗長性*のある部分ないしは 遊び*の部分をもっていることをあらわしている。

生態系のなかでとらえると人間は一つの個体群である。人間は社会をもった動物の一種であり,生存のための物質的条件を,経済という一つのシステムによって組織的に実現している。人間によってはじめて生態系の剰余*が認識されるのであるが,これを単純化された生態系モデルと,そこでの物質,エネルギーのフローをあらわす表によってあらわしておこう。

外部 植物 動物 分解者 剰余
太陽光 E -Pg
呼吸廃熱 -R Rp Ra Rd
二酸化炭素 \pm C \pm Cp Ca Cd
W -Wp -Wa -Wd
栄養塩類 \pm N -Np Na Nd
植物体 \pm P Pp -Pa -Ps
動物体 \pm A Aa -As
遺体・排泄物 \pm D Dp Da -Dd

表(T1) 生態系の物質・エネルギー表

表~T1 は第 2 章の表~ の概念描写のための生態系モデルの物質・エネルギーフローを表形式にしてあらわしたものである。この表~T1 において,各行は左端に示された物質,エネルギーに関する,各主体の純産出をあらわしている。したがって,それぞれのフロー量をあらわす記号に—(マイナス)記号がついているものは,主体が取り入れている量である。また,\pm (プラス・マイナス)記号がついているものは,純産出になる場合と取り入れる場合の両方の可能性があることを示している。ただし,動物による植物の受粉*媒介など生態系内で交換されている用役(サービス)類は省略している。

ここで, Ps および As*狩猟・採集をとおして人間によって認識された生態系の剰余*をあらわす。しかし,これらが剰余であるためには,ここに掲げられている呼吸廃熱以外の物質,エネルギーについて各行の合計が非負でなければならない。すなわち,各要素について主体の純産出の合計が純利用の合計を下回ってはならないのである。これは先に述べた,全システムが持続可能であるという条件に他ならない。この生態系モデルはやや単純すぎて,剰余の必要条件としての全システム,すなわち生態系全体の*持続可能性の重要性が見えにくい。大事な点は,剰余といえどもこの表でいう植物体や動物体に関するバランスがとれているだけでは不十分だということである。三つの主体である植物,動物,分解者の構成規模の組み合わせがすべての登場している要素についてバランスがとれるようなものでなければならないのである。

*狩猟・採集社会の対象となる生態系は,何らかのマクロ的な自己組織化*原理,マクロ目的*クロ目的}が貫かれているシステムであると考えなければならない。このようなマクロ目的としては,これまでの章で議論してきた,生態系の生物的要素の全体としての群集が生み出す総呼吸を最大にするように群集構造を作り上げるという*最大呼吸仮説がある。生態系の柔軟性*が高ければ人間によって搾取される剰余が存在しても,生態系全体の能力をあらわす指標である*群集総呼吸は不可避的に低下するわけではない。柔軟性の高い生態系であれば,搾取の中でも能力を劣化させないバッファを蓄えている可能性もある。しかし,人間による搾取によって生態系が最大能力を実現する条件は一般に悪くなる。ただ,重要な点は,このような*群集総呼吸の最大点から低い状況を強制されたとしても,それがただちに生態系の*持続可能性の喪失を意味するわけではないということである。生態系の構成主体のバランスは最適ではないが,物質やエネルギー,さらにはさまざまな用役のバランスに関連している主体の存在を剰余とともに可能にするものであれば,持続可能であるといえるのである。

このような生態系における剰余の存在は,それを構成する個体群レベルにおける過剰生産傾向に立脚するものである。もちろん,人類も含めた生態系全体として,個体群としての過剰生産は真の 過剰ではない。個体群はあらかじめ他の摂食者の食糧になることによって減じられる量を見越して新しい個体を過剰に再生産するのである。そしてこの過剰生産が,人類のとらえた剰余の起源である。人類の対象となっている生態系にとっては剰余であっても,人類にとっては 必要な部分となるのである。ここに,剰余から必要への最初のダイナミックな転換があらわれている。

こうした剰余の認識は,人類の個体群の規模,人口の意識的な調整と結びついていたと考えられる。すなわち,一つの局所的な個別生態系において生産可能な剰余が見積られれば,それによって養育可能な環境収容力*(carrying capacity)が与えられる(注5)。その生態系に依存した人類は人口をその収容力に合わせざるをえなくなるということである。そのためには,性的タブー*などによる意識的な人口調整*が行なわれざるをえなかった。

生態系にとっての剰余,人類にとっての必要部分はかならずしも季節ごとあるいは毎年,安定して獲得できるものではない。したがって,獲得食糧の規模を平均化するためには貯蔵が必要になる。このとき,特定の季節あるいは年について,生態系の剰余*が人類にとっての必要を超える場合がでてくる。しかし,その季節,その年にとっては必要を超えてもそれは必要を下回る季節,年によって結局相殺されてしまう。このような不確実性があるために,一定のリスクプレミアム*分だけ平均を上回った量を貯蔵する可能性もある。このプレミアムの存在によって,必要という規模そのものが曖昧になり,人類の側の剰余の意識的生産を準備した可能性もありうる。もちろん,現在の*狩猟・採集社会において確認されているように,集団がまったく危険回避的姿勢をもたないこともあり,その場合はこのような剰余分を蓄積することはなかっただろう。

2 節 農耕の開始と剰余の自己目的化   (副目次へ

旧石器時代*は人類が農耕を開始することによって終わる。農耕はいまから約 1 万年前頃から始まったといわれていた。今日,農耕は単一の起源*をもつのではなく,開始時期に差異はあるものの,いくつかの独立した起源をもつといわれている(注6)。人類最古の農耕*は東南アジアの熱帯雨林の中で根菜を作物にして成立したウビ農耕文化*である。ウビ(ubi)とはインドネシア・マレーシア一帯におけるヤムイモの総称である。地中海地域・オリエント・ヨーロッパなど地中海性の気候の中で成立したのはラビ農耕文化*といわれる。ラビは乾期の冬作物のことをいい麦類が中心となる。さらに,カリフ農耕文化*はアフリカと西インドで成立した粟などのミレット(小穀粒)類を作物にした農耕文化である。最後にカリブ海を中心にとうもろこし,かぼちゃ,じゃが芋を作物として成立したアメリカ農耕文化*がある。これらの農耕文化*は,その中心地から世界に広がっていった。

ここではまず, 農耕とは何か**という基本的な問に答を与えることが必要である。農耕とは,生態系という場を意識的に改変することによって,生態系から獲得可能な食糧を増加させることである。場の意識的な改変は非常に広い内容を含みうる。たとえばある遷移段階の乾燥した植生に火を放つことによって遷移*の経路を変更し,より多く目的とする植物をえるなどというのも明らかに農耕である。しかし,これが農耕らしくないのは土を耕していないからである。確かに,土との関わりを農耕の重要な契機とすることは可能であるが,積極的な意味はない。土壌というのも一つの生態系,あるいは生態系の重要な要素であり,地上の植生もまた生態系の重要な要素である。この意味で両者を区別する必要はない。

農耕は文化が徐々に蓄積していくことによって,進行していったと考えられる。すなわち,農耕とは完全な狩猟・採集社会から,上にあげたような確実な農耕にいたる数千年から1万年にもまたがる気の遠くなるような緩慢な変化の累積の後に生み出されたものであろう。現代人がとらえる技術革新*と普及の時間的経過で農業の成立を考えると大きな誤りを犯すことになる。ワットの蒸気機関*からコンピュータ*が発明されるまでに200年ほどかかったが,農耕の普及という点ではこれくらいの期間は誤差ともいえないくらい短いものである。

農業という技術の開発と普及に関して,主体的契機と環境に関わる契機を同時に考える必要がある。主体的契機として最も重要なものは,*狩猟・採集をとおして生態系に対する知識が徐々に蓄積し,植物・動物を意識的に生育させる試み(馴化:domestication)*が繰り返し行なわれたことであろう。このような意識的生育の試みも簡単に開発されるものではない。生物の生殖の過程に対する理解,生育に必要なものに対する理解がある程度の深さで蓄積されなければ,これらの試みも行なわれない。採集によって食糧として集められた種子が何らかの要因で発芽する。それが放置され植物体を再生する。どのような条件のもとで発芽するかを知るうえで,最も重要なのは水と太陽の機能に対する理解,季節的な条件に対する理解であろう。このようなものが蓄積することによって意識的生育が成功するのである。さらに,意識的な生育によって,野生種*が遺伝的に改変されなければならない。すなわち,野生に存在している生態系の中でしか生育が可能でないならば,植物の栽培*にはつながらない。それは形態としては採集の域を超えない。重要なのは,人工的な生態系の条件の中でも生育可能な変種が発見されることである。変種の発見の積み重ねが,農耕可能な種につながっていくのである。

このような農耕に向けての主体的条件の成熟は必要条件ではあっても十分条件ではない。人類を農耕に向かわせた客観的な契機もまたとらえておく必要がある。一般に,自然環境*の諸条件が変わらずに,*狩猟・採集が生態系に対する必要な知識のもとで十分に管理されて行なわれれば,人類が農耕に向かう積極的な理由は特に存在しない,と考えられている。いいかえれば,狩猟・採集という生活形態が,それ自体で何か常に耐えがたい困難をもたらすものではないということである(注7)。この点は,現代に持続している狩猟・採集社会の状態によって確認されている。これらの社会は,人口の管理のもとで人々に十分な余暇をもたらし,さらに一時的な環境の劣化*にも十分耐えられる生態系に対する多様な知識をもち合わせ,困難を乗り越えることができるようになっている。

人類を農業に向かわせた一つの重要な要因は,生態系に対する知識の累積したもとでの,乾燥化など自然環境の長期的な悪化であったと考えられている。乾燥化*や気温の不適合などによって*狩猟・採集による食糧調達が困難になり,それを補うために環境の劣化に対抗できる栽培種の育成を行なう。そして,徐々に後者の比重が高まっていった。それに対応して,狩猟・採集におけるような移動性の高い生活様式*は変化し,栽培条件の良い地域に定着するようになった(注8)。また,このような農耕化の背景には,人口規模の慣性力*の相対的な大きさが存在したことも十分に考えられる。すなわち,環境の悪化に対して人口規模が十分に縮小できないことによって,対応する地域の*狩猟・採集によって支えられる環境収容力*より人口が過大になっていったということである。

このような初期の農耕に関して,特に注目しなければならないのは剰余*の問題である。狩猟・採集段階においては,食糧を供給する自然の生態系の生み出す剰余を認識するというところにとどまっていた。農耕の開始は人間的な生産の開始*である。そして,*狩猟・採集に比べて面積で測った生態系の規模および食物獲得のために使われる労働時間あたりの食糧獲得量が増加する。この食糧獲得量の増加は,基本的に自然環境の劣化を相殺するために用いられた。しかし,生産技術に対する知識の増大によって潜在的生産能力は必要を超える水準にまで進む。すなわち,必要を超えた部分としての過剰生産の可能性をもたらすのである。ただしこの段階において,過剰生産は何らかの強制において行なわれることはない。そして,この過剰生産*は部分システムによって用いられるものにもなっていないので,剰余と呼ぶことはできない。過剰生産はあくまで一時的なものであり,剰余の生産は持続的,構造的なものなのである。このように,農業が生活維持の支配的な手段となっていながら,剰余の生産になっていない社会を原始農業社会*と呼ぶ(注9)。

原始農業社会おいては加工業が農業とは独立に成立することはなかった。その後,農業生産力の増大は加工業の自立*を促す。そして,原始農業社会は本格的な農業社会へと発展していく。この農業社会は,*狩猟・採集社会とは異なった原理で組織されている。社会編成はより複雑になり,社会の秩序は飛躍的に質の高い段階に突入する。それは,国家が発生するからである。しかし,国家は農業という契機によってのみ発生すると考えるとこはできない。農業と深い関連をもちながらも,それとは劣らない独自の要因が国家の形成には関わっている。国家形成*の直接的契機は物質循環への社会的介入*である。水のグローバルな循環の部分的な流れを人間の制御下におく必要性が,社会制度*をもたらし,さらに剰余生産を自己目的化*する制度としての国家の形成につながってゆく。水の循環への介入とは具体的には,潅漑*のことを指している。そしてこの潅漑は同時に治水*も伴わざるをえない。潅漑が農業用水の人為的な供給システムを指すという点では,この物質循環への介入は農業に動機づけられている。しかし,農業には天水農業*が存在してきたという点を考慮すると,潅漑は農業の不可欠の要素ではない。

歴史上の四大文明*の発祥はいずれもナイル*,チグリス・ユーフラテス*,インダス*,黄河*という大河の流域だったが,それは大河の潅漑による利用が農業の豊かな恵みをもたらしたことの結果である(注10)。もちろん,それらの文明は均質ではなく,河川の性質に対応する多様な性質を保持するものだった。一方,日本においても,弥生時代*以降の本格的な耕作農業の発展は,同時に水路の利用から河川,池を利用した多様な潅漑の発展を意味していた。ただし,四大文明とは異なり,日本がもともと年平均降雨量が高く,かつ潅漑が依拠すべき河川が小規模で分散しているという特殊性は社会制度*の発生に違った刻印を与えていたに違いない。しかし少なくとも,日本の国家の発展過程で,「 公水*の管理は常に重要な課題だったのである(注11)。

四大文明*のような大河を利用しての潅漑は大量の秩序ある労働*を必要とした。労働は,潅漑の造成のために組織されることもあれば,浚渫*などによって潅漑システムを維持すること,さらには河川の監視や潅漑を必要とする主体間の調整などのために組織される。そして,この秩序ある労働を組織するためのシステムが社会制度*である。明記すべき重要な点は,大量の労働に秩序が要求される事実が,水の循環およびその部分過程としての 流れの性質に深く根ざしていることである。農業のような大量の水を利用する場合,その水は小さく閉じた循環とはなりえない。農業の営まれる流域における河川の流れは,その河源からの全体の流れの影響を受ける。さらに厳密には,それが大循環の部分循環である限り,流域を流れ去った後の水の流れの影響もまた受けるのである。そして,この流れはカオス*的な無秩序を常に内包させているため,さまざまな予測不可能性*がつきまとう。ナイル*は,1 年が 365 日であることを人に知らせるほどに毎年規則的に氾濫したが,氾濫の規模の予測不可能性*はエジプト文明*の本質的な不安定要因だった。また,チグリス・ユーフラテス*河は氾濫の時期そのものが不規則だった。このような,マクロ的な無秩序のほかに,ミクロ的にはもっと複雑な予測不可能性*に彩られている。水の流れが内包している無秩序に秩序を与えるためには,その制御に費やされる労働もまた,マクロ的にもミクロ的にも秩序をもっていなければならなかったのである(注12)。

潅漑維持のための労働を組織する社会制度*は,農業を通した社会的な再生産の持続のために必要な労働の相互依存関係として構成される。たとえ,村などの集団や,共同体*から労働を提供させそれを組織するための労働であったとしても,それは社会的に必要とされる用役なのである。したがって,それだけでは過剰生産はありえたとしても剰余の生産はなかった。剰余の生産は,この潅漑が生み出した*社会制度と豊かな生産基礎に,このシステムを政治的に統治する権力者や官僚からなる部分システムが発生すると同時にあらわれた。統治システム*が制度からの相対的独立性を獲得したとき剰余が発生したのである。統治するシステムを部分システムとしてもつような社会システム*が国家*である。この統治システムのために用いられる社会的生産の部分が剰余*である。そして,国家の発生*によって剰余の最大化が自己目的化する。

農業社会において国家の統治システム*は,農業生産のうちの自由に処分可能な部分としての剰余を最大化しようとする。これが社会全体の組織原理でありマクロ的な目的である。農業社会の国家はマクロ目的*クロ目的!のふつしつか@---の物質化}の物質化したものである。

3 節 農業社会の剰余と構造   (副目次へ

農業社会は農業生産物による社会的剰余の最大化を*目的とするところに本質的な特徴がある。その結果として社会的剰余が直接生産者ではなく 土地*に帰属させられ,土地*の生み出したものとみなされるという重要な特徴を有している。剰余は労働の成果ではなく,まずなによりも土地*の恵みなのである。問題にしなければならないことは,この 土地*という概念である。農業にとっての土地*とは,地表の一定の区分された領域であり,土壌を保持している場である。そして,土壌とは物理的,生物的な作用によって長い年月をかけて形成された特殊な物質である(注13)。しかし実は,剰余が帰属させられる対象としての土地*は,それ以上のものである。土地*はまず,保持されている土壌それ自身が無数の多様な生物をそこに住まわせている。また,土地*には太陽エネルギーがふりそそぎ,大気や水の物質循環にさらされ,さまざまな動物や植物の繁殖可能な空間となっている。そして,このようなものの全体の総称が土地*なのである。言い換えれば,農業にとって土地*とは生態系そのものである。

剰余を土地*に帰属させることは,農業社会がみずからの存在条件を正しくとらえていることの証明である。すなわち農業社会が生態系の剰余*によって持続可能になっていることを反映しているのである。

このことをふまえて,農業社会の構造を簡単なモデルであらわすことにしよう。

農業 工業 消費 生産
直接生産者 剰余から
-W1 W2 W3 W4 --
栄養塩類 -N2 -- -- -- --
植物体 Ps -- -- -- --
動物体 As -- -- -- --
遺体・排泄物 -- -- D3 D4 --
土地 G -- -- -- --
農業生産物 X11 X12 C13 C14 Y1
工業生産物 X21 X22 C23 C24 Y2
労働投入 L1 L2 -- -- \bar{L}
剰余 S1 S2 S3 -- --
生産 Y1 Y2 \bar{L} -- --

表(T2) 経済表

表~T2 は,モデルに関する経済表を生態系に接続するようにあらわしたものである。主体の区分としては農業,工業そして消費だけからなる経済を考えている。消費は,経済行為をあらわすというより生産物を消費する主体をあらわす。そして,消費は直接生産者による消費と剰余から支出される消費に区分されている。直接生産者*とは生産の維持に不可欠な労働を支出する主体をあらわす。要素の区別としては表~T1 にあるもののうち,ここでも掲げる必要なもののほか,農業生産物と工業生産物そして労働を考えている。ただし,ここでの農業生産物はさまざまな現実の農業生産物を一般的に代表しているというより,主食としての穀物(米,麦など)をあらわしている。また,土地*については後に述べるように生態系規模を代理する概念であり,生態系とは独立の要素として存在するものではない。また,剰余についても後に詳しく検討する。

掲げている記号は 1 年間のフロー量をあらわすと考えればよい。行と列の生産の欄にかかれている記号以外は基本的に投入量をあらわし,非負の量である。ただし,農業部門における水と栄養塩類は,労働と工業生産物を用いた,生態系に対する潅漑による水と肥料の供給をあらわし,非正の値となるのでマイナス記号をつけている。主体は,左から 1 〜 4 までの記号で区別し,要素については農業生産物を 1 ,工業生産物を 2 の番号で区別している。Xij は第j主体による第i生産物の投入,ないしは消費をあらわしている。したがって,X11 は農業生産のために必要な農業生産物それ自身であり,たとえばこの農業生産物を米によって代表させれば,種子としての種籾*あるいは稲藁*である。農業生産においては,このようにみずからの生産物を巧妙に利用することが広く行なわれている。X21 は農機具や肥料などのさまざまな工業的加工品の投入をあらわしている。X12 は工業生産における加工品原料としての農業生産物をあらわし,X22 は工業生産のための工業生産物自身の投入をあらわす。

C13 は直接生産者*,すなわち農業社会においては農民や職人などによる農業生産物の消費をあらわす。C23 は直接生産者*による工業製品の消費をあらわすが,前近代としての農業社会においてはこの部分は大きな意味をもたないと考えるべきである。なぜなら,農民や職人の直接生産者*は,このような加工品の多くを自給的に確保していたと考えられるからである。したがって,このC23 をゼロとみなしてもよい。ここでは,後の議論の一般化のために掲げておくが,C23= 0 としても,以下のすべての結論にまったく影響を与えない。また,C24 は農業社会の支配階級による奢侈財*としての加工品の消費である。

また,この表では古典派経済学*にならって人間の労働能力もほかの財と同じように生産されるものであり,労働投入も一つの生産物の消費として扱っている(注14)。つまり,直接生産者*は財の消費 C13, C23 によって,\bar{L} 単位の支出可能な労働能力を再生産すると考えるわけである。すなわち,直接生産者*による C13, C23 の消費によって \bar{L} 単位(たとえば \bar{L} 時間あるいは \bar{L} 日)の労働として支出可能な労働能力が生産され,L1, L2 単位の労働が実際に支出されたことを表~T2 はあらわしている。

Dj は消費主体からの排泄物である。次章でもふれるが,日本の近世社会がそうであったように,農業社会においては物質循環の観点からこの部分の生態系への回帰が重要な意味をもっていた。

農業社会においては,農業部門の生産に関わる -W1, -N2, Ps, As などが土地*の生産性として総括される。さらに農業社会は,表~T1 にあらわれている生態系の相互依存関係の全体が単に土地*とあらわされるという重要な特徴を有しているのである。それによって,実際には,生態系の剰余*生産能力であるものが,土地*あたりの農業生産物の生産性にすり替えられてしまう。表~T2 における G はこの生態系の規模をあらわす指標としての土地*の量である。一般にそれは,農耕地の広さによってあらわされる。しかし,日本の近世までの農業における苅敷*などの肥料を調達する山林などを考えると,単に農耕地だけでは生態系の能力をあらわしきれない。その場合は,生態系全体に関わる条件が農耕地の質の差に組み入れられているとみなされなければならない。そして,生態系の能力は土地*に対する生産量の関係によってとらえられることになる。具体的には Y1/G は, 1 単位の土地*あたりの農業生産の規模であり,土地生産性*をあらわし,農業が依存している生態系の能力を,農業の側から表現したものになるのである。もちろん,それは生態系自身が潜在的に有している能力をあらわすものではない。すでに述べたように,*最大呼吸仮説によれば生態系の自己組織化**群集総呼吸の最大化に向かうべきだからである。

農業社会における剰余は,「 農業部門によってのみ生産される」と,「 農業生産物だけで測られる」という二重の意味をもっている(注15)。前者は価値的な定式化であり,後者は物的な定式化といえる。前者が価値的な定式化であるとは次のような理由による。社会的剰余が農業部門でのみ生産されるというのは,表~T2 において,

S1>0, S2 = S3 = 0    (E1)

であることを意味する。この剰余はそれぞれの部門の生産物から,同じ規模の生産を維持するために必要な投入を差し引いたものであるが,このような演算は異なった要素を共通の単位で測ることなしには不可能である。すなわち,異なった要素に共通の価値評価が与えられなければならないのである。

このような農業社会と整合的な価値体系の定式化の前に,剰余の物的な定式化の方を先に行なうことにしよう。表~T2 における物的に定式化された剰余は,C14 と C24 であらわされる。しかし,これは社会的剰余*が農業生産物と工業生産物の両方によってあらわされていることになる。農業社会における剰余の物的定式化*は,剰余が農業生産物でのみ測られるということであるから,ここでの C14 と C24 では農業社会の剰余を正しくあらわしていないことになる。そこで,社会の編成の技術的状況が変わらないことを前提にするならば,農業生産物で剰余をとらえるためには, C24 にあらわれた剰余生産能力を農業部門の剰余生産*に代替させる必要がある。農業社会でも現実には C24 が存在するが,それは本来農業生産物の剰余を奢侈財*の生産のために転用したものと,考えなければならないのである。

そこで,農業生産物だけであらわされた社会的な剰余量の全体を Sa とし,この剰余の生産のために必要となる各産業の生産量,投入量,直接生産者*の消費を,表~T2 の対応する記号に '(プライム)をつけたものであらわすことにしよう。このとき,農業生産物の剰余は,

Sa = Y1' - (X11' + X12' + C13')   (E2)

であり,工業生産物の剰余は存在しないので,

Y2' = X21' + X22' + C23'   (E3)

である。また,労働の必要量を L1', L2' とし,直接生産者*の消費 C13', C23' によって再生産される全労働能力を \bar{L}' とすると,

\bar{L}' = L1' + L2'   (E4)

でなければならない。この最後の式は,再生産された労働能力がすべて支出されているという意味で,労働で測っても剰余が存在しないことをあらわしている。農業社会において国家*は,この剰余 Sa を最大限実現できるように社会を直接組織する。すなわち,人や資源を配分し,生産のための技術を選択しそれを革新する。

一方,この剰余の*物的定式化に対して,価値的な定式化は次のようになる。生産技術の水準が一定の高さにあり,かつ直接生産者*に対する財の分配が一定の低さに抑えられるという条件のもとで,(E1) の状態を実現するような価値体系が存在する。いま,農業生産物量で測った工業生産物 1 単位と労働 1 単位の価値を v2 と v3 でそれぞれあらわすことにしよう。このとき,農業部門でのみとらえられる剰余 S1 は,

S1 = Y1'-(X11'+v2X21'+v3L1')   (E5)
v2Y2'=X12'+v2X22'+v3L2'   (E6)
v3\bar{L}'=C13'+v2C23'   (E7)

である。すなわち,(E1) であらわされるように,農業部門にだけ,生産物の価値からその生産のための総費用を差し引いても剰余が残るのである。この S1 が価値的に定式化された剰余である。そして,農業社会ではこの剰余が土地* G に帰属させられる。すなわち,土地* 1 単位の帰属価値*の農業生産物であらわしたものを vg とすると,

S1 = vgG

となるのである。

この価値的に定式化された剰余 S1 と物的に定式化された剰余 Sa は,実はまったく同じ値となる。すなわち,Sa = S1 である。 このことは,(E3)式の両辺に v2 をかけ,(E4) 式の両辺に v3 をかけ (E2) 〜 (E4) までを辺々それぞれ足しあわせたものと,おなじく (E5) 〜 (E7) までを合計してえられる式を比較することによって,簡単に確かめることができる。

剰余の価値的定式化*を与えるところの,農業生産物を価値基準財とした価値体系は,農業生産物,工業生産物,労働という三つの価値,すなわち,1,v2,v3 の相互の比が変わらない限り,農業部門にのみ剰余を発生させるという性質を保持する。したがってそれだけの意味では,農業生産物を価値基準財とする必然性はないのである。すなわち,この比の維持だけが問題なのであり,たとえほかの生産物で測ってもこの比が保持されている限り,その価値体系は農業部門にのみ剰余を発生させるものとなるのである。しかし,農業生産物で測らない限り,物的に定式化された剰余との同値性は維持されない。このことの意味は重大である。農業社会が農業生産物で測られた剰余を最大にするように組織されることは,この社会が農業生産物に特別な優位性を与えていることを意味する。つまり,物的に定式化された剰余が他の財で測られることは農業社会ではありえない。したがって近世の石高制*がそうであったように,価値は農業生産物,特に主食としての穀物で測られなければならないのである(注16)。

さらに本質的なことは,これらの価値が,それぞれの要素の農業生産物で測られた剰余生産への貢献度*をあらわすものとなっていることである。この点をとらえるために,モデルを線形モデルとして構成しよう(注17)。すなわち,各産業の 1 単位の生産のために必要な要素の量は一定であり,要素間の代替が不可能であるとする。そして,投入係数を,

aij = (Xij')/(Yj') i,j = 1,2
lj = (Lj')/(Yj') j = 1,2

としよう。これらの係数は,二つの産業の技術をあらわし生産量の変化に対して不変であり,以下の全体の議論を通して同じ記号を用いている限り同一の技術であるとしよう。また,1 単位の直接生産者*の労働能力を再生産するために必要な農業生産物と工業生産物を次のよう定義しよう。

di = (Ci3')/(\bar{L)'} i = 1,2

これらの係数もまた,規模に関して不変であり,農業生産物と工業生産物の間の代替ができないと想定しよう。また,1 単位の農業生産に必要な耕地を g であらわすと,耕地面積 G から農業の生産水準が次のように与えられる。

Y1' = (G)/(g)

このような前提をおくと, (E2) 〜 (E4) は次のように書き換えられる。

Sa = (1-a11)Y1' - (a12Y2' + d1\bar{L}')   (E8)
Y2' = a21Y1' + a22Y2' + d2\bar{L}'   (E9)
\bar{L}' = l1Y1' + l2Y2'   (E10)

ただし,労働能力の再生産過程*で農業生産物の剰余が生まれない,すなわち(E7) を前提にしている。この式の体系について少し説明を加えておこう。まず,すべての係数,すなわち,G, g, aij, lj, di などは非負であるとしよう。ただし議論を意味あるものにするために,G, g は厳密に正であることを前提にする。したがって,Y1' は正で与えられる。さらに,Y2', \bar{L}' が非負で,剰余 Sa が正になるためには,次の二つの条件が係数に関して成立していなければならない。

1-a11-d1l1 > 0   (E11)
(1-a11-d1l1)(1-a22-d2l2)-(a12+d1l2)(a21+d2l1) > 0   (E12)

この二つの式は,剰余が生まれるための社会の技術的水準,労働再生産のため必要な消費水準に関する必要かつ十分な条件である。以下,この剰余条件*の成立を前提にする。また,この剰余条件が成立することは,次の条件も成立することを意味している。

1-a22-d2l2 > 0   (E13)

逆に,この (E13) と (E12) が満たされれば自動的に (E11) も満たされる。

いまこの状態から,工業生産物が Δ K だけ追加的にこの経済に供給されたと想定しよう。このとき,内部的な工業生産を減少させることが可能になり,原材料として必要とされていたものや必要な労働量の減少によって剰余が増加する。

この剰余の増加加量は以下のように求めることができる。いま,Δ K にともなう工業生産物生産量の変化量を Δ Y2 ,総労働量の変化量を Δ \bar{L} とすると, (E9) より,

Δ K + (Y2' + Δ Y2) = a21Y1' + a22(Y2' + Δ Y2) + d2(\bar{L}' + Δ \bar{L})

が成立する。ただし,Y1' は g および G によって規定されているので,一定である。この式と (E9) を比較することによって,

Δ K + Δ Y2 = a22Δ Y2 + d2Δ \bar{L}   (E14)

をえる。また, (E10) より,

\bar{L}' + Δ \bar{L} = l1Y1' + l2(Y2' + Δ Y2)

をえる。(E10) と比較すると,結局,

Δ \bar{L} = l2Δ Y2   (E15)

が成立する。(E14) および (E15) を Δ Y2 について解くと,

Δ Y2 = - (Δ K)/(1-a22-d2l2)

となる。すなわち,Δ K だけ追加的に供給されると,Y2' が |Δ Y2| だけ減少することを意味している。したがって,(E8) を考慮すると工業が原料として投入する農業生産物の減少分は,a12Δ K/(1-a22-d2l2) である。また,また,同様に Δ \bar{L} について解くことによって,労働投入の減少分は l2Δ K/(1-a22-d2l2) であることがわかるから,それによる必要な農業生産物の減少分は (E8) より,d1l2Δ K/(1-a22-d2l2) となる。結局,必要な農業生産物の減少分,すなわち剰余の増加分を Δ S とすると,

Δ S = (a12+d1l2)/(1-a22-d2l2)Δ K

となる。右辺の分母が正であることは,(E13)によって約束されている。いま,

v2 = (Δ S)/(Δ K)   (E16)

とおくと,

v2 = (a12+d1l2)/(1-a22-d2l2)

であるが,この右辺の分母と分子に Y2' をかけて式を変形すると,

v2Y2'=a12Y2'+v2a22Y2'+(d1+v2d2)l2Y2'   (E17)

をえる。

つぎに,労働が外部的に Δ M だけ供給された場合について,同じことを調べてみよう。このときの工業生産物と労働の減少分を先と同じようにあらわすと,次の式が成立する。

Δ Y2 = a22Δ Y2 + d2Δ \bar{L}
Δ M + Δ \bar{L} = l2Δ Y2

この式を Δ Y2 と Δ \bar{L} について解き,先と同様に (E8) を考慮すると,剰余の増加分は,

Δ S=(d1+(a12+d1l2)/(1-a22-d2l2)d2)Δ M

となる。右辺 d2 にかかっている分数は明らかに v2 である。また v3 を,

v3 = (Δ S)/(Δ M)   (E18)

とすると,結局,

v3 = d1 + v2d2   (E19)

となる。そして,(E17) と (E19)式がそれぞれ (E6) と (E7) にまったく等しいことを確認することは容易であるだろう。すなわち,(E16) で定義される v2 と (E18) で与えられる v3 は (E5) 〜 (E7) の価値的剰余を与える体系で用いられている,工業生産物の価値と労働の価値に一致するのである。(E16) は,1 単位の工業生産物の追加的供給による剰余の増加分が v2 であることをあらわし,また(E18) は,1 単位の労働の追加的供給による剰余の増加分が v3 であることをあらわしている。このことは価値的剰余を与える v2 と v3 が工業生産物と労働の農業剰余生産*への貢献度をあらわす指標であることを明確に示している。

このように,価値的剰余が物的剰余に一致するという事実は,農業社会がその体制と最も整合的な価値体系をもっていることを意味している。そして,この価値体系は社会の剰余をすべて土地*に帰属させるもの,言い換えれば地代を最大限高めることによって社会の他の部門での剰余の発生を完全に阻止するような価値体系なのである。したがって,農業社会はその原理を純粋に追求するする限り,不可避的に工業の発展を阻害する。工業の発展は農業における剰余の生産性の増加に貢献する限りでしか許されなくなるのである。しかし,工業生産物に対する社会の消費が増加し,工業の独自の発展が不可避になるにしたがって,農業社会の価値体系を維持することは困難になる。日本の近世は一つの典型的な農業社会であった。*石高制は,農業社会の組織原理をあらわしたものだった。しかし,武士階級*が工業製品の消費を不可避にするような都市的生活*を余儀なくされたために,工業の発展を促進し,社会の矛盾が激化していったのである。

4 節 農業社会から工業社会へ   (副目次へ

農業社会が近代的な工業社会へ変化したことの最も本質的な指標は,社会編成の目的となる剰余が,農業部門に限定されたものから工業部門にも拡大し,すべての産業において自由に生産可能になったことである。*剰余生産の一般化である。これによって多様で大規模な工業生産が動機づけられ,農業部門は社会の生産編成の一つの部門にすぎなくなった。農業の歴史的な敗北*である(注18)。

表~T2 にもどって,工業社会の剰余を確認しよう。まず,工業社会では,人々の消費生活の中に多様な工業製品が浸透する。したがって, C23>0 であることが重要な意味をもってくる。そして,工業社会は剰余に関して次のような状況が恒常化する社会なのである。

S1>0, S2>0, S3 \simeq 0    (E20)

直接生産者*の消費,すなわち労働の再生産過程でも剰余が生まれる可能性が生じる。しかし,この過程での剰余の増大は不可避的に他のいずれか,ないしはすべての産業での剰余の減少を引き起こすために,労働の再生産過程での剰余は最小限ないしはゼロに抑えられる。

これらの剰余は価値的に定式化されたものであるために,各要素が何らかの共通の単位で測られることが前提となっている。農業社会では,主食としての穀物などの農業生産物で測られることが必要であることを示したが,工業社会においてはこのように特別な価値基準となる財は存在しない。そこで,すべての要素は抽象的な計算単位としての貨幣の量で測られていればよいことになる。いま,農業生産物,工業生産物,労働の 1 単位あたりの価値が貨幣で測られ,それぞれ,p1, p2, w であるとしよう。すると剰余を与える体系は次のようになる。

S1 = p1Y1-(p1X11+p2X21+wL1)   (E21)
S2 = p2Y2-(p1X12+p2X22+wL2)   (E22)
w\bar{L}=p1C13+p2C23   (E23)

工業社会においてこの剰余を与える価値評価は,この時代に一般化した市場において与えられる市場価格である。そして,価値的な剰余は利潤*としてあらわれることになる。多様化した生産の単位である各企業は投下費用あたりの利潤を最大化するように生産を組織する。この利潤追求は近代工業社会におけるミクロ目的*なのである。農業社会においては,農業生産物で測られた物的剰余は同時に農業部門で生産された価値的剰余であり,この剰余の最大化は社会的な目的,マクロ目的*クロ目的}だった。近代工業社会に突入することによって,生産を直接動機づけるものとしてのマクロ目的*クロ目的}が企業単位のミクロ目的*に分解したのである。しかし,そのことは経済から見た社会を全体的に秩序づけるマクロ目的が消滅したことを意味しない。確かに生産を動機づける直接の主体は私的企業に移ったが生産の社会的編成を秩序づけるマクロ目的*クロ目的}は直接的な主体との関わりをもたない形で残った。その主要なものが 経済成長*という目的*である。

*経済成長という目的*を理解するためには,農業社会と同様,物的に定式化された剰余をとらえなければならない。農業社会においては,価値的な農産物剰余と物的な農産物剰余は規模においてもとらえる単位においてもまったく一致するものだった。しかし,工業社会においては価値的にみてすべての産業が剰余を生産し,社会において先験的に優先性を与えられた財*が存在しない。そのことは,物的にみてもある特定の財で剰余をとらえることの理由が存在しないことを意味している。表~T2 において物的にとらえた剰余とは C14 と C24 であるが,剰余の表現を農業社会のようには特定の財にしぼれないのである。

工業社会において剰余の最も重要な使途は,農業社会のような消費ではなく,社会的生産の規模を増加させるための要素の投入となる。表中の Xij にあらわれているような原材料としての要素の投入,Ci3 にあらわれているような生産に必要な労働を維持するための要素を確保すれば,同一の規模での生産は持続可能である。さらに,C14 と C24 が剰余から支出される消費としてではなく,バランスよく原材料としての要素や追加的な労働の維持のために必要な要素として用いられるならば,経済の規模をその割合だけ増加させることができる(注19)。

経済学がこれまで明らかにしてきた近代工業社会の本質的な傾向は,このような経済の規模の拡大が,結果的に消費によって利用される割合を超えて拡大し,一層の経済成長への要素の利用を要求するということである。なぜなら,生産したものに見合うだけの需要が存在しなければ,経済の直接目的としての利潤の獲得というミクロ目的が果たせないからである。工業社会においては,社会的な生産の規模の増大,すなわち*経済成長それ自体が経済成長を要求するという,自己目的的な悪循環に陥るようなメカニズムを内包している。しかし,それは人類にとって決して目新しいものではない。先にも示したように,人類は農業社会が発生し,社会的な剰余の生産が可能になって以来,自己目的的な剰余の生産にとらわれてきたのであり,このような経済成長の自己目的化*は,*剰余生産の自己目的化の近代的姿に他ならないからである(注20)。

ところで,農業社会の剰余と工業社会の剰余は,背景となる経済的構造が同じである限り,存在条件もまったく同じになる。これは剰余を理解する上できわめて重要な意義を持つ。生産を編成している技術の体系や労働の再生産条件が同じである限り,社会の潜在的剰余は農業の剰余としても工業の剰余としてもあらわれるのである。たとえば,価値的な剰余としてみると,ある価値体系のもとで農業社会の剰余が与えられていると,その価値的な構成比,すなわち相対価値が変わることによって,工業社会的な剰余があらわれる。このことをモデル上で実際に示してみよう。農業社会における価値的な剰余は (E5) 〜 (E7) によってあらわされる。いま,各式をそれぞれ Y1', Y2', \bar{L}' で割ることによって,次のような単純な式をえる。

1>a11+v2a21+v3l1   (E24)
v2=a12+v2a22+v3l2   (E25)
v3=d1+v2d2   (E26)

ただし,ここでは S1/Y2'>0 であることを前提に,(E5) を不等式に変えた。また,この二つの価値 v2, v3 が非負であり,このような農業社会の剰余が存在するための必要十分条件,すなわち*剰余条件が (E11) 式と (E12) 式であらわされることは容易に確認できるだろう。いまこの (E26) 式が常に等式で成立することを前提にして,v2 が変化することによって (E24) 式の不等号を維持したまま, (E25) 式の等号を (E24) 式と同じ不等号に変えることが可能か否かをを検討しよう。そのために (E26) 式を前の二つの式に代入し変形すると,次の二つの式をえる。

1>a11+v2(a21+d2l1)+d1l1   (E27)
(1-a22-d2l2)v2=a12+d1l2   (E28)

*剰余条件の (E13) から 1-a22-d2l2>0 という条件はすでに満たされている。そこで, (E27) 式から,この式の不等号をそのまま維持する範囲で v2 をわずかに増加させることができることがわかる。いまこの範囲で増加させた価値を v2' とおこう。また, (E28) 式から v2 が増加すると,等号が (E27) 式と同じ向きの不等号となることがわかる。そこで,この v2' を用いた,労働の価値 v3' を与える式を書くと,

v3'=d1+v2'd2

となる。また,以上のようにしてえられた新しい農業生産物,工業生産物,労働に関する価値体系 1,v2',v3' を用いると,

1>a11+v2'a21+v3'l1
v2'>a12+v2'a22+v3'l2

という関係が成立する。これらの式は,この新しい価値体系 (1,v2',v3' )が農業部門とともに工業部門にも剰余を発生させるような価値体系であることを意味している。したがって,この価値体系と比が同じ価値体系はすべて工業社会の剰余を表現する価値体系となる。すなわち,任意の正数を k として,(k,kv2',kv3' )という価値体系はすべて農業部門,工業部門の両方に価値的剰余を発生させるのである。この考察をそのまま逆方向にたどれば工業社会の剰余を農業社会の剰余の形に表現し直すことができることも分かる。つまり,価値的に農業社会的な剰余が発生すれば,経済の構造が変わらない限り,工業社会的な剰余を生み出す価値体系が存在し,その逆も言えるのである。より具体的にいえば,農業社会において農業部門のみでとらえられる剰余をあらわす価値体系が存在することと工業社会において社会的に意味のある生産をしているすべての部門に利潤を発生させる価格体系が存在する条件はまったく同じなのである。

同じことは,物的剰余についても完全にあてはまる。すなわち,農業社会の物的剰余が存在すれば,経済構造が変わらない限り工業社会における物的剰余も存在し,その逆もまた成立する。

したがって,結論的にいえることは農業社会における物的,価値的剰余も,工業社会における物的,価値的剰余も経済の構造が潜在的に有している*剰余生産能力の異なった表現にすぎないということである。



図(F2) 再生産構造の潜在能力と剰余の存在型

このような関係は,図~F2 のようにまとめることができる。この図~F2 における剰余の潜在生産能力の一つの表現が (E11) 式と (E12) 式であらわされる*剰余条件である。なぜなら,このような形の剰余条件が満たされる社会では,農業社会のようにであれ工業社会のようにであれ,剰余を物的形式でも価値的形式でも顕在化させることができるのである。もちろんこの潜在生産能力の中には,技術水準や労働力再生産の効率性のほかに,生態系の豊かさもまた含まれている。

同一の再生産の構造が剰余の多様な現象形態をもつことは,一つの経済を維持していく必要性から剰余の形式が完全に規定されるのではないことを意味する。社会的生産の剰余がどのような形で現象するかは,本来,その経済にはめ込まれている社会の傾向に依存するのである。しかし,一方で農業社会から工業社会への社会の変転は,ある種の必然性をもっているように見える。つまり,スミスも述べているように,農業部門だけが剰余を生産できるというのは,工業を中心に分業が広く一般化した社会においてはあまりに狭い剰余のとらえ方であり,経済の潜在能力を十分評価しきれないのである。少なくとも,経済的な生産の拡大に社会の進歩の度合いがあらわれると考えられる限り,農業社会の崩壊と工業社会の到来は一種の必然性のように見える。

農業社会から工業社会への変化は,現象的にあらわれる剰余の形態の変化によってのみとらえてよいということにはならない。もう一つみておかなければならないのは,この変化が人間的に組織された社会から経済によって組織された社会への変化を意味していることである。農業社会は経済がマクロ的な目的によって直接動機づけられている社会であるのに対して,工業社会の生産を直接動機づけているのはミクロ目的*である。工業社会のマクロ目的*クロ目的}は生産を動機づけている直接的主体をもたないままに,生産のマクロ的な編成を行なわなければならなくなった。確かに,マクロ目的を代表するものとしての国家*が存在し,法を媒介にして積極的に経済的な秩序形成を行なうことが可能になっている。しかし,経済的活力の源泉である私企業は,あくまでミクロ目的*に支配されているのである。農業社会においてはマクロ目的*クロ目的}が直接生産を支配するとともに,経済的,社会的秩序も媒介されない形で人と人との関係で直接的に組織されていた。農業社会においては国家がその経済を従属させていたのに対して,工業社会ではその国家すら経済に従属してしまっているのである。

このような工業社会のただ中にいると,経済によって組織されない社会を展望することが困難になる。したがって,経済的にみた発展である農業社会から工業社会への変化を一つの必然性として見ることに慣れさせられてしまっているのである。しかし,それでも原理的に剰余の現象形態は選択可能なのである。ただし人間が非経済的な社会の組織形態を選択する限りではあるが。

5 節 労働社会という選択肢   (副目次へ

ここで,理論的に考えられる一つの社会を考察しよう。それは,剰余が工業社会の状態とちょうど鏡の像のように対称的になっている社会である。すなわち,(E20) における不等号,等号の関係が逆になっている,

S1 = S2 = 0, S3 > 0    (E29)

という社会である。これは社会の剰余が直接生産にたずさわる労働者による消費過程,すなわち労働能力の再生産過程でしか発生しない社会である。現実に存在しうるか否かを保留して,ここではこのような労働で測った剰余を最大にするというマクロ目的がはめ込まれた社会を労働社会と呼ぶことにする。

まず,これまで行なってきた社会的な剰余に関する考察から,労働社会の経済的組織原則についていえることを示しておこう。労働社会の剰余も物的なものと価値的なものとして表現できる。ただしここでは剰余が表現される要素は労働であり物的なものというよりは用役である。この労働で表現される剰余とは,直接生産者*の消費によって維持される,したがって持続的に再生産される労働能力(以下 \hat{L} であらわす)から,その消費財の生産のために必要になる総労働を差し引いたものである。論理的には,農業社会における農業生産物の剰余という考え方を,労働能力もまた再生産されるものであることを前提に,労働の剰余に置き換えたものにすぎない。この労働で測った剰余をわれわれのモデル上で定式化しよう。これまで用いてきた,技術や消費に関する係数はすべて同じであるような線形モデルを考えよう。ただし,線形モデルであることは,経済の規模を自由にできることを意味する。そこで,再生産される総労働能力を \hat{L} ではなく,1 とし,またこの 1 単位の再生産あたり生じる労働剰余を sl としよう。線形モデルであるために,このとき再生産される総労働能力あたりの労働剰余は,この sl が与えられた後に,\hat{L}sl と計算すればよいのである。もちろん,このような規模の自由選択可能性は線形モデルという性質からくることで,労働剰余の場合だけであてはまるものではなく,すでに考察した工業社会,農業社会の剰余についても,応用することは可能である。

1 単位の労働能力が再生産されるためには d1, d2 単位の農業生産物,工業生産物がそれぞれ必要だった。この財を定常的に再生産するための農業部門の生産と工業部門の生産をそれぞれ \hat{y}1, \hat{y}2 としよう。念のために述べておくと,このとき総労働 \hat{L} のためには \hat{y}1\hat{L}, \hat{y}2\hat{L} の生産が必要になることが,ここでの線形モデルの仮定から直ちにわかるのである。1 単位の労働能力の再生産によって生み出される労働剰余は次のようになる。

sl = 1 - (l1\hat{y}1+l2\hat{y}2)   (E30)

右辺の最初の項である 1 は 1 単位の労働能力をあらわし,右辺の第二項の括弧内はその再生産のために必要な労働の支出量をあらわす。労働の単位は時間でも日でもよいが,時間の場合,この式は,1 時間と 1 時間の労働が可能になる労働能力の再生産のために必要な労働との差をあらわしているのである。また,このための農業部門と工業部門の生産は次の二つの式によって与えられる。

\hat{y}1 = a11\hat{y}1+a12\hat{y}2+d1   (E31)
\hat{y}2=a21\hat{y}1+a22\hat{y}2+d2   (E32)

(E31) は農業生産物に関する需給の均衡式であるが,この両辺に \hat{L} をかければ総労働の再生産に関わる受給均衡式になる。(E32) は,同じく工業生産物に関する受給の均衡式である。

このような労働で測った剰余を最大にするという労働社会のマクロ目的の現実的な意味をはっきりととらえておく必要がある。そのための出発点は消費によって直接生産者*の総労働 \hat{L} が維持されることの意味を認識することである。ほとんど自明な事実は,労働する能力が再生産されることは生命そのものが持続することである。生命が持続しないままに労働だけ供給可能になることは絶対にありえない。そこで,社会にとって持続されるべき生命の量,人口が与えられているとそれによって供給可能な,年間の労働能力の総再生産量(時間)が与えられる。したがって,労働で測った剰余を最大にすることは,同時に,この人口を維持するために投入されるべき労働を最小にすることも意味する。逆にそれは,労働として使用可能だが労働しなくてもよい時間を社会全体としてみて最大にすることなのである。

ただし,この労働剰余を人の数で測ると社会の中で直接労働にたずさわらなくてもよい人口をあらわすことになる。この場合は労働社会は一種の奴隷制社会となる。すなわち,社会は不労階級の規模を最大にするように組織されるのである。これに対して,すべての人口が等しく労働に参加する社会では,人々の非労働時間を最大にするように社会が組織されることを意味する。この後者の場合は,すべての個人の 自由に処分可能な時間*の社会的総計の最大化が社会のマクロ的な組織原理,マクロ目的になるのである(注21)。

次に価値的な剰余の定式化の意味するところを検討することにしよう。剰余の価値的定式化*は,農業社会の場合は農業生産物ではなく農業部門の生産に関して定式化された。同様に,労働社会の価値的定式化も労働の再生産部門,すなわち直接生産者*の消費過程に関して定式化される。いま,労働能力が 1 単位再生産されるときに,それに要した生産物の労働価値の総額を差し引いた剰余を s3 であらわすことにしよう。また,農業生産物と工業生産物の労働で測った価値を t1, t2 としよう。このとき,以下の式が成立しなければならない。

t1=t1a11+t2a21+l1   (E33)
t2=t1a12+t2a22+l2   (E34)
s3 = 1 - (t1d1+t2d2)   (E35)

(E33) は,農業部門の 1 単位あたりの生産によって剰余がまったく発生しないことをあらわす式である。左辺は,1 単位の農業生産物の価値をあらわす。右辺は,その 1 単位の生産に伴う投入要素の総価値である。労働を価値基準にしているので,l1 はそのままである。(E34) は,工業部門で価値がまったく発生しないことをあらわす式である。そして,(E35) は労働能力の 1 単位の再生産に対して発生する剰余の量をあらわしている。この体系によって決定される農業生産物と工業生産物の労働価値は農業生産物価値がそうであったように,労働剰余の生産におけるそれぞれの財の希少性をあらわすものである。すなわち,外部的にそれらの財が追加供給された場合の社会的な労働剰余の増加割合を示すものである。それは逆に,剰余生産にそれぞれの財が必要とされることが,どれだけの負担になっているかを示しているといってもよい。つまり,*剰余生産にあたってそれぞれの財の生産による負担を 1 単位だけ軽減させることによって剰余がどれだけ増加するかを示しているといってもよい。

また,これらの価値は その財 1 単位を*純生産するのに直接・間接に必要となった労働に一致する。そのことは次のようにしてわかる。まず,農業生産物の 1 単位の純生産を可能にする二つの部門の生産量 \bar{y}1, \bar{y}2 を与える条件式を示そう。

\bar{y}1 = a11\bar{y}1+a12\bar{y}2+1   (E36)
\bar{y}2=a21\bar{y}1+a22\bar{y}2   (E37)

いま,(E36) に t1,(E37) に t2 をかけて辺々を合計し,(E33) に \bar{y}1,(E34) に \bar{y}2 をかけて辺々を合計したものと比較することによって,

t1 = l1\bar{y}1+l2\bar{y}2

をえる。すなわち,t1 が農業生産物の 1 単位の*純生産のために必要な労働に他ならないことをこの式は示しているのである。同じことは工業生産物についても簡単に確かめられる。

また,この価値体系の重要な特徴として指摘できることは価値的な剰余と労働剰余は完全に一致することである。すなわち,sl = s3 であることが農業社会の場合に行なったのと同様の方法で簡単に確かめることができる。このことは,社会的剰余の量という点では,物的に測っても価値的に測ってもまったく同一になることを示している。

さらにルクスの基本定理}*ルクスの基本定理}と一般に呼ばれている命題を示すことができる(注22)。マルクスは『資本論』の著者であり,スミスやリカードといった古典派経済学*の中に含まれている労働価値説*を体系的に完成させた古典派経済学者である。この基本定理をマルクス自身の言葉によってあらわせば, 剰余労働が利潤の源泉である,ということになる(注23)。ここでの概念を用いれば,労働で測った剰余が存在するための技術条件や直接生産者*の消費に関する条件と,工業社会の価値的剰余としての利潤が存在する条件はまったく同じであるというものである。マルクスにとっての剰余労働とは簡単に表現すれば,労働者による 1 単位時間(1 日でも,8 時間でもなんでもよい)の労働を可能にする労働能力を再生産するために必要な消費財の総労働価値,あるいはそれらの消費財を生産するために直接・間接必要となる社会的労働時間の総量が 1 よりも小さくなるということである。マルクスはこの差が資本家*に搾取されるとして,工業社会の不当性を立論した。この剰余労働は,ここでは (E35) すなわち s3 とまったく一致する。

したがって,マルクスの基本定理*ルクスの基本定理}は,労働で測った社会の剰余が存在するための条件が (E11) 式と (E12) 式であらわされる*剰余条件に一致することを意味している。なぜなら,すでに示したようにこの剰余条件が満たされることと工業社会における剰余,すなわち一般的な利潤の存在することとは同値だからである。マルクスの基本定理はすでに多くの証明があり,また,われわれのモデルについては,先の農業社会の剰余の存在と工業社会の剰余の存在条件の同値性を示したのと同様な方法で簡単に証明できるのでここでは省略する。

ところで,このマルクスの基本定理*ルクスの基本定理}は社会的剰余に関するこれまでの議論にどのように位置づけられるだろうか。すでに,農業社会の剰余と工業社会の剰余は社会の潜在的な*剰余生産能力の二つの表現形態にすぎないことを示した。つまりそれらの剰余が存在するための社会の技術や消費に関する条件はまったく同じなのである。あるいは,この*剰余条件が満たされている社会においては,剰余は工業社会のようにも農業社会のようにも表現可能であるといってもよい。これとの関係でマルクスの基本定理が示すことは,剰余の表現形態がもう一つ存在し,社会の潜在的な剰余生産能力は労働社会の剰余としても,すなわち労働で測った剰余,あるいは労働の生産過程でのみあらわれる剰余としても表現可能だということである。

重要なことは,社会の*剰余生産能力を労働でとらえることが,近代工業社会批判としてどのような意味をもっているかである。もちろんそれはすでに述べたような,剰余をすべて自由に処分可能な時間であらわし,それを現実に実現する社会としての労働社会の基本的な設計思想としては意味をもっている。しかし,マルクスにとってより重要だったのは,このように剰余をとらえることを工業社会批判に用いることだった。すなわち,マルクスは工業社会の利潤の源泉が労働にあり,労働を生み出すものとしての労働者に剰余の本源的な処分権が属すると唱えたわけである。それはちょうど,農業社会において土地*にこそすべての剰余の源泉があり,土地*を支配するものに社会の剰余のすべての処分権が存在するとした原理を労働に読み替えたものとなっている。剰余の源泉を農業社会においては 土地*としてとらえ,マルクスは 労働者としてとらえたわけである。しかし,ここまでの考察で明らかにしたように,剰余の本質的な源泉は,技術を中心にした社会の生産水準がある一定の段階に到達していることであり,その源泉が土地*にあるか労働にあるかというのは客観的で絶対的なものではなく,とらえ方に依存した相対的なものなのである。したがって,マルクスの命題も一つの主張をあらわすものではあるが,労働の優位性そのものに客観性はない。

剰余労働に関するマルクスの命題は労働者階級*の利益の増加を優先させる立場に立つということを前提にすれば,理論的な整合性は失われない。しかし,労働者階級の立場に立つから,社会の一般的な発展についても合理的で科学的な見方になるという議論は正当化できない。マルクスは,労働で測られた剰余を工業社会の剰余との関連のみでとらえていたが,農業社会の剰余との関連でもまた分析する必要がある。すると当然次のようなことが議論されなければならなくなる。すなわち, 社会の剰余の源泉は労働者にあるのか自然にあるのかということである。農業社会においては,直接生産者*よりも自然を代表する土地にその源泉を求めていた。剰余の源泉を労働としてのみとらえることは,剰余の源泉としての自然の根元性を見失うものとなる。あるいは,自然の本源的な位置づけを行なうメカニズムが労働社会の原理に中に必然的にはめ込まれているものではない,といってもよい。したがって,少なくとも社会の組織原理そのものをみる限り,労働社会も工業社会も自然に対しては同じ距離を置いていることになる。労働社会の本質的限界*は,その社会があいかわらず*剰余生産にとらわれている点である。

6 節 剰余と環境危機   (副目次へ

近代工業社会において,経済を支えている自然環境は深刻な危機のもとにある。環境の危機*は地球全体に影響を与えるグローバルなものから局所的にあらわれるものまで多様なレベルで存在する。それは,地球的な規模での気候変動*の可能性を示唆するものから,大気や河川,湖,海洋の化学物質や廃棄物による汚染*の広がりまで多様に存在している。先進工業社会の経済が巨大化したために,さまざまな資源の搾取対象や廃棄物のシンクとしての自然の許容範囲を超えるまでになってしまっているのである(注24)。自然*環境は二つの視点からとらえることができる。一つは,無生物的な物質の作り出している環境としての物質循環である。もう一つは環境の生物的な存在により注目してとらえた場合の生態系である。経済と環境のこのような関係は図~F3 のように簡単化して描くことができる。



図(F3) 環境の構造と危機

*環境の危機は,経済活動とそれを支えている環境すなわち物質循環と生態系がバランスをとれるものではなくなっていることを示している。工業社会になって環境の危機が深刻化することは,その社会の組織原理から説明される必要がある。農業社会と工業社会では,剰余の生産の上限に著しい違いがある。農業社会においては剰余が農業生産物,特に主食としての穀物によって測られていた。穀物で測られる主食を制限する基本的要因は剰余が養うべき人口のかかえている胃袋の総容量である。農業社会の支配階級は,剰余を兵士などの非直接生産者にのみ用いるのではなく,奢侈財*や軍事品を生産する直接生産者*の胃袋のためにも用いた。しかしあくまでも制限は胃袋の全体である。剰余の増加はこの胃袋をかかえた人口の増加のために必要だったのである。しかし,人口という上限を変化させることは,生殖による自然増加にしても,*剰余生産に貢献する直接生産者*の人口を奢侈財や軍事品*の直接生産者*へ移動させるにしても,柔軟に行なえるものではない。一方,工業社会においては,剰余が特定の物的形態をとることをやめ,あらゆる生産が直接的に剰余の源泉となることが可能になり,またあらゆる生産物が剰余の支出対象になる。剰余が人間の生物的消費の限界を受けることがなくなってしまったのである。それは,剰余生産の最も自由で,解放された形態である。必然的に,農業社会とは比べものにならないくらい剰余生産は加速化された。工業社会において物的剰余は,その多くの割合が*経済成長に用いられる。経済の規模の拡大は一層の剰余の増加であり,規模でみた成長の持続および加速化が必要となるのである。

経済成長は,経済の物質負荷*の増加を不可避的に伴う。経済の物質負荷とは環境からの物質の搾取量と環境への廃棄量の全体である。確かに,経済の成長と同じ増加率で増加するとは限らない。それを下回ることはあるだろう。しかし,少なくとも,経済成長を国民経済計算*上の国内総生産*(GDP)で測定する限り,また経済全部がサービス経済化*するなどということがない限り,あるいは経済の物質利用に関する技術進歩率を*経済成長率が上回る限り,経済成長が物質負荷*の増加をもたらすことは必然である。工業社会という経済のあり方が経済の成長を不可避的にともなう一方,それを支えている*環境である生態系の最も望ましい状態は定常状態である。つまり,生態系は経済のように成長を持続させることができないのである。逆に経済からの搾取や廃棄による負荷が厳しければ厳しいほど生態系は貧困になる。これこそが今日のさまざまな環境の危機*の共通の背景なのである。

*経済成長の能力は工業社会における価値的な剰余としての社会の総利潤と密接な関係をもっている。確かに,総利潤が社会の全体としての剰余を指すのに対して成長能力は剰余の物的な一つの使途にすぎない。社会の物的な剰余は他に消費という形態も,輸出という形態もとりうるのである。表~T2 でいえば,物的剰余としての C14, C24 は,表中で剰余としての消費としてあらわされているが,この部分は消費のほかに輸出としても成長のためにも用いることができる。このような物的剰余の利用形態のなかでも,成長のために用いられる部分は他の部分と異なる本質的に重要な意味をもっている。つまりこの成長に用いられる部分が剰余の物的使途の中では 剰余生産の自己目的化*にふさわしい性格をもつ部分なのである。すなわち,すでに述べたように 成長それ自身が成長を要求するという関係は,物的剰余のこの部分に関してあらわれるのである。物的剰余のこのような状況は,価値的な剰余としての利潤にも反映する。利潤もまた消費としてみる限りは増加に対する制約が小さくない。しかし,利潤が蓄積のために用いられる,すなわち再び物的な投資として用いられる場合には累積的な蓄積への衝動を引き起こしていくことになるのである。

剰余のための生産が*環境の危機を引き起こすことは工業社会において集中的かつ深刻にあらわれているが,人類史上でも,*剰余生産が社会の経済的編成の主要な目的になって以来,この環境危機は繰り返されてきた。人類史上で農業社会が成立して以来,一つの文明*,国家*,あるいは民族*が持続不可能になるような危機は,*環境の危機と軍事的危機*の二つであった。環境的な危機にある民族が軍事的に劣勢となり他の民族に滅ぼされるというような形で二つの危機の間には密接な関係も存在しただろう。それだけではなく,重要なことはこの両者ともに社会的な剰余と深い関係を有している点である。すなわち,*剰余生産を目的にした経済活動による環境からの搾取や廃棄によって環境が危機に陥るのであり,また,生産された剰余の重要な使途が歴史上の多くの場合,軍事力*であったということである(注25)。

農業社会が成立して以降の経済活動との関係で引き起こされてきた*環境の危機は森林破壊に代表させることができる。森林は陸上生態系*の中でまとまった地域に成立する生態系としては最も生産性が高く,多様で大量の生物存在量を実現する生態系だからである。ホイッタカーによれば平均的な粗(一次)生産量は最も高いのが熱帯多雨林で2,200gm-2year-1であり地球全体でみた生物現存量としても 765\times 109t と,最も巨大である(注26)。熱帯多雨林*には及ばないながらも,他の熱帯季節林*,温帯常緑樹林*,温帯落葉樹林*,北方針葉樹林*などにおいても,他の草原,乾燥地帯,耕地などの生態系と比較すると生産性においても現存量においても大きく上回っているのである。すなわち,森林という生物の存在様式は陸上においては最も優れた生態系の一つである。

日本の*縄文時代がそうであったように,*狩猟・採集社会においては生産性の高い森林のもたらす剰余を収穫するという形で人間は必要物を調達してきた。しかし,農業社会になって森林は農耕地に変えられ,都市の成立*によって建築材料としてあるいは燃料として破壊的な生態系搾取の舞台になってしまった。農業の開始によって地球上の森林は 50 億ha から現在 40 億haまで減少しているといわれている。そのうち最も消失率の高いのは温帯林(32〜35\%)*であり,次に亜熱帯樹林*の多いサバンナ*や落葉樹林*(24〜25\%)となっている(注27)。また今日,陸上で最も豊かな生態系である熱帯多雨林*も,毎年日本の本州の半分にあたる面積の減少を続けているという推計もある。中東にあったレバノン杉*の森林はメソポタミア文明*の成立以降,壊滅してしまった。中国大陸*を広くおおっていた森林分布も文明によって急速に減少し,現在では砂漠化*の進行が人々の生活を脅かしている(注28)。

森林の破壊がもたらすのは単に生物資源を搾取する場がなくなるということではなく物質循環の撹乱*による*環境の危機である。すでに述べたように,大気と水の大循環を中心とした物質循環は,カオス*的な無秩序を抱え込んでいる。農業の発生はその不可欠の要素である水を安定的に確保するために潅漑農業に向かったが,それもまた天水農業*ではさけられない物質循環の無秩序性の克服という意味をもっていた。しかし,潅漑農業*によって初めて成立した都市*は森林を破壊し物質循環の無秩序性を増加させるという皮肉な結果をもたらした。なぜなら,森林という生態系は単に生物が集中している場ではなく,生態系が直接依存している物質循環の無秩序性を,相互に秩序づけられたシステムによって,可能な限り排除することを目的にしているからである。具体的には,この生物的システムは水を保持する能力を飛躍的に高める。あたかも,電流の非定常的な流れがコンデンサーによって定常化させることが可能なように,水の流量の不規則な変化をある程度規則化させることができるのである。もちろん,水の循環の安定化は大気の循環にも影響を与える。森林に蓄えられた水は蒸発散によって再び大気中に帰る。大気もまた,水の蓄積の場であるが,この大気中の水の蓄積量を安定化させる機能を森林はもっているのである。さらに,水を大量に保持している森林は,みずからの内部的な環境も安定化させ,生物全体の存在を容易なものにしている。この森林を破壊することは物質循環の無秩序さを拡大し,洪水*と旱魃*という破壊的な環境の危機*をもたらし,多くの文明*そのものを崩壊させてきた(注29)。

このような森林破壊と同様に,人類の生存を脅かす*環境の危機はすべて*剰余生産を目的とした経済活動と生態系や物質循環との接点で発生している。剰余というのは価値的であれ物的であれ社会的な総生産の部分を指す。社会的総生産の残りの部分は剰余ではなく,その生産そのものを持続させるための必要部分である。剰余は一つの特殊な社会の持続には必要ではあっても生産の持続には必要はない。しかし,この剰余の生産は搾取と廃棄の場としての環境に確実に物質負荷*をかけることになる。剰余はこのような意味で環境への負荷をかけた上に,さらに剰余部分の拡大を必要とすることによってその負荷を加速化させる。たとえば,社会の剰余はおそらく人類史上一貫して都市*において消費されてきた。都市はまた都市の豊かさと拡大を要求する。事実として都市というあり方が森林ばかりでなく非都市の*環境の劣化によって支えられている状況は,古代における森林破壊*から現代における*都市廃棄物の非都市への放棄まで綿々と連なっている。

また,主要な物質循環である水の循環への人類の積極的な介入は,現在に至るまで環境の劣化を引き起こし続けている。先に,潅漑や治水として水の循環に介入することが,農業社会を生み出し,剰余生産の制度化*としての国家*を生み出すことを指摘した。剰余生産と結びついた水の循環への介入が*環境の劣化を加速化させるのである。古代においては,文明*は潅漑による過剰の土壌利用を行ない,地下水位の上昇から塩害*を引き起こし,耕地の崩壊をもたらしている。これは,潅漑という物質循環に介入する技術が環境破壊の危険性をかかえた技術であることを示している。この塩害*は,現在においても世界の耕地を劣化させ,極端に進行した場合は砂漠化*に向かわせているのである。

水の循環の制御にともなう環境破壊*は日本においても歴史上の事実として存在していた。戦国時代末期から近世にかけての農業社会の日本で,急速な新田開発*があり,全国の実収石高*は 1600 年の 1,973 万石から 1697 年の 3,063 万石まで増加したという推計がある(注30)。この時期は武士階級*の全国的統一事業*が完成しつつあった時期であり,国家の安定化*が本格的な農業剰余の増進を動機づけた時期でもあった。新田の開発には単に土地*が存在すればよいというわけにはいかず,決定的に重要なものは山林の入会地*から苅り出す*苅敷などの確保と水の確保だった。新田開発にともなう,入会地の利用をめぐる対立も頻発したが,治水にともなう環境問題も深刻化した。新しい耕地は,それまで河川がさまざまに流れを変えていた流域に広げられた。そのために河川の自由な流れを制限し,堤防をもうけたが,これによって河川が増水したときに堤防をあふれることによる洪水被害が頻発したのである(注31)。

*環境の危機は社会の一般的危機*の深刻化したものの一つという性格ももっている。社会の一般的危機の多くがまた剰余に起因する。たとえば,社会的総生産の必要部分に対する剰余部分が相対的に増加すればするほど,社会は不安定になる。それはより強力的な国家機構を要求する。単に,社会的総生産の剰余部分によって生活を可能にしている階級が必要部分によって生活している階級を抑圧するばかりでなく,剰余を他の国家や民族から守るためにまた武力*が必要になる。強大な武力は内部的にも外部的にも深刻な危機をもたらすのである。また,剰余の増加は社会の精神的不安定性*を助長する。社会の経済的格差の増加はまた,人々の精神的世界を安定させる世界観の分化*でもある。このような意味でも,剰余は社会の危機の契機となるのである。

7 節 あらゆる形態の剰余を自然に返す   (副目次へ

人類の持続的生存が危機にあるいま,特に先進工業社会が剰余という麻薬*から解放されることは切実な課題になってきている。それは,工業社会的な剰余を,かつての農業社会的剰余あるいは労働社会的な剰余に置き換えることではない。重要なのは剰余そのものから自由になることである。剰余から自由*になることは必然的に剰余生産能力を自然に返すこと。剰余のために貧困にさらされている自然を豊かにすることであり,さらに剰余によって引き起こされているすべての人類存在の危機からの解放をめざすことである。

ここでは経済に限定して,経済的剰余を犠牲にして自然を豊かにすることの内容をとらえておこう。剰余の生産から自由になるとは,表~T2 のモデルに則していえば,

S1 = S2 = S3 = 0    (E38)

となることである。このようなすべての形態の剰余に対する否定的な原則によって成立する社会を 自然社会*と呼ぶことにする。単に剰余に対する否定的であるということでは*狩猟・採集社会と区別がない。狩猟・採集社会においてリスクプレミアム*分をさらに上回る剰余に対しては否定的であったことが予想される。それらは過剰な消費によって強制的に処分されただろう。このような狩猟・採集社会的な原理と自然社会が異なるところは,農業も含め多様な形態の工業やサービス業の存在を前提にしながら剰余の生産に対して否定的な社会の進化をめざすことである。

自然の豊かさをどのように測るかも明確にされる必要がある。自然の豊かさ*とは生態系自身がみずからを組織している原理に則してとらえられなければならない。生態系のマクロ的な自己組織化*原理に関する仮説として,*最大呼吸仮説がある。最大呼吸仮説はすでに述べたように,生態系が生物群集によって生産される呼吸廃熱を最大にするように非生物的環境*に対する群集の生物構成を組織化するというものである。この原理によれば,生態系の豊かさ*の指標は*群集総呼吸によって与えられることになる。したがって,自然の豊かさの指標としての群集総呼吸 \Re は表~T1 の生態系モデルによれば,次のように与えられることになる。

\Re = Rp + Ra + Rd   (E39)

このような生態系の傾向を尊重する自然社会は,環境としての生態系と経済との密接な関連を明確に意識した社会となる。表~T1 にあらわれている生態系のモデルと表~T2 にあらわれている経済のモデルをリンクさせることを考えよう。最も重要なリンクが生態系からの生物体の搾取 Ps, As であることはいうまでもない。しかし,この簡単なモデル上でも,その他のリンクもあらわれている。すなわち,水と排泄物によるリンクである。現実には他にさまざまな廃棄物によるリンクも重要だがここでは捨象している(注32)。

自然社会*のもとで秩序がどのように与えられるかを考察しよう。まず,経済においては剰余は発生しない。したがって,(E38) 式とともに,C14=C24=0 が成立しなければならない。そして,C13, C23 式は自然社会の総人口に必要な財とサービスを供給するように与えられる。もちろん,ここでは明示的な部門として構成していないが,通常の産業連関表*における行政サービス*の生産主体としての公務部門*も必要最小限で存在しなければならない。このような社会にとっての必要な消費を維持するための生産規模,Y1, Y2 が与えられると,それに対応する生態系のリンクに関わる諸要素の供給や搾取の量が与えられる。そして,生態系はこれを与件として自己の最適な秩序である*群集総呼吸 \Re を実現する組織構成をめざすのである。この最大呼吸の群集構成は仮説が正しい限り生態系自身の動機,傾向によって与えられるが,人間がその方向への秩序形成を援助することも可能であるし,必要な場合も存在するだろう。

このとき,経済の技術進歩*の方向もそれ以前とまったく違ったものになる。すなわち,農業社会が成立して以来の生産技術の進歩は基本的にその社会に固有の剰余を増加させる方向に向かうものであった。しかし,この自然社会*においては,自然に対する搾取,供給,廃棄のマクロ的構成が自然の豊かさを増加させる方向に変化させるものである場合に,その技術進歩は支持される。したがって,従来の剰余の増加には貢献できなかった技術,すなわち従来劣等な技術といわれていた技術が再生することも多くあらわれるだろう。もちろん,従来の剰余の基準でも*自然社会の基準においても進歩的であるような技術も十分ありえる。

経済的価値意識*の大きな変更も必要になってくる。農業社会においては農業にのみ剰余をもたらす農業生産物で測られた価値体系が経済を支配し,工業社会においては生産に必要なすべての部門に利潤を実現するような価値体系が経済を支配し,労働社会は労働者にのみ剰余をもたらす労働の価値体系が経済を支配するものだった。経済活動のいかなる部門にも剰余をもたらさない自然経済における価値体系は,ある種の自然価値体系*が支配することになる。たとえば,*最大呼吸仮説を受け入れ自然の豊かさを*群集総呼吸で測るならば,生態系と経済にまたがるすべての要素には呼吸廃熱価値が与えられることになる。それはその要素が群集呼吸の増加にどれだけ貢献しうるのかを示す指標である。現実の経済市場との関係では,自然からの搾取や自然への廃棄に対するコストがすべての財やサービスについて与えられ,経済的部門の一切の付加価値を生み出さないような経済的要素の価格を中心に,*市場価格が変動することになるだろう。

脚注

(1)黒田~ 。(もどる
(2)小林~ , 西田~ , p.38。(もどる
(3)埴原~ にある小林達雄氏の諸論文。(もどる
(4)その後の農耕が開始された社会以降は,自然に対する知識はこれほど多様には必要でなくなる。生態系と人間を結びつけるチャンネル*が単純化するからである。(もどる
(5)環境収容力概念の現代的なとらえ方については,鷲田~ 。(もどる
(6)サウアー~ , 中尾~ , ヘンリ~ , 鈴木~ 。(もどる
(7)*狩猟・採集社会の豊かさについては,サーリンズ~ 。(もどる
(8)ただし,日本の縄文社会は狩猟・採集社会であったが,豊かな生態系剰余のもとで定住性の高い生活様式*を行なっていた。(もどる
(9)人類の農耕開始の初期には天水農業も可能な山麓地帯が中心で,かならずしも農耕は潅漑と結びついていなかった。伊東~ 。(もどる
(10)上野~ , 屋形~ 。(もどる
(11)豊田~ 。(もどる
(12)中島~ , ウィットフォーゲル~ , 川村~ , 関野~ , 安田~ 。(もどる
(13)自然の土壌形成能力は,1 年あたり 0.1 〜 0.2mm にすぎない。ほんの 10 cm の土壌が形成されるのに 500 年から 1000 年という時間が必要なのである。(もどる
(14)このような古典派経済学の再生産費賃金理論*は,労働を生命の結合生産物*としてとらえ,生命の生殖による再生産過程も視野におさめた理論として展開することが可能である。Washida~ 。(もどる
(15)重農主義者*は社会の剰余が農業部門でのみ発生するとし,その剰余を経済的な富*としてとらえた。「主権者,および国民は,土地*こそ富*の唯一の源泉であり,富*を増加するのは農業であることを決して忘れるべかざること。何となれば,富*の増加は人口の増加を保証するが,人間と富*とは農業を栄えせしめ,商業を拡大し,工業を元気づけ,富*を増加し永続させるからである」, ケネー~ , p.74。「農業労働者はその労働が労働賃金以上に生産する唯一のものである。故にかれはすべての富*の唯一の源泉である」, チュルゴー~ , p.27。この重農主義者のモデルに関する,労働価値の立場からの考察はマルクスによって与えられている。マルクス~ ルクス69}, pp.14,15,21。重農主義者の学説史的な位置づけについては三土~ を参照。(もどる
(16)この点は次章で,日本の近世社会を例に具体的に明らかにする。(もどる
(17)線形モデルの可能性と意義は,生態系の線形モデルに関して,第 3 章で述べたものが,ほとんどそのまま経済の場合にもあてはまる。(もどる
(18)アダム・スミスは重農主義者*のような農業部門でのみ剰余が生産できるという立場を批判した。スミスの念頭にあったのは工業社会の剰余形態だったのである。スミス~ , pp.483-484。(もどる
(19)このような*経済成長の基本モデルの構造については,置塩~ , 鷲田~ 。(もどる
(20)*経済成長の自己目的化は,このように有効需要問題*と密接に関連している。これまでの経済学でこの問題がどのように議論されてきたのかについては,足立~ を参照。他に鷲田~ 。(もどる
(21)この点に関しては,古典派経済学の時代にすでに社会の富*を{\bf 自由に処分可能な時間}としてとらえたディルク~ が参照されるべきである。他に鷲田~ 。(もどる
(22)マルクスの基本定理については,置塩~ , 置塩~ , 森嶋~ , Fujimori~ , Fujimori~ , Washida~ 。(もどる
(23)経済的剰余概念に最も体系的な分析を加えたのはカール・マルクスである。ただし,マルクスにおいては剰余はつねに労働価値で測られるものだった。マルクスの剰余概念は本書で定式化した剰余概念の特殊なケースである。マルクス~ ルクス68}。また,剰余の人類史的意味に鋭い考察を加えた文章は,マルクス~ ルクス78} の「絶対的剰余価値ノート e 剰余労働の性格」, 同,pp.296-309, にみられる。このマルクスの剰余について深い考察を行ない,それを制度的変化の契機としてとらえる Pearson~ の主張は,ここでの剰余の定義との関連で注目されるべきである。他に寺出~ においてもマルクスの剰余概念の整理と分析がおこなわれている。(もどる
(24)植田~ の物質代謝論アプローチ*を参照。(もどる
(25)剰余の生産がなかった日本の縄文社会では戦争もなかった。佐原~ , 佐原~ 。(もどる
(26)ホイッタカー~ 。(もどる
(27)世界資源研究所~ 。(もどる
(28)森林消失のメカニズム*をモデル分析したものとしてHosoda~ がある。(もどる
(29)安田~ 。(もどる
(30)西川~ , p.32。(もどる
(31)古島~ , p.219。(もどる
(32)生態系と経済をリンクさせた物質循環表については第 9 章で詳しく展開する。(もどる



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