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第 8 章 近代工業社会と欲求
  1 節 欲求の無制限性
  2 節 欲求の多様化と部分化
  3 節 自然の多様性と人工の多様性
  4 節 欲求のダイナミクス:必要欲求と剰余欲求
  5 節 欲求の無制限性と自発的制御



第 8 章 近代工業社会と欲求   (副目次へ

近代工業社会は,社会を構成するすべての人間の欲求の多様な発展が,社会の持続に不可欠となった人類史上初めての社会である。農業社会にはいる以前は近代工業社会とは違った形で,人間の欲求の多様な発展がゆっくりと進行していった社会であった。農業社会は欲求の多様な一般的発展が社会の原理とは矛盾するような社会である。この社会のもとで現実に進行した欲求の一般的多様化は,この社会を崩壊に導く決定的な契機となった。前章で示したように,日本の近世社会を例にとれば,幕藩体制*の後期には領主階級が多様な工業製品の消費主体となり,この消費の多様化が一般にも普及したために,工業が農業の必要を超えて発展し社会の剰余を吸収していった。これは,農業の再生産の困難を増大させ,農業による社会の剰余吸収を劣化させ,結果としてこの社会は崩壊してしまったのである。工業社会は再び人間の欲求の多様な発展を積極的に肯定する社会として立ちあらわれる。しかも,この欲求の多様な発展なしには持続不可能になる社会だったのである。本章では,近代工業社会における人間欲求の無制限な発展の意義,それを必要とする社会の構造およびそれを可能にする人間の欲求の構造の解明を試みる。

1 節 欲求の無制限性*   (副目次へ

まず,工業社会の発展に人間の欲求はどのように位置づくのかを明確にとらえておく必要がある。工業社会において,物的剰余の最も重要な形態は*経済成長のための社会的な総投資としてあらわれる。この物的剰余のうち,人口増加のための生産能力の増加に必要な部分は,道徳的な意味での必要部分であることを否定はできない。しかしこれによって,その部分も剰余であるという事実を変えることはできない。今日の先進工業社会を形成した国々が,一斉に工業社会に突入したのは 19 世紀に入ってからである。それ以来,短期的な停滞は工業社会に不可避であったとしても,長期的にみれば社会の剰余は順調に総投資に向けられてきた。また,単に生産の規模が増加するだけではなく,新しい財やサービスが次々に開発されてきたという点では,経済の質的な高度化および多様化も実現してきた。工業社会における*経済成長の具体的な内容は,このような量と質の発展だった。

社会の剰余は経済成長をもたらし,経済成長はより拡大した剰余をもたらした。今日の工業社会の到達点をみる限り,この社会の編成原理そのものの成功は否定しがたい。もちろん,この原理がはじめから無頓着であった自然環境*や人間性に関わる問題は,経済成長とともに深刻化してきている。しかし,それ以前,数千年にわたって継続した農業社会の原理を否定してあらわれた新興の社会原理であるにも関わらず,少なくとも今日まで工業社会はさまざまな危機を回避することができてきているのである。

スミスの『諸国民の富』の発刊以降,19 世紀にかけて登場した二人のイギリスの古典派経済学者は,勃興期の工業社会にあらわれた景気循環にともなう特有の不安定性を目前にしながら,この新しい経済の*持続可能性に関する真剣な議論を展開した。リカードとマルサスである。手紙や著作の中で繰り広げられた二人の論争は,多様なテーマを有しているが,特に過剰生産*による経済の*持続可能性の喪失に関する議論は,工業社会の基本的特質を理解する上で重要な意義をもっている。論争の基本的な構図は,マルサスが過剰生産*の危険性を強く指摘し,それを回避するための意識的な需要創出の意義を強調したのに対してリカードはマルサスの警告を受け入れなかった,とあらわせる。このことは,「供給はみずからの需要を創り出す」というセイの命題(セイ法則)*をリカードが受け入れていたものとして一般には考えられている(注1)。特に,ケインズが,マルサスを除く古典派経済学者の多くが有効需要不足の発生に対して否定的でセイ法則を受け入れていた,と指摘したために,このような理解は今日でも広く普及している(注2)。

しかし,リカードの過剰生産*の可能性に対する否定的な姿勢は,実はそれほど単純なものではない。

まず次のような点から確認していこう。ケインズがいうようにリカードなど古典派経済学者のほとんどが,一般的な過剰生産*の可能性を否定していたとするならば,まずかれらがそうした現実を目の当たりにしていなかったのではないか,と考えるべきであろう。しかし,古典派経済学*が直面していた 18 世紀末から 19 世紀初頭にかけての経済において,すでにイギリスを中心に過剰生産恐慌*が頻発していたのである。メンデリソンによれば,「過剰生産という現象は,歴史上 1788 年の恐慌ではじめにあざやかにあらわれ」その後,綿工業を中心に 1793 年,1797 年,1810 年と続き,そして 1815 年の恐慌で「過剰生産は,はじめて,しかも最も鋭い形態で,イギリスの重工業の主要な部門 --- 製鉄業と石炭工業にも波及した」ということである(注3)。さらに,1819 年の恐慌をへて,1820 年代には恐慌が全般性を帯びていったという。それらの恐慌は,リカードなど*古典派経済学者にとって,知らないあいだに終わってしまっていたとなるような軽いものでは決してなかった。古典派経済学は,その理論の現実性を重視した。したがって,かれらの中心的なテーマも,政策的色彩を強く帯びていたのである。にもかかわらず,かれらが経済全体を巻き込む一時的な意味での一般的過剰生産*すら否定していたとは考えられない。ソーウェルは次のように述べる。

「古典派経済学者は,文献においてときどき指摘されているような不況,失業あるいは売れない商品の存在を否定することの非合理の罪を着せられることは決してありえない(注4)」

特に注目しなければならないのは 1815 年の恐慌である。この恐慌はヨーロッパを舞台にしたナポレオン戦争,英米戦争など一連の戦争の集結の直後に起こったものである。戦争から平和への流れの中で,イギリスの主要産業はヨーロッパおよびアメリカへの輸出に重点をおいて急速な生産の拡大を行なった。イギリスの製品はそれらの国に溢れた。たとえば,当時木綿工業の生産額の約 8 割が輸出に回されていた。こうした戦後のブームはごく短期間で終わり,イギリスは一挙に過剰生産恐慌*に突入する。それは,海外におけるイギリス製品の乱売を引き起こし,恐慌そのものが輸出された。こうした過剰生産は,木綿工業にとどまらず,製鉄業および石炭工業にも波及していった。そして,もちろん大量の労働者の失業をともなっていたのである。この 1815 年の恐慌は,翌年には底をつきその後やや回復に向かったが,完全な回復を見ないうちに 1819 年の恐慌に続いていった。これらの恐慌を重視しなければならない理由は,この 1815 年から 1820 年という期間が,古典派経済学者*の中で,生産物の販路*をめぐって最も活発な論争が行なわれた期間だからである。1817 年にはリカードの主著である『経済学および課税の原理』が出版され,その後この問題をめぐってマルサスとリカードのあいだに活発な書簡のやりとりが行なわれ,1820 年にはマルサスの『経済学原理』,リカードのそれに対する『マルサス評注』,セイの『マルサス氏への手紙』が出版されている(注5)。*古典派経済学における 19 世紀の過剰生産問題*の活発な論争は,こうした恐慌を目前にしながら行なわれたのであり,また,だからこそ行なわれざるをえなかったのである。

このようなイギリス経済の現実の中でリカードが,一時的あるいは数年間続くような*過剰生産恐慌の可能性を否定することはありえなかった。したがって,当然,過剰生産の可能性とそれによる工業社会の停滞を強調したマルサスとの相違点は何だったのかが問題になる。それは基本的に経済のマクロ的不均衡の調整機能*クロ的不均衡の調整機能}に関する認識の差だった。リカードは,利潤の獲得を目的として生産のために投下された生産要素の総価値としての資本*は,人々の需要を喚起する産業に適切に移動することによって社会的な需給の不均衡が回復されることに確信をもっていた。すなわち,たとえ表面的には*過剰生産が持続していても,よりよい投資機会*を求める資本の運動*がこのような不均衡を遠からず克服すると考えていたのである。これについて,リカードはいたる所で明言しているが,短期的に持続する過剰生産は資本移動が不完全なことによる,という主張は次のような文章にもみられる。

「資本が,新事情が最も有利なものとしたそれぞれの位置に落ち着きつつある期間中,多くの固定資本*は遊休させられ,おそらくは全然維持できなくなり,そして労働者は完全に雇用されない(注6)」

「潤沢な資本と低い価格の労働が存在するのですから,豊かな利潤をもたらす何かの用途がないわけはありませんし,またすぐれた天才がいてその国の資本の配置を管理していたならば,かれはほとんど時をうつさないで営業をこれまで同様に活気づけるでしょう。生産にあたって人々が誤りを犯しているのであり,需要の欠乏があるわけではありません(注7)」

リカードの主張は,生産者が有利な投資機会を見逃すほど愚かでない限り,*過剰生産は資本移動*が可能である期間以上には持続しないというものである。工業社会が長期的には持続的な成長と発展が可能な社会であることにリカードは確信をもっていたのである。しかし,これらは,単にかれの主観的信念において与えられるものであると断ずるのは余りに軽薄すぎる。リカードのこうした議論の背景には,人間の欲求*に対する一つの認識が存在していることを見逃すことはできない。すなわち,生産能力が存在し,またもう一方で十分な欲求が存在しているときに,両者が経済の体系の中で出会うことが長期的に阻まれることはいかなる意味においてもありえないという確信である。そして,社会的な生産の体系において何らかの意味で能動的な役割を果たしうる人々の欲求が,資本に対して過少になることはありえないという,一つの社会観がそこには存在している。すなわち,そうした人々の欲求は資本の希少性*を再生産し続けるというとらえ方である。リカードは 1814 年 9 月のマルサスへの書簡の中で次のように述べている。

「われわれは有効需要が購買する力と意志との二つの要素からなっている点でも意見の一致をみていますが,私はこの力があるところに意志がかけていることはまずないと思います, --- というのは蓄積の欲求は消費しようとする欲求とまったく同じほど有効に需要を引き起こすからで,それはただ需要に向かう対象を変えるだけでしょう。もしあなたが,人間は資本の増大につれて消費に対しても蓄積に対しても無関心になるのだとお考えになるのでしたら,一国民についていうと供給は決して需要を超えることはできないというミル氏の思想に反対なさるのは正当です, --- が資本の増大はあらゆる種類の贅沢品に対する好みの増大をもたらすのではありますまいか,そして資本が増え利潤が減っていくゆくにつれて蓄積の欲求が減退してゆくのは自然だと思われますが,消費が同じ率で増えてゆくことも同様にたぶんありそうなことと思われます。...... 要約して申しますと,私は人間の欲望や嗜好は無制限だと考えます。われわれはすべてわれわれの享楽や力を増やそうと望んでいます。消費はわれわれの享楽を追加し, --- 蓄積は力を追加し,等しく需要を促進します(注8)]

そして,さらにこれに対するマルサスの返事を受けてこの点を次のように繰り返している。

「人類の欲望や嗜好に種々の効果を帰す点では私はあなたよりもはるかに先へいっています, --- それは無限だと信じます。人間にただ購買手段を与えてみてください,そうすればかれらの欲望は飽くことを知らないでしょう。ミル氏の理論はこの仮定の上に立てられています。それは資本の蓄積の結果生産されるであろう諸商品の相互の比率は何かを言おうとしているのではなく,人類の欲望や嗜好にかなう商品だけが生産されるであろう,なぜならその他のものは需要されないであろうから,ということを仮定するものであります(注9)」

リカードのこれらの文章から欲求に関するいくつかの視点を読みとることができる。その第一は,蓄積の欲求と消費の欲求を区別し,二つの欲求の違いに対する認識の必要性である。第二には,結局人々を蓄積と消費に向かわせる欲求の無制限性に対する認識の必要性である。

一般に,消費の欲求*と蓄積の欲求*はかなり異質な欲求であることを認めなければならない。ここでいう消費に向かう欲求は基本的に個人的な過程として行なわれるものである。それは財やサービスを一定の期間内に利用しつくすことを目的にしている。そして消費主体は利用対象としての財やサービスを具体的にとらえている。これに対して蓄積に向かう欲求は,リカードも指摘するように,普遍性をもった経済的力あるいは一般的な購買力の獲得を目的にしているという点で抽象度の高い欲求である。この点では個人的な貯蓄に対する欲求とは異なっている。個人的な貯蓄に対する欲求は,一面では確かに具体化されていない購買力の形成を目的にすることもあるが,特定の将来消費のために準備される場合もある。ところが,蓄積に対する欲求は,かならず生産物の需要の発生を期待して行なわれるという点で,より高い抽象性をもつことが不可避である。すなわち蓄積は,その直接の効果が,それを行なう主体の具体的な特定化した欲求の充足に向かうものではない。それは利潤という形でのより大きな一般的購買力をより安定的に獲得することを目的にしているのである。

すなわち,人間には具体的な財やサービスを対象にした欲求と具体的なものに結びつかない抽象的な欲求の両方がある。そして重要なことは,抽象的な欲求には,はじめから限界がないことである。人間にとって欲求とは対象の利用とそれによる満足感の獲得という内在化の過程を可能にする動機であり,抽象的欲求といっても対象が外在的なものであり続けることはできない。抽象的な欲求は人間の高度の観念の作用に依存しているのである。

蓄積の欲求が抽象的なものであり限界がないということは,たとえ消費に向かう欲求が何らかの理由によって制限されていたとしても,蓄積への欲求の必要な増加によって経済の長期的な成長が可能であることを意味する。それはたとえ蓄積がもたらす生産の拡大によって,それを吸収する需要の拡大が社会的に必要になったとしても,それをまた拡大した蓄積需要で処分すればよいからである。

しかしこのことは,リカードが主張する消費に対する*欲求の無制限性が,長期間持続する*経済成長にとってかならずしも必要ではないことを意味するのだろうか。確かに,短期的にはこのような状況が現実性をもつことはありえるだろう。しかし,数十年といった期間でみれば消費需要が制限され蓄積需要だけで経済の成長が持続するような状況はありえない。それは,蓄積に向かう欲求は抽象的であるがゆえに,非常に不確かで不安定なものであることからくる。蓄積需要は,過熱することがあるかと思えば,まったく冷え込んでしまうということが繰り返されるのである。

リカードは「資本が増え利潤が減っていくゆくにつれて蓄積の欲求が減退してゆくのは自然」と述べている。ここには,リカード特有の蓄積論*が反映している。リカードは,資本の蓄積によって拡大した人口を支えるための耕地の拡大が,劣等地の耕作を不可避とすることにより,実質賃金を上昇させ,利潤を低下させると考えていた。リカードのこの文章は,その意味で環境制約に突き当たっている今日の工業社会の状況を暗示するものである。しかし,この点を保留しても,この文章から,リカードが蓄積の欲求の不安定性を認識していたことは十分読みとることができる。

このような蓄積需要の不安定な変動が工業社会における景気循環の主要な要因となっている。そして,消費需要が制限されたまま長い期間成長を続けたような経済は,このうつろいやすい蓄積需要のために破壊的な危機を迎える可能性がある。したがって,不安定な蓄積需要のもとで長期的な*経済成長が実現するためには消費もまた持続的に増加し続けなければならない。すなわち,リカードのいう消費に向かう*欲求の無制限性もまた重要なのである。工業社会は,蓄積の欲求と消費の欲求の無制限性を車の両輪にすることによって,はじめて長期的な発展が可能になるのである。

こうしたリカードの「 人間的な欲求の無制限性*」という命題は,非常に重要な意味をもっている。というのは,リカード自身が直面していた工業社会はその後200年近く,長期的にみて巨大な発展を実現してきている。そして,その最も根本にあるのが,人間の欲求の質的な多様性と量的な増大をともなう無制限性にあることは事実として否定できないからである。

2 節 欲求の多様化と部分化   (副目次へ

工業社会における剰余の実現あるいは経済の持続的成長が人間的欲求の無制限の発展によって支えられているとするならば,その人間的欲求がなぜ無制限なのかを理解することが次に必要になる。そしてこのような視点から,工業社会にいる人間の欲求に対する理解を深めるうえで,ヘーゲルの欲求理論は格好の出発点を与えてくれる。

ヘーゲルの欲求理論はかれの市民社会*論の中に位置づけられている。ヘーゲルの市民社会とは基本的に近代工業社会を意味していると考えてよい。ヘーゲルは,市民社会において,社会の編成原理としての理念*が特殊性と普遍性という二つの契機に分裂している点を重視する(注10)。ヘーゲルは,近代工業社会において,私企業の利潤追求と個人的な消費による効用増加の追求というミクロ目的*(=特殊性の理念*)と社会的な物的剰余の増加とくに経済成長というマクロ目的*クロ目的}(=普遍性の理念*)へ社会編成原理としての目的が分裂*しているととらえる。農業社会においてもマクロ目的とミクロ目的*は存在していた。しかし農業社会においてはマクロ目的*クロ目的}をみずからの目的としていた実体的な統一主体,たとえば近世における武士階級などが存在していたために,ミクロ的主体としての農民,商人,職人がマクロ目的*クロ目的}の直接的支配におかれていたという点で工業社会のような形での理念の分裂が存在していなかった。

ヘーゲルによれば理念の特殊性を担っている主体は具体的人間であるが,それは欲求の充足を本質的な目的としている主体である。しかし,市民社会において欲求は普遍的な目的に合致しない限り充足できない。つまり,自己の欲求を満たすためには他人の所有物,生産物を自己の所有との交換によって獲得しなければならない。さらにこの交換はまた社会の相互依存関係の中での整合性がない限り実行不可能なのである。普遍的な目的との整合性を実現するすることは他人の欲求を充足することによるしかないという意味で,欲求の全面的相互依存の体系となっているのがこの市民社会*である。すなわち,市民社会を形成する第一の契機がこの「 欲求の体系*ということになるのである。この欲求の体系の中において人間は「 もろもろの欲求のかたまり*として登場することになる。

ヘーゲルはこの人間の*欲求の無制限性を動物の制限された欲求と対比させて次のように指摘している。

「人間の欲望は動物の本能のように閉ざされた範囲のものではないから,人間はおのれの欲望を表象と反省によって拡大し,これを悪無限的に追いつづける(注11)」

ここでの「悪無限」*とは,ヘーゲル特有の「真無限」*という概念に対比させているもので,ここでは通常の無限進行という意味ととっておけばよい。また,「表象と反省によって」は,人間の観念的な能力,知性の機能によるものであることに注意が必要である。さらに,人間の欲求の構造に立ち入る形で次のようにも述べている。

「動物の欲求*は制限されており,それを満足させる手段および方法の範囲も,同様に制限されている。人間もまたこうした依存状態にあるが,それと同時に人間はこの依存状態を越えて行くことを実証し,そしておのれの普遍性を実証する。人間がこれを実証するのは,第一には,欲求と手段を多様化することによってであり,第二には,具体的欲求を個々の部分と側面とに分割すること,および区別することによってである。そしてこれらの部分と側面とは,種々の特殊化された,したがってより抽象的欲求*となる(注12)」

ヘーゲルのこの記述の中で注目すべきは,人間が欲求とその実現手段の多様化と部分化によって動物的制限を超えていくと指摘している点である。欲求の多様化*とは欲求の対象すなわち消費や生産あるいは投資などに関わる財やサービスの多様化であり,手段の多様化とは工業社会における人間の欲求の充足が社会的な相互依存関係の下にある生産を媒介にしなければならない点をふまえれば,技術的な多様化である。部分化*とは,工業社会の高度な分業のもとで,最終利用にいたらない中間的な欲求の対象を生み出すことを意味している。ヘーゲルの主張にそって例を挙げれば,自動車に対する欲求は,人間にとって具体的な欲求である。しかし,この欲求を充足するためには,中間的にタイヤやエンジンやボディーに対しても欲求が生み出されることが工業社会においては必要になるということである。これらの欲求が部分化された欲求である。部分化された欲求*においては,欲求が具体的に充足されるわけではない。特別な場合を除けば,タイヤはあくまで車の部品となることによってのみ,欲求の具体的充足が可能になるのである。この意味で,ヘーゲルは部分化された欲求は抽象的な欲求*にとどまると指摘しているのである。

部分化された欲求が抽象的なものにとどまらざるをえないことは,その欲求の充足の追求がかならずしも具体的人間によって担われなくてもよいことを意味している。ヘーゲルの欲求の部分化は分業をあらわすものであり,分業の過程を担う私企業もまた*抽象的欲求としての利潤の獲得によって動機づけられていればよいのである。抽象的欲求のもとでは,利潤とタイヤといった欲求の対象の差異性そのものが捨象されて一向に差し支えないのである。

ヘーゲルはさらに具体的な欲求においても部分化された欲求においても,欲求そのものと手段が無限に多様化*することを強調している。自動車の場合,自動車そのものの多様化は自動車が開発されて以来今日まで休みなく進行している。また,それを生産する手段も,今日のロボットによる生産にいたるまで多様化が進行している。さらに自動車の部品を生産する工程もまた不断の多様化が進行しているのである。実際,消費生活にあふれる多様な商品を見れば,人々の欲求の多様化の進行の激しさ,それが人々の欲求の無限進行*に与えている重大な動機にすぐさま確信をもつことができるだろう。

また,ヘーゲルは欲求の多様化*の源泉についても一定の分析を与えている。第一に,当時のイギリス人の無限に快適な生活を追い求める状況を示して,欲求が人間自身の内発的な動機によって多様化するよりも,多様化された欲求によって利潤がもたらされる企業によって創り出されるという点を指摘する。これはまったく現代にも通じる。膨大な広告*によって人々の欲求が多様化し,あおられている状況は発達した工業社会に共通の特徴である。第二に,人間の欲求には 同等性の欲求* 特殊性の欲求*があり,これが欲求の多様化と拡大の源泉になっていると指摘する。これは,全面的な相互依存性にある市民社会は,経済的な関係で相互に承認しあう社会であるばかりでなく,人々の社会生活においても承認されることを求める社会であると解釈できる。その中で,人々は他人と同じような生活でありたいと願いながらまた同時に他人とは違った生活をすることによって社会の積極的な承認をえることを求める。特殊化された人々の生活に,それから取り残されている人々の同等化がすすみ再び特殊化を追うという形で,無限に欲求の多様化*と拡大が進行するとヘーゲルは指摘しているのである。

ヘーゲルによる工業社会におけるこれらの欲求の分析は,*古典派経済学者が*過剰生産論争を繰り広げていた 1820 年頃,工業社会の勃興期に行なわれていた。ヘーゲルがスミスをはじめ当時の*古典派経済学に対する研究をした時期のあったことはよく知られている。ヘーゲルの市民社会*分析の先進性は,欲求の本質的な理解からさらに市民社会が内包する本質的な矛盾*の理解にまでつきすすんでいるところにもあらわれている。その矛盾とは,古典派経済学者が論争していた過剰生産の問題であるが,ヘーゲルは哲学者らしく*古典派経済学とは違った視角からその問題をみていた。次の文章に注目しよう。

「もろもろの欲求や手段や享楽をとめどなく多様化し種別化する社会的趨勢には,自然的欲求と文化的欲求との差異と同じように,限界がない。この社会的趨勢は --- 一方では奢侈である。しかし他方ではこの趨勢は,依存と窮乏の無限の増大化である(注13)」

ここでヘーゲルは,欲求やその手段の無限の増加が,奢侈の無限の増加*と窮乏の無限の増加*という矛盾した傾向を引き起こすことを指摘している。工業社会における富*と貧困の共存である。ヘーゲルはこれを工業社会の本質的矛盾の結果としてみている。工業社会が欲求の多様化*と部分化のとめどない進行によって富*の蓄積を進行させる一方で,窮乏した失業者が増加していると指摘する。そしてまた直接的方法として,この窮乏化した人々を社会福祉的に救済*することは「市民社会の諸個人の自主独立と誇りの感情という原理に反する」と指摘するのである。

「そこで今度はかれらの生計を労働によって媒介するとすれば,生産物の量が増えることになるであろう。そうすると,一方では生産物があり余り,他方ではこれに釣り合った消費者が不足するということになるのであって,これがとりもなおさず禍の本質である。そしてこの禍は,前の直接的方法によっても,後の間接的方法によっても,ただ増大するばかりである。ここにおいて,市民社会が富*の過剰にも関わらず十分には富*んでいないことが,すなわち貧困の過剰*と賎民の出現を防止するにたるほどもちまえの資産を具えてはいないことが暴露される(注14)」

これは,当時の*古典派経済学者が論じていた工業社会における*過剰生産問題にたいするヘーゲル流の認識をあらわしている。この,過剰な富*と失業者と貧困の共存という図式は,ケインズの『一般理論』における 豊かな社会のパラドクス*という命題に通じるものがある(注15)。

ヘーゲルの欲求理論は,第一に工業社会の編成における欲求の重要な機能を明らかにしている。第二に,工業社会における人間欲求の無限進行における多様化と部分化の意義を明らかにしている。第三に,欲求の無限進行*と工業社会の禍の本質との関連の存在を示唆している。確かに,これらが工業社会の勃興期の時点で行なわれているという点で,その先進性を評価しなければならない。しかし,またそこに時代の限界もあらわれている。ヘーゲルは人間の欲求の無限進行が,人間の持続的存在の大前提としての自然環境のグローバルな破壊にまで突き進むなど,今日人類が抱えている重要な危機の源泉となる点まで到達することを予測できなかった。いま必要なのは, 人間*欲求の無制限性の工業社会的あり方そのものに対する批判なのである。

3 節 自然の多様性と人工の多様性   (副目次へ

ヘーゲルは人間の*欲求の無制限性を問題にする場合,動物との比較を繰り返し行なっている。ヘーゲルによる動物の制限性とは,基本的には利用可能な食物に関する制限およびそれ以外の生存環境の限定性である。言い換えればそれは,生態系の相互依存関係の中での動物の*ニッチの限定性である。ニッチとは光や水や食糧や場所など生態系を構成する生物にとっての多様な環境をそれぞれ一つの軸とする多次元空間としてとらえ,多次元空間の中で個々の生物種が存在可能な部分空間を指している(注16)。ヘーゲルにとって,動物欲求*の制限性とはこのニッチが特殊化され限定されていることに他ならない。動物のニッチが限定されていて人間がはるかに広く柔軟な*ニッチをもっているという場合,この差をどのように理解するかが重要な問題である。人間もはじめは生態系にうもれた動物の一個体群として存在していたのであり,この差を考えることは人間の現在の生活の仕方に対するより深い理解につながる。

確かに事実として,人間以外に生存のための欲求を能動的に多様化していく動物は存在しないようにみえる。人間以外の動物では,食物が他の特定の生物に限定されているもの(specialist)から,多様な生物を食物とすることのできるもの(generalist)まで存在する。しかし,これらの与えられた制約条件を主体的に積極的に克服する傾向をもつ動物は存在しない。人間もまた動物と同じように生活上の必要なもののほとんどを直接・間接に自然に依存しているが,生活の維持と拡大に必要な対象に対する欲求を無制限に拡大できる。

ただし,動物の欲求*や他の生物との関係のあり方は,制限され多様化する傾向を有しているとはいえないが,全体としての生態系は積極的に多様化する傾向をもっている。というのは,陸上生態系*で最も高い生産力をもち,したがってまた最も高い分解能力をもっている生態系は熱帯多雨林*の生態系である。この熱帯多雨林において種の多様性*が高度に発達していることはよく知られた事実である。観察可能な植物種の存在様式も動物種の存在様式も他の生態系とは比べもににならないくらい多様性の高いものとなっている。しかし,この熱帯多雨林では種間関係の特殊化もまた高度に発達しているのである。たとえばまったく特定の鳥によってしか受粉できないような植物の存在や,動物と植物,植物と菌類の共生*関係が高度に発達していることが確認されている。共生*関係の多様性は特殊化した種どうしの関係の多様化である。つまり,熱帯多雨林における高度の多様性は高度の特殊化と表裏一体の関係になっているのである。温帯や寒帯における森林生態系*は,熱帯多雨林*に比べれば*種の多様性の水準は低い。しかし,それぞれの種が他の種との関係では特殊化していながら全体としては多様な生物種によって担われている傾向は同じである。少なくとも生態系という生物システムにおいては,個々の主体の相互依存性の多様化がシステムの多様化をもたらすのではなく,主体の特殊化,専門化が全体の多様化をもたらすようである(注17)。

このことは次のように言い換えてもよい。すなわち,生態系の多様性*はマクロ的多様性*クロ的多様性}であり,個別生物主体の依存性の多様性はミクロ的多様性*である。そして,このマクロ的な多様性はかならずしもミクロ的な多様性に対応しているのではなく,ミクロ的な特殊性,依存関係の単純性に対応しているということである。これは生態系にだけいえることではなく,現代社会でもマクロ的な複雑化ないしは多様性は,ミクロ的な個性の尊重の上になり立っていることといくぶん似たところがある。

そこでこの生態系の豊かさ*がもたらすマクロ的多様性*クロ的多様性}と人間の*欲求の多様性の関連を考えてみよう。まず,人類が完全に生態系の中に埋もれている状態と,火を使い狩猟・採集経済*を行なう段階を比較してみよう。今日の類人猿が雑食であることをみれば,人類も,猿人*段階やそれ以前において雑食性であったことは確実だろう。雑食であっても,大量に食物とすることができたのは植物でも限定された果実や葉などであり,動物性の食物はより限定されていただろう。果実の場合は大型動物の食物となることを,その植物自身が最初から期待している場合もあるが,それ以外の場合は動物による摂食をさけるためにタンニン*やニコチン*やカフェイン*といった二次代謝物*を含有させているからである。また,動物の場合も毒を含んだり逃げる能力もち,摂食されることを回避している。しかし,人間が火を使い生態系から相対的に独立した段階では,植物などの場合,アク抜き*やシブ抜き*,毒消し*が可能になり,食糧の多様性*の拡大,したがってまた欲求の拡大が進むことになる。

日本史上の*狩猟・採集社会として縄文社会*を考えてみよう。*縄文時代が縄文土器*とともに始まることは特別に重要な意義をもっている。縄文土器は煮炊きするために用いられた(注18)。煮炊きするとは自然にある直接的な食糧対象物の改質である。それによって,直接形態では大量に利用することができない植物でも安定した食糧源にすることができる。土器を用いて煮炊きすることによって,焼くなど火を直接利用するだけの加工に比べて,食糧の多様性*を飛躍的に広げることができる。したがって,それはまた人間の*欲求の多様性の拡大である。注目すべき点は,この多様性の拡大は一種の生活技術の進歩*によってもたらされたものであり,今日のような生産技術の進歩によってもたらされたものではないことである。

縄文人*は動物性食物として貝類 300 種以上,魚類約 70 種,獣類 70 種,鳥類 35 種ほど利用していた。また,植物性としては 400 種以上を利用していたと推定されている(注19)。なかでも縄文人の主要食糧は堅果類*である。栗*などはそのまま食べられても,どんぐり*やトチの実*などの利用のためには,手の込んだ火と土器を使ったアク抜きをしなければならなかった。縄文人*の生活技術が多様な食糧の利用を可能にしていた。それによって,食糧確保のリスクを分散させることができ,気候の変化などで特定の食糧の確保が困難でも多様な代替食糧に依存することができたのである。

ここで最も興味深い点は,縄文人における欲求の多様化*と現代人の欲求の多様化との間のある本質的な差異である。すなわち,前者があくまで自然のもともともっている多様性を生活に取り込む形での多様化であるのに対し,現代人の多様化は人工物のうえでの多様化である。これは何も,食糧に対する欲求にのみあてはまるわけではない。自然の多様性を欲求の多様化の土台とするという縄文人の基本的な傾向は生活全体を支配する基本原則だった。そして,現代における欲求の多様化もまた生活全体にわたる人工物のうえでの多様化*なのである。

縄文人の欲求の多様化*は,したがって本質的に自然と整合的である。すなわち,*環境としての生態系が豊かで多様性に満ちあふれることが,縄文人*の欲求の多様化を実現する決定的な条件なのである。生態系が,どれだけ多様な生物種の存在によって多様な食糧と生活の材料を提供することができるかが,生活の質と規模を規定していた。もちろん,縄文人の多様な欲求の実現を支えていたのは石器や火と土器を用いたかれらの生活技術である。技術を用いることは対象の直接性を破壊することであったが,現代人のように人工物のうえにさらに人工物を積み重ねてつくりだされている多様性よりも,はるかに自然に近い形での多様性であることは明らかである。このような縄文人の自然の直接的な存在に近い多様性は,かれらの廃棄物*もまた自然に返りやすいものであったことを示している。もちろん*縄文人がかれらの環境としての生態系の改変や破壊をまったくしなかったということではない。生活の場の周辺の森林は生活材料の確保のために切り出されることもあった。しかし,重要なことはかれらの生活の豊かさがあくまで自然の豊かさと密接に対応していたということである。

以上を前提にすると,縄文社会*から弥生社会*すなわち*狩猟・採集社会から農業社会への変化の意味はどのようにとらえられるであろうか。農業社会は近代工業社会の直接的な先行社会であるからこの意味の理解は近代工業社会の理解を深める助けにもなるはずである。

弥生社会*とは稲作農業が本格的に開始された社会である。したがってそれは,米が支配的な食糧となることであり,縄文社会*のような食糧に関する多様化傾向の放棄を意味していた。縄文社会は自然と多様な*チャンネルを確保することによって生活の安定をめざした。これに対して弥生社会は,自然とのチャンネルを極端に少なくしてしまった。弥生社会は,縄文社会*の多様性による安定化を犠牲にしたかわりに,人間労働の大量の投入による食糧の生産を実現し,土地*あたりの食糧獲得の可能性を増加させた。これによって技術の性格が根本的に変化した。縄文社会*の技術はチャンネルの多様化のための技術だったのに対し,*弥生社会では少ない*チャンネルから獲得可能な量の増加のための技術になったのである。そして,これによって初めてヘーゲルの欲求の部分化*が発生することになる。抽象化された形での欲求の増加が進行するようになる。すなわち,分業の発展である。

農業社会はこのようにマクロ的多様性*クロ的多様性}を放棄した社会だった。それは農業部門,農業生産物の剰余の増加へ社会編成のすべてを貢献させたところにあらわれている。そして,農業社会を否定して成立した工業社会はこのマクロ的多様性を復活させた。しかし,繰り返し述べているようにそれは縄文社会の多様性とは本質的に異なり,生産技術の上の多様性,人工物の上での多様化*の結果なのである。

工業社会においては,マクロ的な多様化の欲求がミクロ的な欲求の多様化を手段として発展する。マクロ的な多様化の動機は利潤という抽象的な対象であり,具体的な限界をもっていない。ミクロ的な欲求の多様化とは工業社会にいる諸個人の欲求の多様化である。工業社会は,縄文社会が一面そうであったように多様化によってシステムの高い安定化をめざす。しかし縄文社会とは異なり,この無限の多様化は人工的,生産技術的なものであり自然の生物的基盤*すなわち環境*としての生態系の多様化とは独立に進行する。それによって環境の豊かさと多様性*は視野の外におかれることになるのである。

4 節 欲求のダイナミクス:必要欲求と剰余欲求   (副目次へ

ここで,人間の欲求が多様化し拡大するダイナミックな構造について分析しよう。これは単に人間の欲求に対する理解を深めるためだけではなく,生産における社会的な剰余とは何かを理解するうえでも重要な意義をもっている。

人類は,農業社会に突入することによって生産を軸に社会を編成するようになる。そして,社会の全生産は生産を定常的に持続させるために必要な部分と残りの部分すなわち剰余の部分に分けられる。そして,この剰余の最大獲得を実現するように社会は編成されたのである。これは社会の生産が必要と剰余に分けられる工業社会にいたっても完全に維持されている。もちろん社会的剰余の内容や測り方,したがって社会の編成原理は農業社会と工業社会では大きく異なっている。問題は,社会的生産のうちのどこまでを必要とするかを明確にするために,人間の欲求のダイナミクス*を理解することがどうしても必要になるのである。

社会的生産のうちの必要部分を定めるためには,その生産の持続に必要な労働を維持するための,財の種類と量が明確になっていなければならない。しかし, 労働維持するための財という意味を確定すること自体がそう簡単なことではない。たとえばそれは,肉体が必要とする食糧エネルギーであるのか。たとえもしそうだとしても,それは主食の穀物だけで測るのか,でなければ他のどのような食物を勘定するのかが問題にならざるをえない。そして,明らかに労働を維持するための財を食糧だけで測るのは問題がある。原始的な農業社会の段階においてすら,住居や一定の衣料が必要とされていたはずである。そして,そのような段階と今日のような高度な工業社会とはまた状況が違っていると考えざるをえない。つまり,労働の維持に必要な財は歴史的に変化するもので,いかなる時代にも共通した人間の肉体的条件によって決まるものではないのである。このような変化を考慮しなければならないところに,必要財の種類と量を確定することの重大な困難性がある。

そもそも,特定の時代,特定の社会における労働を維持するための財やサービスの消費水準は,与えられるものと考えてよいのかという問題が存在する。たとえば,比較的発達した工業社会において,直接生産者の広範な層は賃金を主要な所得とする労働者として存在するが,労働者のなかでも時間で計った同一労働に対して高額所得者からごく低所得者まで広範に存在している。確かに,労働の質に大きな違いがあることはまぎれもない事実だが,経済社会の持続的再生産のために知的労働*が肉体的労働*よりも経済的貢献度が高いことを示す技術的根拠は存在しない。工業社会における賃金の格差*は,主要にはその質の労働の生産にかかった費用の差を反映している。労働の質の格差の程度をあらわす客観的指標が困難であるために,このような格差は平均化によって取り除くことが妥当である。格差の他の原因としては,賃金の格差に,異なった質の労働の希少性の差の情報を反映させ,人々を動機づけていることもある。

労働能力の再生産のための財やサービスの消費水準の平均が,不確実で任意性をもったものではないことの根拠は,そのような平均水準がその社会を支配する文化によって規定されていることにある。つまり,個性による差はあるものの,社会的に区別されたある質の労働にたずさわる人がどのような消費をどれだけしなければならないのかは,常識として理解されている社会的規範によって与えられるのである。この消費文化は変化の軸として,一般基準と,個人の差異に対応する特殊基準をもっている。一般基準をもとに,ある業種のある規模の会社のある地位にいる労働者の消費はこれくらいでなければならないということが暗黙に与えられるのである。この基準は一面で,大量の広告などを通して生産の側から能動的に与えられ,もう一面で,ヘーゲルも指摘するように人々から是認されることの欲求,他人と同じでありたいという欲求によって労働者もこの基準を受け入れざるをえなくなることが基礎となっている。つまり 同等性の欲求*が働くのである。そして,この消費水準をもとに,それを裏付けるものとしての賃金水準が社会的,経済的状況を反映させて決定される。少なくとも発達した工業社会において,賃金水準を規定するものは文化的,社会的,経済的状況であり,賃金闘争*はこうした状況を反映させるための手続きなのである。

このような直接生産者の平均的消費水準に対する欲求を 必要欲求*と呼ぶことにしよう。この必要欲求を個人のレベルでみると平均化された抽象的な個人の消費水準の実現を求める欲求であり,それと総人口の積はその社会全体としての具体的な必要欲求である。この必要欲求は社会的な生産のうち,その規模と質の経済を持続的に再生産するために必要な,直接生産者の消費に向かう欲求である。このような必要欲求の定義は農業社会においても工業社会においてもまったく妥当する。しかし,これらの社会は剰余を生産しなければならない社会である。社会が剰余生産を目的に国家として組織されているのである。したがって,社会的生産のこの必要を超える部分,物的剰余として存在する部分にも対応する欲求が存在しなければならない。この部分に対する欲求を 剰余欲求*と呼ぶことにする。

工業社会における主要な剰余欲求は社会的剰余生産物に対する投資需要としてあらわれる。このような欲求は基本的に個々の企業家の資本蓄積に対する需要としてあらわれるものであり*抽象的欲求である。投資需要の物的構成にしても,その財が企業家の欲求を直接に充足するものではない。すでに述べたように資本蓄積*に対する欲求は抽象的であるが故に無制限である。同様に投資に対する物的需要も抽象的である。たとえば,自動車会社が新しい工場を増設し,そこに溶接ロボットなどの固定設備を設置するとしても企業家にとってはかれ自身の邸宅やゴルフのクラブなどのように欲求の具体的で直接的な充足を可能にするものではない。

このような必要欲求と剰余欲求という二つの概念を前提にして,人間の欲求はどのように長期的に増加し続けてきたのかを明らかにしよう。企業家の蓄積に対する欲求は社会的な総投資需要として集計される。それは不可避的に経済規模の増加と質的な多様化という形での*経済成長をもたらす。このような生産する側の都合によって,最終消費という形での需要の多様化と増加を要求せざるをえなくなる。もちろん,すでに述べたように生産増加を追加的な投資需要によって利用するという形の成長の持続は短期的あるいは理論的には可能だが,長期的には持続しえない。特に工業社会において,生産する側は最大の具体的欲求である消費的欲求を広告*などの媒体を用いて加速的に喚起する。消費する側における欲求の多様化と増加は,必要水準を超えた消費に向かうことになる。このときの必要を超えた欲求の充足は社会的生産物の必要部分ではない部分,剰余部分によって行なわれざるをえない。したがって,消費主体のこの必要欲求を超えた欲求は,ミクロ的な意味での剰余欲求なのである。

この消費主体における剰余欲求が生産物の剰余部分の消費によってしか充足されないとするならば社会的な分配機構もそれを実現するように機能していなければならない。特に直接生産者は一般に,価値的手段の分配,すなわち農業社会における主食的穀物の自家消費のための留置分,また工業社会における貨幣賃金などは,ちょうど必要欲求を満たすだけに調整される。そのような状態では追加的な剰余欲求を充足する手段がないのである。したがって,直接生産者などの消費主体が剰余欲求を充足するためには,社会的剰余のこれらの消費主体への追加的分配が必要になる。特に*経済成長が絶えず求められる工業社会においては一般的生産水準の増加によって労働者に対して剰余消費が可能になるような分配が,賃金の上昇や減税などによってもたらされることになる。このような消費主体における欲求の多様化と拡大には,消費において他人とは違ったものを求めるヘーゲルの 特殊性の欲求がより積極的に機能するだろう。

剰余欲求は自己否定的である。すなわち,それが実現することは必要欲求に転化することを意味する。誰もが自動車をもつようになると,それに対する欲求は剰余欲求ではなく必要欲求に転化する。この転化を制度化するのが文化である。このような例は,人々が日々否応なく観察しているところである。人間欲求の多様化と増大は剰余欲求が必要欲求に転化することによって行なわれるのである。

個人にとっての必要欲求と剰余欲求との差異を人格のあり方との関連でとらえておくことも必要である。人間が何かを欲することは,かれの人格のあり方と深い関連をもっている。欲求という積極的な外に向かう姿勢は内部的な否定的意識と対になっている。欲求する人間は,欲求対象によって満たされるべき人格的内容が欠落しているという意識をもっている。たとえば,自動車に対する欲求は,自動車がないことによって本来「あるべき自分」が実現していないことの意識をあらわしているのである。自動車をもっていないことはそれによってえられるべき利便性*が充足されていない,家族との遠出ができていない,異性のパートナーとのつきあいがすすまないなどが人格的欠落の意識となっている。欲求とは実現されていない自己の自覚と,その成就への衝動をあらわしている。欲求は現在の人格的欠落にある自己を否定していくことを求める。欲求とは自己否定に直面した意識なのである。

したがって,具体的欲求の基本的な充足過程である消費は肯定的な自己実現の過程をあらわす。しかし不幸なことに消費は一種の破壊である。対象が財であろうがサービスであろうが,消費は対象の部分的かつ全面的な消費可能性の喪失なのである。この消費としての破壊の過程としては,さしあたって二つの種類のものが確認される。物理的な破壊と精神的な破壊である。精神的破壊*というのは,あらゆる消費対象が,常に精神的充足をともなうものであることによって,その帰結として生じるものである。人間にとっての充足という行為は,また常に充足すべき対象であることを否定するのである。あらゆる対象の消費過程は,両者の色合いの違いはあれ常にこの二つの破壊の過程である。そして,その破壊の過程は自己否定の過程であり,したがってまた欲求の創造の過程でもある。

必要欲求はその充足としての消費をとおして,社会の持続に必要な労働能力を再生させる。ところで,この労働能力は人間の内に存在しているすべての能力をあらわしているのではないし,またそうした多様な能力から独立してその労働能力が存在しているわけでもない。労働能力が維持されるというのは,人間が人間的生命として維持されることによって,すなわち単に労働に関わる能力だけでなく,人間の肉体と精神の総体そのものが維持されることによってはじめて実現されるものなのである。すなわち,再生産される労働能力というのは,人間的生命の能力の総体が再生産されることによる副産物にすぎないのである。このことから,必要としての欲求によって実現が意図されるのは,単に労働能力ばかりでなく,人間的生命力のある一定の水準も意味していることがわかる。必要欲求は人間の一般的な能力を維持するための対象を獲得しようとする主観的な衝動なのである。

すでに,欲求が一つの自己否定の意識*である点について述べたが,必要としての欲求というのは,もしそれが実現されない場合,すでに獲得したところの自己の人間的能力の喪失状態を生み出すような欲求である。しかも,人間の欲求の実現はその欲求の解消であると同時に,対象の物理的および精神的破壊を通して,同一の規模と多様性の欲求そのものを生み出すことになるような,一種の定常状態に陥る。一方,剰余欲求の実現が,必要の場合と同じような過程を通して欲求を生み出すことになるのである。しかし,剰余欲求は必要欲求とは異なり人格的拡張をもたらす。ただし,剰余欲求の充足をとおして拡大された人間的能力は,それを維持するための欲求を必要欲求として再生産することに注意しなければならない。また剰余欲求は,必要欲求とは異なり,その実現によって新たな欲求を創造する特別な機能をもつことができる。この意味で,剰余としての欲求は常に拡大生産的である。

もちろん,剰余欲求が人格の発展を動機づけているとしても,そのことが直ちに剰余欲求が望ましい道徳的価値*をもつということではない。工業社会においては,このような人格的拡張が,基本的に人工物とそれによって支えられているサービスと一体になって行なわれるためにさまざまなゆがみを発生させる。たとえば自動車を欲求し消費することは自動車に固着する形で人格の発展*が行なわれることを意味する。自動車そのものが人格の一部と化するのである。しかし,それはこの人工物が不可避的にもつ不完全性を人格のなかに取り込むことを意味する。生命とその無限の多様性と複雑性*,整合性の人工物化が不可能である限り,工業社会における人工物は不完全性*を排除することができない。このことは,生命的生産物である農業生産物までが大量の農薬*の洗礼を受けていることに象徴的にあらわれている。自動車もまた,自動車事故*にあらわれているように,利便性のための不完全な道具なのである。

5 節 *欲求の無制限性と自発的制御   (副目次へ

人間的欲求の本質は,知性の産物であるところにあらわれている。他の動物と共通にもっている本能的欲求*は知性的欲求によって乗り越えられている。欲求は大脳皮質*の観念的機能によって支配されているのである。人間の欲求はまったく新しい対象に向かうことがあるという点で創造的である。人間的欲求の創造性は多様性と観念性という二つの次元をもって具体的に展開する。そして,このような人間欲求の傾向におよそ限界はありえない。

動物の*欲求の多様性を,与えられた環境の下での利用可能な食物の多様性でとらえると,多様性の幅については種間でばらつきがある。しかし確かなことはかれらが,自己の遺伝子*にはめ込まれている本能的な制約を大きく超えることができないということである。遺伝子に刻み込まれた長い進化*の歴史は,生物圏に多様に存在する共生関係にあらわれているように,逆にこの制限性を強めることによって種の発展を実現しようとする傾向がある。生態系もまた広い意味での一つの共生システム*と考えられ,熱帯多雨林にあらわれているように種間関係の特殊化によるマクロ的多様性*クロ的多様性}も同様の傾向をあらわしている。すなわち,生物圏においてはミクロ的主体の多様化能力による生存条件の拡大ではなく,その能力をみずから放棄しシステムのマクロ的豊かさによって生存条件を拡大する傾向が支配的なのである。これが数十億年にも及ぶ生物の進化*が生み出してきた神がかり的智恵である。

人間の欲求は現象的にみると,生物圏の中にあるこの傾向とまったく逆の方向に歩んでいるようにみえる。すなわち,人間は生存条件の拡大を自己の欲求と能力の無限の多様化と発展によって確保しようとしているのである。

*環境の危機をはじめとする今日の人間存在の危機*を,このような人間欲求の特殊性と無関係のところで解決することは不可能であろう。人間の欲求のあり方を見直さなければならないことは明らかである。しかし,人間欲求の限りない発展そのものを一般的に抑止することによって,欲求の問題を解決することもまた不可能である。創造的に発展する欲求を外的に抑止することは,人間に対し,かれがすでに知ってしまったことを忘れるよう強制するくらいに,困難でばかげている。

長期的に見た解決の方向は次の二つくらいしかないようにみえる。第一の方向は,自然のもつ無限の多様性にそって人間の欲求の多様な発展をすすめることである。今日の,一方での人間の欲求の無制限の発展と,もう一方での*環境の有限性との矛盾という図式は,人間の側からみて効率のよい対象に限定しながら環境との関係を形成していることから生み出されている。効率を犠牲にする形で,環境の多様な能力を正しく評価し,それを生かすような生産と生活の様式を実現することによって,人間の欲求を解放することを考えなければならなくなるだろう。

第二の方向は,抽象的,観念的欲求*とその充足を物的,具体的欲求とその充足よりも自由に発展させることである。さまざまな科学や芸術をとおした人間の知的欲求*の充足が重要になる。工業社会を支えてきた技術もまた,自然を豊かにする社会に有用な技術をのぞいては,芸術化することが望ましい。芸術*はコピーを嫌いオリジナルなものに高い評価をあたえる。技術は大量のコピーを生み出すことによって評価が与えられてきた。あらゆる技術そのものの発展を強制的に制御する必要はまったくない。社会的にみて不要な技術や望ましくない技術があらわれた場合に,オリジナルな知性としてのみ社会に蓄積し,技術の具体的行使,コピーの生産*は社会の合意の下に抑止するのである。たとえば,核兵器*は,生産した後に使用の抑止が問題になっているが,本来,核兵器の理論的可能性を明らかにした段階で抑止しておくべきものだったのである。

脚注

(1)Say~ 。(もどる
(2)ケインズ~ 。(もどる
(3)メンデリソン~ 。(もどる
(4)Sowell~ , p.43。(もどる
(5)リカード~ , マルサス~ ルサス68}, リカード~ , セイ~ 。(もどる
(6)リカード~ , p.306。(もどる
(7)リカード~ , p.256。(もどる
(8)リカード~ , p.155。(もどる
(9)リカード~ , p.171。(もどる
(10)ヘーゲル~ , pp.413-427。(もどる
(11)ヘーゲル~ , p.419。(もどる
(12)ヘーゲル~ , p.423。「欲求」*は原著では,Bed\"{u}rfnis(独),英訳本では need(英)である。Hegel~ , Hegel~ 。(もどる
(13)ヘーゲル~ , pp.426-427。(もどる
(14)ヘーゲル~ , p.470。(もどる
(15)ケインズ~ , p.31。(もどる
(16)生態学におけるニッチの概念については本書 p.\pageref{page:niche} 以下を参照。(もどる
(17)「種の多様性」は,森林破壊などによる生物種の急激な減少との関係で注目されている。本書 p.\pageref{page:biodive} 以下を参照。(もどる
(18)小林~ 。(もどる
(19)本書 p.\pageref{page:jomon} 参照。(もどる



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