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第 9 章 自然社会と環境価値
  1 節 物質循環表
  2 節 環境能力指標と環境価値体系
  3 節 環境価値と市場価格
  4 節 自然私有の限界と共同管理



第 9 章 自然社会と環境価値   (副目次へ

人間の持続的生存の危機の根元には,剰余生産に動機づけられる社会の発展と,その本質的条件である自然的,人間的制約条件との対立がある。剰余生産社会は行き着くところまできてしまった。いま,人間に求められるのはマクロ的な社会編成の動機が剰余としての豊かさではなく,自然の豊かさが社会の豊かさの条件であるような新しい社会編成の原理を構想し,社会のその方向への接近のために共同した努力を積み重ねることである。それ以外に,ここまで力と知性を積み上げてきた人間の持続的生存が可能になる道は残されていない。

そもそも,自然の内容であるさまざまな生態系が人間による搾取と人工物の廃棄によって急速に貧困化しているもとで生み出されている経済的剰余は,本当の意味での剰余ではない。剰余とはシステム全体の定常的な*持続可能性が前提になっていなければならない。経済というシステムだけで剰余が測られるために,それを支えている生態系というシステムの持続可能性を無視している状況が,架空の剰余をマクロ目的*クロ目的}とするような社会を生み出してしまったのである。

剰余は多様な形態をもちうる。このことを理解することが決定的に重要である。これまでの歴史で,一つの形態の剰余を批判することは他の剰余を弁護することを意味していた。スミスの『諸国民の富』における重農主義者への批判は,農業社会の農業生産物で測られる剰余に対する批判となっていた。結果的にかれが擁護したのは利潤と成長であらわされる工業社会的な剰余だった。マルクスはこの工業社会の剰余を批判したが,かれの理論はその剰余を労働剰余で測り直すことを意図し,労働社会という特殊な社会をめざすものだった。そして世界の現実が明らかにしていることは,剰余はどのような形で測ろうとも*環境としての自然,生態系に過剰な負荷を与えるのである。

先進工業国を中心に経済活動の方向を変更しなければならない。新しい方向は現在の生産技術がもっている潜在的な剰余の生産能力を犠牲にして,自然の豊かさを回復することである。そして,豊かになった自然が人間の新しい豊かさにつながるような社会のシステムをつくりあげることである。このような社会的な剰余を抑制しながら自然の豊かさの回復と増進をめざす社会を*自然社会と呼ぶことにしている。自然社会において犠牲にしなければならないのは剰余であって,現在の人々の生活水準を規定しているさまざまな必要財貨やサービスを犠牲にすることではない。生活上の浪費や奢侈は縮小しなければならないが,基本的な生活水準はそのまま維持できる。したがって,剰余を犠牲にすることは江戸*時代や*縄文時代,石器時代*の生活に戻ることではまったくないのである。

本章の目的は,この*自然社会の基本的な見取り図を描くことである。そもそも自然が豊かになるとはどのような状況を指すのか,現在の剰余生産能力を犠牲にすることがどのような関係で自然の豊かさにつながるのか,このようなシステムを維持するための人間相互の関係あるいは社会制度はどのようなものであるか,などがまず明らかにされなければならない。この基本的な見取り図はさらに詳細な見取り図と,人々の具体的な取り組みへの重要な手がかりを与える。

1 節 物質循環表   (副目次へ

経済的剰余の抑制が自然の豊かさにつながる道をとらえるためには,経済とその*環境としての生態系の間の,物質循環を媒介にした構造的関連を認識しなければならない。生態系それ自身が食物網*などのさまざまな錯綜した物的連関によって構成されたシステムである。そして,このシステムからさまざまな物質を搾取し,人工物をそこへ廃棄している経済もまた複雑な生物システム*となっている。搾取と廃棄を通した二つのシステムの連関もまた決して単純なものではない。このような物質循環を媒介にした二つのシステム自身とそのあいだの関係を一つの表であらわそう。そして,このような表を物質循環表*と呼ぶことにする。関係の全体を完全にあらわす物質循環表の作成は将来にわたって困難だろうが,人間が二つのシステムの間の構造を認識するために必要な部分を表現する表は,緊急に作成しなければならないものである。

物質循環表がどのような役割を果たしうるかを理解することを目的として,ここではその最も単純なプロトタイプの表を構成しよう。したがってそれは,生態系も経済も共に単純なシステムとして表現しているものとならざるをえない。生態系はそれぞれ集計した生物主体として植物,動物および分解者からなる。経済の主体は生産主体としての農業と工業,そして消費主体からなる。経済は生態系から主要に植物体と動物体を搾取し排泄物や人工廃棄物*を廃棄する。生態系と経済という二つの生物システム*全体の外部的条件を「外部」という一つの主体としてあらわす。

主体間の関係を媒介する物質や用役などの要素もまた主体と同じようなレベルの単純化をする。生物システム*の主要なエネルギー源としての太陽光,生物による呼吸廃熱,大気循環と炭素循環の全体を代表する意味で二酸化炭素,物質循環のもう一つの主要な要素としての水,窒素・リン・カリなどの栄養塩類,植物体,動物体,そして遺体・排泄物は生態系にとっての難分解物としての腐植*なども代表するとしよう。経済活動に関わるものとしては,それぞれの部門の生産物と労働,そして化石資源や鉱物資源なども抽象的な一つの資源として扱う。そして,さまざまな廃棄物を人工廃棄物*にまとめる。

このような関係を表~T1 にあらわす(注1)。この表はフローだけをあらわす表である。フローの各要素の不均衡はストックの変化をもたらすが,ストック表は省略する。フローである限り,それはある一定の期間について定義された量であるが,認識を助けるために 1 年の間のフローであると特定化して考えてもよいだろう。

外部 植物 動物 分解者 農業 工業 消費
太陽光 Eo Epi -- -- -- -- --
呼吸廃熱 Ri Rpo Rao Rdo -- -- Rco
二酸化炭素 Cio Cpi, Cpo Cao Cdo C1o C2o C3o
Wo Wpi Wai Wdi W1i W2i W3i
栄養塩類 Nio Npi Nao Ndo N1o N2o N3o
植物体 -- Ppo Pai -- P1i -- --
動物体 -- -- Aao -- A1i -- --
遺体・排泄物 -- Dpo Dao Ddi -- -- D3o
農業生産物 -- -- -- -- X11i, Y1o X12i X13i
工業生産物 -- -- -- -- X21i X22i, Y2o X23i
労働投入 -- -- -- -- L1i L2i L3o
資源投入 Bo -- -- -- -- B2i --
人工廃棄物 Mi Mpi Mai Mdi M1o M2o M3i, M3o

表(T1) 物質循環のフロー表

表そのものについての細かい説明を加えておこう。それぞれの列の各欄に掲げている記号は,その主体に関わるフローの量をあらわす。上付きのサフィックスの i はその主体が取り入れている要素の量をあらわし o は外部に出している量をあらわす。一つの主体が同一の要素を投入も排出もする場合,たとえば植物にとっての二酸化炭素のような場合,それぞれを別な記号であらわす。ただし,外部についてだけは,取り入れるか排出するかは条件によるので,両方の可能性がある場合を io というサフィックスであらわすことにした。この io というサフィックスのついた外部主体に関わる量は正の値も負の値もとりうると想定している。その他の記号は基本的に正の値をとるものとしている。大文字の記号は要素を区別し,下付きのサフィックスは主体を区別する。ただし,外部は主体を区別するサフィックスを省略している。

この物質循環表の機能を理解するうえで,各要素のマクロ的バランスに注目することが有効である。というのも,今日の深刻な*環境問題のほとんどがこのバランスとの関連でとらえられるからである(注2)。地球的規模の環境問題の中で,現実化したときに最も深刻な影響を人類に与えると考えられている地球温暖化*問題は,二酸化炭素のバランスの問題である。温暖化ガス*としてはメタン*など効果の大きなものが存在するが,石油や石炭などの資源を利用した人間の活動による排出規模の大きさから二酸化炭素の効果が最も注目されている。この物質循環表を地球的規模の生態系−経済の構造とみると二酸化炭素の大気からの吸収量と排出量は次のようにおよそバランスしていなければならない。

Cio + Cpi \simeq Cpo + Cao + Cdo + C1o + C2o + C3o

左辺は二酸化炭素のシンクとなるべきものをあらわし右辺はその排出源である。ここで,Cio は外界による吸収である。大気中に排出された二酸化炭素は植物などによって吸収 Cpi されるだけではなく,海洋によっても吸収されている。*地球温暖化問題は,人為的な排出源,C1o, C2o, C3o, などの規模がシンクと比べて余りにも巨大化したために,大気中の二酸化炭素濃度を押し上げ宇宙への熱の拡散効果を弱めてしまっていることから発生するといわれているものである。もちろん,およそ気候が関係しているために,強い不確実性をともなっている。

水のバランスもまた重要である。大域的にも地域的にも淡水資源としての水は外部からの利用可能な形態での定常的供給量が使用量に等しいかそれを上回ることが必要である。すなわち,

Wo ≧ Wpi + Wai + Wdi + W1i + W2i + W3i

である。世界の中では人口増加*や過剰耕作*による地下水源*の過剰搾取による地下水位の低下,さらには枯渇や地盤沈下*の問題がある。アラル海*などでは湖に流れ込む水量が減少し塩水湖化*してしまっている。また,森林などの植生の破壊がその地域を含む水の循環のバランスを破壊し,それによって降水量が減少し,さらに砂漠化*へ進行している地域もある。これらは定常状態としての水循環をめぐる環境の危機*であるが,上流における森林破壊*が,水の保水機能*の喪失から下流に洪水をもたらす例は,遠い昔から今日まで,いたる所で発生している。

栄養塩類のバランスも環境問題の観点から注目に値する。栄養塩類のバランスが環境問題と結びつくのは地域的な問題が多い。そこでは供給の過剰も過少もまた問題になる。したがって,

Nio + Npi \simeq Nao + Ndo + N1o + N2o + N3o

が持続可能なバランスである。Nio はリンなどのミネラル類が岩石の風化によって生物系に供給される場合は負であるが,リンの最終的なシンクとなっている海底のように外部が吸収主体として機能する場合は正である。農業は肥料という形での栄養塩類の直接的な供給主体である。工業の場合,廃棄物が間接的に栄養塩類の供給となる可能性がある。消費主体である人間は,排泄物を通しての分解者を経由しない,直接的栄養塩類の供給はほんのわずかで,生活排水を通して間接的な形式の栄養塩類の供給を行なう。今日,大気中の不活性窒素*をアンモニア*にして肥料化する工業固定による窒素の供給は,窒素固定菌*などの働きによる自然的固定に匹敵する量になっているといわれる。しかし,これ自体が直接に環境破壊とはなっていない。栄養塩類の過剰供給による環境問題として注目されるのは,海水や湖水への生活排水,工場排水による赤潮*などの水圏生態系*のバランスを壊す形での問題である。

栄養塩類の過少供給による環境問題は,過剰耕作*に関連したものである。生物圏における栄養塩類の吸収は植物によって行なわれる。一定地域に,植物を栄養塩類の供給能力以上に作付けすれば土壌の能力を急速に劣化させ,それが土壌の乾燥化や流出を招く。人口増加*によるその地域の森林生態系*の再生能力以上の焼畑*が,表土の乾燥化や流出によって森林そのものの再生を不可能にするのもこのような形での環境破壊の一種である。

植物体や動物体の生態系からの過剰搾取**環境破壊となっている例もまた無数にある。植物体や動物体が持続可能なバランスを維持するためには,他の要素のバランスが維持されているという前提のもとで,

Ppo ≧ Pai + P1i
Aao≧ A1i

という範囲に搾取は制限されていなければならない。

このバランスに関わる最も深刻な*環境破壊は森林破壊*である。森林からの商業伐採*は,林業を農業に含めれば,P1i にあらわされ,焼畑*や通常の農耕のための伐採もまたこれに含まれる。これらの直接的な動物体・植物体の搾取は,*種の多様性の減少という形での*環境破壊に密接に関連している。たとえば,熱帯多雨林の破壊*は,それが保持している地球上での最高に多様な種の大規模な絶滅を引き起こしている。熱帯地域における密猟などによって多くの動物もまた絶滅に瀕している。地球上の生物的多様性*の減少は,生命に対する愛情から問題になるというより,人間の生存を直接に脅かすものとしてとらえられるべきである。なぜなら,地球上の生物どうしの複雑でグローバルな相互依存関係を人間は完全に理解できていないからである。アフリカ象*が急速に減少することが,それを消費者として物質循環の中で生かしている生態系にとって,いかなる時間的視野のもとにどのような影響を与え,結果として地球全体にどの程度影響を与えるものか,人間はまだ十分理解できていない。また,完全な理解に到達することがそもそも可能であるかもまた分かっていないのである(注3)。

人工廃棄物*のバランスには多様な環境問題が集約的に関係している。まず,注意すべき点は,外部,植物,動物,分解者による廃棄物の取り込みは,それぞれの主体が必要としているという意味ではなく,それぞれの主体の廃棄物シンクとしての能力,同化能力をあらわすものである。同じ意味で,人間もまた生物的機能として人工廃棄物*のシンクである。もちろん,人工廃棄物*には多様な種類のものがある。ゴミとも呼ばれる都市廃棄物*や産業廃棄物*などの主として個体廃棄物から,大気汚染*を引き起こすような窒素酸化物や硫黄酸化物などの気体廃棄物,工場廃液*などの液体廃棄物がある。また,水系や生物の汚染を引き起こす農薬*やその他の化学物質もまた基本的に廃棄物である。たとえば,作物にとりつく虫を殺すことを目的にした農薬は,作物やその農地から流れ去った時点から有用性を失った廃棄物となるのである。

人工廃棄物*を取り込むことそれ自身が,生物のシンクとしての機能である場合がある。たとえば,廃棄物となった木材がシロアリ*によって消化されることは,シンクとしての機能をあらわす。有機物の廃棄物は,バクテリアや菌類による分解の対象となる。これも生物的シンクである。樹木によって,気孔から窒素酸化物*や硫黄酸化物*が取り入れられることも,このような直接的なシンクとしての機能であろう。これに対して,重金属や有機塩素系化合物*など,生物濃縮を引き起こすような物質の場合,取り込みそれ自身がかならずしもシンクとはならない場合もある。生物濃縮過程*における,食物連鎖*の上位者が取り入れた汚染物質を遺体などの形で外部シンクへ沈降させる場合には,生物はそれらのシンクとして機能しているといえる。

重要な点は,人間も含め生物の人工廃棄物*シンクとしての機能は,その生物自身の生命力を劣化させる場合が多いことである。その意味では,物質循環表にある取り込み可能量は一種の閾値と考えなければならない。すなわち,それ以上の取り込みが該当する生物主体の正常な機能を損なう限界値をあらわしているとみなすのである。したがって,人工廃棄物*の廃棄が定常的に持続可能であるためには,次のようなバランスが維持されていなければならない。

Mi + Mpi + Mai + Mdi + M3i ≧ M1o + M2o + M3o

左辺は対象とする人工廃棄物*に関する全シンクの同化能力であり,右辺の全廃棄量はこれを超えてはならないというのが,正常なバランスをあらわすのである。

物質循環表の各列の意味についても若干の説明を加えておこう。各列はそれぞれの主体が取り入れるか排出している要素量をあらわす。一つの主体に関わるさまざまな要素の量のあいだには何らかの関係がある。たとえば,植物にとって固定化している太陽光エネルギーの量と生産している有機物や取り入れている水や二酸化炭素の量は光合成という化学反応を媒介にして関係している。農業や工業の場合の要素の間の関係は,経済学で生産関数*と呼ぶものに対応している。ただし,経済学で用いられる生産関数の場合,経済的に希少であるとあらかじめ判断されている財貨や,資源,労働などについてのみ要素として考慮する場合がほとんどであるが,ここでは生態系とリンクしているさまざまな要素,あるいは廃棄物を同時に考慮するものとなっている。

2 節 環境能力指標と環境価値体系   (副目次へ

物質循環表を前提に,経済活動と自然の豊かさとをつなぐ環をとらえることにしよう。自然の豊かさとは,生態系がみずからを組織する傾向に沿って,マクロ的な能力を増加させることによって実現するものである。この生態系の能力は,経済を支える*環境の能力をあらわす。そして,*最大呼吸仮説に依拠すれば,この豊かさの指標のとしての生態系のマクロ的な能力は,その生態系の生物群集の総呼吸によって代表させることができる。以下,この*群集総呼吸によってあらわされる生態系のマクロ的な能力を環境能力指標*と呼ぶことにしよう。表~T1 の物資循環表上の環境能力指標(=群集総呼吸) \Re は次のように与えられる。

\Re = Rpo + Rao + Rdo

定常状態で実現可能なこの \Re が*環境能力指標であり,これが増加することが自然が豊かになることの内容なのである。

しかし,この増加は二つの条件のもとに行なわれなければならない。第一の条件は生態系にとっても経済にとっても外部的な環境である生物的な拘束から免れているグローバルな大気や水を中心にした物質循環,気候や地理的環境*などである。表でいえば,外部に属する部分は生態系にとっても経済にとっても完全な与件として扱われなければならない。

第二の条件は,今日の文化的に必要とされる生活条件のもとでの人間(現存人口)の持続的生存である。いかなる意味でも,人間の持続的生存を無視した自然の豊かさは無意味である。自然の豊かさを求めること自体が,一つの人間的価値観の表明なのである。また,現存する人口から出発しなければならないことも当然である。人口の将来的変動について何らかの人間的制御が行なわれることはありえるだろうが,現存人口の意図的な変更は不可能である。物質循環表*でいえば,消費主体の列にあらわれる物質フローは与えられているとしなければならない。

本来は,消費主体の物質フロー構成は一つの生活様式を表現するものである。たとえば,農業生産物と工業生産物の構成比や,廃棄物と他の消費財との構成比などは消費主体の選択問題であるが,与えられた文化状況ではこの選択幅はある限定された範囲にとどまらざるをえない。ただし,人工廃棄物*の廃棄量などは,消費のあり方や自家労働*の増加などによって急速に減少させることも可能性である。以下の議論ではこのような努力は最大限行なわれたものと仮定しよう。

この外部的条件と人間的条件が与えられているものとして,*環境能力指標 \Re の増加を推進する社会が*自然社会である。結果として,この社会で経済的剰余は一時的,偶然的にしか存在しないことになる。なぜなら,それらの剰余の生産は不可避的に自然に対する負荷を不必要に増加させるからである。

このような自然社会の目的の整合性を示すための一つの方法として,表~T1 のモデルを線形モデルにして,*環境能力指標 \Re を最大にする線形計画問題を構成してみよう。外部と消費主体は与件であるからそのままでよい。その他の主体を,それぞれの主体の主要な生産物の量で活動水準(アクティビティレベル)を測り,すべての他の要素がこの活動水準に比例的に排出ないしは取り入れていると想定しよう(注4)。まず,各主体の活動水準を測る基準となる量を,植物は植物体生産量 Ppo ,動物は動物体生産量 Aao ,分解者は栄養塩類生産量 Ndo ,農業と工業はそれぞれの生産量 Y1o および Y2o とする。これらの活動水準をあらわす量は,単純化のために以下では,P,A,N,Y1,Y2とあらわすことにしよう。そして,各列の量をそれぞれの活動水準で除して要素フローを係数化しよう。これらの係数はそれぞれの大文字の要素記号を小文字にしたものであらわすことにする。念のために,すべての係数を表~T2 にあらわしておく。

植物 動物 分解者 農業 工業
太陽光 epi -- -- -- --
呼吸廃熱 rpo rao rdo -- --
二酸化炭素 cpi, cpo cao cdo c1o c2o
wpi wai wdi w1i w2i
栄養塩類 npi nao 1 n1o n2o
植物体 1 pai -- p1i --
動物体 -- 1 -- a1i --
遺体・排泄物 dpo dao ddi -- --
農業生産物 -- -- -- x11i, 1 x12i
工業生産物 -- -- -- x21i x22i, 1
労働投入 -- -- -- l1i l2i
資源投入 -- -- -- -- b2i
人工廃棄物 mpi mai mdi m1o m2o

表(T2) 物質循環表*の係数表

生態系および経済の活動水準や構造は,P,A,N,Y1,Y2 の 5 個の変数によってあらわされ,表~T2 における諸係数はすべてそれぞれの主体の活動水準が 1 である場合のフローである。これらの活動水準は任意に与えることはできない。生態系と経済の持続的存在が可能であるためにはこれらの活動水準が一定の条件を満たさなければならない。この条件を与える式群は以下のようなものである。

Eo ≧ epiP   (E1)

これは,植物の生産に必要な太陽光エネルギーが供給されていることをあらわす。

Cio = (cpo - cpi)P + caoA + cdoN + c1oY1 + c2oY2 + C3o   (E2)

これは二酸化炭素に関するバランスである。すでに述べたように,*地球温暖化の観点からは右辺が左辺を上回らないという条件でよいが,生態系における二酸化炭素の希少性も考慮して等号にしておいた。もちろん現実には,このような厳密な等号が必要なわけではない。

Wo ≧ wpiP + waiA + wdiN + w1iY1 + w2iY2 + W3i   (E3)

これは,淡水の需要が供給を上回らないという条件である。

Nio = npiP - naoA - N - n1oY1 - N3o - n2oY2   (E4)

栄養塩類に関するバランスをあらわす。現実には,二酸化炭素と同様に完全な等号でなければならないということではないが,数学的定式化の必要性からこのように表現している。

P ≧ paiA + p1iY1   (E5)

生体としての植物体に関するバランスである。

A ≧ a1iY1   (E6)

同じく,動物体に関するバランスである。

dpoP + daoA + D3o ≧ ddiN   (E7)

遺体・排泄物に関するバランスである。これもまた,本来等号に近い状態が望ましいものである。

Y1 ≧ x11iY1 + x12Y2 + X13i   (E8)

農業生産物に関するバランスである。生産された農業生産物は再生産のための原材料投入か必要消費にしか向かわないことを前提にしている。もし,左辺が右辺よりも多くなれば一時的に物的剰余が発生していることになる。しかしこれは,自然の負荷を減らす形での生産水準の減少が可能であることを意味するにすぎない。

Y2 ≧ x21iY1 + x22Y2 + X23i   (E9)

工業生産物に関するバランスである。農業と同様に,社会の再生産の必要以上に生産は行なわないことが基本になっている。

L3o ≧ l1iY1 + l2iY2   (E10)

労働に関する条件である。左辺は社会としての歴史と文化から規定される平均的な労働供給可能量であるが,もしこの量が右辺よりも大きい場合には,各産業における労働使用強度を増大させより生産財を節約するような技術への変更が必要とされるだろう。この意味で,労働による形での剰余の発生も抑止される。

Bo ≧ b2iY2   (E11)

化石資源*や鉱物資源に関するバランスである。

Mi + mpiP + maiA + mdiN ≧ m1oY1 + m2oY{2} + M3o - M3i   (E12)

人工廃棄物に関するバランスである。左辺は環境の人工廃棄物に関する全同化能力をあらわす。

P, A, N, Y1, Y2 ≧ 0   (E13)

最後に,生態系と経済の主体の活動水準の非負条件である。これらの条件は,真の意味での経済的均衡を与えるものである。つまり,経済自身の活動以外の全体を与件とした,従来の狭い意味での経済的均衡ではない。それは,経済にとって最も重要な環境である生態系の均衡が同時に満たされることを要求し,経済の持続可能性*をあらわす条件なのである。

生態系や経済がとりうる活動水準はこれらの条件式を満たすものでなければならない。それらのうちから自然経済においては生態系自身のマクロ的な自己組織化*の方向を支持するように経済活動が選択される。すなわち,*環境能力指標のより大きな水準を実現することが,経済のマクロ的な自己組織化*の目的となるのである。したがって,目的関数は環境能力指標 \Re の最大化,

Max. \Re = rpoP + raoA + rdoN   (E14)

である。この式(E1) 〜 (E14) によって一つの線形計画問題が定式化されたことになる。

この問題の双対問題も示しておこう。双対問題の変数は,各要素の*呼吸廃熱価値である。したがって,呼吸廃熱と同じ単位,たとえば熱量単位となる。この廃熱価値を,ve,vc,vw,vn,vp,va,vd,v1,v2,vl,vb,vmとしよう。これらの価値は,表~T2 の行の呼吸廃熱を除く要素を上から順番に対応させたものである。それぞれの要素の 1 単位の価値をあらわしている。双対問題の制約条件式は,1 単位の活動水準によって生産される要素の総価値が投入要素の総価値を上回らないというもので,各主体についてそれぞれ次のようになる。

rpo + vp + vddpo + vmmpi ≦ veepi + vc(cpi-cpo)+vwwpi + vnnpi   (E15)
rao + vnnao + va + vddao + vmmai ≦ vccao+vwwai + vppai   (E16)
rdo + vn + vmmdi ≦ vccdo + vwwdi + vdddi   (E17)
vnn1o + v1 ≦ vcc1o + vww1i + vpp1i + vaa1i + v1x11i + v2x21i + vll1i + vmm1o   (E18)
vnn2o + v2 ≦ vcc2o + vww2i + v1x12i + v2x22i + vll2i + vbb2i + vmm2o   (E19)
ve, vw, vp, va, vd, v1, v2, vl, vb,vm ≧ 0   (E20)

ここで,一つ注意しておくべきことは,人工廃棄物*に関して,mpi,mai,mdiは,記号上は取り入れる量になっているが,内容的にはそれぞれ植物,動物,分解者の 1 単位の活動水準あたりの人工廃棄物*の同化能力をあらわしている。それに対応して,農業と工業は,生産されたその能力を消費していることになっている。式(E20) は非負条件をあらわすが,二酸化炭素と栄養塩類については現問題の制約条件式が等号であるために,非負条件をはずしている。

双対問題の目的関数は,外的与件の総価値を最小にするというものである。すなわち,

Min. veEo + vc(Cio-C3o) + vwWo + vnNio + vdD3o - v1X13i - v2X23i + vlL3o + vbBo + vm(Mi+M3i-M3o)

となる。この,式(E15) 〜 () によって双対問題が定式化されたことになる。双対定理*によって,それぞれに実行可能解が存在する限り,もとの問題における目的関数 (E14) の最大値と双対問題*における目的関数() の最小値は一致する(注5)。

この双対問題における各価値が意味するのは,システム内部におけるそれぞれの要素の希少性の度合いである。すなわち,システムがその要素を外部から 1 単位だけ取り入れることによって*環境能力指標が増加させられる量,言い換えれば自然が豊かになる量である。この場合それは,外部的に投入された要素の貢献度をあらわすことになる。あるいは,システムがその要素を 1 単位だけ内部的に生産しなければならないことによって環境能力指標が減少させられている量であり,この場合はその要素に費やされている費用と解釈してもよい。いずれにしても,自然の豊かさを実現する上でのその要素の希少性をあらわすものが各価値なのである。したがって,これらの価値は人間の側からみれば一つの整合的な環境価値体系*となっている。すなわち,経済にとっての環境との整合性をあらわす指標なのである。そこで,以下ではこの双対問題によって与えられる各要素の*呼吸廃熱価値を環境価値*と呼ぶことにする。たとえば,経済的財貨につけられたそれぞれの環境価値,v1,v2 は,それぞれの財の生産によって間接的に自然に与えている負荷,*環境能力指標が減少させられている量をあらわしている。

この生態系−経済モデルにおいて,経済に物的な剰余は発生していないことをみたが価値的な剰余はどうだろうか。農業部門についてみてみよう。農業部門の*環境価値によるバランスをあらわしているのは式(E18)である。目的関数の最適値を与える均衡で,この式は等号で成立するようになる(注6)。なぜなら,この式が厳密な不等号で成立することは,農業部門の生産が行なわれていないことを意味するが,それはありえないからである。この式(E18)が等号で成立することは,*環境価値で測った農業部門の投入価値と産出物の価値とは等しい,すなわち価値的な剰余も損失も発生していないことを意味するのである。

*環境価値で測ると経済に価値的な剰余が発生しないというのは,次のように言い換えることができる。いま,S1 を次のようなものとして定義しよう。

S1 = -vnn1o + vcc1o + vww1i + vpp1i + vaa1i + vmm1o   (E21)

すると,均衡において等号で成立している式(E18)は,次のように書き換えられる。

S1 = v1 - (v1x11i + v2x21i + vll1i)   (E22)

これは,経済部門で生産された財や労働の価値のみを考慮した剰余の定義式に形式的に一致している。(E21)におけるS1は,農業部門が供給する肥料が環境の豊かさをそれほど高めているとは考えられないので,通常は正と考えられる。つまり,この(E22)は,経済の世界で価値的剰余と呼ばれているものが,実は自然そのものが負担している費用を,不当に収奪しているものにすぎないことを強く示唆しているのである。これとまったく同様の議論は工業部門についても成立する。

この点を前提にすると, 社会のすべての剰余を自然に返すという*自然社会の基本理念が鮮明になる。すなわち,経済において通常剰余と呼ばれているもの,すなわち農業社会における農業の主生産物で測った剰余あるいは工業社会における利潤の基本的源泉は自然にあるのである。それは,自然の負担,負荷を経済が自然に対して支払わずに収奪しているものであり,これを自然にもう一度返そうというのが自然社会の編成原理なのである。

3 節 環境価値と市場価格   (副目次へ

*環境価値体系は自然を豊かにする上で重要な役割を果たすものである。それは,生態系と経済に関わるさまざまな要素間の価値的比率も与える。ところで,価値的な比率を与えるものとして経済生活の中にいる人間にとってもっともなじみの深いものは,市場で現象する価格である。経済に関わる要素に限定されるが,価格もまた要素間の相対価値を与える。そして,現実の企業や消費者の経済行動を規定しているのは*環境価値ではなく,市場価格*である。環境価値体系は,社会のマクロ目的*クロ目的}に付随して与えられるものである。自由な市場ではこのようなマクロ目的は考慮されない。したがって,環境価値も*市場価格に影響を与えなければ,絵に描いた餅にすぎないのである。

*環境価値体系が与える相対価値と市場価格が与える相対価値の最も重要な差異は次の点にある。すなわち,市場価格が自然の構成要素の価値ゼロとしてしまうのに対して,環境価値は生態系を構成するさまざまな要素も正の価値をもつことを前提にしていることである。この差によって,取得の様式に違いがでてくる。前節でも述べたように,環境価値が生産への貢献として与える生態系要素への価値評価を,*市場価格のもとでは利潤という形で生産主体への分配分として処理してしまうのである。したがって,*環境価値を現実化するためには,まず利潤を適切に抑止するような価格が成立することが必要である。このような価格の成立は,物的な剰余の生産を抑止するという効果も同時にもつ。なぜなら,物的剰余の主要な利用主体である企業の投資能力が失われていくからである。物的剰余の利用である投資に対する社会経済的意欲が高くても,企業に信用による購買力の移転が行なわれない限り,企業は現実的な投資を実行できない。*自然社会のもとでは,家計もまた,貯蓄の供給主体となりえない。なぜなら,所得は歴史的,文化的に規定された消費に対する支出を可能にする程度以上には獲得でないような,社会的な規制が行なわれるからである。したがって,このような場合は物的剰余を可能にするくらいの生産が行なわれてもそれは利用できないわけである。もちろん,自宅などの必要な耐久消費財を購入するための一時的な貯蓄は必要になるだろう。しかし,マクロ的にみれば,貯蓄の追加と取り崩しが相殺されるために,この部分の考慮は不要である。

したがって,物的剰余の生産への誘因が強い状況では,発生しうるであろう利潤部分は課税などの負担によって社会的に徴収され,自然の回復や維持への非生産的支出に向けられなければならなくなる。また,生産がちょうど社会の必要消費をまかなう程度に落ちついている場合は,一時的な利潤を発生するような価格の体系が成立したとしても,生産物が消費に優先的に向かうような制度が外的に組み入れられている限り,利潤の購買力は投資財の高騰によって吸収されてしまう。

問題は,企業の生産に対する意欲が強いときに,たとえ予想される利潤に対する分を,課税などによって社会的に吸収することが試みられても,その分を企業がただ生産物価格に上乗せするだけならば,このような利潤を抑止する試みは成功しない。物的剰余も企業によって利用され,経済は不必要な規模の拡大を強制されてしまうのである。したがって,この場合には明らかに*市場価格を厳しく監視しなければならなくなる。*市場価格を監視するということは,市場的な経済活動そのものに制限を加えることである。たとえば,市場における価格の変動幅を,許容される一定の範囲に制限するというような政策も必要になるだろう。これは,市場が自由市場という状況から大きくかけ離れざるをえないことを意味している。すなわち,このように,環境価値を価格として具体化するためには,市場へ大胆な制約を加えることが不可欠なのである(注7)。

このような価格体系の中で発生する剰余の制御は,物的剰余の直接的な抑制策と並行的に進めなければならないだろう。利潤の成立を抑制することは物的剰余の購買力の抑制につながるが,信用などを通した貯蓄の移転によってそれを回復することも可能になる。したがって,物的剰余を抑制するためには,私企業の投資誘因に対する社会的な規制も必要である。この投資誘因を規制することの主要な困難は,新しい企業が成立し社会的に不要になった古い企業が死滅するという形での,企業の社会的な新陳代謝*と投資の社会的抑制*をどのように両立させるかである。ここで詳細な政策を立てることはできないが,主要な点は,すでに巨大化した企業の新規投資を累進的な課税によって抑制することである。また,純投資だけではなく更新的投資に対しても必要な監視が行なわれなければならなくなる。*自然社会は,アクティビティの高い中小企業によって支えられることが基本とならざるをえない。

また,*市場価格体系を*環境価値体系へ接近させるという問題は,たんに利潤の実現を許すか否かという問題だけではない。現実の*市場価格の相対比を,環境価値の相対比に接近させるという点からも重要な意味をもっている。この重要性は,経済における技術や消費バスケットの選択問題に関連して明らかになる。利潤に対する厳しい制約がおかれた経済では,一面で生産活動に対する意欲の低減も起きるだろうが,もう一面で特別な一時的利潤を獲得するための*技術革新をめぐる熾烈な競争が繰り広げられる可能性もある。このような技術革新への動機は,生産コストの低下を一つの主要な目的としている。しかし,一般に現行の価格で費用を下げる技術が,自然経済の目的である生態系の豊かさ*を実現するのに貢献するとは限らない。しかし,新しい技術を*環境価値体系によって評価し,従来の技術をより費用を低下させるような技術である場合,特殊な場合をのぞいて,それはマクロ的にみて自然の能力,すなわち生態系の*環境能力指標を増加させる技術となるのである。

たとえば,農業部門の技術は表~T2 の農業部門の列の諸係数全体によってあらわされている。同じく工業部門の技術はその列の係数であらわされている。*自然社会においては,現行技術より新技術の方が生態系における環境能力指標を増大させるときに新技術が生産技術として選択される。このような選択過程は,何らかの社会的な強制力によって行なわれるのではない。*市場価格体系が*環境価値体系を大きくはずれていない状況では,市場価格で測った超過的な利潤を生じる場合に選択されることになる。この利潤は一時的なものである。超過利潤による,新技術に対する優遇も一定期間に限定され,その新しい技術のもとで社会の再編成が行なわれることによって,この超過利潤も消滅する。また,人々の消費選択も環境価値に導かれてより環境負荷の少ない方向,自然を豊かにする方向に自発的に進行することになるだろう(注8)。

工業社会の生産活動のできばえは,国内総生産* (GDP) の成長率で測られる。それは,国内総生産がどれだけの水準であるかではなく,どれだけ増加したかが問題とされることを意味する。これは,この社会の物的剰余が*経済成長に用いられる生産物であることの必然的な結果である。この社会では,ただ高い水準の国内総生産が維持されるというだけでは,「経済停滞」というレッテルを貼られてしまうのである。国内総生産が増加し続けるような経済,社会を組織することが,主要なマクロ的動機となっているのである。これに対して自然経済はより高い水準の自然の豊かさの中で,社会の豊かさを実現する社会である。したがって,この社会の豊かさを測るものは国内総生産ではなく,*環境能力指標である。もちろん,環境能力指標の成長率の大小ではなく水準そのものが評価の基準である。したがって,現在のような国内総生産が中心となったような国民経済計算体系*は,根本から改められなければならなくなる(注9)。環境としての生態系や物質循環の構造も考慮され,経済と環境の全体的なバランスがみえてくるような新しい環境経済勘定体系が構築されなければならない(注10)。

したがって,初期の*自然社会においては従来の国内総生産*の成長率で測れば,停滞ないしは後退という状況と*環境能力指標の増加という状況が一定の期間持続せざるをえない。工業社会とは異なり,これらの状況は回避すべき悪い状態ではない。このような状況の中で,私企業の投資意欲が減退すれば,それは逆に望ましいと言えるだろう。また市場の活動水準も低下せざるをえないだろうが,ただ労働市場の停滞だけは問題とならざるをえない。つまり,生産の停滞が失業者の増加を招くといった事態を最大限回避することが必要になる。失業については,さまざまな政策的対応が可能だが,重要な点は,生産の停滞や後退時の主要な政策が,生産そのものの回復ではなく,労働市場対策*に集中するということである。*自然社会では,工業社会で行なわれていたような有効需要を創出するための政策を行なわず,それらを可能にしていた経済的能力を雇用対策に集中させることが基本的政策となる。

4 節 自然私有の限界と共同管理   (副目次へ

社会が共同して豊かにしようとしている環境としての生態系が,特定の主体の排他的な支配のもとにあるというのでは整合性がない。環境としての生態系は,社会の共同的な目的の対象なのである。また一方で,生態系の生み出す剰余なしには人間の生存は不可能であり,生態系の剰余は経済的に利用されなければならない。経済的に利用される形式は多様にありえるが,生態系の剰余が私的な支配を受けることを意味する。つまり,環境としての生態系は共同的な目的*となると同時に私的な支配も許容する対象とならざるをえないのである。

共同的な目的*としての生態系には,森林,河川,湖沼,海などとともに農耕地なども含まれなければならない。さまざまな生物が非生物的環境とともに一つのシステムを創り出し,それを持続させることによって人間の経済活動や生活の環境となっているものはすべて,環境としての生態系である。社会的な取り組みによって生態系が豊かになることは,豊かにされた部分が社会の共同的な管理のもとにおかれなければならないことを意味する。そして,その豊かになった状態を持続させるために必要な要素は生態系の剰余ではない。その要素は経済活動による私的支配の対象から排除されるべきである。したがって,共同的な管理のもとにおかれるべきものは,生態系の生み出す剰余を除くすべての部分である。生態系を持続させる要素生産物の必要部分だけではなく,それを可能にする主体とそれらの相互依存関係,構造の全体である。農耕地も,たんなる工場ではない。土壌そのものがさまざまな土壌動物や土壌微生物のあいだの相互依存関係,蓄積されている腐植や栄養塩類からなる一つの生態系であり,あるいはまた水源との構造的な関係においてもまた,社会の*共同的な目的となる部分をもっているのである。それが,農耕地であるということは,人間の積極的な介入を反映して,自然林などの生態系に比べて,必要部分に対する剰余部分の割合が大きいことを意味しているにすぎない。

ただし,必要部分と剰余部分を確定することはそれほど単純なことではない。一面では,生態系の側からみなければならないと同時に,もう一面では経済の側の都合も考慮されなければならない。つまり,社会が文化的に,歴史的に規定される消費を維持するために必要な生態系からの搾取や,生態系の廃棄物シンクとしての能力の利用は避けられない。したがって,環境としての生態系がより高い能力の水準に到達可能な状況が存在しても,経済の側の都合でそれ以下の水準にとどめられるということはありうる。もちろん,その犠牲を最小限にするのが,*自然社会の基本原理である。

*環境としての生態系からの搾取可能な剰余を見積ることは社会の最も重要な機能の一つである。そのためには,経済の側の必要がどれほどの生態系からの搾取を要求するかを,その自由度とともに見極めなければならない。つまり,社会の要求する消費水準を実現するために必要な生態系搾取に関わる要素構成のオプションを算定しなければならないのである。そして,そのオプションのうちどれが最も生態系の能力の犠牲を少なくするかを評価しなければならないわけである。その評価のためには,生態系の構造に対するより深い理解が不可欠となる。ただし,生態系の構造は多くの場合,経済よりも複雑であろうし,外部的な搾取がどれほど影響を与えるかを完全に把握することには困難がともなわざるをえない。したがって,この点では与えられた科学的な知見のもとに最善の評価を導き出す努力が必要である。

経済活動を完全な管理下におくことは不可能であり,またそれはさまざまな非効率性を生み出す。したがって,環境としての生態系に対するオプションは計画としての側面と予測としての側面をもたざるをえない。算定された生態系剰余そのもの,あるいは剰余の利用権は私的所有の対象となる。この剰余を私有化させる制度には多様な可能性があるが,現実にどのようなものとすべきは,ここでの議論の範囲を超えている。

脚注

(1)この表は,第 6 章の表~\ref{tab-6-1} と表~\ref{tab-6-2} を統合し,人工廃棄物*を要素として追加するなど一定の拡張を行なったものである。記号も変更している。(もどる
(2)環境問題の全体像をえるためには,寺西~ など参照。(もどる
(3)「種の多様性」をめぐる問題については,エーリック~ に詳しい。他に岩槻~ , 沼田~ 。(もどる
(4)線形性の仮定については,第 3 章参照。(もどる
(5)双対定理については,本書の付録参照。(もどる
(6)本書の付録参照。(もどる
(7)*市場経済への介入はさまざまな困難をもたらす可能性がある。*市場経済を理解する新たな枠組みに対する模索を試みているものとして,塩沢~ がある。また,環境問題に関する市場の位置づけについては市橋~ も参照。(もどる
(8)これは,ある資源の価値体系が与えられ,その価値にもとづいて技術や消費の選択が行なわれると,社会的なその資源投入が減少することと理論的には同じ構造である。これについては,鷲田 で多面的な分析を加えている。(もどる
(9)国民経済計算*については斎藤~ 。(もどる
(10)国連統計部は環境も考慮した勘定体系の構成と普及をめざしている。それは,Satellite System for Integrated Environmental and Economic Accounting (SEEA) (環境経済統合勘定*に関する衛星体系)といわれている。しかし,それも基本的に現在の GDP 中心の経済計算勘定である。生態系の内部的な構造をふまえたものにもなっていない。UN Department of Economic and Social Development, Statistical Division~ 。他に,細野~ 。(もどる



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