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第1章 社会目的の衰弱

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1.失われる凝集力
2.社会的富と成長
3.システム化した社会の中で
4.体制の転換期


1.失われる凝集力

一九七〇年代のオイルショックをきっかけにして、日本は高度成長型の社会から低成長持続型の社会に変わっていった。さらに、八〇年代末から九〇年代冒頭の不動産価格や株価が異常に高騰したバブル経済とその崩壊をきっかけに、また社会の変化の新しい局面にはいっている。社会の変化を生み出す象徴的な出来事は経済的な現象としてあらわれているが、それは経済システムだけの変化をもたらすのではなく、もっとひろく政治や文化あるいは人々の価値観の変化、これら全体をあらわす意味での社会の変化もそれを契機として、あるいはそれとは独立に進行している。

七〇年代の後半以降の日本社会において一貫して進行してきた重要な傾向は、社会の凝集力の喪失である。凝集力の喪失は、色合いは異なっても社会のさまざまな面で確認できる。

まず政治の領域である。七〇年代の後半以降、国政選挙の投票率は衆議院でも参議院でも傾向的に低下している。参議院選挙ではついに四〇%台に落ちてしまった。この原因を、自然科学のような方法で明らかにすることは困難だが、考えられる原因のなかで注目すべき点は、第一に経済成長に支えられて実現できる政策、あるいは経済成長につながる国の政策のパワーあるいは可能性が低下してきたことである。経済成長を旗印にしながら、政治の分野での国民の中心への凝集を実現することが難しくなっていった。第二に、それ以前の高度経済成長が七〇年代前半までに達成した経済的豊かさのなかで、国民の意識が所得の増大という単純な目的から、自然環境、都市・住環境、教育、労働条件、余暇などにかかわる多様な豊かさのあかしを求める方向に少しずつ変化していったことである。もちろん、この二つの要因は密接な関連を持っている。

政治的な側面でもう一つ注目すべきは、七〇年代の前半まで大きな盛り上がりを見せた、社会党と共産党の共闘を軸にした革新自治体が七〇年代の後半以降、潮が引くように消えていったということである。これは、見方によっては奇妙な現象である。なぜなら、保守対革新という図式は、経済のできばえが悪くなればなるほど鮮明になるべきだというのが、当時の両党のイデオロギーである社会主義の理論からは導き出されなければならないはずだからである。生活に追い詰められた労働者はより革新的な方向に目覚めるはずだった。しかし、あきらかになったことは革新自治体が、社会が凝集力を持っているという条件に大きく支えられていたという事実である。

この点で、革新自治体を生み出した住民の運動や意識と、現在の原子力発電所の建設問題や廃棄物最終処分場建設の問題にともなう住民投票の運動と比べてみることは興味深い。前者はある全体的で体系的な姿勢を背景に持っている。これに対して後者は、ある特定の課題についての住民の意思表示の手段である。また、前者は自治とはいっても政府を中心にした全国的行政機構の一端を担っている組織の姿勢あるいは意思の問題であるが、後者は行政組織とは関係を持ちながらも、それとは相対的に独立した住民の集団意思の表明である。すなわち、住民投票という直接民主主義的な手段を採用することそのものが、社会の凝集力の衰えをあらわすものであり、逆に革新自治体という運動が縦の社会構造のなかでの運動になっているのである。

革新自治体は、六〇年代の高度成長の過程のなかで顧みられなかった福祉や教育への要求、都市化と過疎が引き起こした伝統的共同体の崩壊と人々の意識の変化、公害問題などに典型的にあらわれた高度経済成長それ自体の深刻な歪みを背景にして次々に実現していった。ただそれは、社会がまだ凝集力を持っていることを前提に、縦の行政制度に完全にのった形で取り組まれた運動だった。その凝集力が失われるとともに衰退することは避けがたかったのである。もちろん、革新自治体が日本の戦後の民主主義を実質化する意味を持っていたことは確かである。革新自治体は、たとえそれが消えていったとしても、住民自治の意識と力に対する確信、さらには福祉や教育などの具体的政策における成果とともに、社会のなかに定着させていった意義は失われていない。

労働組合運動も社会の凝集力の衰退の影響を深刻に受けている。それは、一九七五年以降、労働組合の全国的組織率が一貫して低下していることである。高度経済成長の過程では三五%前後の組織率を維持していたのが、その後一〇%以上も低下してしまった。高度経済成長の過程では、労働組合は労働者に対して所得の増加という明確で魅力ある成果を約束できた。成長力の低下とともにこれも困難になる。また、経済成長の結果としてある程度人々が豊かさを享受できるようになると、所得の増加という課題への集中力が低下してしまった。労働者の要求は多様化し、必ずしもそれらは中央へ集中するハイアラーキカルな組織構造のなかで実現できるものではなくなってしまった。労働組合運動の衰退は、社会の凝集力の衰退の最も重要な内容の一つになってしまったのである。

学生運動にもまた、社会の凝集力の衰退があらわれている。一九七〇年を前後して全国に燎原の火のように広がった学生運動も七〇年代の後半には衰退していった。七〇年前後の大学紛争は、それぞれの大学の民主化を重要な課題として掲げていた。この大学民主化の運動においても、あるいはその後の全国課題を掲げた運動においても、さまざまな全国組織の存在が運動の持続性と指導性の源泉であった。もし、単に学生運動の課題がそれぞれの大学の問題に特化し続けているならば、学生運動は成立しなかったことは確実である。学生運動もまた中央への集中力の低下とともに衰えていった。

学生運動の衰えと共に進行したのは、大学が体制の中の一つの制度としての定着化である。ただしこの体制という語は構造というよりもシステムという意味を強く含んでいることを注意しておく。大学がその国家からの自立性を誇るのではなく、巧妙に構造化されシステム化された社会のなかである安定した位置を占める機関となっていった。国立大学も私立大学も、財政的な制約や構造改革における文部省のコントロールの中で、その自主性は著しく後退していった。それは、社会の凝集力の強化ではなかった。人々が日本に生きている限り、いずれかの自治体に属するように、構成主体との内容的な一体化にもとづく組織ではなく、形式と内容の乖離を可能にする制度という側面を強めていったのである。

大学が社会体制内の制度化したことの一つの重要なあらわれは、それが学歴社会を象徴する存在、受験戦争の集約点としての意味を強く持っていくようになったことである。人々は争って、そこでおこなわれている教育内容とは無関係に、文部省を中心に社会があたえている序列の中でのより高い序列の大学に入学しその卒業証書を獲得するためにちまなこになるようになった。大学の序列化は、社会体制がその内容としての縦の構造を維持するための重要な条件となっていったのである。ただし、大学が形として社会体制の縦の構造の中に位置付けられているといっても、それは社会の凝集力をあらわしているのではまったくない。実際、学生の大多数が大学で学ぶことよりも、そのなかで自由を謳歌することに明けくれていることをみても、形式的凝集力の無内容さはあきらかであろう。大学の体制内化は、逆に社会の凝集力の喪失の一つのあらわれなのである。

大学ばかりではなく、一九七〇年代の後半以降、教育全体の体制化が著しく進行する。教育全体が、序列の高い大学に入学するためのシステムとしての意味をより強く持つようになり、また人々がそのようなものとして教育への期待を高めていく。社会に作られた縦の構造の中のより高い位置に到達するためのもっとも重要な手段の一つが、より高い序列の大学への入学になっているのである。

ところが、この体制化した教育に対する本質的な反動が一九七〇年代後半から進行するようになる。小・中学校におけるいわゆる不登校(登校拒否も含め)児童・生徒の一貫した増加である。「学校ぎらい」を理由に年間五〇日以上欠席した児童・生徒は一九六六年の一万六千七百人台から一九七五年の一万五百人台まで減少したが、それ以後、増加し続け現在では七万七千四百人にまでなってしまっている。八〇年代後半以降は、児童・生徒数がともに減少しているにもかかわらず、不登校は急速に増えている。文部省が「どの児童・生徒にも起こり得る」と認めているように、それは特殊な子どもの問題ではない。

それぞれの不登校の子どもたちには、それぞれ特殊な事情が関係していることは否定できない。しかし、普通の子どもに起こることがなぜ七〇年代後半から急激に増加してきたのか、そこにある程度共通した社会的背景を考えざるをえないのである。そして、それが社会の凝集力の喪失と重要な関連をもっていることは強く予測される。すなわち第一に、学校が体制化が強まり、実体の希薄な形で社会の縦の凝集力を体化し、それに取り残される児童や生徒がさまざまな色合いの違いをもった不登校になっていることである。第二には、縦の構造の中のより高い位置に登るということの意味、あるいは道徳性が社会全体として弱まってしまい、体制化した学校の意味を無意識のうちに見失っている児童や生徒が不登校になってしまっているということである。

一九八〇年代には、このことのもう一つのあらわれであるいじめや校内暴力が深刻化した。これらの現象も不登校も根っ子には学校の体制化がある。ただし、不登校といじめや・構内暴力との決定的な違いは、前者が不作為の問題であるのに対して後者は作為の問題であることである。何かをすることにおける問題は何かをしないことの問題よりも対策がとりやすい。一時期、いじめや・構内暴力は鎮静化したといわれたが、それは問題を解決してきているのではなく、問題の表出を押え込んだだけなのである。九〇年代も後半になって再び校内暴力が急速に増加している。深刻な現状は、子ども達の性格や過程環境というレベルの問題としてとらえるだけでは全く不十分であり、私たちの文化や社会の構造に関わる問題としてとらえなければならないのである。

子供を持つ親たち、すなわち経済的にみても存在感のある人口の構成部分をなす人々にとって教育問題の重要性はだれも否定しないであろう。子供たちがより充実した教育を受けることは、学校における教育と不可分に結び付いている。しかし、学校はまた危険な存在であることも忘れてはならない。形式化し体制化した学校は、多様化する子供たちの個性に対応できる場とはなりにくい。体制、あるいはシステムへの順応性の高い人間を大量に生み出す場としての学校、同時にシステムのなかでの自分の能力にふさわしい場所を求める人間を生み出す場としての学校は、社会の新しい可能性を阻害する危険性をもっている。おそらく親たち以上に、時代の変化を敏感に感じとっている子供たちは、現在のような学校が変わらない限り、自分の感性や個性と学校という制度との矛盾を味わい続けなければならない。

日本の社会が、以上のように主要な構成要素において実質的な凝集力を失いつつあるにもかかわらず、社会全体としての本格的な解体の方向に向かっているとは言えない。その理由は、日本社会のある決定的な要素が分解を回避させているのである。その要素とは、企業である。

現代の日本社会においては、社会がまともな構造にかかわる秩序を維持するのにもっとも責任ある存在、またパワーをもった存在は企業である。現在の日本人は、多くの他の領域では形式と内容との乖離、形骸化を無理なく受け入れるのだが、この企業という組織のなかでは自己の内容を形に徹底的に一致させようと努力する、あるいは努力の強要が受け入れられる。それは、まず第一に、企業が今日の経済の中軸を構成している組織であり、豊かさと生活を支えている存在だからである。第二には、企業とそこでの労働が人生の内容であり人生の目的であるという信念あるいは信仰をもった多くの優れた人々がそこに結集しているからである。

企業は日本社会の主要な生産主体であり、中間消費の主体であり、さらに所得を生み出す主体であり、そして大多数の労働者の雇用主体である。企業が人的関係、所有関係、金融関係そして一般的に市場をとおしての関係によって巧妙に結びつけられることによって日本の経済システム、経済体制が構築されている。そして、私たちが社会というものの実体の主要な内容は、この経済システムに他ならないのである。

日本社会を覆う多数の企業は縦のハイアラーキカルな構造と横のネットワーク的な構造の結節点にあって、経済のさまざまな要素をしっかり結びつけている。また、企業は自主性と依存性のバランスを巧妙にとりながら、縦と横の結び付きをコントロールしている。縦の構造とは、小さな企業が大きな企業に、弱い企業が強い企業に相対的に従属することによって、また企業が業界団体に、業界団体が全国的な企業や経営者の組織に相対的に依存することによって、さらに企業や業界団体が政府の官僚組織に従属することによってつくられる。横の関係は、その大きな部分を市場というリベラルな構造によって構成される。そして、この企業の縦と横の二重の、双対的な体制から吐き出される所得と消費財やサービスによって人々は生活を支えるようになっているのである。

七〇年代以降、解体傾向をみせてきた日本の社会のなかで、企業が実際の凝集力を発揮することができたのは、人の企業への属し方の特殊性に強く依存している。多くのサラリーマンにとって企業は求められる職務を労働契約にもとづいてこなすという単純な場ではない。そこは単に所得を得る場だけではなく、自分の人生の意味を確認する場であり、人間として本能的に持っている集団性を実現する場でもある。意味を確認するとは、さまざまな物語のなかに自分やその人生を位置付けることである。その物語は、自分を納得させたり人に語って了解を得るために不可欠なのである。彼は、自分を語る時、自分はどのような会社に所属し、そこでどのような地位にあり、どのような仕事を実行しているかを語る。それは、どのような地方で育ちどのような家族関係の下にあるのかよりもはるかに意味あると感じるのである。

このような企業への属し方は、単純に日本人の特性としてかたづけてはならない。日本という文化のなかにおける、企業の位置づけの問題である。高度成長のなかで、伝統的共同体からきりはなされた多くの人々が、自分の集団性を実現する新たな場として企業を設定せざるをえなかったのである。企業という集団のなかで評価されることが、自分の意味を確認することになったのである。日本的特殊性があるとすれば、例えば集団が唯一の神の下に与えられる抽象的なものではなく、具体的な集団でなければならないという文化的、宗教的な背景ということになるだろう。あらゆる民族に、自己の幸せの求め方が特殊であることは許され、そこに優劣はない。

一九七〇年代後半から九〇年代初頭にかけての進行してきた社会のさまざまな分野での凝集力の低下が社会の現実的解体につながることを阻んだのは、以上のような日本の企業文化である。ところで、私たちはここまで精密な議論もなく凝集力という概念を無造作に使ってきた。ここであらためて、社会の凝集力とは何かを考えてみよう。

人間にとって社会不可欠である。それは、猿にとって群が不可欠なのと同じである。社会は群よりも、もっと抽象的原理によって個別の主体がコントロールされている状況をあらわすときに用いられる概念である。人間にとっての社会の不可避性は、凝集の不可避性やあるいは特定の形式の凝集への不可避性をあらわしていない。人間は、歴史上も分散的社会と凝集した社会を揺れ動き、空間的にもそれぞれの地理的状況に応じて凝集性と分散性の多様なあり方の中で存在してきた。

凝集とはかなり広い状況を表現するために用いることができる概念である。ただそれは、集める側の能動的な働きを表現するよりも集まる側の主体性により重みをおいた概念である。個別化したものを何者かが集めている状況よりも、個別のものそのもののなかの集まっていかざるをえない事情がある、そんな動きである。液体中の分子が集まって凝固し個体化していくようなイメージであろうか。それは、分散していた個別のものがなんらかの設定された中心に向かって集まる、あるいは集まることがある自然な焦点、中心をもっていく状況も内包している。さらにここでは、凝集することは烏合の衆として集まることではない。人が凝集することは、そこに秩序や構造を造り上げる形で集まることをここでは指しているのである。

社会は常態が分散的で、凝集は何かの例えば危機的状況の中でテンポラリー(一時的)なものとしておこなわれることもありうるが、常態が凝集しているものであり、それにふさわしい定常的な秩序や構造をつくり上げることが一般的である。そして、このように人々の凝集力によってつくられ維持される秩序や構造が、体制あるいは社会システムといわれるべきものなのである。このような体制をもたない社会が一時的に秩序や構造をつくりあげたとしてもそれを体制とよぶことはできない。一般に、そのような秩序や構造は特定の個人の人格に依存した秩序や構造であり、その個性が失われることによって秩序や構造そのものも失われる。これに対して、個別の人格から強く自立して維持される秩序や構造が形成された時にそれは体制と呼ばれるものになっていくのである。

このような社会体制の本質的特徴は、そこに社会を構成する個々の人々、あるいは現在の企業などの個別的集団の意図・目的を超えた、社会全体としての目的、すなわち社会目的あるいはマクロ目的といえるものが認識できることである。この社会目的は、その社会を構成する個別主体の目的すなわちミクロ目的に分解することができない。またこの社会目的は、個別主体の意思や目的が相互に相殺しあったりあるいは協調しあったりすることによって、合成されることによって形成されるものでもない。二つのベクトルの和がそれによってつくられる平行四辺形の別の頂点に向けたベクトルとなるというようなものでもないのである。

また、この社会目的はあくまで目的であって、多様な指標に対する望ましさの順序、選好順序というようなものではない。すなわち、経済学のいう社会的厚生関数というようなものでもない。社会目的は、それ自体はできる限り単純な指標でなければならない。多様な指標であっては、人々の望ましさの順序と社会的なそれとの間の確かな整合性を実現することが困難になり、人々の凝集力を高めることが困難になってしまうのである。したがって、この社会目的は国政選挙によって選ばれた代議士によって、すなわち間接民主主義によって設定されるものでも、何らかの直接民主主義によって設定されるものでもない。それは、体制、社会システムそのものを支える原理であり、それとともに存在するものであって、体制とは独立に設定したり取り替えたりすることはできないのである。これは例えば、住民自治というレベルで、単一の課題に沿った住民投票が結果はどうあれ住民のパワーを結集しやすいのに対して、革新自治体がその後退局面で直面したような多様な指標を相手にしなければならない状況では住民パワーの結集には、おのずと困難が生じる、というところにもあらわれてくる。

この社会目的は個人の目的から相対的に自立しているが、それへの支持の強さやあるいはその精神的影響力の強さが、人々の凝集力に大きな影響を与える。そして、このような見方にたてば、一九七〇年代後半から現在にいたる社会的な凝集力の低下は、この社会目的の影響力の低下と密接な関係を持っていると考えられるのである。

2.社会的富と成長

一九七〇年代前半までとそれ以降との日本の社会状況の著しい変化が、経済現象である経済成長と結びつけられて語られることに、不思議さを感じる読者がいるかも知れない。というのは、社会は経済だけで成り立っているわけではないのであり、文化的、政治的、思想的状況との関連で日本の社会の変化が語られてもよいように思えるからである。

社会の変化の契機、社会の変化の局面が経済現象によって表現されるのは、私たちの社会の一つの重要な特色でもある。少なくともこの半世紀のあいだは、確実に、社会が経済に呑み込まれてしまっている、あるいは社会の骨格が経済によって構成されているような特殊な社会に私たちは生きてきた。それは、単に、私たちの生活を支える財やサービスが多くの人々の協力によって供給されているというような、言い古された命題を繰り返しているのではない。社会とは、ただの人間の集団をあらわす用語ではなく、なかに何らかのまとまり、あるいは秩序と言えるような仕組みをかかえた集団をあらわしている。とくに体制か指された社会においてはこの秩序は構造とともに定常的に安定的に定められている。そして、この秩序ある仕組みの作り方が、経済的なのである。

では、経済的なるものとは何か。あらゆる定義がそうであるように、このような演繹的思考は終わりをつくれない。それを理解した上ですすめるならば、経済的なるもの、あるいは経済現象とは、「社会の富 (wealth)」に直接関係づけられた現象、そして経済活動とはその富を生み出すための活動である。さらに、社会の富とは社会の必要性を超える余剰能力あるいはそれが生み出したモノである。ただあくまでもその富は社会のものであって、個人の富やその合計とは違うものなのである。ここに経済現象の抽象性があらわれてくる。

なぜこのような定義になってくるのか、それは数学や物理学のような証明を与えられるものではない。定義は、現代社会の本質的な表現を与えるための論理にすぎない。このような論理を受け入れることによって、私たちは現代社会をより深いところから理解し、さらにその変化についてのより確かな視点を得ることができるのである。

それでは、現代における社会的な富とはなんであろうか。すぐに思いつくのは、かつてGNPといわれ最近ではGDPといわれる国内総生産である。総生産といっても、それは国内の企業などが生産している財やサービスの総売上を指すものではなく、生産された付加価値の合計である。すなわち、生産額から企業の生産における原材料などの中間投入総額を差し引いた残りである付加価値の社会全体の総計である。このような国内総生産は社会の富であろうか。厳密には違う。それが社会の余剰能力をあらわさないことは、この付加価値部分のほとんどは人々の所得になり、さらにそれは消費として支出されることを考えればわかる。この消費抜きに人々の生活は成り立たないのである。

しかし、国内総生産のすべてが必要な部分であって余剰な社会の能力をあらわすものはないとはいえない。この場合の必要と余剰とは常に相対的概念であって、厳密に確定しきれるものではない。それは貧しさとか豊かさと同様に、人々の全体としての価値観、考え方や感覚に依存する面を持っている。この国内総生産の中には、輸出から輸入を差し引いたものも含まれている。この超過輸出は国内で利用しない部分をあらわしているから、必要とはいえないということはできる。ただ、それは外国資産の確保などに用いられるという点では必要といえなくもない。国内総生産に含まれる、その他の政府支出や投資にしても必要と余剰とは厳密にわけ切れない。

私たちは、現代における必要と余剰をもっと違った形でとらえている。余剰とは、国内総生産の増加分である。たとえば、前年にある国内総生産で国民がある生活を維持できたとしたらそれからの増加分は余剰として表現することが可能になる。しかし、また今年はこの増加分も含めて人々は生活するのであるから、余剰の必要への組み込みがおこなわれる。したがってまた、社会的余剰は次年に向けての増加分としてあらわれなければならないのである。現代において社会的な富というのはこのようなダイナミックな形態においてのみあらわれている。社会の富が実現していることは経済成長によって表現されるのである。

そして、この経済成長こそ現代日本社会における社会目的なのである。ただしこれは、経済成長の可能な限りの実現が社会目的ということであり、GDPが増加するという事実そのものが社会目的ということではない。目的とは、一つの人格化された表現である。事実としての経済成長から集約化された社会的意思としての経済成長という目的の間には、決定的な飛躍がある。GDPの増加分は、事実としては個々の経済主体、特に企業の大小、あるいは政府の粗付加価値の増加分に分解可能である。しかし、社会的目的としての経済成長は個々の経済主体の目的に分解することはできない。個々の経済主体の目的から相対的に自立しているのである。

経済成長が社会目的としてとらえられる背景を、このように論理的に考えれば、そこで、決定的な役割を果たしている概念は、社会的な余剰である。社会的余剰の持っている社会的に特別な意味が問題なのである。余剰は、人類の長い歴史のなかで常に重要な役割を果たしてきた。余剰は社会の力の源泉である。余剰を定常的に生み出すことも必ずしもできない社会あるいは実現する意思を持たない社会で、一時的に発生した社会的剰余は、危険な存在であり、浪費的な形であり、消費し尽くしてしまわざるを得なかったのである。日本の場合、急速に移入された灌漑水稲農耕が社会的余剰の定常的な生産を可能にし、社会のなかに定常的なパワーを維持することができるようになり、弥生社会以降の体制化した社会、社会システムを生み出すことになった。弥生時代が戦争の時代だった背景に、このような力の処理の問題があったことは確実である。

そして、その後の農業社会においては、米でとらえた社会的剰余の実現と処理が常に問題になってくるのである。さらに、明治維新以降の工業化社会においては、経済成長が社会目的として重要な役割を果たすことになる。社会目的としての経済成長は、その後の紆余曲折はありながらも、現在にいたるまで生きながらえてきたのである。したがって、経済成長を軽々しく考えてはならない。経済成長を社会が合意して選択している社会目的に過ぎず、他の代替的に望ましい選択肢があれば、たとえば民主主義的な手続きによって用意にその代替的社会目的を選択できるというようなものではない。

人類は、地理的制約を超えて広がった普遍性を持った剰余指標をそんなにたくさん開発できたわけではない。日本の場合は、採集・狩猟・漁労の社会であった縄文社会をぬけて、弥生社会になって社会的剰余とそれを生み出す社会体制ができていった。そして、米という穀物によって社会の剰余をとらえる社会が二〇〇〇年ほど継続したわけである。世界を見ても、社会体制は限定された農業生産物、とくに穀物剰余を社会的剰余としてとらえることによってできあがっていったのを確認できる。局所的には、穀物以外の特殊な生産物が社会的剰余としてとらえられたものがあったかもしれないが、四大文明といわれるものがそうであったように、集中的な巨大なパワーの源泉を生み出したものは穀物剰余だったのである。

このように、社会の剰余を穀物生産でとらえるという農業社会の明確な理論的表現は一八世紀のフランスを中心におこったF・ケネーを代表とする重農主義者の理論に明確にあらわれている。そこでは、社会の富は農業部門だけが生産できるとあらわされているのである。

その後、一八世紀から一九世紀にかけての産業革命によって、社会的な技術体系の進歩が剰余を単純な穀物指標でとらえることを困難にするくらいに、多様な財の大量の生産を可能にするにいたった。農業社会から工業社会への展開である。そして、剰余を単純な穀物という指標でとらえることが困難になり、さまざまな生産過程から剰余が生み出されることを前提にすることが必要になったのである。経済学の祖といわれるアダム・スミスの経済学は重農主義者のような社会的剰余を農業生産によってとらえるのではなく、またさらに富を金の保持量によってとらえる重商主義の立場も克服し、国民所得すなわち個々の生産者によって生産された付加価値の総計でとらえる理論、経済学を提示したのである。そして、これは社会的剰余を総付加価値の増加量すなわち経済成長でとらえる立場の基礎となっていった。さらに、スミスの理論は、二〇世紀初頭のJ・M・ケインズの国民所得分析によってより明確な理論的基礎を与えられることになるのである。

したがって、農業社会から工業社会への社会的剰余の表現の変化は「一」から「多」への転換としてとらえることができる。穀物生産物という指標から、多様な生産を付加価値ということで共通の次元に変換しながらその社会的な総量の変化を社会の剰余としてとらえるように発展したということである。そこで、これまでの「多」から別の「多」への展開はあるとしても社会の本質に関わる変化とはならないだろう。もし、本質的な展開があるとしたら「多」から「一」への回帰、あるいは「多」から「ゼロ」あるいは「無」への発展である。

また、農業社会における剰余と工業社会における成長でとらえる剰余との違いで一つ注意しておかなければならないことは、前者の穀物でとらえた社会的剰余は農業部門と他の部門の構成や人口が変わらなければ生産量が与えられるとその剰余もまた決まる。一方、後者の経済成長で剰余をとらえる場合は、常に前年と比べての増加であり強い相対性を持っている。農業社会の剰余も社会の再生産の必要水準を超える水準を剰余ととらえる点で相対的ではあるが、経済成長と比べると相対性は低く絶対的剰余といえるものである。

だだし、経済成長を社会目的にしたような社会においても絶対的剰余といえる社会的生産物の部分が生み出されることがある。課税によって徴収された財政収入が意味もない支出先に振り向けられたり、利潤として割り振られた負荷価値が貯蓄となり社会的に無意味な投資先にながれていくことはありうる。とくに、経済が全体として高い成長率を実現する力を失っているなかで、一時的に貿易黒字にあらわれた過大な所得部分が明確な処分の制度も持たないまま意味のない支出に向かう場合、それは社会的な絶対剰余ということもできるだろう。

3.システム化した社会の中で

人間は社会的な動物であるとよくいわれるが、この言葉は安易に理解してはならない。だから、社会の中で生きるのは不可避であるということになろうか。そして、さまざまな社会の拘束や重みを受け入れることもまた不可避ということになる。もし、本能的に人間が社会的な動物であるならば社会の中で生きることに何の苦痛も重圧も感じないであろう。あたかも、蟻の社会の中で働き蟻や兵隊蟻がそうするように黙々と自分の職務をこなし運命の命ずるままに生き続けることになるだろう。しかし、人間は蟻や蜂のように生きることはできない。

また人間の社会は単なる群でもない。社会には、群にはないさまざまな制度がはめ込まれている。しかし、それは人間が群れる本質を持っていないということではない。人間は、本能的に集団の中で自分が評価されること、あるいは集団の中で自分が理解され自分の居所を求めるという意味での集団性を持っている。この人間の集団性は人間が制度から成り立つ社会をどのような水準でももたなかった段階から受け継いできたものであろう。現代においても、さまざまな制度からはじき出されると人は群れる。それは、暴走族であろうが暴力団であろうが、シンナー仲間であろうが、あるいはその他、社会によって理解されない傾向をや選好を有した集団が群れとして自己の集団性を実現しようとするのと同じである。さらに、制度に馴染まず、かといって群れる条件も失った人間は孤独な世界の中に閉じこもることを余儀なくされてしまう。

社会は、いずれにしても人間の特定の個性や人格から独立して存在する規範のようなものの裏付けをもった制度によって形づけられるものをいう。個別の人格から独立しているために、あらたに生まれて来る人々もこの制度の中に組み込む作業が常に必要となるのだがこれを実現しているのがその社会が持っている文化といわれるものの内容である。この意味での社会は、縄文社会であろうがそれ以前の社会であろうが、たしかに極めて低いレベルであるがどの社会も持っていたと考えられる。ネアンデルタール人が死者を埋葬する習慣を持っていたといわれるが、これもまた文化の内容である。

農業社会が成立して以降、体制化した社会としての社会システムが形成される。この体制化した社会は、人間が社会的な剰余を継続して生み出しかつその社会的剰余の処分の仕組みを備えるために作らざるをえなかったものである。しかし、それは本能的に作られる群よりもはるかに高度な諸制度によって支えられるものであり、人々にその受け入れを強制するメカニズムも強力なものになっていった。その初期において、アニミズム的神話が人格を持った神々の神話に転換せざるをえなかったことにもそれは反映している。

したがって、体制化した社会はただそれが社会であるということだけで、私たちが自然に受け入れられるものではないということである。人々を暗黙のうちに、あたかもそれが自然であるようにこの社会を受け入れるように強制していくために、社会はさまざまな強力な文化的な作用を与えようとする。学校教育は、このような文化装置のもっとも重要なものの一つである。教育は何か知識を授けるものであるならば、それ自体が文化装置ではない。家庭教育の場合、このような機能を果たさない可能性もある。さらに、マスコミのながすあたかも社会意識を代弁しているような情報や意味もこの文化装置であることは確かである。そして、家庭もまた無批判に社会が供給する価値観を伝達することになるならば、その一部となってしまう。さらに、会社もまたこの機能を果たしている。日本の会社の社会教育システムが機能するとき、あるいは会社が自社の社会的な使命を強調し、個人の労働がその社会的な使命を果たすことになるという意識を浸透させようとするときなど、会社は一つの文化装置となる。

このようにみると、主要な文化装置のほとんどは、文化装置であることを目的として成立しているものではない。主目的実現のための活動の副産物であるかのような装いをして私たちのなかに浸透してくるものとなっている。もちろん、学校教育は国家管理という性格が強いために、「期待される人現像」などと、学校の目的が社会の要請に沿った人材作りであることを露骨に表明する場合もある。あるいは、道徳や倫理といわれるものもそれが強制されるならば直接的な文化装置の中身となっている。

社会体制が全体として安定している場合には、文化装置もまたその役割を安定して果たすことができる。しかし、体制の変革期には文化装置の機能麻痺がいたるところにあらわれてくる。人々を体制の枠組の中にとどめておくことが困難になる。それは、文化的環境の中で十分訓練された大人達よりもいままさにその訓練を受けようとする子ども達の中で、それはより深刻にあらわれざるをえない。彼らの感性はむき出しであり、その感性がとらえる社会の現実と制度化した文化装置が与えるものとのギャップが問題とならざるをえないのである。

体制化した社会、社会システムについて、ここまではやや漠然とした規定にとどめておいたが、この特殊な社会のあり方について、ここでより明確な定義あるいは内容を与えておこう。社会システムはある特殊な構造を持った社会であるが、その構造は一つの社会の「全体」と「個別主体」との関係に関するものである。社会を、個別主体、一人一人や個別の組織が作り上げているものであるとするのは、余りに素朴な考え方であり、現代の社会においては到底受け入れられない。社会システムとは、個別主体の意図やその意図の分布、あるいは個別主体の間のさまざまな関係を超えて、「全体としての社会」というべきものが存在する状況を表現している。簡単に表現すれば、個別のさまざまな主体の存在から相対的に自立した全体としての社会が存在するということである。

この自立性はあくまで相対的なものである。一つの社会が全体としての社会とその他、個別主体からなる社会とに分割できるわけではない。同じ一つの社会という実体が二重化した構造を持っているということである。このような特殊な二重性を双対性、そしてそれにもとづく構造を双対構造と呼ぶことにしよう。ただしこの双対性をいきなり国家や政治制度などの具体的な構造と関連づけるのはよくない。国家や政治制度はあるいは経済的な制度も含めて、具体的な制度は社会システムが見につけている衣服のようなものである。それらは社会システムの形を整えるために備えている具体的な枠組なのである。社会システムとはもっと抽象的なレベルの構造である。

経済的な要素も政治的な要素も捨象して、多数の人々がいてそれぞれが個別に意思や目的を持ちながら行動しまた相互に関係を持っている状況を考える。この目的はミクロ目的と呼べる。そして、これらの関係はネットワーク的な関係になる。ネットワーク的とは、それらの関係の全体が二者の間の関係に分解できるような構造をいう。二者の関係の連結から全体が構成されるのである。このネットワークが社会のミクロ的構造となっている。ネットワークの格子点にいる個別主体はそれぞれに個別の意思や目的を持っていることに注目する必要がある。このミクロ構造と表裏一体の関係で、全体のとしての構造がまたはめ込まれている。この全体としての構造を単にマクロ構造と呼ぶことにしよう。ネットワークとそれを構成する諸主体から独立に「全体としての意思あるいは目的」、すなわちマクロ目的を認識することができ、それにともなう構造が存在しているということである。

もちろんこの相互の独立性は相対的なものにすぎない。マクロ構造はその目的の実現のためにミクロ構造に影響力を行使する。しかし、それは完全なコントロールではない。完全にコントロールするのであれば、それは社会システムではなく、時計のような機械システムに転化してしまう。ミクロ構造は、個別主体の目的や意思にもとづく自発的な活力を生み出す。マクロ構造とミクロ構造の双対的なダイナミズムが、社会システムの生命力の源泉なのである。

またここで、意思と目的としたが、両者には違いがある。意思は多様な価値判断が可能になる価値観あるいは選好をもっている状況もあらわせるが、目的の場合はもっとしぼられた価値判断を指している。個別主体の場合は意思と目的の保有について大きな疑義をはさむ余地は少いが、社会全体の場合は意思よりも目的としたほうがよい。全体もまた、多様な価値判断をする状況はありうるが、より単純な価値観で構造が維持されていると考えるべきである。全体に関わる構造はこの目的の実現のために作られ維持されているということである。そして、この全体としての目的が社会目的でありマクロ目的である。

これは、各個別主体が一面ではネットワーク構造すなわちミクロ構造を構成する一員でありもう一面ではマクロ構造を構成する一面という二面性を持っていることを意味する。社会システムのもとで、個別主体はミクロ構造の一員としてその役割を演じなければならないと同時にマクロ構造の一員としての役割も演じなければならないのである。

ミクロ構造は人格的色彩が強いものになっている。それは、ネットワーク構造が二者の関係に分解できるというところにもあらわれている。これに対して、マクロ構造を作る構造は人格的色彩が希薄になり規範や規則にもとづく制度によって構造化される。マクロ構造は、マクロ目的そのものが具体的な人格から切り離されている、あるいは容易に切り離しが可能なものになっている。また、マクロ構造はマクロ目的が単数として表現されるために中心と周辺がある構造になっている。一つの目的のもと全体がコントロールされるためには単一の中心が存在しなければならず、またその中心のもとに他の要素が統括されなければならないのである。抽象的には、この双対構造に社会システムの本質があらわれている。

この意味で、社会システムのマクロ構造は、縦の構造をもっていると考えればよい。同じくミクロ構造は横の構造である。マクロ構造の縦の性格は、現象としては政治制度によって実現されていると考えられるが、現実はそのような単純なものになっていない。工業社会のもとでは、経済的にもさまざまな縦の構造が業界団体や企業連合などによって形成され、マクロ構造の重要な構成要素になっている。マクロ構造は政治的な要素と経済的要素のハイブリッドである。

この社会システムの双対構造は社会的剰余の生産と処分に関わる構造として人間が歴史的につくり出したものである。あるいはつくることを強制されたというべきだろう。私たちがこの体制化した社会を受け入れているのは、この剰余の生産と処分にこだわっているからである。歴史上は、農業社会において明確にあらわれているように剰余の処分権が特定の社会階層、階級にゆだねられることもありうる。しかし、剰余の処分権はつねに特定の階級に帰属する、あるいはそのような権利を持つという意味での特定の階級は存在し続けていると考えるのは誤りである。日本のような、発達した工業社会においては、剰余の処分権を持つ特定の解階級をとらえることが困難になっている。というよりも、そのような階級の存在を議論することが無意味なくらいに、豊かさが市民的レベルに浸透してしまっている。一般市民は決して豊かではないという議論はあるが、平均して見れば、市民が消費しているモノの量は環境の許容量を大きく上回っている可能性があるという点で、絶対的な豊かさのレベルにあると考えるべきなのである。

社会システムがその双対構造を維持するためには、個人が自らの意思や目的で行動するだけではなく、同時にマクロ構造の構成要素としての役割も果たさなければならない。このことが、個人が社会体制を受け入れることの内容なのであり、文化装置が人々に間接的に強制しているものの内容である。それはまた、マクロ構造の集中的構造、縦の構造を受け入れることであり、この受容性の強度こそ社会システムの凝集力をあらわしているのである。そして、社会の凝集力が失われつつある事態は、現在の社会システムの双対構造を維持することが困難になってきていることをあらわしているのである。

4.体制の転換期

社会システムは、それを規定している剰余やマクロ目的が変わらないままに別な社会システムに変えることはできない。しかし、社会的剰余のあり方が変われば社会システムは変わらざるをえない。体制の転換は、「人間の共同した意思」によって変わるのではなく、剰余の実現の仕方が変わることによって実現するのである。一つの社会を構成するさまざまな個人の共同意思が社会の意思に転化することは極めて困難であり、社会システムの変化にともなって人々の共同意思が問題になるとすれば、およそその社会の大多数がその社会の持続を望んでいるかどうかという点にとどまる。

私たちは、このような意味での体制の転換期にいる。その私たちにとって大切なことは社会がどのような方向に変わりつつあるのか、あるいはどのような社会に変わっていかざるをえないのかを知ることである。人間は理解する生物である。神話も宗教も理解のための図式を与えるという点で、人間にとって不可欠なのである。人間精神が安定した状況を維持するために、意識の対象となるものを合理的であれ不合理であれ、理解することを人は求める。特に、社会がどのように変化しつつあるかを理解することは、現代のさまざまな問題を理解するカギを与える点で決定的な重要性を持っている。

また、単なる理解というレベルを超えて、社会の変化の正しい認識が自らの利害に関わる可能性も十分にありうる。社会体制の変化は、社会の生産力の果実の配分メカニズムの変化ももたらす。古くなりつつある体制のもとで有効に機能していた組織や制度が、その有効性を失っていくならば、当然、そこに配分される果実もまた少くならざるをえない。あたかも、安定しているかのような組織が晴天の壁歴のように崩壊することも、変化の象徴である。社会変化の方向を知るならば、たとえ旧組織や旧制度のもとにいても、そのことのリスクを勘案しながら生活することができるだろう。

確かに、人間の予測能力は限られている。人は、変化が自己の利益につながらないものであれば、変化の可能性、確率をできるだけ小さく見積もろうとする。昨日までの、安定した生活は、それを支えている条件と共に明日もまた継続するだろうと考えてしまうのである。しかし、社会変化の時期には、あえてそれらの状況を相対化することが求められる。相対化とは、現在の状況を可能にしている条件をあらためてとらえ直すということである。そして、考察を社会体制の変化のレベルまですすめることこそその本質的な条件をとらえることを意味し、もっともラディカルに、根源的に私たちの社会の問題をとらえ直すことになる。それによって、現象に対するもっとも広い視野を得ることになるのである。

現在進行している社会の凝集力の喪失が過渡期のものであって、また新しい社会的凝集が進行する時代が来るのかがまず問われなければならない。何か新たな社会目的が成立することによって、高い凝集力を持ったマクロ構造が成立することがありうるだろうか。しかし、この点では否定的な見方をせざるを得ない。多様な生産活動に広範な自由を保証しながら、その全体の活力を代表できる単純な指標であり、かつそこに社会の剰余生産能力が表現する指標として、経済成長以外には考えられない。この、経済成長の指標として現在のGDPが唯一のものであるとは断言できない。自然環境の影響をそこに反映させようという取り組みもあり、それが部分的に採り入れられる可能性は否定できないが、それでもまた経済のパフォーマンスは成長によって測られるようになるだろう。

社会の凝集力が、戦前の日本のように、一時的に民族主義的なイデオロギーによって復活する可能性も完全には否定できない。民族主義とは人間の本能的な集団性の特殊なあらわれ方である。それが与える幸福感と刺激性は大きいが、もう一方でそれを凌ぐはるかに巨大な危険性を伴うものであることを多くの日本人が理解しているはずである。

社会の凝集力が失われ、それに伴って社会の活力が失われていかないならば、社会の分散性が増大する。社会の全体性や、形式化する中心にとらわれないまま、それぞれの個人が生活と活動を持続させていく。それはどんな社会なのだろうか、あるいはそれはやはり一つの社会システムなのだろうか。

このような進行している変化は、比喩的な意味でだが社会のエントロピーの増大とみることもできるだろう。エントロピーを拡散水準の指標としてとらえるわけである。日本の縄文社会以前は、人間の社会だけをみても拡散性の高い、社会的エントロピーの大きな社会だった。社会システムとともに、農業剰余によって社会の集中性は高まり、社会的エントロピーを低下させることができるようになった。しかし、そのままにしておけば、社会のエントロピーは不断に増大する傾向を持っているのだろう。農業社会の剰余をいかすために、集中性を高め続ける努力、それに伴う犠牲を常に必要とされたのである。応任の乱からから戦国時代の過程は、あらためて社会の集中性を高めるために強制されたものだった。しかし、明治維新による近世の終わりは、一面でそれは社会的な生産能力の増加のなかでの剰余把握の新たな方向が必要になったことを意味し、もう一面では社会的剰余が抽象化し、農業生産物から貨幣ではかった付加価値とその増加でとらえられるようになり、剰余の生産への直接的な貢献の可能性がすべての生産活動に拡大したという点では、社会的エントロピーの増加が認められる。そしてその日本の工業社会も意図せずして進行する拡散傾向を、現在の社会システムを維持したままでは抑制できなくなってしまっているのである。

社会の凝集力が失われ拡散性が増大することによって、社会の内的な活力が失われるならば、それは社会体制の内的動機にもとづく変革ではなくなるだろう。このような拡散性の増大は、社会のより小さな単位が全体性の拘束からの自由度を増加させること、言い換えれば、それは単位の個性の意味が増大するということである。また、それはマクロ構造の役割が縮小し、ミクロ構造すなわち社会のネットワーク的構造の役割が相対的に増大することを意味する。また、社会にはめ込まれている経済的あるいは政治的な縦型の構造が衰退せざるをえないことであり、政治的に限定すれば、巨大な行政機構は維持できなくなりまた必要性が低下することである。

このような状況は、社会のシステム性が低下することも意味する。ただし、それは社会の完全な解体を意味するのではない。あくまでも、より拡散性の高い社会への転換である。したがって、それは新たな文化の創出をともなわなければならない。ここでいう文化とは人々に社会体制の一員としての自覚を与え、要求される規律に従い、そこから提起される課題にこたえるための価値観の体系である。そして、文化はそれを実現するための制度的装置を伴っているのである。社会体制が変化するときは、その変化に従って文化もまた変容しなければならないのである。

問題は、文化が社会システムの変化に柔軟に対応し得るのかである。企業や組織の物理的実体は、企業が誕生したり倒産したり、あるいは企業活動の方向が変化することによって直接に変わる。またその結果として、相互関係や縦型の関係によって維持されている社会体制も、柔軟性は高くなくても変化の自律性は高い。しかし、文化は歴史的な文脈に依存してのみ変化する。文化は歴史的に積み重ねられていくストックなのである。人は、蓄積された文化の内容によって自分や自分の行動を了解し、また自己以外の他人やその行動、他人との関係を了解する。それは人間の精神の作用であり、意識と意識の関係である。その関係は複雑であり、かつ繊細である。それは、もちろん言葉の関係であるが、その社会の歴史が与えるさまざまな人間理解の価値観や物語あるいは道徳意識などがからんでいる。体制が少しずつ変化しても、それに伴う人々の行動の変化、組織や制度の変化、人間関係の変化をどのように理解するか、その図式は簡単には与えられないのである。

先にも述べたように、学校とは一つの文化装置として機能する。日本は、江戸時代の寺小屋以来、庶民的教育の場としての学校に対して特別な信頼を寄せるようになっていた。子の学校が一九六〇年代から七〇年代初頭にかけての高度成長のなかで特別な意味を持つようになる。すなわち、それまでしっかり人々を社会のなかに取り込んできた伝統的共同体が、特に農村で劇的な崩壊していくなかで、それにかわる文化装置としての期待が集中していったということである。学校にいくことによってはじめて子供たちは社会に受け入れられる人間になると人々は信じている。しかもそれに、より序列の高い大学にいくことによって社会により強く受け入れられると考える。逆に、学校にいかないことによって、社会から排除されるという強迫観念を受け取るのである。

このように位置づけられている学校であるが、子供たちは社会の変化を大なり小なり敏感に感じとっている。しかし、父母にしてみれば、学校に変わる文化装置を知らないし、存在しても簡単に目の触れるところにやってこないのでたとえ社会の変化を感じとっても、対応のしようがないのである。

このような文化の慣性力は、変化に対する柔軟性のなさによって問題を引き起こす可能性もあるが、もう一方で社会に安定性を与える力も持っている。社会システムが揺らいだとしてもそこに激しい無秩序が発生するのを回避する力も持っている。さらに、文化装置は体制が与える制度に一体化する場合が多いが、社会的な共通の価値観や行動や存在あるいは関係に意味を与える物語としての文化そのものは、浸透すれば中心からの指示や制御抜きにそれぞれの個別の主体に内在化するものとなる。

この点で注目すべきは、社会の分散性に対応したような文化が果たす、あらたな社会の枠組のなかでの役割である。現在の社会システムが必要としたような高度な縦型のマクロ構造を持っていなくても、全体として成立するマクロ目的と整合的な社会システムがつくられていく上で、このような文化は一つの重要な機能を果たすはずである。社会の凝集力が失われて、分散性が増大しても社会の全体的な秩序を維持するために、法とともに文化がまた重要な役割を果たすということである。

変化の向うにある新しい社会は、社会の全体性が全く失われてしまうものにはならないだろう。そこでは、社会全体としての生産能力が増大するのに応じたほどの経済成長は平均してあらわれるだろうが、この社会目的はこれまでの凝集力は失われてしまっているはずである。そして、そこにはかつての経済成長ほどのパワーを持たない新しい社会目的が成立しているはずである。そこでは、経済活動の全体を規定している要素を最大限効率的に利用するような社会構造を創り出すこと、その効率性実現のためにあるいは内部的あるいは外部的変化を受け入れて社会構造を柔軟に変化させること、それが社会目的として成立しているはずである。このような、私たちの社会がいま向かおうとしている新たな社会が極相社会なのである。