第2章 環境制約の包囲 |
目次 (総合目次へ戻る) 1.公害の時代 2.地球環境の時代 3.深刻化する廃棄物・ゴミ問題 4.幻想的リサイクル社会 5.「物質」という共同基体 6.現代社会システムの限界 |
1.公害の時代 日本は、一九六〇年代から七〇年代前半にかけての高度成長時代に、深刻な大気汚染や水質汚染に代表される環境汚染問題を経験し、そのなかで多くの人々の命と健康が犠牲となった。公害の時代である。四大公害といわれる、水俣病、富山イタイイタイ病、新潟水俣病、四日市ゼンソクがこの時代を代表している。ただし、あくまでもこれらは代表であり、この時代にはその他に、砒素中毒などのさまざまな環境汚染問題、都市部を中心とした地盤沈下、騒音問題など日本列島のいたるところで公害問題が発生し、深刻化していたのである。 水俣病は工場排水に含まれていた有機水銀が不知火海に流れ込み、魚介類の生物濃縮を経てそれを食べつづけた人の中枢神経がおかされて発病する公害病である。有機水銀はチッソ株式会社の前身にあたる工場によるアセトアルデヒドの生産工程で生成されたものであった。戦後のアセトアルデヒドの生産開始から一〇年もたたないうちに有機水銀が原因とみられる奇病が発生していた。しかし、企業はもちろん、企業の利益を重視する行政、そしてその労働組合も排水対策を求める声を無視しつづけた。一九七五年には一三二人の死者を出すに至っている。 四日市ゼンソクは硫黄酸化物による大気汚染が引き起こした公害病である。一九五九年には第一コンビナートが完成し本格的な稼働が開始され、六〇年ごろにはすでにゼンソク患者が多数あらわれていた。六二〜六四年にかけては大気汚染は最悪の状態を示していた。そして六四年ごろからはゼンソク患者の死亡や自殺が相次ぎ、六九年にはその数は一〇名以上になっている。 イタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒によって富山県の神通川流域で発生した公害病である。カドミウムは神岡鉱山からの排水に含まれていた。この公害病は大正時代から発生していたといわれ、一九五〇年代にはカドミウム中毒の可能性が指摘されていた。死者は一一九人と推定されている。 新潟水俣病は水俣病と同じような有機水銀中毒による公害病である。新潟県の阿賀野川流域において川魚を継続的に食べていたために発生したものである。有機水銀は昭和電工鹿瀬工場の排水に含まれていた。一九七五年には死者が二三人になっている。 これらはいずれも、公害訴訟となり一九六七年から六九年にかけて提訴され、一九七一年から七三年にかけて終了した。いずれも、企業が敗訴し賠償支払を命じられた。 一九五〇年代末から七〇年代の前半、この時期はまさに日本の高度成長期に対応している。この期間、日本経済はGNPの平均成長率で一〇%を上回っていた。重化学工業中心の経済成長が実現し、上記の深刻な大気汚染や水質汚染に象徴される公害を引き起こし、開発の名のもとに野山も海もコンクリートが流し込まれ、本来の自然が失われていった。山は切り崩され谷は埋められそこに住宅や工場が立ち並び、さらに海岸の埋め立て自然の海岸線が至るところで失われた。日本のどんな山のなかであっても人家のあるところまでのほとんど全ての道路が舗装道路化し、新たな道路がそれがどの程度の必要性を持つかも明確にならないままにつくられ、さらにゴルフ場が山肌を切り割いていった。このような、日本列島の至るところで行われた自然の破壊が経済成長のパワーを生み出していったのである。 この時代ほとんどの人びとは、自然との調和よりも科学が最終的に勝利し、あらゆる苦悩から解放されることが現実のものとなるはずだと考えていた。科学技術は万能のはずだった。ロボットが登場する未来漫画には、超高層ビルがたちならぶ都市の中を長いベルトのような道路が走り、ロケットを備えた自動車が走り回っていたが、その未来は明るいものだった。豊かさとは、科学によって可能となったさまざまな文明の利器を、大量に自分のものとすることであると疑わなかったのである。そしてこの時期には、経済成長が豊かになることの必要条件であることを、社会全体としてはっきりと認め合っていたのである。 このような楽観的な精神にとって、公害は妖怪のようなものだった。結果として公害問題は経済成長のもとで豊かさを追い求めることが無条件に肯定されるものではないことを、人々に強く印象づけることになり、私たちの文明が陰の暗い側面を持っていることを知らせたのである。 「経済成長か環境保全か」という問題についての日本社会全体の考え方は公害対策基本法にあらわれている。個人の意識が社会全体の考え方に正しく反映されるとは限らないので、これが日本人それぞれの持っている考え方を正しく代表しているという意味ではない。それらからの一定の自立性を持った全体としての日本社会の考え方を言っているのである。一九六七年に公害問題の深刻化の中で公害対策基本法は制定されたが、これは政府がようやく公害というものの存在を認めはじめた時期でもあった。同年に厚生省が水俣病を公害病と認定した。翌年にはイタイイタイ病の主要な原因をカドミウムとする説が政府によって認められた。しかし、この公害対策基本法には産業界からの要請をうけて、同法の目的を示した第一条に二項目が付け加えられていて、そこに「前項に規定する生活環境の保全については、経済の健全な発展との調和が図られるようにするものとする」と書かれていたのである。 この環境との調和条項の持っている意味は大きい。この問題を考えることは、現在の環境問題や廃棄物問題を理解するためにも不可欠であると言ってよい。この調和条項は、それ以前に制定されていた水質保全法における「産業との相互協和」あるいは同じくばい煙規制法における「生活環境の保全と産業の健全な発展との調和を図り」という規定にあらわれた精神を踏襲するものだった。制定にあたって重要な論点となり別項にするという修正だけで、この調和条項が盛り込まれたのである。さらに、同法の第九条の環境基準の設定についてのなかでも調和条項が繰り返され、この条項にもとづいて硫黄酸化物の環境基準を設定する議論のなかでは、企業側の委員が緩和された基準を強く主張するという事態にもなったのである。 この「経済発展との調和」という文章が削除されたのは一九七〇年の公害関連一四法案を一括成立させたいわゆる「公害国会」における同法の改正によってであった。この条項の存在が政府の経済成長優先のよりどころになることを多くの国民が見抜いたのである。またそれは、経済発展との調和の困難性を日本社会が全体として認めざるをえなかったことを意味する。そして、これによってその後の制度的な公害問題解決へのスタートが切られた。この年に、水質汚濁防止法への強化、公害罪法の制定、翌年の環境庁の設置が決まり、七二年には、大気汚染防止法と水質汚濁防止法が強化されて無過失責任賠償の規定が盛り込まれたのである。 この時代の経済成長は、多数の人命を奪った公害の発生から独立に実現したものではない。確かに、日本のおかれた対外的条件が有利に作用したり、それを支える勤勉性や教育水準の高さなど、経済成長を可能にできた条件は数多くとらえることができるだろう。しかし、この経済成長は公害を引き起こすことによってはじめて可能になったのである。公害対策が強化されて、そのための投資が社会的に強制されるようになり、それによって硫黄酸化物の大気中濃度の急速な低下にあらわれているように社会全体として平均すれば、環境汚染の進行はある程度食い止められた。もちろん、これは深刻な汚染がその後も存在し続けたことを否定するものではない。さらに、その後のオイルショックもあって日本経済のエネルギー効率は改善されていった。それでも、このような環境制約の内部化によって経済成長の潜在能力は著しくそがれてしまったのである。 公害以降の日本経済のエネルギー効率の改善などをふまえて、環境利用技術の改善によって環境制約が経済成長に負の影響を与えることを回避できるという安易な議論はよくある。日本経済のエネルギー効率は、一九七〇年代の前半までとそれ以降とでは傾向が逆になっている。すなわち高度経済成長と公害の時代はGNPあたりの一次エネルギー投入効率もエネルギー最終消費効率もともに悪化していった。しかし、先にも述べたようにそれ以降は一九九〇年頃までは改善傾向が続いた。経済成長とエネルギー効率の改善は負の相関を持っているのである。エネルギーの浪費的使用と環境の深刻な破壊が、経済成長にふさわしい現象であることがそこには示されている。 日本経済のエネルギー効率の改善もそれに対する努力が必ずしも大きな成果を生み出さない状況にきている。たとえば、テレビや冷蔵庫といった主要電化製品のエネルギー効率は一九七〇年代の後半以降ほとんど変わらなくなってしまっている。環境やエネルギーなどの経済の外部的制約を効率によって改善することには絶対的な限界がある。環境という絶対制約が経済成長の鈍化につながることを技術や効率によって回避することは、すぐに困難に突きあたってしまう。 経済成長と環境制約との関係をこのように厳しくとらえることは、必ずしも広く認められている考え方ではない。たとえば、この公害と高度経済成長の時代にあっても、公害を回避する対策をはじめからとっていても、経済成長率はコンマ以下のわずかな低下にとどまった、あるいはそれによって効率の上昇と有効需要の増大によって経済成長にプラスに働いたはずだ、という議論がある。経済現象は自然現象とは違って、一般には実験で再現できない。とくにマクロ経済現象はくりかえしのありえない不可逆的な変化を続けている。この制約のなかで、過去の現象の条件が違った場合のことをとらえるためにはどうしたらよいか。これを可能にすると考えられている一つの方法として、コンピュータを利用したシミュレーションがある。そして、このようなシミュレーションの結果として経済成長と環境制約の無矛盾性が主張されるわけである。 シミュレーションによる、環境制約と経済成長との両立性は今日の地球温暖化問題などについても主張されているが、このような議論はある本質的な問題をかかえている。それは、経済のシステム性の無視である。シミュレーションモデルは何らかの意味でマクロモデル、集計されたモデルである。それは社会的総付加価値の生産と分配と支出を追い、それに付随的な要素、環境・エネルギーなどを組み込み、需要サイドの牽引性を重視したケインズ的なマクロモデルの場合もある。この場合のマクロ性、集計性は直接的である。さらに、より部門分割を細かくおこなっている場合、供給サイドの決定性を重視しているモデル、モデルのパラメータを統計的データから推計している計量モデルや外性的に与えるモデルなどさまざまなモデルがあるが、集計的な性格を回避することはできない。 しかし、現実の経済の企業や消費者などの経済主体はそれぞれ不安定で、過敏症的な決定をおこなっている、しかも不均一な選好をもっている。そして、それらが結合してミクロ的なネットワーク構造を形成している。もちろん、それにマクロ的な経済成長を指向した集権的なシステムが重なりあっているのであるが、ミクロ的な構造をシミュレーションモデルに組み込むことはなされていない。ミクロ的な構造のみでつくられたモデルもないし、ましてやマクロ的な構造とミクロ的な構造を双対的に組み込んだモデルなどは皆無であるし、またそのようなモデルを仮想的に組み込むことはほとんど不可能のように思える。シミュレーションモデルには、結局は集計的で平均的な構造のみが体化されてしまっているのである。たとえ、消費者や企業などの主体があたかも自らの目的性にもとずく最適な行動をしているかのような特定化がモデルにおこなわれていても、それによって集計性が回避できているわけでは決してない。 そして、現実の経済政策も、経済のマクロ的な可能性を考慮してのみ実行されるわけではないのである。たとえば、もしあらかじめ実施するかどうかがとわれている公害問題や一般に環境問題を回避する政策が、経済成長に影響を与えない可能性があることが指摘されていたとしても、それはあくまでもマクロ的にであって、現実の個々の企業や消費者が直接に重要な経済的不利益を被ることがわかっているときに、それを断行するのはきわめて難しいのである。マクロ的な可能性が多くの経済主体の直接のミクロ的な経済的不利益の可能性の向うにしか見えないならば、その経済政策の実施はきわめて困難なものになる。 経済成長はたしかにマクロ的な現象であるが、それはその背景にあるミクロ的な構造から完全に自立しているのではない。政策上も、ミクロ的な構造の持っている本質的な揺らぎ、不安定性は経済政策においてつねに考慮されるべき側面にならざるをえない。そして、環境制約は直接にマクロ的な構造に影響を与えるのではなく、まずなによりもそのミクロ的な主体の意思決定に影響を与え、さらにそれらの間の相互関係への影響をとおして結局はマクロ的な成長への消極的な結果をもたらさざるをえないのである。 2.地球環境の時代 全国化した公害問題が鎮静化した後、一九八〇年代の後半からは地球環境問題が大きく注目されるようになった。地球環境問題は現在さらには二一世紀においてももっとも重要な環境問題の一つであり続けるだろう。 公害問題も地球環境問題と同様に環境問題であるが、前者から後者へは環境に対する認識の変化があらわれていることを見逃せない。公害問題における深刻な環境汚染は、人が触れている物理的な意味での大気や水環境の汚染だった。これに対して、地球環境問題における環境は生物的あるいは非生物的要素が織りなす一つのシステムの劣化や崩壊の問題である。このようなシステムとは、生態系(エコシステム)に他ならない。公害の場合も水俣病のように生態系が本質的な媒体になったことは確かだが、生態系そのものの崩壊ではなかった。公害から地球環境問題へは、私たちの経済活動や生活が微妙な自然の相互関係に支えられているという意味での認識の広がりがある。 さらに地球環境問題は、今日の豊かさをつくり出した文明そのものの危うさを人々に感じさせる契機になっている。実際、自然環境が文明の盛衰を決定づけていた例は、短い人間の歴史の中にも豊富にある。メソポタミア文明が感慨による塩分集積、あるいは上流の森林破壊による洪水とともに滅んだこと、インダス文明が煉瓦焼きのための森林破壊や土壌侵食による食糧生産の低下によって滅んだこと、中国文明が莫大な林林破壊とともに盛衰を繰り返したこと、モアイ像をつくり出したイースタ文明は石材切り出しの丸太財確保のための森林破壊によって、原始的な生活にもどってしまったことなど、数多くの例がある。私達もまた一つの特殊な文明のもとで社会生活を営んでいる。この文明が、滅亡しないことは約束されていないということに、人々はようやく気づき始めたのである。 地球環境問題の背景の一つには、現代文明が過去のどの文明にもまして巨大化してきたという事実がある。文明の活動が地球というとてつもない大きな存在に影響を与えるようになった。そして、たとえばオゾン層破壊といわれる地球環境問題などは、生命の陸上への進出(三〜四億年前)の条件であった環境を壊そうとするものである。あるいは地球の気候条件を変え、人類の再生産そのものの条件を壊そうとしていることを、この地球環境問題は示している。 代表的地球環境問題としては以下のものが指摘できる。それぞれの問題を簡単に要約しておこう。 地球温暖化問題は、二酸化炭素やメタン、亜酸化窒素、フロン系ガスなどの温暖化ガスによって地球の熱代謝が変化し地球の平均気温を高めるという問題である。温暖化ガスのうち、人為的に排出される二酸化炭素の主要な排出源は化石燃料の使用にある。化石燃料は、現代文明を支えているもっとも重要な資源である。地球温暖化問題は、現代文明と地球という生態系がぶつかりあっている象徴的な地球環境問題である。 科学者達によって地球の温暖化によって来世紀中に二〜四度平均気温の上昇、五〇〜一〇〇センチの平均海面の上昇、気候帯の一五〇〜五〇〇キロメートルの北上、などの影響の可能性が指摘されている。また海面上昇によって、インド洋のモルジブなどの島国が国家の存亡の危機が懸念され、ガンジス河沿いのバングラディシュの低地帯の人々の難民化、あるいは生態系が変化に対応できず破壊される可能性も指摘されている。さらに農作物地帯の変化による問題、伝染病の北上など、グローバルな影響があらわれると予想も重要な問題となっている。一九九七年に京都で開催されたいわゆる地球温暖化防止条約手意訳国会議で、先進国の間の削減目標が合意されたが、実際に温暖化を防止する水準には到達していない。 酸性雨あるいは一般に酸性降下物問題とは、化石燃料の使用などによって排出された硫黄酸化物や窒素酸化物などが、降雨や浮遊粉塵などに吸収されて酸性化した状態で地上に降り森林などの生態系を劣化させる問題である。大気の循環によって国境を超えて影響を与えるために地球環境問題の一つとして考えられるようになった。降雨の場合、自然な状態でも二酸化炭素が融け込むことによって、酸性度を測るpHで五・六くらいの酸性を示す。そして、これよりもpHが低い降雨を一般に酸性雨と呼ばれる。東アジアの経済発展地域では深刻な森林破壊、水質・土壌の酸性化、アルミの融け出しによる人体への影響の可能性が問題になっている。日本でもほとんどの観測地点がpH四台の高い酸性度を示すようになってきている。 オゾン層破壊問題とは、フロンガス(CFC)などによって成層圏のオゾン層破壊され、太陽光のなかの生物に有害な紫外線成分の地上への到達量が増加するという問題である。オゾン層の一部が極端に希薄になったオゾンホールの発生とその巨大化が報告されている。そのため有害紫外線の増加と、それに伴う皮膚癌などの増加の可能性が指摘されている。すでに特定のオゾン層破壊ガスが全面禁止されると共にその他の関係ガスの削減スケジュールを決めた議定書が発行されているが、一九七〇年レベルに戻るのは二一世紀の中ごろと言われている。 熱帯林の減少問題も地球環境問題に位置付けられている。熱帯林は、地球の気候を支え、多様な生物種をたたえ、さらに炭素の重要なシンクになっているといういみで、特殊に重要な生態系だからである。この熱帯林が東南アジア・ブラジルなどで急速に減少している。世界の森林面積は一九九〇年の国連機関の調査で約四三億ヘクタール、陸地面積の三二%を占めている。さらにそのうちの熱帯林はおよそ四〇%で約一七億ヘクタールである。そして、熱帯林は一九九〇年までの一〇年間に平均で年間一五〇〇万ヘクタール(日本の国土面積の、四一%、およそ北海道と九州と四国を合わせた面積に相当)も減少したことになる。この原因としては、商業伐採とそれに伴った持続性のない農業、あるいは人口増加、薪炭財としての利用、大規模な放牧が指摘されている。また、熱帯地方にマングローブ林の減少も懸念されている。 アフリカやアジアの広い地域で砂漠化が進行している。その原因として、過放牧や耕地拡大のための森林破壊、砂漠の周辺部における薪炭財の確保などによる森林伐採、感慨の不備による塩分集積による農耕地の劣化などが指摘されている。国連機関の調査によっても、年間六〇〇万ヘクタールの割合での砂漠化の進行が指摘されている。砂漠化の背景には、生態系の酷使およびそれを必要とする貧困があるが、砂漠化自体がそれらの人びとの生活基盤を破壊することによって、その進行を加速するという悪循環に陥っている。 生物種の減少問題も一つの重要な地球環境問題である。恐竜がことごとく絶滅してった時代は、それでも〇・〇〇一種/年の減少率にとどまっていた。しかし、一九〇〇年には一種/年の減少率になり、現在では年間数万種が絶滅していると推定されている。たとえば日本国内やその近海に生息するホニュウ類一七四種のうち半数(ホンドオコジョ、アマミノクロウサギ、イリオモテヤマネコ、ジュゴン、など)が絶滅に瀕している。地球規模での生物種の減少は、単にそれによって人間に役に立つ可能性のある種が無くなっていくという問題ではない。たとえ、その直接の利用可能性を人間がとらえられなかったとしても、種の多様性は地球という生態系の冗長性や頑健性、あるいは安定性をあたえている重要な要素であることをまず理解しなければならない。さらに、合成化学物質やオゾン層の破壊など、種が失われていく環境の中に、人間の存在も同時に脅かしているものがあることをしらなければならないのである。 合成化学物質による汚染が地球規模で進行していることも大きな地球環境問題の一つである。さらに、この合成化学物質のなかに、人を含む生物の疑似的ホルモンとして作用し、その生殖メカニズムを撹乱してしまうという環境ホルモン問題があらたに大きな注目を集めるようになった。問題の多くの合成化学物質は、地球規模で大量にばらまかれ、それは大気と水の循環、および生物の移動や食物連鎖によって地球のなかを大規模に移動している。また、それは、ひとつの限定された地域の問題としても発生するという性質ももっている。この点については以下その内容を少し詳しく紹介しておこう。 農薬などの合成化学物質の問題はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』というファンタジックな著作が一九六〇年代に発表されて以来、発ガン性の問題として深刻にとらえられてきた。しかし、それはいまホルモン分泌系の問題へ発展してきている。DDT、PCBやダイオキシン、あるいはプラスチック製品から漏れてくる物質、その他、潜在的に多数の合成化学物質が、内分泌系に影響を与え、とくに生殖器やその機能に重大な影響を与えることがわかってきたのである。しかも、重要なことは、発ガン性の場合などのように人体が受け取る量が大量であればより確実な影響が出るというのではなく、ダイオキシンなどの場合、実際先進国の人間が蓄積されている量で確かな影響が出ることがわかってきているのである。この新たな事態は、これまでの多数の研究がシーア・コルボーンらの『奪われし未来』によってまとめられることによって明らかになりおおきな衝撃を与えている。 一九四〇年以来の五〇年間で、男性の精子数が半減しているという報告、あるいはそれと同じ早さでの精子数の減少を確認している少なくない報告がだされ、すでに学会では確かなものとして受け止められつつある。さらに、不妊症、生殖器の異常、乳癌や前立腺癌などの一定の割合がが内分泌系に加えられた疑似ホルモンとしての合成化学物質の結果である可能性が明らかになりつつあるのである。動物の世界では、巣をつくらないワシ、オスが力を失うことによって、メスどうしがつがいの巣をつくるカモメ、生殖器を退化させたワニ、免疫力の低下によるアザラシの大量死として合成化学物質の生殖器への影響があらわれてきている。 動物が急激に個体を減らす理由は、必ずしも環境が破壊されたことによるものではない。合成化学物質の疑似ホルモンとしての作用が生殖機能や能力に影響をあたえて子孫を残せなくなっている可能性も高いのである。人類も、また一般の動物も個体発生の初期において男性ホルモン(テストステロン)や女性ホルモン(エストロゲン)の量にわずかの狂いがあると、その時期に生成すべき個体部分とくに生殖器に異常があらわれる。これが、その後のさまざまの生殖機能異常の原因になっていくのである。しかも、それがホルモンであるためにほんのわずかの量の変化が問題になる。 人間が創り出した合成化学物質は一〇〇〇万種にもおよび、そのうち数万種が実際に製造されているといわれている。そのうちのどの物質が内分泌系に影響を与えるかは知られていない。発ガン性に比べれば研究量も少ない。 このような合成化学物質としてのDDT、PCB、ダイオキシンなどは環境中に広く存在する。北極圏にいるシロクマですら、高濃度のPCBを蓄えている。PCBは日本のいて、一九七二年にすでに製造も使用も禁止されているにもかかわらず、減少はしているものの、いまだに環境や生物のからだのなかに残留している。ダイオキシンは、日本では、食事や大気や、水や土壌から摂取している。また、プラスチックからもれだす合成化学物質の影響もしられている。ダイオキシンは、日本のゴミ焼却場からの排出が大きな問題になっていきている。厚生省もようやく一九九七年になって、全国一五〇〇ヶ所以上のゴミ焼却場のダイオキシン排出濃度の測定を実施し高濃度の排出源の閉鎖など、一定の環境基準達成のための対策をとはじめている。 環境ホルモン汚染は、私たちが知らないうちに、人類の再生産機能を狂わせる、減少させる化学物質を大量に利用しているということを示している。そして、この汚染は大気や水の地球規模での物質循環をとおして、人間が直接に関係していない地域に生息する生物にまで広がり、地球全体を汚染しているのである。影響が不明確な化学物質の利用をすべて止めることは不可能だろう。たとえ、中止したとしても環境や生物体のなかに長く残留する。確かにこうなると、人類の滅亡も単なるSFの世界だけの話ではなくなってくる。 地球環境問題は、公害問題などに比べ解決する上ではるかに大きな障害に直面する。まず、地球環境問題のもっとも重要な特徴と考えられているのが国境などの人為的な境界とは無関係に問題が広がっていることである。人間は、それらの境界を空間の単位として問題の解決を図ることがこれまでの常だった。さまざまな経済的、文化的、民族的状況におかれた関係国家が協調的対策をとることが著しく困難な場合が少くないということである。 これは空間の単位の問題であるが、時間の単位でも人間の都合と地球環境問題との不整合性がある。人間は、世代という単位で連なっている。問題の解決に当たらなければならない世代と、問題の影響を受ける世代が異なっているのである。しかし、生態系は個々の生物に世代はあっても世代を超越したシステムとして存在し、変化し、進化している。しかも、私たちには将来のことが極めて不確かなものでしかないということである。 このような地球環境問題の持っている困難性を克服して人類は決定的な行動をとれるのか、これが問われている。フロンガスの排出規制では決定的な一歩を踏み出したといえる。温暖化ガスの排出規制では、九七年の京都会議における国連気候変動枠組条約締約国会議で先進国の削減目標が合意されたが、そのレベルは必要水準からみるとはなはだ少い。そして、この会議で明らかになったもう一つ大事なことは、経済成長を指向することがいかに環境保全を消極的なものにさせるかということである。二酸化炭素などの温暖化ガスは経済活動の直結し、その削減が経済成長に否定的な影響を与えるという配慮が大幅な削減を不可能にしてしまった。それは、日本の公害対策の過程で、経済発展と公害対策を両立させようとする試みが結果的に、決定的な対策をとれなくしてしまったことを彷彿させるものだった。 日本の公害対策の場合は、同時代に環境汚染のもとで多くの人々が命を失っていっているという事態が、経済発展との調和条項の問題を社会的に認識し、その立場を捨てる契機となった。今日失われる命の前では、人々は自らの喜びや利益の犠牲にしても決定的な対策に踏み出すが、現在の経済活動によって将来世代の命や健康が犠牲になることが予測されても決定的な行動に踏み出すことを躊躇している状況なのである。地球環境問題で問われているのは、人間の種としての理性である。人間の歴史は、人間の集団の理性が極めて危ういものであるということである。それぞれの個人が理性的であっても、理性的な個人からなる集団は、とくにそれが大きなものになればなるほど理性的であることが困難になる。それは、社会体制が柔軟に環境の変化に対応できないことにもあらわれている。たとえ、このように集団理性が困難であっても、地球環境問題の解決は、人間のもっとも巨大な集団としての種の理性が問われているという事実は変えることができない。 3.深刻化する廃棄物・ゴミ問題 地球環境の時代が終わる見通しが全く立たない状況のなかで、日本はもう一つ新たな深刻な環境問題に直面している。廃棄物問題である。経済活動によって生産された財が、使用の結果であるか否かに関わらず、その積極的な利用者があらわれなくなってしまったときに廃棄物となる。この廃棄物の捨て場の希少性が高くなることによって廃棄物問題が発生する。 廃棄物問題も一つの環境問題である。廃棄物を処理することが環境としての生態系に確実に負荷を与えるからである。廃棄物を処理しそれをどこかに埋め立てれば、埋立地をつくり出すために生態系が破壊される。現在の管理型処分場などは、他の生態系から遮断されることが要請され、さらにその埋め立てが完了しても生態系の本来の姿を取り戻すことは、人間的な時間視野の中では不可能になる。さらに、焼却すれば、ダイオキシンなどの有害物質を排出し深刻な環境汚染の原因となる。 一九九三年に家庭から排出されるゴミ、あるいは事業所から排出される産業廃棄物以外のゴミ(一般廃棄物)の総量は五〇〇〇万トン、一人一日当たり約一キログラムのゴミを排出していることになる。さらに同じ年に、産業廃棄物は四億トン排出されている。一人当たりの排出総量は毎日一〇キログラムである。ゴミは、三八〇〇万トンが焼却され、一五〇〇万トンが埋め立てられている。産業廃棄物の場合は、一億六〇〇〇万トンが再利用され、八四〇〇万トンが埋め立てられている。合わせれば、毎年一億トンが埋め立てに回されていることになる。環境庁はこの体積が一億立法メートルで、東京都の山手線の内側全体に一・五メートルの高さで積み上げたものになると計算している。 一般廃棄物の埋め立て処分場の残余年数は一九九三年に全国平均で約八年、首都圏では五年となっている。処分場は建設も同時に進んでいるので、これが実際に埋め立ての限界を示すものではない。産業廃棄物の最終処分場の残余年数は、一九九四年時点の全国平均で、二・三年、首都圏では〇・八年となっている。廃棄物の処分場は、有害物質の倉庫として厳重な管理がなされる遮断型最終処分場と処分場の底にシートを張るなどの対策がとられている管理型最終処分場、そして有害性の比較的少いと考えられている廃棄物を埋め立てる安定型の三種類の処分場がある。このなかでも、排出量に比べて処分場建設が困難な管理型の最終処分場が極めて逼迫した状態になっている。 この最終処分場は、管理型の処分場から有害物質がもれだしたり、安定型の処分場から検出されるはずのない有害物質が検出されるなどによって、住民の不信がつのり建設促進されていない。それどころか、全国各地で処分場の建設をめぐる紛争が発生している。厚生省は一〇〇件を超える紛争が継続しているとしているが、民間団体は紛争件数は四〇〇件を超えると報告している。 いくつか具体的な問題に触れよう。まず、日本の産業を代表する自動車の場合である。国内では年間五〇〇万台の使用済自動車が発生している。重さにすると五〇〇万トンである。不法に投棄されるものも少くないが、自動車解体業者に回された自動車の重さにしてその四分の一は部品として再利用されたり輸出されたりする。残りは、シュレッダー業者によって破砕される。その四分の三は鉄や非鉄金属としてリサイクルされるが、のこりの八〇万トンが埋め立て処理される。この量は、およそだが、自然に積み上げると高さ二〇メートルくらいの山が二〇くらいできると考えればよいだろう。 このシュレッダーダストには重金属や有機塩素化合物の有害物質が含まれているとして一九九四年からは管理型処分場に廃棄することが義務づけられた。瀬戸内海の豊島(香川県)に不法投棄された五〇万トンの廃棄物のなかにはシュレッダーダストが含まれ、水銀、PCB、カドミウム、鉛、銅、有機塩素化合物が検出されている。 使用済家庭電化製品の処理問題も深刻化している。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンの大型家電製品について推計で年間二〇〇〇万台近くが捨てられるようになってきている。重さにすれば、七二万トンである。廃家電製品は、自動車程のリサイクル率になっていないと予想され、そのかなりの割合がシュレッダーダストとしてあるいは直接そのまま埋め立てられていると考えられる。また、廃棄パソコン問題も二一世紀に向けて急速に深刻な問題になっていくと予想される。たとえば、東京都の場合、現在は廃パソコンの収集実績はテレビの二〇分の一、エアコンの七分の一にすぎないが、これが二〇〇一年には現在のエアコンの収集実績を抜き、さらに二〇〇五年にはテレビのそれを抜くと予想されている。 焼却処理の問題についてもみておこう。日本は狭い国土で巨大な生産力を支えているために、簡単には廃棄物処分場を建設することができない。そこで、ゴミ・廃棄物の焼却処理が盛んにおこなわれ、先進国のなかではもっとも進んだ国の一つとなっている。たとえば、EUなどは一九九〇年頃にその全体で五〇〇ヶ所余の焼却場しかないと報告されていたが、現在の日本には一五〇〇ヶ所以上の焼却場を有するようになっている。この大量の焼却場の存在は、そこから発生するダイオキシンによる深刻な汚染問題を引き起こすまでになっている。 ダイオキシンは廃棄物焼却場からだけ排出されるわけではない。同じ燃焼工程としては、金属精錬や自動車エンジン、タバコなどの燃焼によっても排出されている。その他にも、紙パルプ工場における塩素漂泊工程における発生、農薬の製造工程からの発生が問題になっている。しかし、日本におけるダイオキシンの総排出量の九五%は廃棄物の焼却工程から発生していると試算されている。そして、その量は年間約五キログラムである。 ダイオキシンは、モルモットの実験では急性毒性として六〇〇ng(ナノグラム、$10^{-9}$g)/Kg(体重一キログラム当たり)が半数致死量となっている猛毒である。さらに慢性毒性では同じくモルモットの無毒性量は〇・六ng/Kgとなっている。その他にも、発ガン性、環境ホルモンとしての作用にも関連している生殖毒性、ベトナムの枯葉剤にかかわって問題になった催奇形性、あるいは胸腺を萎縮させ免疫機能を低下させるという意味での免疫毒性を持っている。 このダイオキシンによる日本人の汚染状況はきわどいところにきている。人間の耐容一日摂取量(TDI)を厚生省の「ダイオキシンのリスクアセスメントに関する研究班」は一〇pg(ピコグラム$10^{-12}$g)—TEQ/Kgとしているが環境庁の「ダイオキシンリスク評価検討会」はさらにその半分五pg—TEQ/Kgとしている。TEQはダイオキシンのさまざまな種類の毒性をそのもっとも強い毒性のダイオキシンではかりなおした数字であることをあらわしている。一方、環境庁の調査によれば日本人の普通の生活からくるダイオキシンの一日の摂取量は〇・五から三・五pg—TEQ/Kgとなり、また魚を多くとる生活の場合には二から五pg—TEQ/Kgとなり、ゴミ焼却場の周辺の生活の場合は同じように二から五pg—TEQ/Kgとなっているということである。すなわち、すでに環境庁の指摘している耐容摂取量近い量をすでに日本人がとっている可能性があるということである。 このような認識のもとに、厚生省は一九九七年に新しいガイドラインを発表し、ダイオキシンの排出濃度が八〇ng—TEQ/Nm$^{3}$を超える焼却施設については緊急に削減対策を実施すること、新設の施設については〇・一ng—TEQ/Nm$^{3}$にし、その他の既設の施設についても〇・五〜一・〇ng—TEQ/Nm$^{3}$の水準にすることを要請した。そして、同年に全国一五〇〇ヶ所以上の焼却施設についてダイオキシンの排出量調査の結果を発表し、緊急対策の基準を満たさない焼却炉は休止や廃止に追い込まれた。 ダイオキシン汚染の深刻さは、リスク評価がおこなわれ焼却施設について一定の基準で規制がすすめられたとしても容易に解決されたとは言えない。というのも、まずダイオキシンが環境ホルモンとして人体に作用するのは、現在の先進国の人々の体内に蓄積されている程度の、極めて微量である可能性が新たに指摘されはじめていること、さらに重要なことはダイオキシンが脂肪に融けやすく魚などによって生物濃縮を引き起こすことが確実だからである。生物濃縮によって、その海水中の濃度の数万倍あるいはそれよりもはるかに高い濃度で生物の体内にダイオキシンの蓄積を引き起こされる可能性が存在する。したがって、ダイオキシンは限りなくゼロに近い排出でなければならないのである。そのために、膨大な焼却処理施設をかかえる日本としては、現在すすめられている対策よりもさらに高い水準の対策が求められるときがくることは不可避だろう。 4.幻想的リサイクル社会 廃棄物問題については、法的な対策もすすめられている。一九九五年にはいわゆる容器包装リサイクル法が制定され、一九九七年からペットボトルとガラスビンについて実施され二〇〇〇年からは紙製容器やプラスチック容器一般にまで拡大され実施されようとしている。この仕組みでは、容器包装製造者、容器包装利用者、消費者、再生業者、市町村、県、政府がそれぞれの役割を果たしながら、今日的な豊かさと利便性をささえている容器包装をリサイクルしようとしている。これはしたがって一つのシステムであるが、このような人間の限界ある理性によって創作されたシステムが目的通りに機能するかどうかがはなはだあやしい。理性が社会的なプロセスをコントロールできるという神話は社会主義の崩壊とともに消えたと思えたが、まだここで生き残ったのだろうか。 容器包装リサイクル法の本質的問題は一体誰がどのように容器包装の利用の抑制の責任を果たすのか、そのインセンティブが適切な内容と水準で組み込まれているかが不明確なことである。現在の廃棄物問題はリサイクルすればよいというのでは全くない。リサイクル自体に環境負荷のかかる要素がある。たとえば、廃プラスチックを再びプラスチックにしようがそれを油化しようが汚染物質が排出される。ときには、たとえば合成か学物質の排出が行われる場合、それは埋め立てるよりも深刻な汚染になる可能性もある。さらに、リサイクルをいくら実行しても、廃棄物や新しい資源利用、あるいは環境負荷が必ず低下するとは限らないのである。まず、紙パック、ペットボトルあるいはプラスチックトレイがもし、それぞれ紙パックやペットボトル、プラスチックトレイそれ自体に再生されなければ、他の商品に転化されて他の資源利用を代替する可能性に期待することになるが、これがまた浪費されたり、環境負荷のもともと低い商品が再生資源と代替することによって十分な効果が生じない可能性もある。さらに、それぞれもとの商品に再利用されたとしてもその容器包装の利用が増大していく可能性は十分存在するのである。 さらにこのシステムは、処理過程全体のコストが関係者に十分認識されないという基本的な欠陥も存在する。まず、大きくは再生義務を課せられる製造・利用業者は回収され保管された廃棄物を利用する点で回収費用と保管費用が意識されない。回収・保管費用は、自治体回収に依存する限り税金で賄われてしまう。また、製造した量の全体に再生義務が課せられるのではないので、その容器包装の焼却あるいは埋め立ても並行して行われているのであるから、その費用は相変わらず製造・利用業者には意識されない。逆に、再生義務だけを果たせばよいという点で、一つの免罪符を与える結果ともなってしまうのである。事業者が費用の全体を意識しないのであるから、消費者もまた当然その費用の全体を意識することはない。 このような経済の物質負荷を減少させようという戦略を持たないままにリサイクルや循環という曖昧な方向で問題を糊塗しようという姿勢は、いわゆる家電リサイクル法をめぐっても繰り返されようとしている。一九九七年六月に通産省の審議会が「電気・電子機器のリサイクルの促進に向けて」を発表しテレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコンの大型家電製品についてメーカーはリサイクルを実施し、販売店や市町村が回収し、消費者はリサイクルされるように使用済み家電製品を引き渡すということになっている。さらに、費用は廃棄段階で利用者が支払うのが望ましいとなっている。同年一二月の厚生省生活環境審議会報告でもリサイクルの流れと役割分担が基本的には同じように設定されている。また費用負担についても消費者の負担はその一部となっているが、その範囲内で製造業者がリサイクルすることを妨げないとして、費用による製造業者へのインセンティブに限界をもうけている。 中央環境審議会廃棄物部会もリサイクル・物質循環社会を打ち出しているが、これらのリサイクル偏重の発想では現在の廃棄物問題の真の解決にはならない。やらないよりましという程度の解決に留まるだろう。循環型社会はそこに廃棄物の徹底抑制というメカニズムがはめ込まれることによってはじめて意味を持ってくるのである。物質負荷の低減という課題を不問にしたリサイクル社会は人々に幻想を植え付けるものでしかない。 政府が関わった取り組みがなぜリサイクル偏重になるのか。そこに、経済成長に対する配慮が働いていることは容易に読みとれるだろう。容器包装リサイクル法にしても極めて短期間で政府部内の意思統一がはかられ、きたるべき家電リサイクル法についてもほんの一年も経たない間に、基本的方向を同じくしたような議論が相次いで出されてくるのは、リサイクルシステムの構築によって、経済成長に対する本質的な制約を抜きに取り組むことができるからである。経済成長とリサイクルは矛盾することがないし、それはリサイクルと物質負荷の持続的増大が両立するからなのである。 経済成長に対する配慮が廃棄物対策に決定的な一歩を踏み出すことをためらわせている例は、一九九七年に行われた廃棄物問題の憲法ともいえる「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」の改正にもあらわれている。今日のような産業廃棄物の不法投棄が横行し、また最終処分場に関する信頼が薄らいでいるときに緊急に求められているのは、これらを確実に防止する政策である。そして、そのために最も必要なことは、産業廃棄物の排出者が適切に処分されることに関して最終的に責任を持つシステムをつくりだすことである。この視点からみて改正法は極めて不十分なものになっていると言わざるをえない。 たとえば、改正法はこれまで廃油や病院などからの感染性廃棄物、あるいはPCBやアスベストなどにかかわる有害廃棄物について強制してきた管理票(マニフェスト)制度を産業廃棄物一般に広げることにしている。この制度は、産業廃棄物の排出者が数枚綴になった管理票を委託する処理業者に渡し、運搬する業者は終了とともにそれを記入した管理票の一枚を排出業者に回送し、そして最終的に処分する業者が処理の終了とともに管理票を運搬業者と排出業者に渡して、すべての関係する主体が処理の完了を把握できるシステムだという。管理票を適切に扱わないことによる罰則も用意されている。しかし、これによって不法投棄がなくなる、あるいは大きく減少することはないだろう。なぜなら、委託された業者が不法投棄しても、あるいはそれにともなって虚偽の管理票の扱いをしたとしても委託した排出業者の責任は問われないからである。 現在でも、不法投棄は「不法」におこなわれているのであり、不法にも行なえない状態をつくりだすことが問題になっているのである。もし、排出業者が不法投棄された場合の責任をとることが法的に強制されるならば、排出業者は不法投棄を比しおこさない業者を選定せざるを得なくなるはずである。豊島問題の場合は、国の公害等調整委員会から、法的に全く過失のない二一の排出業者に対して責任負担金八〇億円の支払いという勧告が出されている。そして、実際それに従う排出業者があらわれていることは、排出業者の責任を回避できないという社会的合意が少しずつできてきていることを意味している。改正法が、排出業者の責任を明確にできないのはそれが与える経済的影響に対する配慮が働いているからである。すなわち、経済成長の力を弱めることを極力回避しようとしているのである。 5.「物質」という共同基体 産業界が関わったリサイクル法あるいはリサイクル社会論は本質的問題の隠れ蓑として機能する可能性がある。しかし、それはあらゆるリサイクルが無意味であるということではない。資源の利用と廃棄に関して、物質負荷を低減させる強い力が働いた場合には、資源リサイクルはもっと意味ある形で機能するだろうし、そうならざるをえない。資源リサイクルは物質負荷の小さな社会の必要条件なのである。現在の政府や産業界が許容するリサイクル社会論の問題は、それを必要十分条件と錯覚させるところにある。 一般市民が自発的に進めるリサイクル運動は、その結果が必ずしも目指した結果を生み出さなかったとしても、そこにはリサイクルが物質負荷を低減させるという直観や信念が働いていることは確かである。一般市民を消費者としてみた場合、消費者がリサイクルやゴミの減少あるいはその結果としての節約に取り組むことは、ある経済的効果を生み出す。無駄な消費をしないということになれば、それだけ有効需要の減退やマクロ的な乗数の縮小などの効果をもたらす。さらに、モノを大事に使うということ、たとえばテレビや冷蔵庫などの家電製品あるいは自動車などの耐久在をなるべく大事に使うようになれば、おなじような消費の減少をもたらす。実際、日本の消費者が耐久消費財を以前よりも長く使おうとしているという調査結果が知られている。 さらに、自分には不要になったがまだ使える耐久消費財などはリサイクルショップに持っていくということも多くなっている。また、ゴミを分別してリサイクルしやすいようにするためにはその消費段階から心がけるべきことが多くある。たとえば、ペットボトルをリサイクルに出すためには、全てゴミにしてから捨てる時に分別しようということにはならないだろう。賢い消費者は、家庭のなかで使用済みペットボトルを置く場所を指定するはずである。容器包装リサイクル法によれば、リサイクル対象の容器は、鉄製品、アルミ製品、ガラス製品、段ボール、紙製品、ペットボトル、プラスチック容器、その他にわけられ、おなじガラスビンでも、キャップは鉄製品になるという。これだけの分別が消費者にできるかどうかははなはだあやしいが、リサイクルに回すことが捨てることよりもはるかに高度な行為であることは読みとれるだろう。 消費者がリサイクルのようなことをこまめにやるようになることは、「消費」がその本来のものとは違ったものになること意味している。消費とは、「消すように費す」という語感が日本語の場合はある。使い尽くして無くならせるという意味がこめられている。英語の consume の場合も、たとえばロングマンの英辞典では to do a way completely, destroy あるいは spend wastefully などの意味が掲げられている。日本語と英語の両方に、共通の語感がとらえられるだろう。消費には消し去ること、あるいは壊し尽くすことの意味がある。そして、経済的な意味でも消費者のパワーはこの使い尽くす力、破壊力によってとらえることができるのである。 消費者がモノを大切に使ったりリサイクルのために使い方を工夫したりすることは、この破壊力が衰弱していくことであり、消費者らしさを失うことである。また、消費者が破壊力を失うことは対称的に生産者がモノをつくり出すパワーを失うことにつながっている。そして実は、生産者が新しいモノを創造する力、そして消費者がそれを破壊するという、創造と破壊の二つの落差をもったサイクルこそが工業社会の経済成長力の重要な動力源だった。それはツーサイクルエンジンの圧縮と爆発のサイクルをイメージさせるものである。 消費の破壊力の低下によってもたらされる新たな状況は、消費者が物質的なモノの善意の管理者のような役割を担わされることになることである。消費者ではなく使用者でありまた管理者であるという市民になっていく。消費者である場合、通常は、購入したモノの所有権を手にすることになる。所有権は、そのものに対する権利の全体をあらわしている。それは、使用する権利も自由に処分する権利も持っている。それは、消費者の破壊者としての状況にうまく対応した権利である。しかし、消費者が単なる使用者あるいは管理者となるならば、その権利は明確に制限されたものとならざるをえないだろう。使用する権利はあっても、自由に処分することはできない。その物質の善意の管理者として振舞うことが要求されるのである。 自動車の場合を考えてみよう。自動車を購入したときにはその使用権から処分権まで全ての権利が消費者の手にわたったようにみえる。その消費者が、どのように利用するかは全く自由である。乱暴に乗り回そうが、大切に乗ろうが、道路交通法が許す範囲ならどのように乗ってもよく、またその範囲内で必要な改造をしても問題にはならない。さて、その消費者が自動車をもう使わなくなって適当な河川敷きにでもその自動車を乗り捨てておいたらどうだろう。廃車届けを出すためにナンバープレートを外してゴミのように放置するのである。この場合、河川敷きを利用する上での違法性や廃棄物をみだりに放棄したという意味での「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」の第一六条の違反になり罰則が与えられる可能性がある。このみだりに放棄するとなぜ罰せられるのか。それは、この自動車の所有者が自動車というモノの管理者としての責任を果たさなかったからだと考えるべきなのである。 消費者が財に対してこのように控え目な権利しか持たないようになると、生産者もまた変化せざるをえない。生産者もまた物質に対して完全な所有権を持てなくなる。経済的な価値の観点からは、投入する原材料や自然資源あるいは機械などの物的な資本ストックと生産された財を比較すれば後者のほうが高い価値をもつものである。しかし、物質としてみれば消費者の財を廃棄する行為と生産者がモノを生産し販売によって手放すことは同一の行為である。消費者が廃棄過程でその財が確かにリサイクルされたり適切に最終処理されたりすることに責任をもつことと、生産者が自らの生産した財が消費者によって適切に利用されことに責任をもたなければならない。さらに、生産過程で廃棄される物質が適切に処理されることについては消費者と全く同じ責任をもつ。生産者の責任は消費者と同様に自らが利用するあらゆる物質に関して単なる利用者あるいは善意の管理者にすぎないからなのである。 ここでは、消費者と生産者について取り上げたが、流通業者も財を投入してサービスを主に生産している業者についても、全く同じような議論ができる。すなわち、物的な財については、それに関わるすべての主体がその財を支えている抽象的な物質についての管理責任を負わされているのである。では、その管理をいたくしている主体は誰だろう。もちろんそれは、特定の個人や組織ではない。それは共同体とみた社会や、そのもっともグローバルな実態としての世界である。 物質はさまざまな具体的な形・量・質をもつ。そして、さまざまな物質が組み合わされて一つの財を形成する。さまざまな種類の物質があるということも、それらが何らかの分子の組み合わせ、さらにはさまざまな素粒子の組合せとして考えてしまえば、物質的にみた多様性も高度に抽象的なものとなってしまう。確かに、私たちが扱っている物質には、さまざまに有害性の程度に差があるなどの多様性があるために私たちの管理の仕方も異なっている。しかし、法的な原理としてみたときにはそれらの差異は、さしあたって抽象することができるし、そうしなければならない。それは民法上の所有権が特定の物質に対してそれぞれ記述されていないのと同じである。このような、さまざまな財の抽象的に与えられた物質的基礎を基体とよぶことができる。すなわち、私たちは今日の私たちの生活を支えているあらゆる物質的な財について共同でそれぞれの利用者に管理を委託していると考えられるのである。 ここまで共同基体は廃棄物との関連で議論してきた。そのために、私たちの経済とこれまでそこからもれていた廃棄物の処理の範囲の物質について、その共同基体性をあきらかにするのにとどまっている。しかし、この物質的な共同基体性はもっと一般的に拡張されなければならない。すなわち、環境としての生態系、エコシステムを通過したり循環したりしている物質にまで拡張されなければならない。それは、人間以外の生物の権利も考慮されなければならないという意味では必ずしもない。その最も本質的な理由は、生態系を通過する物質もそのなかで循環する物質も空間的あるいは時間的視点を変えれば、私たちの社会を通過したり循環したりする物質となるからである。これは、一見人間中心主義的な発想のように見えるが、そうではなくて、巨大な大気と水の大循環のなかで私たちは生活しているし、その循環のなかでしか、あるいはそれに接触することによってしか私たちはこの生活を維持することができないのであり、この大循環はその多くが環境としての生態系によって担われているからである。 このような意味で、物質的基体とは静的な実態ではない。水と大気のグローバルな大循環とともにダイナミックに、閉鎖系としての地球上を運動している実態なのである。 このような拡張された共同基体性によって、単に廃棄物問題にとどまらず、すべての環境問題を視野に収めることができる。この共同基体性が現実にローカルあるいはグローバルな社会によって、認められるようになるかどうかはわからない。しかし、今日の環境問題や廃棄物問題をめぐる現状、あるいは少しずつではあるが進展する対策の全体しての傾向は、社会が物質の共同基体性を認める方向であるとは、確実にいうことができる。窒素酸化物や硫黄酸化物などによる大気汚染は、まさにこれらの物質の管理責任の問題である。地球温暖化問題は、これらを引き起こす温暖化ガスという物質の管理責任の問題である。熱帯多雨林の減少は、生態系の物質的基体に対する共同管理責任に関わる問題である。 膨大な種類の合成化学物質に関する汚染、その象徴的な問題としての環境ホルモン問題は、物質の共同基体性に関わる緊急の問題である。自然界にそのままでは存在せず、人間がはじめてつくりだした合成化学物質のうち、日本で使用されているものは八万種とも一〇万種とも言われている。それぞれの有害性だけで環境リスクをとらえられない。有害性が低くても大量に環境中に放出されればリスクは高くなる。このような合成化学物質の管理は固有の困難さがある。このような状況のなかでPRTR(Pollutant Release and Transfer Register)、制度が注目されている。これはまさに、合成化学物質の製造、輸送、廃棄の全体をそれらの属性とともに定量的に管理しようというものである。したがって、それは物質の共同管理責任を実際に制度かしようというものに他ならない。また、合成化学物質をめぐって取り組まれているレスポンシブルケア(RC)は、化学物質を扱う企業がその自発的な管理責任を果たそうという取り組みである。これもまた、物質という共同基体に対する共同管理責任の問題ととらえることができる。 合成化学物質の管理責任が鋭くかつ緊急に問われるのは、それらが有する環境リスクの直接性のためである。しかし、この管理責任は合成化学物質にとどまるべきものではない。一般に、地球環境問題、あるいは廃棄物問題においてもこの物質的基体性に対する共同管理責任が問われるようになってきているのが今日の時代の重要な特徴である。 6.現代社会システムの限界 公害問題から地球環境問題さらに廃棄物問題を追ってきた。その中で共通してあらわれているのは経済に対する配慮が対策への決定的な一歩を踏み出すことをためらわせてきたという事実である。経済に対する配慮とは、問題の漠然としたとらえ方であるが、それはあきらかに特定の企業や個人あるいはそのグループといった経済主体の利益や便益や富に対する配慮ではない。一つのシステムとしてみた経済の全体に対する配慮である。そして今日の社会経済システムの全体に対する評価は経済成長の程度として測られるのである。すなわち、経済に対する配慮とは現代社会システムのマクロ目的としての経済成長に対する配慮に他ならない。 環境制約が社会システムに浸透していく経路は多様である。そのなかには、環境制約が経済成長に必ずしも負の影響を与えない経路が存在することも確かである。第一にそれは、生産と廃棄の活動における無意味な環境利用を無くしていくこととしてあらわれる。生産において投入された資源のうち生産過程で直ちに廃棄しなければならない部分を縮小する。ある機械を製造するために必要な鉄板のうち切抜きあとの残滓を少くすることが可能であればそれだけ廃棄物を減少させることができる。もちろん、これだけでも費用がゼロとはいえない。しかし無駄を少くすることによる便益がその費用を賄えれば純費用がゼロとなってしまう。企業がこのような費用管理を直ちにするかどうかは確かではないが、環境に対する会計を独立に正確にとらえることによって可能になる。これは、企業内の環境会計の重要な課題である。このような、純費用がかからないあるいはさらに純便益が出てしまうような環境負荷の削減は経済成長に負の影響は与えないだろう。 第二に、無駄の排除よりも、現行生産・廃棄過程のより大きな変化を伴うとりくみならば、それを技術進歩をともなうものと言ってもよいだろう。その技術進歩が環境負荷を低下させるという主目的の効果だけではなく、副産物として便益、利益をもたらすならば、技術進歩とその具体化に要した費用を賄ったり、その費用を上回ったりすることも当然ありうる。また、技術進歩も一企業でとらえられる変化と、社会的に形成されたシステムとしての技術という意味での変化もありうる。産業構造が変化することによって一企業では必ずしもとらえられない形で、環境負荷が低下することもありえる。極端な場合として、一つの産業における環境負荷は増大したが、別な産業においてより大きな環境負荷の低減が発生することが十分ありえる。あるいは、環境負荷の大きな産業の規模の低下と、その小さな産業の規模の増大のもとで同じ社会的な純生産が可能になるならば、それもまた社会的な意味での技術進歩がそこに進行していることになる。 第三に、社会全体の消費の傾向として環境負荷のすくない財やサービスあるいは情報にシフトすることによって、環境制約が経済成長に与える負の効果を相殺してしまう場合である。この点で、理論的には、環境負荷がすくなくなっているにもかかわらず以前と機能が同じであるような場合と、機能そのものもが変わりながらも、人びとに与える満足のレベルや質が変わらないあるいはより増加する場合とを区別することができる。たとえば、自動車の与える大気汚染や温暖化ガスの排出あるいは廃棄物などによる環境負荷の高さが、問題になればその負荷のより小さな自動車が開発される。しかし、その負荷の高さのために移動手段としての自動車需要が鉄道にシフトすることもありうる。もちろん、自動車と鉄道は相互に完全に代替可能な財あるいはサービスではない。部分的な代替性にとどまる。あるいは、原稿作成や作図、ゲームやシミュレーション、レジャーなどがコンピュータ上のバーチャル(仮想的)な空間で行われるようになれば、そのこと自体では物質的な負荷がすくなくなる可能性もある。 第四に、環境負荷の増大が有効需要不足の解消に向かう効果をもたらしたり、雇用を増大させることによって経済成長にプラスに働く場合もある。たとえば、環境制約はさまざまなビジネスチャンスを生み出していることは確かである。日本の場合、二一世紀に向けて廃棄物・リサイクル関係あるいは汚染防止で必要とされるあらたなビジネスの種類や規模は極めて大きい。このような新たなビジネスは、大規模な機械システムによる大量生産体制のなかでの隙間産業的性格を持つために、従来型の企業活動に比べ平均すれば相対的に規模も小さくかつ労働集約的である。それは、非自発的失業が存在するもとでは労働そのものがもっとも環境負荷の少い投入要素であることにも関連している。 以上のような可能性によって、環境制約の強まりが経済成長に負のインパクトを与えることを緩和することは確かである。それは、現在の社会経済システムが持っている環境に対する柔軟性や冗長性をあらわしている。したがって、現在と将来のどのような環境制約の時代においても、このような可能性が現実化する限り今日のような意味での経済成長は可能である。 しかし、それは持続的な成長ではありえない。上記のような柔軟性や冗長性によって環境制約が経済成長にあたえる制約を回避できるということにはならないのである。たとえばある環境制約の追加的な強化が、なにもなければ経済成長率を一%低下させるものだとして、上記のような可能性によってそれが九〇%緩和され成長率の減退が〇・一%にとどまってしまうというようなものではない。また、たとえばある段階の環境制約の強化が直接的な影響を五〇%緩和するものであっても、さらに同程度に追加的に強化されていく環境制約がその緩和の可能性を二〇%、一〇%、と減退させていくことは確実である。 例えば、無駄を排除するとしてもいずれはそのことによる純便益がゼロや負になることは避けがたい。技術進歩によって環境制約を回避することも、目的に規定されたほぼ絶対的な限界が存在するのが普通である。たとえば、テレビという電化製品をそれに体化しているさまざまな物質の量をどこまでも減少させながら、同じテレビとしての機能を維持するなどというのはだれも信じないだろう。自動車もまたその機能を維持しながら何処までも窒素酸化物や二酸化炭素の排出を減少させることはできない。たとえ、成長率を減少させない程度に、現在利用されている自動車を電気自動車に代替することによっても、鉄道輸送に代替するにしても環境負荷の低下を何処までも実現することはできない。あるいは、農業に分野でも、現在の農業生産物の生産水準を維持しながらどこまでも農薬の投入を低下させることはできない。すぐに、その絶対的な限界にぶつかってしまう。絶対的な限界にぶつかるとは、追加的な技術革新に対する社会的なコストの投入がもたらす環境負荷の削減レベルが急速にすくなくなってしまうということである。 リサイクルも絶対的な限界を持っている。紙、鉄、アルミ、ガラス、プラスチックなどのさまざまな形を形成する物質が大量に利用されて今日の私たちの豊かさを支えているが、これらも一〇〇%のリサイクルは不可能である。それは、たしかに物理的な法則としての不可能性ではない。たとえば、熱力学の第二法則のエントロピーの増大の法則のようなものではない。しかし、事実としてこれらの資源について社会経済的システムのなかで利用される限り完全リサイクルは不可能である。 これらの資源が私たちの知る溶解、合成、加工、組み立てなどの製造とその利用、そしてリサイクルに関わる過程のなかで物質的散逸を回避することは事実上不可能である。もし、それを可能性にするような管理を製品に関わる資源の収集、加工、使用そしてリサイクルのすべての過程で実現しようとすることは耐えがたい費用が要求される。合成化学物質や有害物質の場合は、このライフサイクル全体に関わる管理が厳しく問われるようになっていくだろうが、この場合も、そのほとんどの物質について完全な管理は事実上不可能だろう。 リサイクル率が向上すればいいのではないかと考えられるかも知れない。しかし、リサイクル率が九〇%になってものこりの一〇%は環境中に確実に、あるいは絶対的に排出されて、それによる環境の劣化は必ずしも避けられないのである。すなわち、その一〇%が環境としての生態系の同化能力の範囲内であることはなんら保証されない。さらに、どうしようなく排出される最後の一〇%は自動車のシュレッダーダストのような環境に有害なものである可能性が非常に高い。自然が同化可能な廃棄物は人工的な処理可能性も高いのである。しかも、それらの資源を利用する経済活動の規模が増加する限り、この一〇%の背景にある物質量もまた増加しているのである。 先に述べたように、環境制約があらたな産業を生み出し、それが経済成長に積極的に作用する可能性があることは確かだ。そして、リサイクル関係の産業のポテンシャルは特別に高い。それらの産業は、社会全体としての物質負荷、環境負荷の低減に貢献するだろう。したがってそれは、環境制約が絶対性を持ちながら与えられると、その経済成長へのインパクトを緩和させる。しかしまず、この新たな産業の増大は、それが必要とする環境負荷を増加させるので、その増加が環境負荷の緩和量より低いレベルにとどまるものであったとしても環境負荷の純緩和量はその分だけ低下する。そして積極的意味は十分認めたとしても、より根本的には、この環境ビジネス、エコビジネスによって環境の絶対制約そのものが緩められるのでは決してない。環境という与えられた容量の容器のなかにビジネスがつまっていけばいくほど環境ビジネスの収益性は急速に減衰していかざるをえない。 環境制約は、その価値や費用をさまざまな手段によって評価し環境利用量に応じて利用者に課税などでそれを負担させることによって、市場経済のなかに内部化することが可能である。環境の価値づけは可能かなど実行可能性に関わるさまざまな問題はありながらも、このような経済的手段は個別の経済主体の環境利用の切実性をうまく汲み上げることができるなど有効性も否定できない。環境制約が厳しくなればなるほど、その特定の環境利用の費用を高める、あるいは高まるようなメカニズムをはめ込むことによって、環境制約を回避する技術進歩を促進し、あるいは環境負荷のすくない財やサービスが開発されることによって、さらに環境保全型のビジネス、リサイクルビジネスなどを生み出していくという議論はよく聞かれる。実際このような可能性は存在し、二一世紀にかけてこのような経済メカニズムの意味、あるいはこのような潮流は無視しがたいものになっていくだろう。しかし、これによって環境制約の絶対性が緩和されるわけではない。環境制約が加速的に厳しくなっていくと、このような価格メカニズムは機能しなくなるだろう。 全ての価格について言えるが、ある財やサービスの価格が異常に高くなると市場はそれを市場メカニズムの範囲内で解決することを放棄する。市場というよりも、それに関係する人びとが市場以外の場での解決を指向するようになるのである。たとえば、石油の価格が高騰すれば、深刻な表情をした政府がなりふり構わぬ対応に出るだろう。石油の場合は、その製造と供給の基本的な工程が市場という枠のなかで動くことができるからまだ、市場の対応できる範囲は広い。しかし、環境の場合は、本来、経済的価値のついていないもの、つけることが困難な対象を、民主主義を擬制にしたような方法、たとえば仮想市場法(contingent valuation method)やコンジョイント分析(conjoint analysis)によって価値づけるのであるから、価値評価に対する合意可能性が低く、市場よりも政治的な動機によって左右される程度が極めて高くならざるをえない。環境の場合は、市場が対応できる範囲はごく狭いものになるということである。 さらに、環境制約は多様な形態であらわれるが、個々の対応だけをみてもマクロ現象としての経済成長に与える影響をとらえることができない。たとえば、窒素酸化物対策については、一定の十分性を持った対策ができるかもしれない。あるいは温暖化ガスの排出についても、完全なものは期待できないが前進と言える対策がすすめられるかもしれない。また、廃棄物についても、たとえば産業廃棄物最終処分場の確保という困難な課題についても十分な処理容量を確保できる可能性があるかもしれない。これらも含めて、環境制約を多面的に受け入れていく場合に、それぞれによい解決ができても、それらの多く受け入れの集合的な結果もまた望ましいものになるとは限らない。というより、望ましい結果からかけ離れてしまう可能性が著しく高い。単にそれは、それぞれの対策に相対立するものがあらわれるからではない。それらの全体的対策は、経済のマクロ的なパフォーマンスに深刻な打撃を与える可能性が高いということである。 今日の環境・廃棄物制約の全体は、経済成長をマクロ目的として維持し続ける現代日本の社会システムのあり方と衝突しつつある。工業社会型の現在の社会システムを維持したまま環境・廃棄物制約の全体を受け入れることはできないということであり、現在少しずつはめ込まれている制約を回避する政策は、徐々に私たちの社会システムの性格を変えつつある。経済成長を否定することではない。成長しなければ維持できないような社会構造が少しずつ変わりつつあるということである。この社会の変化の方向を可能な限り正しく把握すること、それが私たちに課せられている切実な課題なのである。 |