第3章 極相社会とは何か |
目次 (総合目次へ戻る) 1.社会変化の論理 2.物質と人間そして社会 3.弱い社会システムとしての生態系 4.極相システムの比較 5.極相社会の諸特性 |
1.社会変化の論理 社会の変化は、その社会を構成している諸個人に同じような切実さでとらえられるものではない。しかし、その変化は全ての人にかなり平等に結果を分配する。変化がどのように進んで行くのかについての詳細を予測したりすることはできないが、時代の大きな流れをとらえることは、社会に対して能動的に生きようとする者にとっては切実な課題である。あるいは、ただ結果だけを受け止めようとする者は、それなりのコストを支払うことが要求されるのである。 日本の過去半世紀をみても、社会は大きく変化した。二一世紀に向けてのこれからの数十年間もまた、大きく日本社会が変化しようとしていることは間違いない。そして、これからの変化は過去半世紀の変化の延長線上にあるようなものではない。私たちが容易に選択することができないような社会の外生的な要因が、その社会が持続可能であるために構造そのものの変化を要求することになるのである。社会構造の変化とは、もっと精密な表現をすれば社会システムの変化である。 社会の大きな変化の方向を認識しておくことは、一見不規則に、確率的に発生するさまざまな社会現象の背景にあり、それらの現象の合理性、一貫性を支えている本質をとらえることにつながる。確かに、人間の歴史は一見無意味な個別事象の累積である。それでも、統計的な大数の法則のように、その累積は傾向を示すようになるのである。それぞれの個人は、個別事象を一つ一つ予測することは不可能である。だから、時代や社会の大きな流れをとらえていたとしても失敗したり没落する可能性を回避することはできない。しかし、不要な抵抗の決意をしたり、不要な敗北感にひたることを回避することによって、失敗の可能性を低減させることは可能である。 このことは、社会の変化そのものが双対性を持っていることを示している。 社会の変化が不規則な個別事象によって埋まっているのは、究極的にはそれぞれの個人の思考と行動の不規則性に原因がある。個人は、確かに一部はその時代の思考に捕らえられている。その範囲内で、時代のロボットに過ぎない。しかし、それは個人の人間的に持っている個性の影響力の希薄な、ある一部について言えるに過ぎない。全ての人間は、人間として持っている物理的な潜在力において絶対的な個性を持っている。この絶対的な個性が個別事象の不規則性の原因なのである。そして、この不確実な個人の動きに支配されているのは社会のミクロ的な構造である。 社会は、もう一つのマクロ的な側面を常に持っている。そして、人間が社会システムを形成した以降の歴史の本質は、このマクロ的な現象の記述にある。社会のマクロ的な変化とは社会変化の全体的(holistic)な認識である。この認識の中に個別的、具体的な事象を配列して記述するのがさまざまな歴史なのである。したがって、歴史はもろもろの個人を捨ててしまう。 マクロ的な社会の変化の中に意味を持つ個人だけが、あるときは社会のマクロ目的を体化した英雄としてあるときは独裁者として、さらには彼らを中心に構成されたハイアラーキカルな組織の一員として描き出すのである。しかし、その個人は完全に表現された個人ではありえない。そこには、人間として不可欠な個性とその揺らぎがすべて捨て去られてしまう、あるいは、その個性が関わる分だけ、ほんものの歴史からはずれたものとして描かれざるをえないのである。 社会の変化をミクロ的な構造に関わる変化としてとらえるだけの個人には、それは奇妙で不可解な現象の連続である。しかし、それは社会変化の一側面でしかないのである。社会の変化は、ミクロ的な変化とマクロ的な変化の双対関係の中で進行する。たとえ私たちは、変化をとらえることによって具体的な利益の増加やコストの減少を実現できなくても、認識すること自体をも希求するものである。それは、たとえば、かつての私たちが自然の認識不可能な部分に神を見て、神話にあらわれたような認識によって精神の安定を確保したのと同じである。 したがって、私たちがとらえるべき変化はマクロ的な変化である。そして、人間が社会システムを形成して以後で言えば、マクロ的な社会システムの変化の方向をとらえることが大切なのである。すなわちそれは第一章での用語法に従えば、体制の変化である。 ところで、私たちは社会のマクロ的構造、体制の変化に関する条件や規則性さらには法則などを、どの程度知っているだろうか。これをめぐってはさまざまな疑問を提示することが可能である。社会のマクロ的構造は、変化するとしても全く自由度のない変化をするのか、すなわち一直線の決まった方向への変化しかしないのか、それともいろんな選択肢がある中でほんの小さな揺らぎが特定の方向への変化をもたらしてしまうようなものなのか。また、マクロ的な目的や構造が満たすべき条件はあるのか、なども注意されるべきである。 社会のマクロ的な構造の変化をめぐっては、もっとも本質的な条件から考察されるべきである。その第一は、既存のマクロ目的や構造、すなわち体制がなぜ変化を強要されるのかである。第二は、変化した後の体制もまた持続的に存在することが可能でなければならないということである。この二つの条件が新しい社会システムの基本構造を決めていく。 この条件の中で、社会を構成する個人はどのような役割を果たすのだろうか。個人は、社会のミクロ的構造の中では積極的主体である。すなわち、自らの意思にもとづいて他者との関係を能動的に構築する。その個人は他者と、自らの個性を背景にして関係を構築できるのである。というのは、ミクロ的な社会構造そのものがネットワーク構造を主体としているからである。ネットワーク構造の中では、その相互関係が常に二者の間の関係の連鎖として構成されているために、個人はこの構造の能動的主体としての位置を保つことができるのである。 ところが、マクロ的構造である体制に対しては個人は能動的な主体ではありえない。したがって、その体制の変化に対しても個人は本質的な役割を果たすことはできない。しかし、それは個人の意思や行動が無意味であるということでもない。体制の変化は、個人の意思や行動、あるいはパワーのある部分が、その個性を剥ぎとられて集計され全体的な意思や行動、そしてパワーとなることによってはじめて体制変化に対して意味ある影響を与えることができる。そして、逆に意味ある意思や行動、そしてパワーが体制を変化させるところまで集計されなければ、それは現実化しない。それは単純化し、意思の昇華過程とよぶことができる。ミクロ的な意思が抽象化し集計可能なマクロ的な意思に昇華するのである。 この意思の昇華過程は、何も難解な哲学的原理にもとづいて行われるのではない。結局、基本的に、人びとの反応の共通性としてあらわれるものである。もちろんそれは、人びとの反応の中にマクロ構造を変えようという意思が具体的にあらわれているとは限らない。あらわれないのが一般的だろう。人びとの生活を維持する意思や行動の中に意識されない形ではめ込まれている潜在的反応が昇華するのである。人びとが、それまで当り前と考えていた生活の様式、スタイルをわずかにでも変えようとする、そのこと自体はマクロ的内とを必ずしも持っていなくても、集計、累積されることによって体制の変更につながるのである。 これまでに日本で歴史上、実際にあった体制の変換は農業社会から工業社会への政治的なプロセスは明治維新によってシンボリックにとらえられる。しかし、その体制的内容は政治的なプロセスで語られるものではない。この体制変換の基本的内容は剰余の形態の変化でありそれに伴うマクロ目的とマクロ構造の変化である。すなわち、近世はその石高の支配に最も純粋にあらわれているように、主要農業生産物としての米で測った社会の剰余を最大限獲得することを体制の原理とした社会だった。そこには、剰余米の量で秩序づけられ価値づけられた社会があった。この社会は、米の特別な位置が喪われるとともに、価値基準となる特別な財貨とその生産に偏らず、普遍的な貨幣価値で剰余を測る、工業社会に変わった。そこでは、貨幣的剰余が実現できるのであれば、生産される財貨は何でもよかった。あらゆる生産に剰余生産の可能性が与えられたのである。 農業社会から工業社会の転換は生産と消費の場における農業の特別意識の崩壊、あるいはそれが崩壊することを客観的に強制されたことによるのである。しかし、また一方でそれは人びとの生活の中に置ける農業と米の支配の崩壊、価値基準財としての米の意味喪失によって準備された。それはまた、権力の側から見れば、米の生産とその剰余を支配するだけでは、自らの支配力、海外に対する力を維持することができなくなってしまったことを意味している。日本における、農業社会から工業社会への変化はその政治的な飾りを全て取り去れば、非常に純粋で単純な過程としてとらえられるし、そのようなものとしてとらえなければならないのである。 体制に含まれていないと言う意味での外部的制約によって社会が困難を抱えるとき、ひとびとはその困難の生活への浸透に対して、そのライフスタイルを新たな最適状態まで変化させる。それは、ひとつの個人的な過程にすぎない。ひとびとは、その個人的な過程のマクロ的な影響まで、特別な人びとを除いて一般には、思いを馳せることはない。しかし、それは、社会が外部的制約により適合的な体制を築くことを強制することになってしまうのである。 体制の変化の過程にあらわれる政治的な混乱や闘争、英雄や独裁者の目まぐるしい変遷は、少なくともミクロ的現象ではない。マクロ構造としての体制の変化が強制されることによってあらわれてくる現象であり、したがってそれはマクロ的な現象として見なければならないのである。 外部的制約要因が社会の内部に浸透し、人びとのライフスタイルにまで影響し、さらにそれが体制の変革への意思として昇華し、体制の揺らぎから変化を余儀なくされるようになったとしても、変化の向こうにあるべき新たな体制を人びとが合理的につくり出していくものではない。あらたな体制はすくなくとも既存の体制よりも全体として見た人びとの厚生水準をより高いものにする、あるいはより高いものであるという錯覚を与えるものでなければならない。しかし、さらにその新たな体制は、その内部に、その体制が持続することを保証する仕組みを体系的に組み込まれていなければならないのである。 ある体制が持続するための条件は何か、それは現在の体制をみても直ちに明らかになるように、無数に存在する。経済的、文化的、社会的、政治的なさまざまな仕組みが現在の工業社会という体制を支えている。それらのさまざまな仕組みは、最初から一つの青写真の中に描かれていたものではなく、体制が持続するためのさまざまな政策や取り組みの結果として形成されてきたものがほとんどである。しかし、その中には最も本質的な条件がある。それは、ミクロ的な構造とマクロ的な構造の間の整合的な関係である。したがってそれは社会システムの双対関係がきれいに成立することである。それは、人びとの日常行動の中にある個別的意思や行動が、同時にマクロ目的の実現に貢献するものとなるという意思と目的の二重性と整合性である。 工業社会におけるこのような目的の二重性とその間の整合性は、アダム・スミスによって「見えない手」(invisible hand)として鋭く洞察されたものである。個別の主体の目的追求が結果的に公益の増大につながるというものである。ただ、工業社会における消費者の効用や利便性を可能な限り増大させようという傾向と企業という経済主体の利潤最大化の追求は全く並列的なものではなく、前者は後者に相対的に従属している、という状況をも踏まえなければならないことは事実である。 現在の工業社会の本質的な外部制約は環境制約である。そして、この外部制約が工業社会という社会システムのあり方と両立不能であり、社会の優位にかたくなにこだわれば、社会の存在基盤そのものをも破壊させてしまうものであれば、社会は新たな体制を模索せざるをえない。私たちに求められているのは、外部制約がどのような体制を必要としているのかを明らかにし、その持続のための本質的条件をとらえておくことである。 2.物質と人間そして社会 工業社会の社会システムの変更を迫っている本質的な外部制約は、環境制約である。この外部制約は、確かに体制外からの制約である点で外部制約である。したがって直接には内部と外部の接点で問題は表面化する。それが、大気汚染問題、廃棄物問題、地球環境問題、合成化学物質問題であるかどうかにかかわらず、問題の発生している直接の現場は外部と内部の境界である。それは、外部と内部の境界があらかじめ明確になっていて、そこに発生していることを認識できるというよりも、環境問題の一次的に発生するようなところに、社会システムと環境あるいは生態系との境界が認識できるといったほうが正しい。 そこで、この外部制約が社会システムの変更を強制しているメカニズムについて考察しよう。 まず、環境問題の発生している境界においては物質が深く関わっていることを認識することができる。物質といっても、直接にはなにか抽象的な物質一般ではない。さしあたって、物質は具体的な特定の物質として存在している。そして、物質の特殊性とは担っている秩序の特殊性である。二酸化炭素や窒素酸化物、硫黄酸化物などは比較的単純であるが、合成化学物質ではやや複雑になり、樹木などの生物体、さらには生態系ということになれば高度な秩序を認識することができる。 これらのさまざまな秩序の段階の中にある多様な物質も、その組成は幾つかの原子に分解できる。実際、高度な生態系も、そのなかを循環している、あるいは通過している物質はより単純な形態をもったものである。生態系とは、太陽エネルギ−によって支えられながら単純な物質から高度な秩序を作り上げる能力を持った多様な生命によって形成されている。それは、一旦組み上げられたらそれが維持されるというものではなく、不断の秩序の組み直しをしている実体である。 私たちの環境は、このような意味で、物質の単純な相(フェーズ)と複雑な相の間をゆらいでいる実体としての生態系から形成されているのである。したがって、生態系が単に生物的実体からだけ形成されていると見たのでは、本来切り離せないものを無理矢理切り離してしまうことになってしまうのである。 このような相の変化は環境をとらえる際の一つの本質的な次元なのであるが、もうひとつ物質がその空間的所在を次々に変化させるといういみでの次元も持っている。あるときは、人間の肉体の基体を成したり人間の道具として利用されたりしながら、またあるときは川の中を流れたり、他の生物の基体を成したりして物質はその所在を変えている。それは、生命がつねに物質代謝をしながら持続しているというだけではなく、地球上を大気や水が大循環していることによって、その空間的変化は動機づけられている。 いわゆる物質循環とは、物質のこのような二つの次元の変化、すなわち相の変化と位置の変化の二つの意味を同時に含んだ概念と考えるべきだろう。人間とその社会もまた、他の生物と同様に、この物質循環の一部を構成することによってはじめて持続することが可能になる。物質が私たちの身体と社会の中を通過しまたそのなかで様々にその相をへんかさせることによって、人間とその社会は持続しているのである。 物質をこのようにとらえ、環境と社会のなかを変転しながらもそこに一般的かつ共通に存在している客観的実体としての物質を全体としてとらえた概念が、すでに指摘した共同基体としての物質なのである。環境としての生態系も私たちの社会も、共同基体としての物質の海の中で持続しているそれぞれ一つの秩序に過ぎないのである。共同基体という概念は、このことをあきらかにするために不可欠なのである。 この節の冒頭で、環境制約とは外部制約であると述べた。このことは、環境問題の現象をとらえる上では誤っていない。しかし、前述の物質循環、あるいは物質的共同基体としてとられるようになると環境問題は外部制約に関わる問題ではなくなる。問題の発生現場は内部と外部の境界であっても、それをどのように認識しどのように解決するかという段階になると、このような外部、内部の区別は本質的な意味を持たなくなる。単に、社会システムにどのように物質が取り入れられるか、あるいはそこからどのように物質が廃棄されるかという点ばかりではなく、環境としての生態系をどのように撹乱し破壊しているのか、あるいは社会システムに取り入れられた物質がどのように相の変化と移動をおこなっているのかを全体としてとらえざるをえなくなるのである。 もともと、私たちの社会システムはこの物質循環を人間の意図通りに制御しようとするところから発生した。物質循環の人工的制御と社会システムとは、ニワトリが先か卵が先かという話に似ていて、どちらがどちらを可能にしたとは結論づけがたい。物質循環を制御しようとすれば、私たちの社会は社会システムという形態をとらざるをえず、物質循環を制御することによって社会システムを維持する物質的基盤を社会はえることができたのである。 日本の場合、灌漑という形態の物質循環の制御を契機に社会システムが形成されてきた。縄文時代の採集・狩猟・漁労を生業にした社会から弥生時代以降の灌漑水稲農耕を生業にした社会に変化することによって社会システムは発生したのである。そして、発生からさらに社会システムの全国的広域化を促したのは、鉄などの広域的な移動である。この後者もまた物質循環の制御である。 人間はこの物質循環に対して厳しい制御をおこなってきた。それによって、人間は大きな社会的剰余をえることができたのである。社会的剰余は、常に物質的意味を持っている。農業社会における穀物でとらえた剰余は直接に物質的である。工業社会におけるGDPなどの総付加価値に増分でとらえた場合も、その背後には総支出の増加分、したがってまたその対象となるさまざまな財やサ−ビスの増加分が存在している。サ−ビス支出の増加は、それ自体としては非物質的であるが、社会的剰余がサ−ビス増加によってのみ実現することはありえないのである。 このような剰余の生産は、一般的に否定されるべきものではない。剰余の追求が環境としての生態系が持っている冗長性の中に治まる限りは、人間の進歩として肯定される面を持っている。もちろん、この冗長性を明確にとらえることは容易ではない。生態系そのものをどの範囲でとらえ、さらにはどれだけの時間的な視野の中でとらえるかによって、冗長性のとらえ方は異なるだろう。しかし、今日の環境問題の規模の大きさと深刻さは、人間の経済活動、剰余の生産がこの冗長性の限界を超えたものになってしまっていることを明確に示している。 環境問題が、物質循環に対する過大な撹乱としてあらわれていることを認めるならば、この問題の解決に向けた努力がもたらす結果は、社会システムが関わっている物質循環の全過程に対する、できるだけ精密な管理であることが理解できる。もちろん、その管理の目的は、外部にある環境に持続している物質循環について、それに対する制御とそれが不可避的にもたらす撹乱を生態系が持っている冗長性の範囲ないに抑える、社会システムが取り込んだ物質は、人間と生態系に対する影響を最小限にするように管理する、そして環境に廃棄する場合もまた、生態系の撹乱やその人間と社会への影響を最小限にしなければならない。今日の、巨大な経済活動がもたらしている物質循環、生態系への撹乱の大きさからみれば、その求められいてる管理費用は甚大であり、剰余を生産するような能力はこの管理のための費用に向けられなければならなくなる。 ただし、このような物質循環への関わり方は、物質循環の全体としての管理によって実現されるべきものではない。物質循環への意識的な関わり方を最小限にするような努力が常にされるべきなのである。それは、人間の物質循環の認識そのものの限界を認めなければならないことを意味している。相の変化を含む物質循環は、人間の科学によって何処までも正しい認識に接近できるものではない。完全な認識が不可能というばかりではなく、認識が科学者の努力によって深まったとしても、絶対的な認識不可能の部分を大きく残した漸近的な接近に過ぎない可能性が高いのである。物質循環そのものがかかえている複雑性は深刻であり、安易な理解と判断は回復しがたい危機を招来させる可能性がある。 3.弱い社会システムとしての生態系 環境は生態系である。生態系とは一つのシステムでありさまざまな種の生物および物理的自然がダイナミックに秩序ある相互関係をつくりだしている状態を指している。このために、地球環境問題においても、地域的環境問題においても、環境を問題になっている要素を、生態系の中から他との相互関係あるいはその全体的な秩序を無視して、安易に切り出して解決を試みることの問題性が浮かび上がるのである。 生態系は、私たちの社会システムを取り巻いている、あるいはそれにとどまらず、私たちの社会システムの持続的存在を可能にしている実体である。さらに、そもそも私たちの社会システムは生態系というシステムの中に、人為的構造を作り上げる形で形成されてきたものなのである。 生態系も一つのシステムならば、その構造としての特性を認識し、私たちの変化を求められている社会システムとの同質性や差異性をとらえることは重要な意味を持つはずである。私たちの社会は、環境の制約に直面することによって、いま形成されている社会システムの根幹をなしている構造の変化を余儀なくされているのであり、生態系というシステムの中に形成されるべき新たな社会構造を知る鍵を求めることは重要な意味がある。 生態系とは何かを明らかにする場合、まずその境界の相対性から明らかにする必要がある。一般に生態系は、たとえばある森林生態系、土壌生態系、湖沼生態系など特定の区分された生態系としてとらえられる。地球全体も一つの生態系として考えられるので、上に述べたような森林生態系などは地球という生態系からみれば部分的な生態系である。さらに、その森林生態系にしても、そこには部分的な土壌生態系や小さな池の部分的な生態系が含まれている。 生態系は一つのシステムであるが、それは強い意味のそれであり、社会と同様に、部分に還元できない全体が意味を持っている。すなわち、個別の主体の意図をこえた全体としての秩序を構成する意図が働いている。その意味では、ひとつの社会システムなのである。したがって部分を全体から切り離して単独に取り出すことはできないはずである。そして、この地球上であらゆる生物は地球全体を覆う大気と水の循環の中にさらされざるをえないのであり、その意味で強い相互関係の中に生きている。それは、生態系は地球としてしか存在できないことを意味し、そうなれば生態系という概念そのものの有効性が失われざるをえない。じっさい、この点を理由として生態系概念の有効性に疑問を呈する研究者もいるが、それは生態系という概念の持っている認識手段としてのダイナミックな特性をみていない議論なのである。 およそ、地球上の生物相互と物理的自然とのあいだの関係をとらえる上で、部分から全体をとらえていくという方法も、全体から部分をとらえていくという方法もどちらも完全な認識の方法ではない。部分から全体、全体から部分という認識方向をダイナミックに切替えることによって初めて、より深められた認識をえることができるのである。生態系とは、このようなダイナミックな認識のための概念なのであって、あらかじめその対象が固定的に与えられるものではない。たとえば、ある境界に区切られた特定の森林生態系といった場合、それは認識の一時的な、あるいは表現するための手段なのであって、それは必然的にその森林生態系の外部との関係、あるいはその森林生態系を構成している生物種、あるいはその生態系の中に含まれている部分生態系に認識対象が展開せざるをえないことを前提にしているのである。 環境としての生態系においては生物的なものと非生物的なものとが統合されていることについてはすでに述べた。この生態系の能動的主体としてはさまざまな生物種の個体、あるいはそのまとまりとしての個体群がある。これらの主体が物理的な環境に条件づけられて、また物質的なものによって、あるいは生物の生活そのものが生み出す非物質的な環境やサービスを媒介にして相互に関係を持ち、生態系を構成している。そして、生態系が一つのシステムであるというのは、このような生物の相互関係が単にネットワーク的な相互関係ではなく、全体的な秩序をもう一面で持っているという点にある。 一般に、生態系の生物的主体は大きく二つないしは三つのカテゴリーに分割される。ここでは、すこしわかりやすい後者の方法を採用しよう。生態系の第一の主体は、主に太陽光をエネルギーとして水と二酸化炭素を投入して有機物と酸素を生産する植物である。植物には、海洋中の微小な植物プランクトンから草本類、巨大な樹木まで生活形態の違うさまざまな種が存在している。太陽光のエネルギーを利用しないで有機物を生産する生物もいるが、ほんの例外的存在でしかない。また、この有機物の生産には、物質として水や二酸化炭素だけではなく、窒素やリンなどを含む栄養塩類が必要とされる。 有機物をエネルギーと無機物だけで生産できるのはこのカテゴリーに属する生物だけであるという点で、これを生産者と呼ばれることがある。もちろん、植物もまたその生物体を維持するために自ら生産したエネルギーを利用する。たとえば、樹木は、昼は条件が許す限り生産と消費を同時に行なうが、光を失う夜は、消費だけになる。 また、植物が利用できる太陽光は、空間が与えられれば限られた資源となる。したがって、その資源のさまざまな配分が、植物のあいだで問題とならざるをえない。さらに、水や栄養塩類もまた重要な資源である。そして、二酸化炭素もまた光合成が激しい状況の中では希少な資源となりうる。植物相が、持続されるためにはこれらの希少な資源が適切に配分されなければならない。この配分規則をあたえるメカニズムは生態学の世界で一つの注目すべき研究テーマとなってきた。 第二のカテゴリーに属するのは、植物の生産した有機物を利用して生活を維持している生物のうち、バクテリアや菌類など有機物の分解効率の高い生物を除いた動物からなる生物である。簡単に動物というカテゴリーとすることができる。もちろん、人間もまたこのカテゴリーにはいる。さらに、バクテリアや菌類を食糧とする動物もこの中にいる。しかし、この動物は植物のような意味での生産はおこなわない。 動物は、植物の生産した有機物を直接取り入れる種と動物を食糧源とするもの、そしてその両者をおこなうものがありうる。したがって、利用可能な有機物のバランスという点では、植物との関係におけるバランスと、動物内部のバランスが生活を持続させるためには重要な意味を持って来る。さらに、水もまた動物にとって不可欠だが、この水が希少資源となり動物相にどのように配分されていくかが、問題になっている生態系は少なくない。さらに、ある場合には、空間もまた資源となる。たとえば、鳥が繁殖のための適切な場所を選択する場合などである。 さらに、植物は動物に対して有機物を供給するだけではなく、たとえば日陰をつくり出したり、動物に繁殖の場や機会あるいは巣の空間を与えたりもする。また、動物は、たとえば蜂が花を着ける植物に対してするように植物に対して受粉の機会を与えるなどのサービスを提供したりする。さらに、動物は水からの排泄物などによってかなり分解の進んだ有機物を提供することによって植物が栄養塩類を取り入れるための条件を整える役割も果たしている。生態系の持続のためには、これらのあいだの、相互のバランスが問題にならざるを得ない。 第三のカテゴリーは、バクテリアや菌類など有機物の分解の高い効率を持っている生物相である。これを植物や動物に対して分解者とよぶことができる。動物もまた、分解しか行なわない点では、分解者としてよぶこともできる。したがって、動物も含めて分解者という一つのカテゴリーにする分け方もあり得るのである。分解者は、植物のつくり出した有機物から最終的にエネルギーをとりだし、そして、基本的に水と二酸化炭素、そして無機物に分解する。 この生物相は、植物からも動物からもそのエネルギー源としての有機物が供給される。有機物の供給量にその活力と規模が依存することはもちろんである。さらに、この分解者の分解の効率は気温などの条件にも強く依存する。暖かい温度においた食物ほど腐りやすいことはよく知られた事実である。もちろん、湿度にも依存する。したがって、高温多湿の熱帯多雨林における有機物の分解スピードは温帯林や寒帯林よりも数倍、あるいは十倍以上も速い。熱帯多雨林で倒れた木は、一年か二年で完全に分解されるが、寒帯林における倒木は一〇年以上も分解されずにいる。そのために、熱帯多雨林の土壌は、その分解と再生の速さゆえに貧しく、寒帯林の土壌は分厚い有機物を含んだ相を持っているのである。 そこでいま、仮に、植物、動物、分解者のカテゴリーに属する生物をそれぞれ任意に数種類ずつあつめて、適当な物理的環境で成育させようとしたとしよう。このような方法によって自立した生態系を組み立てることはできるだろうか。あきらかにできない。偶然に、構成する種が適切なものであれば、持続可能な生態系が組上がることがあるかも知れないが、その確率はほとんどゼロであろう。生態系は、それを構成する生物種の物質的、非物質的な微妙な相互関係が、多様な次元の条件を同時に満たすことによって、その持続可能性が約束されるのである。 このように考えると、当然、では生態系はなぜ形成されていくのだろう、という疑問が湧いてくるだろう。つまり、持続可能な生態系を作ろうとしても困難であるにもかかわらず、たとえば溶岩大地などにいつの間にか、秩序ある生物の相互関係が形成されて来るのはなぜかという疑問である。この答えは簡単である。すなわち、その空間がより大きな生態系に含まれているからなのである。生態系というのは常に相対的に与えられた境界において問題にされるが、静的にその境界が定められるのではなく、認識論的な方便に過ぎないのであって、現実には、地球という生態系を除けば、それを含むより大きな生態系が存在するのである。そして、そのためにまわりの生態系から、さまざまな植物の種子や動物や菌類バクテリアが、物質循環によって運ばれ、いろいろな試みがくりかえし行なわれて、その物理的環境に適した生物種の構成が実現していくのである。 以上を前提にして、生態系のシステムとしての構造を私たちの社会と比較してみよう。私たちの社会が、それぞれ目的を持って行動する個人や個別の組織などからなっているように、生態系もプリミティブではあっても目的を持って行動する個体や個体群という個別主体から成り立ったっている。生態系の主体が個体か個体群かは必ずしも一意に決まらない。個体群が常に空間的、時間的にまとまっていれば、個体群を生態系における一つの個別主体として考えてもよい。しかし、森林生態系などのように、一つの樹木の個体が数百年の生命を持つような場合は、一本の樹木という個体を個別主体として考えるのも妥当性を持っている。それは、私たちの社会において個人を個別主体として考える場合と、その個人を含む企業や家庭や文化的組織などを一つの個別主体として考える場合とで厳密な区別が困難である、あるいは必ず必要ないというのと対応している。 生態系においてこのような個別主体は、他の個別主体と物質的、非物質的要素に媒介されて複雑な関係を形成している。これは、基本的にネットワーク構造である。ネットワーク構造とは、その全体としての構造が二つの主体の間の関係に分解できるようなものをさす。ネットワーク構造は、ひとつの全体としてのまとまりを持つのであるが、あくまでも主体は、個別主体なのである。中心が明確にならず、頂点からの縦の構造が作られることもない。そしてまた、社会もこのような個別主体間のネットワーク構造を持っている。本書では、このようなネットワーク構造をミクロ構造と呼んでいるのである。すなわち、生態系も私たちの社会も同じようなミクロ構造を持っているということである。 社会の場合、このような個別主体に対して社会の全体としての目的や、それにもとづく秩序が形成される。現在の社会システムのもとでは、それは経済成長という目的が法制度や行政あるいは企業組織の編成や再編のなかで貫かれるように意識されている。そして、それに付随して、教育やさまざまな文化制度が整えられ、そして人々の消費生活や日常生活全体にもその影響は浸透しているのである。そして、このような目的をここではマクロ目的と呼び、そのもとで作られる制度とその構造をマクロ構造と呼んでいるのである。マクロ構造は、不可避的に頂点からしたに広がる形でその意図が貫かれ、社会全体の支配へ展開していくような縦の構造を持っているのである。したがって、私たちの社会はマクロシとミクロの二重構造、双対構造としてとらえられなければならないのである。 では、生態系にはこのようなマクロ的要素はあるのだろうか。生態系は、すくなくとも縦の支配構造としてのマクロ構造は持っていない。縦の構造を維持するためには、異なった種の間に十分なコミュニケーションが必要である。しかし、通訳可能な言語を持っているようには思えない。もちろん、それは生態系の中にある異なった種が、全くコミュニケーションをしていないということではない。生産した有機物の中に含まれる物質を変化させることによって、それを食べる動物に何かを伝える、植物が美しい花をつけることも、毒蛙が鮮やかな色をしていることも一つのコミュニケーションである。このようなコミュニケーションは私たちが知っている以上に行なわれているはずである。しかし、それらも私たちの社会のような意味で、縦の構造を持続させるためには著しく不十分なものである。 マクロ構造そのものは認識できなくても、マクロ目的が存在することは否定できない。あるいは、マクロ目的の存在をみとめることによって生態系をよりリアルにとらえることができると言ったほうがよい。まず、地上や水の中のある適切な境界のもとで、物理環境や気候がある範囲に治まっている限り、生態系がそこに形成されているか、形成されていく。たとえば、溶岩の流出やあるいは自然の撹乱によってある地上の空間が大きな形を持った生物がない状態が生まれたとしても、年月がたてばそこにさまざまな生物が登場し、そして豊かな森が形成されていくということはありうる。もちろん、外的な条件が貧しければ、その大地は乾燥した草原にとどまることはありうる。 ある生態系が豊かであるとは、ここではたまたま用いた人間的視点による評価だが、しかしそれは根拠の無い、無意味な視点ではない。「人の手による撹乱が無ければ、生態系は、豊かになろうとする自律的な傾向を持っている」という命題は、私たちが日々、意識することなく見ている多くの生態系に妥当しているのではないだろうか。そこには、より多くの生物が持続的に存在し、またそれが可能になるための数多くの精巧で複雑な仕掛けが組み込まれている。それはあたかも意志ある主体がある設計図にもとづいて巧妙に組み上げたもののようになるのである。そこで、このようなマクロ構造も具体的には存在しないままに、追求可能なマクロ目的、生態系全体としての目的とはありうるのか、それが問われなければならないだろう。 そこでまず、生態系の個別の主体がマクロ目的にどのようにかかわるかから問題にしてみよう。すなわち、ある個体や個体群はその規模を増加させることがマクロ目的に沿っていることもあれば、逆に減少させることや究極的には消滅することがマクロ目的に沿っていることもあるだろう。このような選択が、どのように強制されていくのか、そのメカニズムがまず問題にならなければならない。 現在の私たちの社会システムの場合も、同じような問題がありうる。その最も重要な問題は、ある企業の盛衰とマクロ目的との関係であろう。自由主義的経済のもとでは、ある企業が合法的に活動している限り、強制的に消滅させられることは無い。しかし、もしその経済が順調な経済成長を維持するためには、その目的に貢献できなくなってしまった企業が消滅するメカニズムも存在していなければならない。この企業の消滅は、特別に無能な経営者の判断などの特殊なものを排除して、ある種の平均を考えれば、それはその企業に対する社会的評価としてあたえられる。その企業の財に対して消費者の需要が必要なだけ発生しないこと、これも一つの社会的評価である。さらに、その企業に対して必要な資金が供給されない状況も、ひとつの否定的な社会的評価のあらわれである。そして、この金融的評価は、民間の銀行によっても、あるいは政府の政策によっても発生する。さらに、それは、その企業が赤字であるばかりでなく、仮に黒字であってもこのようなことが発生する可能性がある。そして、このような社会的評価の起源が経済成長というマクロ目的になっているのである。 生態系の場合、マクロ目的がその意図を貫くのに余りに複雑なメカニズムはありえないだろう。生態学では、古くから生態系にかかわるエネルギーに注目してきた。生態系の形を作っている有機物は、エネルギーの体化物であり、生態系のあらゆる活力の源泉は植物によって固定化されたエネルギーなのである。まず、その空間に到着する太陽エネルギーを最大限利用できるような植物相の形成が行なわれるだろう。ただし、そのためには栄養塩や水あるいは気候などの条件が制約となる。生態系はこのように植物によって生産されるエネルギーを体化した有機物の生産量を豊かさの指標としているのだろうか。それは、動物相や分解者の相がどのように形成されているかは問題にならないということを意味している。しかし、生態系が持続的に存在するためにはその空間で持続的に必要な栄養塩類が、動物や分解者によって供給されなければならないのである。さらにときにはそれらによって供給される二酸化炭素も必要になる。 生態系の物質的運動は生産と分解という二つの合い反する相から形成されている。太陽から地上に供給されるエネルギーを与えられた空間の中で、最大限生物的に利用していく傾向が生態系にはある。そして、それは単に最大限のエネルギーの生物的固定化を意味するのではなく、固定化されたエネルギーを最大限、生物的に利用する傾向をも意味しているのである。もし、固定化されたエネルギーのうち、利用されない部分があると、それはある意味で生態系の中にゴミがたまることになり、また解放されない、したがって再利用されない栄養元素が蓄積されてしまうことになるのである。 この場合、エネルギーは一方向の流れしか存在しない。エネルギーは常により利用困難な形態に劣化するだけなのである。また、エネルギーだけをみては動物も含めた分解相の役割が明らかにならない。植物はエネルギーを固定化するという積極的な役割を果たしているが分解相はエネルギーを解放しているだけである。分解相の本質的で積極的な意義は有機物に固定化された物質を解放して再び植物によって利用できる形態にして供給することである。したがってエネルギーの一方的な流れと物質の循環が、生態系の豊かさに深くかかわっているのである。 このようなダイナミックな構造の中で、生態系の豊かさを認識するためにはそこに何らかの観測点を設定しなければならない。それは、たとえばGDPが実際は運動している経済のある一点の切断面を示しているだけであることと類似している。GDPは一年間に国内で生産された粗付加価値の総計であるが、付加価値がある時から開始する一年という決まった期間で生産と利用が繰り返されているというのは、一つの仮想でしかない。しかし、そのように問題を認識するためにはダイナミックな運動の切断面をとらえるしかないのである。 生態系にもこのような認識のための切断を加えると、最も適切なのはエネルギーが生物的に利用された後の廃熱の生産量で生態系の豊かさをとらえることである。生物がエネルギーを利用するのは還元されている有機物を酸化することでありそれは呼吸によって行なわれるので、この廃熱は呼吸廃熱と呼ばれる。エネルギーはエネルギーの保存法則によって破壊することはできない。ただ、利用できる形態から利用しにくい形態に転化していくだけである。したがって、その生態系で生産された呼吸廃熱もエネルギーの単位でとらえることができる。また、それを実際に計測するためにはその生態系で生産されたCO2の量に注目すればよいだろう。有機物が分解することによってその中の炭素がCO2の形で解放されるから、一単位のCO2の生産によって解放されるエネルギーの量をとらえておけばよいからである。 エネルギーは、一方的にしか流れないために、その出口でとらえておけば、固定化された量の上限がとらえることができ、また下流に流れてくる過程で適切な生物間の受渡しができなかった量にもかかわることができる。もし、生態系の傾向を生態系が生産する総呼吸廃熱、すなわち生態系を構成する生物の呼吸廃熱の総計としての群集総呼吸をより多く生産する傾向としてとらえると、より大きなエネルギーの固定化と、生物的に利用されないエネルギーおよびそれを体化している有機物を最小化するという意味も含まれる。後者は、また生態系における物質循環の効率を最大にすることも同時に意味することになり、エネルギー流と物質循環の双方を視野にいれた指標になっている。 もちろん呼吸廃熱の最大化という生態系の豊かさの指標も、絶対的なものではない。なぜなら、生態系が、そのなかを通過するエネルギーの量を変えず、また、その物質循環も規模を変えないという意味での定常状態にある時には、固定化されるエネルギーと分解されるエネルギーは同じになるからである。しかし、実際は、かならずしもそのような定常状態にはなく、その場合には、生態系の変化するダイナミクスを呼吸廃熱量によってとらえた方が望ましい。すなわち、その生態系を構成する主体がその規模を増大することが生態系全体としての呼吸廃熱の増加に貢献するようなものであれば、その増大は許容される、逆に減少することあるいは他の生物に代替することが呼吸廃熱の増大になるならば、それが進行するということである。 このことを生態系のさらに非定常的な長期間のダイナミクスのなかに位置付けることも必要である。生態系は、生態遷移という、地質学的変動、溶岩の流出、異常気候など、何らかの撹乱によって発生した生物相の貧困な状態から、生きた生物体の総量を徐々に増加させて、その規模において定常的になるような過程が一般的にあらわれる。この場合、ある生物種は成熟した定常状態では登場しないが、生態系がその生物体の全体としての規模を増大させている成長局面のある時期において必要な役割を果たすということがありうる。すなわち、その生物は成熟したより高い呼吸廃熱を生産する段階をより速くより効率的に実現するためにその一時点にだけは登場するわけである。たとえば、ある開かれた土地が偶然あらわれて、その初期には草本類の十分な太陽光でのみ生活できる植物があらわれるがこれはその生態系が最終的に森林となっていく場合には、その成熟した局面ではあらわれなくなるが、必要な初期の局面を形作る重要な生物相となっているのである。しかし、このような論理に対する生態系のマクロ目的の支配は極めて弱いものとならざるをえない。 さらに、一般的に成長局面においては初期にその生態系の物理的環境に存在した資源の量が有利に作用して、最終的に成熟した定常性の高い局面よりもより大きな呼吸廃熱を生み出すこともある。しかし、あくまでも最終的には定常的に維持できる呼吸廃熱の生産水準が問題になる。すなわち、生態系がその物理的環境制約の中で持続的に維持できる呼吸廃熱水準の最大化こそが生態系の基本的な傾向なのである。 また、呼吸廃熱の最大化という指標にはリスクの要素も考慮されていなければならない。すなわち、ある状態がいかなる外的な撹乱もない状態であれば、ある最大の水準の呼吸廃熱を発生する、成熟した状態であるとする。しかし、外的な撹乱に対して弱く、それによって失う損失が大きいならば、定常的な呼吸廃熱の水準がそれよりも多少低くても、撹乱に対してより高い頑健性をしめす状態の方が望ましいということになる。もちろん、リスクがどのように換算されるのかについては議論が困難であるが、地上が十分な水分と気候を確保するならば森林になる傾向が強いことを考慮すれば、そこには樹木という比較的安定した生物が望まれる傾向の強さ、したがってリスクに対する配慮が働いている可能性がそこにあらわれていると考えられるのである。 生態系のなかの生物は、そのマクロ目的への貢献によって存在意義を確保する。ある動物がその生態系の中で存在し続けるのは、その動物が生態系全体のエネルギー流を増加させるからである。それは、みずからが有機物を利用して分解する規模だけではなく、その大量に食糧を確保して中間的な分解物を生成する能力に、評価が与えられる場合もあるだろう。たとえば、象や鯨がその巨大な身体をもちながら生態系の中に存在し続けたのは、その巨大な分解能力のためである。 マクロ目的が個別の生物主体の目的をこえてその意図を貫く場合は、数多く考えられるが、一つの単純な状況を考えてみよう。仮にあるAおよびBという二つの生物がよく似た環境の中で生存可能だったとしよう。そして、彼ら自身が生成する呼吸廃熱も余り変わらず、したがってその分解能力も同じくらいだとしよう。しかし、AかBかという問題が、生態系の別な環境にいる生物種のCかDかという問題に深い影響を与えていて、CのほうがDよりも高い分解能力を示すとしよう。そして、AはCの存在を促進し、BはDの存在を促進するような生物だったとしよう。そうすると、マクロ目的の観点からは、AかBかという問題に対してはAが選択されなければならなくなる。このようなことが実際に実現する理由を詳細には記述できない。しかし、Bが選択され続ければ、生態系の全体としてのパフォーマンスは劣化する。具体的には、CかDかというレベルのところで物質循環が滞り、したがって、植物による持続的な生産水準も低下せざるを得ない。一つの生物が生態系から排除される理由が多様であるように、このマクロ目的の意図の貫かれる道筋もまた多様である。Bが排除される機能がどこからか発揮されるのか、Bはそのままで、CでもDでもない、あらたなEというBという生物の存在のもとでも、Cと同じだけの分解能力を持っている生物が移入によってあらわれるのか、あるいは進化的プロセスがそれを生み出すのか、可能性は多様である。 この例にあらわれているような、マクロ的な秩序形成というもののある種の不思議さを生み出す力は、地球という生態系以外の個別生態系が、常にそれを部分とするより包括的な生態系をもっている、生態系の再帰的な構造に依存していると考えられる。形成される過程の、揺らぎのある、不安定性を持った生態系は、すでに数十億年にもおよぶ生命の相互関係形成の試みによって作り上げてきた、上位の生態系をかならず持っている。その上位の生態系は、進化的な意味でさまざまな多様性を内部にかかえてきた。そして、その生態系から供給される多様な生物種が、揺らぎのある過渡的な生態系においても、比較的短い時間の間に多様な試みの可能性を生み出すということである。そして、生態系はひとたび作り上げたそれまでよりも高いマクロ的な秩序の構造を、より高い確率で保持する力を持っていると考えられる。もちろん、その力も絶対的ではなく相対的なものでしかないので、その構造が再び破壊されてしまう可能性はあるが、長期的にはマクロ的なより高い秩序を実現していくのである。 確かなことは、マクロ目的に個別の生物主体が支配されるということは、個別主体の意図、個別主体間の関係、個別主体と環境との関係という単純な論理からだけは説明できないような秩序形成原理が生態系には存在しているということである。それこそが、私たちが生態系のなかに認識する高度な秩序の背景にあるものなのである。ただ、それは、私たちの社会が有している、マクロ構造を伴うようなマクロ目的ではないという点において、それほどの強力さや厳密性を持っていないことも確かである。 したがって、生態系も私たちの社会システムと同様にミクロ構造を持ち、また全体としての秩序をマクロ目的に沿って形成する能力を持っているという点もまた共通している。生態系もこのような一種の双対構造をもっているといえる。その意味では、生態系もまた一つの社会システムである。しかし、私たちの社会システムが持っているマクロ構造、すなわち中心から縦型の全体を支配している構造を持っていない。あるいは、逆に個々の生物主体からみて、なんらかの中心への凝集力を生態系は持っていないということである。したがって、生態系は一つの社会システムであるが、私たちの現在の社会システムからみれば、弱い社会システムである。逆に、私たちの社会システムは生態系という社会システムからみれば強い社会システムであるということができるだろう。 4.極相システムの比較 生態系の遷移は、初期の成長局面からマクロ的な定常性が支配する成熟した局面に移行する。この成熟した局面のことを極相(climax)という。 一般に、生態系はこのような極相に突入することを強制される。それは環境の制約からである。生態系の初期においては水や土壌などに含まれる初期の資源、栄養塩類などが存在している場合もある。成長局面においてはこのような資源が利用される。あるいは外部から供給されるミネラルや水なども初期にはその生態系を維持するのに十分存在し、さらにその規模を増加させる余裕も持っているかもしれない。あるいは、空間というのも一つの資源である。空間もさまざまな生物に利用され、占有される。この空間も遷移の初期には一般に豊富にある。 このように資源が豊かにあるもとでは、それぞれの個体群は生態系のマクロ的な制約を意識すること無く成長し続け、それが生態系全体としての成長につながっている。しかし、その生態系も利用可能な資源が少なくなり、希少性が支配するようになってくる。物質的な資源の希少性にぶつかるたびに生態系はその内部的な循環的利用を高めるように生態系の構造を調整する。しかし、このような循環的な利用も完全なものとはなり得ない。いくつかの栄養元素は生態系から漏出していく。それらはまた供給されなければならない。それは、窒素のように大気中にある元素が窒素固定菌などによって生物に利用可能な形で供給されることもあれば、岩石中からリン等が供給されることもあるだろう。しかし、それらの供給はどこまでも増加させられるものではない。さらに、空間ともなればこれは絶対的な制約である。 このような制約をひとつひとつ受け止めていきながら、生態系は徐々に極相という局面に突入していくのである。 極相の具体的イメージとして、極相林を考えてみよう。極相は、あらゆる生態系において考えることはできるが、私たちの身近にあり、かつ私たちの社会とのアナロジーがより容易な極相林を考える。 森林は、それがかかえる植物、動物、分解者からなる生きた生物体の総量が増大すればする程、その全体をただ維持するためにエネルギーを大量に使うようになる。そして、極相状態においては、植物が固定化したエネルギーのほとんどを生態系全体の生きた生物体の維持のために用いるようになってしまうのである。したがって、生態系の生きた生物体の量は変わらなくなっていく。これが、エネルギーからみた極相生態系の現状であるが、もう一方で物質循環から見ても、一般的に極相林における栄養元素の再利用率、すなわち物質循環の効率は相対的に高くなっている。これらは、まさに生態系のマクロ目的が働いた結果なのである。 極相林においては、全体としての規模は変わらなくなり、マクロ的な成長という現状は喪失してしまうのであるが、それは何もかもが変わらなくなってしまうということではない。あるいは、生きた活力の無い静的なシステムになってしまうということでもない。極相林は、マクロ的な定常性を維持しながらミクロ的にはダイナミックに変化している。 極相林に一般的におおきな変化をもたらすのは、寿命を終えることによる、あるいは気象の減少による撹乱の結果としての樹木の倒壊である。これによって森林のなかにさまざまな資源が解放される。ギャップの発生である。土壌中の利用可能な資源がそのギャップのあたりに一挙に生まれる。さらに、空間という資源が解放され、光が土壌表面を照らすようになり、それまで土壌中に眠っていた樹木の種子、あるいは土壌表面にごくわずかに伸びたまま、待機していた樹木の若い芽が一斉に成育していく。さまざまな競争が繰り返されて、一時的な勝者が次々と入れ替わり、最終的勝者がつくり出されていく。このような変化は、ギャップを一つの小さな空間としてみたときの、一つの遷移の過程と考えてもよい。このような、ギャップをめぐるダイナミックな変動が、マクロ的には規模の変化をもたらさないままに、生態系の中の一つ、あるいは複数の空間で繰り返されているのである。 このような極相の中でも発生する重要な変化の要因が、複合し、全体としてある種の大きな循環的な変動をもたらすこともあるだろう。あるいは、極相林の中に進化的撹乱が持ち込まれて、循環的ではない、一方的な変化が持ち込まれていくこともあるだろう。しかし、それらも全体としての規模の不変性が維持されたままに生態系の中で進行するならば、極相という局面の中の変化としてとらえてよい。もちろん、循環的な変動や進化的変動がラディカルに生態系の規模を変化させることがあるならば、それは新たな変化の局面が開始されたと考えることができるだろう。そして、その場合は必ず、マクロ的な規模の減少とマクロ的な成長という局面があらわれなければならないのである。 ギャップをめぐる植物相の変化は、動物や分解者の相にも不可避的に影響を与える。また、動物相は、捕食者と被食者のあいだの関係が一定するとは限らず、さまざまな循環的な変動を繰り返しながら、マクロ的には安定しているという状況になる場合もある。 このように、極相の本質的な特徴は環境の制約の中での規模の安定性であるが、この規模はあくまでもマクロ的な意味での規模である。生態系の個別主体の間でどのような変化があろうが、マクロ的な規模、すなわちその生態系が持続させている生きた生物体の総量に大きな変化が無ければその極相は維持されていると考えるべきなのである。 そして、この極相状態にある生態系は、一つの双対性を持ったシステムになっている。それは、完全なマクロ構造とミクロ構造の双対性ではないが、マクロ的な秩序形成原理とすべての構成主体がそれぞれの個別目的を持ちながら行動しているという、二重の原理が働いているのである。 これらの生態系における極相システムの問題は、現在の私たちの社会システムの直面している変化の方向をとらえる上での重要な示唆となっている。すなわち、生態系がその遷移の過程で成長局面からいずれは成熟した極相に変化していくように、日本の社会もまた成長型の社会から極相型の社会へ相を変化させようとしているということである。もちろん、生態系の極相システムと来るべき日本社会の極相システムとはたくさんの違った特性を持つだろうことは確かである。しかし、そこにはいくつかの重要な共通点を認めることができるのである。 極相生態系と極相社会との象徴的な共通点は、システムのマクロ的な規模の増大が本質的指標ではなくなっていくことである。日本社会とその経済は、それまでの経済成長が社会のマクロ的パフォーマンスを評価する本質的な指標である状態から、その社会システムを支えている環境という条件をより効率的に利用することを社会の指標とする状態へ変化しつつある。もちろん、それは経済成長が不可能になるということを意味するわけではない。技術や人びとの生活などの条件が許せば、従来型の成長が可能になる局面が一次的にあらわれることはあるだろう。しかし、それは環境の利用効率を高める努力のほんの副産物にすぎなくなるのである。 さらに、極相社会は、その存続を支えている様々な物質との関係を再構築することが不可欠になるだろう。極相生態系はエネルギーフローの効率的利用と表裏一体の関係で物質の循環効率の高度化がマクロ的に動機づけられている。現在の日本の、環境制約をめぐる激しい動きが全体として指向している方向もまた、この極相生態系のマクロ的動機と類似のものとなっている。 そして、最も注目すべき本質的な共通点は、生態系が持っている弱い社会システムとしての特徴を、いま私たちが移行しつつある極相社会もまた持ちつつあるということである。すなわち成長指向社会から極相社会への移行が、強い社会システムから相対的に弱い社会システムへの移行という特性を持っているということである。また、それは極相生態系がそうであるように、マクロ的な規模の制約とエネルギーと物質に関わる効率化の指向と深い関連を持っているのである。 これらの極相生態系と極相社会との類似性は偶然あらわれたものではない。それは、なによりも人間の社会がもともとこの生態系の一部であったこと、あるいは現在でも生態系は社会にとっての環境として機能し、エネルギーやさまざまな物質を通しての相互関係を持っていることにあらわれているような二つのシステムの存在基盤の共通性の結果である。私たちは極相生態系から、環境との調和あるバランスを持続させる道筋、あるいはそのための自らのシステムの必要な修正点をとらえなければならないのである。 5.極相社会の諸特性 極相社会とは、環境制約のもとで変化を余儀なくされている私たちの社会システムが指向している焦点をシンボリックに表現する概念である。日本におけるこの極相社会の主要な五つの特徴を示しておこう。 まず第一に、環境制約が浸透し制度化していくことによって、経済のマクロ的な規模の増加が社会のパフォーマンスを測る主要な指標とはならなくなり、経済成長は副産物としてのみ可能になり、また人々のあいだでそのようなものとしてのみ意識されるようになることである。 現在のGDPの増大などで測った経済成長がマクロ目的として支配している状態から、それが単に副産物となる社会状況までのあいだにはそのどちらとも断定できない灰色の状況がありうる。その場合、現実の経済は成長が持続しない、存在しても一時的でしかないという状況のなかでは、経済成長で社会システムのマクロ的な評価を下す限り、経済は持続的に停滞しているとみられ続ける可能性がある。 一つの代表的な状態として経済成長が実現していない状態を考えてみよう。現在の社会システムのもとでは、平均的にゼロ成長となる経済は深刻な危機をはらむものにならざるをえない。それはまず、常識的には高い失業率をもたらすと考えられる。失業は、たとえ部分的にでも、その経済システムが人々の生活を支える能力がないことを示すという点で、社会の重大な欠陥を示すものである。しかし、この成長できない経済が陥る失業あるいは所得の低下にしても、構造的に避けられないものではない。経済の平均成長率が一〇%のときに可能な人々の厚生水準は、それが三%のときにでも実現可能である。そして、三%のときに可能なそれは、〇%のときにも可能なのである。平均成長率が〇%といっても、それが人々への財やサービスの供給能力が無いことを意味するわけではないからある。 経済の平均成長率が〇%であることが、深刻な問題と受け止められるのは、社会の精神的なものに影響をうけているのである。個別企業にとって、みずからの生産した財やサービスに適正な利潤を約束する有効な需要が発生するかどうかは、完全に予見可能なものではない。社会経済システムの複雑な相互関係の森の全体が見えないからである。複雑な相互関係とはミクロ構造のことであり、このネットワーク構造の中には全体を代表させるものが何もない。企業は、みずからの意志決定のために必要な経済全体についての情報を、マクロ的な指標に頼らざるを得なくなり、制度化された指標としてのGDPの増加率に注目するのである。そして、企業家たちが、経済のマクロ的な平均成長率が〇%であることを経済の出来栄えとしていいものではないと判断するために、実際にその経済の出来栄えは悪くなってしまう。平均成長率が七%が良いと思われているときには三%は悪いのであり、その三%も〇%が続く状態からは好景気の数字となってしまうのである。 しかし、平均成長率が〇%である経済も、小さな失業率と人びとの全体がそれまでの生活水準を維持するという比較的望ましい経済社会状態と両立することはほとんど自明だろう。経済成長率が〇%であることと、企業全体の平均利潤率がプラスであることは構造的に両立する。その利潤率が粗利潤率であるならば、そこには既存資本設備の償却費と利潤から支出される消費が含まれていてもよい。すなわち、そこに純投資が含まれなくてよいのである。さらに、利潤率を純利純率で換算しても、それが消費に支出されるものであれば、経済は規模と質の定常性を持続できるのである。 さらに平均成長率が〇%であるような経済は死んだ定常性の中にあるわけではない。マクロ的な規模が平均して変わらなくても、ミクロのネットワーク構造はダイナミックに変動せざるをえないだろう。極相林におけるギャップダイナミクスのような変動が繰り返し発生することになる。すなわち、企業が社会から求められるなにものにも対応できなくなれば、その企業は活動を持続することは困難になる。実際に対応できなくならなくても、その企業の活動を社会が評価しなくなれば、必要な資金調達も困難になり、持続が困難になる。一つの企業が死滅すれば、そこに利用されていた人的、物的、貨幣的なさまざまの資源が解放されることによってあらたな企業活動にチャンスがおとずれる。 このような極相社会における「死と再生」のドラマは、極相林に行けるような空間的に固定された場で発生するわけではない。極相林においては、ギャップによって解放される主要な資源は空間そのものである。空間の解放は、まず太陽光というエネルギー源の解放であり、さらにそれに伴って土壌や水流などの資源が解放される。しかし、極相社会における死と再生のドラマは、可視的な空間や限定された領域において演じられるものではない。極相社会の経済においては、であるき期間をとれば常に幾つかの企業がどこかでその死を迎え、またどこかで新しい幾つかの誕生がある。その死と誕生によって解放されたり固定されたりするさまざまな資源がある期間をとれば、定常化しているということでしかないのである。 このようなある企業と別な企業のあいだの死と再生ばかりではなく、同じ一つの企業が分解したり、あるいはその内容や形態を柔軟に変更させることによって、揺らぎ続ける社会に対応していくことも極相状態の中でのダイナミクスである。極相社会が、さまざまな資源の利用効率の高さを、個別経済主体に強く求める社会となることからも、企業持続のために、社会の必要性に対する敏感性と柔軟性が企業の不可欠の属性になっていく。 第二の特徴は、社会のシステム性が低下し、それと並行して社会の中央への凝集力も喪われていくことである。 今日までの日本の工業化社会は、経済成長すなわち規模の増加部分によって剰余をとらえてきた。この剰余そのものと剰余を生み出す能力が社会を中心に集中するパワーとなっていたのである。日本の中央政治権力は、経団連など経済団体と深い関係を持ち、経済成長を持続させるための権力の行使をそれらの団体から、あるいは産業界から直接・間接に付託されている。また、それを実行するための資金が、産業会から政治権力の掌握に参加している政党に流れている。この政治資金の流れは、日本の社会システムの構造の些細な一つの要素というよりも、構造そのものを作り上げている本質的な要素の一つである。 日本の政治権力が中央に集中していることに対応して、社会システムの特性を規定する要因としての中央政治の意味は大きい。しかし、地方でもまたそれに従属しながら地方の産業界と地方政治が結び付いている。もちろん、中央政治権力の中では完全な野党にある政党が地方政治の首長をとっている場合もあるので、中央ほどの完全性はなく弱まりはするが支配的には中央の状況が繰り返され、一種の入れ子構造が実現している。 企業という工業社会の主要な経済主体は、個別的には経済成長の中で浮沈のドラマを繰り返すのであるが、全体としては経済成長によって企業そのものの成長やより大きな利潤の機会をえる。企業が業界団体や産業界全体のために支出するのは、その確実な見返りのためにというよりも、不確実性はともなうものの可能性にかけている。自らの自由度をある程度犠牲にしながらも、今日の社会システムの持続を求めているのである。 日本の社会はこのように明確なマクロ構造を持った社会システムとしてつくられてきたのだが、この社会全体のシステム化は同時に、社会の隅々にまで集団、組織のシステム化をもたらしてきた。すなわち、社会の隅々に部分社会システム、ミニ社会システムを作り出してきたのである。何よりもまず、企業という主要主体自身が強いシステム性を持った組織として日本社会の中に根付いてきた。企業というのはミニチュア化された日本社会そのものだったのである。すなわち、単純化すれば、それぞれの企業には利潤の最大化というその集団の中に限定はされているが明確なマクロ的な目的が存在し、それを実現するための中央集権的な構造が作り上げられている。そして、もう一方で、個々の労働者や経営者はそのなかで一定の相対的な自律性をもって思考し行動し、また、社会の中での個人のあり方よりは弱いが、相互関係のネットワーク構造も存在しているのである。 このような企業の社会システム性は、その企業が生み出す付加価値さらには利潤によって支えられている。付加価値のうちのどこからが利潤であるか、必ずしも明確な境界が決められるわけではないが、企業の構成員に必要な分配の可能性が、企業の中央への彼らの凝集力を生み出しているのである。そして、このような分配可能性の社会のマクロ的な条件として社会システム全体の経済成長が位置付けられているのである。 さらに、部分社会システムはこれらの経済、政治組織だけではなく、教育などに関わる文化組織などにも形成されていく。教育の場合、社会システムの縦型の集権的構造のより高い位置でより高い所得や力をえるために、それにふさわしいより高いレベルに位置付けられた大学に行くという観念が社会を支配している。個別の学校、あるいはその他、塾などの教育組織もまた、このような社会と整合的な目的を持つようになりシステム化するようになっていくのである。 日本社会のような、強い社会システムのもとで社会の隅々にシステム性が浸透してきたが、経済成長という社会のマクロ目的の実現の困難性が増大してくると人びとや個別の経済主体を社会システムに凝集しておくことが形式的に困難になる。その社会システムに集中する、あるいは社会システムに身をゆだねる、社会システムの一員として振る舞う演技をすることの便益が少くなるからである。社会全体のシステム性が弱まってくるとともに、その部分や個別組織、制度の中でシステム性が希薄化してくることになるのである。社会の中の様々なレベルでの分権性、個別性が高まってくる。 極相社会において社会システム性が完全に喪われることはありえないが、今日の工業社会のような強い社会システムではなく、より極相生態系のような弱い社会システムにより近付いた社会システムになっていかざるをえない。 第三の特徴は、社会を構成するそれぞれの個人や企業などの主体の個性の意味が増大し、全体としては多様性が増大することである。このような個性に裏付けられた多様性は、一つの傾向であり相対的なものである。これは集団を志向し集団のパワーに依存する傾向の相対的に強かった日本社会がより個性の方にその比重を移すことを意味する。 自己の個性に対するこだわりの傾向と、もう一方で集団の中で評価され集団からみとめられようとする傾向は人間が普遍的に持つ二つの対称的な傾向である。戦前の日本の場合、人口の大きな割合が農村の地域的な共同体の中でその集団性を実現していた。その分だけ社会のシステム性の浸透は弱かったのである。しかし、一九六〇年代からスタートした高度経済成長はこの農村共同体の人口を大量に都市に移動させ、人口の大多数を都市を中心とした雇用労働者に変えてしまったのである。それによって、集団性の実現の場は、企業という一つの社会システムの中になっていった。個人に対するシステムの拘束力が強ければ強いほど、人々のポジッションは個性よりも集団性の方に大きく傾いたものになっていたのである。 経済成長とともに進行した日本の高度な社会システム化は社会の隅々にまでシステム化を進めていった。しかし、この構造が揺らぐとともに人々はシステムから相対的に解放されるようになる。それは、企業からはなれるという意味ではなく、企業の精神的拘束から解放されることを主に意味している。その結果として、企業から実際に解放され離職を意味する場合もあるだろう。システムそのものが強い凝集力を発揮することができなくなってしまったのである。 さらにこのようなシステムからの解放は、企業からばかりではなく、システム化した学校からの精神的な解放もともなってきている。逆に、システム化した学校は児童や生徒を強制的に集団性の中に縛り付ける力を社会から与えられるようになってしまった。学校は直接に経済の動きにかかわっていないだけ、社会の変化に鈍感になる。すなわち、社会がそのシステム性を軟化させているときに、社会の変化と経済的につながっていれば、その動きが制度の中に敏感に反映する。しかし、学校は社会が変わろうとするときに柔軟性を発揮できずに古い状況を維持しようとする。児童や生徒が社会の動きをその軟らかい精神に敏感に反映しているときに、その個性を集団性の名のもとに束縛している学校との矛盾が深まってしまうのである。 システムを集団性の実現の場として日本人にとってシステムの拘束力からの解放は、一つは個性と集団性のポジッションを強く集団性に傾いた状態から個性の方に移動させる機会を提供している。もう一つは、システムから相対的に解放された人々にとっては集団性を実現する新たな場を求める契機をも生み出しているのである。 これらのシステム性の低下がもたらす個性重視への意識の変化の可能性だけではなく、たとえ剰余的な所得の配分能力の低下が無かったとしても、そのシステムの規模の拡大が困難になることによる、人々のシステムからの離反の可能性も存在している。先に述べたような社会のシステム性の低下は、社会の剰余供給能力の低下が反映していた。このような低下が無かったとしても、発生するシステムという集団性からの精神的、現実的な遊離が生じるということである。 システムの中心を持った縦の構造は、ひとつの頂点を上にして、底辺を下にした三角形に例えることができるだろう。人々はその三角形のなかの特定の位置を与えられているのである。そして、その位置の高さに応じて所得と力が与えられるのが企業などのミニ社会システムの特徴なのである。このようなシステムにおいて、より高い位置を占める人間はより少くなるために、年を追って上に昇るしくみであるならば、そのたびに何人かの人びとは三角形の外にはじき出されてしまう。このような確率が高くなれば、構成員からシステムに対する集中力を喪失させていくだろう。これを回避するための方法は、第一に、学歴などで身分的固定性を導入することである。第二には、上に昇るスピードを遅くするために段階の数を増やすことである。そして第三には、この三角形そのものを大きくすることである。 多くの組織が前二者も利用しているが、もっとも無理のない方法は、この第三の方法である。もちろんこの方法も完全ではないが、企業そのものが大きくなる、あるいは子会社などによる外への展開が進行する、傘下の企業が増えているという状態は、問題を緩和する重要な手段となりうるのである。しかし、企業のこのような意味での規模の拡大も、社会全体の規模の拡大の困難とともに、全体として同じように困難になっていく。すなわち、システムに対する人びとの忠誠心、凝集力を維持する重要な手段が喪われることになるのである。 このような極相社会へ向かうことによる人びとのシステムからの自発的あるいは強制的解放の可能性と、それにともなう人びとの生きるスタンスに置ける個性へのシフトは社会の中にさまざまな領域における多様性を生み出すことになる。個性とは、もともと他との違いであるから、多様性とは多数の個性の集合的な表現にすぎないのである。極相社会は個性に裏付けられた多様性の開花する社会なのである。 この個性は、もちろん生きた特定の個人の属性としての個性であるが、組織についての個性もまた重要な意味を持ってくるだろう。極相社会は環境の制約が厳しく浸透する社会であり、それによって規模の制約が強く効いてくるのであるが、その状況のもとでは、特に企業などの経済的組織について、限界的な物質利用効率の高い水準での 活動が求められる。このような効率性を実現する重要な手段がその企業や組織が強い個性を持っていることなのである。それは、規模の大小に関わらず求められるものになる。巨大企業の場合、市場の独占によって制度的な個性を実現することも可能であろうが、それを実現できない企業にとっては、企業そのものの個性、すなわち他とのより強い差異性を打ち出していくことしかありえない。 そして、集団の個性もまた、個人の強い個性の裏付けが必要である。強いシステム性を維持したままであれば、その頂点にある個人の個性が重要な意味をもつであろうし、もっと緩やかなシステムのもとでその組織の個性を出そうとすれば、その組織の構成員の個性を生き生きと発揮できるような仕組みを作り上げることが不可欠である。 第四の特徴は、環境利用の規模に対する制約のもとで、物質利用効率の高度化が進行していくことである。物質利用の高度化とは、個々の物質ごとにあるいはまた物質全体として環境に与える負荷の程度を必要とされるある絶対水準以下に抑えながら、物質利用がもたらす私たちの生活の水準の低下に歯止めをかける、あるいは維持する、あるいはその限界のなかでの向上を目指すということである。 経済成長の結果として、日本社会は環境が極めて脆弱な存在であることをようやく知るにいたった。環境問題は主要には物質の問題であり、エネルギーの問題ではない。確かに、エネルギーが直接問題になることもありうる。たとえば、発電所からの温排水やヒートアイランドなどの問題はエネルギー汚染とも言える問題である。エントロピーの大きなエネルギーは通常は大気や水の循環の中で地球の圏外に捨てられるようになっている。エネルギーの使い過ぎの問題であるが、環境問題全体の中では、やはり主要な問題は物質の問題である。また、化石エネルギーや原子力エネルギーを使うことによる汚染の問題は、エネルギーを担っている物質の問題である。 環境の脆弱性に直面する中で、環境に負荷をかけない物質利用が切実に求められているのが現状である。それは、まず第一に、環境から物質を取り出す場合に環境、すなわち生態系を可能な限り撹乱しない規模と方法をとるということである。第二に、環境から取り入れた物質を、偶然的散逸のために、あるいは社会の利便性のために環境へ戻す場合には、取り入れた物質と可能な限り同じような形態で、同じような環境の同化能力を期待できるような方法で、おこなうということである。第三に、人工的な物質は、環境が必要な同化能力を持っていることが確かに期待できない限り、環境のなかに放出しない。これが、物質利用の三原則である。したがって、環境問題が私たちに最低限のレベルで要請していることは、人間が利用した物質は最後まで管理し続けなければならないということである。 ただ、問題は私たちが社会を維持するための物質に関して、一〇〇%管理しきることはできないということである。物質を利用する限り、その一部分は管理仕切れない形で散逸する。完全な物質管理の困難性は、一面では物理的な困難性として存在し、もう一面では経済的な困難性として存在する。もちろん、物理的といってもそれは、熱力学の第二法則のようにエネルギー利用の全ての過程で、エントロピー的な劣化が進行するというような意味ではない。物理的法則というよりも技術的な命題である。 この命題の最も具体的な意味は、完全なリサイクル社会は事実上困難だという点にあらわれる。物質に関するリサイクルをより完全なものに近付けることによってその技術的、経済的困難性が著しく上昇していくという事実を直視しないままに、リサイクルが全てを解決するように主張することは重大な問題をはらんでいる。私たちの社会は自然の同化能力程度に環境に廃棄することは当然許されるべきである。同化能力の範囲内でということは、自然の同化能力が低い物質はそれだけ廃棄可能な量が少いことを意味している。このような適正な廃棄を前提にすれば、環境負荷を許される絶対水準以下に落すためには、事実上不可能な完全リサイクルの幻想に惑わされるのではなく、私たちの生活を支えている物質負荷そのものを必要な範囲にとどめておくことなのである。 このような意味での物質利用効率の向上が極相社会のマクロ目的にならなければならないことは明らかである。しかし、現在の経済成長のように制度化されていくためにはさまざまな困難がつきまとっている。まず第一に、環境の制約のとらえ方を明確にすることの困難性がある。生物資源など一体どれだけの物質を環境から取り出すことができるのか、あるいは森林などの生態系をどれだけ改変する、あるいは破壊することが許されるのか、環境にどれだけの物質を廃棄することが許容されるのか、環境制約はこれらに対する解答として与えられる。そして、この解答を得るためには環境としての生態系そのものに対する正しい認識が必要になる。しかし、問題は生態系という複雑なシステムを相手にする場合は、私たちの認識はつねにほんの相対的な真理性しか持っていない。そして、またさまざまな不確実性をともなっているものなのである。したがって、環境の制約もまた完全なものとはならず、常に模索を私たちに要求するものなのである。 第二に、効率水準をとらえるためには、質も環境に対する負荷の与え方も異なっている多様な物質の利用水準に対する指標化が必要になるが、これも容易ではない。指標化が実現すれば、ある年の経済活動などによる自然環境に与える総負荷はA単位であり、それは前年よりX%と低下した、という評価、あるいはGDPの一単位生産あたりの総環境負荷が低下したとか上昇したなどという評価が可能になる。この環境指標はあくまで共通単位に測り直されていなければならないのであり、そこに重大な困難性がある。 例えば、同じ大気中に放出される窒素酸化物とダイオキシンの汚染物質としての質は非常に異なっている。窒素酸化物がゼンソクなど呼吸器系の疾患を引き起こすのに対してダイオキシンは直接的な急性毒性よりも環境ホルモンと類似の機能を果たしたり、発ガン性、免疫力の低下などの比較的長期に曝されることによってリスクが高くなる性質を持っている。それらと地球温暖化の主要な原因物質としての二酸化炭素、さらに、廃棄物の増加による廃棄物処分場などの建設のための生態系破壊にともなう環境負荷をどのように比較可能にするかということになるともっと困難である。 しかし、なんらかの形の環境負荷に関する総合的な指標が必要になるだろう。すなわち、たとえば大気中に窒素単位で測ったXグラムの窒素酸化物を排出することを環境に与える一単位の負荷としたとき、ダイオキシンYナノグラムの排出はB単位の負荷、あるいは森林生態系一ヘクタールの廃棄物処分場化がC単位の負荷といった形で示される総合的な指標を作成していかなければならなくなることは確実なのである。 このような指標は環境に対する科学的な認識の深化なしに形成することはできないし、また科学を無視したアプローチは意味をなさない。しかし、また一方でこれらの指標を科学的手法だけに依存して確立することも不可能である。そのもっとも主要な要因は、環境それ自身の中の、あるいは環境と人間や社会の相互関係に付きまとう不確実性である。不確実性は、科学によっていずれ解明できる可能性があると思われるが現状の水準では理解できないという意味での不確実性から、確率的にしか因果関係をとらえられないというものまでさまざまな種類のものがありうる。このような、不確実性に直面したとき、社会がその不確実性に伴うリスクを評価せざるをえないのである。 最終的に共通指標を形成するためには、個人の評価ではなく社会の評価が必要になるのであるが、社会の評価はどのように与えられるだろう。たとえば、環境負荷指標の作成のためにダイオキシンの平均一日摂取量の一ピコグラムの変化が広葉樹林生態系の何ヘクタールの変化に値するかを社会的に評価せざるをえないとしよう。日本は、形式的には独裁者は存在せず、議会制民主主義の社会であるから、議会が法律、あるいは法律の裏付けを持った施行令などによって作り上げれば、社会が評価を与えているという形式をもつことことができる。それは、確かに、指標の詳細が選挙の争点にでもなれば、個人の評価から積み上げられて作り上げられたという、内実も持たせることができるが、実際はこのような選挙は困難であろう。 社会的評価を与えるためには、個人の評価から社会の評価を形成していく手続きが求められる。この手続きは、個人が認識しているそれぞれの環境要素に対する重要性の評価から社会としての重要性の評価を形成することであるが、この場合、K・J・アローによって指摘された社会選択(social choice)の問題があり、一定の合理性を備えた手続きが存在しないという問題を考慮せざるをえなくなる。すなわち、人びとの効用水準の水準の比較可能性を前提にしない、その個人の評価順序が常に社会の評価順序になるような独裁者がいない、あるいは全員一致の評価順序は常に尊重されるなどの、比較的無理のない要請を満たす、個人選好の集計手続きがありえないことをアローは示したのである。 現実には、議会制民主主義もおそらく個人の効用水準の比較可能性を暗黙のうちに前提にするなどの形で、アローの要請の一つ以上を無視することによって個人選好の集計を行っている。その意味では、環境要素の指標形成における社会的判断の形成においても現在の民主主義と同様の不備は許されてしかるべきだろう。 それでは、実際に、たとえばダイオキシン摂取量と森林生態系面積、さらには絶滅が心配されている生物種を比較できる社会的な環境指標を、関係する個人の選好から形成する手続きはありうるのだろうか。これについて私たちが何も持っていないというわけではない。これについては、例えば、環境の経済的価値を評価する手続きのより発展した形である、コンジョイント分析によって形成することができる。 コンジョイント分析は、もともとマーケティングリサーチの領域で開発された手法である。すなわち、人びとが商品の属性をどれほどのウエイトで評価するかを調べるための手法である。一つの例として、自動車を考えてみよう。それぞれの自動車には、スピード、パワー、デザイン、色、安全性、そして価格など、さまざまな属性がある。人びとはさまざまな自動車を購入対象としたとき、それぞれの属性にウエイトを付けながら総合的な評価を形成している可能性がある。この、属性の評価ウエイトを測定する方法がコンジョイント分析なのである。そして、この手法が環境の属性のウエイトを測定するために応用されるようになってきている。例えば、海浜という自然環境には、生態系としての生物種の生息の場、それに伴う海水の浄化機能などの属性の他に海水浴などのレクレーション・サイトとしての属性、あるいは漁場という属性などがある。これらの評価ウエイトをコンジョイント分析によって示すことができるのである。 具体的には、その生態系の関係者母集団に対する偏りのない標本となる人びとに対して直接、含まれるさまざまの属性の状況を示し、どれがより望ましいかを表明させ、そのデータを統計的に処理することによって、標本の評価ウエイトが求めることができるのである。 このような手法を実際の環境指標の作成につなげた例はあまりないが、潜在的に可能であることは理解されるだろう。しかし、この手法にも問題はある。たとえば、この手法でウエイト付けることが可能な属性の数は極めて限られている。一回の調査では数個の属性にウエイト付けることが可能なだけである。実際に、指標づけされるべき環境の要素はもっと多数である。その場合、一回で得られる小数のウエイトを集めることによって整合的な多数のウエイト、指標にまとめあげることができるかどうかは明らかではない。この様な手法によって得られた指標に対する社会の受容可能性も問題である。民主主義的な手続きはいろいろな不完全性を持っていながらも、社会的意志形成の手続きとして社会が受け入れているから、有効なのである。環境指標形成も、このような受け入れ可能性を持っていなかったら、そこに民主主義との形式的類似性があったとしても有効には機能しない。 極相社会の第五の特徴は、経済活動のうちで直接的な意味で社会性を持っている領域が拡大し、逆に完全に私的性質しか持たないような領域は減少していくことである。 自由主義的市場経済において経済活動が私的性質を強く帯びたものであることは明らかである。すなわち、財を市場で交換することも、交換によって得た財を利用することも基本的に私的決定にゆだねられている。獲得した財やサービスをどのように利用したとしても経済的には問題がない。しかし、もう一方で生産が社会的性質を持っている限り、私的決定が常に完全な支配力を持っているというわけにはいかない。私的決定は、社会的な意図の支配に屈伏せざるをえないのである。この社会的な意志は市場において貫かれる。 例えば、企業の経済活動、特に生産活動は企業の私的決定のもとに行われる。しかし、それが社会的にも意味を持ったものであるかどうかは、市場において、生産費用に一定の利潤を上乗せした適切な価格で販売できるかどうかで判断されるのである。消費者による消費は、市場で一旦それを購入した後は、いかなる社会性も持てないかのようである。しかし、消費もまた、必要な労働能力の再生産過程に過ぎないという古典派経済学的立場に立てば、消費過程の社会的な意味が労働市場において評価されるという見方にたつことができる。実際、このような古典派的視点は、今日においても無視しがたい現実性を持っている。 すなわち、自由主義的経済においては、一般的には私的決定が支配しているが、市場という場において私的決定の社会的意志への従属という本質が貫かれるということである。それは、経済活動の広範な領域において、直接的には私的性質を持った活動が覆っているが、社会的性質それが同時に社会的性質をも持っていることは市場における交換という局面で突然、輝くようにあらわれるということである。 極相社会においてはこのような状況が変化せざるを得なくなる。消費活動も生産活動も、それが物質的なものに関わる限り、私的な決定が完全に支配しているという状況ではなくなるということである。 まず一般的に、ある財を購入した場合、いくら使用済になったり利用価値がなくなったとしてもそれをみだりに廃棄することはできない。現在の日本の廃棄物の処理及び清掃に関する法律の第一六条に「何人も、みだりに廃棄物を捨ててはならない」と規定され、また軽犯罪法にも同様の規定がされている。これらの法律の規定において廃棄物がどのように規定されているかという点は考慮されなければならないが、一方で、経済活動が廃棄という行為無しには成立しないことも事実である。ある工場で仮に廃棄物がゼロであっても、そこで生産されたものもいずれは有用性を失い廃棄物となる。 廃棄という経済行為が不可避であっても、それは社会的な要請に沿った適切なものでなければならなくなり、「みだりに」捨てる行為であってはならないのである。また、廃棄という行為は、ゴミという固形物質を捨てることだけではなく、液体として河川や海に流したり、大気中に放出したりすることも含まれる。さらには、意図的に捨てるだけではなく、意図しない形で外部に出ていくことも廃棄することと同じである。また、意図しない形で、その物質を利用している人間やその他の生物、あるいはそれらを含む生態系に移転することもまた廃棄である。 一旦、自らが獲得した、あるいはもっと一般的に、自らが関わった物質については、少くともその物質が他の主体の責任の範囲に入るまでは、その管理を社会から委託されているものとして、その管理者としての責任をまっとうしなければならないのである。極相社会は、物質に対する人びとの責任が徹底的に問われる社会とならざるをえない。それは、消費過程も生産過程も、物質の管理が社会的に求められる内容で実現していることが要求される。それは、両過程が直接的な社会性を強く帯びてくることを意味しているのである。 |