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第5章 自由とシステム

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1.個人生活への社会の侵入
2.制度の飽和現象
3.制度とシステム
4.システムとは何だろう
5.システムに覆われた社会
6.システム化社会の匿名性
7.複合システムとしての都市
8.システム化する社会の課題


1.個人生活への社会の侵入

私たちが日々感じる喜びや充実感、あるいは悲しみや苦悩が日本社会の今のありかたにかなり強く影響を受けていると考えることはなにも不自然ではないであろう。もちろん、全ての喜怒哀楽の原因を全て社会に還元することはできないことは、いうまでもない。しかし、それでも個人的な感情と社会のありかたとは深い関連をもっていると考えるべきである。

たとえば、人はいずれ死ぬということは、社会がどうあろうと避けがたい。たとえ悪魔的技術によって、遺伝子が自分とまったく同じ人間を誕生したとしても、それはやはり自分ではない。自分はやがて死ななければならないのである。しかし、その死でさえも社会の現実に影響を受ける。たとえば、死の原因にしても完全に社会の状況から切り離されない。病気で死んだとして、私たちの食生活や働き方と結び付いていることが少なからず考えられるのではないだろうか。自分が、寂しい死に方をするか、納得がいく死に方ができるかもまたそうであろう。

死ですらもそうであるから、生はなおさらそうである。生きている限り、私たちの方から社会に関心をもとうがもつまいが、私たちの身近な快楽や苦悩は一面でこの社会に深い関連をもっているのである。病気や家庭内の問題、学校あるいは職場での問題を単にあなた個人の問題であると、あなた自身が考えることがあるかもしれない。あるいは、他の人からそのように暗示されることもあるだろう。しかし、唯一、あなたの問題があなた自身に原因しているようなことは、おそらくまれではないだろうか。

普通の人は、あえて喜びにつながるようなことをそのさまざまな要因にまでさかのぼって問い直したりすることは少ない。しかし、苦悩や悲しみにつながることでは、「なぜこんな問題を自分がかかえ込まなければならないのか」と自分に問うこときが必ずといっていいほどあるのではないだろうか。

そのときに、広い視野や柔軟な考え方をもつことが大切になる。視野の広さや思考の柔軟さがあなたに救いや冷静さを与えるはずである。一般にそれは、問題を切り離して考えずに、より全体のなかに位置付けることであるといってもよい。このような思考の柔軟生を与えるもっとも単純で、しかももっとも大事な所を衝いている方法は、プラスとマイナスの両面を考えることである。陰があれば陽がある、否定があれば肯定があるという考え方である。自分にとっていかに否定的な問題であっても、そこにあえて肯定的なものをよみとるような心の余裕といってもよい。

そして、問題を個人の問題にしてしまうことなく、そのなかに社会の現実の反映をとらえることもこのような視野の広さや考え方の柔軟性の結果として実現するものである。

比較的わかりやすい例を考えるならば、労働者にとってもっとも厳しい現実の一つとしての失業がある。この厳しさのために、失業しないように努力することは、労働者にとって常に自覚しておかなければならないことである。もちろんこれも絶対的なものではない。命とひきかえに失業を回避することは、幸福のためにジャガーノトの下敷になることと同じくらいに悲しい論理である。不本意な仕事を続けることも失業を回避するという理由で、常に合理化できるわけではないだろう。

しかし、結果として失業してしまったときに、その不当性を訴えて企業と戦うことをしない場合には、失業を自分なりに受け入れるしかない。たとえばあなたが失業者となったことを想定すると、程度には大きな違いがありうるが、その失業がもつ社会的側面を考えることは少なくない意味をもつはずである。もちろん、社会的な側面、失業の社会的な原因なり社会的な意味なりを考えたところで、失業がもたらす困難が緩和されることはない。しかし、あなたが新たにその困難から立ち上がろうとするときにパワーを与えるはずである。

また、学校に通う生徒たちにとって、受験で失敗するというのは一般に、一つの大きな悲しみになるだろう。しかし、目的の学校、大学の受験に失敗することがあたかも自分の人生の目的を実現できなくなる、あるいは自分の人生が不本意なものとなるかのように考えるのは、明らかに一つの社会現象としてそうなのである。少なくない、大学生や社会人が自分の受験の失敗を引きずって生きている。受験の失敗が今の自分に結果的に影響を与えていることをまったく否定することはできないだろう。しかし、それもまた社会の現在のあり方の深い関係をもっていることはおそらく誰もが認めることである。

他に、一般に家庭内の不和や、職場や学校の人間関係の問題もまた冷静に考えれば、その原因や意味において社会の現在のあり方と何らかの関連をもつのである。もちろん、それは、より広い視野や柔軟な考え方の方向で問題をとらえる唯一の方向が、このように問題を通して社会に直面することではない。確かに、自然のあり方に関連している側面としてとらえることも大切だ。しかし、それはここでの議論の限定として考えていただきたい。

このように身近な問題を、社会的関連のなかでとらえるというのは、学問一般がそうであるなどの意味で、古くからいわれてきたことの単なる蒸し返しに過ぎないと考えられるかもしれない。しかし、このようなことをあえて議論しようとする私の意図はそれほど単純なものではない。身近な問題にある社会的背景をとらえることの重要性が増大しているのは、社会が私たちの生活の隅々にまで入り込み、私たちの生活に制約を加えておきながら、私たち自身が気づかないでいる状況が、今日、かつてなく広く存在するようになっているからである。いいかえれば、社会が私たちの生活を規制する程度がかつてなく高まっているということである。

もちろんこの社会の個人生活への侵入が私たちにとって望ましいものばかりであるならば、無理に問題にする必要もないだろう。しかし、残念ながらそのように肯定できるようなものではない。それは私たちの個性を軽視しあるいは薄めたりするものであり、そして私たちから自由を奪い無意識の奴隷状態へ追い込むようなものなのである。このような侵入者をはっきりととらえない限り、私たちは不必要な苦悩や苛立ちにさいなまれ続けなければならないのである。

2.制度の飽和現象

このような個人のおかれた状況がかかえている問題は、私たちの社会そのものの問題である。このような問題がどのような歴史的な文脈あるいは社会構造の変化のなかからあらわれてきているのかをとらえておこう。私たちが、自覚しないままに社会から不自由を強制されている状況がなぜ生まれてきたのかを、時間的な変化のなかで理解しようということである。それは、時間の助けを借りて現状を相対化しようとすることに他ならない。

第二次世界大戦後の半世紀余りの日本社会の変化についてのひとつのとらえ方を示すことから出発しよう。敗戦によって日本のそれ以前の社会制度は大きな打撃を受け、天皇制の後退、農地改革や財閥解体などの劇的な変化に見舞われた。もちろん、旧制度の全てが崩壊したわけではなく、天皇も象徴として位置付けられ、政治制度や経済制度また家族制度などでも戦前からのものをそのまま利用できたものが少なからず存在したからこそ、戦後の発展がそれなりに足場をもったものとなりえたのである。

戦後の日本社会の方向を決めた思想として、民主主義と経済至上主義をあげることができるだろう。現在の時点で振り返ってみれば、この二つが日本の戦後の発展に与えた影響は甚大であった。

民主主義が制度としてどれほど日本に定着したかについて、否定的な考え方もある。しかし、いろいろな問題をかかえ弱点をもちながらも、立法府が普通選挙によって成立し続けたことは確かであり、決定された法に依拠して行政が執行されてきたことも否定しがたい。結果としてこの半世紀を経て、アジアでもっとも民主主義的な政治が持続した社会となった。

そして、西欧と比較した特殊性も、日本の民主主義の弱点というより、アジア的な民主主義という枠のなかに位置付けられるべきものであることが、最近のアジア社会の発展のなかで、明らかになってきている。具体的に指摘すれば、アジアにおける民主主義は、西欧とは異なる集団と個人の間のバランスのとり方を基礎にして成立するということである。そして、それは相対的に集団性に偏りがあるが、だからといってそれが、西欧に比べての弱点であるとは断定できないのである。

経済至上主義は、個人の視点でみれば法の許す範囲あるいは一部は許されなくても所得の増大を努力の焦点とすること、あるいは個人がそうすることが自然なこととして社会が受け止めることにあらわれた。社会全体としては、社会の発展の度合を全て国民総生産の増大すなわち経済成長のによってはかるという形であらわれた。個人も社会も、ただ豊かになることではなく、より豊かになることにパワーを集中させてきたのである。

近代的な社会、あるいは近代化を目指す社会は、一般にこのような経済至上主義的な思想に支配されている。特に日本の場合、それがより純粋にあらわれた側面をもっている。日本は、敗戦およびそのアメリカによる占領支配、日米安保条約などによって国際的な部面で独自外交を展開する意志、能力を半ば奪われてしまったたまに、国際社会へもただひたすら経済成長に専念する国家として登場することになった。そしてまさにこの経済において、国際的に注目される成功をおさめたのである。

民主主義と経済至上主義をバックグラウンド思想とした戦後日本社会の発展は、それを構成してきた個人の活力と個人のあいだの多様でダイナミックな相互関係が生み出すパワーによってもたらされたものである。このような個人間関係は、それを効果的にあるいは効率的に機能させるための制度を要求する。制度とは意味上の強弱はあるものの、習慣やルールあるいは組織さらには法律など、個人の活動とそれを含むより包括的な全体との整合性をより効率的に実現するために、両者を媒介する実体一般を考えればよい。組織としての企業や学校や政府や自治体などの公的機関も全て制度であり、やや抽象度の高いものとしては市場もまた制度であり、さらには個人や組織が相互に円滑に交際、コミュニケートするための手続きなども全て制度である。

制度は、常に関係の形成している諸個人が必要であるとか望ましいと考えている個人間関係についての意識、あるいは意志を基礎にした全体としての理念によって形成される。もちろんその場合、個人の意志の全体と、それによって形成される全体の意志との間にきれいな整合性が常にあらわれるわけではない。その典型的な例は、選挙である。私たちは、選挙にあらわれた結果を国民の意志と考える犠牲に同意しているだけであって、公約を守らない政党が平然としていたり、選挙制度が変わることによって結果が変わるなど、個人の意志と完全に整合的な結果を生み出しているなどとは一般に考えられないのである。

現実の個人間関係はこの制度によって規定されている。しかし制度の進化は、関係を構成する個人が個人間関係についていだいている理念の全体に常に規定されているわけではない。制度は、相対的に独立した進化の法則をもっているのである。

戦後の日本社会の出発点からはじまってその初期の段階では新しいさまざまな制度が新たに作られ現実の個人間関係のダイナミクスに規定される形で発展していった。そして六〇年代の後期から八〇年代初めくらいまでの低成長期も含めて理念と制度の進化は重大なきしみもなく進展していった。しかし、その後、大量消費社会が爛熟状態にはいるとともに、理念と制度の進化は相互に乖離する方向に進むようになっていったと考えられる。すなわち、関係を構成する個人が考える個人間関係の望ましいあり方と制度が人々に求める個人間関係の齟齬が顕在化してくるとともに、それがますます合わなくなる状況が発生するようになってきたのである。

これは制度の飽和現象とでもいえるものである。個人とそれらの相互関係をもたらすパワーを効果的に制度によって実現できなくなってきている。

3.制度とシステム

このような今日の制度の状況が、私たちの身近な生活に重要な影響を与えているわけである。それは、まず私たちがより緊密に制度の支配を受けるようになり、しかもその制度は、私たちが必要としたり求めている、したがって個人の理念としてある人と人との関係とは違ったものを私たちに強要するようになっていることとしてあらわれている。

この意味で、制度を分析することは私たちが直面する問題をより広い視野からとらえる上で重要な課題になっているのである。しかし、制度はかなり広い意味をもった言葉である。したがってまた、とらえどころのない意味の言葉になっている。したがって、私たちが制度の意味でイメージするものはさまざまに違ったものとして私たちの意識のなかにある程度定着している。そこで私は、問題としての制度をより鋭くとらえるために、システムという言葉をあらたに使うようにしたい。このシステム言葉の意味を、明確にとらえることによって、今日の制度がもっている問題の、もっとも重要な側面を明らかにしよう。

システムという言葉が好都合なのは、制度という言葉と比較して、日本語としては必ずしも定着していないからである。わかりにくさもある。システムを日本語であらわすと、制度という訳語をつけられることもあるが、ここでは同じものをあらわさない。しかし、制度が、個人と全体を接合する性質をもった言葉になっている、言い替えればマクロとミクロを接合するところにもっとも重要な特質があるとするならば、システムという言葉もまた同じ特質をもっている。

システムという言葉のはっきりとした定義の前に、制度との関係を事実としてとらえておいた方がわかりやすいかもしれない。私たちが制度という言葉でイメージするものの少なくないものが、同時にシステムとよんでよいものである。例えば、会社も市場もシステムであり、経済活動といわれるもののかなりのものはシステム化している。選挙や行政など政治的な制度の多くもまたシステムである。しかし、社会的交際を形成する習慣の多くは、弱い意味での制度であるが、それはシステムとはいいがたい。

逆に人が構成要素となったシステムの多くは制度とよんでよいものであるが、それもまた絶対的ではない。空間的にあるいは時間的に限定された状態で発生する人のシステムまでも制度とよぶことができるほど、日本語の制度という言葉の意味に広さはない。あるいは、人を構成要素とするところから離れても、システムという言葉は有効である。たとえば、時計もまたシステムである。

したがって、システムは、全体を構成する個別の主体のあいだのある特殊な関係に純粋に付随した言葉の意味をもっている。この点が大切なのは、私たちのこの時代に、ものの見方や考え方が、物的なものであれ精神的なものであれ、ものを全体から切り離して部分としてとらえる傾向が強いからである。全体は、とらえられた部分の寄せ集めであるとしか見ないわけである。これは自然科学の傾向として特に強くあらわれている。たとえば、動物であれ植物であれ、命あるものを理解しようとするときに、器官や細胞の働きを、さらにはそれらのさらに部分の働きを理解しても、生命そのものの理解には至らない。命とは、全体と全体として理解しなければならない面をもっているところにもっとも重要な特質があるからである。

4.システムとは何だろう

システムであるための条件の第一は、全体と部分というふうに分けて考えることができるものについて定義され、全体はあくまで部分から成立しているにもかかわらず、全体はそれらの部分から完全ではないが相対的に独立した論理、目的あるいは法則などの原理をとらえることができるものである。第二の条件は、全体を構成するそれぞれの部分もまた、全体から相対的に独立した論理、目的あるいは法則などの原理をもち、部分どうしがネットワーク上に相互に関係し合う構造をもっていることである。

身近なシステムの例として、会社を考えてみよう。小さな会社であっても、それがシステムである性質はもっているが、大きな会社ほどそれがはっきりあらわれてくる。会社は社員から構成されている。個々の社員は、それぞれ目的意識的に行動する。それは会社のためであれ、あるいは個人的な目的であれ、そうである。現実の多くの行動はその両方の意味を帯びているだろう。会社員は、家にかえってくつろいだり酒をのんだりしたとしても、それが翌日の仕事のために鋭気をやしなうために位置づいているかも知れない。全生活を会社のために捧げていると考えている会社員であっても、それが一個の独立した人格をもった個人であることは否定できない。

会社は全体として利潤追求という目的をもっている。この目的のために、社員の活動を方向づけ、さまざまな形で組織している。この組織することの主要な中身は、社員の間のネットワーク状の相互関係を調整することであり、またそれらをコントロールするための支配—被支配の縦の関係を維持するための仕組みをつくったり再編することである。また、この目的に奉仕するように社員を精神をも誘導する。目的を阻害する社員をシステムから排除することもある。

利潤追求もまた絶対的な目的ではない。つまり、個々の会社員の意識や行動から完全に独立したものではない。なによりもまず、会社員の集団が存在するからこの目的に意味がある。また、会社員の多くがこの目的を承認しているから利潤追求という目的も維持できるのである。

会社が小さくなってくると、システムとしての性質が薄らいでいく。たとえば、社長も含め従業員が三人ほどからなる町工場の有限会社を考えてみよう。これくらいの小さな会社になると活動の目的が役員も含め従業員のある程度の生活の維持になってしまっている場合が少なからずある。それらの従業員から独立した全体の目的というものが見出しにくくなってしまうのである。そうなると、このような組織はシステムというよりも共同体(コミュニティ)といった方がよくなる。

大きな企業においても共同体的なものを考えることはできる。たとえば、それはそれに参加する従業員の生活を支えることだけが目的のものである。ただ、大きなものになるとそのなかでの自給自足的性格を強める、あるいは参加者の自発的な犠牲を吸収するかしなければ、市場の競争のなかで生き残ることは困難であるように思える。

もう一つ身近な集団としての家族ないしはそれを場としてとらえている家庭を考えてみよう。家族は、普通に考える限りシステムではない。家族の個々の構成員から独立して、それらに対して支配的な影響力をもつ目的なり原理が存在するようには思えないからだ。たとえば、家族は子どもを成長させる場としての目的をもつといえるだろうか。子どもが成長したとしても家族は家族である。通常では、家族はやはりごく近い血縁関係をもつものどうしの共同体と考えることが妥当であろう。家族は一人一人のためにある。一人一人は他の一人一人のためにあるのである。

自治体などの人間集団は、システムというより共同体というべきであろう。自治体の行政府は全体としてみれば、この共同体の事務執行機関としての意味を強くもっている。行政組織に限定すれば、選出された首長の意志にあらわれていると想定される住民の意志を全体的ないしは目的としたシステムを形成する。また、自治体が大きなイベントをやればそれに対応したシステムを作ることになる。たとえば、テーマ博を自治体として企画すれば、その実行委員会としてシステムを作ることになる。そのシステムの全体としての目的が、その博覧会の成功であることは明らかだろう。

人が構成要素となっていないものとしては、時計がシステムであるということを考えればよい。時計は多くの部品からなっている。それぞれの部品からは、時計の全体としての目的である、時間を示すという機能を果たすことはできない。各部品が相互に密接な相互関係のもとに機能することによって、はじめて時計はその全体としての目的を実現することができるのである。したがって時計もまたシステムなのである。もちろん、ここでの私たちの関心は人によって構成されるシステムであって、時計のようなシステムについては議論の対象にならない。

人によって構成される集団について、多くの場合それはシステムであるとか共同体的なものであるとかによって分類されるが、もちろんシステムでも共同体的でもないような集団もありうる。一つの満員の通勤列車に乗り合わせた人達は物理的には密接な関係にある人間集団である。しかし、そこには一般には構造はほとんど確認されない。同じアパートに済み合わせた人達は、それだけではただの集団であるが、そこになんらかの協力関係が成熟すれば、共同体に転換することもあるだろう。しかし、特殊な状況が発生しない限り、システムにはなりえない。

例を考えればきりがないが、人によって構成される集団がどのような場合にシステムとなりうるのかをある程度理解していただいたのではないだろうか。ある人間の集団がなぜシステムであるのか、あるいは共同体であるのか、あるいはそれらの集団の特性がどのような条件で維持されるのかは、集団の構成主体の意識状況や、社会的環境、他の制度との関連など複雑な要因にもとづいている。

5.システムに覆われた社会

個人の生活領域への社会の侵入の問題性をすでに指摘したが、この社会という言葉をシステムという言葉に置き換えることによって問題をより鮮明にすることができる。個人の生活領域に侵入してきて私たちの自由と個性を危機におとしいれているのは、このシステムなのである。

大きな視野からみておくと、システムが私たちの生活領域に浸透してきたことは私たちの生活が豊かになったことの裏面である。もちろんこの点は、豊かさの定義にも依存している。なぜなら、豊かさを私たちの自由や個性の状態にも依存していると考えると、現在の豊かさが怪しくなってしまうからである。豊かさはここで、あくまで人々が求めているモノやサービスが消費量の大きさではかっている。モノとは、物質的な形をもって供給される対象である。サービスをわかりやすくいえば、物質的ではない形で提供される、あるいは人々の直接の労働によって供給される対象である。

したがって、この豊かさは単に経済的豊かさと考えればよい。経済至上主義に支配された社会のもとでは、経済的豊かさがあらゆる豊かさの中心に座らざるをえないのである。

生活領域へのシステムの浸透は、さしあたって二つの側面をもっている。第一に、私たち自身や私たちのまわりの人々がシステムの主体となること、あるいはもともと加わっている集団のシステム性が高度になることである。第二に、私たちの生活がシステムに支えられる部分が大きなものになることである。

人々がシステムの主体になるという点では、会社に雇用される人の割合が激増し社会の働く人の圧倒的多数になったことをまずおさえておくべきだろう。戦後の初期は働ける人のうちの半数が農業に従事していた。農業も一つの原始的なシステムを形成していた。日本の場合は水稲耕作のために水の利用が重要な意味をもっているが、この水の利用は農業する人達を相互に結びつける。近世すなわち江戸時代までは、この利用の仕方が農業生産から生まれる余剰を最大にするというような領主の全体的な目的に規定されていた。その意味でシステム化していたのである。しかし、このような目的はその後希薄化してしまったために、農業の世界には共同体的要素が裸のままで残る条件があった。

戦後、農業生産における機械化と石油を大量に利用する形での農業が普及することによって効率化が進行し、一方、経済成長は製造業、商業部門における労働者需要を飛躍的に増大させた。結果的に、農業従事者人口の割合は半分から二〇分の一に激減し、しかもそのなかでの兼業農家を増大させた。一方、雇用労働者は働ける人の八割にもなってきているのである。多数の日本人が農村という共同体的世界から切り離された。そして、会社にあるいは行政組織に雇用されることによってシステムの主体に加わっていった。さらに、このような雇用労働者ではなくて、自営業者の場合もある程度システムの主体という側面をもっている。

このような戦後初期から現在にかけての日本社会の変化は量的なものではなく、質的なものである。単純化すれば、社会の半数の人々がシステムの主体になることによって生活をしている状態から、ほとんどの人々そうなるのとでは、社会に質的な違いをもたらす。初期に半数の人が加わっていたシステムと、今日ほとんどの人が加わっているシステムとでは、システムとしての質の高さが大きく異なっている。

社会が豊かになっているということは、人々がシステムの主体になることだけではなく、システムが目的にそってより効率的であることが一貫して追求されてきたことを意味している。システムが効率的であるとは、次の二つの活力のバランスがとれるような状況になっていることである。第一に、システムを構成する集団の全体としての目的とそれを貫くための支配や制御が確実であることであり、第二に、部分としての個別主体、すなわち個人や部分組織が高い自発性と活力を発揮していることである。

この二つは、独立させてみれば、それぞれ方向が反対で組織を解体する方向に導きようだが、このような対立した傾向を集団としての活力に導くところにシステムの効率性の内容がある。システムの決定的な特性が、マクロ(巨視的)にみた集団の全体と、個々の構成主体から、すなわちミクロ(微視的)にみた集団との二重性にあることから、この二つの面の統一が重要な意味をもっているのである。

これらの結果として、社会の構成員である私たちのほとんどがシステムの主体であることをによって、私たちの生活の豊かさを維持することができるようになってきた。そして、システムがシステムとして高度化すればするほど、あるいはシステムとして純化すればするほど、私たちの個人としての意味がシステムから自立してとらえられなくなってしまう状況があらわれてきたのである。

生活領域へのシステムの浸透の第二の側面は、私たちの生活がシステムに支えられているという点であるが、これは以上の第一の側面と全く表裏一体の関係にある。現在の状況において豊かであるとは財やサービスの利用量の大きさによって表現されることはすでに指摘した。それらの財やサービスはまさにシステムによって供給されるのである。農業や漁業などの一次産業に属していれば、食糧などの一部の財を自分の活動によってえている場合もあるが、それ自身がほんの一部でしかありえないし、社会全体としてほんのとるにたらない部分になってしまっている。

社会が全体として貧しかった頃は、私たちの生活には入り込んでいたシステムによって供給される財やサービスは少なかった。現在の私たちは、その何倍もの財やサービスをえて現在の豊かな生活を維持している。私たちは豊かさをこの財やサービスの量ではかっているから、何倍もの豊かさを得ていると漠然と考えている。しかし、私たちの幸福は、何倍にもなっているだろうか。私たちの生活に対する満足度は何倍もなっているだろうか。

子供たちを考えよう。三〇年前の子供たちには、テレビゲームはなかったからそれで楽しむことはできなかった。しかし、その時代の子供たちも、厚紙からメンコをつくって楽しんでいた。遊びはいつでも友達と一緒じゃなかったら成立しなかった。楽しむために、昔は、野山や川に出かけて遊ばざるを得なかった。しかし、今は大人も楽しめる高度なコンピュータを内蔵したテレビゲームで、家のなかで一人でも楽しみは与えられる。野山や川に出かけようとするならば、危ないとかいわれて止めさせられそうである。今の子供たちの方が人生を楽しめるのだろうか。

私たちは豊かになるにしたがって、楽しみや、幸福感や、生活の充実をシステムから供給される財やサービスに依存するように変えられてきた。新しい消費手段を得るたびに、私たちは新たな快楽も得たのだ、確かに。しかし、すぐにまた新しい快楽のための手段をも止めるようになる。この限りない繰り返しが、いつの間にか、こんな豊かな社会になっていた。

6.システム化社会の匿名性

このように、豊かさを支える多量の財やサービスがシステムから供給されることは、それを需要する側の私たちのあり方にも重要な変更をもたらしている。それは、通常、私たちがある特定の個人であることが、その財やサービスの供給を受ける条件にならないことである。自治体の一部のサービスのように個人の資格が問われるものなどもありうるが、ほとんどの財やサービスは供給される側が誰であるかを問わないのである。単にその供給に対する支払能力だけが問われる。すなわち、匿名性(アノニミティ)が私たちの社会を広く覆うようになるのである。

会社もまたそれを一つのシステムとしてとらえる限り、そこには匿名性が存在している。すなわち、ほとんどの場合、ある部所では働いている会社員が、ある特定の個人でなければならないという必然性はない。 その部所で求められる能力をもった個人であればよいのであって、ある特定の名前をもった個人でなければならないことはない。しかし、会社というのは純粋のシステムとしてのみ機能している場合は少なく、それぞれのセクションで共同体的な関係が副次的にあらわれてしまうので、この匿名性が背後に隠れてしまう。それでも、主要な側面は匿名性なのである。

匿名性はシステムに支配された社会のもっとも重要な特徴の一つである。匿名性に支配された社会においては、人と人との関係は淡白なものになる。逆に共同体的人間関係がいきている集団においては、人と人との関係が名前をもった特定の個人の間の関係であることが主要な側面となっている。そして、そこにおける人と人との関係は濃密なものにならざるをえない。

それぞれの個人にとって、匿名性の社会における人間関係の淡白さが望ましいのか、共同体的社会における決めることはできない。すべての人間関係においてシステムとしての淡白な関係しか求めないというのも一つの極端であり、すべてにおいて共同体的な濃密な人間関係を求めるのも、もう一つの極端であり、普通は両者のあいだに個性的なバランスをとろうとするものである。

問題は、システム化が個人の領域に浸透した社会においては淡白な人間関係が強制されることである。

たとえば、人がある会社に勤務し、そこでシステムの一員として真面目に勤務し、それで得た所得によって必要な財やサービスを購入するということができれば、その個人は立派に生きていける。彼がどのような個性をもち、どのような人間関係のなかで生まれ、どのような人生の経路をへてそこに至っているかなど、必要条件ではないのである。

確かに、会社はその個人を採用するにあたって、履歴を調べ、面接などをしてその個性や経歴をとらえることをやる。しかし、それは一つは、それらの情報から採用対象の個人がそのシステムのなかで求められる能力を「現時点で」もっているかを把握するためであり、過去そのものが意味をもつものではない。もう一つは、会社そのものが副次的に構成している共同体という側面において求められるものをもっているかどうかを確認するためである。純粋システムとしての会社においては、システムのなかで求められるものを果たしうるかどうかだけが問題なのである。

会社というシステムの内部においても、共同体的なものが意識的にあるいは自発的に形成されるのであるが、このような共同体社会から排除されると人間関係の希薄化がすすむ。会社というシステムのなかにおいて、失敗などによって排除される場合であろうが、退職や解雇などによって会社というシステムそのものから排除される場合も同じである。

学校は一般には会社とは異なり、主要な側面が共同体的なものとなりうるがいじめや無視などによって、この共同体的なものから意図的に排除されることがある。さらに、現代においては社会のシステム化とともに、学校そのものが共同体的なものよりもシステム的なめんが主要な側面となることもしばしばあらわれている。学校が、そこに参加する児童や生徒のためにあるのではなく、その学校が学歴社会のなかでより「序列の高い」大学に多くの生徒を送り込むことを目的とする傾向が強くなると、学校もまた一つの全体目的をもったシステムとしての性格が強くなる。こうなると会社と同じように学校に加わることが共同体に加わるというよりも、システムに加わるという意味が強くなり、そこにおける人間関係は淡白化してしまう。

家庭は、一見、手軽に形成され参加することができ、また維持できる共同体である。人々はそこで自分の納得するほどの濃密な人間関係の世界には入り込むことができる。しかし、家庭もまたしばしば壊れてしまう。直接的には、たとえば子供たちの自立や配偶者の死などによって、家庭は失われてしまう。また、構成メンバーはいても、そこで深い人間関係が実現しなくなってしまうことは、私たちのよく知るところである。

人が共同体的な集団の多くから切り離されてしまって、淡白なシステムとしての関係のなかで自分の生活を支え維持するようになると、多くの人は孤独感にみまわれる。この孤独感から逃れるために、人は多様な反応を見せる。もう一度、家庭や学校や職場を自分にとっての共同体として構成しようとするのは、おそらく最も積極的な反応であろう。趣味などによって自分にとっての新たな共同体を創り出そうとすることもあるだろう。アルコールに依存するなどして、ただひたすら孤独であるという事実、孤独感を受け入れようとするのも一つの反応であろう。宗教によって孤独感から解放される道もあるだろう。システムに覆われた社会が生み出す孤独感を癒す方向は多様である。

7.複合システムとしての都市

社会がシステムに覆われている点について、近代都市はもう一つの具体的な視座を提供している。都市は限られた空間の中で大規模な人口を抱え込むとともに、豊かな社会の巨大な富を消費あるいは生産している。労働力人口の八割が雇用労働者となっていることから、およそ人口の八割が都市生活をおくっていると予想しても大きく外れてはいないだろう。そして、社会がシステムによって覆われていく過程と社会の都市化が進行する過程はメダルの表と裏のような関係になっている。都市はシステム化した社会を集約的に表現している空間なのである。

都市の最も明らかな特徴は人口の密集である。たとえば、三大都市圏には日本の人口の約半分が住み、またその中心市では同じ面積に全国平均の二〇倍以上の人が住んでいる。集住する都市の人口の生活や企業活動を支えるために、さまざまなシステムが重層的に複雑に絡み合って機能している。

都市の複合システムとしてのあり方を劇的な形で示したのは、先の阪神大震災である。建物などの崩壊によって貴い命が失われたのが、災害の最も重要で象徴的な内容である。そして、それとともに重要だったのは都市を支えていたさまざまなシステムが崩壊してしまったことである。

経済活動にかかわるシステムが崩壊し、身近なところでは日々百万人以上の人口の食糧供給を担っていた流通のシステムが止まってしまった。都市においては、コンビニエンスストアやスーパーにいつでも豊富な食糧が並んでいることが、私たちは当たり前のように考えている。しかし、それが巨大で精密な流通のシステムによって担われていることをはっきりと示した。

さらに、水道やガスや電気などの日常生活のインフラとなっている資源もまた、システムとして供給されていた。水道の断水は一二三万世帯、ガスの供給停止は八五万世帯、停電は一〇〇万世帯にのぼった。これらのシステムの崩壊によって、人々は川の水を汲み薪で暖をとる生活を一時的であれ余儀なくされてしまったのである。

さらに、経済にかかわるシステムも含めて、さまざまなシステムを支える役割を担っていた通信システムが崩壊した。電話でいえば、 一九万回線が不通になった。電話による通信が困難になり、災害時にこそ力が発揮されなければならないはずの防災通信システムまでが崩壊してしまった。

交通のシステムも崩壊した。阪神間のほとんどの鉄道が不通になった。また、消防システムや救急医療システムも崩壊し、本来災害そのものをおさえることが期待されていたにもかかわらず、十分な機能を発揮することができなかった。そして、行政のシステムも滞り、ゴミなどの処理もほとんどおこなわれなくなってしまった。

以上、大きな項目だけで、震災によって崩壊した都市を覆うシステム様相を概観してみた。もちろんこの他にもさまざまなミクロなシステムが都市のなかには存在している。部分的には触れたが、項目をも受けなかったものでもっとも重要なものは企業というシステムがある。それは、経済の一つの重要な要素であり、経済システムの麻痺とはこの企業というシステムが機能しなくなったということをあらわすといってもよい。また、コンピュータのネットワークシステムの一部の機能停止、電話の不通によるオンラインシステムの崩壊などもあった。

阪神大震災では、多数のシステムそれぞれが崩壊したのであるが、それだけではなく先の通信システムの場合に象徴的に現れているように、システムとシステムの関係もまた崩壊した。そしてこれらは逆に、都市がさまざまなシステムとそれらを結びつけているさまざまな関係によって精密な構造を形成していることを明らかにしたのである。

私たちは、日常的にこれほどまでに都市が複合的なシステムの高度な働きによって維持されているとは、意識しない。阪神大震災という、地質学的な時間のスケールの中で発生した悲劇的な事件が私たちに都市という空間のもっとも重要な側面を、ほんの一瞬であるが示したのである。確かに、都市の建築物の完全な復興には長い年月が必要だった。しかし、都市システムが、その崩壊から立ち直る期間はずっと短かった。人間の巨大なパワーはその一瞬の都市の傷口を、人間の肉体的あるいは精神的な傷がいえるよりもはやく、ふさいでいった。

都市がシステムであることによって、人々の生活や経済活動などの社会活動において高い効率性を実現している。都市人口のすべては一人の消費者という経済主体において、システムの一員となっているばかりでなく、所得を得るための労働や他の社会活動においてもさまざまな都市を構成するシステムの一員となっている。それらのシステムの中でその個人に期待されている、多くの場合極度に専門家した機能を果たすことに集中できるのは、都市がかかえているさまざまなシステムのおかげなのである。それは例えば、消費財の生産に直接、間接に要したすべてのエネルギーについて、一人あたりの生活に必要なエネルギーは人口が密集すればする程少なくなるという結果にもあらわれている。

近代都市はまた、複合システムであることによって特有のダイナミックな運動を実現している。都市は社会の変化にもっとも敏感に反応する。都市のこのような面は、建築物などのさまざまなハードウエアの不断の変化であり、そして都市に生きる人々の不断の移動、あるいは生活様式の変化にあらわれている。都市がこのようなダイナミクスを実現できているのは、都市がまさにシステムによって構成されているからである。

共同体とシステムを比べて見れば、前者は変わらない社会を構成するのに適していて、後者は変化する社会を構成するのに適している。システムが変化に適しているのは、それが全体としての目的傾向を持っていて、個々の構成主体の目的や意図をマクロ的にコントロールできるからである。システムの個別主体は、それ自身が目的を持って行動している。しかし、彼らは常に全体から送られて来るシグナルに注意を払っている。大きなシステムの中では、個人の行動は直接に全体的なマクロ的なシグナルに影響を与えない。したがって、全体から提供されるシグナルは個人を越えて形成されるシグナルのなである。それは例えば、会社においてトップからおろされてくる指示であり、マスコミなどを通して流されてくる流行する商品やスタイルに関する情報であり、あるいは経済活動における価格という情報である。

機敏な変化を実現するためには、体操における笛のように、オーケストラにおける指揮者のように、全体を統括する構造が常に必要なのであり、システムは常にこれを持っているのである。ただし、近代都市は単一のシステムが他のシステムに対して完全に優位にたつという構造を持っているのではない。システム同士の関係に冗長性や柔軟性があることによって、都市の変化には予測できない複雑性と多様性をもたらすことになる。

また、都市においては、生活に必要な広範な財やサービスがシステムによって供給されるために、高い純度のシステム化を実現することができる。それは、匿名性についてもより完全な形で実現できることを意味している。移動や変化の激しい都市の中では、人々に自分が何であるかを知られないままに、生活することができる。アパートでは隣に誰がどのように生活をしているかを知らないままに生活しても決して非難されることはない。人々は、他の人々と人間関係を持つとしても、必要最小限の、あるいは自分そうありたいと思う者に対してしか関係を持たなくてすむ。あるいは都市においては、ひとたび孤独に陥ったものを救い出す共同体的な関係が必ずしも存在しているとは限らない。

このように高度なシステム性を有する都市においても、さまざまな形で共同体が生まれ持続することを否定することはできない。それは、会社というシステムの内部のさまざまな部分で副次的に共同体(コミュニティ)が生まれるのと同じである。もっとも注目する必要があるのは、町内会、婦人会、子ども会などに代表される地域コミュニティであろう。

都市においても、何もかもが変化するわけではない。変化から取り残されたり、定住性が高いことによって共同体的な関係が強い影響力を持つ地域が生まれたりする。このような共同体は、システムしか必要としない人々にとっては桎梏となるが、もう一面でシステムの中だけではいきていけない人々にとってはオアシスとなる。

阪神大震災においては、自分のすんでいた家やアパートが崩壊することによってたくさんの人々が地域コミュニティから離れなければならなくなった。そして数万人の人が仮設住宅で生活をおくらざるをえなくなった。若く、労働能力も高い人はたとえコミュニティを失ったとしても、システムの一員として生活を再建することができた。しかし、お年よりや体に障害がある人など、地域の人々の支えと、その安定した人間関係の中でやっと生活が持続できていた人達にとって、コミュニティからきりはなされることを生きていく上で大きな障害となった。

そして、そのもっとも象徴的な現象が、仮設住宅における孤独死である。誰も看取られずに死亡し、死後数日あるいは長い場合は数カ月たってから発見されるお年よりや病気、障害を抱えた人々の死が毎日のように報告されたのである。

ただしこの場合、仮設住宅の死であるから、特別な意味を持って報道されたが、本来都市は常に孤独な人々を大量に抱え込んでいる。しかたがって、また、大量の孤独死が日常的に発生しているのである。

8.システム化する社会の課題

これまで議論してきたことも含め、このように社会がシステムによって覆われていくことによって生まれてくる問題をここでまとめておこう。

第一は、それぞれの個人の最も重要な属性である個性が社会的な意味を喪失することである。もちろんこれは、社会的な意味を失うのであって、その個人にとって個性が無意味になることではない。社会はシステムによって作り上げられているのであるから、システムの一員となること、それぞれのシステムの全体的な目的に整合的な個別目的を遂行する能力が個人に求められるのであって、その個人の価値意識に裏付けられた個性とそれに整合的な目的が大切なのではなくなる。個性があるとしても常にシステムから要求される個人の個別的な特性あるいは能力だけが重視されるのである。

確かに、個人が個性を失うのではないから、個性の社会的意味の喪失それ自体は問題ではないといえるかも知れない。しかし、例えば会社であるいはシステム化した学校の中でそれぞれの個人の個性が意味を失う、あるいは個人が個性をもった主体としてとらえられなくなることの影響は大きい。それは、個人が自己をシステムの主体として深くとらえればとらえるほど、個性にもとづく自分とシステムの主体としての自分との混同、自分そのものを見失う可能性もあるからである。

第二は、共同体を失うことによって、人々を襲う孤独感の問題である。人は、空腹になれば自然に食糧を求めるように、自分の価値観と共感する人々の集団を求める。言いかたを変えれば、自分が大切にしているものを同じように大切にする集団を求めるのである。このような共感はシステムの中では得られない。

個人のあいだで共同体に対する切実さの違い、共同体に対するかかわりかたの違い、求める共同体そのものの違いは決して小さくない。しかし、共感する集団としての共同体を求めることは人々の基本的な性向である。システムだけを必要とし、それ以外には家族も含め他人とのかかわりを拒否するような人が、少くない割合で存在しそうであるが、その場合でも宗教のような形で、仮想的な共同体を形成したりしている。大小にかかわらず、宗教は神仏に対する崇拝としての共感を基礎にしているからである。

個人と国家との関係も、このような文脈の中でとらえてみることが必要である。国家はシステムという側面と共同体という側面の両面をもっている。もちろんこれは定義の仕方の問題でもある。私たちは、国家の目的が掲げられ国家がシステムとして形成されているにもかかわらず、共同体的擬制によって人々の共同体への共感が利用された時代を知っている。国家がシステム化する一つの重要な場合は、対外関係の中で国家が一つの自立主体としての意志と行動を示さなければならないときである。国家が何か自立した目的を定立しない場合には、国家と言われている人間の集団がその構成員から共同体としてみられることもある。

社会がシステムに覆われてくると、国家は全体的システムの目的のにないてという側面が強くなる。国家を完全にシステムとしてとらえる人々にとっては、国家は自分を救済する主体にはみられないだろう。もう一つの契約主体にすぎないと見えてしまうのではないだろうか。しかし、一人の個人の側から国家といわれる人間集団に対して、共同体的な存在であることを要求し続けることも可能であるし必要である。それは国家に対して、個人を一人の個性をもった人間として扱うことを要求することであり、生活が困難な人々に対して救済することは契約にもとづく義務の遂行ではなく、共同体であることの自然の帰結として行うことである。

第三に、社会がシステム化することによる自然環境との共生の問題である。自然、特に与えられた物理的自然のもとでのさまざまな生物相互連関をとらえている生態系(エコシステム)という自然環境もまた、一つのシステムを形成している。今日の環境問題はこの二つの複合システムの間のバランスの問題として発生している。

これまで議論したシステムと共同体との関係をここで適用すると、生態系はシステムであって共同体ではない。なぜならば、生態系はさまざまな生物種の間の関係、あるいはそれと物理的自然の間の関係を調整する全体的原理をもっている、あるいはもっているとしか考えられないからである。私たちは実際、自然の中に生物種のあいだの見事な調和を無数に発見することができる。これは、個々の生物種が自己の生存の確保と拡大のために行動していると言うだけでは説明がつかないことである。この点さえ押えておけば、私たちの社会との類似性から、生態系のシステム性を容易に理解できるのではないだろうか。

社会システムは意識性の度合はあるものの、人間によって形成されたものである。これに対して生態系という自然環境は、その実際の形成においても、あるいはそれを形成する原理についても、人間が実感できる時間的視野をはるかにこえた膨大な時間の流れの中で形成された。このようなある意味で歴史的な複雑性に比べれば私たちの社会システムは極めて単純である。環境問題はこのように複雑なシステムと単純なシステムの接点で発生している。

私たちの社会を構成している、単純なシステムを維持するのと同じような原理を複雑な自然環境のシステムに適用することはできるだろう。あるいは、システムを維持するための私たちの能力で、自然環境という複雑なシステムをコントロールすることはできるだろうか。社会は、自然科学が局所的自然をコントロールできたのと同じようないみで、自然環境としての生態系もコントロールできると考えていた面があるのではないか。地球という規模で考えればいっそうそうであるが、社会がこの自然のシステムにどのように適応するかがより重要な課題なのである。この点で、社会というシステムと自然のシステムの共生を回復するという課題が切実に私たちの前に提起されている。

第四に、私たちがシステムに覆われて生活することによる、私たちの世界観の変化の問題である。

《この章未完》