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第6章 個性と集団性

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1.集団への帰属意識
2.帰属意識の二重性
3.集団と自己の意味確認
4.集団性と死そして神
5.流行のなかの集団性
6.システムと集団性
7.システム社会のなかの集団性
8.集団性抑圧と代替集団
9.システムへの反応

(この章未完)


1.集団への帰属意識

個人とは、それが所属する集団を前提にした概念である。それは、集団における人間の一つの属性、あるいは状態であると言ってもよいだろう。現代における個人のあり方を考える場合、人にとっての集団の意味をとらえておくことは不可欠である。ただし、あらためて述べる必要もないかも知れないが、本章における集団とは、特別に断らない限り人に関する集団である。

集団は広い意味をもった概念である。人をあるまとまった単位としてみることができればそれは集団となる。たまたま乗り合わせた電車に乗っている人々もまた見方によっては集団である。電車に乗っている人々にとって、自分達が同じ電車に乗っているという点での共感があることを単純に否定することはできないだろう。しかし、その状態は全く一時的であり、完全に条件づけられてしまっている。その集団を積極的に持続させようという力は内部に全く働かずに、人々は目的に近付けばさっさと降りてしまう。また、その集団に積極的な意味を付与しようという努力もおこなわれない。

同じ電車に乗る場合も、それを一つの集団であるとするならば、人々は自発的にその集団に加わっている。しかし、ほとんどの人々はそれを集団と認識し、そこに加わっていることを意識していない。集団構成メンバーの帰属意識が平均して希薄なのである。どの個人にとっても、他のだれもが帰属意識をもっていると思えないために、みずからも帰属意識をもてないし、もたないのである。

ただ、状況が変われば同じ電車に乗り合っていることについての帰属意識が生まれる。たとえば、電車(たとえば少し具体的に新幹線)が架線事故や自然災害のために立往生してしまったらどうだろう。人々は、同じ電車に乗り合った者どうしの運命的な集団意識を発生させる。その集団に自分が帰属していることの理解が強制されるのである。特殊な状況を被害をできる限り少なくして乗り越えるために何らかの協力関係を生み出すかも知れない。

もう一度、同じ電車にたまたま乗り合わせただけの状態を考えてみよう。それはただバラバラの個人のより集まりであるために、集団意識の低い、ある意味でかりそめの集団といってもいい。しかしそれでも、集団であるために、それぞれの個人も一〇〇パーセントの個人であり続けることはできない。個性を抑制しなければならない状況が存在してるのである。すなわち、人が小さな空間に集まっているために、大きな声や音を出すことも、行動についてもさまざまな制約が生まれる。単純ではあるが、集団性とそれを構成する主体の個性とのバランスの問題が、ここに本質的な形であらわれている。

日本という国家もまた、一つの電車のようなものである。人々は、たまたまその領土ないに生まれるという形でこの集団に帰属する。そしてまた、多くの場合はその寿命が尽きるとともに、この「生きた」国家という電車から降りるのである。ただし、国家の場合、そこの成員自身にとっては電車ほど容易ではない。会社や学校もまた集団を構成する場であるが、選択の困難性は国家ほどではないだろう。

国家や会社や学校などというのは、現代の日本社会を構成する基本的なタイプの集団であるが、そのいずれにおいても個人と集団のバランスをどのようにとっていくのかが重要な課題となっている。そして、このバランスと密接な関係をもっているのがそれぞれの集団への帰属意識の強さなのである。

戦前の日本におけるような異常なナショナリズムが支配した社会においては、国家という集団における集団性の優位性と個性の抑圧が広く覆っていた。戦後は、会社や学校といった基幹集団への帰属意識の強さが、一九六〇年代の高度成長期以降の日本の社会の発展を支えてきた。それはまた、そうした基幹集団のなかで個性が抑圧される、あるいは自発的に自分の個性を抑制する考え方や仕組みが作り上げられていった過程である。

ただし、そこには世代のタイムラグがあった。すなわち、高度成長期に形成されていった高い帰属意識をもとめる基幹集団の構成員は、相対的にそれよりも低い帰属意識しか要求しない基幹集団のなかで形成された個性を体化していた。あるいは、集団への盲目的な帰属意識を振り払った世代であったりしたのである。六〇年代から七〇年代初頭にかけての学生運動の高揚は、この矛盾のあらわれの一つだった。

しかし、七〇年代中盤以降は新しい事態が進行した。すなわち、集団への求められる帰属意識が強い集団のなかで個性を育んだ世代が、大学や社会に進出しはじめていったのである。それは、日本社会の成熟化を象徴するものだった。そして、経済的豊かさも背景となって、家庭や学校や会社などで集団への帰属意識の強い人間がまた集団への帰属意識の強い人間を形成していくという点で、自己充足的なメカニズムが働くようになったのである。

2.帰属意識の二重性

たまたま同じ電車に乗り合わせただけの集団に加わる場合は、その集団への帰属意識も希薄であり、加わるという行為自体も極めて消極的なものである。しかし、帰属意識が強い形で集団に加わっている場合もある。それは、上で述べたような家庭、学校、会社といった基幹集団に対してばかりでなく、宗教団体、政党、生協、サークル、自治会・町内会組織など多様な集団に強い帰属意識を持って参加している場合がある。

人が集団に帰属するのは、その集団目的に沿ったある特殊な欲求を充足させようとするためである。もちろんこの欲求には、自分にとって直接なものから抽象性の高いものまでさまざまなレベルのものがある。この場合、集団への積極的な帰属意識の主要な形態は、集団の特殊な機能に規定されている。すなわち、集団を媒介にして得られる欲求の充足を実現するために集団から要求される義務を果たすという形での集団への帰属である。この特殊な帰属意識は、明文化された規則や慣行に依存するものとなっている。

注意すべき点として、この特殊な帰属意識の場合、その集団に参加する人は特定の個人としてとらえられなくてよいということがある。この言い方はやや不正確で、参加する個人の集団との関係は個別的でまた特殊であるが、それぞれの個人の個性の全体が集団を構成するそれぞれの個人の帰属意識に関係してこないということである。それぞれの個人は、あくまで集団のなかで位置付けられた特殊な機能を果たしている主体にすぎないのである。

集団へのこのような特殊な帰属意識に対して、より一般的な帰属意識が存在する。この普遍的な帰属意識は、それぞれの集団の特殊な機能に直接依存していない。例えば、会社のなかに自分がいることによってはじめて自分の存在意義が確かめられる、あるいは会社のなかで自分に与えられる評価が自分の喜びになる、会社の人間関係そのものが大切であるという意識など、具体的な会社の業務とは離れた会社への帰属意識である。宗教、政治団体、あるいは一般のサークルなどについても同じような帰属意識があらわれる。一般的な帰属意識にとって対象とする集団の特殊性は失われている。

一般的帰属意識をとらえるのが比較的難しいと思える集団は家庭である。家庭の中で、例えば自分は母親であるとか父親であるというのは家庭を機能的にとらえたものであって、一般的な帰属意識に関わるものではない。一般的帰属意識とは、誰と誰と誰からなる家族の中の一員として、その家族に加わっているという意識である。

その集団のなかで自分の欲求を満たすために集団から求められる機能を果たすのではなく、その集団に貢献することそれ自体を集団のなかでの自己の機能としている場合は、このような一般的な帰属意識というものになっている。具体的な帰属意識は常に、このような一般的な帰属意識という側面と特殊な帰属意識という側面の二面をもっているのであり、個人がその集団への帰属を続ける背景には、この二つの側面のバランスや統一の仕方の多様なあらわれ方が存在しているのである。

重要なことは、この帰属意識そのものは集団の特殊な機能に依存しない一般的なものであるが、帰属意識の対象は集団を構成しているそれぞれの人間の全体的な個別性、個性そのものに向けられるということである。ここに特殊な帰属意識との大きな違いがある。比較的集団が小さければ、対象は全成員となるが、大きければ身近な人々は直接にその個性が対象になり、その他の人もまたそれぞれの個性のあらわれについて関心がもたれる。

一般的帰属意識にとって集団は、それを構成する個人が集団の特殊な機能を担う個人の集まりとして見えるのではない。個人が有している精神的、肉体的な個別性の全体としての個性の担い手である個人の間の相互関係が、対象とする集団なのである。したがって、集団のある個人がいなくなったり、別な個人が集団に加わることによって、帰属意識の対象としての集団の意味が変わるのである。

一般的帰属意識はその集団への貢献に対して、特殊な便益を得ることを目的としているわけではない。集団への貢献そのものが目的となっているのである。しかたがって、個人にとって集団への帰属そのものが欲求や必要を満たすか、あるいは意味を感じられるものとなっている。

人の集団への帰属意識が二重化していることは、その個人にとってどれほど意識されているかは一様ではない。一般に、冷静に自分がなぜある集団に帰属しているかを考えれば、見えて場合も少くないはずである。しかしまた、必ずその個人にとらえられるともいいがたい。とくに、宗教集団の場合など、一般的な帰属意識が高度の抽象化することによって理解が困難になっている側面が強い。

あるいは、この二重性のあらわれ方は、たとえ同じ集団であってもそれぞれの個人ごとに異なっている。とくに、帰属意識の二つの側面のあいだのバランスが一様ではないのである。また、個人の側からばかりではなく、集団の側からも個人に対する集団への貢献の仕方に対する期待が異なっている。構成員に、集団の特殊な機能のために与えられた役割を高い効率で、あるいは高い質で果たすことを要求することと集団のために貢献することを期待することのあいだのバランスのとり方は一様ではなく、同じ集団でもさまざまな局面で異なってくるのである。また、それぞれの国ごとでも、文化や民族性の違いから、個人の帰属意識のあり方や、集団の側からの期待に違いが出ていることは明らかである。

3.集団と自己の意味確認

集団への一般的な帰属意識の背景には、その集団のなかで評価される、またその集団に受け入られることを望む傾向がある。あるいは、その集団に受け入れられることによって人間的な安らぎをえる傾向もある。そして、これらにもっと一般的な表現を与えれば、その集団に評価され受け入れられることによって、自分の存在意味を了解できる、ということになるだろう。

この場合における自分の存在意味とは、他者に反射した自分によってえられる、自分のより積極的な肯定あるいは理解のための物語である。この様に他者と関係することなしに、人間は自分の存在意味を獲得することができないのである。また、自分の存在意味を知ることは自分自身を知るということよりも、限定的なものである。自分自身を知ることにはたとえば自分の内的な価値意識を知ることも含まれるが、この内的な価値は、直接に他者との関係を必要とするとは限らない。もちろん、その価値意識そのものは、他者との関係によって得たものであったとしてもである。

自己の存在意味の確認は、単なる自己確認よりもより能動的であり意図的である。人が何かの困難を乗り越えようとするとき、何かに挑戦しようとするとき、苦難を耐え忍ぼうとするとき、その主体である自己の意味をとらえようとするのである。

集団に能動的に加わっている意識の背景にある、この動機は人間にとってかなり根源的なものである。人にとって集団とは、自分の意味確認の場としての機能を果たすのである。このような場としての集団を人間は積極的に求めるのであり、またそうした動機は、ある人は求めるが別の人は求めないという選択可能なものではなく、人間である限り必然的に求めてしまうものとして考えるべきなのである。したがってそれは、人間が本来備えている集団性であるというべきである。

このように述べると、人はそれほど集団を求めているのかと疑問が出されるかも知れない。たとえば、集団いたいする姿勢が著しく違っている文化が存在することをどう考えるのか。具体的には、日本人の場合、集団にたいする一般的な帰属意識すなわち集団性が強いのに対して欧米ではこのような帰属意識が相対的に弱いのではないかというのは、とよくいわれることである。

しかし、これは集団というものに対するとらえ方に起因していると考えた方がよい。すでに述べたように、一般的帰属意識とはそれぞれの集団の特殊な機能に依存しないという意味で、集団のあいだの代替可能性が高い。一般的帰属意識については集団間の差異は捨象されてしまう。つまり、ある集団に対して強い一般的帰属意識を持って加わっていれば、それだけ他の集団においては、その集団の特殊な機能に対する期待だけで加わることになっていくことができるようになるのである。

この点では宗教の果たしている役割に注目する必要がある。宗教集団も他の集団と同様にその集団に対する特殊な帰属意識と一般的帰属意識がある。特殊な帰属意識はその集団いおける全体の機能とかその一部をそれぞれの個人が担うという意味で他の集団との大きな違いはないが、一般的帰属意識の場合は注目すべき違いがあらわれてくる。

宗教集団においては神や仏、あるいはそれと同じようなカリスマ的存在さらにはそれに次ぐ伝導者などに一般的帰属意識に関わる個性が集中している。それらを信仰する側には個性の喪失があらわれる。一般的帰属意識にとって重要な意味を持っていた個性が、宗教集団においてはこのような偏りをもってあらわれるのである。そのために、帰属意識の対象としての集団が抽象化する。集団への帰属が集中した個性と自分という関係になっていくのである。これは、宗教集団ばかりではなく、特殊な政治的イデオロギーで集まっている集団についても、カリスマ的指導者があらわれると、そこに個性が集中し、逆にそれに加わっている個人から個性の抑制が進んでいくという形で、あらわれるものである。

この個性の集中の程度は、それぞれの宗教集団ごとに異なっている。個性の集中の程度が高ければ高いほど、一般的帰属意識の対象としてのその集団の抽象性も高くなる。具体的には、仏教と比較すれば、キリスト教のほうが個性の集中の程度は高い。キリスト教の場合、人々はキリストと自分との関係の中に集団性をとらえ、自己認識を実現している。日本における仏教の場合、仏陀への個性の集中は薄く、さまざまな如来や菩薩あるいは、仏教の伝導者に個性が分散してしまっている。仏教の宗派自体がかなり特定化された主体の重視を教義としていても、それに対する集中の程度は必ずしも高くない。

したがって、キリスト教が支配的で、抽象的な集団性とそこでの自己認識をしている文化のもとでは、仏教のような個性の集中性と集団の抽象性が弱い仏教などの宗教が支配的であるような文化と比較して、宗教以外の集団に対する自己認識の場としての必要性が低いと考えられるのである。これは結局、キリスト教的文化のもとにおける会社などの具体的集団の位置づけが、仏教的文化におけるそれとは違ってくるとことを意味しているのである。

さらに、抽象的集団性によって自己認識をえることを基本にしている文化のもとでは、人々の孤独受け入れることに対する抵抗感が低く、集団に対する依存性も低い。

議論をもとにもどすと、人が自己の存在意味を確認する場が集団であることには深い背景が存在する。人間は、集団により受け入れられ、集団のなかでの評価が高まる、あるいは集団にとっての自己の必要性がより強く感じられることによって、よりよい満足を得られる、あるいは喜びとなる。これが、自己の存在意味の確認の重要な内容になっているのである。

それは何か、人間だけが持っている高度の知性の結果ということではない。もっと低いレベルにおける人間という動物の生活形式にもとづいているものである。動物にとっての集団形式は、群である。群という概念は集団という概念よりもより限定された内容を持っている。群は特殊な集団である。生命の生活形式の中にあらわれてくる集団なのである。そして、人が集団を通して自己の存在意味を了解していくことは、動物が本能的に群れる現象と強い類似性をもっている。

動物が群れることは、彼らが食糧を求め子孫を残すために努力することと同じレベルの行為である。種の拡大保存のために不可欠の生態なのである。人間は、空腹や乾きをいやすことによって精神的満足や喜びをえることができる。性行為に伴っても同じように喜びをえられるようになっている。これらの行為は、人間が知性をもっているか否かに関わらず、それよりももっと低いレベルの生活行為に伴っている喜びである。そして、人間がそれを喜びと定義しているならば、人以外の動物も、それに対応するような喜びをその行為によってえていると考えることは、合理的なものだろう。

人間が、集団に一般的に帰属することによってえている自己認識に関わる喜び、動物的にいえば、人が群れることによってえている喜びもまた、質は異なるが生活形態のレベルとしては、食欲や性欲を満足させることによってえている喜びと大きくは違わないのである。それぞれの動物がこれらの喜びを得るための衝動を失ったとしたら、その種は直ちに滅んでしまうだろう。

集団への帰属によって実現される自己認識は、一つの物語の中に自分を位置付けることである。物語の中の自分に人は陶酔するのであり、それが群れることの喜びなのである。その物語は単に精神的な意味しかないのではない。それは実際自分によって演じられる物語なのである。

人間の以上のような集団性は、動物一般の群れるという性質と類似のものであるために、積極的に動物と比較することによってまた理解を深めることができる。動物の群れのなかには、知られたものでは、ゴリラや猿などの霊長類の群などのように群に積極的なリーダーが存在するもの、単に一匹の雄がメスのハーレムを率いているタイプのもの、蟻などの社会的群を形成するものなど、群の内部が何らかの形で構造化している場合や、アフリカのヌーの群や魚の鰯の群など個体どうしの間に機能上の分化が行なわれていない群などが区別される。後者が前者より群としては低い生活レベルになっている。したがって、人間の集団性の理解を深めようとする場合、前者よりも後者がより望ましい例となる。

たとえば鰯が群をなすのは、それによって異性間の生殖の機会を確実にするという動機、外敵から個体群を守ろうとする動機の他、プランクトンの分布など環境の変化に敏感に対応するための動機などもあるかも知れない。いずれにしても鰯にとって群をなすことは、まさに選択不可能な、その生存にとって不可欠の生活形態なのである。

これは単に鰯にとどまらず、生命一般についていえることである。生命は一般に群にその本質的な表現がある。群を構成する個体もまた一つの生命であることは確かだ。しかし、群が個体を条件づけ、個体を生み出し、個体の生存条件を実現するのである。群のなかに、持続という生命の衝動の完結がある。人間においてもこの本質の変化はないが、ただ、群が実在する個体の集団からより抽象的な精神領域の現象に重心をシフトさせる。宗教などのように、集団性が抽象化する部分をかかえこむ。集団の精神的領域に重心を移すとその分だけ、個体の意義がより強固なものになる。

鰯の例に戻ると、鰯の群が群という形態を維持するためには、まず第一に、それぞれの個体が、他の鰯の個体を明確にとらえることが必要になる。他の個体が鯖でも鰺でもなく鰯であることを認識することができなければならないのである。これは決定的なことであるが、どのように他の個体を識別しているかは、わからない。遺伝子のなかに識別能力が与えられているのか、鳥の擦り込み(inprinting)のような機能が備わっているのかも知れない。さらにいえることは、単に他の種の個体から鰯という種の個体を認識することができなければならないだけではなく、その種のなかでの個体どうしを区別する能力もある程度保持していなければならないだろう。

第二に、他の鰯の動きやその集団の全体的な動きに、積極的にしたがっていく衝動をそれぞれの鰯がもっていなければならない。動いている群の中で、このような積極的衝動をもたないことは、必然的に群を離れることである。群から受け入れられるためはこのような衝動が不可欠なのである。その衝動によって鰯は、種を構成する一つの個体としての責任を果たす条件が与えられるとともに、群がまたその役割を果たす可能性を拡大することも可能になるのである。

ところでこの群に積極的に加わる衝動は、食糧を得ようとする衝動とか子孫を残すための衝動とは本質的に異なるものではない。鰯という種が、持続するために個体に遺伝的に与えられている衝動なのである。人間の場合、空腹をいやそうとする欲求、異性との性的交渉を行なおうとする欲求が実現すれば、それぞれ快楽が伴うようになっている。これは、他の種と同じように遺伝的に与えられたもので、文化として持続しているものではない。そうであるならば、一つは鰯もまた食糧をえたり子孫を増やす行為に対して何らかの快楽をえていると類推することは不合理ではないだろう。そしてもう一つ、鰯もまた群に受け入れられること、あるいはそのために積極的に努力することに快楽が伴っていると考えられると同時に、人間もまた自ら求めている集団に積極的に受け入れられることは喜びを伴うものなのである。

4.集団性と死そして神

生命の表現形態は個という形態と群という形態の二つがある。そして、後者にこそ生命のより本質的な表現形式があると先に指摘した。ここでは、時間という視野の中でこの問題を考えてみよう。

個体というのは、存在が有限である。しかし、群は存在が時間のなかで制約を受けていない。持続することが前提となっている。もちろんそれは、限りなく存在するという意味ではない。種そのものが時間の中で変化してしまうからである。このような制約を持っていることは理解しながら、個体の有限性という制約を持っていないという意味で、群は、無限の時間の中での存在を前提にしているといってもよいだろう。時間という視野の中では、この有限に対して群の無限性が対応しているのである。

生命というのは、時間に関して有限と無限という対立する二つの性質を内包することを必要としている。この有限と無限というのは、生命が持っている対称性のひとつである。しかしそれは単純なプラスとマイナス等のような対称性ではない。無限であるために有限性を内包しているという意味での、ダイナミックで構造的な対称性である。したがって、本質は無限性の側にある。

個体が有限であることは、個体にとって逃れられない運命である。一方、群に帰属しようという動機は無限なものに自らを一体化させようという動機に他ならない。それはまた、個体の有限性を抽象的に乗り越えようという動機であるともいえる。

個体の時間の上での有限性とは死の必然性である。人間にとっても、個人としては死は必然である。死は物質的な過程の結果としてすべての人間に訪れるが、当事者はその死を精神的に受け入れるか拒絶するか、あるいは超越しようとする。いまだ死に至る過程を体験していない私にとっては、この過程は想像するしかないものである。しかし、私もまた死に至る存在であることは、潜在的であれ陽表的にであれ常に意識していることである。

今、死を単純な拒絶の対象とする姿勢は考慮の外におこう。死を受け入れることは、まず、単なる諦念といわれるようなものではない。あるいはまた、自己の直面する死にたいして無関心でいることでもないだろう。死を受け入れるとは、その前提に死を自分なりに了解しようとする能動的な姿勢がある。それはまた、死を抽象的に超越することを意味している。人が死を受け入れるとは、死からその絶対性を剥奪して、自分の死あるいは生の有限性を無限なものの視点から相対化しようとすることである。その死の受け入れ方が自然であるためには、無限なものへの精神的あるいは抽象的な帰属が強いものでなければならない。

人間が死を受け入れることにおいて、人間の集団性がまたあらわれる。すなわち人は、集団への帰属によって無限なものの視点を得ようとするのである。その集団は、無限の存在を前提にしていなければならない。そのためには、その集団の個性は有限な個人によって担われていてはならないのである。無限の存在のなかにある個性、そのもっとも典型的な例が神仏であり、その神仏と個人の関係において成立している集団への帰属が、人が死を受け入れるために供給されているのである。

この場合、なんらかの神仏があらかじめ提供されているようだが、もっと一般的に、人が死を受け入れるために形成する抽象的な集団性において、集団の個性のシンボルとされる無限の存在を神とよぶと議論を転換することも可能だろう。その意味で、神とは一つの論理なのである。個体にはめ込まれている集団性を媒介にして、死を受容するための論理が神なのである。

さらに、このような論理に対して神というような人格的な名称を必ず与えなければならないということもないだろう。たとえば、あるイデオロギーを媒介にして形成された集団において、そのイデオロギーが内包する無限性を利用して死を受容することも可能であろう。その場合、シンボルが神的な人格性を持たない表現を与えられているかも知れないが、それもまたこのような論理としての神であるといってもよい。

人間においては、上記のような意味で死を受け入れることによって、生命のもっとも自然な形態における死の形があらわれる。死に対するあらゆる消極的な意味を拒否しているという意味での自然な死である。おそらく、人間においてのみ、自らの時間的有限性、さらには死によって自分が存在しなくなったとしても継続するこの社会についての体系的な知識をえられるのであって、その知性が死に対する了解に主体的な論理としての神が必要とされる背景なのである。

そうであるならば、人間以外の生物に対する死についても新たな理解の鍵を得ることになる。人間以外の生物も、生を持続させようとするさまざまな努力の延長として、死に対する部分的な抵抗を試みることもある。しかし、人間の側からみる限り、人間のような知性を持たない彼らの死は常に自然的である。それは彼らには、論理としての神が必要でないという言い方も成立する。あるいは逆に、死を理解したがる人間の側からみれば、人間以外の生物には、死を自然に受け入れさせるような神が常に意識されていると考えてもよいのではないか。

5.流行のなかの集団性

流行という現象には、一面で現象の特殊性に対する共感のようなものが存在している。たとえば、ある特定の衣装の流行の背景には、その衣装が着やすいとか、季節を過ごしやすくしているとか、生活を心地よくするなどの特殊な機能に対する多数の人々の同時的な支持がある。特定の電気製品が流行する場合にも、多くはその製品の特殊な機能に原因を求めることができる。衣装や電気製品などがデザインゆえに流行するということもよくあることである。デザインは受け手の感性に依存するために、上記のような製品の特殊な機能に対する支持とは異なるが、流行の現象やシンボルの特殊性に対する支持である。

私たちが流行という場合、この特殊性の側面しか有していない現象を指す場合もある。特定の電気製品の流行の場合などには、このような側面に尽きることが多い。しかし、そのような場合は、その現象を合えて流行と呼ぶ必要もない。よく売れている商品であるとかいえば状況の主要な側面を表現できてしまう。流行という現象には、人間のもっている、もっとファナティックな特性が反映しているのである。

流行の本質は、それが集団性の発現とみなしうるときにあらわれてくる。流行している対称は、集団性のシンボルなのである。たとえば、ある衣装をみにつけるとか、ある髪型をする、あるいはあるライフスタイルを選択するなどということが、同じような選択をする人達の集団に抽象的に参加することを意味するとき、その現象は流行といえるのである。流行が人間の集団性の表現であるのは、その流行を構成している集団の構成員に特殊な役割や機能が与えられていないことにもあらわれている。

流行は物語を供給する。人は流行に加わるとき、流行のなかに与えられている共通の物語を自分のものにする。あるデザインの衣装が流行しているとしよう。ある時代と社会状況のなかで、その衣装を身につけることが、特定の世代の、特定の感性や能力あるいは傾向の意味を明らかにしているとしよう。それは、その流行が一つの物語を内包していることをあらわしている。その流行の衣装を身につけることは、みずからの個性のなかにこの物語を溶かし込むことになる。共通性を維持しながら、たとえば自分を主人公にしたような物語に具体化するのである。

ここに、流行がシンボルを共有するために非個性的な現象のようにみられながら、当事者はそれによって逆に個性を主張しようとしていると考えるという、一見対立した状況を説明するカギがある。流行を受け入れている主体は、個性を語るための物語を流行とそのシンボルから供給されているのである。

流行に乗ることが、物語を共有する集団への参加を意味するならば、それは相互確認でなければならない。集団の側からも、その参加が認識されなければならないのである。したがって、流行のシンボルは常に他から認識されるものでなければならない。もし、ある流行のような現象が明らかに集団性の発露であるにもか変わらず、それが他から認識されるとは限らないシンボルによってあらわされているならば、それは民族的な伝統や宗教などの集団性によって支えられている可能性がある。たとえば、縄文式土器などをみると、流行と文化性が区別しにくい。土器は他にみられるとかみられないにかかわらず、ある種の宗教性、文明性をもったものとして人々は受け入れていったのだろう。

流行はなぜ変わっていくのか。そこに、流行が原始的な集団性の表現である点がみえている。鰯の群がその動きをダイナミックに変化させていくことと形は似ている。流行のシンボルがどんどん変化することによって、物語の再確認がおこなわれるのである。流行の現実の主題である人間は、日々変化している。その肉体も精神もまた連続的な変化のなかにあるのである。この変化のなかで、集団そのものを再確認するためにシンボルを次々に取り替え、物語の純粋性に馴染まなくなった人々を排除し、逆に、適合者を迎え入れるのである。

もちろん流行の変化のなかで、物語そのものも変質していく。物語が変化するのは、流行を支える環境が変化するからだ。たとえば、経済的な豊かさのレベルや契機循環の局面の変化が人々の感性や能力や傾向に微妙に影響を与えていく。自然指向などは人々の感性の問題だが、それもまた重要なファクターである。社会に、秩序を指向する雰囲気がつよいのか、秩序を忌避する傾向が強いのか、あるいはどの世代が文化のどの部分を担っているのかなどもまた、物語に影響を与えていく。このように、流行は、このようにそのシンボルと物語を相互に変化させながらダイナミックに展開してく。

6.システムと集団性

一般的な集団への帰属によって事故の意味を確認しようとする人間の傾向である集団性と、私たちの生活のさまざまな局面に登場するシステムとの関係を、ここで明らかにしておこう。

集団性は、集団への帰属にかかわる人間の性質であるのに対して、システム性とは集団のなかでの人と人との関係のあり方あるいは構造から規定される集団そのものの特性である。集団への帰属意識には、特殊なものと一般的なものがあることをすでに明らかにした。そして、一般的な帰属意識としてあらわれるものがここでの集団性というものである。一方、集団の構造的な特性については、システム性と共同性の二つがある。この四つの概念の関係を整理することが大切である。

たとえば、会社という集団は純粋にはシステムであるが、同時にある程度の共同性も有する。そして、会社の機能的特性はそのシステムとしての側面のなかにあらわれている。会社が提供する財やサービスの特殊性は同時にシステムの特殊性である。その会社を構成する個別の人間が変わったとしても、システムが変わらない限りその会社は同じ財やサービスを供給することが可能である。そして、ある程度の規模をもっていれば、これこそが会社の構造の本質的な側面となる。

したがって、ある人が会社に属するとは、まずそのシステムのなかで一定の機能を果たすことによって報酬としての賃金を得るという、特殊な帰属意識を背景にしていることは明らかだろう。会社の本質がシステムとしての側面にあるならば、この特殊な帰属意識は一般的帰属意識よりも優位にたたざるを得ない。すなわち、会社という集団において、人間の集団性の衝動を満たすことは副次的なものにならざるをえないのである。あるいはシステム性とのバランスを考えれば、会社が共同性をもつ程度においてしか、集団性をももちえないといえる。

会社という特殊な例で、概念間の関係をいい尽くすことはできない。たとえば、集団の主要な側面がシステム性ではなく共同性にある場合でも、特殊な帰属意識はありえる。一つの例として、家族をあげることができる。個人にとって家族は常に特殊なものであり、帰属意識もまた特殊である。しかし、家族は通常システムではない。というよりシステム性は希薄である。逆に共同性は強く存在することができる。そして、ここでもまたこの共同性に応じて、個人の集団性の実現はより強く可能になっていく。

この二つの例からいえることは、ある集団のシステム性が強くなればなるほど、逆に共同性が希薄になればなるほど、個人の集団性の衝動はその集団のなかで満たされることが困難になるということである。

7.システム社会のなかの集団性

人間の集団性は、満たされることを要求する衝動が非理性的なものに起因しているという点では食欲に近い。ただ、食欲が一次的には明らかに個体を維持する衝動であるのに対して、集団性の衝動は直接的な機能が明らかになっていないという重要な違いがある。では、集団性の衝動の実現が困難な場合にどのような問題があらわれるだろう。

食べるという行為は、生活のなかに明確に位置づいている。個体の持続にはほとんど欠かせない行為であるから、食べるという行為は、さまざまな慣習や文化を体化している。したがって、食事の場面が小説や映画やテレビドラマのなかに何気ない形で、あるいは重要な意味をもったものとして登場する。しかし、集団性の衝動の場合は、必ずしも人々のなかで日々意識される形ではあらわれていない。もちろん暗示的な形では、しばしば登場する。

集団性は、集団を媒介にして自己の意味を確認しようとする衝動である。人間は自己の意味を集団を媒介にするという反射的な形でとらえるのである。また、このような衝動の強さは、食べることに対する欲求が強さや質と同じように、それぞれの個人ごとに異なっている。そして、この衝動はさまざまな集団とかかわる場で何らかの形で、あるいはさまざまな程度において満たされていくものである。まず、家庭や学校や会社といって社会の基幹集団の場での満たされ具合は特に重要な要素である。

学校や会社は主要な集団であっても選択的なものであるが、家庭は二十歳前後の世代や高齢者の世代を除いて各世代の総人口のなかで九割以上の人々が家庭を形成している。家庭は、高い共同性を持った場であるがゆえに、それぞれの個人が自己の集団性を実現する重要な機会を与えている。しかし、家庭はこの点で限界も持っている。その第一は、集団規模があまりにも小さいことである。一般に家庭は、あるいは特に現代のような核家族の時代においては、数人という規模でしかない。規模の小ささは高い共同性をもたらすという点では有利な条件となるが、自己の意味確認をするには不利な条件となる。個人の特性や世代によっては、家庭で十分であることもありえる。しかし、より深い物語として自己の意味確認をすることは、一般には困難といえる。

家庭の第二の限界は、現代社会という環境のなかで家庭の共同性が希薄化する傾向があらわれていることである。それは、会社ばかりではなく学校までがハイアラーキカルなシステムの構造のより高い位置に自分をおくための手段化していること、すなわち、社会全体がシステム化の傾向を強めているなかで、家庭までがそのあおりを受けているということである。家庭が、それに合わせたような目的を持つに至ると、家庭がシステム化する、あるいはその共同性を希薄にしてしまうのである。

社会がシステム化するとは、なによりもこれらの基幹集団がシステム化することである。会社は経営の効率化が進行することによって、あるいは会社そのものが巨大化することによって、システム性を高めていく。戦後の高度経済成長によって日本が経済的に巨大な富を生産するようになっていく過程は、より多くの人々がシステム性の低い農業生産集団から切り離されて、会社勤めをするようになっていく過程でもあった。そしてその会社は幼年期を過ぎれば、システム性を高めることが不可欠の課題になっていくのである。大人になること、社会人になることは、システムの一員として生きることが、まがりなりにもできるようになることに他ならない。

そして、この会社もまた、それを包括するより大きなシステムである、経済というシステムのなかで一つの主体として生き延びている。この経済と言うシステムもまた、それがシステムである限りにおいて全体的、マクロ的な目的を持って生きている。会社はこの全体的な目的に従属することによって会社としての目的を実現できる。経済のマクロ目的から要求されるにしたがって、必要な場合には、活動の方向を変えなければならないし、あるいはその存在意義がなくなれば、会社をたたまなくてはならなくなる。

ある歴史的な経済状態は、どのような会社がその社会のなかで、どれくらいの地位を占めているかを明らかにする。そうなると、誰がそのより高い地位をもった会社に入るかを決めるルールが必要になる。ルールそのものもこのシステム化した社会に適合的なものでなければならないのである。もっとも重要なルールは、システムの一員としてより適正な能力を持ったものが選択のより高い自由度を与えられるようにするようなルールである。

このルールのもとにおけるゲームは学校と言う場でプレイされる。そして、この学校というゲーム場そのものもシステム化されるのである。

学校は、人々の学びたいあるいは学ばせたいという欲求にこたえる場という面を持っている。しかしもう一面で、学校は国家の教育する権利を実現する場である。私学であろうが、国家の認めた学校であるか否かは大きな問題である。国家の認めた学校でない限り、単にお金がもらえなくなるというだけではなく、卒業したとしても必要な知識をえたことが社会的に承認されない。このような、国家による承認が学校に対して与えられていることが、学校がシステム化する重要な背景となっている。

学校は、さまざまなシステムのなかの一員となったときの機能を果たしうる能力を身につけることが教育の一つの基本的な内容となるとともに、システムという制度そのものを抵抗なく受け入れる人間となることをもう一つの重要な教育内容としている。そして、社会がシステム化する影響は、成人よりも学校教育を受ける若い世代に鋭くあらわれる。彼らは、大人びた理性で、システム化する場で適当に演技することができない。システムの一員としての自己と、本来持っている個性に裏付けられた自己を軽妙に区別することができない。また、大人の世界のなかで行われる、奇妙な舞台の裏側を彼らはすぐに見破ってしまうのである。

基幹集団がシステム性を高めれば、生活の主要な部面で、ひとは自分が生きていることの意味をとらえにくくなる。会社にいけば、一つの機械部品のように働き、学校にいけば一つの機械部品として働けるような訓練が繰り返されれば、人間がある種の本能のように持っている集団性が抑圧されていくことになる。

8.集団性抑圧と代替集団

基幹集団において集団性が実現されなければ、まず、それ以外の場でその実現をもとめることになる。すなわちそれは代替集団の利用可能性の問題になる。

この点で最初に考慮しなければならないのは、再び、宗教の問題である。

人間の集団性の問題において宗教がしばしば登場するのは、人間が人間らしさを獲得した太古から宗教が集団性を実現する基礎的な論理を提供していたからであろう。人々は超自然的なシンボルを共有することによって集団性をあらわしていたのである。ただ、生活に関わる主要な集団が人格的な関係の範囲では、すなわち小規模な地縁・血縁集団の連鎖によって社会が構成されていた場合には、超自然的なシンボルは、必ずしも人格的なものでなくてもよかった。なぜなら、集団性の実現に必要な個性は集団に帰属する身近な人々によって供給されていたからである。集団は、その小規模な範囲で基本的に閉じていたのである。もちろんその連鎖としての社会というものの文化的全体の統一性もあったがそのためのシンボルもまた、人格性を持たなくてもよかった。

しかし、集団が広域的な社会構造をもつことによって、すなわち社会システムが登場することによって、人格的なつながりを超えた範囲での集団性の実現が求められるようになり、個性を集中的に体化した神が必要になったのである。

宗教は、形態はさまざまに変わっても、歴史的に人々の集団性を実現する重要な機会を提供してきたのである。私たちが歴史をひも解けば、人々の生活の基幹的集団を形成していたことがしばしばあることも確認される。また、現代においても、国家そのものが宗教によって形成されている国もあることからもわかるように、強い存在感をもった宗教は存在しているのである。

したがって、私たちのいう基幹集団がシステム化して、十分な自己の意味確認ができない個人がいたとしても、まず、宗教によってその個人の集団性が実現されれば、ひとつ救われるのである。しかし、すべての宗教が同じようにこのような代替可能性をもっているわけではない。たとえば、既成宗教のなかで大きな存在感を持っている仏教とキリスト教を比較してもこの点が浮かびあがる。すなわち、仏教の場合はキリスト教の場合のような集中した個性が存在しない分、集団の具体性が高い。キリスト教の場合は、キリストとその信者というスポーク的な関係によって集団性が実現されるような構造を持っている。

人々が代替集団として宗教集団を選択する場合に、自分自身の集団性の実現を求める程度において多様な選択肢が与えられていなければならないことになる。社会が、その基幹集団において安定的に集団性の実現を可能にしている場合には、その不十分な部分は既成化した宗教において実現可能である。しかし、システム化した社会のもとで基幹集団によって可能になる部分が少くなればなるほど、社会は人々の多様な要求やレベルに応じた宗教を提供しなければならなくなるのである。

問題は、宗教が必要とされる背景が、死や、のりこえがたい苦難を受け入れることではなく、人の社会生活の基本を形成すべき基幹集団において集団性が抑圧されていることにあるということ、社会の歪みが宗教という代替集団を要求していることにある。会社や学校や家庭からはじき出された人々、あるいは自らそこからはなれた人々は、宗教がもたらす新しい集団のなかではじめて自分のための物語に出会う。はじめて、自分の存在する意味を確認できるようになる。そして、人間にとって、自分の存在意味を確認できた場所が「真実」の場所なのである。

宗教は代替集団としてもっとも重要なものである。それは、宗教が人間の存在の意味を与えること自体を内容とすることができるからである。宗教はもう一方で人間が存在しないことの意味も与える。すなわち、死の意味も与える。いずれにしても、人間の存在の根本にかかわることの意味を与えることが宗教には許されているのである。

確かに、代替集団は宗教でなければならないことはない。近代社会主義思想の理論的な基礎を与えたマルクス主義などの政治イデオロギーもまた、その政治・経済理論や世界観のなかに、あるいはそれとは別に人間の生きる意味も供給するものとなっている。したがってそれもまた強力な代替集団なのである。このようなレベルの代替集団は、宗教や政治イデオロギー集団だけではない。多様な形態がありうることは否定できない。ただ、人にその個人が主人公になった物語を提供できるほど、すなわち、そのような形での個人の存在する意味を与えることができるほど、仮想的世界と世界観を構成することは容易ではない。

さらに、宗教ほどの強さをもたないながらもある程度の代替集団として機能することができるものもあるだろう。それにはたとえば、サークル、スポーツクラブやボランティア集団、町内会や婦人会や青年団など、さまざまな集団がありうる。しかし、これらの集団は個人の存在する意味を直接に与えるような精神的な体系をもっていない。その集団の特殊な機能や目的、そのための集団構成メンバーの義務や権利にかかわることが規定されているだけである。このような状況から、参加している個人が自分の意味をとらえるためには仮想的世界と世界観を構成する強い想像力が不可欠となるのである。

これまで述べたような代替集団は、それらの集団に加わることによって、その集団の内部的作用として集団性を充足させようというものであった。ここで、もう一つ別の形態の代替集団を考察しよう。それは、暴走族タイプの代替集団である。これは、暴走族に典型的にあらわれるということであって、その特性はすでに述べた代替集団も含め、さまざまな集団にあらわれる可能性がある。

暴走族のもっとも重要な特徴の一つは、集団で自動車やバイクを暴走させることであるが、もう一つ、少くない他人に爆音を浴びせかけたり走行を妨害するなどの影響を与えるというのもある。後者もまた本質的特徴であるというのは、他人に全く影響を与えないで暴走だけするというのも、広い意味で暴走族というのかも知れないが、少くともここではそのような他者に対して関係しようとしない暴走族は含めない。

暴走族が、他者に対して迷惑であろうが喜ばれようが影響を与えることが本質的重要性をもつのは、影響を与えた他者の存在を確認することが目的ではない。自分達の行為に対して他者がネガティブあるいはポジティブな反応をすることによって、あるいはそのような反応を強制されることによって、自己の存在を確認しようとしているのである。それによって、彼らは自分の存在している意味のプリミティブな把握ができるようになるのである。もちろん、彼ら自身がその段階にとどまっているのか、それよりももっと大きな物語のなかに自分を位置付けることができるようになっているのかは、わからない。

重要な点は、ここに人間が自己の意味を確認する基本的な論理が貫かれていることである。すなわち、人間は他者との関係のなかでしか自分の存在している意味をとらえることができないのである。それは、一般にある集団のなかでの相互関係によって実現するのであるが、暴走族は暴走によって他者との関係を強制的につくり出すのである。そして、それが他者にとっての著しい迷惑である点で、反社会的な強制となっているのである。

暴走族のメンバーは、暴走族という集団内部において他者との関係における自己認識の機会が与えられているのだが、それが暴走族という集団にとっての他者である他人との関係におけるより拡大した他者との関係における自己認識の基礎になっているのである。外部からは相対的に、前者より後者のウエイトが高いようにみえる。

すでに述べたような他の代替集団もまた集団の外部との関係における集団そのものの意味の拡大ということは大なり小なり存在する。宗教における多様な慈善活動、政治的イデオロギー集団における宣伝活動なども、それらの集団の構成された精神の延長線上にあらわれるものであろうが、それは集団そのものが一つの主体として他者との関係で自己の意味確認をおこなっていると考えられるのである。そして、それがまた集団の構成メンバーの自己の意味の理解と有機的に関係づけられているのである。

代替集団がどのような形態で存在し、どのように機能しているかを把握することは今日のシステム化する社会においては重要な意義を持っている。現代社会の個人や集団によるさまざまな病的行動が、これらの代替集団という役割のなかであらわれている場合が少からず存在するからである。

9.システムへの反応

基幹集団のシステム化が進行するなかで、代替集団に自己認識の場を転換することをとおしてさまざまな社会現象が発生しているのは一つの重要な事実だが、主体的あるいは客観的な理由でそのような転換が困難な部類の人々がいることもまたとらえておかなければならない。

会社に勤務している人間の場合を考えてみよう。彼が会社においても家庭においても十分な自己の意味確認がおこなえないような状況におかれていたとしよう。すなわち、会社においては、システムの主体としての自己の意味は確認できていたとしても、人間が本来持っている集団性を満たすものとしての自分の存在意味が十分とらえられない状況におかれていたとしよう。しかも、彼に代替集団の供給が十分おこなわれないとするならば、たとえ自己の個性の源泉となる価値意識を持っていたとしても、彼の内面から活動のパワーを失わせしめる可能性がある。

この意味でのパワーの喪失は、システムの主体としての役割を果たすために必要な活力の喪失であり、彼は会社から去らなければならなくなってしまう。

もう一つ全く方向の異なったリアクションもありうる。それは代替集団における暴走族タイプによく似た面を持っているものである。ただし、反社会性もっているわけではない。それは、会社というシステムのなかで自分の行動とシステムからのリアクションによって強制的に集団性を実現しようとするのである。暴走族が、その行動による社会のリアクションによって集団性を確認しようとするのと論理としては同じである。それはシステムの主体としての可能な、あるいは正常な水準以上の仕事をこなすことによって人間としての存在意味の確認をしようとすることである。

したがってそれは、外部からみれば会社というシステムのために強く貢献しているようにみえるが、実際は人間的な歯止めがきかなくなっている状態なのである。自己の意味確認がちゃんと集団性を実現するなかで行われているかどうかは、人を積極的な行動に向かわせるための基礎となるばかりではなく、自分に対して必要な抑制をかけるためにも必要なのである。この抑制がきかなくなって自分を暴走させていくと、客観的には自分を見失った状態になっていく。主体的には、自分の価値意識も自分の暴走に合わせたもの変えられていくのである。

学校の場合も基本的に同じである。ただ、いくつか特別に考慮すべき点がある。まず、会社の場合は主に成人である。しかし、大学生を除いて、高校生以下の場合は社会的な自立生が弱いために、学校において自己の意味確認ができなかった場合の代替集団の利用可能性が低い。また、人間的に未完成の面をもっているために、システムでしかないことの違和感を感じても成人であるならばある程度可能になる「理性で行動を支える」ということが困難な点である。

学校におけるいじめや校内暴力の背景には、それが全てではないとしても、システム化する学校のなかで極めて歪められた形で自分の存在意味を確認しようとする生徒達のもがきが背景となっている。他人のリアクションによって強制的に集団関係を形成して、自分の存在を確認しようとしているのである。

学校のシステム化のより健全なリアクションはいわゆる不登校である。不登校そのものの理由は多様に存在しうる。しかし、年々増加する不登校のもっとも重要な背景はやはり学校そのもののシステム化だろう。学校がシステム化することによって、生徒達は学校という場において自分の存在する意味をとらえられなくなる。あるいは、成長過程にある子ども達にとっては、自分の存在する意味を育てられなくなってしまうといった方がよい。それによって学校というシステムのなかで自分が主体として果たすべきことを実行するパワーを失ってしまうのである。

このような意味での不登校には、積極的に登校することを拒否する場合と「学校いかなくちゃいけないと思うがいけない」という場合がある。後者はそれによってさまざまな身体的症状もでてきてしまう。この両者の間には、本質的な差はない。システム化した学校に積極的なリアクションをするのか、消極的なリアクションになっているのかという違いにすぎない。ただ、後者の方は、父母や学校関係者に理解しにくいだけである。

このような、学校における不登校という現象は会社においても、出社できなくなるという現象としてあらわれている。ただ、すでに述べたように成人した人間にはさまざまな意味で状況を変更する機会と能力が与えられている点で、生徒達にはない有利さをもっているということである。

不登校になったということは、代替集団などの場合と異なり、集団性を実現する方法は必ずしも明確になっていない。しかし、なんらかの形でパワーを回復する場が与えられなければならない。結局それは、家庭が社会のシステム化を担う単位ではなく、確かに小規模であるが強い共同性をもった集団として個人の存在意味をある程度あきらかにできる場とならなければならないのである。

《この章未完》