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第8章 自己認識とシステムの問題

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1.「汝自身を知れ」の不思議
2.二つの自己認識
3.システムの主体と自己
   3.1会社というシステム
   3.2学校というシステム
   3.3システム化した家庭と家族
4.システムと自由

(この章未完)


1.「汝自身を知れ」の不思議

《あとで追加:精神的な側面の自己認識に偏っているが、肉体的な意味での自己認識についても触れるべき。なぜ、肉体の支配者である自分以上に医者が自分の肉体についてより深い理解をするということがありうるのか。過労死というものの場合、肉体を使いこなせなかった精神があることを意味する。》

「汝自身を知れ」という格言があるが、これによる「知っていること」は、一つの自己認識である。ここでいう自己認識とはさしあたって「私」についての考え、あるいは理解をさしていると考えればよいだろう。

私とは何であるかという、その内容は私自身の精神的活動あるいは肉体的活動の特性に関わっている。「これこれについてはこういう考え方をする」とか、「このような状況ではこのような行動をとる」とかは、自己認識を基礎に語られるものである。先の格言は私が私自身を知りなさいという意味に理解されるが、それは認識する私が私自身を対象化していることになる。私が私自身が何であるか知ろうとすることは、一見奇妙なことのようにも考えられる。しかし、それは私の肉体の外面と行動が私自身の観察の対象になることの自然な延長である。

ただ、精神的な活動の面では、私が私自身のその活動の特性をどの程度、私の対象としているかについては、主体と対象が未分離な側面も残される。というのは、認識しようとしている精神活動そのものが認識の対象であるという、ある種の堂々巡り、言葉を変えれば極端な再帰的な認識になっているからである。それは、コンピュータのプログラムをするときにもよく出くわすことだが、ある関数を定義するためにその定義すべき関数を用いるというのににている。プログラムの場合は、それは問題にならないどころか、美しさと柔軟性を与えることになる。私の自己認識の場合は、あるときに認識する側が認識する側に転化するという種客の逆転が容易に起きる。

私が私自身を対象化し認識しようとすること、言い替えれば自己の相対化は、人が常におこなっている精神活動ではない。私はふだん、そのようなことは何も意識せずに行動し、考えている。しかし、たとえば何かの失敗や誤りを反省するとき、あるいはある目的に向かって自分を奮い立たせなければならないとき、そうした精神的葛藤の状態にあるとき人は自分自身を認識の対象とする。このような意味では、自己認識はいかにも人間らしい精神活動であり、人の精神的領域における成長や道徳的な一貫性はこの高度な精神活動の結果として実現していると考えられる。

自己認識のための自己の相対化は、人間の精神活動の自由さの発現である。この自由は人である限りもっているという面と、生まれた後にその人が知的訓練によってより大きなものにした面がある。知的訓練とは、さまざまな学問的な知識に触れることにとどまらず、生活の中でおこなわれる考えることの自己訓練、あるいは会話による知識の体系かなども含まれ、広い意味をもっている。とくに、読書は物語であろうが学術的なものであろうが、仮想的な認識の対象と認識の主体を実現することと直結しているために、結果としてこのような知的訓練の重要な機会となる。たとえば、物語の観点から自己を振り返るということ、これは、物語の中に自己認識の主体を設定することである。逆に、たとえば物語の主人公の考えや行動を肯定したり否定したりすることはそれを認識の対象としていることである。このような自己認識は結局私たちが、日々気持ちのおもむくままに生きるのではなく、より自覚的に生きていくことと深い関係をもっている。

すこしもどって、私が私自身を知ろうとする奇妙なことが要求される背景には、私が自明なものではないという事実が横たわっている。私を支えている最も底辺には「脳」というハードウエアが横たわっている。私というものを成立させている主要なものが、脳の物理的機能であることは否定できない。大脳にある一〇〇億個かそれ以上の神経細胞(ニューロン)それぞれが多数のシナプス(接触点)を媒介にして相互に結合し、信号の伝送と状態の維持と変更を繰り返す中に私というものの実態がある。この、最下層のハードウエアと最上層にあらわれてくる私の間には、人間の認識を拒絶するほどの巨大な障害があると考えられる。

人は脳を科学的に知ろうとするが、それによって私がわかるわけではない。そのようなことがあるかどうかは予測できないが、脳の物理的機能が完全にわかったとしてもある特定の個人の私というものが理解されることには決してならない。人は相互に余り変わらない容量の脳をもっているが、それが生み出す私という個性はほとんど無限である。そして、どのようなニューロンの集合のどのような相互関係の状態がその個性の要因になっているかを知ることは不可能であろうし、それを理解することが何らかの意味をもつとも考えられない。

たとえば、こんなふうに考えて見よう。私という個性を規定しているニューロンがたった三六一個からなっていると仮定しよう。変わった数字だが、これは一九×一九でちょうど碁盤の石をおける交点の数である。ニューロンは励起した状態とそうでない状態の二つの状態をとりうるが、前者を白の碁石、後者を白の碁石であらわそう。すると、碁盤のすべての交点に白か黒の石をおいた全体の状態が一つの個性のありかたに対応していることになる。ある状態から、どれか一つの交点の石を白から黒、または黒から白に変えることが全体としての個人の性格を変えると考えるのである。脳の仕組みを理解するというのはここまでのことを理解するということである。

問題はここからである。この白石と黒石の状態が生み出す、個性の数はどれほどであろうか。実はその数はほとんど無限なのである。その数は、二の三六一乗なのであるが、一秒間に一つずつその全体の状態、すなわち性格を確認しても、地球が膨張した太陽に吸収されるときになってもそのほんの一部しか確認できないくらいなのである。

ここには、わかること、あるいは理解の仕方の問題もあらわれている。そもそも、脳を物理的に理解するとは、神経細胞の機能を基礎にして、それがどのように関係しあって、どのような結果を生み出すのかという、部分から全体を組み立てていくことによって理解に到達しようとすることである。しかし、私という現象は何らかの部分的なものあるいは要素から組み立てられているのかという問題がある。または、そのような考え方によって私たちにとって必要な自己認識がえられるだろうかということである。私というものの一つの主要な側面は、それが全体的なもの、あるいはマクロ的な現象だということである。

たとえば、私は臆病であるという場合、それが私というもののマクロ的な規定性であることは、理解するこがそれほど難しくはない。さまざまな局面で、私は積極であったり消極的であったり、あるいはそのどちらともいえないような態度をとる。しかし、「全体として」私は臆病であると規定することがありえる。あるいは、私の行動が私が臆病であるということを前提にしたほうがより理解されたとする。臆病というのは、個々の事象に分解できない全体としての私を規定しているものである。そして、真の私はおそらく、臆病とか勇敢であるとかの規定性よりももっとマクロ的で全体的な規定性、それに適切な概念がともなっているかどうかはわからないが、それによって私自身の一貫性が維持されていると考えられるのである。

やや冗長な回り道をしたかもしれないが、私は自己認識が求められるほどに、私自身にとっても理解が困難な深みをもっているということである。私にとっても私というものには常に謎の側面があるということ、これが、「汝自身を知れ」という格言が人々にとって常に意味をもつ一つの背景となっている。

2.二つの自己認識

私自身が私を理解しようとすることにおける自己認識は、人間らしい精神活動として肯定される面が強い。しかし、ここで考えてみなければならないことは、私自身に対する認識は必ずしも私によっておこなわれたり与えられたりするとは限らない。私に関する理解としての認識が私以外の人あるいは人々によって与えられる面も考えなければならない。

私以外の人あるいは組織によって与えられる私についての理解は、必ずしも外面的なものであるとは限らない。私による自己認識は内面的なものであり、私以外の主体によって与えられる私についての認識は外面的なものになるというのでは単純すぎる。私の内面にかかわる認識が他の主体(個人や組織など)によって与えられることもある。そもそも、内面と外面を区別することがあまり意味をなさない。たとえば、「私は日本人である」というのも一つの私についての認識である。これは、一面では私がたまたまモンゴロイド的外見をみせていること、日本語を流暢にはなすこと、日本人がいかにも着そうな服装をしていることを、たまたま指すのかもしれない。もう一面では考え方や行動の仕方が日本人的である、たとえば、本当にそうかどうかはわからないが、「はっきりした自分の意見をいわない」とか「集団への帰属意識が高い」などというステレオタイプのとらえかたは私の内面にかかわるものである。

外部によって与えられる私に関する認識と私自身による自己認識が、前者が外面、後者が内面という形に分離していないことが一つの見逃してはならない点である。私が私自身に対する認識と同じ概念、同じ論理によって他の主体が私に対する認識をえることができるのである。他の主体は、それがもし個人ならばその他人である個人は自分を認識するようなやりかたで、私を認識することができるわけである。私が私自身を相対化し私自身の自己認識にいたるように、他人としての彼もまた彼自身の認識をえるために彼自身を対象化し相対化する。彼は彼自身を対象化するように私をも対象化するということである。

私が自己認識のために私自身を対象化するときに、その対峙はあくまでも相対的なものである。持続する私というありかたの一時的な局面にあらわれるにすぎないといってもよい。これに対して、外部によって与えられる私についての認識はこのような相対性をもたない。まず、他の主体によって与えられる私についての認識が私にとって全く知るところのものでなければ、それはただその主体が勝手に考えているというだけで、私にとっては何の問題でもない。しかし他の主体による私についての認識はさまざまな形で私にかかわってくる。私が「こういう人間である」という外部の主体の認識が、多くの場合、私にとってはどうでもよいものではなくなるのである。私の友人のほとんどは私がどのような人間であるかについて何らかの認識をもっている。そして、身近にいる友人は、彼自身による私の認識を私に了解することを暗黙のうちに要求している。人と人との相互のコミュニケーションは、それが深まれば深まるほど、この了解の要求は大きくなる。

そしてついに、私は外部の主体が与えた私自身に関する認識を私自身の中で構成するようになる。このように与えられた私についての認識も一つの自己認識となるのである。私は他人の私に対する認識を受け入れて一つの自己認識とする。「あなたはこういう人間である」という他の主体による認識が、「他の主体にとっては私はこういう人間である」という自己認識に転化するのである。このような他の主体によって与えられた自己認識は、私自身による自己認識とはちがって、持続する私というものに対して潜在的であれ顕在的なものであれ一貫して対峙する自己認識となっている。私自身の自己認識はときにはそれが私自身に転化し、流れのなかにあらわれた液体のように私自身に融け込む。しかし、与えられた自己認識は、私が意識しようがしまいが、持続する私の中にまぎれこみそのなかで形を変えない固形物のような存在となる。

この二つの自己認識は、自己認識として共通のフォーマットと構造をもっている。私にとって必要な自己認識は、外部から与えられた自己認識によっても代替させることができる。「私はこのような人間であるから」とか「私はこのような人間であるべきだ」というのは、何も私自身による自己認識の結果としてのものでなくても、外部から与えられたものによって機能させることができる。与えられた自己認識が私という現象の持続とその一貫性を実現することもできるのである。「私は日本人である」という場合、私に最初にその認識が生じたのは、おそらく私自身による自己認識としてではなく、与えられた自己認識だったろう。しかし、それは徐々に私自身の内省的な結果としての自己認識に転化し、「ああ、やっぱり私は日本人だ」となっていくのである。

このような意味での自己認識のすり替えは日常的におこなわれるものである。妻によって指摘されている「父親だったら子供にこうしなさい」が、自分自身による自己認識の結果ではないのにもかかわらず、「自分は子供にこのように対するような父親である」あるいは「あらねばならない」という意識にすり替えられてしまうのである。会社にいけば、「私はこのような社員である」とか「私はこのような上司である」というすり替えられた自己意識にとらわれている場合は決してまれではないはずである。学校でも、「私はこのような生徒である」という与えられた自己意識にとらわれる生徒が少なからずいるだろう。

このような与えられた自己認識を否定することはできるだろうか。私についてのその認識を自己認識ではなく、他の主体による認識であると読み変えればよいわけであるから、そのような意味ではこのような自己意識の否定は可能である。私自身による自己意識の構成あるいは再確認と他の主体による自己意識の拒否である。もちろん、それによって他の主体が私に対する認識を変えるとは限らない。他の主体が身近な友人や家族であれば私自身による自己認識を明確に発露することによってその認識を新たにさせることは可能だろう。

この点に関するもっともありふれた事例は、子供から大人への人間の成長だろう。子供の内面的な自己認識は、大人に比べれば驚くほど急速に変化していく。それは、一つの重要な側面として自分に対する理解が深まっていくという意味で成長なのである。幼い子供は、自分が何であるかを問いかけることをしない。繰り返される環境との相互作用のなかで、意識することなく自己の精神と肉体との自由を拡大しているだけである。しかし、ある時期から自分を意識し始める。自分に直面し始める。子供は、サナギが繭をつくるように自分の殻をつくっていく。それは、つくられ始めた自分というものを保護するためのからである。触るだけで傷ついてしまいそうな自分を守らなければならないのである。そしていつか、自分でつくったその殻を、ひよこがそうするように成長にともなった自分の力で壊すことによって新しいステージに登るのである。父母は、ときには子供の余りにも急すぎる内面的な成長がつかめず、子供扱いをする。逆に子供が殻をつくっているときには、子供の現実を越えた成長を押しつける。しかし、あくまでも成長の主体は子供自身であり、自分の殻を破らなければならないのも子供自身なのである。

3.システムの主体と自己

外部から与えられた私についての認識が一つの自己認識に転化する過程のなかで、現代社会においてとくに問題になるものとして、システムの主体としての自己認識の形成の問題がある。システムの主体としての自己認識は、完全に自発的な友人関係のなかで与えられた私についての認識が自己認識となったものとは、かなり違った特徴をもっている。もっとも重要な差異は、後者がもっている生きた人格性が、前者においては失われて抽象化してしまっていることである。

ここで、システムとは人の集合のなかである特殊なものを指す。それは、時計のような機械の部品という要素から成るシステムではない。またそれが単なる集合でないというというのは、人が相互に意味のある相互関係を結んで、全体として統一性のある機能を果たすような集合であるということである。ここの構成要素である人の機能に完全に分解しきれない全体としての機能をもっているということである。たとえば、会社はこのような意味での一つの典型的なシステムである。会社はある与えられたフィールドでより大きな利益の獲得を目指す。獲得した利益は、個々の社員が直接獲得した利益の総和ではない。さまざまな社長から一般の会社員までの機能の全体としての結果として会社の利益は発生する。

3.1会社というシステム

会社員は会社というシステムを構成する主体である。私がある会社に勤務しながら所得を得ていると想定すれば私はこの会社というシステムの一主体ということになる。私の側から見れば、私の精神的、肉体的な能力のかなりの部分を適切に支出することによって、会社員であるという機能を果たしている。それが、営業部門、工場、管理職、研究職などの区別によって自己の能力の支出の形態、内容の違いはあったとしても、私がもっている人間としての能力の重要な支出であることは変わらない。そういう意味で、会社員としての労働は私の人格の表出なのである。

また、私は単に会社から直接に求められる能力の支出だけではなく、同じセクションの同僚たちと必ずしも会社の機能とは直接に関係しないような、日常会話を行ない、ときには相互に友人としてコミュニケーションをおこなう。それに私は、会社にはいるときに試験だけではなく、面接を受け、履歴書を出し、私の人格にか変わる重要な要素の評価によってこの会社に入社したはずである。したがって、私が会社員であることが私自身の大切な属性であり、私の自己認識において重要な内容となるべきある、と考えるのも自然のなりゆきかもしれない。

しかし、いかに内面化していたとしても、このような自己認識もまた外から与えられた私についての認識である。私自身を会社というシステムの純粋な主体としてみれば、私はこのシステムの全体が求めている主体としての多様な機能を体化している実体でありそれ以上のものではない。やや具体的にすれば、私は会社の商品を適切な価格で売りさばくことの能力をもっている主体であるか、商品を製造するプロセスで適切な人的能力を発揮できる主体であるか、製品を開発するある部分過程をになえるとか、会社のマネジメントに能力を発揮できるとかという意味での、主体である。

会社の同僚たちとのコミュニケーションの場合、一面では、会社というシステムを離れた生きた人格的な関係の成立する可能性はある。そして、この点はシステムと主体との関係で忘れてはならない大切な点である。しかし、同僚たちとのコミュニケーションももう一面では、会社としてのシステムに包摂されている。目的遂行のためにシステムの機能を阻害しないようなコミュニケーションのあり方が求められるのであり、そのような選択がおこなわれているとしたら、同僚たちとのコミュニケーションも生きた人格的な関係ではなくなってしまうことは明らかだろう。会社のなかでの日常会話も、会社が引けてからの宴会も、週末のゴルフも少なくない場合が会社というシステムに包摂されているのである。

自分は会社になくてはならない存在と思っていたのに、病気で休んで出勤したら自分がいなくても会社は正常に動いているのに驚いた、あるいはがっかりしたという話はどこにでも誰にでもある。短期的には会社というシステムの冗長性が一人の人間の病欠をカバーするのであり、長期的にはその人に変わる別の人材を求めることもできるのである。会社においても「余人に替えがたい人材」ということが、絶対にないというわけではなかろう。実際にいわれているほど、その人でなければならないという場合はないといえるが、まれにあるかもしれない。しかし、その場合も替えがたい人材に求められている特殊な能力は、人間のもちえる能力の一部分にすぎないのである。

このような会社員としての自己認識を、私の内的なものとして了解することが不可能になる瞬間がある。それは、退職し会社を離れるとき、もっと厳しいものとしては会社自身から退職を強要されるときである。自己認識のレベルまで会社員であることを内面化した人間にとって、会社員であることをやめるということは、私という存在の持続性、一貫性を確認できるような自己認識を失うことになる。私とは何であるかを見失うことになるのである。会社をやめることによって、人は別な肉体をもつことになるわけではないので、肉体としての私の一貫性は明らかである。しかし、人は自分が何者であるかを必要に応じて確認しながら、生きることの喜びを受け入れ、生きる上での苦痛を受けとめるのである。もっと一般的には、生きることのあらゆる自由は、持続する私という人格の可能性として与えられるのである。

自己認識の困難は、退職の他に、会社が違法行為など一般に社会的に避難されるような行動をおこなった場合、その会社員であることによってどのような責任が問われるかという問題のなかでもあらわれる。その会社の支配的な立場にあればあるほど、この責任がより鋭く問われることになることは自然である。しかし、会社は一つのシステムである。会社として確認された手続きにもとづいて、会社の全体としての意志としておこなわれた行為が、人的な被害を与えて違法性が問われたらどうだろう。もちろん、その意志形成過程において、関連するセクションや個人が犯罪性を理解しえたかどうか、あるいはそれを理解しえる立場にいたかどうかの問題はある。

たとえば、私がその会社の社員であったとすると、私が全くしらないところで、その意志形成がおこなわれ、私はたとえばその行為とは直接は関係のない経理事務をやっていたにすぎなかったにしよう。しかし、会社が一つのシステムであり、そのシステムの主体としては、私もまたその当事者だったのである。そして、一人の人間としてその会社の行為が許せないものだと判断したとする。私の自己認識において、会社員としての自己認識が深く内的なものであったとするならば、会社の行為を許せないと考えた時点で、自己認識は困難にならざるをえないのである。

もちろん、会社員であれば必ず、会社員である私自身の認識を自己認識としてしまうということでは決してない。会社というシステムの主体であることと、そのために精神的あるいは肉体的能力を支出することを求められる主体であることを、自己認識の内容とはせずに、外部から与えられた私についての認識であるという了解に徹することは可能である。これ把握まで私自身によるとらえ方の問題であるから、このような自己認識をすることが、ただちに会社が求める機能の支出に消極的になることを意味するわけではない。外面的には、よく働く労働者であることと、会社員であることを自己認識の重要な内容であることを拒否することは、両立が不可能なものであるとはいえない。

3.2学校というシステム

今日ではほとんどの学校もまたシステムとなっている。ただし、ここで学校とは小学校から高等学校までを考えている。教員からみて学校がシステム化しているというのは、不思議なことではない。それは会社がシステム化しているのと同じである。そこでの教員と事務職員は会社の社員に対応する。学校の全体としての目的は、一つは国家が要請するものとしての学校教育法に定められた小学校、中学校、高等学校の目的、目標であり、文部省が指示するさまざまな具体的な目標であり、もう一つはそれぞれの学校が多くの場合、国家の目的に反することのない範囲での自主的で具体的な目標となろう。この目的の実現のために教員と事務職員の制度化がおこなわれているのであり、その意味で学校がシステムであるのは確かである。また、この範囲内では、大学もまたシステムである。

システムの主体と自己認識の問題はこの範囲内では基本的に会社の場合と異ならない。しかしここで問題としたいのは生徒もまきこんだ形で学校はシステム化しているという点である。つまり、そこに集う生徒にとってのシステムと主体の問題なのである。

ここの生徒が学校というシステムの主体になっているというのは、これまでのシステムについての定義からすれば奇妙であると思われるかもしれない。会社の場合、一人の会社員が休むということは影響の大小はあるが、会社の全体的な機能、目的の実現を阻害する。個々の具体的な場合には、このように言い切れないものもある。たとえば、個人の有給休暇が認められているがそれはどうか、工場などの特定のセクションでは五人来れば五人の仕事をし三人ならば三人分の仕事しかしないということがあるかもしれない。後者のような状況があれば、そのセクションの関係者それぞれは、システムの主体と言い切れないものがあることは事実だ。一般に工場がきちんとシステム化していれば、特定のセクションがその日の都合によって作業量を変えることは全体に影響を与える。

生徒を主体とみた学校の場合、一般には一人の生徒が学校に出てくるかどうかは、全体に影響を与えない。学校を休んだことによる影響は基本的には本人の問題でしかないと考えるのが普通であろう。人が集っていても必ずしもシステムをつくるとは限らないのである。それは電車にたまたま乗り合わせた人々は、ある方向に沿って移動したいという個々の目標は共通していてもそれは集団の全体性の目標とはならない。学校に集う生徒も、電車に集う乗客のようなものと考えることはおかしくはない。

学校は、集団で学ぶところであり、一人の生徒が来ないことはその集団性が低下するということによって全体に影響を与える、といわれるかもしれないが、現実には小人数教育の大切さがいわれたり、僻地の学校で学年一人か二人の教育が許されていることを考えれば、このような主張には説得力がない。また、学校でも文化祭や体育祭などでは一人の性との役割が与えられたりするし、クラスや授業でさまざまな役割を与えられたりする。これもまた一種のシステム化であることを否定するものではないが、個々で生徒にとって学校がシステム化しているというのは、このようなものをさしているのではない。それは、システムの主体と自己認識の問題という点からいえば、大きな問題であるとは考えられないのである。

生徒にとって学校がシステム化するのは、学校が成績のよい生徒をより多くつくり出すことを目的とする場合である。学校教育法にはこのような目的、目標は明示されていない。学校教育法は、教育を施すこととその内容に触れてはいるが、ある特定の基準でとらえた「よい生徒」を「より多く」などというはじめから選別しようという目的を表明してはいないようだ。大学も含め試験をおこなうより上級の学校、しかも社会がグレードが上であると認める学校へより多くの生徒を送り込むことを意識するようになると、「よい生徒をより多く」という目的が成立することになる。義務教育の場合も、現在では私学教育の多くはこのような目的を表明するし、公立学校の場合も上から指示される教育課題と方法を実践していくなかでいつのまにかこのような目的をかかげたものと同じになってしまっているということがある。

あるいは、個別学校がシステム化しているというより、学校教育の全体がシステム化しているといったほうがより明確である。憲法と教育基本法が、国民の教育を受ける権利を明確にうたっていても、現実の戦後教育の中には、その社会の局面に見合った「人材」を育成するという、選別の意図が貫かれているといってよい。それはまた、国家が、あるいは日本社会がシステム化していることの結果なのである。

このようなシステム化した学校の中では、一人一人が学校に行くことがこの目的のなかに位置づけられることになる。たとえば、学校を休むことは、「成績のよい生徒」になる可能性のある生徒が休むことは目的にとって望ましくない。一人一人の生徒がどのような勉強をするかもまた、学校の目的にとって重要な意味をもってくるのである。あるいは、生徒どうしの関係も、生徒が教育を受けるという自己目的に沿って集っている場合とは異なってくる。生徒どうしは、目的に沿って競争し合うあるいは助け合うことが要求されるようになる。多様な個性と多様な能力をもった生徒たちに学校目的に沿った能力を形成するためのさまざまな工夫がおこなわれる。席が変えられクラスが変えられ、先生の配置が工夫される。

このような学校は、教育を受ることを希望する国民、青少年に教育を提供する場としての学校とは質が異なる。個々の生徒の個性と能力の多様性は、個人の教育を受けたい希望を実現するための前提条件として考慮される。このように述べると、生徒は生徒自身かその親の側からの希望によって学校にいっているのが現実であるという、指摘があるだろう。しかし、本人の側の意図がどうあれ、学校の側がこのようなシステム化した学校を用意している点を問題にしているのである。

今私が、このようにシステム化した学校の一人の生徒であったとしよう。まずさしあたって、私にとっては学ぶことが自己認識にとって重要な意味をもっていることの確認が必要だろう。私自身を知るとは単に私の精神心の内面をさぐることを意味するわけではない。一般に、私自身が何であるかにとってもっとも重要な要素は、人、自然、社会、文化といった対象に対してそれらの対象やあり方あるいはそれらについてのかかわり方について、私が何をどれほど大切にしたいのか、私が直接あるいは間接的に関与するものに対する価値意識である。それは単に今どのような価値意識をいだいているかということだけを意味しない。私自身のこれまでのいき方の中で見出される一貫性あるいは連続性でもある。そしてさらに私自身が他の人々とのどのような生きた人格的関係の中に位置づけられているのかということである。

価値意識とは私とその環境の関係、環境そのものの理解を、部分的には遺伝子の特殊性によって与えられ、あるいは生きた人格的な関係の特殊性の中で与えられた「個性」というものの土台の上でおこなってきて形成し持続してきたものである。この環境としての人や自然、社会や文化に対する理解を深めていくことが学ということに他ならない。それは単に知識を蓄積することではない。知識を深めても対象が理解できるとは限らない。知識とは部分的なものである。個別の知識をより体系的で全体的なものにしていくこと、それによって理解が進み価値意識をより包括的で鋭いものにすることができるのであり、結局それは、かけがえのない個性の創出になっていく。価値意識は個性の本質なのである。たとえある知識が真理であったとしても、私によって理解され私の価値意識の中に織り込まれていかない限り、すなわち、真理そのものが個性をもたない限り意味をなさないのである。

学んでいる私についての自己認識は、このような意味でダイナミックである。私というものの個性的な内容豊かになり鋭くなりつつある私を認識することが学ことにおける自己認識なのである。したがって学ぶという過程と目的は徹底的に個性的でなければならない。

私が学ぶということをこういうものとして理解している生徒であったとしたなら、学校というシステムに深い絶望を感じざるをえないだろう。しかし一般には、学ぶということが、普遍的な知識をより確実にえることであり、その評価も共通の基準によっておこなえると考えられている。だからこそ、学校というシステムの目標にある「成績のよい生徒」という形で、何らかの一般的な基準で測って高い評価を与えられる生徒を選抜できるのである。

学校というシステムの主体としての私は、成績のよい生徒という外部から与えられた基準に向かって努力する主体でなければならないのである。学校というシステムの中では私は「ある成績をとっている私」、「どの科目についてはどのような成績をとる私」なのである。それは、学校というシステムが与える私に対する評価であり、私にとっては外から与えられる私についての認識なのである。それが生徒自身の自己認識に転化する可能性は現代の日本社会の中では非常に高いといわざるをえない。

さらにこのような私についての認識は、小、中、高という学校システムの範囲に留まらない。すなわち、よい成績をとってよい大学にいって、よい会社にはいって豊かな生活をという完全に自己喪失の、しかも完全に無意味な人生の評価基準の盲信につながっていくのである。

このような学校というシステムの主体としての認識でしかないものを自己認識とする錯覚がもたらすものは何だろうか。その結果は、会社員の場合とほとんど同じである。会社というシステムの主体としてであることを自己認識として受け入れていた会社員は退社によって自己喪失におちいる。同様に、学校というシステムの主体としてであることを自己認識としていた青少年は、学校システムから解放されることによって自分を見失うことになる。もちろんこの場合も、程度の問題があらわれる。学校教育の中で、よい成績をとるための努力をする主体としての自分を相対的にみる余裕をもち、読書に十分な時間をつかい、社会や人間に対する見方を豊かにし、自分なりの価値意識を育てることができた青年は、学校システムの中で高い評価をえたとしても、システムとしての学校を離れることによって自分を見失うことはない。

システム化した学校は、生徒と生徒の間の関係にもゆがみをもたらす。生徒に対してシステムの目的が強要されることによって、学校の基準で測った「よい成績」をとれない生徒が学校との適応が難しくなる。学校のシステムから「落ちこぼれる」生徒が発生するのである。落ちこぼれるとは、学校についてゆけなくなるということであるが、それは学校での勉強の進行に自分の能力がついてゆけないということではなく、学校というシステムについてゆけないだけなのである。あるいは、学校というシステムが要求する特殊な能力を発揮できないだけであるといってもよい。人が本来もっているそれぞれの個性としての多様な能力全体の評価では決してない。

学校というシステムについてゆけている生徒は、学校というシステムの主体であることを自己認識とすることができるし、現状の学校教育の場合はそうなる可能性は高い。一方、それについていけない生徒は、自分が学校というシステムの主体あることを自覚すればするほど自己否定的にならざるをえなくなる。

このような結果として、生徒の間の相互の人間としての評価がそこの浅いモノクロの評価になってしまい、本来学校がもっていなければならない、人の多様な能力の相互の肯定による人格の尊重が失われてしまうのである。お互いがそれぞれ「変わり者である」ことの了解が失われ、変わり者の排除がおこなわれたりする。逆に排除されないために、自分の個性を殺してでもまわりと合わせる努力が必要になる。

3.3システム化した家庭と家族

私が一人の中年の会社員であると考えれば、私の日常世界は会社と家庭という二つの場にわかれている。会社という場で私の自己認識に問題があろうとなかろうと、家庭に帰れば私はそこに絶対的な安らぎの場を求めることができる。家庭はその自然のあり方としては相互の愛情によって結びつけられた共同生活の場であり、メンバーのそれぞれの自己認識に対して条件のない是認があたえられ、お互いをよりよく理解することがコミュニケーションの目的となる。この最後の意味で、自己認識と他のメンバーの私に関する認識は融け合いやすく、外的な認識を自己認識にすることに無理が少ない。生きた人格のネットワークによって家族という集団が維持されているのである。

家庭は流動的な結合体であり、たとえば子供の成長や夫婦の老いとともに色合いを変え、固定した硬い構造のないアメーバーのように生き続ける組織である。それが家族の基本的な生態である。しかし、家庭もまた必要に応じてシステム化する。あるいは必要以上にシステム化する。

家庭がシステム化するのは、家族全体の目的が成立するときである。身近なこととしては、たとえば大掃除のために全員が協力しなければならないとき、キャンプなどに出かけていって全員で食事の準備をするとか、家族に病人が出たとき、引越しの荷作りなどで全員が協力し合うとき、に家庭が一つの疑似的ではあるが一つのシステムとなる。それぞれのメンバーが個人の利害を超えて全体の目的のための一つの主体とならなければならなくなるのである。そして、このようなシステム化は家族関係をより豊かにするものである場合が多いのではないだろうか。あるいは、家族が協力し合って必要な困難を乗り越えるというのは、家族関係にとって不可欠な経験であるといってもよいかも知れない。

家族関係を豊かにするような一時的なシステム化は、家族相互のそれぞれの個性の認識を進展させるものでもある。それは、家族関係が無条件の生きた人格の関係でなければならない点からいえば、大切な機能である。私についての他の家族の認識が、私自身の自己認識の全体を正しくをとらえていなくても、必要な部分についてはかなり正しい理解を示していることが求められるのである。このように相互に理解し合うことは、人格的な相互の従属関係を深めるものでは必ずしもない。逆に、家庭という密着した共同生活の場にある家族においては、相互の人格的自立性の尊重のためには、合いての個性に対する理解が必要不可欠である。夫婦の関係においてはもちろんだが、親子という関係においても、相互の理解が、子供の人格的自立性を尊重させる上でも必要条件になるのである。ただ、それは十分条件ではないかもしれない。理解し合った上での、人格的従属関係が家族のなかで発生するかもしれない。ただ、多くの場合は、おそらく相手をわかっているかのような錯覚において、相手を人格的な隷属のなかにおくというのではなかろうか。

家族関係を豊かにするのとは逆に、家族の相互の人格的な関係をゆがめ、それぞれの個性の認識と人格手自立性の承認を阻害するような形での家族のシステム化があらわれる可能性もみておく必要がある。

たとえば、子供が育つ場としての家庭を考えてみよう。「子供を育てる」ことが家庭の全体としての目的として成立すれば家庭は一つのシステムとなりえる。そのシステムの主体としての役割が家族の一人一人に与えられる。父親は父親としての役割、母親は母親として役割、子供もまた子供としての役割を果たさなければならなくなる。ただこれだけでは、家族一般の関係を単に読みかえているにすぎないといえる。あるいは、どの家族にも潜在的にかかえているシステムといってもよい。しかし、この子供を育てるということが、家族の間で醗酵させられたものではなく、何らかの社会的に意味づけられた基準での「望ましい」子供に育てるという強い意味をもたせられると、システムが顕在化するようになる。

そうなると、子供はまずシステムの主体としての属性を引きずらなければならなくなる。父親も母親もまたそうである。生きた人格であることとシステムの主体であることの二重化が引きおこされるのである。「よりよい成績をとってより優秀な大学に入学する」ことが「望ましい」ことの内容だとしたら、個人の人格にともなう多様な個性と能力には直接関係のない目的となる。それは、あるシステムの特殊な主体となることのための目的であって、どのような人間として育つのかということが、どのようなシステムの主体となるのかという個性を失った主体への到達が目的となるのである。また、このようにシステム化した家庭はシステム化した学校さらには会社というシステムに連結していることが容易に理解できるだろう。

家庭がこのような形でシステム化すれば家族間の生きた人格の直接的な関係性は希薄にならざるをえない。それは、家庭が、自然のあり方としての家族にとっての絶対的な安らぎの場としての意味を失うことに他ならない。

4.システムと自由

一般に、自由に対する憧れは、潜在的には誰もがもっていると考えられるのではないだろうか。

もちろん、自由といってもいろいろなものがありうる。行動の自由もあれば、職業選択の自由、思想の自由、もっと細かいたとえば筆の動きが自由であるとか、いろいろなレベルで、いろいろな領域において自由は語りうる。ここで問題にしたいのは、人の人格全体にかかわる自由である。たとえば、「奴隷に自由はない」という場合の自由は、その奴隷という属性を帰属させられた人間の肉体と精神の全体についての自由の問題である。ただ、制度の裏付けられた奴隷というのは存在しないことになっているので、このような完全な人格全体にかかわる自由を問題にしようとしているのではない。しかし、それでも先にあげた部分的な自由問題ではなく、人格の広い範囲にかかわる自由を問題にしようとしていることは了解しておいていただきたい。

誰もが自由に憧れるといっても、その切実さには大きな違いがあるはずである。日々の生活のなかで、もっと自由な生活をしたい、もっと自由な生き方をしたいと考えることは誰にもありえるが、ある人にとっては何気なく頭の隅をかすめるだけの問題であっても、別の人にとっては自分の生活を拘束しているものをふりはらうことを現実に考える程のものであるかもしれない。

なぜこのような違いが生じるかを考えてみる必要がある。一面それは、その人の生活を拘束するものの強さをあらわしている。拘束が強ければ強い程、自由に対する憧れも強くなるというのは一つの自然な考え方ではある。しかしもう一面で、主体の側の問題もあることに注目する必要がある。環境がよく似た二人であっても、自由に対する憧れの強さが著しく違う場合もある。同じ会社に勤め、同じレベルのコースをあゆみ、同じような家庭環境をもっているにもかかわらず、一方は生活全体に強い不自由を感じ、会社を辞めるということはなくても仕事を喜びとすることはないが、もう一方では仕事にのめり込み自分の状態が自由であるとか、不自由であるとかについて思いめぐらすことはないということはよくあることである。明らかにその違いはそれぞれの個性にかかわるものである。

システムのなかで生きている人間にとって、あるいはシステムのなかで生きることを余儀なくされている人間にとって、自由に対する切実さは自己認識と強い関連性をもっている。すなわち、自己認識がシステムの主体としての認識から開放されていればいるほど自由に対する要求は切実なものとなることができる。ただ、このような自己認識にある人は必ず自由を切実に求めるというわけではない。システムの主体としての自己を自己認識と錯覚することなく、自分の個性の上に明確な自己認識を形成する能力をもっている人間が必ず自由に対する切実な要求者であるとは限らないということである。たとえば、会社に勤めながらそれによる必要な拘束は受け入れて、それでもそれとは自立して豊かな個性に裏付けられた自己認識をもっている人は多数ではないかも知れないが確実にいるからである。この点は、システムと人格的な自由との関係についてのより詳細な分析のなかで明らかにしよう。

まず、システムに拘束されて生きることは、そうでない状態よりも不自由であるということは一般にいえるだろう。したがって、自由であるためには自分を不必要なシステムのなかにおかないことが大切であることはいうまでもない。もっとも身近には、家庭をシステム化することがないようにすることが、より自由であるためにも必要なことである。家庭をシステム化しないということは、家族の関係を生きた人格どうしの関係として維持するということである。家庭にとどまらず、地域やサークルやあるいは学校でも、私達は知らず知らずのうちに必ずしも必要とはいえないようなシステムまで作り上げることがある。システムを必要最小限とどめるというのは、自由のための確実な一歩なのである。

現代は無数のシステムがさまざまなレベルで社会のシステムを覆っている、そういう意味ではシステムの時代なのである。個人がシステムから完全に逃れることは不可能である。私達が生活を維持するためにはシステムの一主体となることは不可避的に要求されるのである。会社はほとんどの場合システムであるが、会社に勤める以外にはっきりとした所得の源泉がなければ、このシステムの加わることは避けられない。たとえ会社から逃れることはできても、この社会を全体として形成している経済というシステムから逃れることは更に困難となる。すなわち、この経済システムにとっての消費者という主体から逃れることはひどく困難であろう。

したがって、自由をシステムの主体であることの否定としてとらえる限り私達は現代において自由にはなりえない。システムの主体でありながら、自己の人格としての自由さを確認できる、あるいは実感することは可能かという問を発する必要がある。そして、この問に対しては肯定的に答えることができると私は考えている。

すなわち、システム化された現代社会において、システムから自由であると言うことは、システムの主体であることを自己認識から完全に排除することそのものだといえるのである。たとえば、会社というシステムのなかで、


《この章未完》