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目次
  第1章 定常循環系の理論
   1.1節 成長系から定常系へ
    1.1.1 社会的富と経済成長
    1.1.2 幾何級数的成長への圧力
    1.1.3 動態モデルと成長指向
    1.1.4 持続可能性と経済成長
    1.1.5 剰余としての貯蓄と非成長的投資
    1.1.6 定常系としての経済

第 1 章 定常循環系の理論   (目次へ
地球上のいたるところで自然環境が悪化し、森林などの生態系が破壊されている。もう一方で、再生することが不可能なエネルギー資源が、人間の目先の利便性の確保のために大量に使用されている。それは環境を破壊するとともに、資源の枯渇を目前のものにしてしまった。これらの問題群は、それぞれ解決の必要が迫られているものであり、個別の対策が検討されてはいる。しかし、現在の人間の存在を過去と未来の歴史の中に相対化し、また地球という複雑な生態系の中に相対化することができる者には、これらの問題群が人間自身の生活しているグローバルシステムの欠陥によって生じていることが痛感されるに違いない。われわれには一つの代替システムが求められているのである。

本章では、定常循環系という新しいシステムを提起する。このシステムは、定常性と循環性という二つの評価軸を持ったシステムである。代替システムの提示は、人類の持続的存続の可能性を奪うものとしての成長系を否定し、また、資源を取り入れて廃棄するという一方通行系に対して、地球的生態系との整合性の回復をめざす物質循環系を実現するという課題にこたえようとするものである。

1.1 節 成長系から定常系へ   (目次へ
 
1.1.1 社会的富と経済成長   (目次へ


経済とはマクロ的な目的を持った一つのシステムである。一般に市場経済においては、経済主体がそれぞれ目的を持って行動すること、すなわち、ミクロ的な目的を持っていることは確かな事実として認められているが、マクロ的な目的について一致した了解はない。しかし、一つの経済圏の中にある発達した市場経済のもとでマクロ的な目的が重要な機能を果たしていることは否定しがたい。それは、国民総生産、あるいは国民所得といわれている概念の社会目的的な機能に象徴的にあらわれている。個々の企業は、自己の生み出す付加価値の量については深い関心を持ち、その増大を目的として掲げたとしても、実現した付加価値の総計としての国民総生産の増大を直接目標に掲げたりはしない。また、いくら経済学者に企業の設備投資の増大は社会の有効需要を増大させ結果的に企業の生産物に対する需要を増やすことになるといわれても、その目的のために不況下で積極的な投資行動に出たりはしない。それでも、国民所得を増大させようという動機が社会的に働いていることは、集計された政治組織、経済組織で日々観察できるのである。

また、マクロ的な目的の存在がミクロ的な目的に条件づけられていることは確かである。すなわち、市場経済の活動能力の基礎的要因は、個々の企業の利潤の最大化行動、個人の欲求充足活動にある。しかし、一つの経済圏において、ミクロ的な目的がマクロ的な目的を支配しているともいいがたい。個人と社会との関係にみられるように、存在を条件づけることが必ずしも支配を意味していないのである。逆にわれわれは、マクロ的な目的の変遷にミクロ的な目的が翻弄されているのを、より多く目撃するのである。

マクロ的な目的の認識は、経済学がこの目的に奉仕することを使命としていることを理解するための不可欠の前提である。経済学は、価値自由な方法論の集積にとどまるものでは決してない。したがって、同一の対象に関する理論の体系が目的に依存して変化するものを科学と呼ばないならば、経済学は科学ではない。いまでは、経済学は背後にある傾向あるいは目的を明示せず、あたかも科学であるかのように振舞うことが当然となってしまっている。しかし、近代の経済学の創始者たちはこの学問が目的を持ったものであることははっきり表明していた。なかでも、アダム・スミスの主張が最も重要である。スミスは、『諸国民の富』の中で「経済学は人民と主権者の双方を富ますことを目的にしている」(注1)と明快に述べている。そして、このスミス以来、経済学が掲げていた目的は社会的な富(wealth)の増大である。そして、この富とは、『諸国民の富』の中に繰り返しあらわれるように「実質的富、すなわち土地および労働の年々の生産物」であり、スミスの生産物概念をふまえれば、今日の国民所得概念に対応するものに他ならないのである。

経済学の目的依存性が問題にされてこなかったことには現実的背景がある。それは、明示的であれ暗黙的なものであれ掲げている目的が安定した社会的な支持を得ていたことである。しかし、現代はこれまで経済学が掲げていた目的が崩壊しつつある時代である。目的の崩壊は、伝統的富概念の権威の失墜であり、また、富が人々の豊かさの評価基準であることをふまえれば、豊かさに対する確信の喪失でもある。

もちろん、この議論は今日の発達した市場経済圏に関するものであるという限定が必要である。人間の生活に必要な基本的な衣食住が満たされていない状況で、スミス的な富の増大を放棄することは無意味である。大域的視野にたてば、世界人口の急速の増大とともに食糧によって必要なエネルギーの一部しか確保できない貧困層は確実に増大するであろうし、貧困はまた人口増への決定的な契機となる(注2)。これらの問題の中にある人々あるいは国家にとって伝統的な富の増大は至上の要請になる。そして、人口増に対応する薪エネルギー獲得、農業の拡大、外貨獲得などを目的にした森林破壊、資源の過剰搾取など、貧困と人口増がもたらす地球的生命維持システムへの破壊的な影響を考えれば、当該国だけの問題ではなく、先進国も含めたすべての経済圏の問題になることは明かである。しかし、その場合でも、発達した経済圏がいかなるマクロ的な目的のもとに動機づけられているかは重要な問題である。エネルギー使用のバランス、地球環境への大域的な圧力、多様な形態の国際的援助の可能性などをみても、発達した経済圏において従来の富概念がそのまま有効であるような経済を維持するのか否かは低開発国における貧困と環境破壊の解消と密接な関係を持っているのである。

経済成長とは社会的な富の増大を意味している。したがって、富の内容が変わるようなことがあれば、経済成長もまた違った尺度で測られることになる。たとえば、社会的な富を社会が享受しえる自由な時間でとらえて、一定の社会的な必要を満たすために投入すべき労働を少なくすることを目的にしたような経済があるとするならば、そのような経済は経済成長を社会的な自由時間の増大で測ることになろう(注3)。実際そのような経済圏は過去にあったであろうし、未来に存在しないとは限らない。しかし、近代においてはこのようにして経済成長をとらえることはありえなかった。経済成長は基本的にスミス的な富の増大、国民所得の増大で測られてきたのである。

経済成長という目的あるいは合言葉は発達した経済社会の隅々にまで浸透し、集計的な経済組織、政治組織の偶像としての位置をしっかり確保してきた。それではなぜ、今日に至ってこの位置がぐらついているのか、という問題が存在する。その基本的な理由として、二つのものをあげることができる。第一は、発達した経済圏において経済的豊かさ、すなわちスミスの社会的な富の高い水準が実際に確保されてきたことである。目的がはめ込まれたシステムは目的の実現とともに崩壊を開始する。目的は常に自分を否定するための役割を負わされるのである。第二は、経済成長の結果、人間の経済的能力が現実に地球という絶対的な限界をとらえるまでに巨大化したことである。前者が経済成長の陽の側面をあらわすとすれば、後者は深刻な陰の部分を代表している。そしてわれわれが、経済成長という社会的な目的がはめ込まれた経済の変更を体系的に考慮することを余儀なくされているのも、主に後者の問題からである。

しかし、社会という単位においても、慣性力は甚だしく大きい。目的は常に個人的なものであれ社会的、共同的なものであれ観念的世界に成立する。しかし、目的はまた人的あるいは物質的に組織化され、一つのシステムを形成する。それが、巨大な慣性力を生み出すのである。一般に、発達した経済圏における経済成長という社会目的の変更は、まともな考慮に値しないくらいに無視されてきた。そうした認識を生み出してきたものには、経済成長がまだ十分満たされていない欲望の充足にとって必要であるという、ある意味で直接的な議論と、もう一つ、経済成長はそれ無しに現在の経済が崩壊するような不可欠の機能になっている、という経済成長の内在的なシステム維持機能を強調する議論とが存在する。これらの点について分析および評価を加えることは、われわれがまず取り組まなければならない課題である。

1.1.2 幾何級数的成長への圧力   (目次へ

経済成長の機能を把握する上で、ローマクラブの「成長の限界(The Limits to Growth)」と題する報告は議論の効果的な契機を与えてくれる(注4)。この報告が発表された1972年は先進資本主義国の経済は高度成長の一つの極相(climax)の状況にあった。その中で刊行されたこの報告書は、結論と方法について深刻な議論を引き起こした(注5)。しかし、今日から振り返れば、それらの議論によって、報告書の中に示されている「均衡状態の世界」にむけて必要な、国家単位での決然とした努力が開始された形跡はほとんどない。それにも関わらず、現在に至るまで人間の活動と、生存のあり方、あるいはその持続可能性について疑問を提起する多くの書の中で、この報告書は引用されそれらの議論を基礎づける材料となってきた。この報告書は決して死んではいないのである。

報告書の結論は次の文章に集約されている。

「本章で示したすべてのモデルの計算の暗黙の前提として、人口と資本は、ある『自然』限界に達するまでは成長を続けることが許されるべきであることを仮定している。この前提は、現実の世界で一般に通用している人間の価値システムの基本的な部分であるようにも考えられる。この価値観をモデルに取り入れる限り、その結果として、成長するシステムがその限界をこえてしまい、破局に陥ることになる。技術進歩を導入して成長に対するある制約を解除し、ある危機を避けるに成功したとしても、システムはもう一つの限界に向かって成長を続け、ついには一時的にそれをこえた後、下降の道をたどるのにすぎない。このように、人口と資本の成長を意識的に制限するべきではなく、自由に『行き着くところまで』成長させるべきであるという最初の仮定をとる限り、破局的な行動様式を回避する一組の政策を見つけだすことは不可能であった」(注6

すなわち、人口と資本に関して自由な成長を許容することは、結果として破局にいたるということである。この破局を回避するためには人口と資本の成長に関する直接的な規制が不可避であることを主張しているわけである。こうした結論を導き出した具体的な方法は、システムダイナミクスによる世界モデルのシミュレーションである。しかしそれはあくまでも表面的なものであって、このモデルあるいは方法の基礎にあり、全体の運動を規定しているのは「幾何級数的成長」という概念である。幾何級数的成長は、指数的成長とも言われ変化率が変化の基準になった成長であり、これに対して増大量が基準になった成長を報告では線形的成長と呼んでいる。報告は次のように指摘する。

 「本質的な問題は、有限で複雑なシステムにおける幾何級数的成長なのである」(注7

報告は、この幾何級数的成長が持っている威力を十分に解説している。われわれはモデルの詳細を知ることはできないが、世界モデルの中に、成長の幾何級数的進行がはめ込まれていることは間違いない。そして、この幾何級数的成長の圧力が、技術進歩、あるいは資源制約の緩和などの方策をもってしても、システムを破局に導くガンとなっているのである。報告書の成功はこの幾何級数的成長をしっかりと中心問題としておさえたところにある。これに比べると、システマティックなアプローチ、あるいはコンピュータシミュレーションなどの方法は成功の副次的な要素でしかないといえよう。

報告が指摘するように、幾何級数的成長の継続が人類に対して破局しか約束をしないとするならば、われわれの経済が現在も継続させているこの幾何級数的成長はどのような基礎を有しているのか、あるいはそれから開放される可能性は存在するのかが問われなければならない。もし幾何級数的成長が、確かな現実的基礎を持たないならば、われわれはあたかも所得税の税率を変えるように、わずかの議論だけでこの幾何級数的成長という魔物を退治できるだろう。しかし、われわれはこの幾何級数的成長が簡単には追い払うことのできないものであることを漠然と感じている。経済は可能な限り大きな成長率で成長した方が望ましいと考えるか、そこまではいかなくてもある一定水準を大きくはずれない程度の成長率で、成長し続けるべきであると、多くの人が考えている。経済の規模がある一定量の追加で拡大するとき、すなわち、線形的な成長にある場合には、継続した成長率の低下が生じることになるが、成長率が傾向的低下を続けるというのは好ましくないと考えているのである。

経済が、幾何級数的成長を続けなければならないというとき、最も単純な根拠は人口増加率によって与えられる。人口は成長率の高低はあっても、人口に影響を与える社会的、文化的状況が不変ならば常に幾何級数的成長が基本になる。人口の増大は、その能力を持つものの増大に他ならないからである。人口の幾何級数的成長に、経済の線形的成長が対応すれば、特殊な場合を除けば一人当りの所得水準の増加率は低下し続ける、そして、経済の成長率が人口成長率を下回った段階から、一人当りの所得水準そのものが低下するようになる。さらに、経済の成長率が人口成長率を下回れば、経済が雇用できる水準を越えて労働が供給されることになり、失業者が増大する。こうした不均衡が、自動的に、社会がなんらの犠牲も払うことなく回復するメカニズムが資本主義経済の中に存在しないことは 200年にもわたる経験の中で明らかになっている。ケインズ的な有効需要創出政策が一定の状況のもとでは、回復のための処方箋として有効であることが明らかになり、またその背景となっている理論モデルは経済のマクロ的状況に対する分析ツールとして、有効需要政策の効果いかんにかかわらず重要な役割を果たしている。こうした外的な、非自律的な操作によってではあるが、人口成長率と経済成長率の間の不均衡の回復に対する社会的な努力がなされることは蓋然性が高いといえる。しかし、現実には人口成長率と経済成長率の間の不均衡がこのようにあらわれることは、少なくとも経済的先進国においてはありえなくなっている。なぜなら、それらの国においては現実の経済成長率に比べて人口成長率がはるかに低い水準になっているからである。

1.1.3 動態モデルと成長指向   (目次へ

幾何級数的成長を不可避のものとしている要因が、人口成長率の中にないとするならば、われわれは経済自体により内在したものとして探さなければならない。経済学の歴史の中で、この点に直接関連して重要なものにR.F.ハロッドが提示した経済の動学モデルに関する議論がある(注8)。そこには、企業の新規の投資が成長率、幾何級数的成長を基準として行なわれるのか、あるいは量的な水準、線形的成長を基準に行なわれるのかという点に関する議論そのものが存在している。もし企業の新規投資が一般的に成長率を基準として行なわれるならば、社会全体としての経済成長は幾何級数的なものになることは明かである。ハロッドの動学モデルは以下でみるように総需要が産出水準を規定するという点で、ケインズの提示した有効需要モデルの延長線上にあるものである。ハロッドは、ケインズの分析が基本的に静態的なものであるが、その中に正の貯蓄という「本質的に動態的な概念」を含んでいると指摘している。ハロッドは静学を、機能し活動しているが数量的な諸側面が変化しない、規模を変えないという点で「休止状態に関する」ものと定義し、これに対して産出量が変化している状態に関するものを動学と呼んでいる。正の貯蓄が動態的な概念であるのは、正の貯蓄を需要の側面からみた本質的な要素が企業によって行なわれる新規投資に他ならないからである。ケインズの経済学は、それ以前の経済学による貯蓄の機能の理解に本質的な変更を加えた。スミスに代表される古典派経済学は貯蓄の経済的効果に対して積極的な評価を与えていた。貯蓄の積極的な効果とは資本蓄積の基礎となることを意味している。それは、彼等の経済学の一つの重要な目的が経済の長期的な前進の可能性の分析にだったからである。これに対して、ケインズは貯蓄がもたらす短期的、一時的な効果に関する消極的な内容に重要な注意を払ったのである。すなわち、貯蓄は結局、社会の純生産物に対する消費以外の必要な需要の規模を規定し、貯蓄の増大はその必要な需要の規模の増大を意味し、もしそれが満たされないなら生産能力の不完全な稼働、不完全雇用をもたらすと、ケインズは警告したのである。古典派とケインズとの貯蓄に関するとらえ方の差異は両者の間にある現実経済の規模、あるいは能力の差異によるものである。ケインズは、経済の規模あるいは能力が、人々の基本的な消費能力をはるかに上回るくらいに増大していることを強く認識している(注9)。それは、「販路問題」に関するリカードとマルサスの論争におけるマルサスの立場と基本的に同じである(注10)。当時は、資本主義の長期的な発展の可能性を信頼する立場をとったリカードの理論が時代に適合的なものとなり、ケインズの時代にはケインズの理論が時代適合的なものになったのである。

ハロッドの基本モデルは以下のように定式化される。まず、議論の基礎的な概念として保証成長率Gwを導出する基本方程式が定式化される。このGwは、マクロ的な需給均衡と資本の完全稼働を前提にした経済成長率である。社会の純産出を、それに対する基本的な需要として消費Cと投資Iだけを考える。するとマクロ的な需給均衡は、

Y=C+I

となるが、これは貯蓄性向を一定のsとして、

sY=I    (E1)

と書き換えることもできる。また、ここでのYを前期の純生産水準として、前期から今期への純産出の増加分をΔYとしよう。Iは前期の投資水準である。いま純産出の増加分Δ Yが、前期から今期への資本の増加分ΔKに対して企業家、資本家にとって満足のいく、過不足のない水準で対応しているときに、ΔK/ΔYをCrと書くことにしよう。すると、(E1)および、Gw=ΔY/Yであり、資本の増加分は投資Iに等しいすなわちI=ΔKであるから、

Gw=ΔY/Y=(ΔY/ΔK)(ΔK/Y)=(1/Cr)(I/Y)=s/Cr

すなわち、

Cr Gw=s    (E2)

が、導出される。ここで、われわれの議論に不要な複雑さを回避するために、貯蓄性向は問題の時期を通して安定しているとし、またこのCrは最適限界資本係数といってよいものだが、これは正常稼働時には同時に最適平均資本係数でもあると仮定しよう。

企業家がどの水準の蓄積を行なうことが妥当かという点はさしあたって考慮の外におくと、毎期の資本係数がCrの水準にある限り、現存の資本の過不足感を感じていないということはわれわれのCrに関する仮定から必然的に帰結される。このような意味で、Gwは一種の基準的経済成長率となる。ハロッドの動学モデルが最も注目されたのは現実の成長率がこの保証成長率から乖離したときに、その乖離がより深刻になる方向に経済は進行していくという鋭い不安定性を示すということである。いま現実の成長率をGとして、それに対応した資本係数をCとしよう。GがGwと必ずしも一致していないということは、事後的な需給均衡を前提とする限りCがCrに必ずしも一致していないことをあらわし、企業家からみると現存の企業の稼働状態が正常稼働から乖離している可能性をあらわすことになる。GとCの間には次の関係が成立することは、先と同様の議論によってたしかめられるだろう。

C G=s    (E3)

ハロッドは不安定性を次のように議論する。すなわち、いま、G>Gwならば(E2)、(E3)から明らかにC<Crである。この状態では、資本の稼働率が正常水準より高く、企業家は資本不足を感じていることになる。したがって、より投資需要を増大させる。そしてさらには、有効需要を増大させ、結果的に純生産の増大をもたらし、Gがより増大することになりGwからの乖離はより大きなものになる、というのがハロッド不安定性に関する議論であった。

ここで、幾何級数的成長の現実的要因という、われわれの問題に関する議論をとり上げよう。それは、ハロッドの保証成長率の理解の仕方に関するものである。ハロッドは保証成長率を「この率の発展が実際に行なわれたとすれば、企業家の心は同様の発展を遂行してみようとする気持ちになる」もの、あるいは「その状態に満足して自己の永続を願うような進歩の率」ととらえた。これに対して、S.S.アレキサンダーは次のような疑問を提示した。

「それは、もし、前期から今期にかけての産出の増大が適正なものであるならば、新たな決定もまた同じ成長率で次期も継続されるということを意味する。これは実際はそうでもないのだが、そうであると仮定しているハロッド氏のモデルにとっては重要なものなのである」(注11

すなわち、ハロッドの保証成長率は、経済がこの成長率で成長しているならば企業家は資本の稼働状況から現在の状態に満足しているのだが、にもかかわらず毎期この企業家は一定の率で新規の投資量を増大させている、こうした状況は現実には考えにくいと批判しているわけである。いま、経済が保証成長率で成長しているとすると、純産出がこの率で成長している。Gw=ΔY/Yであるが、需要が産出量を規定するこのモデルで、貯蓄率が変わらないもとでは、これは(E1)よりGw=ΔI/Iを意味する。投資も保証成長率と同じ率で増大しているのである。アレキサンダーの批判は、ハロッドのこの想定がきわめて限定されたものであるということである。すなわち、現実には現在の設備の稼働状態に満足している企業家は、追加的な投資を行なわないかも知れないし、成長率の維持ではなく前期の投資の絶対水準を維持するかも知れないし、投資率を維持するかも知れない、さらにはより楽観的に投資率を増大させるかも知れない。ハロッドの想定はこの中の一つを特に意味あるものとして選択しているという点できわめて限定された議論であると指摘したのである。

アレキサンダーはハロッドの特殊な投資関数を次のように明確に定式化している。すなわち、

U = CrΔ Y - sY    (E4)

のもとで、

Δ G = Δ (ΔI/I) = F(U)    (E5)

を、ハロッドの考えている企業の投資関数として、明示的に定式化したのである。ここでは、先と同様にYを前期の純生産水準、ΔYを前期から今期にかけての産出の増加水準とする。このとき(E4)式の意味は、CrΔ Yが前期から今期にかけての現実の産出水準の増加に対して、設備を正常稼働水準で対応するために必要とされた前期の投資の水準であり、sYというのは実際に行なわれた投資である。したがって、(E4)は限界的なものではあるが、この値が正のときには企業家は資本不足を感じ、負の場合には資本過剰を感じていることをあらわしている。もちろんゼロのときは正常稼働水準である。Fは dF/dU > 0 で、F(0)=0であるような関数である。したがって、(E5)の投資関数は、資本不足のときには、投資率ΔI/Iを増加させ、それは結局乗数過程を通して純産出の増加率をΔGだけ増加させることになる。

結果的にハロッドはアレキサンダーの批判を受け入れているが、われわれの幾何級数的成長の現実的要因を探るという目的に添って、両者の議論を簡単に整理してみよう。ハロッドのモデル定式化にあらわれているのは、企業家の積極的姿勢は投資率の増大、すなわちそれはまた成長率の増大にあらわれると考えた。そして逆に消極的姿勢は投資率、成長率の低下にあらわれ、特別積極的でも消極的でもないならばある一定の成長率すなわちハロッドの保証成長率を維持するようにかれの投資率を維持すると考えたのである。もしこのハロッドの議論が正当ならば、われわれはこの議論の中に、経済の幾何級数的成長の現実的動因をとらえることができる。すなわち、企業が一般的には、正常な状態においてある技術的、経済的状況から規定される一定の成長率を基準にするということは、その成長率が幾何級数的成長の基準ということができることは自明である。

ハロッドのこの議論は、すでに述べたようにアレキサンダーの批判にさらされ、ハロッドもその批判を基本的に受け入れた(注12)。したがって、ハロッド自身によって主張の積極的な根拠を示されることはなかった。しかし、われわれはここで、ハロッドの議論のいかなる点が有効で、いかなる点が批判されたのかをもっと正確に把握しなければならない。ハロッドの議論において、まず、Crを企業家にとって正常な資本係数としているが、こうした資本係数が存在すること自体はもちろん否定されていない。したがって、保証成長率を与える(E2)式そのものの有効性はなんら否定されない。問題はその解釈である。ハロッドはこの式によって与えられる保証成長率を、経済がこの成長率で成長している限り、企業家はこの状況に満足しこれまでの状態を継続する(一定の投資率で投資を続ける)ものであると定義した。批判されたのは、企業家がこの投資率で投資を続けるという点である。

ただし、この点が批判されハロッド自身もそれを受け入れたとしても、それがただちに議論の誤りを意味するわけでもない。今日に至るまでの、資本主義経済の歴史のなかで、成長指向が経済のマクロ的な目的として一貫して機能してきたことによって、人々は成長そのものを基準にして結果を評価するようになってきたのは確かな事実である。そして、企業が成長に対して満足していると考える場合、それは投資量の水準を維持しようとするより、成長率そのものを維持しようという行動に出ることは決して特殊な想定ではない。逆に、ある正常な状態のもとで一定の投資量を継続することによって、成長率を落としていくことの方が特殊であるとも十分に考えられるのである。

また、たとえ(E2)に対するハロッド的な解釈を放棄したとしても、この式そのものは有効でありしたがって他の解釈を可能にする。確かなことは、われわれの前提のもとでは貯蓄率がある与えられた正の水準にある限り、設備の正常稼働を続けるためには経済はこの保証成長率の水準で成長しなければならないということである。すなわち、企業が一般的にこのGwよりも低いΔ I / Iで投資を続けていたら、必ずそれは現実のCがCrを上回り、企業は余剰設備に悩まされ続けることになる。この事実は、経済をより保証成長率に近い状態へ導く社会的動機を生じさせる。ケインズ的な有効需要政策は、不足している投資の成長率を公的な有効需要の創出によって補うという方法である。したがって、保証成長率よりも現実成長率が低いことによって、社会的な問題が引き起こされるという事実そのものが、持続的な幾何級数的成長の基礎となるのである(注13)。

正の貯蓄を各期間、継続的に行なうという経済主体の行為は、特殊なものではなく、日常的にありふれた行為である(注14)。そして、少なくとも今日の経済の現実のもとでは、そのありふれた行為のマクロ的な効果は、経済を幾何級数的成長という破局へのシナリオにしがみつかせることになるのである。ただし、次の点は忘れてはならない。それは、貯蓄が成長に結びつくことは貯蓄を生産能力増大のための投資以外に用いられないとわれわれが想定していることの帰結だということである(注15)。

1.1.4 持続可能性と経済成長   (目次へ

成長をマクロ的な動機としたような経済が、その物理的限界に近づいていることは、経済が持続可能性(sustainability)を喪失してきていることを意味している。この持続可能性の喪失とは、成長そのものが維持できなくなるという可能性ばかりでなく、経済の規模あるいは富の水準そのものが維持できなくなる、すなわち継続的な負の成長の時期があらわれる可能性も含んでいる。こうした、経済が持続可能であるか持続不可能であるのかという問題は、経済学のこれまでの歴史の中で本格的にとり上げられたことはなかった問題である。経済学はこれまで、社会的富の増大を目的にして、それに直接、間接に関わるような問題だけをとり上げていた。確かに、経済が持続可能か否かはこの富の問題に関係している。しかし、あくまでも経済学は富を「増大」させるという方向を持っていたのである。持続可能性の喪失、あるいはその回復は、まったくこれとは方向の異なった問題である。われわれはここで、持続可能性に関わる今日的問題の状況を概観し、その中に経済成長がどう関連しているのかをとらえておこう(注16)。

持続可能性問題とは、現在の世代の生存のあり方が将来の世代の生存を危機に陥れるという問題である。あるいはまた、グローバルな生態系としての地球が、環境と資源について人類の生存を支えきれなくなってきているという問題である。今日の経済活動は、自然からさまざまな利用可能な資源を獲得し利用不可能になった資源を自然に排出することによって行なわれてきた。このようにとらえるだけでは、人間の経済活動は他のあらゆる生命の長期的な生存のための活動とまったく同じである。人間の経済活動が長期的な持続可能性を喪失しつつあるのは、資源の消費(すなわち有用な資源を利用不可能なものに変える過程)と資源の再生の均衡、環境の同化能力の消費とその再生(廃棄物を物質循環の自然な要素に変換する過程)の均衡という二つの物質循環の均衡を破壊しながら活動していること、しかもその経済活動が、地球という自然の絶対的限界に対して有意な規模にまで巨大化してしまっていることによるのである。

資源の消費と再生の均衡について考えてみよう。経済は、資源をエネルギーとして、素材として、あるいは過渡的媒介物、触媒として利用する、すなわち消費する。資源の中には、たとえば木材のような一定の条件さえ整えば再生可能な資源と、石油・石炭などの人間の展望しえる時間的な視野のなかでは再生不可能な資源がある。再生可能な資源も、ある一定以上の早さで消費されれば明らかに再生不可能になる。したがって、資源の消費と再生の均衡においては、少なくとも再生可能な資源の消費は再生不可能にならない水準におさえられなければならない。更新可能な資源の再生能力は、人間の意識的な取り組みによってある程度上昇させることができるだろうが、絶対的限界にすぐに突き当たってしまうだろう。たとえば、木材を考えてみればよい。植林技術の発達が必要木材の再生効率を上昇させることはできるう。しかしそれは、空間としての土地と土壌としての土地の限界にすぐに突き当たってしまう。水もまた、資源であるが地下水を汲み上げたり川の流れを変えることによって、わずかの効率を上昇させることはできるが、そもそも国土を流れる水量が少ないところでは、利用可能量の増加に関する上限の制約はきわめて大きい。

再生不可能な資源(枯渇性の資源)については、検討すべきいくつかの重要な問題がある。その第一は、資源の消費と再生の均衡はここの資源について成立しなければならないか、それとも資源それぞれの領域で成立すればよいのかという問題がある。たとえばエネルギー資源としての石油は明らかに再生不可能であるが、その消費量と同じ量だけ再生可能なエネルギーを増大させればよいか、という問題である。エネルギー源としての資源の領域では消費と再生の均衡を成立させることが可能である。しかし、これは奇妙な議論である。完全に代替可能なのであれば、初めから再生可能な資源を用いればよい。多くの場合、再生可能な資源の間、あるいは再生不可能な資源の間での代替可能性は高くても、再生可能な資源と再生可能な資源の間の代替可能性は低いのである。第二に、資源リサイクルとの関係がある。資源をリサイクルさせることによって再生不可能な資源の追加的な投入を、そうしない場合よりも低くおさえることができる。しかし、すでに経済系に投入されてしまっている再生不可能な資源については、資源の消費と再生の均衡からはずれたところに存在していることになる。したがって、その投下済み資源が存在する限り均衡は達成されない。また、資源が経済系の中に新たに投入されることとリサイクルそのものとは矛盾しない。したがって、われわれは資源の均衡を再生不可能な資源が経済のなかを循環している量については控除して考えることが妥当である。そして、この循環している量については、ある妥当な量が人間自身によって定められ、その量に到達した後は、回避不可能な形で散逸する量だけに投入はおさえられるべきである(注17)。

次に、環境の同化能力の消費と再生の均衡について考える(注18)。ここでの環境とはただ人間の活動の外側にじっととどまっている環境ではなく、人間活動の廃棄物(廃熱も含む)を受け入れながら、もともとの自然のあった状態であり続けようとする意味での、生きた環境である。したがって、その主要な構成要素は様々な生物種の相互依存関係と外的自然の間の物質的交換によって構成されている生態系である。そして、環境の同化能力の消費とは環境に対する廃棄物の排出に他ならない。人間の廃棄物の中にも資源と同様に、環境にとって再生可能な廃棄物すなわち同化可能な廃棄物と同化不能な廃棄物すなわち自然に存在するような形に分解することが自然の力では不可能な廃棄物が存在する。

同化可能な廃棄物の場合、環境の同化能力と均衡するためには一定の限界を越えない量の排出にとどめなければならない。そして、同化不能な廃棄物の排出は回避されなければならない。この同化不能である廃棄物はそのほとんどが再生不可能な資源から生成される。したがって、再生不可能な資源に関して述べた、リサイクルによる規模を変えない定常均衡と不可避的な資源散逸による同化能力の消費にとどめておかなければならない、という命題がそのまま有効である(注19)。

こうした持続可能性の必要条件としての、資源と同化能力に関する消費と再生の均衡は経済成長がどのようなものであることを要求するだろうか。それについては、われわれはまず、資源と同化能力の均衡がまったく定常的なもの、すなわち規模を不変にしたままの均衡であることを理解しなければならない。したがって、資源と同化能力の均衡のもとで持続可能な経済であるためには、多少の撹乱はあったとしても自然に対しては定常的なものでなければならないということである。われわれは、これまで成長してきたという過去を否定することはできない。また、成長が先進国にもたらしているものは消極的なものが多いなどと断ずることはできない。重要なことは、成長することが回避できない内的な傾向として存在し続けるような経済のあり方は変更されなければならないということである。成長が許容されるのは、ある一定の段階において量的な増大という要素をなくすこと、すなわち、資源と同化能力の均衡と両立するような形で経済それ自身が定常的に均衡するような三つどもえの均衡になることをみずから選択するという前提においてのみである(注20)。

これが持続可能性からみた経済成長のあり方に関する結論であるが、われわれはまた、現在の世代の必要の充足という課題からも経済成長をみなければならない。

豊かな先進国と低開発国との格差が、一人当りの所得で数十倍の差がついているという事実(注21)、一方でかつてない物的な豊かさを享受している国々があるなかで、貧困と飢餓にあえぐ多くの国々が存在しているという事実は、今日重要な地球規模のグローバルな問題になってきている。すなわち、単に低開発国をどうするのかという問題ではなく、低開発国と先進国の関係のあり方、さらには先進国自身の経済のあり方も含めた一般的な問題になってきているのである。それは、低開発国も先進国も同じ地球というわれわれの存在を支えるシステムの上に存在していることを認識せざるをえなくなってきていることによるものである。

大域的問題としての必要の充足は非常に複雑な状況にある。低開発国は深刻な貧困の中にあり、貧困が人口増加圧力を生み出し、増大する人口のために燃料としての樹木の過剰伐採、土壌の過剰耕作、さらには伝統的なシステムをこえた焼畑農業、それらは森林の減少、砂漠化、など地球規模での影響を引き起こす問題となってくる。資源と環境をめぐる不均衡の累積はすでに先進国の経済活動だけで十分地球規模の問題となってきているにもかかわらず、低開発国で現実の課題となっているのは、先進国が資源と環境に対する圧力をバネに行なってきた経済成長なのである。もし先進国における資源と環境の消費の劇的な削減が行われないままに、低開発国が現在の先進国と同様に資源と環境の消費を行なうならば、地球の生命支持システムは不可逆的で決定的な破壊を受けることになる。

また、先進国と低開発国では、一次産品を低開発国が輸出し、先進国から工業品を輸入するという貿易をめぐる分業が存在し、経済的に無視し難い結びつきが生じている。低開発国が経済発展を遂げる良好な環境をつくりだすためには、先進国が一次産品需要を増大させなければならない。それは、先進国における経済成長を持続させなければならないことを意味する。

こうした問題状況の外観の中に、すでに経済成長という問題がはっきりと位置を占めていることが分かる。低開発国は、先進国が豊かさをかち取るためにそうであったように経済成長を不可欠の課題として位置づけている。先進国は、すでに述べたような持続可能性の問題では、成長という足かせを一国も早くはずさなければならないくらいに発展を遂げているにも関わらず、先進国の十分な成長がなければ低開発国は成長を遂げるために必要な資金を獲得できない(注22)。最後の点は明らかに持続可能性についての考察からでてきた結論を矛盾する。単に矛盾が存在するというだけではなく、持続可能性と必要の充足に関する一つ一つの問題が、グローバルであり深刻であり、そして複雑であるという点で、全般的な解決の青写真を提示することは、少なくとも現在の段階で不可能である。しかし、われわれは問題解決の基本的な方向をどのように定めるかを真剣に模索しなければならない。

1.1.5 剰余としての貯蓄と非成長的投資   (目次へ

前節で議論した成長をめぐる現代的状況は、われわれのマクロ経済の構造の変更を迫っている。低開発国の一次産品を購入するための成長というのでは余りに犠牲が大きすぎる。もちろんわれわれは低開発国の必要を無視して先進国だけの状況を考慮して対応してはならない。われわれが目的とするところは、先進国の対策がまた低開発国への手段を提供にするような構造である。そのためにさしあたってわれわれはまず、先進国が内部的な成長動機という圧力からどのように逃れることができるのか、どのような方向の構造的な変革が必要なのかを検討しなければならない。

内部的な成長圧力から逃げるための、最も直接的な方法は資本設備を増大させるための投資そのものを規制することである。ケインズは『一般理論』のなかで「投資の社会化」(socialisation of investment)という方向を提言している。それは有効需要としての投資が不安定であることが経済の不安定の根本要因としてとらえて、投資決定における私企業的性格を取り除こうというものだった。われわれの目的とケインズの目的では重要な違いがあるが、私企業によって決定されている投資に対して規制を加えるという点では一致している(注23)。『一般理論』で主張している「投資の社会化」を具体的にケインズがどのようなものとして考えていたかは、必ずしも明らかになっていない。いわゆる政府の投資支出を指していたという説もあるが、政府投資と「投資の社会化」とでは内容が余りにかけ離れている(注24)。ケインズの「投資の社会化」は具体化されなかった命題であると考えざるをえない。その理由はおそらく、私企業による投資決定に対する代替案としての投資の社会化という方向が自由主義経済のあり方に対する根本的変更を必要とすることに気づいたからだろう(注25)。

自由主義経済の強さは、ある種の柔軟さにある。すなわち、私企業があたかも一つの自立した生命体として、自己の誕生、成長、そして死にたいして自分自身が責任をとることである。人間は、自己が誕生したことに対する責任を自己が直接に負ってはいない。そのかわりに、社会は誕生した人間が健康的に成長すること、必要な教育を受けることに関して責任を負っている。個人がみずからの生命にたいして負っている責任は道徳的なものである。企業の自己責任性は、環境の変化に対する柔軟な対応を可能にするのである。つまり、社会的に不用になった企業は死を迎え、必要な企業が新しく生まれる、そして、既存の企業のうち必要とされる企業は必要な規模まで量的に成長し、必要性の減じた企業は規模を縮小させる。こうした、企業の生成、成長、そして死にいたる過程は、社会化するには余りに複雑で困難な決定を必要とする。たとえば社会的な純投資をゼロにするとする。新たな企業生成を認めなければ、なぜ既存の企業だけが社会的に存在することが許されるのかということになる。新たな企業の生成を認めれば、既存の企業が負の投資を行なわなければならなくなるが、どの企業がどれだけ負担するのかを明確にするのはきわめて困難である。新たな企業の必要性と、既存企業の負の投資の効果を比較考量するのも簡単にはできない。企業の適正規模も確実な判断が難しい問題である。このような意味で、企業の投資に対する直接的な規制、投資の社会化は少なくとも一般的には不可能であると考えなければならないのである。

したがって、われわれは間接的に投資に影響を与えるような方法を考えなければならない。そこで、ハロッドの動学的な定式化(E2)から出発してみよう。資本の正常稼働を前提にするならば(E2)は社会の平均的な貯蓄性向によって基準的な成長率が決定されるという式に他ならない。したがって、最も単純に考えると成長を下げるためには消費を増加させて貯蓄率を下げればよいように見える。消費を増加させることは、投資に対して直接的な規制を加えるよりも社会的な摩擦が少ない方法であることは明かだろう。しかし、この方法には重要ないくつかの難点がある。第一は効果の実現性である。消費の増大は、一時的には追加的な有効需要の出現であるから、それによって産出、したがってまた所得も増大してしまう。貯蓄は結局、有効需要として与えられている投資にふさわしい分になってしまうだろう。その時点で、今期の貯蓄率は低下するが産出の増加分は資本設備の過稼働によって支えられることになる。こうした過稼働は次期以降の投資の増大への誘因を生み出すことになる。すなわち、逆に成長への動機づけになる危険性が存在するのである。したがって、消費の増大によって、貯蓄率の低下、したがってまた成長率の低下をもたらすためには、企業がその増大した需要の増加分だけ投資を減少させなければならないことになる。これはまた、投資の直接規制と同じ困難を引き起こすだけである。第二に、貯蓄を減少させることをめざした消費の増大は、確実に浪費の増大でもあるということである。個々の家計にとっては貯蓄は将来の消費のために行なわれることもあるが、全体の平均あるいは長い期間にまたがる平均をとれば、このために行なわれる正の貯蓄は消費にまわる負の貯蓄と相殺されると考えてよい。したがって、貯蓄の基本的な部分は社会的な剰余に対応する。現在の必要な消費を上回る消費はこうした剰余部分の消費に他ならない。それは不必要な消費である。

貯蓄が社会的な剰余に対応するということの意味をより詳細に考えてみる必要がある。事後的な意味での貯蓄を考えてみると、貯蓄に対応する純生産部分は、社会的な剰余としての純生産部分である。それ以外の部分は、社会の再生産の単純な継続、すなわち拡大のない再生産の継続にとって必要な部分である。人口成長が負になっているばあいを除けば、経済は少なくとも同じ規模で再生産されない限り社会的な厚生水準を維持することはできない。この必要部分を越えた剰余の純生産部分は、経済的な自由を表現する部分であり、経済の本質的なポテンシャルである。すなわち、この剰余としての純生産部分は、社会の平均的な厚生水準をなんら犠牲にすることなく自由に処分することが可能な部分である。先に述べたように、単にそれは財サービスで表現されるだけではなく、人間の自由に処分可能な時間としても表現可能である。貯蓄が投資として使用されるのは、投資が社会的剰余の一つの処分形態であるからであるが、処分可能な形態は投資だけではないのである。もちろん、社会的剰余を経済成長のために用いるというのは、今日までの資本主義経済においてはある一定の意味を持ちえた。経済成長がもたらした社会的構成水準の増大をわれわれは否定することはできない。しかし、人間の歴史のあらゆる段階で、社会的剰余を経済成長として用いることが重要な意味を持っていたわけでもなければ、また実際常にそのように行なわれていたわけでもない。

貯蓄はこの意味で、社会の自由に処分可能な能力であり、消費の不必要な増大によってこの能力をみずから減じてしまうような政策はまったく正しくない。この能力は、社会が真に必要としているもののために用いなければならない。そして、それは同時に貯蓄が生産能力の拡大としての投資に用いられるのではなく、可能な限り多くの割合が非成長的な純生産の処分として用いられることが、必要なのである。すなわち、社会の成長へ向かおうとする内部圧力を直接的に生産的投資そのものの社会化を通して減衰させていくのではなく、より間接的で、しかもまた社会的にみて有効な方法で実現させることをめざすということである。

こうした、間接的な方法によって投資圧力を減衰させることは、持続可能性の回復という課題に対する不可欠な対応策になっているが、それはまた同時に貯蓄のより有効な利用を考えることによって、持続可能性および必要の充足という今日的な課題に対する直接の対応策ともなりうる。すなわち、貯蓄にあらわれている能力を、環境に対する危険を生み出しているものを取り除くために用いるということである。たとえば、二酸化炭素の大気中濃度の増大による地球温暖化という破局を避けるために、二酸化炭素の産業的排出量を急速に低下させることが求められているが、こうしたことをできるだけ少ない犠牲によって実現させるためにも事前の貯蓄水準が大きな意味を持っている。あるいは低開発国における貧困からくる環境の破壊にしても、先進国における貯蓄を利用することが可能であり、また差し迫った必要でもある。

貯蓄の非成長的利用は経済に対する重大な干渉となるが、したがってまたいくつかの当然の、しかも深刻な問題が当然に提起される。まず、こうした貯蓄の利用のための基本的な手段は、貯蓄に対する課税である。この課税の増大による経済の活動性の低下、あるいは貯蓄の供給不足による投資の冷え込みなどによって、経済活動は確実に減衰する。経済的な停滞は一時的な失業者の増大をもたらす可能性がある。この失業の可能性がわれわれの基本的なマクロ経済政策の第一の重要な困難である。しかし、一時的で摩擦的な失業は不可避的に生じたとしても、長期にわたって失業率を高めることを回避することは困難ではない。なぜなら、まず人口成長率が先進国においては十分に低くなっているからである。技術進歩を経済活動の質的な改良の方向へ誘導することによって、長期的には人口成長率と同水準の成長率のもとでも雇用を維持することは可能である。さらに量的な技術進歩によって可能になる生産性の上昇は労働時間の短縮によって吸収する方向を追求することも可能でありまた必要となってくる。

第二の問題は、われわれのマクロ経済政策は貯蓄そのものの規模を低下させるが、これによって利潤がどのような影響を受けるかという点である。賃金からの貯蓄と利潤からの貯蓄を比較すれば、後者の方が高い。貯蓄の非生産的利用を促す政策は貯蓄を減退させるので、貯蓄性向の高い所得項目が高い負担を担うことになる。われわれの経済政策は利潤に対して否定的効果を与える可能性が高いのである。一方、利潤は資本主義経済にとって本質的な重要性を持つ所得項目である。したがって、貯蓄によってもたらされる厚生水準の減退は同時に利潤追求の動機を減退させ資本主義が本来備えている活力を萎縮させる可能性は高い。

この後者の問題は、一部の人にとっては耐えがたい深刻なことのように映るだろう。複雑な相互依存体系としての経済は、確かに個々の人間の意図した通りの結果をもたらすものではない。しかしもう一方で、個々の人間がどれだけの意欲をもって経済に加わっているかは経済の質の一つの重要な側面である。資本主義においてはより大きな利潤を獲得する可能性とそれを追求する自由が経済の活動性の基軸なのである。

この問題を考える上では二つの点を考えなければならない。第一は、われわれの政策は貯蓄の効用の低下をもたらすが、それによってもし一つの極端な場合として社会が貯蓄をまったく失ってしまったとしても、利潤がゼロになるというわけではない。全体の消費に対する利潤からの消費部分の割合の利潤率は残ることになる。第二には、われわれの多くが経済は成長しなければならないものであると信じ込んでしまっていたのと同様に、経済活動に活力に対する利潤の役割についても他に換え難いものと思いこんでしまっている。歴史的にみると、資本主義以前には利潤はもちろん存在していたが経済活動の基本的な動機となるほどの位置は占めていなかった。たとえば、封建制経済のもとでは、穀物ではかった社会的剰余の獲得が経済の基本的な動機であった。そして、この封建制経済の動機に換わるものとしてあらわれてきたのが利潤動機であった。それは人間の存在に直接に関わる主食のより多くの獲得という動機から利潤という一つの貨幣価値量の最大獲得という転換だった。われわれの経済が、たとえば人間の自由に処分可能な時間というような、直接人間を目的としたような経済動機が生かせる動機をもつ時期にきていることに、気がついている人々が少なくないだろう。また他にも、自然の改変を最小化するような経済目的も必要になってきている。人間の存続ということを前提にしながら、利潤以外の、自然と人間の関係のあり方をより豊かにするような経済動機をわれわれは再構成すべき時期にきているのである(注26)。

これまでは貯蓄を成長に結びつかなない投資にまわすこと、課税を中心とした政策について検討を加えた。この方法は、貯蓄の主体の意志によらないという点で非自発的な方法である。これに対して、現在の人類的な課題に貯蓄を活かそうという貯蓄者の意志を基本にし尊重する形で行う自発的な方法も考えられる。現在の地球環境問題をめぐっては、人間のライフスタイルそのものに対する反省が少しずつ広がっている。それは与えられた予算制約のなかで財・サービスの消費からくる効用の最大化をはかろうとする近代的経済人というステレオタイプにおさまらない経済人が少しずつ現れてきているといってもよいだろう。もちろんこうした状況の背景には、生存に必要な財・サービスの獲得がかつてなく容易になってきているという先進国の現代的状況があることはいうまでもない。貯蓄のこのような投資対象の収益率は低くかつリスクは大きいことが十分に予想されるが、それを人々の正義感が補うことになるだろう。

貯蓄によって保留されている購買力を、貯蓄者の自発的意志による特定の目的に用いるためにはなんらかの金融組織によって媒介されなければならない。貯蓄の具体的な使途としては大別すると、先進国の国内において環境と資源の保護のための投資的用途、および低開発国における開発と環境保護のための投資的用途がある。いずれの場合も、貯蓄者の意志を尊重するために具体的な投資内容に関する情報あるいは投資対象の機能状況に関する定期的な情報が貯蓄者自身に提供されなければならない(注27)。

1.1.6 定常系としての経済   (目次へ

成長が内的動機として存在しない経済は定常系(stationary system)としての経済である。成長という魔術からのがれるためには、先進国における貯蓄を適切に現在の人類的課題、すなわち持続可能性の回復とすべての人々の必要の充足という課題に答えるために用いることが決定的に重要であることをみてきた。貯蓄の基本部分は社会の剰余であり、人間のもつ自由な社会的能力の経済的表現に他ならない。これまでの人類の歴史において、各時代のさまざまな形態、穀物、時間、貨幣で表わされた社会的剰余を最も適切な形で利用した部族、民族そして国家が世界を支配してきた。そして今日、われわれはみずからの存続を賭けて、この社会的剰余としての貯蓄の適切な処分に取り組まなければならない時代にきているのである。

ここでの提案は自由市場経済という基本的な経済体制の変更を求めるものではない。市場経済の枠の中で今日の課題にこたえるためのマクロ経済政策の基本的方向を示しているだけである。市場経済を基本にしながらも、その政策の実行に当たっては政府の役割はきわめて大きなものとなるであろう。貯蓄と投資が交換される市場に対して政府はさまざまな強制力を行使しなければならなくなる。しかし、そのことはいわゆる大きな政府が必要だということではない。政府は何よりもこうした経済に対する介入の民主主義的な手続きの組織者として大きな役割を果たさなければならないのである。そして、貯蓄と投資交換する市場に、人々の貯蓄の使途に関する意志が直接に反映し、貯蓄が正しく人類的課題の行使のために役にたてられていることが分かるための、システムの改編が必要になる。この新しいシステムのもとではより多くの人々が経済に直接関わることになり、経済的民主主義が事実として進行するようになるだろう。

脚注
(1)A.スミス著、『諸国民の富』、III、大内兵衛、松川七郎訳、岩波書店、1965年刊p.5。(A.Smith, The Wealth of Nations, ed. E.Cannan, Charles E. Tuttle Company: Tokyo, 1979.)(もどる
(2)FAOの『2000年の世界農業---1988年改訂版---』(国際食糧農業協会、1988年刊)では、1.4BMR(基礎代謝率、Basal Metabolic Rate)以下の人口は、1985年段階の5.12億人から2000年には5.32億人に増大する、と予測している。(もどる
(3)富を非労働時間としての自由な時間とする経済学説が存在している。この学説は、1821年にチャールズ・ウエントワース・ディルクによって書かれたパンフレットにおいて示されている。「人々が以前には12時間労働していたのに(生産力の発展にともなって)今度は6時間労働をすることになるであろうし、そして、これが国民の富であり、これが国民の繁栄なのだ、ということであろう。\ldots 富とは自由---休養を求める自由---生活を享楽する自由---精神を向上させる自由---であり、富とは自由に利用できる時間であって、それ以外の何物でもない」(『ジョン・ラッセル卿宛書簡において政治経済学の原理から演繹された国民的諸困難の原因および救済』、ロンドン、1821年、[蛯原良一訳、『新潟大学経済論集』、第6号、1969年、III]。ここには経済学説史上の画期的な思想が表明されている。(もどる
(4)『ローマクラブ「人類の危機」レポート、成長の限界』、D.H.メドウズ他著、大来佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972年刊、(原著、D.H.Meadows, et al., The Limits to Growth, A Report for the Club of Rome's Project on the Predicament of Mankind, Universe Books: New York, 1972.)。また第2報告である、M.Mesarovic and E.Pestel, Mankind at Turning Point, E.P.Dutton and Co.,Inc./Reader's Digest Press: New York, 1974.(『転機に立つ人間社会』、M.メサロビッチ/E.ペステル著、大来佐武郎・茅陽一監訳、ダイヤモンド社、1975年刊)は、世界を10の地域に分割するモデルを用いることによって、地域間の相互関係を考慮することを可能にし、前報告の内容を発展させている。(もどる
(5)『成長の限界』の評価、およびその後に起こった論争の整理などについては、C.R.Humphrey and F.R.Buttel, Environment, Energy, and Society, Wadsworth Pub.Co.: California, 1982.(『環境・エネルギー・社会』、C.R.ハムフェリー/F.R.バトル著、満田久義他訳、ミネルヴァ書房、1991年刊)を参照。(もどる
(6)『ローマクラブ報告』、同上、p.124。(もどる
(7)同上、p.127。(もどる
(8)R.F.Harrod, Towards a Dynamic Economics, Macmillan:London, 1949(『動態経済学序説』、高橋長太郎他訳、有斐閣、1953年刊)および, Economics Dynamics, Macmillan:London, 1973, (『経済動学』、宮崎義一訳、丸善、1976年刊)などを参照。(もどる
(9)ケインズが『一般理論』の中で主張している「豊かさのパラドクス」はまさにこの点に関連している。「社会が豊かになればなるほど、現実の生産と潜在的生産の間の差はますます拡大する傾向にあり、したがって経済体系の欠陥はますます明白かつ深刻なものとなる。なぜなら、貧しい社会はその産出量の大きな割合を消費する傾向にあり、したがって、完全雇用の状態を実現するにはごくわずかな程度の投資で十分であるが、他方、豊かな社会はその社会の豊かな人々の貯蓄成功がその貧しい人々の雇用と両立するためには、いっそう豊富な投資機会を発見しなければならないからである。潜在的に豊かな社会において投資誘因が弱い場合には、その潜在的な富にも関わらず、有効需要の原理の作用によって社会は現実産出量の減少を余儀なくされ、ついには、その潜在的な富にも関わらず、社会はきわめて貧しくなり、消費をこえる余剰は投資誘因の弱さに対応するところまで減少することになる」(J.M.ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』、塩野谷祐一訳、東洋経済新報社、1983年刊、p.31、原著、The General Theory of Employment Interest and Money, as the Collected Writings of J.M.Keynes, VII, Macmillan Press: London,1973. p.30.)(もどる
(10)リカードは人間的欲望の無限性という命題のうえに、販路問題は一時的障害にすぎず、長期的な資本主義経済の発展に確信をもっていた。この点については、鷲田豊明、「古典派経済学における長期均衡としてのセイ法則について」(『アルテス・リベラレス』、第46号、1990年刊)を参照。(もどる
(11)S.S.Alexander, ``Mr. Harrod's Dynamic Model '', Economic Journal, Dec. 1950, p.727.(もどる
(12)ハロッド自身はその後の議論の展開において、産出の増大が適正なときに、企業家が投資量の水準を維持しようとするのか、比率を維持しようとするのかについて明確に言及していないように見える。(もどる
(13)置塩信雄教授は(\ref{eq1_5})のハロッドの投資関数をΔ(I/K) = F(U)という形に発展させ、その資本主義的な合理性を積極的に展開している。特にハロッド的な投資メカニズムの枠組みを維持しながら投資決定を単なる稼働率の関数から、資本主義の基本的な動機因子である利潤率の関数にまで展開していることは注目に値する。ただし、そこでもアレキサンダーが提起した、正常稼働のとき投資の比率をなぜ維持するのかについては、一つの近似、あるいは仮定として扱われてしまっている。『蓄積論』、筑摩書房、1976年刊、pp.191-192。この他にも、『現代経済学』、筑摩書房、1977年刊、『現代経済学II』、筑摩書房、1988年刊なども参照。(もどる
(14)スミスは、貯蓄という人間の行為の動機を本能にまで高めている。「貯蓄するように人々を駆り立てる本能は、われわれの生活状態をよりよくしようという願望であり、それは総じて穏やかで冷静なものではあるけれども、母親の体内からわれわれに同行してきたものであり、しかもわれわれが墓にはいるまで決してわれわれからはなれないものである」(前掲、『諸国民の富』II、p.359。)(もどる
(15)柴田敬は1973年、オイルショックの始まる直前に『地球破壊と経済学』(ミネルヴァ書房)という本を出版した。ここでいう地球破壊とは、地球温暖化問題などのいわゆる地球環境問題を指す。柴田は、環境破壊とともに最も深刻な環境破壊としてこの地球破壊を取り上げている。柴田自身の意図はどうあれ、この書で最も注目すべきものの一つは、経済学、特にケインズ経済学と地球破壊の関係を論じている点である。すなわち、ケインズ経済学の中には、経済を地球破壊まで行き着かせる動機が隠されていると柴田はみる。言葉がやや過剰と思える議論の中で、その論理は簡単には次のようにあらわされる。ケインズの経済学は短期理論である。すなわち、投資が生産力効果をあらわしその生産力と需要との関係がさらに次期の経済に影響を与えていくプロセスは追わず、投資の需要効果だけをみている。政策当局は雇用量の水準などの、短期的な経済の出来ばえだけを問題にし、投資需要についてもそれが長期的に社会の中で有効性を発揮しうるかではなく、需要効果的側面だけをみている。政策当局による有効需要政策は、私企業の投資行動に対して積極的な影響を与えるが、その結果を長期的な観点から評価しない。そのために経済成長だけが加速化し、環境破壊などの問題を引き起こしてしまったと、柴田は論じるのである。環境破壊問題を最も経済学らしく論じている点で、ここにこそ環境経済学の出発点がなければならないといえる。今日の環境破壊を引き起こした経済学の責任に対して大した批判的観点も持たずに、環境問題を経済分析のツールで論じただけの環境経済学では、今日の問題をなんら解決できないであろう。(もどる
(16)先のローマクラブ報告にも次のような指摘がある。「われわれは、世界を表現するモデルの結果として次のようなものを捜し求めている。(1)突発的で制御不可能な破局を招くことがない持続性をもつこと、および(2)すべての人々の基本的な物質的要求を充足させる能力をもつこと」(前掲、p.142)。20年前に指摘された、求めるべき世界の新しい状況としての「持続可能性」と「必要の充足」は、今日に至ってもなお切実な課題としてわれわれの前に提起されたままである。この、20年が経過したことによる違いは、かつては世界が持続可能性の危機に陥っていることを「幾何級数的成長」という方法的な概念に強く依存して議論せざるをえなかったが、現在はグローバルな地球環境の破壊という事実そのものが持続可能性の危機を表現するようになったということである。それはまた、ローマクラブが20年前に指摘した幾何級数的成長のさまざまな破局の兆候が、人類全体の現実的な認識になってきているにすぎないともいえる。持続可能性と必要充足という人類が直面している問題は、最もグローバルな経済問題である。「持続可能性」および「持続可能な開発」の概念については、加藤久和、「持続可能な開発論の系譜」、植田和弘、「持続的発展論の課題と展望」、いずれも『講座、地球環境3、地球環境と経済』、中央法規、1990年刊所収、D.Pearce, E.Barbier and A.Markandya, Sustainable Development: Economic and Environment in the Third World, Edwars Elger: London, 1990.などを参照。(もどる
(17)エネルギー資源の消費の問題については、第4章で再度議論する。(もどる
(18)今日の環境問題を整理し、またこれまでの、環境問題に関する経済理論にたいする評価を与えた書として、植田和弘、落合仁司、北畠佳房、寺西俊一、『環境経済学』、有斐閣、1991年刊、がある。また、寺西俊一、『地球環境問題の政治経済学』、東洋経済新報社、1992年刊も参照。(もどる
(19)以上に関連した議論が、D.W.Pearce and R.K.Turner, Economics of Natural Resources and the Environment, Harvester Wheatsheaf, 1990,および、D.Pearce, E.Barbier and A.Markandya, op.cit.,にある。(もどる
(20)われわれは「地球の楽しみ」に関するJ.S.ミルの次の指摘に謙虚に耳を傾けるべきであろう。「もしも地球に対しその楽しさの大部分のものを与えているもろもろの事物を、富と人口との無制限なる増加が地球からことごとく取り除いてしまい、そのために地球がその楽しさの大部分のものを失ってしまわなければならぬとすれば、しかもその目的がただ単に地球をしてより大なる人口---しかし決してすぐれた、あるいはより幸福な人口ではない---を養うことを得しめることだけであるとすれば、私は後世の人たちのために切望する、彼らが、必要に強いられて定常状態にはいるはるかまえに、みずから好んで定常状態にはいることを」(『経済学原理』(四)、末永茂喜訳、岩波文庫、1961年刊、p.109、原著、J.S.Mill, Principles of Political Economy: with Some of Their Applications to Social Philosophy, Univ. of Toronto Press, 1965。ただし、stationaryの訳語を「停止状態」ではなく「定常状態」に変えている。)(もどる
(21)1987年時点で、日本の一人当りの実質GDPは15764\であるのに対してエチオピアは126\だった。(The World Resource Institute, World Resorces 1990-1991, Oxford Univ. Press: New York, 1990.による。)よる。ただし、これは平均であり、現実にはそれ以下の所得しか得ていない階層が存在することを忘れてはならない。また、UNDP, Human Development Report 1991 によると寿命、健康、栄養、教育、所得、女性の社会的地位、乳幼児死亡率、都市−農村問題などを考慮した人間発展指標(HDI)では日本が世界で1位である。(もどる
(22)国連の「環境と開発に関する世界委員会」がまとめたOur Common Future, Oxford Univ. Press,1987 には次のような記述がある。「社会的にも環境上でも持続的な開発をもたらすためには、とりわけ、工業国が成長・貿易・投資の国際的な拡張政策を再開することが不可欠である。」(邦訳、『地球の未来を守るために』、大来佐武郎監修、福竹書店、p.102)(もどる
(23)ケインズが脆弱な投資誘因を確かなものにするために投資の社会化を考えているのに対して、われわれは成長的投資誘引の低下を目指しているという点では目的はまったく反対である。ケインズの投資の社会化は次のような文脈のなかで述べられている。「国家は、一部分は租税機構により、一部分は利子率の決定により、そして一部分はおそらく他のいろいろな方法によって、消費性向に対してそれを誘導するような影響を及ぼさなければならないであろう。さらに、利子率に対する銀行政策の影響は、それ自身では最適投資量を決定するのに十分ではないように思われる。したがって、私は、投資のやや広範な社会化が完全雇用に近い状態を確保する唯一の方法になるだろうと考える」、前掲、邦訳、p.380。(もどる
(24)ケインズは、「消費性向と投資誘因のあいだの調整を図るための中央統制(central controles)と明確に述べている。ケインズは、全体主義のように社会全体の機構を統制するのではなく、この部分に関してだけであることを強調しているが、これは裏を返せば、この部分についてはしっかりと「統制」を行うべきであると述べているととらえられる。(もどる
(25)ケインズは、国家のやるべきことを「生産手段の増加に向けられる総資源量と、それを所有する人々に対する基本的な報酬率とを決定すること」と述べている。以下でも述べるように、自由市場経済を前提にしながらこのことを行うのは極端に困難なのである。(もどる
(26)「人間精神が粗野であるかぎり、それは粗野な刺激を必要とする」(ミル、前掲、p.106.)(もどる
(27)ここで指摘したような、環境、生態系保護などの目的指向的な金融システムは、ドイツなどヨーロッパで「エコバンク」という形で具体的な運動が始まっている。(もどる

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