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目次
   1.3 節 環境破壊と物質循環
    1.3.1 第一類型:物質循環の直接的破壊
    1.3.2 第二類型:廃棄物による物質循環の破壊
    1.3.3 第三類型:生物濃縮による物質循環の破壊
    1.3.4 生態系の剰余と経済

1.3 節 環境破壊と物質循環   (目次へ

これまでわれわれは今日における物質循環の破壊を、資源の消費と再生、環境の同化能力の消費と再生という観点からとらえてきた。それは、経済の内部的な物質循環により注目し、環境との物質的交換をとらえることを意図しているものであった。したがってそこでは、環境からの資源の獲得の問題と環境への廃棄という基本的な物質的な交換過程にあらわれた不均衡に注目したのである。しかし、すでに述べたように、経済の外部の自然的・生物的環境もまた独自の物質循環の中にあり、それらとの物質的交換は一般的な物質循環の一つの部分的な過程でしかない。ここでは、今日生じている具体的な環境破壊の問題に焦点をあて、それを大域的な物質循環の観点からとらえなおし、より詳しい分析を行うことにしよう。

地球規模での生態的な物質循環は、たとえば水や大気の大循環も不可欠な要素として含んでいる。これら生態循環と経済循環を通した物質循環のあり方と深い関連を持っている現象が環境破壊である。環境破壊はどのようなレベルの解決を意図するかによってさまざまに定義できるが、本質的なものは人間の存在条件と環境破壊の関係を明確にする定義であり、したがって物質循環の観点から定義することである。環境破壊は、「人間の活動によって、自然、生態系および経済相互の定常的な物質循環が変質させられ、人間の存在条件を悪化させること」と定義できる。当然、この人間の活動の中には、経済的な活動はもちろん、戦争などの非経済的な活動も含まれるべきである。

今日、環境破壊といわれるものには多様な形態のものが存在する。それらを、この環境破壊の定義のなかで位置づけると次のような大きな類型化が可能になる。すなわち、(1)物質循環の構成要素の破壊としての環境破壊、(2)循環困難な質あるいは量での物質の廃棄としての環境破壊、(3)有害物質の生物濃縮による環境破壊、である。この類型化は、今日の環境破壊の本質をより的確にとらえるためのものである。もちろん人間の一連の行為が複雑な波及的効果を引き起こし、上記の複数の環境破壊を引き起こすことはありうる。また、われわれの認識では一つの環境破壊の事実が、上記の複数の側面を持ちうることもありうるだろう。以下で、今日の環境破壊の現実をこの類型化の中に位置づけてみよう。
1.3.1 第一類型:物質循環の直接的破壊   (目次へ

第一の類型は、人間の活動が、物質循環を構成している主体、あるいは循環の物質的要素を必要な役割を果たせない状態にしてしまうような環境破壊である。したがって、最も直接的な物質循環の破壊であり、それはまた生態系の意図的な破壊という性格も持っている。この類型に属する環境破壊は地域的なものから、よりグローバルなものまであらゆるレベルで行われているが、今日特に注目されているものとしては森林破壊、野生生物種の減少、砂漠化などがある。

まず森林破壊を取り上げよう。森林は、農業開始以前の50億haから40.7億ha(1985年から1987年の平均)へと減少してきた。森林破壊は、世界のいたるところで人間の活動の拡大とともに絶え間無く行われてきたが、特に地球環境と深い関わりをもつ熱帯雨林の破壊に注目しよう。1980年時点で全世界19億3,500万haの熱帯雨林が毎年0.6\%、すなわち約1,130万ha(本州の面積の約半分)ずつ減少していると報告されていた。さらに、近年この減少の勢いはさらに加速されているといわれ、熱帯雨林の年間消失率は2040万haという数字も推計されている(注1)。この熱帯雨林消滅のスピードは、ここ数十年のうちに地球上から熱帯雨林が消滅することを意味する。それは、森林の果たしている機能からみて、地球的な物質循環を根本的に破壊するような重要な意味を持っている。

森林は、植物としての樹木の集合という意味ではなく、そこにさまざまな生物種が自然環境との物質の交換および生物種間の構造化された相互依存関係を形成している。したがってそれは、一つのシステムを形成している「場」、すなわち一つの生態系である。森林破壊は、この生態系そのものを直接破壊してしまうことを意味する。しかし、森林の破壊はそれにとどまらない。森林は、それ自体が炭素の貯蔵地であり、森林が破壊され、そこに存在したバイオマスが、直接的に燃やされるか、腐朽によって分解者(蟻、バクテリアなど)によって、エネルギー的に消費されるかに関わらず、最終的には大気中に二酸化炭素の形で放出されることは、大気の二酸化炭素濃度、それによる地球温暖化に重要な影響を及ぼすことになる。また、すでに述べたように、森林は保水能力があり、森林の破壊は水の循環を破壊し大気の乾燥化をもたらす。そして、雨が地表を急速にながれ、集中することによって洪水、あるいは干ばつなどの災害を引き起こす。また、森林は、同時に土壌の保存機能も持っている。したがって、森林の破壊は土壌流出を加速化させる。

こうした森林破壊の主要な要因として、(1)人口増加などが起因となった耕作地あるいは放牧地の森林地帯への大規模な展開、あるいは薪の過剰な搾取、(2)用材のための過剰な森林伐採があげられる。ただ、伐採そのものが常に森林破壊につながるとは限らない。問題は、伐採のために道路などが森林の中を通過することによって、焼畑、放牧、過剰耕作などにつながることである。それによって、森林は単に樹木という生態系の一構成要因の破壊から、生態系そのものの破壊につながっていくのである(注2)。

熱帯雨林は陸上生態系の最も典型的な存在である。そして、熱帯雨林は生態系として強い基礎的な恒常性維持能力(ホメオスタシス)と脆弱性という二面性を持っている。強い能力とは巨大な生産力である。これは、熱帯雨林の生態系としての循環効率の高さと強い関係を持っている。したがって、この循環効率はまたこの生態系の中の分解という機能と深く結びついている。巨大な生産力は巨大な分解能力なのである。熱帯雨林の生態系の中で生産された植物の生体は結局、蟻なども含めたさまざまな動物あるいは菌・バクテリアなどの活動によって分解され、植物によって固定化された二酸化炭素は再び大気中に戻り、さまざまな栄養塩類は再び植物が吸収可能な形態になる。この分解活動の高い効率性が熱帯雨林生態系の重要な特徴である(注3)。したがって、基本的にこの生態系の物質循環が維持されている限り、植物にとって重要な制限要因となるさまざまな栄養塩類が効率よく確保されるのである。この物質循環の高い効率性がこの生態系の恒常性維持能力の高さの源泉なのである。

しかしもう一方で、この熱帯雨林における物質循環の高い効率性は、土壌という生態系の基礎に対する低い依存性を生みだし、土壌に生態系の再生能力が保存されないという著しい脆弱性を持っている。熱帯雨林における有機物の保存場所としての土壌はきわめて薄く、わずかの土壌流出、あるいは耕作による搾取によって不毛の地化する蓋然性が高いのである。このように、熱帯雨林は強さと弱さの微妙なバランスの上に存在している生態系である。

野生生物種の減少も、この環境破壊の第一の類型にはいる(注4)。そして特に、これは熱帯雨林の破壊とも深い関連性を持ってる。この熱帯雨林には、生物種の半数がそこに生息しているといわれているからである。熱帯雨林とともに地球上の生物学的多様性(biological diversity)も急速に失われてきている。種の数の正確な確定はほとんど不可能だが、1千万種以上も存在するといわれる地球上の種が人間の活動とともに急速に減少しているのである(注5)。われわれが知ってもいない種が地上から消えてしまったからといって、大した問題ではないなどとは決していえない。この種の多様性の喪失の多くが熱帯雨林で発生しているのであり、熱帯雨林破壊とそれを支えていた生物種の消失はほとんど同じ事柄だからである。すなわち、熱帯雨林の破壊によって種そのものを減少させることは、その熱帯雨林をもとどおりに再生することが不可能になることを意味しているからである。

種の多様性は、環境の多様性の結果として語られる場合が多い(注6)。この環境の中には、自然的な環境ばかりでなく、個々の種そのものが他の種にとって多様な環境要因となることがあげられる。また、種の多様性が生態系の安定性、恒常性を生み出しているという議論もされている(注7)。こうした、種の多様性をめぐり生態学的な議論の持っている意味は大きい。ただ、さらに議論を展開すべき側面も少なくない。たとえば、環境の多様性がなぜ種の多様性をもたらすのかについて、進化論的には環境に適応していく過程での多様化ということで議論が成立するかも知れないが、ある生態系が遷移(succession)の過程でなぜ多様化していくのか、この傾向を支配していく内的な動因は何か、という点の説明とはなりにくい。また、種の多様性が生態系の安定性をもたらすという点についても両者を媒介するものについての理解が必要になる。

次のような点は、まず確認されるべきであろう。すなわち、それぞれの種が他の種との関係で、柔軟な代替可能性を持っていると、生態系の撹乱によって、依存している他の種の一つが失われてしまっても、他の種で代替しうるということである。生態系は、食物連鎖などによる相互連関の他に、昆虫による植物の受粉などに典型的にあらわれるサービス的なものを媒介にした相互連関、根粒菌と豆科の植物の間の関係のような共生的な相互連関、あるいは寄生などの相互連関によって、複雑なネットワークを形成している。このネットワークは、一つ一つの生態系を構成する主体が他の主体との必要な関係を相互に柔軟に代替しうるとき、外的な撹乱に対しても柔軟な対応が可能になる。たとえば、ある動物が食料として必要とする植物が多様であればあるほど、すなわち特定の植物が何らかの要因で不十分にしか供給されなくても、他の植物が代替的な食料となるというような、個々の種の柔軟性は、全体の生態系ネットワークの柔軟性をもたらすのである。こうした、柔軟性はそれを有する生態系を他の生態系の侵略から保護することになる。したがって、少なくともこの意味で、種の多様性は相互依存関係を多様にすることによって、生態系の優位性を測る指標になるのである。

また、この種の多様性の生態系における機能を理解するうえで、生態系のエネルギー効率に関する議論を避けることができない。経済においても、エネルギーが希少なときにエネルギー効率の高いシステムはより低いシステムを駆逐する可能性は高まる。生態系においても、外部から投入されるエネルギー、すなわち太陽光エネルギーをシステムの内部において十分効率的に使えない場合、この生態系は外部的撹乱に対して脆弱なものとなる。ただし、このエネルギー効率は、生態系がエネルギーを内部化する効率ではなく、さらに、その内部化したエネルギーを確実に廃熱化するまでの、全体的効率であることに注意が必要である。たとえば、植物によって単位面積当たり同じ規模の太陽光エネルギーの固定化をしているが、一方の生態系は定常状態において、食物連鎖の網の中で固定されたエネルギーがほとんど廃熱化するが、もう一方の生態系は、エネルギーを体化した未分解のバイオマスを蓄積しているという状況を考えてみよう。明らかに、後者は栄養塩の循環が悪くなっている。したがって、生態系としては脆弱である。ところで、こうした廃熱生産効率の高い生態系は、植物バイオマス分解の多様な道を備えていなければならない。なぜなら、動物にしろ、バクテリアなどの真の分解者にしろ、単一種として分解する能力には限界があるからである。すなわち、種の多様性は、分解過程の効率性を生み出すのである。また、もう一方で、分解量を巨大化するには、そもそも分解対象としてのエネルギーを固定化した大量の植物バイオマスが存在しなければならない。植物はこうしたエネルギーの流れを太くするために、多様な種が存在するようになるのである(注8)。

生物種の多様性を破壊することは、こうした生態系のエネルギー効率の劣化を不可避的にもたらし、生態系の脆弱さをもたらすことになる。これは、問題になっているそれぞれのレベルの生態系のおいて成立する。すなわち、ある森林生態系についてみれば、その生態系の内部での種の多様性の崩壊は、この森林生態系の劣化をあらわし、海洋生態系についても同様の議論が成立する。そして、重要な点は、地球的規模の生態系についても、この議論が成立しない理由はないということである。

人間の活動によって引き起こされる砂漠化も、この類型に含まれるべき環境破壊である。砂漠化には、年間降水量が傾向的に減少することに引き起こされる自然的な砂漠化の進行も存在するが、これはわれわれが問題にする環境破壊ではない。もちろん、この両者が同時的に進行する場合もある。砂漠化(desertification)は、過剰放牧、過度の農耕、薪炭材の過剰な搾取、潅漑地の過剰潅漑による塩分集積などによって土壌とその植生(vegetation)が著しく劣化し自律的な植生の回復が不可能になってしまったような状態を指す。この意味では、生態系の、したがってそれにともなう物質循環の最も徹底した破壊である(注9)。そして、この砂漠化の基本的な要因は、傾向的な自然乾燥化による側面を除けば、乾燥帯に住む人々が伝統的に行ってきた持続可能な農法が外的要因によって継続不可能になり、植生破壊的な方向に変わっていったことである。自然的な環境が著しく過酷にならない限り、持続的に一定の人口を数千年にわたって養ってきた地域が、砂漠化による被災が著しいアフリカにおいても存在する。植生がある程度豊かである限り、最も原始的で、したがってまた最も持続可能性の高い採取型の農法、あるいは植生の再生と土壌の栄養塩の累積が確保される十分な放置期間が約束される限り持続可能な農法でありうる焼畑農業がこの地域でも行われてきていた。問題は、これらの持続可能な農業形態が外部からの商品作物によるモノカルチャア(単一種栽培)の導入、戦後の急速な人口増の圧力によって崩壊しつつあることである。それによって、植生と土壌の酷使が行われ、砂漠化に向かうことになっているのである。

こうした、第一類型に属する典型的な環境破壊である森林破壊、生物種の減少、砂漠化は陸上生態系の破壊という共通の性質をもっている。したがって、これらは相互に密接な関係を持っている。少なくない場合が、それらは一つの陸上生態系の崩壊を異なった側面から表現したものでしかないようなものになっているのである。そして、これれの生態系破壊は人間の生活に必要な財を確保する経済的な営みと、そのための搾取の場としての生態系との接点で生じている点はここで確認しておこう。
1.3.2 第二類型:廃棄物による物質循環の破壊   (目次へ

第二の類型としての環境破壊は、人間活動による廃棄物によって物質循環が破壊されるものである。第一の類型との決定的な差異は因果関係の間接性にあり、この第二の類型の場合は「廃棄物」という媒介物によって物質循環が破壊されるという点である。廃棄というのは内側にある「もの」を外側のものにするということである。内側というのは経済であり外側とは非生物的(abiotic)あるいは生物的(biotic)な環境である。ただ、こうした廃棄はすべての生物が行っていることであり、逆に生態系という観点からみれば物質の廃棄行為そのものによって物質循環が支えられているという側面は見逃すことができない。したがって、人間も生物であり、生態系の中に埋もれて自らを存続させてきた期間が何万年も存在しているということは、廃棄という行為が物質循環と完全に整合的であるような活動の様式が存在していることを意味している。人間の生物的廃棄物である糞尿は、生態系の物質循環とほとんど完全に整合的である(注10)。

しかし、人間の経済活動の拡大は、物質循環の中で正常な処理可能量をはるかに超える廃棄物を生み出すようになった。これらの廃棄物が、人間も含めた生物に問題を引き起こさない程度に処理する環境の能力をはるかに超えるとき、廃棄物を通した特殊な環境破壊が発生するのである。この環境破壊の基本的なものは環境の汚染(pollution)である。環境の基礎的な構成要素にそってこの汚染は大気汚染、河川、地下水、湖水、海洋汚染などの水質の汚染、さらに土壌汚染に大きく分類される。

大気汚染は汚染物質による分類とそれが引き起こす環境破壊の違いによる分類の少なくとも二つの次元を持っている。汚染物質では、窒素酸化物(NOx)、硫黄酸化物(SOx)、一酸化炭素、光化学オキシダント、ダイオキシン、二酸化炭素、フロン(CFC's、クロロフルオロカーボン)、浮遊粉塵、などが代表的なものである。また、その汚染による災害としては、人間の呼吸器疾病などの健康破壊、酸性雨、地球温暖化、オゾン層破壊などが重要である。

窒素酸化物(NOx)、硫黄酸化物(SOx)による大気汚染は一般には局所的に慢性気管支炎などの健康被害を引き起こす。二酸化硫黄(SO2)は四日市喘息などの公害病の主要な原因物質になった。二酸化硫黄は化石燃料に含まれる硫黄が燃焼によって大気中に放出される。窒素酸化物もまた化石燃料中の窒素が燃焼によって酸化し大気中に放出されるが、大気中の窒素と酸素がボイラーやエンジン内で反応し一酸化窒素(NO)としても生成される。一酸化炭素は不完全燃焼、自動車排気などによって生成し、強い毒性を持ち急性の呼吸障害を引き起こす。光化学オキシダントは窒素酸化物と炭水化物が光化学反応によって二次的にオゾンなどになったものである(注11)。これらの汚染は単に人間の健康被害を引き起こすだけでなく、生物一般に被害を加える。植物の場合、大気汚染物質は植物の気孔から侵入し光合成、呼吸、蒸散などに関わる作用に悪影響を引き起こす(注12)。

大気汚染による健康被害は、汚染された大気を直接体内に取り入れることによって引き起こされる。こうした直接性によって、被害は局所的な性格を帯びたものとして主要にあらわれてきた。しかし、今日、これらの大気汚染が酸性雨という準大域的問題を引き起こしていることが大きな問題となっている(注13)。$pH$ 7が中性であるが、大気に含まれている二酸化炭素によって、雨は通常でもpH 5.65の酸性となっている。この雨が、さらに窒素酸化物や硫黄酸化物のとけ込みによってこれ以上に酸性化したものを酸性雨と呼んでいる。足尾銅山が原因となった酸性雨によって、周辺森林の1600 haが被害を受けたことがあるように、酸性雨は局所的にも発生する。しかし、今日、特に注目されているのは、この現象が発生地と被害地が著しくかけ離れて発生する場合である。汚染された大気は、一定の気流に乗って拡散を受けながらも地球的規模での移動を行う。その際、雲や降雨に取り込まれるという二次的な変性にを引き起こされるのである。重要な点は、こうした変性が拡散を阻害することである。したがって、被害が広域的にあらわれることになる。こうした汚染地と被害地の乖離は、国境という制約によって問題の解決を困難にしている。環境庁の調査によると、日本でも全国的にpH 4台の酸性雨が全国的に観測されている。これらが、樹木の枯死などの生物種への悪影響を引き起こすのは、さまざまな条件に規定されるが、日本でも、今後大きな問題になっていくだろう。

フロンは成層圏のオゾン層を破壊する汚染物質として大きな問題になっている。オゾン層は生物に有害な紫外線を吸収しているが、オゾン層の破壊による紫外線の増加は、人間に対して皮膚ガンや白内障などの健康被害、植物などの成長阻害を引き起こす。フロン全廃の動きは先進国を中心に加速化しているが、フロンは大気中に長期間残存するために、撤廃されたとしてもオゾン層破壊は継続することになる。対流圏内で発生する酸性雨と比べてもより高所で発生するこのオゾン層破壊は、グローバルな地球規模の汚染を代表するものの一つであることは間違いない。

大気中の二酸化炭素などの濃度の上昇による地球温暖化は最もグローバルな問題であり、熱の宇宙空間への過度の放射阻害という点では、ほとんど地域性があらわれない(注14)。すなわち、オゾン層の破壊では高緯度地方にオゾンホールなどの極端に成層圏オゾン濃度が低くなった地域があらわれやすいという、地域性をわずかに持つが、地球温暖化ではこうした地域性すら指摘できない。もちろん、この温暖化が気候帯を極地方へ移動させることによる生態系の災害、海面上昇、などの二次的災害では、地域的なあらわれ方は異なってくる。

水質汚染は水の機能と結び付けて考えなければならない。地球上の水の98\%は海洋にある。この海面から蒸発した水蒸気は降水によって地上に水を供給する。これは河川、地下水などとなって再び海洋に戻ることになるが、この水の大循環は水の浄化機構として機能している。水は気化熱(540cal/g)が大きいという化学的性質から、生物や自然の熱を移転させる機能を持っている。すなわち、生物が内部でエネルギーを転換してできた廃熱を生体の外部に廃棄するという役を担わされる。また、水はいろいろな物質を溶かすことができる。したがって、大循環の中で浄化された水は、物質をその中にとけ込ませることになるのである。この性質は、物質を生態系の中あるいは生態系間で移動させるという重要な機能を果たすことを可能にする。植物も栄養塩類をイオンの形で取り込むがこのイオンをとけ込ませている水の機能は植物にとって不可欠なのである。しかし、この物質をとかし込ませるという点では自らを汚すという機能でもある。とけ込んだものの量とそれが生物によってあるいは自然の循環の中で吸収・沈着する量がバランスをとれている限り、この汚れは人間にとって害のある汚染にはならない。今日の水質汚染は、物質循環の中で「汚れ」と「浄化」のバランスが崩れたところから発生しているのである。

水質汚染は河川、湖沼、地下水などの内陸系水の水質汚染と海洋汚染という分類、有機物によるものと無機物による汚染という分類、あるいは生物によって吸収・分解可能な物質による汚染とそれが不可能な物質による汚染などの分類が可能である。ここでは最後の分類に特に注目しよう。生物によって・吸収分解が可能な物質が水の中にとけ込むことは、分解とのバランスがとれている限り汚染にはならない。すなわち、産業排水や生活排水に含まれる有機物、あるいは窒素、リンなどの栄養塩類も生物が吸収・分解している限りは単に生物の生存のための環境にすぎないのである。それらは、微生物、水棲昆虫、魚などの食物連鎖を通して、二酸化炭素と水に分解され、有機物中のエネルギーが最後まで利用されることになる。問題は、分解以上にこうした物質が供給される場合である。このときに汚染が生じる。すなわち、有機物を分解するためのDO(溶存酸素量)が不足し、酸素を使わない(嫌気性)呼吸による生物の活動だけが可能になるが、これによって浄化機能は著しく低下する。生物によって有機物を分解するのに必要とされる酸素の量、すなわち生物化学的酸素要求量(BOD)で水質汚染の指標が与えれる。

こうした生物によって浄化作用が期待される汚染にたいして、それが困難な汚染はより深刻化している。すなわち、カドミウム、シアン、クロム、PCB、トリクロロエチレン、テトラクロロエチレン、農薬、などの毒性の高い物質は生物的分解が期待できない。しかも、これらは生物的分解が困難なために生物によって取り込まれてもそのままの化学的性質を保持することによって、生物濃縮が行われ、生態系の中を独自の物質循環を形成する。そして、それによって正常な生態系を破壊するという、われわれが第三の類型として掲げる環境破壊につながっていくことになる。また、海洋汚染は、この難分解性の物質による汚染が主役を占めることになる。内陸系水の汚染がそのまま海洋に流れ込む込むほか、原油の海洋流出、重金属、放射性廃棄物、プラスチック製品などの海洋投棄による汚染が深刻化している。プラスチックは海洋性の生物によって飲み込まれ、これらの生物に悲惨な最後をもたらすことになる。

土壌汚染ではカドミウム、ヒ素、銅などによる汚染、農薬による汚染が最も注目されている。他にも、鉛、亜鉛、ニッケル、水銀、クロムなども土壌中の重金属有害物質として問題になっている。土壌の汚染は、土壌が可動性が低いために、局所的なものとしてしかとらえられない面もあるが、植物がこの土壌に固定されながら生育され、汚染物質は植物の中に吸収される。この植物が農業のものであれば、農産物として経済のなかでの可動性を確保することになり、汚染は広域問題化する。

以上のように、汚染問題のさまざまな側面を概観すると、一つの単純であるが重要な事実を気づかされる。それは、この問題は常に、生物の物質的な交換の結果として生じ、それはまた、生物や自然の物質的過程による汚染の浄化機能という側面を持つということである。大気汚染の場合、窒素酸化物や硫黄酸化物が呼吸を通して人間に取り入れられることは、大気の汚染度を低下させていることになる。汚染物質が人間に固定化されるのである。植物についてはよりこの問題が明確にあらわれる。植物の中には、こうした大気汚染に対して強い種と弱い種がある。抵抗性の強い種は、農産物ではなく樹木のようなものである場合、環境を浄化する機能を果たしているということができる。弱い種は人間とって単なる汚染の被害者でしかなくなる。酸性雨にしても、それは大気汚染が降雨の中に固定化される浄化過程とみることができる。また、さらにその雨は植物や土壌によって次の段階の浄化過程に移ることになる。

したがって、局所的に派生した汚染は、拡散の過程でさまざまな物質的な変性作用を受ける。それは、また、物質循環が持っている浄化機能である。したがって、ひとたび引き起こされた汚染は、浄化されなければならないが、それは何らかの生物なりあるいは自然的環境がその汚染をより拡散された形で固定化することによって行われるのである。したがって、あるところが浄化された場合、物質循環の次の過程がより拡散された形ではあるが、新たな汚染の中におかれることになるのである。第一の類型であげたような、森林破壊であれ、酸性雨によって引き起こされた森林破壊であれ、森林の減少は、汚染の引き受け主体を減少させ、人間も含めたほかの生物あるいは自然的環境によって、引き受けなければならない汚染物質が増加することを意味する。

この考察は、最も拡散した状態で発生している汚染は、あるいは物質循環の最も端点で発生している汚染が、汚染の代替的引き受け主体が存在しなくなるという点で、最も深刻な汚染になることを示している。その最も典型的なものは、フロンによるオゾン層の破壊であろう。すでに述べたように、フロンが大気中に滞在する期間はきわめて長期におよぶ。そのことは、代替的浄化主体が脆弱であることを意味する。地球の大気圏全体の二酸化炭素濃度の上昇による地球温暖化も、こうした極大に拡散化した後の汚染物質の問題である。もちろん、植物あるいは海洋などによる吸収の道があるという点ではフロンほどではないが、追加的に大気中に廃棄される量の大きさが巨大である点を考慮すれば、汚染問題としての深刻さに大きな差はない。
1.3.3 第三類型:生物濃縮による物質循環の破壊   (目次へ

環境破壊の第三の類型は、第二の類型と密接な関連を持っている。この類型は、生態系の中での有害物質独自の物質連鎖である生物濃縮(biological concentration)という問題の重要性のために、新たな類型として取り上げなければならないのである。この生物濃縮を受ける有害物質もはじめは廃棄物として物質循環に入ってくる。したがって、それを生物が吸収することによって直接災害に結びつく場合、それは環境汚染である。しかし、この第三の類型は、そうした一次的な生物吸収による汚染があるか否かに関わらず、ある物質が生物体の中で分解されることなく、食物連鎖などの物質循環を通して、生態系の中を運動することによって、生物濃縮を受けるという形での物質循環の変質をさす。そして、ある臨界点以上に有害物質を蓄積した生物、あるいは人間が被害を受けるのである。現在は局所的被害が中心となっているこの型の環境破壊は、今後、地球規模での環境破壊につながっていく可能性は高く、今後、人間の生存を根本的に脅かすものになっていくだろう(注15)。

生物濃縮は、生物によって分解されにくく、またいったん体内に取り入れると排泄されにくい物質が生物体内で蓄積することをさす。このことは、食物連鎖という生態系の相互依存関係の中では加速的に高濃度の有害物質が生物体内に蓄積されることを意味する。なぜならば、上位の補食者は下位の生物が蓄積した有害物質を高濃度のまま引き継ぐことになるからである。人間は生物の食物連鎖の中で最も高い位置にいる。したがって、最も高濃度の有害物質の摂取の危険の危険の中にあることになる。生物濃縮は、環境中の濃度の数百万倍にもなるという、強力な破壊力を持ったものである。たとえば、海水中1l中り含まれている水銀量が0.00005 mgである場合、魚類1Kgでは、0.25 \sim 360mgとなり、最高700万倍も濃縮され、同じく、海水1l中り含まれているカドミウム量が0.00005 mgである場合、貝類1Kgでは、1 \sim 100 mgとなり、最高200万倍も濃縮されることになるのである(注16)。人間は、自ら汚した自然を自ら掃除すること強制されることになるのである。

水俣病、イタイイタイ病などはこうした生物濃縮型環境破壊の象徴的な例である。水俣病は熊本県水俣湾周域と新潟県阿賀野川流域で発生したもので、チッソ水俣工場と昭和電工から排出されたメチル水銀が水系を汚染し、魚介類によって生物濃縮され、それを食べた人間がさらに濃縮した結果として発病したものである。数千人が直接的被災にあっているが、生物濃縮に参加した人の数はその数倍にもおよぶ。また、イタイイタイ病はカドミウムが生物濃縮の対象物質になったものである(注17)。

このような重金属の他に、農薬など化学物質の生物濃縮も深刻である。日本で70年代初頭に事実上禁止された難分解性の有機塩素化合物であるDDT類やBHC類などは、現在の日本でも生物体中から発見されている。1990年の生物モニタリングでは、殺虫剤として用いられ1971年10月以降使用が中止されているDDT類のp,p'-DDTが魚類の検体数の37\%、貝類の28\%、鳥類の20\%から検出されている。農薬として用いられ、1971年以降使用が中止されているBHC類では、\alpha-HCH(ヘキサクロロシクロヘキサン)が魚類の28\%、貝類の40\%から検出されている。殺虫剤として用いられ1981年10月以降使用が中止されているディルドリンは魚類の31\%、貝類の48\%、鳥類の50\%から検出されている。また、トランス油、熱媒体として用いられ1972年以降一般には使用が中止されているPCB(ポリ塩化ビフェニル)などは使用が中止されて以降も環境中で検出される頻度が高まっている。PCBは1981年ごろにはモニタリングしている生物の半数くらいから検出されていたのにとどまっていたが、1990年の調査では、魚類の63\%、貝類の60\%、鳥類の50\%とから検出されるという、検出率の増加傾向があらわれている。また、船底に貝類を付着させないために用いられている猛毒のTBT(トリブチルスズ化合物)も1983年から1989年にかけて瀬戸内海で行われた調査では、スズキの100\%から検出され、貝類でも100\%近い検出率が測定されている。これらの事実は、生物濃縮による生態系の物質循環がわれわれの廃棄した化学物質をいかいに長期のわたって保存するシステムであるかを明確に示している(注18)。

人間が作りだした化学物質はこれまでに1,000万種を超え、そのうち数万種が実際に使用されているといわれている。OECD各国における、有害物質と指定されているものの年刊の一人中りの発生量は米国の1,150Kg、カナダの135Kg、旧西ドイツの80Kg、日本の6Kgなどと、指定物質の違いからばらついているが、最も少ない日本の量をみても、発生量は莫大である。これだけの有害物質が、環境に毎年蓄積をされるのである。生物濃縮型の環境破壊は、これまで象徴的にあらわれている災害が、特定の地域に限定されたものであるために、広域的な環境破壊にならないものであるかのような錯覚をもたらす危険性がある。しかし、現実にはこれだけの量の有害物質は局所的な問題にとどまることはおよそ不可能である。実際、この生物濃縮型環境破壊は、グローバル化する点に今後の最も大きな関心が払われなければならない。有害化学物質は、大気圏の中に放出され対流圏にまで乗ることによって、広範な領域で発見されるまでになっている。すでに、北極でも南極でも生物体中から、PCB、DDT、BHCが検出されているのである(注19)。

この生物濃縮型環境破壊は、他の二つの環境破壊の類型と、生態系に対する関係がまったく異なっている。すなわち、他の二つの類型は、人間の活動が生態系を破壊するという側面を持っているが、この第三類型は、生態系によって人間が破壊されるという側面を有しているのである。生態系が環境と物質的交換を行い、生態系内部の生物種が相互に依存しあっているという、生態系の本質的特徴が、人間に対する深刻な影響を与える武器になってしまっているのである。われわれが体内に取り入れるエネルギー源は、もともとは基本的に生態系の中から生み出された生物である。その生物が、人間自身の作りだした化学物質によって、人間にとって危険なものになってしまっているのである。
1.3.4 生態系の剰余と経済   (目次へ

これらの環境破壊の類型化とその内容から明らかになる重要な点は、環境破壊が基本的に生態系と経済の接点において発生していることである。したがって、環境破壊の問題を考えるうえで、われわれはまず生態系との関係の仕方の再検討が必要となる。

生態系の直接的な破壊は、人間による生態系から過剰な搾取を意味している。生態系はすでに繰り返し述べているように、その内部に不可欠の独自の物質循環をかかえているシステムである。したがって、生態系内のある主体の生産は他の主体の必要になっている。したがって、生態系の生産から生態系自身が必要とするものを残すことなく搾取すれば、生態系は定常的に自らを維持できなくなり破壊されるか継続的な縮小を余儀なくされる。このことは、生態系からの搾取が生態の生産から生態系自身が必要とする量を差し引いた部分、すなわち生態系の生み出す剰余の範囲内に抑えられなければならないことを意味している。

今日の人類の繁栄の基礎となった農業はアジアでは紀元前5000年頃に始まったといわれる。この農業は、生態系の意識的な再編成による剰余の能動的生産を目的としている。紀元前300年頃に始まったといわれる日本の稲作が以後2000年にもわたって持続できたのは、生態系の再編成が決定的な破壊にいたらないように、その方法を洗練させてきたからであることは否定できない。しかしこのことは、農業が安定してそれを持続させる方法と生産量の水準が存在することを必ずしも意味しないという点を忘れてはならない。すなわち、農業はその基本的な原理において常に生態系との矛盾の中にあることを否定できないのである。この点を理解するためには、複雑な例は不要である。農地には雑草が生えるという単純な事実を確認するだけでよい。栽培型農業において、雑草が作物の収量を減らすことに気づいたのは人類が農業を開始した以降のきわめて初期の段階であるのに違いない。リービッヒの法則に依拠しなくても雑草が何らかの意味で作物の成長に必要なものを阻害することは事実として確認することができるからである。一定の広さの農地は、それ自体、土とその中の微生物、地上の植物、それらに群がる昆虫などの動物達からなる典型的な生態系を構成している。その中で農業が意図しているのは、人間の労働力あるいはその他のもので測られたコストを最小にしながら最大限の作物を生産することである。しかし、生態系もまた自らの組織原理を持ち、それが人間の意図しているものとは両立しないことをこの雑草の例は示している。

農業に対して要求される効率性は、農業をある一定の農地の中でより少数の植物種の栽培に向かわせる。しかし、生態系は与えられたのうちのもとで雑多な植物をそこに生じさせる方向に自らを組織化する。したがって、農業はこの雑草を何らかの方法で排除しなければならなくなる。また、少数作物の栽培は、植物を餌とする動物達のバランスをシフトさせる。その少数作物を効率的にエネルギーとして取り入れることができる昆虫などを大量に発生させることになる。本来その昆虫達には天敵がいるのだが、大量の食糧のためにその存在を超えてしまうのである。そこで、この昆虫達も何らかの方法で排除すると、農地としての生態系は、生態系が本来備える安定した状態から、すなわちその安定的な均衡点からかなりはずれた状態に存在していることになる。これらの簡単な考察から予測しえることは、生態系は与えられたエネルギーを効率的に使いきることを目的にしながら、自らを組織するということである。この目的を実現するために生態系は多様な種を動員する。

こうした生態系と経済的原理との矛盾は農業の発生とともに生じたと考えなければならないが、こうした矛盾を解消するために行ってきた人間の努力が、生態系の力強い傾向に対して小さい範囲でおさまっている間は、環境破壊は人間の存在を脅かすような形では発生しなかった。しかし、この矛盾を解消するために、あるいは、この生態系の経済とはまったく異なった傾向に人間が打ち勝つために、強力な機械、あるいは、化学薬品という武器を使い出すことによって、状況はまったく変わってきた。

生態系に対して、産業革命以来人間がつくりだしてきた強力な武器を用いることは、確かに目先の効果をあげることができた。たとえば、農薬を使うことは農業生産物自身の収量を飛躍的に増加させることに成功した。このことは現象的には、生態系の生み出す剰余を大きく増大させたことになる。しかし、問題は剰余の測り方である。生態系の剰余を単なる目先の作物収量だけでみれば、確かにそれは増大している。しかし、それは本当の剰余ではなかった。すなわち、生態系を継続的に維持することを可能にするような剰余ではなく、他の要素の不均衡を強制しながら実現した。すなわちたとえば、さまざまな種の昆虫達の個体数のバランスを破壊した。土壌中の微少動物、あるいは微生物のバランスを破壊し、土壌中から生命的要素を排除し、土壌の物質循環における決定的な機能である、分解の場の提供という役割を破壊した。水の運動が持っている浄化機能を破壊した。こうした不均衡を発生させながら、作物に関して生み出された剰余だけで、生態系に対する意識的な組織化の結果を評価してきたのである。

いま必要なのは、生態系の全体的なバランスの中で、人間の獲得可能な剰余の量を正しく見積もることである。もちろんこの剰余の中には、生態系の浄化能力という要素に関する剰余も含まれる。すなわち、生態系が持っている浄化能力は生態系の運動の一つの副産物であり、それ自体がわれわれにとって剰余という意味を持っているものである。この、生態系から真に搾取可能な剰余は、決して幾何級数的な増加をしない。増加どころか、常にその能力を減じるような傾向が働いていると考えるべきである。経済の物的な成長の限界は、この生態系の非成長性によって確実に与えられているのである。経済の巨大化は、あらゆるレベルでの生態系的な成長制約にぶつかっている。
脚注
(1)これらの数字については、World Resources Institute, World Resources 1990-91, Oxford University Press: New York, 1990, (『世界の資源と環境』、世界資源研究所編、ダイヤモンド社、1991年刊)および『環境白書1991年版』、環境庁編を参照。(もどる
(2)森林破壊の理論的および実態的な考察については、四手井綱英、吉良竜夫監修、『熱帯雨林を考える』、人文書院、1992年刊、に詳しい。(もどる
(3)前掲書および堤利夫編、『森林生態学』、朝倉書店、1989年刊、なども参照。(もどる
(4)日本における野生生物種の状態もきわめて危険なものになっている。日本産の野生動物の種(亜種を含む)のうち、すでに絶滅してしまったもの、絶滅に瀕しているもの、存在基盤の脆弱なものの数が調査されている。それによると、脊椎動物1,199種のうちの258種、無脊椎動物33,776種のうちの403種がこうした状況に陥っている。また、日本に生育している植物種は、維管束植物8,118種、藻類1,850種、蘚類1,516種、苔類535種、地衣類2,295種、菌類約1万種であるが、絶滅あるいはその危険にある植物が895種存在していると報告されている。環境庁、『環境白書1992年版』、1992年刊、参照。(もどる
(5)『西暦2000年の地球』(アメリカ合衆国政府特別調査報告、逸見謙三、立花一雄監訳、家の光協会、1981年刊)は、地球上に存在する300万から1000万の種のうち50万から60万種が西暦2000年までに失われると予測している。生物種の減少については、幸丸政明、「生物種の現況」、『地球規模の環境問題II』所収、大来多佐武郎監修、中央法規出版、1990年刊、も参照。(もどる
(6)たとえば、M.Begon, J.L.Harper and C.R.Townsend, Ecology, Second Edition, BlackwellScientific Publication: Boston, 1990、など参照。(もどる
(7)E.P.Odum, op.cit..(もどる
(8)遷移の過程で、生態系は投入エネルギーと廃熱エネルギーの生産量が等しくなっていく傾向を有する。すなわち、生態系は成熟すればするほど廃熱の生産効率が高まるのである。この点については、E.P.Odum, 1969, ``The Strategy of Ecosystem Development", Science, Vol.164, pp.262-270. G.D.Cooke, 1967, ``The Pattern of Autotrophic in Laboratory Microcosms", BioScience, Vol.17, pp.717-721、などを参照。(もどる
(9)国連環境計画(UNEP)の報告による1984年段階の現状では、砂漠化は世界のほとんど全域で進行し年間6万Km2が新たに砂漠化ないしは砂漠のように荒廃した土地となり、経済的生産性がなくなった土地が21万Km2ずつ増え、砂漠化による被災農村人口は、1億3,500万人になっている。この砂漠化の現状については、門村浩他著、『環境変動と地球砂漠化』、朝倉書店、1991年刊、佐藤一郎著、『地球砂漠化の現状』、清文社、1985年刊などを参照。(もどる
(10)今日では、人糞尿は生態的な物質循環に入らないように努力されるという逆の方向への努力が行われている。都市の発展は人糞尿の直接の生態的な物質循環への回帰を困難にしたといえる。すなわち、都市には人糞尿を自然に変えす場がない無いのである。しかし、人糞尿には原理的に直接人間に必要なほとんどの栄養塩が含まれている。もちろん間接的には人間の食料となる動物肉が必要とする栄養塩も考慮しなければならない。この栄養塩の累積としての糞尿を生態循環に帰さないことの問題を最も早い時期に指摘したのは、ドイツの化学者J.リービッヒである。また、『レ・ミゼラブル』でユゴーはこの問題を文学として表現した。「科学は長い探求のすえ、今日では、肥料のうちで最も養分の多い、最も有効なのは人肥であることを知った。\ldots 肥料性の点で、どんな鳥糞石(グアノ)も、一都市の排泄物にはかなわない。大都市は、盗賊鴎のうちでも、最も強力である。田野の肥料に都市を使えば、きっとうまくいくだろう。われわれの黄金が糞尿だとすれば、逆に、われわれの糞尿は黄金である」(『レ・ミゼラブル(五)』、新潮文庫、佐藤朔訳、1967年刊、p.125)。そして、明治以前の日本においては「黄金」である都市の糞尿は大事な肥料として農村に買い取られていったのである。12軒長屋の一年間の糞尿が米750Kg分の価格がついていたといわれる。『江戸時代にみるニッポン型環境保全の源流』、『現代農業』1991年9月臨時増刊、農産漁村文化協会刊、参照。(もどる
(11)河村武、岩城英夫編、『環境科学I---自然環境系---』、朝倉書店、1988年刊、前掲、『環境白書1992年版』、参照。(もどる
(12)谷山鉄郎、『地球環境保全概論』、東京大学出版会、1991年刊、参照。(もどる
(13)酸性雨については、植田洋匡、「酸性雨」、『地球規模の環境問題I』所収、大来多佐武郎監修、中央法規出版、1990年刊、参照。(もどる
(14)温暖化ガスの排出問題については、4.1節も参照せよ。(もどる
(15)こうした生物濃縮型の環境破壊に対して、人々がその問題点に気づいていない時期に、強烈な警鐘を鳴らした書として、レイチェル・カーソンの『沈黙の春---生と死の妙薬---』(新潮文庫、1974年刊、Rachel Carson, Silent Spring, Penguin Books: London, 1965.)、をあげなければならない。彼女の化学薬品による自然と人間の破壊にたいする批判は、今日でもなお有効である。(もどる
(16)瀬戸昌之、前掲、『生態系---人間存在を支える生物システム---』、参照。(もどる
(17)谷山鉄郎、前掲、参照。(もどる
(18)前掲、『環境白書1991年版』および『環境白書1992年版』、菅原淳、森田昌敏著、『生物モニタリング---有機物の体内蓄積をみる---』、読売新聞社、1990年刊、などを参照。(もどる
(19)後藤典弘、「有害物質とその越境移動」、前掲、『地球規模の環境問題I』所収、中杉修身、「有害化学物質」、同上所収、などを参照。(もどる

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