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「環境と社会経済システム」

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第 1 章 自然と社会システム
  1 節 環境危機をめぐる社会と個人
   1.1 個人の責任と社会の責任
   1.2 個人間関係の間接性と直接性
   1.3 社会と社会システム
  2 節 社会システム化の自然原因
   2.4 自然にたいする能動性と受動性
   2.5 物質循環への意識的介入と社会システムの発生
   2.6 交換経済と社会システム
   2.7 社会システムのエコロジー的疾患
  3 節 システム化による社会の変容
   3.8 人格的ネットワーク社会
   3.9 二重システムの社会
   3.10 社会システムと規模の問題
  4 節 社会システムと生態系
   4.11 システムとしての共通性と差異性
   4.12 生態系からの社会の自立性
  5 節 社会システムとしての近代工業社会
   5.13 社会的剰余と農業社会
   5.14 工業社会における利潤と経済成長
   5.15 社会システム問題としての景気循環
   5.16 経済成長と環境破壊
  6 節 マクロ目的の終熄



第 1 章 自然と社会システム   (副目次へ

この章では,環境問題を引き起こしている社会構造の一般的な解明をおこなう。人類が本格的に農業を開始して以降の社会は,それを構成する個人の意志や目的から独立した,全体としての意志や目的によって支配される社会となってしまった。本書では,このように目的が二重化*し,それにともなう構造もまた二重化してしまった社会を社会システムと呼んでいる。私たちが生きているこの工業社会は全体としての目的が経済成長にあり,この目的を軸に組織されている社会である。そして,この個人から自立した経済成長という目的のもとで,社会によって自然環境の過剰な利用と破壊が進行しているのである。本章ではさらに,このような社会システムが歴史的に形成される過程,および経済にとっての主要な環境である生態系というシステムとの比較もおこなう。

1 節 環境危機をめぐる社会と個人   (副目次へ

1.1 個人の責任と社会の責任   (副目次へ

自然環境をめぐる危機は,回避する展望も見出されないままに,地球的規模で進行している。多様な環境保全機能をもった森林は大規模に伐採され,農地,工業用地,宅地へと変えられ,自然の水流は人工化し,その水はさまざまな有機化合物*,重金属*によって汚染され,石油の大量使用に直接・間接の起源をもつ大気汚染が執拗にはびこり,また気候変動や酸性雨*などの危険性をもたらしている。人間のつくり出したあらゆる汚物の最後のたまり場は,すべての生命を生み出した母体としての海である。海から蒸発した水分は,大気と大地をめぐるなかで人間にとって不愉快な存在としてのあらゆる汚物を人間の視野から消し流し,再び戻ってくる。人間の活動は,地球を他の惑星と比較して最も特色づける巨大な存在としての海を,その浄化能力以上に汚しつづけているのである。さらに,自然環境の破壊は,現在世代の人間の生活を破壊するばかりではなく,将来の世代に回復困難な負の遺産を残すことになる。

これらの自然環境の危機が,人々の生活とは無関係なところで発生しているとは決していえない。自然環境の危機は一面では社会を構成するそれぞれの個人の物質生活を豊かにしている要因でもある。したがって,このような危機を回避するために,一人一人が生活のあり方を見直すことが必要だということは,多くの人によって語られている。一人一人が,生活を維持するために必要とする物質やエネルギーの負荷を最小限にすること,企業もまた物質とエネルギー利用効率をより高めること,これらが強制であれ自発的なものであれ,環境危機の回避のために最終的に必要となることは確かである。

「地球のためにあなた自身に何ができるのかよく考えよう」などと,呼びかけられることは,今日,私たちのしばしば経験するところである。しかし,一人一人が環境のために何かすること,あるいは個々の企業が環境のために何かすることの積み重ねが,最終的に環境の危機を回避することにつながるかといえば,それは確かなことではない。その点を,「個人の行動には限界がある」というように表現することにも曖昧さがある。確かに個人という意味が社会のなかでの一人という意味での個人ならば限界は明らかだ。しかし問題は,ある社会を構成するすべての個人がそれぞれ自分の範囲で努力することによって環境危機が解決されるわけでもないことである。

たとえば,日本の場合,かりにすべての個人が環境のために,生活の維持に必要な物質とエネルギーの使用量(物質・エネルギー負荷)をある一定の割合でいっせいに減少させたとする。おそらくその割合が1割にもなれば,この社会は完全に機能停止におちいり崩壊してしまうだろう。1年以内に1割の減少が不可能なことは明らかだが,いまの社会のあり方を前提にする限り,10年以内であっても困難だろう。個人の行為がいくら積み重ねられても,社会的にみてその個人の意図どおりの結果があらわれるとは限らないのである。環境の危機が確実に進行するなかでも,問題解決への確実なあゆみが開始されないのも,根本的にはこのようなところに要因がある。

そもそも,自然環境の破壊と保全をめぐる問題の多くあるいは主要な部分は,個人や企業といった個別主体の問題の集積によって発生しているとはいいがたい。個人を超えたところで進行する環境破壊のメカニズムあるいは構造が,私たちの社会にはめ込まれていると考えるべきである。それは,私たちの社会に,あらゆる意味で環境の破壊に手を貸していないという意味での真正の環境保護主義者*など,存在しないことを意味する。人が社会の一員である限り,社会によっておこなわれている環境破壊への荷担の責任をまぬがれることはできないのである。

1.2 個人間関係の間接性と直接性   (副目次へ

結局この問題は,「社会と個人」*という古くて新しい問題の環境版である。すなわちそれは,社会の意志とそれによる行動は個人の意志や行動の単純な総和ではないということをあらわしている。私たちの生きている社会には,与えられた社会構造を前提とする限り,それを構成する個人の意志や行動から自立している全体としての意志や行動が存在しているのである。社会を個人から相対的に自立した統一体としてとらえ,そこに独自の意志と構造があることを認めない限り,社会を正確にとらえることができない。それはまた,社会のこのような全体性を正しく認識しない限り今日の環境問題全体の解決の糸口をみつけることができないことを意味しているのである。

したがって,分析の出発点は,なぜ私たちの社会はこのように個と全体が相互に自立し一面で対立するような構造をもっているのか,あるいはもたざるをえないのかを冷静に考えてみることである。この問題は,社会科学の基本問題といってもいいくらいの重要性をもっている。おそらく無数の社会科学者がこの問題に挑戦してきたであろうし,それに応じて無数の解答が提起されてきているはずである。このような問題に,一般的な解があるかどうかは,私にもわからない。しかし,自然環境の劣化や破壊を引き起こしている経済構造や社会構造を問題にする限り,この点についてなんらかの認識を示さざるをえない。本書ではさまざまなところで,この問題がくりかえし議論されている。したがって,この章では完全な解を与えることはできないかもしれないが,基本的な見方は提示しておくつもりである。

個と全体が対立するような社会構造を理解するためには,まず個人のあいだの一般的な関係のあり方の問題から出発する必要がある。人々の集まりが,社会というまとまった集団を構成するうえでは,それらの個人がなんらかのかたちで結びつきをもっていなければならない。そして,人類が石器と火を手にして以来,歴史的に登場したどの社会も大きく分類すれば,その基本的な個人間の結びつき方には二つのケースが存在した。第一は,個人間の関係が直接的な場合である。すなわち,ある個人が別な個人となんらかの関係を結ぶ理由が,相手の個人がある顔と性格あるいは意志や能力などの全体をもった一人の特定の人格にあるとき,関係が直接的であるという。そして,全体を構成するどの二人の個人の関係も基本的にこの直接的関係であるような社会がある。第二には,このような直接的関係ではなく,なんらかの物質的なものによって媒介されながら個人間の関係が構成され,全体として一つのまとまりをもつような社会がある。すなわちそこでは,相手の人格ではなく,両者に共通の物質的なあるものが存在していることが,両者の関係の前提になり,そのような関係の前提によって社会がまとめられている。この段階ではまだ抽象的だが,このような言明を出発点にして,社会構造の理解にアプローチしよう。

この「関係が直接的である」とはやや難しい表現かもしれない。それは,個人のあいだの関係がなんらかの非人格的な「物質」を経由して,あるいは媒介にして成立しているものではなく,相手の人格を相互に承認しあって,相互の意志によって媒介されている関係であることを意味している。社会を形成するものではないが身近な例をあげれば,文化・スポーツサークルなどは直接的な関係であるといってもよいだろう。企業などは主に労働と賃金の交換というものによって媒介されている集団である。町内会などは関係の直接性は高いが,区画整理組合や水利組合などになると土地や水に媒介されているという意味でこのような直接性は希薄になる。

集団を構成している個人のあいだの関係がこのような意味で直接的であれば,全体の意志は個人の意志の相互作用として実現しているものであるということができる。もちろん,それは集団内の一部の個人やグループが全体の意志とちがった意志をもちちがった行動をとることを否定するものではない。また,個別の意志を集団の意志に統合する過程に誤りがあり,必ずしも合理的なものではなかったとしても,集団の総意は個別意志を集計することによって実現しているという擬制(フィクション)が内部においても外部にたいしても有効でありうる。

問題は,現在の社会が,関係の直接性の希薄な,したがって個人のあいだの関係が物質的に媒介されている集団として成立しているために,個人の意志の総和と社会全体としての意志のあいだに抜き差しならない断絶がつくり出されている点にある。社会における直接的な関係の希薄性は,その本体を構成している経済が,市場における財やサービスの交換によって組み立てられていることに起因している。ただし,市場における財やサービスの交換に人格的要素がまったくないというわけではない。その財やサービスが「あの人によって供給されている」から優れた品質をもっているはずだ,などということがありうる。しかし,その場合でも中心にあるのは財そのものである。市場が広く一般化すればするほど,このような個人の人格と結びつけられた要素は希薄になるのである。

もちろん,政治的な統合体としてみた社会は,個人のあいだの相互依存関係の直接性,人格と人格の直接的な関係性が高いものとなる。政治に参加する最も重要な場は各種の選挙であるが,投票の権利*は個人の人格,「ある特定のその人」に付与されるのである。したがって,政治的な統合体としてみた社会においては,諸個人の総意としての社会の意志という論理が成立する可能性を否定できない。ただ,その総意を形成する手続きにおいて,民主主義の理念*として語られているようなものが実現しているかどうかは問われなければならない。またそれが,民主主義的であったとしても合理的なものでない場合もありうる。いずれにしても政治的にだけみた社会には,一つの擬制であったとしても「社会の総意」が意味をもつ場合がありうるのである。

しかし,環境問題を引き起こしているのは主に社会の経済的な側面であり,さらに重要なことは少なくともこれまでの政治は,その経済の許容する範囲で,経済にたいして規制を加えているだけであったということである。すなわち,これまでの政治は,経済における個人と社会の関係に基本的に規定されていた。政治は,個人の意志の分布状況や強さとは離れて成立している社会としての経済の意志あるいは目的にたいして積極的に規制を加えるどころか,環境の危機の原因である経済活動を自由に開放しつづけてきたといってもいいすぎではないだろう。環境の危機を回避するうえでの政治の役割は大きい。社会としての経済,全体としての経済にたいして積極的に介入することのできるのはまず政治である。その介入のあり方を問題にするためにも,経済としてみた社会のあり方およびその社会と個人の関係について正しく理解することは大切なのである。

一般に,社会*は,人間が生殖などの生物としての機能を維持するための生活,衣食住にかかわる必要な生活資材をえるための生活行為,これらをおこなうための集団形式である。したがって,人間が存在するための普遍的な集団形式であると考えられる。いいかえれば,人間が持続的に存在するところではどこでも社会があるということである。ただ,そのことは,つねに社会が人々の衣食住にかかわる生活を支えることを目的に組織されていることを意味してはいない。社会が現実にどのような目的をもち,どのように構造を組織し,どのように機能していようが,結果として社会を維持する程度には人々の生活を支えなければならないことを意味しているにすぎない。

以下ではとくにことわらない限り,このような人々に生活のための物的な手段(サービスも含む)を供給する人々のあいだの相互関係を軸にとらえた社会をただ社会と呼ぶことにしよう。

1.3 社会と社会システム   (副目次へ

環境の危機を回避するうえで問題になるのは,私たちの現在の社会がそれを構成する諸個人の意志から自立した意志をもち行動しているということである。すでに述べたようにその自立性の要因はその社会を構成する個人のあいだの関係の特別なあり方にもとづいている。すなわち,財や,資源や廃棄物など人々の生活の維持に必要なさまざまな物質の形態を「モノ」*とあらわすならば,社会を構成する個人(企業などの経済主体も含めて)の相互関係がモノによって媒介されているのである。そしてモノは人々の関係をあらわす単なるシンボルのように,静的にとどまっているものではなくて,人々のあいだをダイナミックに流れているのである。この状況を単純な図であらわすと,図~F1 のようになるだろう。



図(F1)モノに媒介された相互関係}

社会のなかでの個人の意志は,モノの流れへのかかわり方にあらわれるが,その流れの部分にしか関係しない。一方,社会の意志はその全体に関係し,ある基準で測って流れの全体の望ましいあり方を追求するのである。さらにまた重要なことは,モノの流れにかんして社会が組織されているために,個人の行動が社会の他の部分にも影響を与えるような逐次的なあるいは階層的な連関を生み出すのである。たとえば,図~F1においてモノ1をめぐる A と B のあいだの関係は,C にも影響を与えるが,C は流れの下流にあり,A や B の決定をくつがえせないという点では,社会関係の階層性*が必ずあらわれてくるのである。

このような相対的に自立した全体性をもつ構造化された社会のことを特別に社会システム*と呼ぶことにしよう(注1)。ただし読者には,このような命名法が奇妙であると思われるかもしれない。というのは,経済を軸にしてとらえた社会には,このようなモノに媒介されない社会がありそうもないからである。もし社会がすべて社会システムであるならば,社会と社会システムを区別する積極的理由がなくなる。このような区別が議論を不必要に複雑にするだけであることは明らかである。

しかし,社会と社会システムを区別することは次のような意味で積極的な意義をもつ。まず第一に,社会が自給的色彩の強い小集団の分散的なネットワークによって構成され,小集団としても社会としても日常的には自立した全体性がない集団形式は現代においても存在している。とくに,工業生産物が浸透していないところでは,このような構造化されていない程度は高い場合が多い。あるいは,時代をさかのぼればさかのぼるほど,このような社会のあり方はより高い空間的な頻度で発見される。日本においても,明治以前のアイヌの社会*においてこのような集団形式が存在していた。さらに最も重要な事実は,日本に灌漑水稲農耕*が導入される以前の1万年近い期間持続した縄文時代の社会構造は社会システム化されることのない社会だったのである(注2)。

第二に,社会が社会システムとして構造化されるのにはさまざまな程度,あるいは質の差異があり,現存する社会をこのような視点から観察することによって社会にたいするより立体的な理解をえることができるのである。私たちにとってはとくにこの後者の点が重要である。というのは,社会が社会システムとして高度の構造化をすればするほど,そして,社会を構成している個別主体の許容される自由が大きなものであればあるほど,人間の存在にかかわる環境の危機を回避することがより困難になるようにみえるからである。

社会を構成するより多くの個人,企業などの主体が,みずからの可能な範囲で行動することは,自発的なものであれなんらかの強制によるものであれ,身近なあるいは地球レベルでの環境の危機を回避するために必要である。しかし,それはあくまでも必要条件であって,十分条件ではない。全体としての社会の意志あるいは目的による行動が,この危機をまねいている側面を無視できないのである。このような社会目的の自立性は,私たちが非常に高度に構造化された社会システムとしての社会のもとで生活していることの必然的な帰結である。したがって,環境危機の回避のためには,この社会システムにたいするより深い理解が不可欠である。これまでのところでは,社会システムにかんする最も重要な帰結を示しただけである。本書全体を通してこの問題がより展開され,また解明されるだろう。

2 節 社会システム化の自然原因   (副目次へ

2.4 自然にたいする能動性と受動性   (副目次へ

社会システム*は人間が自然に対峙しているなかでおこなわれた,人間知性による一つの発明*である。あらゆる発明と同様に,それは必然的と思わせるような結果をのちにもたらすものである。たとえば,印刷技術*が一つの人類史上の発明であることは一般に認められているが,印刷技術なしでは考えられない社会のもとにいれば,それは人類史上必然的になされたはずの一つの発明であると考えざるをえなくなる。社会システムもまた,これほど高度な社会システムのもとにいれば,社会が社会システム化するのもほとんど必然であると考えざるをえなくなってしまう。さらにもう一つ他の発明と同じような性質をもっている。それは強い不可逆的な伝染作用である。印刷技術もまた,それがいったん導入された社会では情報の記録と伝達にかかわる類似の方法を駆逐してしまう。社会システムもまた,構造化されていない社会にたいして強い伝染力を有していたからこそ,世界にここまで普及したのである。

人間が社会システムを形成したこと,あるいは現在それを形成していることは,自然にたいする全体としての姿勢が,受動的なものではなく能動的なものになっていることをあらわしている。あくまでそれは全体としてであって,部分的にはその全体としての傾向とは異なる面をもつことはありうることである。注意しなければならないことは,社会が自然にたいして受動的であることと積極的であることを,人類の「進歩」*における前後関係の問題としてとらえてはならないということである。すなわち,「初期の人類は自然にたいして受動的であり,自然の脅威と気まぐれの前に人間の生存は厳しい制約を受けていた。しかし,自然にたいする理解が深まるなかで自然を人間にとって望ましいように改変することによって自然の制約を少しずつ克服し,より確実で拡大された存在を可能にしていった」というような,ありきたりの陳腐な進歩史観*上にこの問題を位置づけてはならないのである(注3)。

人類史上の変化のすべての軸において進歩が存在したとみることはできるだろうか。明らかにそれはできない。たとえば,兵器*の進化の過程において,核兵器*を生み出したこともまた進歩であるなどとは決していえないはずである。あるいは,はじめにも述べたような人類の永続的存在を脅かすような,環境の汚染と破壊をもたらすような技術が,進歩の結果であるとは一面でしかいえないのである。たとえ,人類史の全体の過程が「進歩」であるとしても,個々の軸では「退歩」したものも少なからず存在する。そして,社会が全体として自然にたいして受動的なものから能動的なものに変化したことも,また,一概に進歩であったとはいえないのである。

自然にたいして受動的であるとは,そのもとにある人間の存在の脆弱性をただちに意味するわけではない。そこでは,人間自身の存在のために多様な構造を自己組織化*する自然の傾向あるいは運動を尊重し,それがもたらすめぐみで社会と生活を支える基礎とすることもできる。したがってそれは,人間の存在を脅かす自然と積極的に戦うことを否定するものではない。人類が数百万年にもわたって地球上で存在しつづけてこれたということ,そしてそのほとんどの期間は基本的に,ここで述べたような自然にたいする受動的な姿勢のもとで存在しつづけたことは,自然のなかに人間の存在を許容する空き部屋が存在したことを意味する。それは,自然のなかで人間によって処分されてもいいような過剰な生産,あるいは人間も含めた大型哺乳類*によって利用されることを前提にしたような生産をおこなうことができていたことを意味する。人間を自然と区別されたものとする見方に立てば,人間によって利用される自然による生産物は,自然にとっての剰余*をあらわしているのである。

自然による受動性の高い社会や生活においては,自然の多様性*と生活の多様性が不可分の関係になっていることに注意を払わなければならない。生物と非生物の存在によって構造化された自然,すなわち生態系(エコシステム)*は自己の存在能力を高めれば高めるほど多様な種によって構成されるようになり,それがもたらすめぐみである剰余もまた多様な種の多様な生物的生産によってあらわれてくる。植物や動物の一つ一つの種そのものが多様な生産物の複合体であるが,それらの多様な種が生態系を構成し,多様な剰余を生み出すのである。多様性はそれにとどまらず,自然のめぐみがいろいろな季節にまたがって生み出されたり,いろいろな場所で生み出されたり,剰余*の時間的,空間的な多様性も生じてくる。人間の生活と社会が自然の剰余によって支えられるということは,その生活と社会もまた自然の多様性*を受け入れる技術をもち,それに対応した生活様式あるいは文化をもっていなければならないことを意味する。このように,自然にたいして受動的な社会では,自然との関係は多様化し複雑化する。

これにたいして,自然にたいして能動的であるとは,生物の相互依存関係あるいはそれらと非生物的自然との相互依存関係からなる構造の人工的組織化がおこなわれることである。農業がこのような関係の一つの典型であるが,工業も含め人間の今日の経済活動のさまざまな側面でこのような自然との関係が発生する。経済活動の物質的なみなもとの一つは,明らかに自然からの生物的あるいは非生物的な資源の搾取である。そこでおこなわれることは,自然との関係における選択と,断絶による単純化である。人工的組織化に必要な要素が選択される一方で,不必要なものはそれがおかれている自然の状況,相互依存関係のいかんにかかわらず廃棄される。

たとえば,農業においては特定の生物種が馴化*される。本来その生物の原種が存在した生態系においては,その生物は他の生物に依存し,また他の生物種の存在に一定の役割を果たしていたはずである。馴化のプロセスは,そのような環境からの人工的環境にふさわしい種への変化をあらわす。そして,人工的環境のなかでその種は人間の基準からみた高い生産性をあげることが期待されるのである。工業的な側面における自然との関係でも,工業材料として木材を自然から搾取する場合は農業とよく似たことがおこる。また,非生物的な資源を搾取したりする場合も,それが他の生物種とどのような関係にあるのかについて一般に十分な配慮がおこなわれない。

このような自然との関係における最も重要な特色は,あらゆる面における単純化である。これは一種の逆説のように聞こえるかもしれない。というのは,人類は自然科学的な知識を不可逆的に蓄積し,自然そのものがもっている複雑性*を解明してきたことは明らかであり,それによって自然にたいして多様で複雑な関係を形成することが可能になったように考えられるからである。しかし,現実に自然の複雑性にたいする理解の深まりが,自然との関係における複雑化よりも,逆に,単純化を生み出してしまっている。それは,科学のもっている分析的思考*に起因している面もあるだろう。つまり,自然の要素を可能な限り他との関連からきりはなして,その存在や運動の原理を解明することが科学の役割だったのであり,自然現象相互を関連づけ,体系化し,総合化することは科学にとっては大変荷の重い仕事だったのである。また,科学にとって,自然現象を全体論的視点*からとらえることはさらに困難なことだったのである(注4)。

これと対比すれば,先に述べた自然にたいする姿勢が受動的な社会においては,自然についての知識は,総合化された知識*が基本になる。植物や動物どうしの関係,植物と動物のあいだの関係において,人間にとって何が食糧として利用可能であるかを知る。あるいは,気候や季節の変化にたいする動物や植物の関係にたいする知識などが大きな役割を発揮する。すなわち,近代科学*におけるような自然の個別的な要素にたいする知識は比較にならないくらい浅いものであったにもかかわらず,現象の相互関係にたいする総合的知識*が生活において重要な役割を果たしえたといえる。

2.5 物質循環への意識的介入と社会システムの発生   (副目次へ

上に述べたような意味での,人間の自然にたいする能動的な姿勢は物質循環という生物と非生物の織りなす自然の大構造*にたいする積極的な介入を生み出し,それとともに社会システムは発生*した。

物質循環*とは,地球とそれをとりまく大気の層を含む閉じた空間内における物質の運動である。そのなかでも最も重要なものは太陽からのエネルギーに駆動され,地上,地中,河川,海洋,大気などのあいだを固体と液体と気体という相の変化をくりかえしながら運動している水の大循環*である。水*は,液体の状態においてはさまざまな物質を溶かしこむ高い溶解力をもち,相変化を除けば化学的に高い安定性をもち,流動性も高く,高い比熱をもっているために気候を安定させ,エネルギーを利用したのちの廃熱の運搬能力も高いなどの重要な性質をもっている。地球上の生物は程度の差はあれ,水を基本に生物体を構成し,水の流れのなかではじめて生命を維持することができるようになっている。さまざまな生物にとって必要な物質は,また,水の流れによって移動する。

社会にとっての自然環境としての生態系は,この水の循環のなかで持続性の高い構造を自己組織化*する能力をもっている。生態系*は,逆に水の流れのもつ本質的な無秩序さを克服し,より安定した水との関係を確保するために,さまざまな植物,さまざまな動物,あるいは無数の種類の菌類やバクテリアなどの生物相互の関係を,高い秩序性とともに構造化している。

小さな滴ですら岩を溶かし,大きな水の流れは洪水によって地形を変える能力をもつなど,水の流れは生命にとって危険な存在でもある。大気の循環の不確実性*が,気候の不確実性を生み出し,生命にとって必要な水がどの時期に存在するのかを不確実なものとしてしまう。このように無秩序*な水の流れ,あるいはそれにともなうさまざまな物質の流れを,生態系はみずからの構造に高い秩序性をもたせることによって,安定化させるのである。また,水の流れは上に述べたような性質から,存在する秩序を解体する力ももっている。このような,秩序解体傾向にたいして絶えず構造化された秩序を再構成することも,生態系には要求されるのである(注5)。

先に述べたような意味での自然にたいする受動的な社会においては,物質循環にたいする関係の仕方が,間接性の高いものとなる。水を確保するにしても生活に必要なさまざまな資材を確保するうえでも,物質循環と裸で接してそれを実現するのではなく,生態系というバッファ*,緩衝構造を媒介にして実現するのである。したがって,このような自然にたいして受動的な社会では,たとえ物質循環に直接接する,あるいはそれを制御するということがあったとしても,それは部分的なものにとどまり社会の特質を変えるものとはならない。

一方,自然にたいする能動的な社会においては,生態系への依存度が低下するとともに,自然にたいする緩衝装置を人工的なものに置き換えなければならなくなる。社会と物質循環との直接的な関係が問題になってくる。最初に直面する主要な物質循環はもちろん水の循環*である。水の流れを制御することは,社会が高い秩序性のある構造を有することを要求する。それは,生態系が水の循環にたいしてつくりあげたものにちょうど対応する。すなわち,水の流れはそれ自体が無秩序と,不確実性を有し,また存在する秩序への破壊的な作用をもっているために,それを克服し必要な水をできる限り望ましいかたちで確保するために,持続的に再生される秩序ある構造が社会にたいして要求されるのである。そして,この点に起源をもつ構造化された社会が社会システムに他ならないのである(注6)。

水の流れを制御しようとすれば,上流における利用と下流における利用が関係づけられることを避けることはできなくなる。また,同じ上流をもつ下流どうしがまた関係づけられるのである。すなわち,それは先に述べた物質的な流れに媒介された関係である。この流れのなかで個別主体はその流れのどれかの部分に個別化された利害,目的をかかわらせている。自己の目的にそって身近な部分の水の利用を最適化しようとしているのである。

決定的に重要なことは,水の流れによって相互に関連づけられているために,部分の最適化と全体の最適化の両立が一般には実現しないということである。水をどのような目的で(利用したあとの水質にかかわる)どのような時期にどれだけの量利用するのかということが個別主体の自由な決定にゆだねられると,全体としての利用の最適化が達成できない。いいかえれば,水の流れを利用する場合における,関連づけられた個別目的と全体目的とのあいだにあつれきが生ずるのである。

農業の場合を例に考えてみよう。農業における水の流れの制御とは灌漑*である。たとえば水稲*を灌漑によって生産する場合,季節,気温,土壌の質,水稲の品種に依存した適切な時期,時間に灌水や排水をおこなわなければならない。渇水の時期に,それぞれの個別的な水稲経営主体のあいだの水利用をめぐる対立が発生することは明らかだが,渇水ではなくても,水利用をめぐる利害の対立は発生する。そのような状況のもとで,ある水系の全体の水稲生産を最適化すること(多くの場合それは最大化すること)が,個別利用における最適化と両立することは困難である。ここにあらわれているのは,社会の全体的な意志・目的と個別的な意志・目的との対立であり,それは社会システムにおける固有の現象なのである(注7)。

2.6 交換経済と社会システム   (副目次へ

先に述べたように,社会システムは一つの発明品であり,灌漑農業とともにそれは発生した。そして,他の発明品と同様に,発明時の直接的な条件からはなれてそれは普及してきた。すなわち,灌漑が社会システムを必要とするほど発達していなくても,それは社会の一つの特殊形態としてさまざまな条件下に移植された。あるいは,同じ社会において,歴史の経過とともに灌漑にたいする依存度が相対的に低下するという新しい条件のもとでも,ひきつづき社会システムは発展していった。しかし,このような異なった条件のもとへの展開においても,社会システムを支える本質的な条件は失われなかったと考えられる。すなわち,社会システムを構成する諸個人間の関係は,物質的な流れによって媒介されるという特徴がそのまま維持されたのである。この新たな媒体は,生産物の流通である(注8)。

灌漑農業の場合において,農業生産物が統一的な権力のもとで一元的に管理されていれば,内部的な生産物の流通は自立的な主体の交換という形態をとらない。したがって,その場合の社会システムはあくまで灌漑という生産条件における物質的な流れを基礎にして成立するのである。しかし,農業生産物でもその他の生産物でも異なった生産物が社会の異なった部分で生産されるようになり,交換をとおして異なった主体のあいだを物資が流通するようになると,物流に媒介された個人間の関係によって社会が構成されるようになる。

このような交換経済*において各主体は物資の流通するなかから自己が獲得する物資や労働の種類と量,そのために手放さなければならない物資や労働を自己の目的にとって最適であるように調整する。しかし,そのことは自然から獲得し自然のなかに廃棄するまでのモノの流れ全体にかんする目的を最適に実現するものではない。個別主体のあいだの利害が対立するものである限り,社会的な目的がなんであれ,個別目的と社会的な目的のあいだの利害が対立する(注9)。

このような交換経済におけるモノの流れも,地球上における物質循環の構成要素であり,この物質循環への意識的な介入という側面をもつことは明らかである。ただ,先の灌漑における水の循環への介入とは異なり,物質的な流れそのものが,高い人工的性格をもっている。このように,交換経済にはいってくる物質の流れは,灌漑における水の流れの場合と比較して,自然にたいする自立性が高いことにも注目しなければならないだろう。

この物質的な流れを生み出すために,水だけではなく鉱物資源,化石資源,生物資源など多様な資源が利用される。これらの資源は,地球規模の物質循環においては,鉱物のように数千万年以上の長い周期の循環から,水の循環でいえば,平均して数百年から数千年という周期での循環があり,生物を構成する栄養元素でいえば,完成度の高い生態系を前提にすれば,数年あるいはそれよりも短い周期での循環もありうる。もちろんそれぞれの物質的性質もいちじるしく異なっているのが一般的である。人間の生産活動はこれらの物質を適切に結合し混合し,財をつくり出す。そして,それは利用されたのちは廃棄や焼却されて自然のなかにもどっていくのである。

2.7 社会システムのエコロジー的疾患   (副目次へ

社会システムが,社会の物質循環への特殊なかかわり方によって発生し,また維持されていることを明らかにしてきたが,環境危機はまたこの物質循環の問題として発生している。すなわち,社会への物質循環*の部分的な取り込みであるところの環境からの生物的・非生物的資源の搾取,物質循環の制御能力をもった生態系の直接の破壊,環境への同化能力*以上の物質の廃棄によって引き起こされているのである。

そして,その社会システムは,個人の意志や目的から自立した社会全体としての意志や目的を不可避的に形成せざるをえない。それは,環境危機が,個人から自立した社会の意志によって引き起こされることを意味している。さらにいいかえれば,人間は物質循環に能動的に介入し制御しそれを人工化するにともなって社会システムを構成してきたが,それが不可避的に個人の意志から自立した社会全体としての意志,目的を生み出し,社会の物質循環への過剰な負荷をかけ環境危機をもたらすことになったのである。

しかし,社会システムという社会のあり方が物質循環にかかわる環境危機を引き起こしていると即断してもよいかどうかについて,ためらいがあっても当然である。システム化した社会においては,個人の生活行為が直接に引き起こす環境破壊は比較的にわずかなものである。環境破壊は主に社会の意志あるいは目的に規定されて引き起こされているのである。したがって,社会の全体的意志が環境にたいして,物質循環にたいして健全なものであれば,このような環境危機は回避できそうである。しかし,これには重大な障害がある。

いま,かりに社会の全体的意志が環境との整合性を重視するものに変わったと考えよう。そのためには環境との物質的なバランスをつねに均衡させるように社会を調整していかなければならない。また,社会を構成する諸個人の意志から,社会全体のものとしての環境との調和的な意志を合理的に形成しなければならない。しかも,その均衡を社会と環境の変化のなかでつねに維持するためには,社会全体の意志を個人の意志から結晶させるような過程や制度を恒常的に機能させておかなければならない。しかし,それは巨大化した社会システムのもとでは困難である。したがって,社会全体の意志をつねに環境と調和する方向に向けるために,政策の自由な選択権をもった小集団を構成せざるをえないだろう。それは,その小集団が社会全体にたいする強い支配権をもっていなければならないことを意味する。たとえその小集団が民主的な手続きによって再選されつづけても,社会を構成する個人は,いちじるしく自由を失うことになるのである。

もちろん,制限される自由*は何かが問題にされなければならない。自由とはなんらかの活動する場合に制約がないという単純なことを意味してはいない。活動においてどのような選択肢が可能であるのかが明確であり,そのような選択肢が与えられることが了解可能であり,自己に与えられた能力とちょうど対応するだけの活動が,与えられた選択肢のなかで実現可能である場合に,人々は活動の自由を感じるのではないだろうか。ここで制限される自由とは,生活のためにどのような財やサービスを利用するかという活動に関連するものである。環境と整合的な社会システムにおいて,それを構成する個人は,生活資材の利用にかんしてつねに自由の制限を感じることになるだろう。

したがって,はじめから構成員の自由が制限されている社会においては,可能性として,ある程度,環境との健全なバランスを維持する機能を社会システムがもつということはありうる。しかし,今日の歴史状況のもとでは,個人の生活の選択にかかわる自由を制限することは困難であるといわざるをえない。現代は,このようなエコロジー的な袋小路*から脱出する道の模索に一層の努力が必要となっている時代なのである。

3 節 システム化による社会の変容   (副目次へ

3.8 人格的ネットワーク社会   (副目次へ

環境危機の理解とその回避の方向をとらえるうえで,社会システムにたいする理解の必要性を一般的に示してきたが,ここで社会システム内部の構造をより明確に規定する作業をおこなうことにしよう。そのために,まず,社会システムそのものではなく,社会システム化していない社会がどのような構造をもつかを分析しよう。そのような社会は個別主体がそれぞれ直接に相互関係を結んでいるものでなければならない。

物的な依存関係のもとでは,「この主体」にとって関係を結ぶべき相手は,あるモノの支配者としてのみ存在意義をもつ「あの主体」である。逆に,「あの主体」からみれば「この主体」もまた,モノの支配者としてのみ存在意義をもっているのである。もちろん,モノではなくなんらかのサービス*を提供する能力の支配者としての主体も存在する(注10)。しかし,その場合もサービスを提供できる能力はモノの支配によって可能になる場合が一般的であり,モノに依存しないで主体の能力が関係をもつ双方にとって意味をもつ場合は,全体のなかではわずかな部分である。

これにたいして,モノに媒介されないで成立する主体どうしの直接的な関係は,相互の主体の人格そのものが関係の対象であり原因となっている。主体が必ずしも個人でなく,なんらかの集団である場合も同じように人格性が存在し,その人格が関係の対象となっていると考えることができる。このように,関係の人格的な直接性が構成原理となっている社会を人格的ネットワーク社会*と呼ぶことにしよう。ネットワーク*とは,その全体が二つの要素の関係の連鎖から構成されているものである。その関係そのものが,血縁関係や,友人関係や,町内会の関係や,サークル内部の関係のように,人格的直接性をもつので,これを人格的ネットワークと呼ぶのである(注11)。

ただし,人格的ネットワーク社会は,サークルや町内会・自治会といった集団とは本質的に異なる。それは,その構成主体に必要な生活資材を自立的に供給する能力をもった集団であり社会の一つの特殊なあり方なのである。したがってそれは,自然から生活に必要なモノを確保し,集団を維持するような文化的共通性をもち,生殖を含む人間の生物的な再生産の持続も可能になるという性質をもっていなければならない。このような社会において,人々が直接的あるいは人格的関係を基本に集団関係を構成する場合どのような特質があらわれるかがここでの問題である。

人格的ネットワーク社会の構成原理は社会システムに比べて単純だが,構造の方はより複雑化する独自の傾向をもっている。この構造化の基本的な内容は,「入れ子」である。入れ子構造*は,図~F3のようにあらわされる。



図(F3) 人格的ネットワーク社会の入れ子構造

ただし,この図の大小の円であらわされる単位(=主体)は縦の関係にあるのではないということである。それらは,水平的な区切りをあらわしているのである。それぞれの単位に代表者あるいはそれぞれの単位を代表する機関が存在し,より大きな円の単位の機関の代表が,それに含まれるより小さな円であらわされる単位を支配するというのではない。大きな単位も小さな単位も横に並んでいる。単位ごとに代表者が存在する場合でも,代表であることが偶然的に与えられた義務であるか,恒常的に存在するとしてもあくまでその人格の特殊な能力によって与えられた位置で,その能力を超えて支配的な存在とはならない。縦の関係からなる階層的な支配構造*が,その社会のなかで存在しなければならない必然性そのものが存在しないのである。そして,この社会においては,単位あるいは集団の全体性はその集団内において自立した姿をもつことはなく,潜在的なものになる。逆に人格ネットワーク社会においては,より拡大した単位になればなるほどその存在意義は希薄になり,偶然的になる。

人格的ネットワーク社会においては,生活資材を確保するうえでの主体(=単位)ごとの自立性が高い。それは,人格的ネットワーク社会の定義からあらわれてくる。もし,一つの単位が生活資材の確保において相互に他の単位にいちじるしく条件づけられていれば,モノの流れがそこに大きな役割を果たすことになり,関係の人格的直接性が失われるのである。

3.9 二重システムの社会   (副目次へ

このような人格的ネットワーク社会と比較して,社会システム*の主要な特徴は,社会全体としての意志が個別主体の意志から自立していることである。まず,言葉の定義であるが,この「社会全体としての意志」を,その意志が追求している内容に注目して簡単にマクロ目的*クロ目的}と呼ぶことにしよう。それに対応して,個別主体の目的,あるいは個別主体の目的の全体をまとめてミクロ目的*と呼ぶことにしよう(注12)。

マクロ目的が,その形成要因を個別のミクロ目的に分解できないことは,社会の全体性あるいは統合性を自立したものとしてとらえることを意味している。一般に,マクロ的に対象をとらえるとは,その対象の部分的な差異を捨象してその全体の姿をとらえることを意味する。一方,ミクロ的に対象をとらえるとは,全体性のある対象を個別要素の差異,区別に注目してとらえることを意味し,個別要素それ自身,あるいは個別要素の集積として全体をとらえることを意味している。

マクロ目的は,ミクロ目的からなんらかの手続きによって形成されるものでもない。物的に媒介された個人の相互依存関係という構造によって形成されるものなのである。それは,社会の内部関係を媒介するモノの流れを社会全体として最も適切に利用するという目的である。のちにより詳細に示すが,この段階でマクロ目的そのものを例示しておくことは読者の理解を助けるだろう。たとえば,多様な財の生産が自立した個別企業の利益動機にもとづいて生産され,したがって生産が一般的には交換されることを前提におこなわれるような社会,すなわち近代工業社会*においては,マクロ目的は経済成長*,すなわち経済全体の規模の持続的な増大である。もちろんそこでは財の流通が,一般的に人々の関係を媒介している点で,この社会はシステム化された社会である。あるいはそれ以前に存在した,マクロ目的が社会全体としての農業余剰*を獲得することにおかれていた農業社会*もまた社会システムであった。ただし,この社会は初期においては,灌漑*が社会システムの形成の直接の契機となっていたが,後期においては財の流通の方が主要な契機となっていった。

先に述べたように,ミクロ目的をになう社会システムの個別主体は,物質的な流れを媒介にしながら相互に関係づけられている。これらの関係は,基本的に横の関係である。灌漑システムにおいては,個別経営は水系を構成する流れによって関係づけられていた。上流と下流という関係はあっても,それだけで縦の支配−被支配の関係があることを意味しない。そこでは,水流によって,個別主体・個別経営が連鎖的につながれているだけである。また,交換経済*において,財の交換が相互におこなわれる場合,相互にそれぞれの所有物を承認しあっているという意味で対等の個別主体のあいだの関係になっている。このようなミクロ目的をになう主体の関係の全体もまたネットワークと呼ぶことができる。人格的ネットワークにかんしても述べたように,ネットワークとは関係の全体が二つの個別主体の連鎖からなりたっているものをさす。そしてこの場合は,個別主体間の関係は物質的な流れによって媒介されているのであるから,物的ネットワーク*と呼ぶことことができるだろう。ネットワークの本質的特徴は全体が二つの個別主体のあいだの関係に分解できることである(図~F1)。したがって,ネットワーク自体には自立したものとしての「全体性」*はあらわれない。物的ネットワークが存在するような社会システムにおいては,全体性は自立して存在することになるのである。そしてこのような,社会システムにおける物的ネットワークを,単純にミクロシステム*とも呼ぶことにしよう。

一方,社会システムの場合,マクロ目的もまたその目的を独自に追求するための構造を構成する。マクロ目的は,その社会システムに固有のユニークな目的に収斂する。そして,その目的を代表する個人や集団から階層的な支配構造*を形成する。すなわち,最も上位に権力を集中する機関があり,マクロ目的を代表するとともに,下位の機関をその目的の実現のために支配し従属させる。そうして社会システムの規模に応じた従属的機関の層が形成される。このような,マクロ目的の実現のために形成される構造をマクロシステム*クロシステム}と呼ぶことにしよう(図~F4)。



図(F4) ミクロシステムの構造

マクロ目的の実現のための支配は,権力を背景におこなわれる。この権力の源泉はもちろん神が与えたものではない。それは社会を構成する個別主体,より明確にはそれぞれの個人がもっていた力である。しかし,それは民主主義社会*において「主権は人民にある」と表現されるような美しいものではない。支配は,支配されることを許容することによってはじめて実現されるのである。個人は,他人の支配を許容するときに,みずからのもっている力の一部を支配する側に譲り渡すのである。マクロシステムの頂点に立つ機関がもつ集権的な権力*は,社会のすべての個人が失った力の集積である。

このマクロシステムにおいて,個別主体は階層構造のなかの各機関を構成する要素でもありうるが,その場合でもマクロシステムの末端の存在という側面は必ずもっている。そして,この個別主体はまた,ミクロシステムである物的ネットワークの構成主体でもある。社会システムは,同一の構成要素からなりながら,二つのシステムに二重化している独特の社会なのである。あるいは,簡単に表現するならば,社会システムは一つのまとまった実態なのであるが,立体的な構造をもっていて,それは水平位置からみると,支配と従属関係からなるマクロシステムだけがみえ,それを真上からみると物質の流れによって相互に関係づけられた物的ネットワークとしての,ミクロシステムがみえてくるものなのである(注13)。

3.10 社会システムと規模の問題   (副目次へ

人格的ネットワーク社会*と社会システム化した社会との比較において,規模の問題は本質的な重要性をもっている。

人格的ネットワーク社会においては,個人が相互に直接的に関係しあえる範囲が,最も基本的な集団の単位となる。その集団においては,それぞれの構成員は他の構成員の存在をその顔および個性とともに知っておりかつ理解している。それは一般に,直接的な血縁関係*にある家族よりも大きい集団となるだろう。そして,その社会においてはこの最も基礎にある集団の単位こそが,最も確実に存在感のある集団なのである。この集団を人格的ネットワーク社会における単位集団*と呼んでおこう。この単位集団は,人格的な直接的関係をもちうる範囲で上限が画される一方,単位集団がその集団の必要資材を自立的に確保できる範囲でもなければならない。

したがって,単位集団の構成員が集住すればするほど直接的な関係が容易になり,その規模はより大きなものとなりうる。しかし,集住することによって環境からえられる生活資材の制限も厳しくなる。この社会においては,環境としての生態系が生み出す剰余生産物*を巧みに利用することを,生業の基本としている。この剰余生産能力,すなわち環境収容力*を超えた規模で単位集団を持続的に維持することはできない。すなわち集住は,社会の環境にたいする受動的な姿勢を維持したまま,巨大化することは困難なのである。環境収容力がなんらかの要因でいちじるしく高い状況のもとでは,比較的大規模な集住が可能になることはありうるが,そのような好運な状況は一般的に発生するものではないだろう。また,集住によって単位集団が大きなものとなることによって,その集団を維持するための手続きが複雑化せざるをえない。集団内の個人のあいだの複雑な関係を維持するための努力は,煩瑣で回避すべきものである。このような意味での単位集団の規模の上限も存在するにちがいない。

単位集団の下限もまた考えることができる。最も小さな単位は夫婦とその子どもという核家族的単位であるが,このような小さな単位で,自立的な生活の持続をすることは,いくつかの問題がありうる。第一に,自然の脅威などによる危険が大きい。第二に,生態系の生産物を利用するうえでの協同労働が困難になる。第三に,自然と接するうえでの必要な知識*を伝える文化の継続が困難になる,などが考えられる。

単位集団の直接的関係は対話と交流によって維持されるが,この側面から規定される規模の上限は,通信と交通手段の発達そして個人の対話と交流に費やすことのできる自由な時間の増大によってある程度乗り越えることは可能である。ただし,人類史上の,あるいは現存する人格的ネットワーク社会は,通信と交通手段の原始的状況においてのみ存在していた,あるいは存在しているので,この側面の進歩による可能性の拡大は確かなものではない。

人格的ネットワーク社会は,このような単位集団の横断的なまとまりによって構成されている。そして,このまとまりの全体そのものは単位集団ほどに存在意義をもたなくなる。全体性*が潜在化しているのである。そして,この単位集団*は人類史上に現存したものとしては小集団とならざるをえなかったのである。人格的ネットワーク社会が,いくつかの単位集団のまとまりであるとする一方で,その全体性*は潜在化しているというのは,やや矛盾した表現である。まとまりになんら意味がないならばその全体を一つの社会と呼ぶ意味もないからである。たしかに,その全体を統括するような機関なり代表をもたないという意味では全体性は潜在化しているのであるが,その全体にわたって共通な文化というものは一般に確認できるのであり,文化にあらわれた精神世界の様式や生活様式の共通性に社会としてのまとまりをとらえることができるのである。物的存在としての小集団と文化的な広域的まとまりというこの社会の特徴をみれば,基本的にこの社会は分散小集団社会*であるとみなすのが,妥当であろう。

これにたいして,社会システムとなった社会はこのような規模の制約から開放されている。この社会を構成する主体どうしは基本的にモノの流れを媒介にしている。灌漑*によって構成された社会システムの規模は水系にかかわる個別主体の全体にまで拡大できる。この段階での規模は水系*の規模に依存するのである。水系を制御する灌漑の能力が低ければ,社会システムは小規模な水系に形成される。水系を制御する技術が高く,水系そのものも大きければそれだけ大規模な社会システムが発生する。しかし,それでもこの水系の規模に制約されることに変わりはないが,交換経済*の発達によってモノの流れ,物資の流通が社会システムの形成の基礎となると,物資の移動可能な範囲全体に社会システムの拡大*の可能性があらわれる。社会システムは,社会を巨大化させるのである(注14)。

この社会においても個人間関係の人格的な直接性は意味をもっている。もちろん核家族的*な関係の直接性はどこにでも存在するが,ここでは社会の構成原理にかかわる関係の直接性であるので,このような単純な血縁・地縁による関係の直接性は問題ではない。この社会における横の関係は物的ネットワーク*として構成され個別主体間の関係は物的に媒介されている。しかし,縦の階層的な支配構造*は人格的直接性*をもっているのである。この社会のすべての個別主体は,この縦の直接的関係性のなかにおかれている。縦の関係は,社会のマクロ目的*クロ目的}の実現に起因する支配と被支配の関係であるが,このような関係は人格にたいする支配と被支配の関係である。しかし,この関係は縦の階層構造によって実現しているために,人格的ネットワーク社会のそれに比べてきわめて単純になっている。人格的ネットワーク社会においては直接的関係がネットワーク状になっている必要があり,多角形の対角線の数の類推からわかるように,関係の数は構成主体の数の2乗の速さで増大する。これに比べて,マクロシステム*クロシステム}の階層構造の場合には,直接的関係性は構成主体が一つ増加するごとに一つの直接的関係が増大するだけなのである。したがって,このように直接的関係性が節約されるという点においても,社会システム化した社会の大規模化の可能性は増大するのである。

人類史の発展のなかで,通信と交通の手段は地球を覆う規模で発展した。社会システムは地球を覆う規模まで増大したことはいまだにない。一つの社会システムが拡大する境界を与えるものは国民国家*である。国民国家が,地理的,歴史的,文化的,民族的に一つのまとまった境界において成立するように,社会システムはまたこのような拡大の限界をもっている。

4 節 社会システムと生態系   (副目次へ

4.11 システムとしての共通性と差異性   (副目次へ

生態系*は環境の主要な内容であり,この生態系*から生物的資源を搾取し不要物をそこに廃棄している。人間の社会と環境の調和を考えるうえで生態系の構造と社会の構造を比較することは重要な意味をもっている。すでに,社会の構造については,人格的ネットワーク社会と社会システムという二つのものを分析してきたが,このような構造のちがいが環境としての生態系の構造との関係にどのようなちがいをもたらすのかをみておく必要がある。そのためにまず,生態系の構造をこれまでみてきた社会システムと比較しながら理解しておこう。

生態系*とは,多様な生物種のあいだの相互関係および生物と非生物的自然環境のあいだの相互関係からなる構造をもっている(注15)。同一種の個体が同一地域にまとまることによってそれぞれ個体群*を形成する(注16)。個体群はその内部で個体どうしの競争あるいは協調の行動をおこなうが,生態系の一つの個別主体と考えてもよいだろう。ある種の個体群*とまた別の種の個体群は,一方のつくり出した有機物をもう一つの個体群が自己のエネルギー源とするという関係や,一つの動物の活動そのものが植物の生殖を媒介するといったサービスの授受の関係や,植物がつくり出した空間を他の生物が生息場所として利用するなどの,多様な内容で相互に関係を結んでいる。

このような個体群は,生態系において大きくは三つのグループに分類できる。第一のグループは,無機物と太陽エネルギーからエネルギーを体化した有機物を合成する能力をもった緑色植物によって構成されるグループであり,生態学の用法をふまえて生産者と呼ぶことにしよう。第二のグループは,生産者のつくり出した有機物の一時的な分解がエネルギー利用の主要な内容となっている草食動物や動物体などの有機物の利用が大きな位置を占めている肉食動物などからなる消費者である。第三のグループは,菌類やバクテリアなどからなり,有機物の無機物への最終的分解に大きな力をもつ分解者である。あとの二つのグループは,生産者のつくり出した有機物の分解という点では,共通しているために,厳密な区別が不必要であるという考え方も有力である。

このようにグループ化することによって,エネルギーや物質の流れを視覚的にあらわすことが容易になる(図~F5)。



図(F5) 生態系の構造と物質・エネルギー流

この図にもあらわされているように生態系のなかの最も基礎的な物質の流れは水である。この水は,たとえば大規模な森林の場合,植物体からの蒸発散*の一部が再びその森林にかえってくるという部分循環を構成する場合もある。太陽光のエネルギーは有機物に固定化され,各生物に利用されたあとは廃熱となって拡散する。生物によって生産された廃熱が体外に排出される場合,エネルギーの運搬役としての水が重要な役割を果たす。植物は有機物を生産する際に,大気中などから取り入れた二酸化炭素のなかの炭素と水を化学結合の軸として利用するが,その他に窒素,リン,カリなどの多数の無機塩類が必要になる。このような無機塩類*は,一部は生態系外からの流入に頼るが,その生態系のなかの消費者や分解者の有機物分解活動によってえられるものの割合が大きければ大きいほど,その生態系の自立性*は高く,したがってまた生態系としての安定性がよいと考えられる。

これまでの社会システムにかんする私たちの分析と,生態系*のこのような構造をみると,生態系は社会システムと同様に,個別主体のあいだの関係が物質的な流れによって媒介されていることに気づかされる。すなわち,個体群のあいだに生態系の構造にかかわる関係が存在するならば,そのほとんどの場合に,一方的なあるいは双方向的な物質のやりとりが存在するのである。そして,個別の個体群あるいは個体そのものは,種や個体の増大と安定化を目的にして生物としての生活を営んでいて,これは社会システムにおけるミクロ目的に対応する。そして,このような構造をもっていながら,生態系は全体として秩序ある存在となっていることから,なんらかの全体的,統合的な秩序形成原理*がそこに働いていると考えざるをえないのである。

生態系は明らかに社会システムと類似のシステムとなっている。まずそこにはミクロ目的が存在し,全体としての物的ネットワークが機能している。すなわち,ミクロシステムが存在するのである。この点については,積極的に疑問をはさむ余地がないであろう。問題はマクロ目的とマクロシステムである。

生態系には,システム全体を統合的に制御する機関は明らかに存在しない。たとえば,森林生態系*はいくつかの種類の林木と,動物類,菌類やバクテリアなどの分解者からなる一つの典型的な生態系となりうるが,どこにどのような種がどれだけの規模で生息するのかについて調整をはかるような生物主体は存在していない。しかしこの生態系が,長期間にわたる生態系のダイナミックな変化,すなわち生態遷移の過程をへて安定した状態,すなわち極相*に到達した状態をみると,そこにはさまざまな生物が他の生物と巧妙な関係を構成し,全体としての秩序を維持しながら存在しているのを確認できる。水,無機物,有機物,それらをとおしたエネルギーの利用あるいは活動や空間の利用をめぐる相互関係が,あたかもなんらかの合目的的意志の支配下にあるように調整されているのである。

この問題を考える手がかりは,生物がその環境に応じて形態や生態を変える進化という過程である。とくに二種の双方にとってより望ましい状況をつくり出すために密接に関連した進化をとげる,共進化*という過程が重要な意味をもっている。たとえば,植物が受粉を確実にするために特定の鳥や昆虫にだけ蜜を供給するように花の形を変えるというのも共進化である。相利共生*が遺伝子にプログラムされているのも一つの共進化である(注17)。生命が誕生して以来のとてつもない長い時間を考えれば,二つの生物種のあいだに限らずより多くの生物種のあいだの共進化の可能性をみとめることが可能だろう。そして,進化の過程を経て一つの生態系が全体として望ましい構造を実現するメカニズムを否定できない。すなわち,それは,個別生物種の進化というより,集団そのものの進化,さまざまな生物種の相互関係そのものが自然選択*され進化してきた,すなわち集団的な共進化がおこなわれてきた結果であると考えることができるのである。これをシステム進化の仮説*と呼ぶ(注18)。個々の生物がその環境にたいして望ましいように形態や生活様式を変えてきたというより,さまざまな種と種の関係の全体が他の関係よりも与えられた非生物的環境にたいして望ましいように調整された結果として発生してきたと考えられるのである。

このことは,それぞれの種の個体群の生存規模の拡大という目的も,ある与えられた非生物的自然環境のもとでの生態系全体の望ましい生物種の構成にたいして,その生物種の拡大が整合的でなければ実現しないことを意味する。すなわち,それは個別個体群の目的から自立した生態系の全体的目的が存在していると考えてもよいことを意味している。いいかえれば,このことは生態系のマクロ目的の存在を想定することが,生態系の全体的構造を考えるうえで有効である可能性を示しているのである。

マクロ目的の存在を仮定することが合理的であるとするならば,マクロ目的そのものはなんであるのか,すなわち,生態系は全体としてどのような原理に基づいて生物種の構成およびそれぞれの規模を決定しているのかが問題になる。生態系のマクロ目的*クロ目的!せいたいけいの@生態系の---}を知ることは,社会の生物的,非生物的環境の決定的要素にたいする理解を深めることであり,環境と社会の調和を考えるうえで大きな意味をもっている。しかし,生態系が無数の生物からなるきわめて複雑なシステムであることを考えれば,マクロ目的の理解はきわめて困難であるといわざるをえない。私たちとしては,生態学*でなされた研究の結果から問題に少しずつ接近するほかない。生態学の歴史のなかで,この点での研究結果で最も普及しているものは,生態系のエネルギー利用をなんらかの意味で効率化する方向で,全体的に自己組織化*をはかっているというものである。

ただし,生態系のエネルギー利用の効率化*という命題そのものは曖昧である。エネルギーを獲得する量を効率化,最大化するのか,生態系が蓄積するエネルギーを対象とするのか,最終的にエネルギーを利用しきることに注目するのか,あるいはエネルギー利用となんらかの出力との関係に注目するのかなどさまざまなものが考えられる。私は,このなかで最も有力なものは,生態系はエネルギーの最終的な利用量を最大化するように構造を自己組織化*するという仮説であると考えている。

生態系は,生産者による太陽エネルギーの固定化と,消費者と分解者によるそのエネルギーの開放すなわち生物的利用が困難な呼吸廃熱*化という,対立する二つの傾向のバランスのうえに成立している。一方,このエネルギーは裸のまま生態系を通過しているのではなく,有機物の形で物質に担われて通過するのである。したがって,エネルギーの固定化とエネルギーの開放のバランスがとれなければ,それはエネルギーを固定化する材料としての炭素や無機塩類の循環の貧困化をまねかざるをえない。このような,物質循環効率*の悪い生態系は,安定した存在能力の劣等な生態系とならざるをえないのである。すなわち,エネルギーを最大に固定化しながらその結果としてエネルギーを最大限に廃熱化する傾向こそ,生態系の効率的組織化の基準となっているものであると考えられるのである。

このような,生態系の自己組織化にかんする仮説を最大呼吸仮説*と呼んでいる(注19)。これは,生態系はそれを構成するすべての生物種によって生産される総呼吸廃熱を最大化するように生物種それぞれの構成規模およびそれらの相互関係を自己組織化するという仮説である。それは植物による太陽エネルギーの固定化の最大化も同時におこなわれざるをえないことを意味し,また,生態系の内部に,分解されずにエネルギーを体化したまま存在している物質が可能な限り少なくなることも同時に意味している。

もちろんこの仮説もまだ完全に実証的な証明が与えられたものでは決してない。さらに有力なマクロ目的の理論の登場の可能性も否定できない。この点の詳細な検討はさしあたって必要ではなく,私たちとしては現時点で考えられる最も合理的な,マクロ目的について一つの考え方として最大呼吸仮説が存在することを確認しておけばよい(注20)。

生態系において,このようなマクロ目的の存在は予想できるが,そのマクロ目的の実現のための独自の機関なり組織,あるいは主体の存在は考えられない。マクロ目的と対応するミクロ目的の存在が確認できるという点では社会システムと共通性をもっている。そしてそれは,それぞれのミクロシステムがともに物的ネットワークという形態をもっているということの必然的結果である。しかし,生態系においては,マクロ目的をになう主体や機関が存在していないのにたいして,社会システムには一般に,マクロ目的の遂行のための個別主体にいたる縦の支配機構,階層的な支配構造*が存在する。この点が二つのシステムの主要なちがいである。

4.12 生態系からの社会の自立性   (副目次へ

以上のような生態系の構造の理解のうえに,先に分析してきた人格的ネットワーク社会や社会システムと生態系の関係,すなわち社会にとっての最も重要な自然環境との関係を考察しよう。

人格的ネットワーク社会の主要な特徴の一つは,自立したマクロ目的とマクロシステムをもたないことである。それは,社会としてみれば全体にかかわる秩序形成原理とそれを実現するための機関をもたないことであり,個別主体が目的をもって行動しているなかで,全体としての無秩序さを予測させる面をもっている。しかし実は,この社会は全体としての秩序形成原理*を生態系のマクロ目的に依存する社会なのである。



図(F6) 生態系と人格的ネットワーク社会

図~F6 にあるように,人格的ネットワーク社会は単位集団*か,単位集団のいくつかのまとまりと考えてよいだろう。この社会では,社会内部の個別主体のあいだの関係は直接的であるが,社会全体の生態系にたいする関係は,そこからの資源の搾取とそこへの廃棄物の排出による物質の流れに媒介された依存関係なのである。

人格的ネットワーク社会*は生態系の一部となる。したがって,その社会は,永続的な存在を意図する限り生態系のマクロ目的の支配下におかれる。生態系が許容する範囲での自由度が与えられるのみなのである。この場合に,自然にたいする知識*は重要な役割を果たすが,その中心的な問題は,社会をいかに生態系のマクロ目的と調和させるかである。ある与えられた生態系という環境のなかで,人間は社会を構成し,その社会はより確実で拡大した存在を確保するために自然と格闘する。その格闘は,まずなによりも自然そのものを自然の自己組織化*の傾向にそってより豊かなものにすること,そして社会に多様でより多量の剰余を供給することであり,それはまた人間の存在と自然とのあいだで折り合いをつけること,つまり人間社会の存在を自然に否定されないように闘うことであった。

これにたいして,社会システムにおいてはまずミクロシステムが生態系と同様の物的ネットワークになる。そして,生態系のマクロ目的からの支配から離脱するとともにみずからのマクロ目的を成立させる(図~F7)。



図(F7) 生態系と社会システム

その結果として,生物システム*としての生態系とのチャンネル*は少なくなり単純化する。すなわち,すでに述べたように社会は自然にたいして積極的にそれを制御する方向で介入するようになり,人工的な物質的依存関係,物質の流れを構成するために,社会と関係をもつ生態系の資源を最小のものとしていく。自然にたいする知識も,生態系のマクロ目的との調和を実現することではなく,自然から必要な資源を最も効率的に獲得する方法などという,攻撃的なものに変化していくのである。

環境問題にとって最も重要な点は,二つのマクロ目的*クロ目的!ふたつの@二つの---}が成立することによって自然と社会の両方にまたがる統一的なマクロ目的がなくなり,全体的な調和の達成がより困難になることである。マクロ目的は,社会にとって本質的でユニークなものにしぼられるにしたがって,強力な支配力を発揮し,社会のマクロ目的にそった調和を高い質で実現するようになる。マクロ目的が,複数に分裂していれば,社会の活力と秩序性は不可避的に低下する。社会におけるこのようなマクロ目的の分裂の問題は,自然と社会という統合的なシステムにおいても成立する。それは全体的な秩序の崩壊と,その全体についての活力の低下である。

このような,自然と社会という二つのマクロ目的のあいだの整合性の問題は,社会システムが自然にたいして十分小さい規模である場合には深刻化しない。しかし今日,社会システムが化石資源などの生態系から自立した独自のエネルギー源を獲得することによって大規模化し,かつ生態系からの資源の搾取が単純なチャンネルであっても大量になっている。そのために,マクロ目的の不整合性にかんする問題は自然のシステムの全般的崩壊も生み出す可能性まで発展しているのである。

5 節 社会システムとしての近代工業社会   (副目次へ

5.13 社会的剰余と農業社会   (副目次へ

歴史をふりかえれば,二つの基準となるべき社会システムを区別することができる。一つは農業社会*であり,それは歴史的には原始的な人格的ネットワーク社会についであらわれた。もう一つは農業社会のあとにあらわれたもので,今日の大規模化した経済をもたらすことになった工業社会*である。歴史の区分は,ある一つの方法だけが正しいというものではありえない。それは,歴史そのものがつねに現代をとらえ現代の社会と人間の生きるべき道筋を示す教材として,最も重要な意味をもつものであることからくる。現代の焦眉の問題である環境と人間社会の関係のあり方を社会システムの視点からとらえるうえでは,この二つの単純な区分で,十分なのである。具体的に日本の場合,灌漑水稲農耕が全国的に普及した弥生時代前期から江戸時代末までの全体を農業社会とするべきである。

農業社会と工業社会は,社会の剰余の生産の仕方によって区別される。剰余*とは,ある社会の定常的維持のために必要とされる以上の社会全体としての生産物をさす。社会の全生産物はこの意味で必要部分と剰余部分に分けられる。たとえば1年という単位でみて,ある年に個人,企業,政府などによって直接利用されつくした生産物とおなじ種類のものが同じ量だけその年の最後までに生産されれば,同じ厚生水準を社会全体としては維持できる。その生産物部分を社会としての必要生産物と呼ぶことができる。そして,それを超えて生産された生産物は社会としての剰余生産物である。したがって,必要生産物*と剰余生産物*の区別は絶対的なものではない。人々の求める厚生水準が変化するにしたがって,必要生産物の社会的水準も変化する。

重要なことは,社会システムにおけるマクロ目的*クロ目的}はこの剰余部分の生産にひたすら注目してきたということである。それは,この部分に社会の自由に利用可能な物質的な力が,集中的に体化されているからである。そして結局,マクロシステムはこの物質的な力をマクロ目的の実現に必要な支配力,秩序形成力として用いる。この意味でマクロ目的は自己目的的な衝動をもっていることになる。すなわち,社会的な力を獲得するためにその力それ自身を用いるのである。

農業社会における剰余は,第一に,社会的な剰余が主要な農業生産物によってとらえられる。これは生産物による剰余の定義である。第二にそれは,農業部門でだけで生産される剰余として定義される(注21)。こちらは,価値的な剰余の定義ということができる。そして,農業社会のマクロ目的は,このようにとらえられた社会的剰余を最大化することなのである。剰余が二重に定義されることは,社会システムがマクロシステムとミクロシステムという二重のシステムから構成されることと不可分の関係をもっている。この点を明確にする前に,これらの定義をもう少し精密なかたちで定式化しておこう。

まず,上で定義された農業社会の剰余の二つの定義は一見同じようであるが,実は異なっている。まず生産物剰余による定義からみていこう。ある社会には,先に述べたような意味で必要な生産物の種類と量がある。必要生産物は,経済の原理として大きく二つの部分に分けられる。一つは農家や自営手工業者あるいは企業などによって生産の原材料としてすなわち中間投入*として利用される部分であり,もう一つは,それ以外の個人的な消費あるいは公共部門の消費などによって利用される部分である(注22)。社会の生産はまずこの両者の合計だけはおこなわれなければならない。もし,社会がこれだけしか生産しない,あるいは生産できなかったとしたら,この社会には剰余はない。したがって,その社会ではマクロ目的は物質的な力をもつことはできないので,社会システムは成立しない。

農業社会で問題になる主要な生産物とは,たとえば,日本の場合は米であった。他の社会の場合は,小麦の類の穀物であるかもしれないし,また羊や牛のような家畜であらわされるかもしれない。いずれにしろ,その社会の歴史的,文化的状況に規定された特定の生産物であって,それが食糧としてその社会の人々の生活を実際に支えることができる生産物であり,自然環境との整合性が最も高く,また十分に大きな人口を養うことが期待できる生産物である。

生産物剰余の定義にかかわる,社会的生産のバランスをみることによって,この剰余概念を少し精密に定式化しておこう(注23)。まず,農業生産物についてのバランスは次のようにあらわされる。

農業生産物剰余:Sa = 農業全生産:X0 - (中間投入農業生産物:M0 \\ +農業生産物全消費:C0)  (1)

「:」のあとの記号はその生産物部分をあらわしていると考えていただきたい。サフィックスの0は農業生産物を区別する指標で,それが第0番目の生産物をあらわしている。米で考えれば,右辺第1項Xは全国的な米の生産高である。右辺の括弧内の第1項Mは米が社会の生産物の生産において原材料として用いられた部分である。したがって,それはたとえば米の生産のための種子として種籾の段階で用いられた部分も,あるいは味噌や菓子の材料として用いられた部分も含む(注24)。括弧内の第2項Cは社会の構成員のうち直接生産者*(農民や職人や商人など)やその家族によって消費された米の量をあらわす。したがって,剰余によって生活している人口部分の消費はこれに含まれていない。

これによって,農業生産物剰余Saが定義できる。そして,農業社会はこの剰余を最大にするというマクロ目的を有している。それは,農耕地を増大させて農業生産物量X0を増加させるか,社会全体として中間投入として用いられる農業生産物量M0や直接生産者とその家族によって用いられる農業生産物量C0を低下させる努力が要求されることを意味している。

しかし,これだけでは不十分である。農業生産物で剰余がとらえられるということは,同時に他の生産物では剰余が発生していないことを意味する。他の生産物の指標を一般にiであらわして,

全生産:Xi=中間投入生産物:Mi + 生産物全消費:Ci  (2)

が成立していなければならない(注25)。ここで,Mi は米の場合と同様に,単にその第i生産物を生産する部門に用いられた第i生産物自身をあらわすのではなく,他の部門でも用いられた第i生産物も含めての合計をあらわしている(注26)。消費についても,農業生産物の場合と同じ条件である。

生産物がこれらの式であらわされるような条件を満たしている限り,再生産を継続させることができる。ただし,この条件に登場する生産物量にかかわる経済主体だけがこの経済に存在するわけではない。まず,剰余生産物としての農業生産物で生活している人々がいるだろう。近世日本農業社会の場合,武士や貴族などの階層の人々である。そして,これらの階層の人々は農業生産物だけで暮らしているわけではないので,この剰余としての農業生産物をもとに,さまざまな手工業生産物を購入したであろう。したがって,社会全体としてのさまざまな生産物は,これらの分だけ規模が大きいものになったのであるが,その部分は社会を持続させるうえで不可欠な部分ではなかった。

農業生産物で剰余を表現する場合には各生産物の社会的なバランスが問題になるのにたいして,農業社会剰余の第二の表現形式である価値剰余の場合は各生産部門の価値的なバランスが問題になる。すなわち,投入した要素価値にたいする生産物の価値とのあいだのバランスである。このバランスをみるためには,すべての財について価値が与えられていなければならない。それは,異なった財に,ある共通の計量可能な指標を与えることである。私たちが市場でとらえることのできる価格は,貨幣*の量によって指標化されている。ここでは,貨幣でなくてもよい。というより,農業社会における生産物剰余の場合にもとになった主要生産物が価値の基準財となる。たとえば,近世日本の場合においては米であり,たとえ貨幣が流通していても,人々が価値判断をする基礎はその財が「どれだけの米に値するのか」だったのである。このような,米が価値判断の基準となる制度は,近世石高制*に象徴的にあらわれている(注27)。

このように与えられた各財の諸価値を価値体系*と呼ぶことにしよう。価値によって表現された農業社会の剰余とは,その価値体系で測ることによって農業部門だけが投入総価値よりも生産物価値が大きく,その差としての剰余があらわれ,他の生産部門は,生産物価値が投入要素総価値に等しいかそれよりも小さいことを意味している。そして,そのような価値体系がこの社会において生産物の交換における価値基準となっているのである。すなわち,農業部門の価値バランスは次のようにあらわされる。

農業部門価値剰余:Sv = 農業生産物価値:X0 - (中間投入生産物価値:VM0 \\ +直接生産者報酬:W0) (3)

ここで,農業生産物価値の部分X0は,価値がこの部門の生産物(たとえば米)で測られているのであるから,この部門の生産物量そのものをあらわしている。中間投入生産物価値と直接生産者報酬の部分のサフィックス0は農業生産物を区別するのではなく,農業部門を区別するためのものである。中間投入生産物価値とは,先の場合とは異なり,農業部門で用いられる原材料を農業生産物で測った価値の合計である。たとえば,米の生産の場合はそこで用いられる肥料なども何単位の米に値するかが価値として与えられていて,その費用合計である(注28)。直接生産者への報酬も貨幣で渡されようともここでは,農業生産物価値に評価されなおしたものである。

他の部門にはこのような剰余,今日の利潤は発生してはいないことが前提となっているので,次のような条件式が成立している。すなわち,ある部門をあらわすサフィックスをj,そしてこの部門の生産物1単位を農業生産物で測った価値をvjとして,

生産物総価値:vjXj = 中間投入生産物価値:VMj + 直接生産者報酬:Wj  (4)

となっている(注29)。農業部門とは異なり生産物は農業生産物ではないので,その生産物を農業生産物で測りなおした値がその部門の全生産物価値 vjXj となる。農業社会においては,このような二つの条件を満たすような,価値体系が,経済を支配していることになるのである。

この二つの農業社会における剰余の表現は,形式的にはかなり異なったものになっているが, 実は同じものになる。すなわち,

Sa=Sv

である。つまり,農業生産物でとらえた社会の剰余(Sa)は,農業生産部門の価値剰余(Sv)に等しいのである。これは,厳密に議論すると,数学的に議論せざるをえなくなり,必要以上のわずらわしさを読者が味わうことになる。結果だけを受け入れていただいて十分である(注30)。

この剰余の物量的定義と価値的定義の等価性の,社会システムという視点からみた意義は次のようなものである。まず,生産物で測った剰余は農業社会のマクロ目的と直接に関係していることを認識する必要がある。それは,農業生産者であろうが工業生産者であろうが,個別主体の視点からは直接とらえられない社会的剰余である。なぜなら,それぞれの生産物について,生産された量,生産のための中間投入や消費に用いられた量が社会的に集計されてはじめて把握されるのがこの農業生産物で測った剰余だからである。したがって,それは社会全体の見地からだけ意味をもつ剰余であり,個別主体の目的に直接関係していないという意味で,マクロ目的が意識するのにふさわしい剰余概念となっている。

これにたいして,価値でとらえられた社会的剰余は,個別主体でとらえられる剰余に分解することができるのである。あるいは,分解された状態ではじめて意味をもつ剰余となっているのである。すなわち,この剰余は,各産業部門あるいはさらにわけてそれぞれの農家や手工業者あるいは企業において,米などの農業生産物で産出物とさまざまな投入物を測り直し,前者から後者を差し引いた残りとしてあらわれ,それが社会的に集計されたものなのである。ミクロ目的は個別主体の最適化行動をあらわし,生産者の場合その対象となっているのがこの個別に測られた剰余なのである。

したがって,Sa と Sv が一致するということは,マクロ目的の対象となる社会的剰余とミクロ目的の対象となる剰余の社会全体としての合計は一致するということである。これは,剰余の二重化と等価性が,社会システムがマクロシステムとミクロシステムに二重化しながら一体のものであることと同一の起源をもっていることを意味しているのである。

ここで,農業社会においてこのように農業生産に偏ったかたちで剰余がとらえられることの理由を考えてみよう。それは,あらかじめ結論を述べれば,経済がそれを支えている自然の刻印を強く帯びていることの結果である。主食を中心にした食糧を生産する部門であり,かつ自然に最も大きく接触する産業である農業は,人間が自然に強く介入した結果として成立している産業であるが,また自然の力の恩恵を最も大きくこうむる産業でもある。そして農業は,「剰余」*が最も単純にとらえられる産業でもあるのである。つまり,労働する主体としての人間は主食によってその生命を維持する。そして,その生命の維持に必要な部分以上に自然はめぐみをもたらす。そして,それはまさに剰余なのである。もちろん社会が複雑になり,農業のために,他の産業部門の生産物が高い比重で利用されればされるほど,このような単純な計算によって剰余をとらえることは困難である。しかし,主食を中心とした農業の,経済全体のなかでの比重,または重要性が高いものであればあるほど,剰余の農業部門でとらえることの意味は大きくなるのである。そして,とらえられた剰余は,自然がもたらしためぐみとなるのである。

農業社会におけるこのような自然の制約は,自然を代表する現実的存在としての「土地」の制約である。土地の制約*を超えて生産をいちじるしく拡大することはできなかった。もちろん,自然にたいする介入をより巧妙にすることによって土地の生産性を向上させることは可能だったが,限界は厳しいものだった。

農業社会のミクロシステムは,初期においては灌漑*の比重が高かった。したがって,先に述べたように水系*が小さいものであれば小規模の農業社会が成立し,大規模な河川に沿っては大規模な社会システムが形成された。そして,それらの水系の部分に位置する個別の農業の経営単位については,直接には農業生産物の最大化を個別目的にして経営を営んでいたと考えられるのである。そして,その生産物の一部としての剰余はマクロシステムによって直接吸収されシステム構成主体の生活資料や,軍事力,宗教的建造物などの権力の源泉*として用いられたのである。またその権力は,社会の秩序形成のための支配力の源泉であるとともに,絶対的な制限であった土地そのものの拡大のための,帝国主義的な力の行使のためにも必要なものだった。

一方で,この農業部門に必要な生産資材を供給したり,あるいは非農業生産物の農民などの直接生産者の消費財を生産している手工業生産者も存在しているが,それらは社会的な剰余を生産しないことが前提となっていた。彼らの目的はみずからの生活そのものであった。さらに,支配者によって社会的剰余から手工業者に支出された支配者自身のために生産された消費財,奢侈財,兵器*などは社会的剰余の転化した形態にすぎなかった。

このような農業経済も交換経済*と分業*が発達すればするほど,現実として社会の剰余は農業以外の部門でも発生するようになる。しかし,そのような剰余が発生したとたん,農業社会は崩壊していることになるかというと,そうではない。制度と現実のあいだの不一致はおこりうるのである。農業社会という社会システムを組み立てているものとしての剰余のあり方と,現実に発生している剰余とは必ずしも一致しない。歴史的には,純粋農業社会的な剰余が確立していく過程が存在して,さらにそれは制度としての農業社会を維持したまま同時に交換経済の発達をうながし,最終的に制度としての農業社会の剰余のあり方が崩壊していくという過程を経ている。この最後の過程は,日本の場合,近世末期における工業の発達にあらわれている。

5.14 工業社会における利潤と経済成長   (副目次へ

工業社会*は,農業以外の産業も含め,すべての私企業,産業に剰余生産の機会を与えることが社会制度として組み込まれている社会である。したがって,私企業が生産における個別剰余としての利潤の追求*というミクロ目的をになう主体として登場する。利潤は一般に,生産における原材料やサービス,機械や建物などの固定設備および労働の投入費用を生産物価格から差し引いた残りである。ただし,労働にたいして支払われる賃金でも,それが持続的な労働の維持と再生産に必要な部分を上回って継続して貯蓄できる部分をもたらすならば,それは賃金の一部に利潤がまわされていると考えるべきである。そして,実現利潤の社会的総計は,マクロ目的*クロ目的}にとって最も重要な制御対象だったのである。また,農業社会とは異なりこの実現総利潤*は,農業社会のように特定の生産物で表現することに意味がなくなる。一般にそれは貨幣単位で表現される(注31)。

この工業社会は,基本的な物的ネットワークが市場における財の交換によって構成された社会である。そして,多様な生産物を生産する多様な産業が利潤に動機づけられて発展することによって社会における農業生産物の比重が低下する。それは,経済の規模,したがってまた剰余の規模が自然あるいは土地の制約を受けなくなるということである。社会的剰余としての総利潤の増加のために総利潤そのものを用いることができるようになる。それは利潤を原材料や設備などの追加的な購入にあてることであり,経済の規模の拡大を意味し,したがって経済成長にほかならない。工業社会におけるマクロ目的は,経済成長*そのものであると表現することができるのである。この経済成長は,単に人々あるいは企業が経済成長という価値観に因われているから社会的に追求されているわけではない。工業社会という社会システムを社会が採用していることによって不可避的に要求される社会全体としての目的,衝動なのである。

企業における個別利潤の最大実現は工業社会における制度のなかに位置づけられているミクロ目的*であり,経済全体としての規模の増大,経済成長はマクロ目的である。実現総利潤の総計は経済成長の原資となるとしても,それはミクロとマクロの単純な関係を表現しているものではない。個別企業は,生産した利潤と他の利潤の借り入れによって,自己の判断で企業成長の規模と内容を決定する。しかしそれが確実に,より増大した利潤をその企業にもたらすとは限らない。このような投資に成功する企業もあれば失敗する企業も存在するのである。利潤からの再投資が社会的に意味あるものだったか否か,それが社会全体としての経済成長につながるかどうかは,物的ネットワークの複雑な相互関係の結果としてしかあらわれないのである。ここに経済成長のマクロ的性格があらわになる。経済成長のためには全体の投資の適切なバランスが必要になり,総利潤が個別利潤に分解されるように,経済成長は個別企業の成長に分解することができないのである。

このミクロ的な構造だけをみれば,工業社会は危険な賭博に満たされていることになる。個別の私企業にとってみれば,みずからの投資決定*が将来の利潤の増加を生み出す確実な保証もないのであるが,社会にとってもまた,全体としての私企業の決定が,社会的にバランスのとれた,そして経済の潜在的能力を最大限に引き出すような経済の成長をもたらす保証はないのである。しかし,市場の競争的環境は,ある程度,このような全体的調整をおこなう能力をもっていると考えるべきであろう。すなわち,経済の全体としての成長により貢献できる投資決定を,不確実性があるなかでも正しくおこなった企業が生き延び,誤った企業は他の企業との競争に不利な立場に追い込まれるということによって,ある程度マクロ的な調整がおこなわれている。しかし,ある社会の経済をめぐるさまざまな攪乱や,内部の偶然的要因の累積によって経済は不安定な変動に陥ることは避けることができない。それは,いいかえれば社会システムとしてのマクロ目的の安定した追求が困難になることを意味するのである。

そのために,工業社会においてはマクロシステム*クロシステム}の機能が重視される。ただし,マクロシステムは経済の構造そのもののなかにはめ込むことは困難である。それは,この工業社会においては私企業の独立した自由な投資決定,あるいは生産の決定が経済の活力の源泉となっているからである。そこで,政治的なシステムとしてマクロシステムが構成されなければならなくなる。マクロシステムが,政治的なシステム化せざるをえないのは,農業社会と同じである。

5.15 社会システム問題としての景気循環   (副目次へ

工業社会において,マクロシステムが政治的なシステムとして成立したとしてもそれにともなってマクロ目的によるミクロシステムの制御が完全におこなわれるわけではない。それは,第一に私企業の自由にたいする制限は経済の活力あるいは必要な新陳代謝を阻害するからであり,第二に,ミクロシステムの複雑性*ゆえに,マクロ目的を実現するためにどのような制御が必要であるかについて,正しい対応が必ずしもできないからである。したがって,マクロ目的としての経済の成長を十分に実現できない状況もあらわれる。実際,近代の工業社会には,全体として成長する時期と停滞する時期が交互にあらわれてくる現象,すなわち,景気循環*がつきまとっていた。

農業社会にも,マクロ目的にそって剰余生産で成功をおさめる時期とそうでない時期が存在したが,それは工業社会と異なり,ほとんどの場合,自然条件の変動の影響を受けていた。もちろん,灌漑*などによって自然に手を加えることによる洪水の拡大など,人為的なものと自然によるものとの明確な区別をつけることができない面もあったが,自然条件との関連性は明白であった。これにたいして,工業社会の経済変動は自然的なものから相対的に独立していた。自然条件の変化による農業生産物の動向が,経済全体のできばえに影響を与えることがなくなったわけではないが,その比重はいちじるしく低下した。もちろん,それは景気循環の契機としての自然要因の存在を否定するものではない。資源制約などがきっかけとなって景気循環に突入することはしばしば存在したが,その後の変動の全体は物的ネットワークの相互依存関係そのものが引き起こしていったのである。したがって,工業社会における景気循環は基本的にその内的な相互依存関係のなかで発生していると考えるべきである。

景気循環の好況局面*で,経済が積極的に拡大しているときは,人々は経済の状態に満足している。問題は停滞局面である。企業も消費者も投資や消費を抑制することによって,生産能力が変わらないにもかかわらず現実の生産規模は縮小し,企業の雇用意欲は減少し,失業*が増大する。この失業の増大は,経済が人々に生活資材を適切に供給する機能を失っていることを示すことになり,人々の社会システムにたいする信頼は決定的に揺らぐことになる。そして,マクロシステムが自信喪失に陥るのである。

しかし,この景気循環の一局面としての経済停滞は,成熟した工業社会における現象としてはやや奇妙な現象である。経済停滞*が社会全体としての総有効需要の不足に起因するというのは,現実的な説明である。もちろん,なぜその有効需要不足*が発生したのかという点については,多様な原因が語られることは多い。しかし,ほとんどの場合,結果として停滞を持続させている直接的要因となっているのは有効需要不足なのである。逆にそれは,社会は生産設備の点でもあるいは労働供給の点でも生産の増大に応える潜在能力をもっていることを意味している。

いま,経済停滞によってすべての企業がなんらかの基準で同じくらいに生産規模の縮小による被害を受けていると想定してみよう。しかし,このような経済の停滞を引き起こしている一面の要因は,これらの企業が投資を減退させ直接有効需要不足をもたらしたり,賃金のカットや雇用の減少によって間接的に人々の消費意欲を減退させたりしていることなのである。経済を集計した視点,すなわちマクロ的にみれば,それは自分で自分の首を締めていることである。すなわち,多くの企業が設備投資などによる需要を控えていることが,経済を停滞させ,結果的に多くの企業に能力以下の生産を強制している要因なのである。

停滞する経済のもとにある各企業が,積極的な投資にうってでない状況は,いわゆる「囚人のジレンマ」*}と呼ばれるタイプのゲームによって表現することができる。停滞する経済のもとでも,すべての企業が投資に積極的に取り組めば,有効需要の増加によって経済は拡大し,部分的にそれによって没落する企業は出たとしても,潜在生産能力と現実の生産とのギャップを埋めることができるだろう。そして,すべての企業が投資を控えることは結局停滞を持続させるだけである。明らかにそれは,すべての企業が投資をすることよりも,すべての企業にとって利益が望ましくない状態である。この望ましくない状態が選択される理由は,ある個別あるいは一群の企業が投資をおこなうにもかかわらず,他の多くの企業が投資をおこなわなかったときに生ずる利益分配が,投資をおこなわなかった企業に部分的な有効需要の増大からくる,偶然の利益をもたらし,逆にそれをおこなった企業にはリスクと損失をもたらす可能性があるからである。このような場合,他の企業が投資に積極的であろうと,消極的であろうと,当該の企業にとっては投資をおこなわない方が最適な選択となるのである。

表~T1にこのような状況の単純な事例が,利得行列によってあらわされている。



表(T1) {\bf 投資ゲームのジレンマ}

経済が停滞しているもとで,二つの企業 A, B だけからなる経済を考える。それぞれの企業が,投資をするあるいはしないという選択をしたときにえられる利得が行列のなかにあらわされている。行列のなかの数字 X,Y は双方が対応する戦略を選択したときに,企業 A が受け取る利得を X であらわし,同じく企業 B が受け取る利得を Y であらわしている。双方の企業が投資をするという戦略を選択したときには,ともに3単位の利得をえる。双方が投資をしなければ,有効需要が不足し経済は停滞のままで双方の企業は1単位ずつの損失を継続することになる。もし,一方の企業が投資を選択し,他方の企業が投資をしなければ,他方の企業は投資というリスクをおかさないままに需要が発生し,5単位の利得を獲得するが,投資をした企業は需要の見返りがないままリスクをおかすことになり3単位の損失を生み出すとしよう。

このような状況において,二つの企業が完全に協力すれば,共に3単位の利得がえられる。しかし,それは全体性を二つの企業が支配下においていることをあらわし,一般的に多数の企業が存在し,関連している社会システムの状況のもとでは実現不可能な解である(注32)。それぞれの企業が選択の自由を(したがって裏切りの自由も)もち,相互に確実な予測ができない状況ではお互いに相手の選択の可能性をすべて考慮しながら望ましい行動をとらざるをえない。この場合,たとえば,企業 A の見地からは,もし企業 B が投資をしないというならば,投資をする(-3)よりも投資をしない(-1)の方が,同じ損失でも被害は少ない。もし,企業 B が投資をするというのであっても,投資をする(3)よりも投資をしない(5)の方がより大きな利得をえられるのである。したがって,企業 A にとっては,企業 B の選択いかんにかかわらず投資はしない方がよくなるということである。

もちろん,有効需要の重要な構成要素となる各企業の投資計画がマクロ目的の視点からみて全体に望ましくないものが多い場合には,全体が積極的投資にでれば解決するという見方が成立しない可能性はある。経済の全体的バランスと成長を実現しえないような投資計画がほとんどであるならば,それらの投資は実行されるべきではないからである。ただし,このような事態はおこりにくいと考えられる。企業にとって投資計画の策定は,企業の未来をかけた最も重要な決定であり,必要な最大限の情報を集め熟慮されたあとに決定されるものである。一部の企業の投資決定は,経済のバランスと整合的ではないために,結果としてそれらの企業の没落を招くことはありうる。しかし,全体として企業は健全な投資計画を策定することを前提としない限り,経済の成長局面をある程度維持することはできなかったはずである。これまでの工業社会が大きな停滞期はありながらも歴史的には発展していることをみれば,私企業の投資決定*は全体としてそのマクロ目的とある程度整合的なものとなることは否定しがたいのである。

したがって本来ならば,すべての企業がみずからの姿勢を変え協調して積極的な投資姿勢に転換するだけで,彼ら自身のかかえている困難は回避できる可能性はあるのである。それができないのは,社会システム化した社会のもとでは,企業家があくまでもミクロ的な状況にとらわれざるをえないからであり,確かな全体性に立脚した行動の制御がおこなうことができないからである。それは,ミクロシステムにおける個別主体の投資と生産にかんする自由な行動が,社会システムという状況のもとでは,その全体性を自立させて外部化し個別主体の側から制御することができなくなってしまうことの結果なのである。したがって,景気循環過程としての経済停滞からの開放のためには,個別主体の自由の制限か社会システムという社会の構造を放棄するかのどちらかの方法をとらざるをえないという結論になる。

5.16 経済成長と環境破壊   (副目次へ

すでに社会システムという社会のあり方が,巨大な人口規模の社会を構成することを可能にすることを明らかにしたが,近代工業社会においては,経済の成長がマクロ目的として成立するために巨大な人口が巨大な物質的生産の規模によって支えられるようになる。人口規模が巨大化し,ある程度飽和したとしても,物質的生産規模の増加傾向がとどまることはない。この社会のマクロ目的が経済の規模の増大そのものだからである。そしてこの経済規模の増大は特殊な場合を除いて,一般に自然からの資源の搾取量を増加させそれへの廃棄物の排出量を増加させる。そして,この二つの過程が環境破壊を引き起こすのである。なぜなら,経済の制約としての自然環境は生態系がそうであるように,その最も成熟した生産能力の高い状態すなわち極相*においては,規模を定常的に維持するようになっているからである。生態系*のマクロ目的は,この定常状態*に可能な限り効率的に到達することである。少なくとも生態系は工業社会の持続的増大という目的に対応してくれることはない。

経済の規模の増大は一般に社会が生産する付加価値の総量すなわち国内総生産*(GDP)で測られる。この国内総生産の増大が環境負荷の増大に連動しないことがあるとすれば,外部資源の利用の規模を変えないままに生産を増加させる社会的な生産技術の進歩が必要になる。

付加価値の生産がサービスやソフトウエア産業*の増大に依存して発生すればよいように考えるかもしれない。たしかにそれはある程度,付加価値の増加と資源利用の増加を緩和させる面もあるだろう。しかし,サービスやソフトウエアといえども物的資源や設備の利用が不可欠である現実のもとでは,この方向での問題の回避は強い限界をもっているといわざるをえない。生産されるものの割合が非物質的なものに少しばかり偏ってきても,生産の物的依存性に決定的な影響を与えることはない。コンピュータの利用が,電子的情報の割合を増大させ紙の利用を節約するという当初の幻想が裏切られ,情報あたりの紙の利用は低下したとしても,全体とすればそれが紙を浪費する機械になったと同じような現象がおこる可能性も高いといわざるをえないのである。

資源リサイクル技術*も環境の負荷軽減に期待されているが,実際に経済成長の前にはほとんど無力だといわざるをえない。それは,次のように考えればわかる。いま,ある経済がある資源,たとえばパルプ資源を一定の割合でリサイクルすることが可能になったとしよう。すると,この経済はリサイクルがおこなわれていない場合よりも追加的に投入される資源が少なくてすむことは確かである。かりに,前年に投入されたパルプ資源の50\%がリサイクルされるとしよう。ただし,ひとたびリサイクル資源として利用されたらさらにリサイクル資源として利用することはできないとする。ある年に100単位の新しい資源が投入されたら,翌年は50単位がリサイクル資源として利用可能になるということである。経済が成長せず,すべての規模が同じなら,2年目は50単位しか新しい資源の投入が必要にならない。3年目は75単位の新しい資源の投入が必要になるが,4年目は62.5単位の新資源投入ですませることができる(注33)。すなわち,経済が成長しないならばリサイクルは有効なのである。

ところが,この経済のすべての規模が毎年10\%増加していたらどうだろう。簡単な計算で5年目には新資源の投入の必要量が100単位をこえてしまうことがわかる。そしてそれ以後,平均して10\%の新しい資源投入の増加が必要になるのである。リサイクルもこうなると焼け石に水である。成長率が3\%だとしても,新しい資源の必要量がリサイクルの開始以前に戻る時期が遅れるだけで,いずれは3\%の増加が必要になるのである(注34)。したがって,リサイクル技術は経済成長による資源利用の緩和をするほどの力はないのである。リサイクル技術はあくまで,経済の成長動機からの解放と連動する限りにおいて意義があるのである(注35)。

技術に期待するならば,その基本は,直接の生産過程において資源利用と廃棄物の排出を同時に抑制するようなものでなければならない。資源利用の効率の改善,すなわちある資源が十分利用されることもなく廃棄物や廃熱化することを技術的に回避することも考えなければならないが,これはリサイクルと同じような結果で,経済成長そのものに対抗する手段とはなりえない。あるいは,生産物の物質依存度そのものを低下させる技術もありうるが,これもすでに述べたサービスやソフトウエア生産のもたらす結果が必ずしも望ましいものにならないのと同じような結果が発生するだろう。

結論として,経済成長が自然環境への物質的負荷を回避しながらおこなわれる可能性はないと断言できる。一方,経済成長は,工業社会というものの構成原理となるマクロ目的であり,このマクロ目的を維持したまま環境破壊から社会が自由になることもないのである。

6 節 マクロ目的の終熄   (副目次へ

近代工業社会の成功によって,私たちは人口規模でも利用する物質フローの規模でも巨大な社会システムを構成するにいたった。しかし,この社会システムは私たち個人の意志から自立した独自の原理をふりかざしながら,社会の生存基盤としての自然環境を次々に崩壊させる怪物となっている。この章の分析で明らかにしたことは,この自然環境の破壊を終わらせるためにはこの怪物そのものを退治するか,それが不可能ならば弱体化させる以外に道はないということである。

そのためにまず必要なことは,経済成長というマクロ目的を終熄させることである。それは経済にたいする自然環境の制約を絶対的なものとすることから始められるべきである。地域的なものから段階をおってグローバルなものまで,各レベルにおける自然との物質バランスを回復し,自然の能力を増加させる水準に自然からの資源の搾取と廃棄物の排出を制限することがまず必要なのである。あるいは,主要な自然環境としての生態系のマクロ目的を阻害せずに,それにそった自然の傾向を助長するように経済を可能な限り制限することがまず必要なのである。自然からの可能な搾取量と自然への可能な廃棄量が,各レベルの生態系にたいする可能な限りの深い理解をもとに与えられ,遵守されるべきである。

これは経済に深刻な影響を与えずにはおかないだろう。経済は一般的な成長能力を阻害されるどころか,さまざまな部面で規模の縮小までが要求されるにちがいない。そのままでは,企業の投資と生産意欲の極端な低下による,危機的な持続的経済停滞が発生することはほぼ確実だろう。企業の雇用水準はいちじるしく低下し失業*は増大するだろう。すなわち,個別企業の自由を許容しながらこの社会システムを安全に維持することは困難なのである。問題は,利潤のいちじるしい低下のもとで,企業が自由に生産と雇用を縮小することが制限されなければならない。それでも,発生してくるであろう失業にたいしては,政府による政策的救済も力強くおこなわれなければならない。

しかし,それだけでもこの社会を維持することは困難だろう。消費者からは消費における選択の自由の著しい制限がおこなわれざるをえなくなり,企業もまたその活力の徹底的な低下が進行せざるをえないだろう。マクロ目的を喪失した社会システムには,それにかわるものとして,全体性を体現する強い意志が必要になる。それをなんらかの独裁者の意志として実現することは,避けなければならないとすると,人々の意志をより確実に表現する政治制度も不可避的に必要になってくるだろう。

自然環境の破壊の問題を社会システム問題としてとらえることは,このように私たちに深刻な事態の想定を強要するのである。事態の深刻さの中心には,社会システムにおけるマクロ目的にたいする人為的な制約を加えることによって,社会システムの個別主体の自由を制限せざるをえなくなるという問題がある。この自由の制限を回避するためには,社会の社会システム性を少しずつ低下させざるをえなくなるだろう。そして,自然の水準に対応した自立分散性を導入して,人格的ネットワーク社会としての性格を高めていくしか,かけがえのない自然環境との調和を永続的にはかる道はなくなるだろう。

脚注

(1)一般システム論*を提唱したL.フォン・ベルタランフィは「一般システム理論は、これまで空疎でぼんやりとしてなかば形而上学的と考えられてきた全体性にかんする一般科学である」と述べている。ベルタランフィ~ ,p.34。公文俊平は「共通の文化をもつ主体群のあいだに、恒常的で定型的で規則的な相互行為(とりわけ相互制御)による結合関係が形成される結果、そこに一つの全体とみなすにふさわしい事物が成立しているという認識が,この関係を構成している主体に通有されるにいたっているとき,そのような全体のことを``社会システム"とよぶことにしよう」と述べている。公文~ ,p.160。社会システムをどう定義するかは,分析目的に依存する側面を有するが,本書における立場は,全体性*をになう機構の相対的自立性の強調にあるといえる。システムについては,他に飯尾~ ,村田~ ,バックレイ~ など。(もどる
(2)本書,第5章を参照。(もどる
(3)19世紀にダーウィンとともに進化論*を発見した博物学者のA.R.ウォーレスは,進歩の最終目標が「私たちの本性の知的,道徳的,身体的な諸部分がバランスよく均等に発達することによって可能となる,個人が自由で自立している状態」だと考えられていたことについて,長年の探検を踏まえて,次のように述べている。「ところが,非常に興味深いことに,そのような完成された社会状態への接近が,文明程度の非常に低い人々のあいだでみられるのである。私は南アメリカと東洋で,未開人たちの共同体*のなかで暮らしてきた。彼らは法律も裁判所ももっていないが,しかし村の世論*がいかんなく発揮されているのである。各人は仲間の権利を良心的に尊重しあい,その権利の侵害はめったに,あるいはまったくおこらない。そのような共同体にあっては,誰もがほぼ平等である。そこには教養ある人と無知な人,富める人と貧しい人,主人と召使といった,私たちの文明の産物である大きな差別はひとつもない。富を増す一方で利害の葛藤をも生み出す労働の分業の普及ということもないし,文明化した国々の人口過密が不可避的にもたらす生存あるいは富のための過酷な競争も闘争もない」,ウォーレス~ ,p.439。さらに次のようにも述べる。「自然の諸法則についての知識を商業と富をさらに伸長させる目的で利用することに私たちの主力を注ぎ込みつづけたならば,それを追い求めるのに熱心すぎたときに必然的にともなう悪が,手のほどこしようもないほどに巨大に膨れあがってしまうかもしれない」,同,p.440。この文明批判*は,交際があったといわれるJ.S.ミルとよく波長があっている。本書,第4章参照。(もどる
(4)これらの点は本書,第6章を参照。(もどる
(5)鷲田~ の第1章参照。(もどる
(6)このような自然と社会の相互作用はR.B.Norgaardによれば,共進化(coevolution)*ということになる。Norgaard~ ,pp.41-42 には水稲農耕を例にこれを示している。(もどる
(7)日本の場合における水利,灌漑のもつ歴史的意義については本書の第5章参照。また,R.Wadeは南インド*の地域共同体における灌漑の管理の実体を報告している。そのなかで,Wadeは,上流と下流のあいだの利用の制御など灌漑が共同管理におかれることの重要性を指摘し,それらの共同体では(1)共同灌漑人*が任命され,村全体の権威の名のもとに個人の利益を超えて水の分配を決定する,(2)米(稲作)の場合,過剰な水の影響を受けない一方でその不足はいちじるしい被害を発生させるために,社会的権力の重要性が高いことなどを示した。ここでの議論を裏づけている。Wade~ 。(もどる
(8)日本の弥生時代おいて水系を超えた統合権力形成への動機づけとなった要因はこのような交易*であると考えられる。本書,第5章参照。(もどる
(9)古来,人間は交易ルートの確保のために戦争をくりかえしてきた。このような例は現代にいたるまで無数にある。古くは,シュメール人*が紀元前3000年頃に,諸都市間の交易ルートのために戦争したことが知られている。リントン~ ,p.137。J.J.ルソーの「戦争*がおこるのは物と物との関係からであって,人と人との関係からではない」(ルソー~ ,p.23)と指摘しているのも,灌漑の制御をめぐる戦争*,交易ルートの確保*をめぐる戦争の両方にたいする洞察として鋭い。日本の場合も,戦争が発生したのは,物に媒介された社会である社会システムが形成されていった弥生時代以降なのである。本書,第5章参照。(もどる
(10)ここで「サービス」とは,日本語でいう無料奉仕などのような意味ではなく,なにか物的なものの授受とはならないようなものでありながら,受領者に有効な働きをするものである。たとえば整髪など直接労働のかたちで供給されるものもあれば,機械が生産において果たす役割(用役)を表現する場合もある。(もどる
(11)日本においては縄文社会がこのような人格的ネットワーク社会であった。詳しくは本書,第5章参照。(もどる
(12)「目的」という語はその実現に向けた線形の機能や活動をイメージしてしまうので,必ずしも適切なものではないといえるかもしれない。やや漢語的になることを厭わないならば,マクロ目的を「全体理」,ミクロ目的を「部分理」と呼んだ方がよい。ここで理とは観念的な論理という意味ではなく現実の構造あるいは秩序の構成原理という意味である。それは目的よりも一般的で多面性をもったものとなるだろう。マクロ目的およびミクロ目的については鷲田~ においても一定の解明をおこなっている。(もどる
(13)このような構造は三浦梅園が体系化した条理の自然哲学によって明瞭にみえてくる。本書の第6章,第2節参照。(もどる
(14)ウイットフォーゲルは,大河川灌漑*が中心となった中国およびメソポタミアと比較的小河川灌漑がほとんどであった日本の場合を区別して,国家形成*のちがいを議論している。そして,前者が生み出す国家を中央集権的絶対主義的官僚国家と呼び,後者が生み出す国家を分権的封建国家と呼んだ。ウイットフォーゲル~ 。日本の場合は,弥生時代から古墳時代へかけての統一国家形成の動きは,水系単位の灌漑によって形成させられた社会が交易*という媒体によってそれを超えた秩序形成に向かう動きに対応している。 日本の場合は,灌漑という契機だけでは統一国家*には至らなかったのであり,それ以降,幕末*まで日本の農業社会全体を通して分権性が消えなかったのもこの社会システム形成の二段階性にあったとみることもできる。(もどる
(15)生態系の構造や機能については,鷲田~ 。また,他にホイッタカー~ ,太田他~ ,松本~ ,宝月~ ,Begon et al.~ など優れた参考書が数多くある。(もどる
(16)生態系がどのような空間的,地理的境界においてとらえられるかというのは,人を戸惑わせる問題である。Norgaard~ は,生態系概念における境界確定の困難性の問題を厳しく指摘している。しかし,森林生態系のなかに小さな土壌生態系が存在したりするなど,多様な生態系が包含関係にあったり,渡り鳥が遠く離れている生態系を分離しがたくしているなど,生態系どうしが関係づけられていたりすることは,この概念の弱点ではない。それは,システムの認識論的問題である。同じような問題は社会システムについても存在している。生態系や社会システムという全体的概念*を用いて現実の構造を認識する場合には認識する側の目的に現実の境界が条件づけられるのである。(もどる
(17)共生については,石川~ ,小沢~ ,大串他~ など参照。(もどる
(18)鷲田~ 参照。(もどる
(19)この仮説については,Washida~ ,鷲田~ 参照。このなかで私は,最大呼吸仮説が現実的なものであるならば,生態系全体の確実な持続のために自己の規模の拡大を「自発的に」抑止するというかたちで,特殊な利他主義*を発揮する個体群が存在する可能性が存在すると生態系のモデル分析の結果として指摘した。これにちょうど対応する実験的事実は栗原~ のなかで報告されている。すなわち,フラスコのなかの実験的生態系において,原生動物がバクテリアを食べ尽くさないように,原生動物自身がそれを抑止するための物質をだすことがわかったのである。同書,pp.180-181 参照。この生態系から明らかになったシステム一般の問題については,本書の補論を参照。(もどる
(20)本書の \pageref{saidaikokyu}ページ以下でもこの最大呼吸にかんするやや違った説明を与えているので,そちらも参照されたい。(もどる
(21)このような農業社会の理論的構造を最初に定式化したのは,F.ケネーに代表されるいわゆる重農学派*である。ただし,彼らはここでの農業社会のようなものをとらえようとしたのではなく,少なくともその意図としては,経済の一般的構造をとらえようとしていたと考えられる。(もどる
(22)ここでは,簡単化のために多期間にわたって利用される設備のようなものは省略している。それをいれても,結論を変える必要はない。また人口の増加がある場合には,その増加部分をやしなうために用意される生産財や消費財も必要部分とみなされる。(もどる
(23)数式を追うことが煩わしい読者は,解説の部分だけを読むか,この部分を飛ばして\pageref{skipeq}ページまで直接に進まれてさしつかえない。(もどる
(24)厳密に表現すれば,このM0はさまざまな部門に用いられたこの農業生産物をあらわす。そこで,それらを分けて表現すると,かりに農業以外の生産部門が20部門に分けられるとすると,その適当に並べた第j番目の部門が中間投入として用いた農業生産物(米)をMj0(ただし,jは0から20までの数字をとり,0番目は農業部門)とすると,M0=M00+M01+M02+ \cdots + M020 = Σ(j=020)M0j である。(もどる
(25)いま,不必要に複雑にしないため一つの部門が一つの生産物を生産すると想定すると,農業以外に20部門が存在するということは,農業生産物以外に20の生産物が存在するということである。そして,X1 は第1部門による第1番目の生産物の全生産量をあらわし,X2 は第2部門による第2番目の生産物のそれ, X3 は第3部門による第3番目のそれといった具合である。(もどる
(26)すなわち第j番目の部門が中間投入として用いた第i生産物をMjiとすると,Mi=Mi0+Mi1+Mi2+ \cdots + Mi20 = Σ(j=020)Mij である。(もどる
(27)鷲田~ ,第7章参照。(もどる
(28)よりはっきりと数学的に書くとVM0はベクトルの積になっていて,vi を第i財1単位の農業生産物,具体的には米で測った価値として V=(1,v1,v2,...... ,v20) で,また M0=(M00,M10,M20,......,M200)' である。したがって,VM0=M00+v1M10+v2M20+\cdots +v20M200 である。(もどる
(29)この場合もVMjはベクトルの積になっていて,先と同様にV=(1,v1,v2,...... ,v20) でありまた Mj=(M0j,M1j,M2j,......,M20j)' である。したがって,VMj=M0j+v1M1j+v2M2j+\cdots +v20M20j である。(もどる
(30)数学的に単純に説明しておこう。これまでの脚注で定義した記号がすべて有効であるとする。また,v0=1としよう。(2)の両辺にviをかけ,i=1,2,...... ,20について辺々を合計したものと(1)を考慮することによって,Sa=Σ(i=020)viXi-(Σ(i=020)Σ(j=020)viMij+Σ(i=020)viCi)となる。また,j=1,2,...... ,20について(4)の辺々を合計し(3)を考慮することによって,Sv=Σ(j=020)vjXj-(Σ(i=020)Σ(j=020)viMij+Σ(j=020)Wj)となる。この社会で生産された生産物の価値の総計は二つの式で同じでなければならない。したがって,Σ(i=020)viXi=Σ(j=020)vjXjである。また,中間投入物の総価値も,社会全体としては一つのものであらわされるから,上の二つの式の括弧内の第1項は等しい値をもつ。さらに,直接生産者には貯蓄が可能になるほど報酬が与えられないとすれば,農業生産物で測った報酬総額と,直接生産者が消費したすべての財の農業生産物価値は等しくならなければならないので,Σ(i=020)viCi=Σ(j=020)Wjである。これらの事実から,Sa=Svをえる。より詳しくは,鷲田~ 参照。(もどる
(31)これらの関係もまた,農業社会の場合と同様のモデルで示した方がよいかもしれないが,不必要に煩瑣になるので省略する。興味ある読者は,鷲田~ を参照されたい。(もどる
(32)この場合,二つの企業が経済的にみた社会の全体性をその支配下におくとは,マクロ目的とミクロ目的への社会の精神の二重化*が存在しない,あるいはそれにともなう制度の二重化が存在していないことを意味する。(もどる
(33)この状態を続けると新資源の投入はおよそ66.67単位に収束する。(もどる
(34)これと同じ条件で,一般に成長率を \beta(この例では0.1と0.03)そしてリサイクル率を \alpha(この例では,0.5),そして初期の新しい資源の投入を S(ここでは,100)としよう。すると,t 年後に必要になる新しい資源の投入量は Rttn=0(-1)n(1+\beta)t-n\alphanS となる。(もどる
(35)リサイクルについては,鷲田~ 参照。(もどる



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