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「環境と社会経済システム」

副目次
第 2 章 環境政策の価値均衡論
  1 節 価値均衡論と物質循環論
  2 節 価値均衡論にもとづく環境政策
   2.1 費用と便益の相対性と環境要素の相互依存性
   2.2 社会的な純便益の最大化
   2.3 直接規制と経済的規制
   2.4 直接規制と経済的規制の効率性比較
   2.5 コースの定理と環境利用権
   2.6 基本問題としての環境要素の価値評価
  3 節 仮想市場法による環境価値評価
   3.7 仮想市場法と他の評価法との比較
   3.8 仮想市場法の手順とその課題
   3.9 自然環境の存在価値をめぐって
  4 節 環境価値評価の社会的限界
   4.10 個人評価の集計と環境利用の閾値
   4.11 環境価値評価における投票民主主義の限界
   4.12 環境価値評価と社会システムとの矛盾
   4.13 所得格差と環境価値評価
   4.14 価値均衡論と将来世代の権利
  5 節 物質循環論と財の環境価値
   5.15 環境従属的な経済手段の有効性
   5.16 自然環境の豊かさと財の環境価値
   5.17 社会システムと物質循環論の限界


第 2 章 環境政策の価値均衡論   (副目次へ

1 節 価値均衡論と物質循環論   (副目次へ

前章では,今日の環境問題の背景には私たちの社会の構造的な問題が存在していること,そしてこの問題の根本的解決のために社会の社会システムというあり方そのものに手をつけなければならないことを明らかにしてきた。本書はこのような解決の方向を示すことを課題としているが,もう一方で,現在,環境問題は過剰搾取による自然資源の劣化や破壊あるいはさまざまな汚染などの問題として,具体的かつ個別的な問題として切実に解決が求められている点も無視できない。この個別的な因果関係の問題としてあらわれている環境問題にたいしては,個別的な環境政策が重視されている。本章は,このような個別的な環境政策の有効性と限界を明らかにすることを目的としている。それは,また,前章で明らかにしたような,本書における全体論的視点,すなわち環境も社会も一つのシステムとして認識することの意義をより鮮明にすることにもなる。

そもそも,なにをもって「環境問題」とするかについては現状では本質的に異なる二つの立場がある。第一の立場は,これらの環境問題は自然環境の利用をめぐる経済価値的バランスが崩壊していることによって発生しているととらえる。より精密な表現をすれば,一般に経済活動は企業や消費者など各経済主体によって費用と便益の価値的なバランスの望ましい状態を追求しそれを維持することによって営まれているが,環境問題は環境という特殊な要素の利用をめぐって両者の社会的バランスが望ましい状態からはずれている状態をさすといわけである。この考え方を,価値均衡論*と呼ぶことにしよう。この立場からの環境政策としては,課税*や補助金*によるものがあるが,他に直接規制による場合も環境利用権を確定することによる場合も,目的とする状況が価値的バランスを回復するものであるならば同じ立場に立っているのである(注1)。

第二の立場は,環境問題は自然環境とのあいだでの物質的バランスが崩れていることによって発生しているととらえるものである。経済は環境からの資源としての物質の搾取と廃棄物の環境への排出によって支えられているが,この搾取と排出には環境の状態を永続させるために許容される領域がある。また,その範囲内で自然にとって望ましい自然利用の組合せや規模が問題になる。この立場は,自然環境の利用がこの望ましい状態から外れているときに環境問題が発生すると考えるのである。エコロジー経済学*や物質循環の視点を重視した経済学がこの立場で環境問題を考えているといえるだろう。このような立場を物質循環論*と呼ぶことができる(注2)。

本章では,とくに第一の立場,環境問題の価値均衡論の立場からの環境政策の内容とその限界を明らかにしよう。この立場は,環境の機能にたいして経済的な価値評価を与えることができるということを前提にしたうえで,一つの一貫した論理の体系を構成している。現実の私たちの経済が,価値的なバランスと市場における交換によって大きな割合を占められていることを考えれば,このような論理の体系が環境問題やその政策にたいする一定の理解を与えることは確かであり,評価できる。しかし,環境の機能に適切な価値評価が与えられることがこの立場の前提となっていることに注意すべきである。価値的なバランスの崩壊を環境問題としてとらえる立場からは,環境の機能にたいする適切な価値づけがおこなわれない限り,環境問題そのものもみえてこないのである。また,価値づけがおこなわれない限りどのようにその問題を解決するのかも明らかにならない。したがって,この価値均衡論の最も重要な問題は,誰がどのように環境の機能にたいして価値評価を与えるのかである。

価値均衡論が環境の要素を価値づける場合,市場においておこなわれているような個人の選好による価値評価の方法と異なった原理を導入することは困難である。なぜなら,環境のある要素にたいしてある価値を与えたときに,消費者や企業といった個別の経済主体からみて,その価値が市場で交換されている財の価値と比較可能なものでなければならないからである。したがって,環境の要素にたいする価値づけも消費者や企業といった個別の経済主体による価値づけでなければならなくなる。しかし,最も大きな問題はこの個別主体よる価値づけが社会的に望ましい,すなわち環境問題の解決につながるような価値となりうるかいなかということである。あるいは,それによる自然環境利用の水準が,現在や未来の個人の権利を侵害しないかなども問題とならざるをえない。

ところで,この市場といわれるものは,工業社会における物的ネットワークの具体的形態,機能をあらわしている。つまりそのネットワークは市場の連鎖によって形成および維持されているのである。そして,価値均衡論の意図しているところは,それまで物的ネットワークの形成因としてとらえていなかった資源の利用やそれにともなう物質の流れを,価値的な評価を与えることによって内部にとりこむことである。したがって,価値均衡論の本質は環境問題を工業社会の社会システムという構造の問題としてはとらえず,またその構造そのものにはまったく手を触れず問題の解決をはかろうとするところにある。このため,価値均衡論の限界を明らかにすることは,同時に,社会システムをそのまま維持し環境問題の解決をめざすことの限界を明らかにすることにもなるのである。実際,環境を価値評価する場合に,不可避的に,個別意志と全体意志のあいだの不整合性の問題があらわれてくることが本章では示される。

またこのように,環境問題の価値均衡論の予定している価値評価の内容とその問題を明らかにするとともに,本章の最後の節では物質循環論と整合的な価値評価の可能性およびその限界も示そう。

2 節 価値均衡論にもとづく環境政策   (副目次へ

2.1 費用と便益の相対性と環境要素の相互依存性   (副目次へ

価値均衡論にもとづく環境政策の内容を示す前に,議論をまとまりよくするためにいくつか前提とすべき点を明らかにしておこう。これは,環境要素の価値評価という問題を考えるうえでも,大切な視点である。環境要素*とは,自然環境のもっている多様な機能や状態のそれぞれをさしている。たとえば,大気という自然環境は,人間にとって呼吸の媒体となりうるし,自動車の排気ガスを拡散する能力,さまざまな気候の提供など無数ともいえる能力をもっているが,それらの一つ一つを環境要素と呼ぶのである。

まず,今日の環境問題といわれるものの多くが人間中心主義*的な立場からの行為の結果としてあらわれていることは容易にわかるだろう。つまり,環境要素の人為的な変化がなんら人間生活にかかわらないとするならば,多くの場合それは環境問題とはならない。たとえば,狩猟によって森林に生息するある動物の個体数の変化が,その森林とその周辺の生態系にもそれに関係する人間の生活にも良い影響も悪い影響も与えない場合はありうる。このような場合は環境問題にはならない。また,その個体数の変化によって,森林生態系*のダイナミックな変化の過程すなわち生態遷移*が変化をこうむることもありうるが,それでもそのことが人間の生活に直接間接に関係することなしには問題にならないのである。

ある環境要素が人間の生活になんらかの影響を与えるとして,その与え方が人間の側からみて望ましいときに,それは便益であり望ましくないものであるときは費用であるか被害である。たとえば,大気が窒素酸化物によって汚染されていないという環境要素は,便益を人々に与えていることを意味する。したがって,この便益の喪失は被害であり,この環境要素を失うことの費用である。ある熱帯多雨林*の生態系に生息するある生物種という環境要素が人になんらかの便益を与えているとしよう。それは,将来なにかの薬草となる可能性であるかもしれないし,その種の存在が熱帯多雨林のシステムとしてのバランスを維持するうえで必要な機能を果たしていることによる人間への便益かもしれない。もしこの種が人為的な要因によって絶滅するとしたら,それは便益の喪失であり被害(費用)である。したがって,費用と便益は環境要素に関連するものであるならば,かならず一対になっているのである。いいかえれば,便益とは費用を負担しなくてもよいことであり,費用とは便益を失うことなのである。

しかし,このように費用と便益*をある環境要素にかんする表裏一体のものとしてとらえると,現実に発生している環境問題は単一の環境要素にかかわる問題としては発生していないことがわかる。たとえば,窒素酸化物*による汚染の場合を考えてみよう。被害者は大気が窒素酸化物に汚染されていないという環境要素からくる便益を失っているのであるが,加害者がえている便益は異なる環境要素にかかわるものである。すなわち,加害者は大気の窒素酸化物のシンク*としての能力という環境要素から便益をえているのである。加害者である工場経営者や自動車の運転手はこの便益を失えば,被害を受けまたそれは費用となる。汚染されていない大気が人にもたらす便益と,大気のシンクとしての能力がもたらす便益と費用は,大気という一つの自然環境がもっている二つの環境要素にかかわる便益と費用である。この二つの環境要素は,それぞれにかかわる便益と費用をもっているのであるが,環境要素が一つの自然環境のなかで密接に関係しているために,一方には便益をもたらし一方には費用のみをもたらすという関係になるのである。

このような関係は図~F1 のようにあらわされる。



図(F1) 環境要素の相互関係と環境問題

いま,対象とする自然環境に,単純に二つの環境要素 A,B がとらえられたとする。それぞれが,人間にたいする関係としては,表裏一体の関係として便益と被害(費用)を発生する。しかし,環境要素が自然環境のなかで密接な相互依存関係にあるために,一方の便益が一方の費用として発生するようになるのである。

すなわち,環境問題は環境要素の相互依存関係のなかで発生するのであり,このような意味での間接性をとらえることは大切である。たとえば,環境要素が一つしか関係しない費用と便益の問題があるとすると,環境問題とはいえなくなる場合もあるのである。たとえば,ある人にとっては大気を汚染させることそれ自体が便益であり,ある人はそれによって被害を受けるとすると,これは環境問題ではなく一種の傷害事件である。

熱帯多雨林*に保持されている特殊な種の場合についてみてみよう。加害者の側からみると,その目的はこの種そのものから便益をえようとすることではない。たとえば,森林を構成する特定の樹木を伐採し商業的に利用することからくる便益がある。この場合,環境要素はこの特定の樹木なのである。あるいは,商業的伐採*がおこなわれるために道路が開かれ,そこから焼畑*の農民が大量に押し寄せてきたとすると,それらの農民にとっての便益は森林の土壌,土地という空間という環境要素によってもたらされるのである。また,この熱帯多雨林という生態系のなかでのみ生きつづけられる特殊な種の存在という環境要素にもまたそれに付随する便益がある。樹木や土地や特殊な生物種は,熱帯多雨林という生態系のなかで密接な相互関係にある。そのことが,特定の環境要素にかんする便益が別の環境要素にかんする被害になるという環境問題の構造を発生させる原因なのである。

したがって,仮定として,ある環境要素にかんする被害あるいは便益の貨幣価値がともに測れるとしたら,原理的にそれらは一致するべきだろう。たとえば,窒素酸化物に汚染されていないという環境要素がもたらす便益はそれを失うことによる被害に一致すべきだということである。またそれは,ある特定の環境要素にかんしていえば,便益は被害によって測れる,あるいはその逆もいえるということである。しかしそれは,自動車や工場排気のシンクという大気の環境要素についてていえば,たとえその要素にかんする費用と便益が等しくなければならないとしても同じ大気についての汚染されていないという環境要素にかんする費用や便益と一致するとは限らないのである。

このように考えれば,環境問題において環境要素の相互依存関係性,あるいは環境のシステムとしての特徴を前提とすることの重要性もまた明らかになるだろう。たとえば,窒素酸化物や硫黄酸化物による大気汚染は,酸性雨*の原因ともなり,またそれは森林や湖沼の生態系の破壊ももたらすことになる。このような相互依存性が今日の環境問題を複雑にし,解決の困難性を増大させている原因でもある。

2.2 社会的な純便益の最大化   (副目次へ

価値均衡論*の立場の根本にある考え方は,ある環境要素によってもたらされる貨幣価値で測った便益と,その要素に関連している別の環境要素の貨幣価値で測った費用あるいは被害を比較考量することによってそこで発生している環境の問題を解決しようとすることである。

そのとき,環境汚染問題などのように,すでに便益は発生しているにもかかわらず,被害が評価されていないことによって問題化する場合と,森林の開発プロジェクト*の適否を判断する場合のように,便益も費用,被害もいまだ発生していない段階での両者の比較が問題となる場合もある。いずれの場合も,基本前提そのものは便益と費用の比較である。経済的には,便益から被害あるいは費用を差し引いた純便益が社会全体として最大になる状態が選好されるのである。すなわち,純便益を図~F1 の単純な場合であらわせば,ある自然環境について,

(純便益)=(環境要素 B がもたらす便益)−(環境要素 A にかかわる費用)

であり,これが最大になることが社会的に望ましいとされるわけである。ただし,この純便益は社会的なものであり,特定の個人や個別企業に発生する便益ではなく,それらも含めた社会全体の総計である。

公害裁判*において,裁判所が下す判断も基本的にこの見地に立っている場合が多い。たとえば,道路が通っていることによって近隣住民が騒音や大気汚染などの被害を受けた場合,道路のもつ高い公共性*がうたわれる。つまり,これは社会的な便益が考慮されているのである。そしてもう一方で,被害が認定されれば,賠償額が提示される。さらに,多くの場合,住民側は道路使用の差し止めを請求*する。そして,この差し止め請求が棄却される理由としては,道路が与える社会的な便益に比べて被害が小さいことが理由とされるのである。明らかに,これは道路がもたらす社会的な純便益の大きさが重要な判断要因となっていることを示している。

森林の開発の場合,木材の切り出しやその後の農地としての開発などによって便益をえることが可能となる。しかしそれによって,木材ばかりでなく他のさまざまな生物の個体数やさらには種そのものも失われる可能性が高い。さらに,森林のもつ土壌の保全,水流の調整や浄化,気候の緩和,炭素の貯蔵(二酸化炭素として大気中に放出されない),リクリエーション資源としての機能などによる,さまざまな便益を失うことになる。経済的手段によれば,この開発の便益とそれによる被害の評価にもとづいて純便益が考慮されることになる。その際,開発などによる環境利用の「規模」と純便益の関係もまた考慮されることが,この方法の重要な特徴である。なぜなら,この手段は経済的にみて「最も望ましい」状態を基準に考えるからである。注目されるのは,純便益が最大になる開発規模がどれほどであるかである。

道路公害*の場合などでは,すでに規模の問題は与件とされている場合が多い。それは,道路の幅やその地域を通過する道路の長さ,車の通過量を調整することは容易でないからである。もちろん規模を変わりうるものとすることは不可能ではない。たとえば,車の通過量という規模を考えれば,それと純便益の水準とはなんらかの関連をもちうる。水質汚染の場合も,ある物質による汚染の水準とそれにかかわる被害が考慮されれば,汚染と純便益の関係があらわれるだろう。

いま,森林の開発規模がある水準(Xヘクタール)として考慮されているとしよう。このときになんらかの計算のもとに,ある便益の発生が予想されまたそれにともなう被害もまた予定され,それによって予想純便益が与えられる。この純便益が,ある正の水準で与えられたとしても,このXヘクタールという開発規模が最適な開発規模であるかどうかはわからない。そこで,次のように考えてみよう。いま,開発規模をわずかに増加させて同じように純便益を計算してみることにする。開発規模の増加分を記号で Δ X であらわすことにしておこう。したがって,増加したあとの開発の水準は X+Δ X である。

この,Δ X という追加的な開発にたいして,増加する便益(benefit)の量を Δ B,同じく増加する被害(damage)を Δ D としよう。そして,増加する純便益(net-benefit)*を Δ Nとすると,

Δ N = Δ B - Δ D

である。もちろん,この純便益の増加分 Δ N が正となるとは限らない。もし,それが負であるならば,この追加分を加えた開発規模の増大は望ましくない。これが正ならば,開発規模の増加が社会的にみて望ましいと判断するのである。逆に,この規模の水準から減少させる(Δ X < 0)場合,それにともなう被害の減少(Δ D <0)が便益の減少(Δ B <0)よりも大きい場合,規模の減少による純便益の変化分(Δ N)が正になる場合もありうる。この場合は,開発の規模を縮小させた方が望ましいということになる。

この考え方はさらに精密化できる。いま,X という開発規模から1単位だけ規模を増大させたとき(Δ X = 1)の便益と被害の増加分をそれぞれ限界便益*と限界被害*と呼ぶことにして,それを前と同様に Δ B と Δ D とあらわそう。このような,「限界」の使い方は普通の感覚からは違和感があるが,経済学が marginal という英語を訳すときにこの訳語をあてていることによって通例化してしまっているので,それにしたがっているだけである。

ただし,ここの規模にかんする変化分についての1単位は,ごく小さな単位でとらえているとしよう。たとえば,数ヘクタールあるいはそれ以上の森林の開発が問題になっているとしよう。このとき,変化分の1単位は,1ヘクタール単位ではなく,たとえば10平方メートル単位である。そして,いま各開発の規模 X にかんして,その規模から1単位だけ開発を増加させたときの限界便益と限界被害がわかっていると仮定しよう。たとえば,2,000平方メートルの開発規模を X として,この規模から2,010平方メートルに開発を増加させたときの便益と被害の増加分(Δ B, Δ D)はそれぞれいくらであるかがわかっている。さらに2,010平方メートルから2,020平方メートルへ増加させたときの便益と被害の増加する分もわかっているなど,各規模(Δ X)における(Δ B, Δ D)がわかっているとしよう。そして,一つの例としてこれをグラフに描くと,図~F2 のようにあらわされる(注3)。



図(F2) 限界便益曲線と限界被害曲線

図の見方を簡単に説明しておこう。いまたとえば,環境利用水準をあらわす森林の開発規模が X1 であったとしよう。この状態から限界的に1単位だけ開発規模を増大させることによって増加する便益が Δ B1 で,同じくそれによって増加する被害が Δ D1 であることがこの図からわかる。図の二つの曲線は開発規模を変化させたときの限界便益と限界被害の変化をあらわしているのである。

この例では,便益は最初は急速に増加する。規模の小さい場合にはその規模から1単位増加させることによる便益の増加分は大きいのである。しかし,規模が増加すればするほど,その規模から1単位規模を増加させることによる便益の増加分は小さくなって,\tilde{X} を超えるとそれ以上の増加は便益を増やさなくなる。たとえば森林開発の場合,開発がある種の樹木を伐採することだとすると,その樹種の密度が最も高い場所あるいはそのできる限り近くから開発されるだろう。したがって,はじめのうちは追加的に1単位増加させることから目的とする樹木が伐採される割合が高いがそのうちに他の目的外の樹木ばかりになっていくという状況をあらわしていると考えてよいだろう。

一方この例では,限界被害はある閾値 Xt まではあらわれず,それ以降,追加的な1単位の開発による被害は増大するものとしてあらわされている。被害の加速度的増大にたいする一つの説明は次のようになる。森林は,さまざまな環境要素,すでにあげたものとしてはたとえば水質や水流や土壌の保全機能,種や個体数の保存機能などを有している。そして,それぞれが開発の規模で測って異なった閾値をもっていたとしよう。また,それぞれが規模に比例して被害が増大するとしよう。すると,それぞれに環境要素については閾値を超えたあとの限界被害は一定であっても,閾値を超えるたびに全体としての限界被害が増大することになる。

このような例は,なにも森林開発だけによらず,一般的にも環境利用をめぐる便益と被害の関係をあらわすものと考えることもできる。たとえば,道路公害の場合を考えてみよう。ある地域の道路を通過できる車を1台増大させることによる便益の増加分,すなわち限界便益は,1日あたり1台も通過できない状況から1台通過させることができる場合には,大きな値となるだろう。というのも,最初の1台は通過によってもたらされる便益の最も大きな自動車,たとえば病院に病人を運ぶ救急車を通過させればよいからである。次々に通過できる自動車を増やしていくと,だんだんと追加的な1台の通過がもたらす便益(限界便益)は,その切実性の低下とともに小さくなっていくことが考えられる。最後は,自転車でいっても変わらない少し離れたところにタバコを買いに出かけるために通過する車もあるだろう。さらに増大して,混雑でも発生するようになれば,追加的な1台からの社会的便益の増大は負になるかもしれない。

道路公害の被害の場合も,いろいろ考えられる。たとえば窒素酸化物*の大気汚染からくる呼吸器系の障害がおこる閾値は一人一人異なっていて,健康な人はかなり深刻な汚染でも障害はおきないが,病弱な人は少しの汚染でも喘息になる。そして,一旦障害がおこると汚染の深刻さが増大するにしたがって病状も深刻化すると想定すると,先の森林開発の場合と同様に道路を通過する自動車が増加すればするほど限界被害は増大する。これも限界被害が増大する一つの説明となるだろう。

この説明は,図~F3 でも表現できる。



図(F3) 個別的被害の累積と限界被害曲線

この図の上段は,前の図のような限界被害ではなく被害の水準そのものを縦軸にとっている。A1B1 は最も汚染に弱い人の被害直線である。p1 の汚染水準までは被害はないがそれ以上になると,汚染に比例して被害が発生する。もし被害者がこの人だけであるならば,p1 より大きな汚染にたいする限界被害は,被害水準の傾きをあらわすから一定になる。つまり,どの汚染水準からも追加的な1単位の汚染の増加にたいする被害の増加は一定であるからである。さらに,A2B2 は,次に弱い人の被害直線をA1B1 を基準にして描いたものである。この人の,汚染にたいする閾値は p2 であり,明らかに限界被害曲線はこの水準以降,この二人目の被害者の被害直線の傾きだけ一段増加する。以下同じことがくりかえされて,限界被害は汚染水準とともに増加することになるわけである。このようすは図~F3 の下段にあらわしている(注4)。

この図の場合,被害者の閾値がある幅で離れて存在するために限界被害曲線が滑らかでなくなってしまっているが,被害者が多数で少しの汚染の増加で障害をおこす人が必ずあらわれてくるような場合は,図~F2 のような滑らかな限界被害曲線に近づくのである。

図~F2 に戻ろう。森林の開発面積や,大気汚染の水準などの環境利用規模が X1 であるとしよう。このときの限界便益は Δ B1 であり,限界被害は Δ D1 であり,前者は後者よりも大きい。すなわち,この状態では,1単位の環境利用規模の増加は Δ B1 - Δ D1 (>0) だけ純便益を増加させることを意味している。したがって,この状態では純便益は最大化されていない。一方,環境利用規模が X2 であるならば,逆に1単位の増加は純便益を減少させ,逆に1単位の規模の縮小が純便益を増加させる。したがって,限界便益曲線と限界被害曲線の交差する,X* において,純便益は最大化されていることがわかるのである。

この X* が社会的にみた最適の環境利用の水準である。このような前提からすれば,前に述べたように今日の環境問題は純便益が最大化されていないことから発生している。たとえば,道路公害*における大気汚染の問題で考えてみよう。道路を利用する側はすでにそれによってさまざまな便益をえている。しかし,その道路の近隣住民は,単に大気汚染によって健康被害を受けるばかりではなく,汚染による不快感を強制され,騒音や交通事故*,歩行による移動の困難などの多様な被害をこうむっている。しかし,これらの被害については,なんら加害者側,すなわち道路の使用から便益を受けている側が費用としてとらえていないために,図~F2 でいえば,\tilde{X} の水準まで利用の規模を増加させているのである。

というのは,それによる被害が利用者にとってまったく費用化されていないために,この水準まで追加的な利用の増加が便益をもたらすからである。森林開発の場合は,森林の多様な環境保全機能の破壊が費用化されていないために,1単位の追加的な開発によって便益としての利益の増加がもたらされる限り,開発規模が拡大されるのである。道路公害の場合は,利用者が個々の自動車の運転者であるために,1台の車の通行の増加が混雑によって他の車の便益を減少させる量よりも,その車の通行によってその運転者がえられる量が小さくても,その運転者は車で行こうとするために限界便益が負になっても道路の利用者は増加するということまでおきてしまう。

したがって,環境利用による被害が正しく考慮されていないと,社会的に望ましい水準以上に被害が増加してしまうのである。純便益最大化の観点からいえば,このような状態が環境問題が発生しているという状態になるのである。

2.3 直接規制と経済的規制   (副目次へ

このような,社会的な純便益の最大化する点の達成が環境政策の基本であるとする立場に立った場合に,それを実現する手段としてどのようなものが考えられてきたかを示しておこう。

図~F2 で示した限界便益曲線と限界被害曲線をもう一度,図~F4 にあらわそう。



図(F4) 課税による限界便益のシフト

社会的便益を最大にするためには,環境利用水準を X* に抑止しなければならない。その最も直接的な方法は,環境利用水準を法律やなんらかの行政上の規制などによって最適利用水準 X* に抑えることである。たとえば,森林の場合は伐採許可面積をそれぞれの森林にたいして指定するということである。それらの面積は,伐採による被害の程度のちがいによって異なるだろう。自動車排気ガス*による汚染の場合は,道路の利用量と1台あたりの汚染物質排出水準を規制することによって可能になる。工場から排出される汚染物質による大気汚染の場合は,日本の「大気汚染防止法」*にあるように煙突からの汚染物質の排出量を状況に応じて直接規制する方法や,あるいは大気汚染地域といわれる特定地域の汚染物排出総量の上限を定め,関連工場への規制,工場の排出口あたりの汚染物質の排出水準の制限などによってそれを実現するという総量規制という手段もある。これらは完全とはいえない面もあるが,ある一定の環境利用水準の達成を関連の物質量をそのものを規制の対象とするという点では明らかに直接規制である。

これにたいして,環境利用による便益を受ける側になんらかの課徴金*をかけることによってその利用水準を規制しようという方法がある(注5)。それらのうち,ピグー税*といわれるものは環境利用の1単位ごとに最適利用水準における限界被害に等しい額の課税*をしようというものである。この税によって最適水準が達成されることを示そう。図~F4 で最適な環境利用水準における限界被害額は OC となる。この額を環境の利用者,大気汚染でいえば汚染者,森林開発でいえば開発者側に1単位の環境利用あたり課すと利用者側の限界便益曲線は,OC の分だけそのまま下にシフトさせた曲線 AB となる。なぜなら,限界便益曲線は1単位の環境利用あたり追加的にもたらされる便益の金額であるが,課税によってその追加的な便益の金額が減額されるからである。利用者の直面する限界便益曲線は AB となるために,X* 以上に環境の利用を拡大しようとすると純便益が減少してしまう。したがって,最適利用水準 X* が達成されるというわけである。

また,この最適水準は課税とは逆の補助金*によって達成できる可能性もある。いま,政策当局が1単位利用を削減するごとに OC の金額の補助金を出すことにしたとしよう。そして,環境の利用者が被害を考慮せずに,最大の便益をえるために \tilde{X} の水準の利用をおこなっていたとする。このとき,環境の利用者が1単位環境利用を減少させることによって失う便益は明らかにほんのわずかであり,図でいえば OC に等しい IF の額の補助金分をほとんどまるまるえることになり,1単位の減少に同意するだろう。あるいは,X' の利用水準にいた場合でも,1単位の減少によって失う便益はおよそ HG であり,それによってえられる補助金は EH であるから,ネットで EG だけとくすることになる。したがって,この状態でも利用者は1単位の利用減少に同意し,最終的には最適水準まで,環境利用を減少させるだろう。

この議論の範囲では,課税と補助金は対称的*で同じ結果に収束する。しかし,現実には課税*の場合と補助金の場合では環境の利用主体の所得に与える効果がまったく逆になるために,結果が異なったものになる可能性が強い。たとえば企業について考えると,補助金の支給は,それによって収益条件が改善されるために技術的に劣等な企業でもその環境を利用した経済活動を開始できる条件をつくり出す。市場が十分に機能し,その産業への企業の参入撤退が自由な状態であるならば,新規の企業参入*を促進し既存企業の産出の低下,したがってまた自然環境の利用規模の低下の全体を相殺して,さらに自然環境の利用規模を増大させるほどになりうる。すなわち排出削減にたいする補助金は,結果として産業全体としての自然環境の利用規模を増大させる可能性が高い(注6)。

2.4 直接規制と経済的規制の効率性比較   (副目次へ

課税や補助金*は環境を利用する主体の経済的動機に依存しながら,目的の環境利用水準を達成しようとするものである。このような経済的手段は,最初に述べたような直接規制に比べて社会的な費用を節約しながら目的を達成できるという点でより望ましいという議論がある。

これは,同じ環境を利用する異なった主体のあいだで,環境を利用することの切実性が異なることにもとづいている。環境を利用することが切実であるとは,一般に,ある目的を達成するために,他のものを利用して環境利用のかわりにすることが困難であることを意味している。汚染地帯を通過する道路でも,その道路をどうしても使わざるをえない自動車とそうでない自動車が考えられるだろう。あるいは,汚染地帯にある工場でも,汚染物質を排出することの切実性は,工場の技術水準などによって異なる可能性は高い。森林伐採でも,特殊な用材を利用する場合,特定の森林に依存する程度が高い場合もありうるだろう。このような切実性の度合をかえりみることなく,環境利用の目的削減量を機械的に割り当てる方法は,削減の容易な主体と困難な主体を同列視することによって,困難な主体にとっては苛酷な割り当て,容易な主体にとっては簡単すぎる割り当てになる可能性が高いというわけである。

この点を,状況を簡単化した図によって,少し精密に検討しよう(注7)。環境利用主体として二つの企業を考えよう。環境利用の方法は,気体廃棄物の排出であるとして,このことが環境に負荷をかけ被害を発生させているために,二つの企業の合計排出をこれまでの水準に比べて割合で\beta(たとえば,0.8とか半減ならば0.5など)にすることを当局がねらっていたとしよう。したがってそれは, 1-\beta だけ削減させることをねらっているといってもよい。二つの企業は気体廃棄物を排出するとともに他の多くの種類の生産要素も投入しながらある生産物を生産しているのであるが,ここでは簡単化のために,他の生産要素はどちらも等しく一つであるとしよう。いま,気体廃棄物の排出を減少させると,同じ生産水準を維持するためには,かわりに他の生産要素をより多く必要とするというかたちで削減費用がかかるとしよう。これは,気体廃棄物の減少を削減するかわりに,減少分についてなんらかの処理をするためにエネルギーがかかるなど,処理設備の運転に生産要素の投入が必要になるなどと考えればよいだろう。要するに,削減の費用を他の生産要素の投入の増加というかたちで表現していると考えればよい。

図~F5 は,環境利用と生産要素投入の代替関係をあらわしている。



図(F5) 経済的手段の費用節約性

企業1と企業2は,ある生産物の一定水準についてそれぞれ \tilde{X1}, \tilde{X2} だけ環境を利用する。つまり気体廃棄物を排出し生産している。簡単化のために,それぞれの排出量は等しいとしよう( \tilde{X1}=\tilde{X2} )。そのとき,他の生産要素をそれぞれ \tilde{Y1}, \tilde{Y2} だけ投入している。二つの企業とも廃棄物排出を減少させるかわりに他の生産要素投入を増大させなければならないのであるが,同じ量の減少にたいして,企業2の方がより多くの他の生産要素の投入を増大させなければならないとする。図の I1, I2 はこの関係をあらわしている。縦軸は限界量ではなくて要素の投入量そのものである。これらは,同じ産出をするための環境利用量と他の要素の投入量をあらわすものであるから,等産出曲線*と呼ぶことができる。二つの曲線がともに原点に向かって凸になっているのは,環境利用量を減少させればさせるほど,同じ1単位の減少にたいする,他の要素の投入量が大きくなることをあらわしている。

いま,政策当局が 1-\beta の割合だけ環境利用を減少させるために,二つの企業の排出水準を \beta \tilde{X1}, \beta \tilde{X2} とするような直接規制をおこなったとしよう。すなわち,削減目標を機械的に二つの企業に平等の割合で賦課するのである。すると,そのときの他の要素の投入水準は, Y1^\beta, Y2^\beta である。この直接規制による企業1と企業2の費用の負担分は, Y1^\beta-\tilde{Y1}, Y2^\beta-\tilde{Y2} となり,企業2の負担が断然大きなものとなる。これは企業2が,環境利用の切実性が高い,あるいは環境利用技術が企業1に比べて劣っていることをあらわしているのである。

そこでいま,企業2の環境利用削減の負担割合を低下させて,企業1にその分より多くの利用削減をせまったとする。\beta \tilde{X1}, \beta \tilde{X2} の削減水準における等産出曲線 I1, I2 の傾きを比べてみよう。状況から明らかに企業2のその傾きの方が急である。これは,企業2の環境利用量を1単位増加させる,いいかえれば企業2の環境利用の削減量を1単位緩めることによる他の生産要素の節約量が,企業1の環境利用量を1単位減少させることによる他の生産要素投入の増加量よりも大きいということを意味している。つまり,汚染物質排出量を1単位だけ企業1が企業2の分を肩代わりした方が両企業の生産要素の投入の合計量を節約できるということを意味している。この1単位分は,企業2の傾きが急である限り大きくできる。図でいえば,Δ X1(=Δ X2)だけ肩代わりするところまでおこなうと二つの曲線の傾きは等しくなる。したがって,企業1と企業2がそれぞれ X1*, X2* の排出水準にすれば,両企業の合計の他の生産要素の増加を最も少ない水準にとどめるかたちで目的とする排出量の削減が実現するわけである。したがって,それぞれの企業の技術的状況が完全にわかっているならば,直接規制も機械的な割り当てでなく,このようなそれぞれの企業の状況を考慮した割り当てにすることによって,全体としての費用を少なくして目的が達成されるのである。

次にこの効率的な排出割当水準を課税*によって実現することを考えよう。環境利用量,ここでは1単位の気体廃棄物排出量に応じた課税を t,1単位の他の生産要素の価格を p としよう。すると,それぞれの生産水準を維持することを前提に X1, X2 の排出, Y1, Y2 の生産要素利用をおこなっているとすると,生産のための費用は企業1が C1=pY1+tX1,企業2が C2=pY2+tX2 となる。環境利用水準と要素投入量は,それぞれの等産出曲線のなかで費用が最も小さくなる点によって与えられる。価格と課税水準が与えられているとすると,費用直線の傾きは一定となる。その費用直線をスライドさせて,等産出曲線に接しながら最も費用の小さくなる点が企業の最適な要素投入および環境利用水準となるのである。

いま,生産要素の価格は与えられているとして,課税水準 t を,費用曲線の傾きがちょうど前に示した効率的な削減水準の分布の等しくなった等産出曲線*の傾きに一致するように与えるとする。すると,図からも明らかなようにその課税水準と要素価格のもとでは二つの企業が経済的観点から自発的に選択する最適な点はちょうど前に求めた最適な削減水準の分布点 X1*, X2* に一致するのである。したがって,課税水準を適当に選択すれば企業の自主的な判断によって最も社会的に費用の少ないかたちで環境利用水準の最適化を達成できる。

ただし,以上の議論には明らかなごまかしがある。まず,直接規制であってもすべての企業の情報が確実に把握できれば,社会的にみて費用の最もかからない環境利用水準の割り当てが実現できる。一方,課税による方法では,最適な課税水準を求めるにはそれぞれの企業の技術的な情報を完全に把握しなければならない。したがって企業情報を完全にえられるという前提に立つ限り,一方の方法が他の方法にたいして優位であるという結論を下すことはできないのである。

だが現実には,私企業が支配的な経済のもとで,ある環境利用に関連する各企業の情報を完全に把握することは不可能だろう。ところが,企業の技術情報が不完全である場合でも,課税の手段においては試行錯誤を経ることによって目的とする総排出水準を最も低い費用で達成することができるのである。直接規制でいけば,その規制が妥当かいなかの検証を可能にする情報はえられない。ところが課税の場合は,ある税率によって実現した環境利用の全体の水準が目的よりも大きければ税率を増大させ小さければ税率を下げるという操作をくりかえすことによっていずれは最適な削減水準の分布を実現することが可能であるという議論がなりたつというのである。そしてこれが,直接規制よりも経済的手段による方が効率的に環境利用の最適化をはかれるという根拠になっている。

2.5 コースの定理と環境利用権   (副目次へ

これまで,環境政策にかかわる直接規制と経済的制御の内容とそれらの比較をおこなってきた。この二つは,環境政策を構成する二つの軸ともいえるものだが,環境政策にはもう一つの軸がある。それは,コースの定理*といわれるものにあらわされている(注8)。コースの定理を簡単にまとめれば次のようになる。

コースの定理 : 環境問題は環境利用の権利を確定すれば,加害者に利用権があろうと被害者に利用権があろうと,当事者間の交渉によって社会的に望ましい解決をえることができる。ただし,交渉はいかなる費用もともなわないとする。

この定理は,前に示したような環境政策の軸とは異質な視点をもちこんでいることによって興味深い。もし,コースの定理がつねに成立するのであれば,直接規制も経済的制御も不要になる。しかし,現実の環境政策が当事者任せにならない場合が多いということは,そこに定理では十分考慮されていない問題が存在することが予想される。コースの定理の内容と基本的な問題点を示しておこう。

コースの定理の示すところを簡単な例によってまず明らかにする。いろいろな例で示すことは可能だが,次々に新しい例を提示して混乱させないように,これまで語ってきた道路公害の例で示そう。ただし,いくつか変形をしなければならない。まず,ある地域を道路が走っているがそれはある企業の所有による私道であるとする。その道路の交通量によって大気汚染が引きおこされその道路の近隣住民とのあいだで問題になっているとする。いま,道路の交通量について1日2,000台の自動車の通行と1日800台の通行の選択が問題になっているとしよう。1日2,000台の通行では企業はなんら被害を受けないが住民は喘息などの病気や商店の客足の低下による営業の損失などで1日あたり150万円の損失をこうむる。一方,1日800台の通行に制限すると住民は被害を受けなくなるが企業はそれによって1日あたり200万円の損害をこうむることになるとしよう。表~T1 にこの状況があらわされている。

表(T1) {\bf コースの定理の例}

いま,個々の当事者の立場を離れて,社会的な観点からはどちらが望ましいだろうか。明らかに,2,000台の通行を許可した方が社会的な損害が150万円で済むので,そちらの方が望ましいといえる。さてかりに,住民はこの道路利用が2,000台よりはるかに少ない時点から,そこに住んでいたとしよう。そして,その場合,汚染されていない大気を利用する権利が法律上,住民の側に与えられていたとする。そして,住民が道路利用を800台まで低下させる,利用の差し止め請求*権ももっていたとしよう。住民は2,000台の通行では被害を受けるのであるから当然800台まで減らすことを要求するだろう。しかし,企業にしてみれば,そうすることは大きな損失につながる。それよりも,住民に150万円の損害を完全に償っても,200万円の損害よりも負担は小さくなる。住民にしてみれば150万円の賠償をもらえば,2,000台でも800台とかわらない。企業にしてみれば,余計に1万円積んで151万円にしても2,000台の方がいいのであるから,そうしたプレミアムをつけて住民を説得するかもしれない。いずれにしても,当事者どうしが交渉の舞台について合理的に振る舞えば,社会的に望ましい選択がえられそうである。

利用権が逆に企業の側にあった場合はどうなるだろうか。たとえば,住民が居住を開始する以前から企業は,この道路を2,000台の通行量の水準で利用していたとする。そして,法律上もこの場合はその通行量の水準が許容されているとするのである。この場合,住民が800台の水準を実現するためには,企業にたいして200万円の損害賠償をしなければならない。それは,2,000台における住民の被害よりも大きくなってしまう。合理的な住民であるならばそれを避けるであろうから,この場合でも結局社会的にみても望ましい水準である2,000台通行に落ち着くというわけである。

もし,被害水準が異なっていて2,000台の通行における住民の被害が200万円で,800台の場合の企業の被害が150万円だとすると,どちらに権利があったとしても当事者間の交渉がおこなわれそれぞれが合理的に行動するならば,社会的に望ましい水準である800台に落ち着くことを示すことができる。かくして,コースの定理が成立していることをこの例において示すことができたわけである。

このコースの定理については,課税による最適環境利用水準の達成のところで示した例によって,もう少し精密な説明を与えることができる。図~F4 の状況で環境利用によって便益を受けている個人あるいは集団が一つのまとまった当事者になっているとし,被害者についても同じように一つのまとまった当事者になっているとしよう。そして,環境利用権は便益を受けている利用者側がもっていると仮定する。この利用者側は追加的な1単位にたいする便益の増加が実現できる限りそれをつづけ,便益の総額を最大にするように \tilde{X} まで生産しようとするだろう。しかし,この状態では1単位の環境利用の減少による便益の減少はほんのわずかだが,被害額はおよそ IN に相当する分の減少をもたらす。したがって,環境利用者からみれば,ほんのわずかの損害賠償をえれば1単位の環境利用の削減に同意するだろう。つまり,1単位の減少にたいする利用者の損害がその減少による被害者の被害の低下と比べて大きい限り,被害者は賠償し利用者は賠償を受け入れるだろう。たとえば,環境利用水準が X' であれば1単位の削減による被害の減少額は HM であり,それによる利用者の損害は HG である。被害者は HG かそれよりもわずかに大きい額の利用者にたいする賠償に同意するであろうし利用者もそれを受け入れるだろう。結局,この交渉は最適利用規模(X*)になるまでつづけられ,そこで落ち着くことになる。

逆に,被害を受ける側に権利があり,環境利用をいかなるレベルでも差し止めることができるとしよう。被害を受ける側も,社会通念にてらして閾値の Xt までは利用を許容するだろう。被害をまったく受けないのであるから。しかし,それ以上は被害を受けるのであるから利用を差し止めるだろう。しかし,Xt から1単位利用を増加することによる被害はわずかであるが,利用者側はその1単位の増加から RQ の便益の増加をえるのである。そのような状況では,利用者側は被害の賠償に応じるであろうし,それによって被害者も経済的な意味で合理的ならば利用の増加を許容するであろう。この場合でも,追加的な1単位の利用による被害の増加(限界被害)に比べ便益の増加(限界便益)が大きい限り,利用者は被害の賠償に応じるであろうし,被害者もそれを受け入れるだろう。結局この場合でも,最終的には最適な利用水準に到達するのである。

このように,ある環境利用をめぐって便益を受ける側と被害を受ける側が当事者として交渉の場に立つことが可能な場合,権利の所在が明確であればどちら側に権利が存在しようとも社会的にみて望ましい水準の環境利用が達成されるという意味で,コースの定理の成立が確認できるのである。

このコースの定理の迫力は,環境問題すべてが所有権*あるいは環境利用権の設定問題に帰してしまう可能性を示しているところからくる。すなわちそれは,所有権あるいは利用権さえ当事者のいずれかに確定していれば,あとは関係する当事者の交渉に任せておくだけでピグー税や直接規制が目指していた社会的に望ましい環境利用状態に到達できると指摘しているのである。しかし,コース自身が強調しているように,現実の環境問題のほとんどはこのような単純なものとしてはすんでいない。たしかに,ビルの建設による日照権*の問題であるとか,ある工場の騒音と住民とのトラブルなどではこのようなことがありうるかもしれない。しかし,大気汚染問題になると,すでに述べたように大気という環境が廃棄物シンクとしてあるいは生物の呼吸の媒体などさまざまな環境要素を有しているために,それぞれについて利用権を定めることは困難であり,まして大気という環境にたいして所有権を定めることはいちじるしく困難であろう。

森林の場合は所有権が確定している場合がほとんどである。しかし,実際には森林をめぐる環境問題は数多く発生する。たしかに,森林に存在している物質的な構成要素の処分権はその土地の所有権者にある。しかし,森林がもっている多様な環境要素,すでに述べた多様な環境保全機能のすべての処分権も同時にその所有者に属しているかといえばはなはだ疑問であるといわざるをえない。また,それらの機能の利用権を特定の主体に帰属させることの妥当性も問題となろう。たとえば,ある森林という環境のなかで保持されている特定の種を絶滅させることができる権利,あるいはその種を存続させる権利を特定の主体に帰属させることはひどく困難であるように思える。

また,所得効果*の問題も無視できない。所有権や利用権がいずれの主体に属するかによってそれぞれの主体の所得に与える影響はいちじるしく異なる。たとえば,利用者,加害者側に権利があれば,被害者は被害を受けるだけではなく被害を少なくするための賠償までおこなわなくてはならなくなる。被害者の支払い能力が低い場合は,交渉そのものの成立が困難になる。また,賠償の支払いや受領が利用者や被害者の状況に大きな影響を与える場合すなわち所得効果がある場合は社会的な最適点とは異なった水準に,交渉の結果として到達することも十分ありえる。

ただ,これらの所有権や利用権の確定がおこなわれ,また所得効果の問題が無視できたとしてもコースの定理の現実性には問題がある。それは取引費用*(transaction cost)の問題である(注9)。ある環境利用をめぐって多様な多数の当事者がいる場合に,利用者と被害者が一つの当事者としてまとまり交渉を可能にするための費用が多大なものになる可能性が高いのである。この取引費用の問題は,被害者が多数いる場合にそれらの意見をまとめるための作業を誰かが請け負わざるをえず,また交渉過程において情報の伝達と意見の集約をくりかえす費用の大きさの問題と考えられる。そして,森林や海洋など自然環境が複雑なものになり,当事者の多様性や数が増大することによって,どれだけの費用をかけようとも交渉主体としてまとまることができないということも多いにありうる。その場合には,社会を「代表」する行政当局による直接規制なり経済的制御が必要になってくるのである。

2.6 基本問題としての環境要素の価値評価   (副目次へ

価値均衡論に立つ環境政策の基本的内容は以上のようなものだが,その過程で鮮明になったことは,このような政策において環境要素がもたらす便益,あるいはそれが利用できないことからくる費用,被害が金銭的に評価されることの重要性である。大気汚染の場合,きれいな大気からくる便益あるいはそれが利用できない場合の被害が計算される必要がある。つまり,大気を呼吸として利用するうえでの清浄性という環境要素の価値額が与えられなければらならないのである。それはまた大気の汚染からくる被害額もあらわす。もちろん,大気の気体廃棄物のシンク*としての環境要素の価値も与えられなければならない(注10)。

大気汚染からくる被害について,限界被害がどのように与えられるかについての説明のなかで考え方の一つの例をだした。つまり,低い汚染水準から肉体的に弱い住民が順々に発病していくので,限界被害が逓増するという説明が与えうるということである。しかし,このように呼吸器系の疾患を発病するかしないかという被害だけをとらえ,その医療費や苦痛にたいする慰謝料*という社会通念上認められているような費用を被害額として,それが清浄の大気が利用できない被害,すなわち清浄な大気の価値としてよいものであろうか。実は,環境政策上の価値均衡論的な立場からみてもこれは妥当ではないのである。というのは,汚染物質に汚染されていない大気に人々はもっと多様な価値評価をする可能性が存在するのである。

まず,たとえ発病はしなくても大気汚染によって肉体的な不調を覚えたり不快な感覚をもっている人は汚染地域全体にわたって発病者よりはるかに高い割合で存在するだろう。あるいは,汚染によって街路樹*が痛めつけられたり公共設備が汚れたりすることに反感を感じている人もいるはずである。あるいは,それによってその地域のイメージが悪化することに好ましくない感じをもっている人もいるだろう。さらには,その大気汚染がその地域ばかりでなく別な地域の酸性雨*の原因となり森林や湖沼を劣化させている可能性もある。そして,少なくともこれらすべてが大なり小なり汚染されていない大気の価値評価にはいる必要があるのである(図~F6)。



図(F6) 清浄な大気の価値評価

なぜなら,先にも述べたように私たちが現実に市場でおこなっている財の評価はその財にかかわるすべての便益を金銭的に評価することによっておこなわれるのである。

自動車を購入するときは,エンジンの馬力やスピードがどれだけでるかといったものから,デザイン,乗り心地や安全性やすべての側面を考慮して,その価格の妥当性を評価する。自動車のデザインはたいした問題ではないから貨幣評価の対象にはしないなどというのは特殊であろう。汚染されていない大気の価値は,汚染することによる便益と比較されるのだが,その汚染することの便益を構成する価値の方は,ほとんど市場で与えられた価値あるいはその総計である可能性が高い。このことにもあらわれるように,他のあらゆる価値評価の基準が市場で与えられるものである状況では,被害額を構成する環境要素の価値もまた市場と同じように,人々の制限されていない評価として与えられなければならないのである。

森林を開発から保護する価値の場合は,大気汚染の場合よりもかなり複雑になる。伐採される樹木の経済的価値や開拓される農耕地や工場用地の価値は市場によって与えられる可能性は高い。樹木の価値は保護された場合の森林の価値にも含まれるが開発されなければあらわれない価値は保護された森林の価値には含まれない。森林をリクリエーションに用いる場合の価値も含まれなければならないだろう。とくに複雑なものは,保護された森林の価値に含まれる樹木以外の多様な森林の環境保全機能の価値評価である。森林は水や大気の物質循環のなかで,それらの浄化や調整の役割を果たし,土壌を保全したり,その内部に多様な生物種の棲息場所を提供する。また,森林は保全されることによって炭素をその内部に保持し,成長する森林の場合には新たに炭素を大気中から固定化しつづける。大規模な森林破壊の進行が,大気中の二酸化炭素濃度の増大の大きな割合となっている現状ではこの炭素固定化機能*も重要である。

森林は一つの生態系としてこのような機能を果たすのであって,森林の生物や非生物の個々の構成要素が単独で実現しているものではない。このような森林の環境保全機能の全体が保全された森林の価値評価にはいらなければならない。これらの機能の全体が関連する人々の価値評価の考慮にはいらなければならないのである。また,森林の規模が大きなものであればあるほど関係する人の数は多数になるだろう。

このような価値評価の複雑さは,他の海洋や湖沼や河川などの生態系についても同じようにあらわれる。これらの生態系が一般に市場で評価されていない多様な環境保全機能をもっていることは明らかだろう。さらに,これらの生態系どうしが,よりグローバルな大気や水の物質循環のなかで相互に結びついているのである。そのように考えれば複雑さはより一層深刻なものとならざるをえない。

このように,環境要素の価値評価は環境問題にかんする価値均衡論の立場からは不可欠の前提であるが,それの実践は容易でないと予想されるのである。

3 節 仮想市場法による環境価値評価   (副目次へ

3.7 仮想市場法と他の評価法との比較   (副目次へ

環境の価値を与える方法としてはすでにいくつか開発され,それらのもとづく実証研究の蓄積も大きなものとなっているが,ある自然環境やそれに含まれる要素について人々の与える多様な評価の可能性をもつものとしては仮想市場法(contingent valuation method)*がある(注11)。仮想市場法はある自然環境やその要素にたいする人々の選好の強度を,関係する個人にたいする直接的な面接やアンケートを用い貨幣額として聞き出すことによって環境の価値を決定するものである。人々は,市場においてある財やサービスをある一定額の貨幣の支出と交換に手にいれる。その財やサービスの選好の強度は支出された貨幣額によって価値としてあらわされている。これにたいして仮想市場法は,この実際の市場のような評価方法には一致しないが,ある個人がその環境要素を実際に手にいれることなしに人々の選好の強度を表明させようというものである。もちろん「実際に手にいれることなしに」とは,所有権,利用権のことであってその自然環境を利用したりその存在からなんらかの便益を受けることまで否定することは意味していない。

疾病の治療費などによって,自然環境が劣化したり破壊されたりすることの費用あるいはそれを保持することの便益を測る場合には,その自然環境にたいする人々の多様な評価を切り捨てる可能性が高いことはすでに指摘した。このような人々の選好に依存しない評価方法としては,たとえば森林が破壊されたときにそれを再び再生するための費用によって森林の価値を測る方法,あるいは環境が汚染された場合にそれを緩和するための費用によって測る方法などもある。これらの方法は,人々の選好を媒介にしないということによりある種の主観性を免れる可能性がある点で望ましい性質をもっている。しかしこれらの方法は,人々がこうむる一般的な被害に関連をもたないという問題,あるいは疾病や森林破壊やその他の生態系破壊*,あるいは水系の汚染などについて完全に回復するのが不可能であったり,膨大な費用がかかり非現実的になるなどの問題のために,一つの情報以上の評価が与えられていない。仮想市場法*においてはこのような自然環境破壊にかんするさまざまな情報が個人の評価額を聞き出すに先だって与えられることによって,回復の難易性も適切に考慮される可能性がある。

このように環境価値評価の方法のなかで,仮想市場法は人々の選好の強度によって評価価値を与える方法という大きな分類に属する。このような,人々のある自然環境にたいする選好の強度をとらえることによって価値づけを与える方法としては他に旅行費用法(travel cost method)*とヘドニック価格法*(hedonic pricing method)がある。仮想市場法とこれら二つの方法との最も重要なちがいは仮想市場法が個人の選好を直接引き出すことをねらっているのにたいして他の二つの方法は現実に市場で取り引きされている要素にたいする需要や費やしている時間などによって間接的に表明されている自然環境やその要素にたいする選好を推定していることである。仮想市場法の詳しい説明の前に,これら二つの方法の簡単なスケッチを与えておこう。

旅行費用法は公園や森林や海浜などへの旅行に支出する費用をとおしてそれらの場所の自然環境の観光地としての価値を評価する方法である。やや複雑だが基本的な手順の概略を示しておこう。実際の推計上はさまざまなバリエーションがあるがそれは省略する。最初の手順としてまずそのサイトにくる人々に面接をおこない,年間の訪問回数,出発地点,旅行の方法,その費用,時間さらには所得などを聞き出す。旅行の方法や時間などの情報からそれらを貨幣単位の費用に換算し入場料などがあればそれも加えて1回の訪問のための総費用を算出する。そして,訪問回数を被説明変数とし他の1回あたりの総費用や所得を説明変数とした統計的な回帰モデルを構成する。すなわちえられたデータを用いて,

(訪問回数)=f(総費用,所得)

というような関数 f を近似的に求めるのである。それを目的とする自然環境の観光地としての要素にたいする人々の需要関数*とみなす。また,この地へ訪問する人の平均所得や平均的訪問回数などを考慮することによってある代表的な旅行者を想定する。そして,需要関数によってその代表的な旅行者が支払ってもよい費用総額を算出する。図~F7 は近似的に求められた需要関数に代表的旅行者の所得を与え費用と訪問回数のあいだの関係をあらわしているが,代表的旅行者の平均訪問回数を V とすると,斜線の部分が近似的に支払い意志のある部分となる。



図(F7) 旅行費用法における代表的個人の支払い意志額

というのは,この個人において最初の旅行において支払ってもよい額は図の点線であらわされ C1 である。2回目の訪問では,旅行そのものの切実性が低下した分だけより低い費用でなければ旅行しなくなり C2 に支払ってもよい費用は低下する。これをくりかえして,平均訪問回数 V に対応する総支払い意志額はそれらの合計となるのである。以上で求めた支払い意志額*に,それに総訪問者数を乗することによってその自然環境の観光地としての要素にたいする価値評価とみなすのである。

この旅行費用法は,目的とするものをえるうえでは信頼性の高いものであるといえる。しかし,一見して明らかなようにこれによって評価される自然環境は観光地となっていて人々がなんらかの旅行費用を払う対象でなければならない。しかも,評価されるものはその自然環境のなかの観光地としての要素のみである。人々の支払い意志額のなかには,その自然環境の生態系としてもっているさまざまな環境保全機能は含まれていないと考えるべきである。

これにたいしてヘドニック価格法*は他の自然環境要素の価格を市場における人々の評価から推計する。ヘドニック価格法は自然環境と密接な関係をもった財(資産)の価格がその自然環境の要素に影響を受ける度合を測定することによって,その要素の価値を測ろうというものである。財としては一般に住宅が選ばれる。まず,住宅(土地も含んでいる)の価格に影響を与える多様な要因を特定化する。都市のなかにあるならばその都市のランク,都市からはなれていればその距離,近くにどのような施設があるのか,交通の便などの住宅の位置にかかわる要素,その住宅の土地の面積や床面積,部屋の数,建設様式など住宅そのものにかかわる要素,そして騒音や大気汚染の状況などの環境にかかわる要素も住宅価格に影響を与えるだろう。次に,これらの要素が住宅価格に影響を与える状況を表現する関数を考える。

(住宅価格)=f(位置要素,住宅要素,環境要素)

ここでは,右辺の要素としては三つしか含まれていないが,実際はすべての要因がここにはいっている。そして,これらの要素と住宅価格*との対になったデータをできる限り集めてくる。それを用いて,この関数の形状を決定する係数を回帰分析によって近似的に測定する。そうすることによって,ある環境要素(たとえば大気中の窒素酸化物の濃度や騒音の水準)が1単位変化したときの住宅価格の変化分にかんする値をえることができるのである。これがこの環境要素の1単位の価値となるのである。このような汚染の実際の水準などの環境要素の単位で値を求めるのではなく,環境要素の1\%の変化が住宅価格を何\%変化させるのかという弾力性を用いた測定例もある。

このヘドニック価格法も旅行費用法と同様に,対象とする環境要素については人々の多様な選好を価値としてとらえることができる。また,ヘドニック価格法は旅行費用法とは異なる環境要素について,価値評価をとらえる可能性があるという点では補完的である。しかし,あくまで環境が住宅価格に影響を与えている場合しか価値はとらえられないので,限定性もまた明らかである。このような,人々の環境要素にたいする選好を価値としてとらえる旅行費用法やヘドニック価格法には対象の限定性と,収集可能なデータからくる制約が大きい。これにたいして仮想市場法は,原理として,今日問題になっている自然環境やその要素のほとんどに適用可能である。その意味で非常に柔軟な環境価値評価の方法となっている。また,私たちの目的は価値均衡論に立つ環境政策のコアというべき環境評価法の一般的検討であるが,仮想市場法はそれとは異なる方法の評価にも有効な視点を提供するものとなっている。

3.8 仮想市場法の手順とその課題   (副目次へ

そこでまず,仮想市場法による環境価値の基本的な評価手順を少し詳しく示しておこう。

第1段階:仮想市場の設定

まず,対象とする自然環境やその要素が設定されなければならない。森林,河川,湖沼,海洋などの生態系でもよいし,そのなかの特定の種や個体群でもよい。あるいは清浄な大気や良好な水質でもよい。対象が特定されたならば,それについてどのような問題が発生しているかが明確化されなければならない。森林が開発されようとしている,上流のダムによって河川から自然流が消えようとしている,湖沼が埋め立てられようとしている,海洋がタンカーからの石油の流出によって汚染されようとしている,さまざまな人為的な圧力によってある種の鳥が絶滅に瀕している,などの問題の状況が可能な限り全面的に把握されなければならない。そして,考慮されている可能な解決方法,その費用負担のためのファンドの必要性が明らかにされる。そのファンドの実現が課税*によるのか,ナショナルトラスト*のような方法によるのか,入場料などによるものか,あるいはどの範囲の人々が支払うものなのかなども明確化する必要がある。

これらの情報は,自然環境にたいする付け値*(bid)をえるための標本調査の際に被質問者にできる限り明確に与えられなければならない。そして,これらを前提に,どのようにしてこの仮想的な状況のもとでの人々の自然環境にたいする付け値をえるのかも計画として明確にされなければならない。すなわち,付け値のデータをどの範囲の人々からえるのか,またそれは直接面接によるのか,アンケート用紙の郵送によるのか,電話でのアンケートによるのかなどである。

第2段階:自然環境にたいする付け値の獲得

次に標本とされた個人にいずれかの方法での調査をおこなう。その際,その個人が問題となっている環境の保全あるいは改善のために最大限支払ってもよい支払い意志額(willingness to pay)*を引き出す。この支払い意志額を聞き出すための方法としては,(1)支払い意志を示す限り付け値を上げていって,最大額を聞き出す,(2)単一の支払い額にたいしてそれに同意するか否かのみを聞き出し,その分布から支払い意志額の平均値を求める,(3)回答者の所得水準などを考慮し設定された金額の範囲を示したカードを回答者にみせて選択させる,(4)回答者に支払い意志額を自由に述べさせるなどの方法がある。

第3段階:平均支払い意志額の計算

えられた支払い意志額のデータから平均値を計算する。その際,「批判付け値*(protest bids)」を除外する。批判付け値とは,その自然環境が価値がないこと以外の理由からゼロの付け値が与えられているものである。その理由としては,問題になっている自然環境を価値評価すること自体が誤りであると考えていたり,そのような調査に協力したくないと考えている場合がある。あるいはまた,「異常値」も除外される。他の付け値と比べ2桁以上のちがいのあるもの,所得にふさわしくない大きな付け値が与えられることもある。ただし,ある結果が批判付け値であるかどうか,あるいは異常値であるかどうかについての判断には曖昧さがあり,確定した基準はない。

第4段階:付け値データの集計

計算された平均付け値を,予定した人口の範囲全体にわたって集計する。そして,その自然環境を保全する価値がえられるのである。ただし,その際次のような問題が考慮される。第一に,その自然環境にかかわる適切な人口の範囲をどのように選択するかである。その自然環境の保護が選好態度に強く影響を与える範囲にするのか,あるいは市町村など一定の行政上区切られた範囲にするのかが選択されなければならない。第二に,付け値のえられた標本の平均と集計を予定されている人口の平均のあいだのずれの修正である。たとえば,標本は人口全体のよりも所得が高いために付け値が高めになっている場合,修正が必要になる。そのために,付け値を標本からえるときに同時に聞き出されている所得のデータを用いて,所得の変化が付け値に与える影響を推計し,それによって平均付け値を人口の所得水準に合うように調整し集計する。第三に,求めるものが対象となった自然環境の総現在価値であり,かつ,付け値が毎年の支出額の支払い意志額である場合,毎年の支払いにあらわされている自然環境の年価値を総現在価値に変換しなければならない。そのためには,将来の年価値を適切な割引率*を用いて現在価値*になおす作業が必要になる。

以上が仮想市場法の基本的な手続きだが,この手続きにはいくつかの克服すべき課題が指摘されている。第一に,回答者の自然環境にかんする付け値が,なんらかの要因によって彼自身のいだいている真の価値よりも高くなったり低くなったりすることによって,最終的な価値づけにバイアスがあらわれることである。要因としては,(1)戦略的バイアス*と呼ばれ,回答者が自然環境の保護を他の人の支出に期待しながら自己の支出を最小限にしようとする戦略的動機をもつことによって低い付け値を与えたりすること(注12),(2)最終的な支払いが課税なのか他の手段なのか,あるいは付け値を引き出す場合に回答者に提示した初期値の影響,あるいは回答者に与えられた情報の影響など仮想市場の設定の影響によるずれなどが存在しうる。

第二に,選好を表明させる手段としての支払い意志額と受け取り意志額*(willingness to accept)の選択の問題である。前者はある自然環境を保全するために個人がどれだけ支払う意志があるのかを表明させるものである。それにたいして後者は,その自然環境を保全しないことを受け入れるために必要とする受け取り額をあらわしている。仮想市場法において原理的にはどちらを用いても自然環境にたいする付け値を引き出すことができる。「あなたはその自然を守るためにいくら支払いますか」と聞くか「あなたはいくら受け取ればその自然を失うことに同意しますか」と聞くのとのちがいである。先にも述べたように一般にある自然環境やその環境要素があることからくる便益とそれを失うことからくる被害は価値としてみれば一致しなければならない。たとえば,森林が存在することからくる便益の価値はそれを失うことからくる被害と一致しなければならない。しかし,実際にはこの両者が一致しないことが広く認められているのである。その価値を個人が評価する場合,単なる評価にとどまらず便益にたいする支払いや被害にたいする受け取りが発生することによって人々の価値評価の基準がかわってしまう。その点の問題を示しているのが,この支払い意志額と受け取り意志額の不一致なのである(注13)。

ただこの両者の不一致はある程度まで予測されたものだった。



図(F8) 支払い意志額と受け取り意志額

図~F8でこの予想された不一致が説明できる。この縦軸にはある個人の所得水準が示してある。横軸はある自然環境の規模(森林規模や大気の清浄さの水準)である。したがって,このなかの点は所得と自然環境との組合せを示している(注14)。いま現状でこの個人は A 点であらわされる状況にあるとしよう。そして,この A 点を含む I1 という曲線は,この個人に現状と同じ満足度を与える点の組合せをあらわしているとしよう(等効用曲線*と呼ばれる)。A 点から左上への移動は自然環境が劣化するならば逆に所得が増加しなければならないことをあらわし,自然環境が劣化すればするほど同じだけの劣化にたいする所得の増加割合が大きくならなければならないことを示している。右下への移動はその逆をあらわす。

いま自然環境が A 点の水準から B 点の水準にまで劣化させるかどうかが問題になっているとしよう。A 点と B 点は所得水準は同じだが自然環境の水準は低下している。I2 はこの B 点と同じ満足度をもたらす所得と自然環境の組合せであり,当然 I1 がもたらす満足度よりも低いものである。このとき,支払い意志額は自然環境を A と同じ水準に維持するかわりに,自分の自由になる所得を犠牲にするということである。この個人にとって最大どこまで所得を犠牲にできるかといえばそれ以上所得を減らす,すなわち環境を守るために支払えば B 点と同じ満足度になってしまうところまでであろう。したがって,その額は AC の幅であらわされるものである。今度は,自然環境が劣化しても,それにかわって所得が増加すればその劣化を受け入れることができる水準は,最小限 BD の幅であらわされる所得額の増加であることもわかる。そして,図のような自然環境にたいする選好の状況では受け取り意志額は支払い意志額よりも大きくなるのである。

このような状況が発生するのはその個人が所得が増加したときに良好な環境を求める志向を強める場合である。たとえば,B 点と D 点を通る等効用曲線の接線(m,n)の傾きが異なっている。これは,D 点の方が1単位の環境の劣化にたいして補償されなければならない所得の増加が高い,所得で測った環境の価値が高いということを意味している。つまり B から D に所得が増加すると,環境にたいする選好が強まっているのである。C と A を比べても同じことがいえる。環境の選好にたいする正の所得効果*があると,受け取り意志額が支払い意志額よりも大きくなるのである。

ここまでは,理論的にも予想された結果だったが現実に測定された二つの方法の差は,予想された以上に大きなものになっていることがわかってきている。そして,この理由はいまだに十分な説明が与えられているとはいえない(注15)。この問題は,結局,仮想市場法において用いられる個人の評価水準のデータをえる方法そのものの有効性を疑わせる面をもっている。したがって,この乖離の説明の努力は今後もおこなわれざるをえない。

3.9 自然環境の存在価値をめぐって   (副目次へ

仮想市場法が,人々の自然環境にたいする多様な価値評価をとらえることができることはすでに指摘した。そこで,自然環境のどのような要素が各個人の評価にあたって考慮されているのかをあらためて整理してみよう。評価の具体的内容は,対象とする自然環境ごとに異なっているので,より抽象的なレベルで分類してみよう。

まず,大きく個人の利用に結びつくあるいは直接・間接にその自然環境が個人の便益を高めるような選好によって与えられる価値がある。このような価値をまとめて「利用価値」*と呼ぶことにしよう。逆にそれはその自然環境や要素が劣化したり破壊されればその価値に対応する被害を受けることを意味している。居住地域はもちろん居住地ではないが出かけることのある地域であればその地域の大気汚染や水質汚染などの自然環境はその個人に影響を与える。その環境の価値は利用価値をもっているのである。森林の場合には,それを保全する場合,それを観光地として利用する可能性がある場合もあるし,森林のさまざまな環境保全作用になんらかの関係があれば,その個人は森林の保全に利用価値をもちうる。

この利用価値の他にも直接にも間接にも利用に結びつかない価値が自然環境にあることは以前から指摘されていた(注16)。そして,最近ではこのような価値にたいしても個人は支払い意志額を示すことが仮想市場法による環境価値評価の実証研究によってわかってきた(注17)。仮想市場法によって与えられる自然環境の全体の価値のうち4割から6割あるいはそれ以上の割合で利用価値以外の価値が与えられている測定例が数多くあらわれてきているのである(注18)。通常の経済的な財やサービスの場合は基本的に利用価値によって個人の支払い額が決定される。仮想市場法によってえられた価値評価に利用価値以外のものの割合が大きいことは,対象が自然環境という特殊なものであることによるものであることは明らかだが,他に,仮想市場法という環境価値の評価方法そのものの問題である可能性も指摘されている(注19)。

利用に結びつかない価値のなかには,現在は利用しないが将来の利用の選択肢を残すという意味の価値すなわちオプション価値*といわれるものが含まれていることははやくから指摘されていた。しかし,このような価値では環境の全体価値のなかの大きな割合を説明することはできない。全体価値のなかの利用価値やオプション価値を除いたその他の価値部分は,その自然環境が存在することそのものに価値があると人々が認めていることによると考えられ,存在価値*と呼ばれている。このような存在価値がありうることを私たち自身が理解することはそれほど困難ではないだろう。たとえば,ある動物が絶滅に瀕していて,それを救うために一定のファンドが必要ということであれば,まったくそのことに無関係と思われる人々からもいくらかの資金が集まるだろうことは理解できる。今日の人々の自然環境を保全しようという運動や意志のなかにこの存在価値に類する動機があることは確実である。

しかし,この自然環境の存在価値は経済価値としてみることができるかどうかということには大きな疑問が投げかけられている。いいかえれば,自然環境にたいする存在価値は,私たちが市場で購入する際におこなう財やサービスへの選好と同じような動機にもとづいて与えられているのかという問題である(注20)。たとえば,利用価値があらわれる可能性の比較的少ない方法で,いく種類かの渡り鳥の保護について仮想市場法を用いた場合,保護すべき鳥の個体数が2,000であっても20,000であっても200,000であっても統計的に認識できるほどの人々の価値評価の差がでてこない。あるいは,大規模な石油流出による環境破壊を回避することと小規模な流出によるそれのあいだにも価値評価の差が明確にならないといった問題にあらわれている(注21)。市場においておこなわれる経済的な価値評価と同じであるならば,2,000の渡り鳥の個体数の保護が望ましいなら200,000の個体数の渡り鳥の保護はより望ましいことは確実である。小規模な石油流出による環境破壊を回避することが望ましければ大規模なそれを回避することはより望ましいはずである。経済的価値ならば,より望ましいものには規模に比例することはなくてもより大きな価値が与えられるべきである(注22)。

自然環境の価値評価のうえで存在価値*が大きな比重をもち,その存在価値が経済的な選好とは異質ななにかによっておこなわれているとするならば,環境問題の価値均衡論にとっては大きな問題にならざるをえない。なぜなら,価値的な均衡を問題にする場合は,バランスの一方には自然環境の価値があらわれもう一方には市場で測られた経済価値があらわれるが,これら両者の比較が可能でなければならないからである。自然環境に人々が与える価値が経済とは異なった次元で付けられたものであるならば,比較の意味そのものがなくなるだろう(注23)。

しかし,この段階で仮想市場法そのものにそれほど悲観的な結論をだす必要もない。このような規模に依存しない人々の価値評価も自然環境のあいだの相互依存性にたいする現在の水準における人間の認識の不完全性に依存している可能性もあるからである。今日人々は,地球というシステムが一つの生態系として精巧な相互依存関係のなかにあることをますます切実に認識するようになってきている。しかし,その地球システム*を構成する要素どうしの相互関係についてはまだあまりに知らないことが多すぎるのである。したがって,今日の環境保護運動の少なくない部分がそうであるように,保護する必要性は強く感じていても,保護することの意味については知識の不完全性から完全に人類にとらえられないといったことは,自然環境の価値づけにおいてもあらわれるだろう。このような自然にたいする知識の不完全性*が,利用に結びつかない存在価値の大きさに反映し,評価の不安定性や非整合性を生み出していると考えられないことはないのである。

4 節 環境価値評価の社会的限界   (副目次へ

仮想市場法などによる価値均衡論的立場から提起される環境価値評価は,いずれなんらかの改良がおこなわれる可能性のあるような手続き上の問題などとは別に,方法の柱となっている論理そのものにかかわる基本的な欠陥をもっている。そのために,このような価値評価にもとづく環境政策は限定された当事者と限定された環境要素による環境問題にたいしてしか解決のための有効性をもたず,社会的な広がりをもった環境問題では利用することが困難であることを以下で示そう(注24)。

4.10 個人評価の集計と環境利用の閾値   (副目次へ

第一に,えられる価値から導き出される環境利用の水準が必ずしも環境の劣化や破壊を回避するものとはならないという問題がある。仮想市場法において,回答者に求められるのはある自然環境保全のために支払ってもよいと考える貨幣額である。それによって,どの程度まで自然環境を守るべきかを必ずしも表現できない。結果的に,人々の支払い意志額の総計が小さく環境価値が低くて人々が保全すべき環境であると考えていないと判断されれば,劣化や破壊にまかされる可能性もある。価値均衡論の立場からいえば,それは,評価された環境価値が低いために被害や費用よりも環境を利用することの便益が大きく,純便益を最大化する環境利用水準が傾向的劣化を招いたり破壊を招いたりする水準になっているということを意味するのである。

このことは 図~F9で説明できる。



図(F9) 環境利用の最適水準と閾値

この図で,D1 曲線は仮想市場法による環境価値評価にもとづいてえられた環境利用にかかわる限界被害曲線である(注25)。このような限界被害曲線*と限界便益曲線*の交点 X* が最適な環境利用水準ということになる。しかし,そのような最適な利用水準が,対象となっている自然環境が持続的に自己を再生産するために外部からの利用の限界,すなわち閾値である X' を超えてしまっているということがありえる(注26)。

このような閾値は,大気汚染問題など環境の部分的でかつ非生物的な要素についてのみ注目しその便益と被害のバランスを問題にするときにはあらわれにくい。しかし,森林や河川,湖沼,海洋といった生態系としての環境を問題にするときには,そのシステムそのものが持続するための環境利用の限界が問題になる。それらの生態系からのさまざまな生物要素の搾取や廃棄物の廃棄について,ある閾値以上におこなえばその生態系は自己再生*が不可能になるような限界が存在するのである。

もともと,人間がある生態系を利用できるのは,その生態系の過剰な能力を利用しているからである。人間がつくる社会システムや都市システム*といったものとは異なり,生態系というシステムはある程度成熟すれば,冗長性*をもちはじめる(注27)。必要以上の種子を生産しまき散らしたり,個体数もその遺伝子の多様性*を維持し再生産にたいする必要を超えた水準となり,生物のさまざまな物質利用能力もその必要水準を超えている。人間はこの過剰能力を利用することによって,自然との調和ある関係の持続が可能になっているのである。 図~F9でいえば,閾値以下ではたとえ人間の生態系利用がおこなわれてもそれ以前の能力を再生する力(可塑性*)をもっているが,それを超えると能力の劣化,自己崩壊の進行となるのである。生態系が複雑であればあるほど,この閾値は確実な水準としては予測できない場合が多いが,与えられた生態系にたいする知識のもとで最も妥当な水準を考えることはできるだろう。

このような閾値がある程度予測できるならば,環境利用をつねにこの範囲にとどめておけばよいようであるが,価値均衡論の立場からいえば,このようなことはできない。価値均衡論の最も重要な特徴は,経済効率の原理を環境利用のなかにもちこむことによって純便益の低い環境利用の状態からそれを最大にするような状態に移行することを目的にしていることである。図~F9 でいえば,環境の価値を考慮しない状態では環境の利用水準は \tilde{X} になっている。これは,便益だけを考慮している状態で,それだけで最大便益を実現しているが,実際は被害をだしているので,それを考慮すれば純便益が最大になっていない。このような,非効率的状態の解消が価値均衡論の主要な目的なのである。したがって,経済効率が最大ならばそれにともなう環境の劣化や崩壊は許容されるべきであるという立場に立っている。

このような見方にたいして次のような反論があるかもしれない。それは,人々が自然環境の状態やその閾値にたいしてより十分な情報が与えられれば,人々の価値づけの態度がシフトし,たとえば D1 のようなものから D2 にシフトするだろうというものである。たしかに,自然環境保護の必要性をより明確にする情報が追加されれば人々の支払い意志額がより大きな水準へかわる可能性はある。しかしまず,仮想市場法の手順で示したような人々の戦略的行動からくるバイアスがあるために楽観視できるほどの結果をもたらさない可能性が指摘できる。つまり,付け値を与えるのが多数の個人にまたがることを前提にして,その個人のより少ない支出で環境の保全を達成しようという,いわゆるフリーライダー*(ただのり)を目指そうという戦略によるバイアスである。

また,この図のように X' が Xt の右側にあるとは限らない。すなわち,自然が自己再生能力を保持しうるような自然環境の利用水準では,どの個人にも被害を与えないような状況も十分考えられる。その場合には,環境に経済的価値評価を与えることと価値均衡論の立場から環境を保全することはできなくなってしまうのである。

4.11 環境価値評価における投票民主主義の限界   (副目次へ

第二に,仮想市場法などによる自然環境にたいする価値評価を前提にした価値均衡論による自然環境の利用水準は,関連する個人によって集合的に決定されたものだということから合理化することができないということである。あるいは,評価価値決定に参加したすべての個人の意志の分布状況と集合的な決定とのあいだには誰もが了解できる整合性は存在しないということといってもよい。また,より具体的には,手続きにおける民主主義的な擬制*が,その結果を人々に了解させる理由にはならないともいえる。

仮想市場法における付け値は,一つは自然環境の利用によってえられる便益にたいする支払いと考えられる。しかし,付け値を与えることが自動的にその個人の付け値に等しい便益を与えられることを意味しない。付け値は集計されて,集計的な付け値の状況と便益が比較されて純便益が最大になる水準で自然環境の利用水準が決まるのである。仮想市場法は,市場における価値付けを仮想的に実現することをねらいながらも,付け値と受ける便益が直結していない点では現実の市場の状況と大きく異なっている。したがって,このような利用価値の問題に限定しても,付け値を与えることは一種の重み付きの投票という意味をもつにとどまると考えられるのである。

さらに,価値付けが非利用価値,あるいは存在価値になれば付け値とそれに応じた便益という関係はまったくなくなり,どの程度保存を希望するのかを支払い意志額によって重み付きの投票をするというものになりきってしまう。実際,先にも述べたように自然資源の価値評価においてはこのような存在価値が大きな割合を占めていることを考えれば,仮想市場法において付け値を与えることが一種の投票であるといいきることができる。

付け値を与えることが投票であるとすると,確かにこの投票*の場合,投票権が一人一票ではなくその所得に依存するという重大な問題が存在している。この所得の問題はあとでまとめて議論することにしよう。

いまここで問題にすることは,その環境に関連した各個人がある付け値を与えた状況とその結果とみなされる最終的な自然環境の利用水準のあいだの整合性である。たとえば,一人一票の投票においてある提案が支持されるか否決されるかという問題を考えてみよう。各個人が投票した状況から最終的な結果がもたらされる手続きについては投票にあたって,たとえば過半数の支持で可決されるとか,事前に了解されている。単純にその手続きは多数決*と呼ぶことができる。私たちは,一般にこの投票とその処理手続きとしての多数決制に慣れているために,このような手順が示されれば民主主義的で望ましいかのように考える場合が多いだろう。そこで,仮想市場法の場合も,各個人の付け値がどのように処理されて最終結果にいたるかを事前に説明されると仮定しよう。付け値を集計することは,一人一票の投票において票数を合計することに類似していて,それは一種の多数決である。したがって,このような仮想市場法の手続きは私たちが民主主義的な手続きと呼ぶところのものときわめてよく似ている。しかし,そのことがただちに,個人に付け値によって示された意志の分布と,最終的に決定された自然環境の利用水準とのあいだの整合性を示す根拠とはならないのである。

通常の投票においてある提案を,全員一致*したときに決定するという手続きと多数決とではまったく異なっている。全員一致で決定された提案は,明らかに全体の意志である。しかし,多数決*で決定した場合にそれを全体の意志と呼ぶのはフィクション(擬制)に過ぎない。ただし,そのフィクションを少数者が受け入れているだけなのである。自分が少数者になったとしても,そのフィクションを受け入れなければならないなんらかの事情があるから受け入れているのである。たとえば,全員一致による決定しか受け入れなければ,全体の意志を表明することができなくなり,そのことによる不利益の大きさが勘案されるからかもしれない(注28)。

仮想市場法においても,付け値を与えた個人にとって最終的に決定された自然環境の利用水準が受け入れられるものである場合とそうでない場合がありうる。多数決の場合とはちがって,結果を受け入れられると判断する個人の数がそうでないとする個人の数を上回る必然性は必ずしもない。多数の個人にとって結果が望ましくない場合もある。しかし,それはやむをえないだろう。多数決*の場合と最終決定の手続きは異なり,あくまで全体的な,あるいは社会的な純便益の大きさだけが問題だからである。それでも,このような手続きで全体としての結果が出されることの妥当性はやはり問題になる。

自然環境の利用水準を決定する場合も,一人一票*の投票と同様に,全員一致ということはありうる。たとえば,ある自然環境は完全に保全されなければならないとか,あるいは,ある水準で保全されなければならないということが全員の共通した意志として表明されることはありうるのである。しかし,仮想市場法のような投票方法では,このような全員一致*の意志を表明する手段はない。それは,個人の付け値という投票方法の限界であり,また純便益最大化という経済的基準がもうけられているためである。したがって,この価値評価の方法が一種の投票であるとするならば,一人一票の単純な多数決制よりも,個人の意志と全体の意志との整合性を実現することが困難な方法であることすらいえるのである。

しかも,自然環境の利用をめぐっては,通常の投票よりもはるかに全員一致という全体の意志決定方法が望まれるという理由もある。多数決はフィクションであると指摘した。そのようなフィクションが受け入れられる理由には決定の迅速性の要求がある。ある程度少数者の権利が侵害されても決定できないことからくる不利益の回避が重要だということである。しかし,自然環境は一度破壊されれば再生することが不可能である場合が少なくないのである。また,その自然環境は投票をおこなっている世代だけではなく将来の多くの世代に便益をもたらす可能性のあるものである。このような対象にかんする決定手段として最も望ましいのは,やはり全員一致制である。もちろん,関連する将来の世代が決定に参加していないことを考えれば,本来この全員一致制でも不十分なのである(注29)。

結論として,仮想市場法による環境価値評価とそれを前提にした純便益の最大化は,各個人の意志の分布とその集合的決定による全体意志の形成との整合性を示す手続きとして決してふさわしいものではないといえる。

4.12 環境価値評価と社会システムとの矛盾   (副目次へ

第三の問題は,環境の価値評価とそれにもとづく純便益最大化の均衡点は,工業社会*の構造を規定している経済成長*という目的と矛盾する可能性があり,この点の理解を欠落させると結果的に自然環境の劣化や破壊を容認するものになることである。価値均衡論的な均衡が環境保全に必要な水準にならない問題を第一のところで指摘したが,こちらは,環境保全を徹底した場合に生じる社会との体制的矛盾*の問題である。

消費者としての個人や企業や政府などの経済主体は,需要や供給水準を変化させることによって財にたいする評価価値を変更したり,なんらかの費用原理によって生産物価格を設定することによって評価価値を操作している。このような価値評価は,少なくともこれまでの経済発展の過程をみれば,長期的には全体として良好に機能してきたといえるだろう。もちろん,短期的にはさまざまな停滞や活況のくりかえしがあったのは事実である。しかし,最近の50年間をみても工業化された社会は傾向的には発展の過程にあった。それは,このような一つの経済の主要な部分でおこなわれていた市場における個別的な価値評価とその集合的な結果が,全体として整合的なものになっていたことを意味するのではないだろうか。つまり,個人や企業や政府がおこなっていた財の選好とそれぞれの財にたいする社会全体としてのあるべき価値評価の体系が調和しうるものであることを示していると考えられるのである。

工業社会においては,市場がさまざまな経済主体を有機的に結合し,それが社会の支配的な関係になっているとともに,通常財を生産するすべての企業や産業に個別剰余としての利潤の生産の機会が与えられている。このような構造を基礎にもっている経済は,その全体としての健全さの基準として経済成長が採用される。つまり,個別の企業は利潤の最大獲得を目的にしながら機能しているが社会全体としてはより大きな経済成長を目的にして機能しているのである。前章で述べたように前者はミクロ目的*であり,後者はマクロ目的*クロ目的}である。これらの二重の目的は一つの客観的な事実として観察できる。もちろん,経済全体として経済成長に向けて調整している経済主体は存在しないが,工業社会の政府の経済への介入の主要な部分はこの目的にそっているのである。そしてこのように,個別主体が,企業における利潤の最大化あるいは消費者の場合の効用の最大化などといった個別目的をもって相互関係を形成し,全体としてもそれらから相対的に自立した目的をもっているシステムを社会システム*と定義した。近代工業社会はこのような社会システムの特殊な形態である。

通常財にたいする個人的な価値評価とその集合的な結果は,この近代工業社会という社会システムのなかでは大局的な整合性をある程度もちうるものであることは事実として確認される。すなわち,市場をめぐって企業が利潤を最大化するように行動し,消費者が効用を最大化するように行動する結果は,経済の成長という全体的な目的と一般的に矛盾するものではないのである。では,自然環境にたいする価値評価とその集合的な結果は,この社会システムのなかで整合性を用いると判断できるだろうか。いいかえれば,自然環境にたいする個人的な価値評価の集計はこの社会システムの構成原理と矛盾するようになることはないのだろうか。

この点については,深刻な矛盾のあることが環境政策をめぐる議論のなかで事実として鮮明になっている。この議論のなかで,工業社会の政治指導者*たちが最も気にしているのは,環境利用にたいする課税*などの賦課を与えることによって自国経済の成長が阻害されることである。 図~F9 において環境利用水準が \tilde{X} から X* まで低下することは,それによってそれまで生み出されていた便益は X*Z\tilde{X} の面積の分だけ失われる。さらに,貨幣で測った自然環境の被害総額は,OZX* でありそれが自然環境の復旧に用いられるならば,有効需要を構成したとしても,その分を経済成長に直接つながる生産的投資*として用いることは不可能になる。人々が,環境にたいして高い価値評価を与えれば与えるだけ経済成長への潜在的能力が経済から失われるのである。

もっと根本的には,自然環境が人間に供与する能力は,自然環境そのものが豊かにならない限り増大することはないという制約が経済に課せられいている。今日のように貧弱となった自然環境のもとでは,経済成長を支えるほどに自然環境に過剰能力の蓄えはない。経済成長は,それにふさわしい技術進歩がない限り自然環境からの搾取とそれへの廃棄物を増加させるが,環境の劣化と破壊がはるかにその復旧を上回っている今日の現実は,このような技術進歩にたいする期待を失わせるに十分な証拠となっている。したがって,近代工業社会の全体としての目的にそって経済は成長を追い求めるだろうが,それは必然的に自然環境の劣化をもたらし人々が環境に与える価値評価を高めるだろう。これは,環境の価値評価が現実には無視されるか経済成長が放棄されなければならないという深刻な矛盾を示しているのである。

その意味では,価値均衡論にもとづく環境の価値評価は徹底的に進められれば環境破壊の源泉となっている近代工業社会の成長原理と矛盾するところまでいくのである。しかし,破壊を阻止する以上の速さで各個人の自然環境にたいする付け値が適切になっていく保証はない。個人的評価と集合的結果の整合性がない状況では,価値評価が取り返しのつかない環境劣化が進行するまで適切なものにならない可能性は高い。さらに,現実の価値評価や価値均衡論的な環境政策が実施されない理由として,現象的にはさまざまな細かい問題が指摘しうるだろうが,根本にはその一般的な実施が社会システムの構成原理と矛盾するという基本的問題が存在するのである。この点の認識を欠いたまま,ただ価値均衡論的な環境政策が,環境問題を解決することができると考えることは,環境を保全する観点からいえば,危険である。

.13 所得格差と環境価値評価   (副目次へ

第四の問題は,環境価値評価は個人の所得を制約条件にしておこなわれるために,所得の高い個人や階層,地域,組織などによっておこなわれた場合には自然環境に高い評価が与えられ,逆に所得が低い場合には低い評価が与えられる可能性が高く,それによる環境利用水準の格差が生じ,社会的に不公平な結果をまねくという問題である。したがって,その場合には所得の低い人々の固有・不可侵の権利が侵される結果となる。

仮想市場法による環境の価値評価が所得を原資とした重み付け投票*としてとらえられることは先に指摘した。したがって,所得の低い個人には,少ない投票権しかないことになる。そして,単に権利が少ないばかりではなく,農林漁業などのように生業が直接環境に依存するのではない場合には,実際の投票の規模すなわち環境にたいする重み付けも所得の低い個人の方が少なくなる可能性が高い。なぜならば,たしかに環境の劣化が間接的に汚染による疾病の増加,生活用水の枯渇や逆に洪水の増加など生活のうえでのリスクの増大によって個人の生活に影響を与えるにしても,自然環境は奢侈財としての性格をもちうるからである。日々の生活に追われている個人にとっては,環境よりも物質的な豊かさをもたらす財にたいする評価が高くなる可能性が高いのである。

投票の原資としての所得に格差があることは,方法そのものが公平性の基盤の上に成立していないという問題はあるが,いまその問題には目をつむっておこう。そして,このような所得格差*によって発生する結果の問題に注目しよう。所得の格差を前提にしたうえで,価値均衡論にもとづいて環境問題を解決しようとすると社会的観点から困った問題が生ずるのである。このことをまず例として示そう。

いま二つの地域があったとしよう。それは二つの国家でも二つの町でもよい。それぞれが同じような自然環境をかかえていて,その利用から生じる限界便益は等しいとしよう。しかし,この二つの地域はその住民の平均所得が異なっていて,したがって環境に与える価値評価が異なっているとしよう。先のような意味で,平均所得が低い地域においては環境の利用からくる限界被害は小さくなる。これにたいして平均所得の高い地域は,環境に高い価値評価を与えるためにその利用によってこうむる被害に高い評価を与える。

これらのようすは,図~F10 にあらわされている。



図(F10) 所得格差と純便益最大化

所得の低い地域の場合,自然環境にたいする価値評価額が低くなるために,その利用からくる被害も小さいものになり,限界被害曲線は所得の高い地域のそれよりも下になっている。そのために,それぞれの地域における最適な自然環境の利用水準も異なり,所得の高い地域の場合は E で所得の低い地域のそれ F よりも低い。すなわち,他のすべての条件が等しいならば,価値均衡論の立場からは,所得の高い地域では自然環境をより多く保全し,所得の低い地域では自然環境を犠牲にしても便益の増大を測った方が望ましいということになる。

ここでもし,自然環境の保全水準を所得の地域格差に依存しないで共通の基準で測ったらどのようになるだろうか。この図の場合でいえば,たとえば環境利用水準を所得の高い地域と同じ E の水準にしたとしよう。所得の高い地域の環境利用からくる全便益は ABEO の面積であらわされ全被害は OBE の面積であらわされる。したがって,純便益は AOB である。同じく,環境利用水準が E の場合所得の低い地域の全便益は所得の高い地域と同じで,全被害は DGE で純便益は ABDGO となる。しかし,もし所得の低い地域が F まで環境利用を進めれば ACGO であるから,環境利用を E に統一したために BCD だけ全体の純便益が低下してしまったということになる。同じように,自然環境利用水準を低い地域に合わせると,BHC だけ全体の純便益が低下する。

すなわち,価値均衡論によれば所得格差*からくる環境利用水準のちがいや環境の劣化からくる被害のちがいは素直に受け入れるべきなのである。その方が,全体としての純便益は大きくなるのである。さらに,このような環境評価のちがいがある場合には,環境の劣化や破壊そのものを所得の高い地域から所得の低い地域に移転することによって全体としての純便益を増加させることが示せる。

たとえば,図~F10 において,二つの地域がともに最適な環境利用水準にあったとしよう。このとき,所得の高い地域が自分の環境を利用するのではなく所得の低い地域の自然環境を利用することによって便益の増加を測ったとしよう。たとえば,自分の森林から伐採するのではなく所得の低い地域の森林を伐採したり,自分の地域の廃棄物を所得の低い地域に移転したりすることなどがこれにあたる。いま,所得の高い地域が1単位の自然環境を所得の低い地域のそれとして用いたとしよう。また,簡単化のために移転費用がまったくかからないとしよう。先の図~F10 をみれば,所得の高い地域においてはこの1単位の追加のためにおよそ BE だけの便益をえる。一方,所得の低い地域は,この移転によって被害をおよそ FC だけこうむる,BE > FC だから所得の高い地域は低い地域の被害を弁償しても純便益が発生することになるのである。これは,移転の量を少しずつ増やしていって所得の高い地域の限界便益が所得の低い地域の限界被害に一致するところまでつづけることができる。

この点をもう少し状況を変えて示しておこう。いま,所得の低い地域は環境利用技術も低くて同じ単位の自然環境利用からくる限界便益も低いとしよう。そして,限界被害もすでに述べたような理由で低いとする。この状況は 図~F11 にあらわされている。



図(F11) 環境利用の移転による純便益の増加

B1, B2 はそれぞれ所得の高い地域と低い地域の限界便益曲線で D1, D2 は同じく限界被害曲線である。簡単化のために両地域の最適な自然環境の利用水準 E は等しいとしている。この E から所得の高い地域の限界便益が低い地域の限界被害よりも高い限り自然環境利用を転嫁した方が全体としての純便益の増加がはかれる。したがって,自然環境利用の移転は F までおこなわれ,それによって増加させられる全体としての純便益は CGH である。

所得格差からくる環境利用水準のちがいはいろいろな場面で生じている。たとえば,先にも述べたように廃棄物の移動に所得格差の影響があらわれる。国際的には,先進国の廃棄物が途上国に輸出される。途上国はその廃棄物を自国内に廃棄し環境の劣化を招いたり,相対的に劣等な技術でリサイクル*することによって別の環境問題を発生させたりしている。有害廃棄物*についてはバーゼル条約*によって禁止されたが,現実に禁止されたのは廃棄物の途上国への移動のなかの一部でしかない。自国の森林を守るために途上国の熱帯多雨林*の木材を輸入するというようなこともある。あるいは,大気汚染や水質汚染など環境汚染を発生させる産業,企業がそれらにたいする規制の緩い途上国に移動することもおこなわれているが,このような規制の格差*は基本的に平均所得の格差にもとづくものである。また,途上国における過剰な森林伐採や過剰耕作による環境の劣化も所得の低さがもたらす環境への低い価値評価のあらわれとみなすことができる。一国内においても,過疎の村*に都市のゴミ*の最終処分場*がつくられたり,環境破壊の潜在的脅威の重大な原子力関連施設*が都市近郊ではなく,経済的発展の比較的遅れた地域に設置されるのも,所得と環境価値の問題と関連している。

価値均衡論は,このような所得格差*にもとづく環境利用水準の格差を受け入れることを要求するが,明らかにそれを一般原則として受け入れることは不可能である。まず,豊かな地域や豊かな国が自国の自然環境を守るために自国ではおこなわないような自然環境の劣化を他国に強制すること,自然環境破壊を輸出することは倫理的に許されるものではない。所得の格差ゆえに,貧しい地域が貧しい環境によって,あるいは劣化しつづける環境によって被害を受けているのも問題である。とくに一国内においては許されない場合が多い。たとえば,大気汚染をもたらす同じ工場が平均所得の貧しい地域では受け入れられ平均所得の高い地域では拒否されるようなことはあってはならない。人々がこうむることが許容される大気汚染水準は原則的にはすべての人々について共通であるべきなのである。

4.14 価値均衡論と将来世代の権利   (副目次へ

第五は将来世代の権利がふみにじられるという問題である。経済的価値評価にもとづいて自然環境の利用の均衡をとらえる場合,対象となる自然環境がそのままでは将来にわたって存在するものがほとんどであり,将来の経済的価値を測ることが避けられなくなる。しかし,現存していない世代の自然環境の利用をめぐる経済的評価を測る合理的基準を立てることははなはだしく困難であり,評価をなんらかの理由で強制すれば将来世代の固有・不可侵の権利を奪うことにならざるをえないのである。

自然環境の価値を考える場合,現在の価値だけではなく将来の価値もまた考慮されなければならない。たとえば,仮想市場法などによってある自然環境のために人々が1年間に支払ってもよいとして示された平均額を集計してえられる金額は,自然環境の1年間の価値である。一方,森林は水や大気の状態あるいは気候の変動などによる特別な攪乱がない限り,かつ人間の側が保存の姿勢をつづける限り成熟した極相林*として一定の状態を維持するか生態遷移*の過程を経て極相林となって存在しつづける。森林を完全に伐採して農地などに変換する場合その便益と比較されるのは1年間の森林の価値ではない。その森林が現在ばかりでなく将来にわたって存在しつづけることの総価値である。このような継続的に存在しつづけるであろう自然資源の総価値をどのように計算するかは価値均衡論にとって大きな問題であり,深刻な困難に直面する点なのである。

たとえば,ある環境資源に仮想市場法などによって1年あたりで V という金額の価値評価が与えられたとしよう。この環境資源が永続的に存在することを前提にし,その総価値を各年の価値の総計 E とすると,

E=V + V + V + .........

となるが,このように V を限りなく加えると明らかに E は無限大になってしまう。その自然環境の総価値が計算できなくなってしまうのである。しかし,この問題は次のような解決法がある。第一は直接的なもので,将来のことは低く見積もるべきだというものである。つまり,将来の自然環境の価値は現在と同じようには評価できない。自然環境の状態が同じだったとしても技術の進歩などによって人々の生活におけるその自然環境の必要性は低下しているかもしれないなどの理由によって T 年後の V という自然環境の価値は現在に換算すれば正の r という割引率*によって V/(1+r)T と割り引かれるべきだとするものである。第二は経済的な理由によって,その資源の今年の価値と来年の価値は同じ V であってもまったく同じものとして扱うことはできないというものである。たとえば,来年の自然環境にたいしてある個人が来年 v だけ支払う意志をもっていることは,今年 100 \times r \% の利子率で預金する機会があれば,来年の自然環境にたいして今年 v/(1+r) の支払い意志額を示すことに等しい。同じく2年後に自然環境にたいする v の支払い意志額を示すことは,今年に換算すれば v/(1+r)2 となる。したがって,各個人が今年示した支払い意志額*にまったく等しい額を来年以降も示すとすると,T 年後の V という自然環境の価値は,現在の価値に換算しなおすと, V/(1+r)T となるのである。どちらによっても結果は同じである。この考え方のもとで求められる環境価値は,

E=(V)/(1+r) + (V)/((1+r)2) + (V)/((1+r)3) + .........

となり。これは,r が正の値である限り,無限大になったりはしない。それは結局,

E = (V)/(r)

となるのである。以下,このような r をどのような考え方に立っても割引率*と呼ぼう。

このような考え方で,最も重要な問題となるのは割引率をどの水準に設定するかである。それを,先の第二の考え方にそって単純に利子率としてしまうことにも困難がある。たとえば,割引率が大きくなると,明らかに環境の総価値は低下する。それは,将来の環境の価値を低く見積もることにほかならない。図~F12 に割引率のちがいが将来の自然環境の価値をどのように評価することになるかを示している。



図(F12) 割引率と将来価値の評価

この図で,実線の曲線は,割引率を 0.05 として,(1/1.05)T の値を0から100までプロットしたものである。20年もしないうちに,将来の環境の価値は現在から比べ半分以下の評価しか与えられなくなってしまう。また,それぞれの曲線の曲線から下の面積に V をかけたものが E となるが,割引率ごとに自然環境の総価値が大きくかわってしまうことがわかるだろう。将来の環境価値が割り引かれることは将来世代にとってはその時点における自然環境の存在意義が軽く見積もられることを意味し,そのことによって現在の環境価値が低くなり自然環境の過大な利用をもたらすことになる可能性がある。このような機能を果たす割引率を現在の利子率に連動させることによって不安定な変動にゆだねることは困難なのである。

この割引率の設定問題は,価値均衡論のアキレス腱の一つである。「適切な割引率」を求めることは不可能に近いと思われ,かつ利子率などを基準に任意に設定すると,割引率のわずかな変動が自然価値に重要な変化を与え,利用水準の決定にもまた重大な結果をもたらすのである。

しかし,もっと重要なことは,将来世代の問題は単なる割引率の設定問題ではないということである。割引率がたとえゼロに近く,将来の環境価値も高く評価されていたとしても,現在の世代がまったく存在しない,将来世代だけしかいないような時代の自然環境の価値を勝手に評価し,価値均衡論的な論理を勝手に適用し,将来世代の生活条件にかかわることを決めてしまうことは,そもそも将来世代にとっての侵犯してはならない権利を踏みにじっていることになるという問題が存在しているのである。私たちは,将来の世代がどのような基準で環境を保全したり利用したりするかについての知識はもっていない。たしかに,100年前の人々が100年後の私たちのことを考えて自然環境を残すことに努力していたとは考えにくいかもしれない。しかし,100年前と現在とでは,環境の利用規模がまったくちがっている。現在の世代の決定は,100年後の世代の自然環境の条件を決定的に左右するものにならざるをえないのである。

このことは,また,民主主義的手続きの欠陥をも表現している。先に,仮想市場法が民主主義的性格をもっていることを指摘した。すなわち,個人は自分自身の所得などの経済的条件を制約条件にしながらも,付け値によって一種の重み付きの投票をおこない,それによって環境利用水準が決定されるからである。しかし,この投票には,投票結果に利害が直接かかわっている将来世代が参加していない。現在世代よりもはるかに多数者であるだろうすべての将来世代が,決定から締め出されていることは,民主制どころか現在世代による寡頭制*ともいうべきであろう。

5 節 物質循環論と財の環境価値   (副目次へ

環境問題にかんする価値均衡論は,自然環境を通常の経済的財と同じように取り扱うことによってより高い経済的効率性を実現しようというものである。価値均衡論の弱点を克服するためには,環境と経済の経済価値的なバランスを中心におくのではなく,両者のあいだの物質的なバランスに注目して環境政策を考える必要がある。この物質循環論の立場に立って環境問題を原則から解決する方向は基本的に二つある。第一の方向は,自然の自己再生能力*によって規定される限界,あるいは人間のこうむる被害によって規定される限界など物的に与えられる限界を明確にし,その範囲内で市場機構を機能させることである。第二の方向は,経済の側がその段階の歴史的,文化的限界のなかで最低必要な生産の水準を明確にし,それを定常的に維持することを制約条件に自然環境の回復を目指していくことである。この二つの方向は必ずしも異なるとは限らない。環境政策の基本となるべきこれらの方向について以下で検討しよう。

5.15 環境従属的な経済手段の有効性   (副目次へ

自然環境利用水準が,経済価値的なバランスによってではなく,物質的なバランスによって決定されなければならないとすれば,環境からの資源の搾取と環境への廃棄は第一に環境がそれらの搾取や廃棄によって自己再生能力を奪われないような水準以下に抑えられなければならない。これは,自然環境の自己再生閾値といえるだろう。第二に,環境の状態が人間の側の生活条件を劣化させない,被害を与えない範囲に抑えられなければならない。こちらは,被害閾値ということができる。環境が豊かな生態系に支えられて過剰な能力あるいは冗長性を十分にもっている一方,人間の側が自然環境の冗長性の範囲での変化に敏感に反応する場合には,自然環境の利用における自己再生閾値*が被害閾値*よりも大きいということがおこりうる。一方,人間の側が自然環境の長期的な劣化の影響を十分認識していない場合に,被害閾値が自己再生閾値よりも大きいことがおこりうる。つまりこれは,人間がある程度自然環境を利用している場合に,この水準では環境の劣化はおこらないと考えていても,実際には自然の自己再生能力*を保持しうる以上に自然環境を利用してしまっている場合に発生する。

一般に,人間が生態系としての自然環境にたいする理解を深めれば深めるほど,この二つの閾値の乖離はなくなるだろう。そこで,これら二つの閾値を区別しない場合は,単に自然環境利用の閾値と呼ぶことにしよう。環境政策の最初の基本的な問題は,自然環境利用をこの閾値よりも小さい水準に抑えることである。環境問題が発生している多くの場合,実際の自然環境の利用はこの閾値の水準を超えていると考えられるので,この閾値そのものあるいはそれに近い水準の達成が環境政策の目標となるだろう。

このように自然環境利用の目標を定めることは,自然環境を経済の外部にあって経済にとっては与件となるべきものであるという認識に立つことである。そして,経済はこの与件のなかでしか自由度をもたないことを意味している。いいかえれば,経済は自然環境にたいして従属的であることを示しているのである。

このような認識を前提としたうえで考えられる環境政策の第一は,直接規制によって閾値のレベルまで環境利用の水準を低下させることである。この直接規制についてはすでに述べたところである。第二は,閾値を上限としながら,それを実現するために各経済主体にたいするなんらかの経済的なインセンティブを利用する方法である。この後者の方法として重要なものは,一つは,自然環境利用にたいする課税であり,もう一つは自然環境利用にかかわる売買可能許可証*(marketable permits)の発行である。この経済的手段としての二つの方法について検討しよう。

自然環境の利用にかかわる課税については,すでに価値均衡論的な立場からの政策として明らかにした。その場合と,ここでの場合との基本的なちがいは,先の場合は目標とする環境利用水準が純便益を最大化する自然環境の利用水準であったのにたいし,ここではそれが自然環境の閾値の水準となることである。先の場合は,課税*の水準自体が純便益を最大にする自然環境利用における限界被害額と規定されていたのにたいし,ここでは,目的とする閾値の水準に近づけるために,課税水準は試行錯誤的に変更される。たとえば,ある与えられた税率のもとで,もし目的とする水準よりも自然環境の利用水準が高ければ税率は高められ低ければ税率も低くされる。この場合,価値均衡論とは異なり,自然環境にたいするいかなる価値評価も不要である。

そして,このような自然環境の閾値を目標とした課税による方法が,直接規制による方法よりも経済的にみて効率的なことは先の場合と同様に示せる。それは,先に直接規制と課税との比較をした場合の証明そのものである。そこでは,削減目標が必ずしも価値的な均衡点でなくてもよかった。図~F5 における\beta X という削減目標を自然環境の閾値によって与えられるととらえなおすだけでよいのである。

次に売買可能許可証の内容と機能を検討しよう(注30)。方法は単純である。まず,政策当局によって自然環境の閾値の水準に対応した売買可能許可証が用意される。この当局によって用意された許可証は,入札あるいはなんらかの基準による割り当てにしたがった初期配分(grandfathering)*によって環境利用を予定している主体の手にわたる。また,手にいれた許可証はそれを必要とする他の主体にたいして売却することができる。このようなシステムは,企業の資産という実物量にたいして売買可能な株式が発行されるのとよく似ている。株式がその所有量に応じた配当の獲得権利や経営権をもつのと同様に,売買可能許可証はその所有量によって環境の利用権をえる。たとえば,所有している許可証に与えられている排出許可量の総量によって,その範囲内で汚染物質を排出することが可能になるということである。

この許可証による方法も,経済的な効率では直接規制にまさることを示すことができる。それは,課税による方法と同じ効率性をもっているのである。図~F5 で税率(図では t であらわされている)を1単位の許可証(1単位の自然環境利用を可能にする許可証)の価格と考えればよい。二つの企業は,まず初期分配によって \beta X1, \beta X2 の許可証を与えられたとする。この初期分配による許可証をある価格で売買することによってより望ましい環境利用水準に調整しようとするだろう。たとえば,二つの企業でたまたま図と同様の t という価格がどちらからか提案されたとする。すると,この価格での費用最小化する環境利用水準は X*1, X*2であるが,その場合,企業1は Δ X1 単位の許可証を売ることを申し出,企業2は Δ X2 単位の許可証を買うことを申し出るが,図の場合,両者は等しいので許可証の需給は均衡する。もしこの t よりも少し高い許可証の価格が申し出られたとすると,費用を最小にする環境利用水準は,企業2は許可証をあまり買えなくなるので先の場合よりも低下し,企業1は環境利用水準をより低下させ許可証をより多く売ることを申し出るが,結局この価格では供給過剰になってしまう。その場合,価格を低くするような調整がおこなわれるならば,許可証の需給均衡点は最適な環境利用水準で安定になるのである。

この売買可能許可証は,課税による場合に比べていくつかの重要な長所をもっている。第一に,課税に比べ目的とする環境利用水準が確実に達成できることである。課税*の場合は,その税率を結果として実現した環境利用水準に応じて調整する必要があったが,許可証の場合は,そのような過程はまったく不要となる。第二に,インフレ*による貨幣価値の変動による影響を自動的に吸収できることである。課税の場合は,貨幣価値の変動によって再び税率を調整する必要がでてくるが,許可証の場合は,その価格の上昇によって吸収し,目的とする環境利用水準に影響を与えない。第三に,企業など関連する当事者ばかりでなく,環境を保護する個人や団体が許可証の購入をし,自然環境の利用水準を抑制するために働きかけることが可能となる。もちろん,これは目的とする水準が適切であれば問題にならない。第四に,初期分配を調整することによって企業に与える負担を調整することができる,などである。

5.16 自然環境の豊かさと財の環境価値   (副目次へ

自然環境の閾値は,多様な自然環境やその要素にたいして設定される。この閾値がすでに述べたような厳密な意味で設定されれば,経済の成長能力はいちじるしく阻害されるだろう。自然環境利用上の制約から,生産水準が制約を受け,設備投資などによって新たに増加した生産能力を支えるための資源を獲得することが困難になる。したがってまた,利潤の獲得そのものも重大な制約を受けることになる。経済成長は,現在の工業社会のシステム,構造をつくり上げている基本原理であり,そのポテンシャルが失われることになれば社会経済システムの根本的な改革が要求されることになるのは確実である。

ところで,設定された自然環境の閾値のもとで経済成長に向かう能力が阻害されることは確実にしても,人々の経済的な厚生水準を直接規定している消費に与える影響はどうなるだろう。まず,人々が現在えている厚生水準の維持のためにさまざまな財の消費水準を要求することは自然である。しかし,このように要求された消費水準とさまざまな自然環境にたいして設定された利用の制約とが必ずしも両立するとは限らない。自然環境利用の限界が厳しくなればなるほど要求された消費水準を維持することは困難になるだろう。現在の生産は,投資や海外への超過輸出のための財など現行の消費水準とは無関係な生産もおこなっているために,消費水準の維持だけに必要な環境の全体的な利用水準を現在の利用水準に代理させることはできない。しかし,現在の消費水準を維持するだけでも環境に過大な負荷を与えている可能性は高い。

自然環境の閾値が私たちの消費可能な水準にデリケートな影響を与えるとすれば,さまざまな自然環境の閾値の設定に十分な注意を払わなければならないだろう。それらの閾値は,自然環境をどのような水準で保全するために設定するのかが重要な問題とならざるをえないのである。環境を保全するとか自然を豊かにするという名目で,ただひたすら人間の側の消費水準を落としていくなどということは不可能である。

成長指向社会*にかわる新しい社会への出発点は,人間の側が歴史的,文化的条件のもとで必要とする消費の水準を与件としながら自然環境を可能な限り豊かにするということにならざるをえないだろう。そして,そこで与件としている消費生活もまた可能な限り豊かな自然を回復するために調整していかなければならない。その場合,私たちはなにか単一のものを消費しているわけではなく,多様な消費財に依存して生活を維持しているのであるから,どのような財の消費をどれだけ変化させることによって自然環境の保全に貢献できるのかが問題になる。ある消費財を1単位消費すること,あるいはそれだけ消費を抑制することによって自然環境をどれだけ望ましい方向に変化させることができるのかがわかるとするならば,それは,財の貨幣価値ではなく,財の環境価値*を与えることになるだろう。環境問題にかんする価値均衡論が前提にしていたのは,環境財の経済的価値であった。ここで示した新しい原理のもとでは,逆に経済的財の環境価値が問題になるのである。

この新しい社会の一つの原理を 図~F13 でやや詳しく説明しよう。



図(F13) 消費と自然環境の物質バランス

この図は,自然環境と経済の関係を簡単化したモデルである。図で,生態系の生物連関を示す主体は生態学で生産者として分類される植物種や消費者と分類される動物種や分解者と分類される菌類やバクテリアなどである。実際にはどのような小さな生態系をとってもこのような生物は一つの種が一つの個体群を形成し多数存在しているが,ここでは三つの主体を三つの円で表現しているだけである。経済の方も,実際は多数の企業が多数の産業を形成し,それらが複雑な連関のなかで生産をおこなっているのであるが,ここでは三つの主体を区別しているだけである。矢印は物質やエネルギーの移動をあらわしている。あくまでも必要な要素だけを描いた単純のものであるために,本来描くべき,たとえば消費がまた廃棄物を生み出す関係なども省略してしまっている。

ここでは,消費財は二つしか考えていない。消費水準を人々が合意しうるある水準に固定しよう。すなわち,C1, C2 を与える。この消費を支えるために,経済の各産業はある生産 (X1, X2, X3) を遂行しなければならない。そして,その生産を支えるために,自然環境から資源 (E1, E2) を搾取し,自然環境へ廃棄物 (W2, W3) を廃棄しなければならない。経済も生態系と同様に冗長性のあるシステムであるから,与えられた消費水準のもとで各産業の生産水準や自然からの搾取量それへの廃棄量については選択の余地があらわれるだろう。そして,この選択は自然環境に影響を与えざるをえない。したがって,自然環境の保全あるいはより豊かな自然環境を実現する搾取量と廃棄量の組合せが選択されるべきである。

ただし,ここで自然環境にとって望ましいこと,あるいは自然環境がより豊かになるということはなにを意味しているかが問題になる。まず第一に,生態系としての自然環境は経済以上に複雑で精巧な生物要素間のあるいは非生物要素も含めた相互依存関係のなかにある。そこでは,ある特定の要素,ある特定の種の個体群*の規模やその成長率で生態系の豊かさや能力の高さを測ることができない。たとえば,森林をとってみよう。森林という生態系のなかで最も大きな存在感をもっているのは樹木である。樹木のなかの特定の種の存在規模でその森林生態系の豊かさを測ることには明らかに無理がある。では,種の区別は問わず樹木全体の規模で測ってはどうだろうか。一つの有力な指標となることはまちがいないが,それでも問題はある。たとえば二つの森林について,樹木の現存量は大きく異ならずその規模もかわらない状態にあるとしよう。しかし,更新率は樹木全体が一方は高くもう一方は低かったらどうだろう。両者ともその規模を維持していることはかわらないが更新率の高い森林は部分的な樹木などの減少からの回復が早いことが予想される。この二つの森林のちがいは単に樹木の存在量や成長率などのちがいというより,そのエネルギーの利用速度のちがい,あるいは生物にとって必要なさまざまな栄養塩類*の物質循環速度のちがいであるとみるべきであろう。

第二に,生態系そのものも多様な種類のものがある。大きな分類でも森林生態系,河川の生態系,海洋生態系,湖沼の生態系,草原の生態系や乾燥地の生態系などがあり,それらがまたその非生物的自然のもとで構成生物種のちがいから特殊なものになっている。その場合,森林は樹木の存在量を,湖沼は魚の存在量を,生態系の豊かさの指標にするなどということはできない。

生態学*は歴史的に生態系の能力をそのエネルギーの利用と関係づけて理解しようとしてきた。生態系のエネルギーの源泉はほとんどの場合,太陽光である。図でいえば,S である。この S は緑色植物によって有機物のなかに固定化されるのであるが,それらは植物自身とそれから始まる生物連関のなかで利用され呼吸廃熱化される。その総量が R であらわされている。呼吸廃熱化されると同時に,植物によって固定化された栄養元素が再び植物によって利用される形態まで無機化される。もし,S よりも R がいちじるしく小さければ,エネルギーの固定化と開放,したがって物質の固定化と開放が正常に進行していないことをあらわしている。したがって,生態系の能力の規模はあるいは豊かさはある期間に固定化されるエネルギーよりも,呼吸廃熱として開放されるエネルギー R で測った方がよい。すなわち,生態系の豊かさはこの開放されるエネルギーの総量としての R で測ればよいのである。このようにすれば,二つの問題はともに解決することができる。そして,このような考え方は前章で述べた最大呼吸仮説*にほかならない(注31)。すなわち,結論として生態系である自然環境の豊かさを測る基準は,マクロ目的*クロ目的}の指標でなければならないのである。

ある消費水準 C1, C2 を維持するために必要な自然環境の利用水準である E1, E2 および W2, W3 には選択の余地があると指摘した。自然をより確実に保全し,より豊かにするためには,その選択可能な範囲のなかで,自然環境自身のエネルギーの利用水準 R を最も大きくする水準の組合せが選ばれるべきである。すなわち,C1, C2 という消費水準には,ある環境の豊かさの指標 R が関係づけられるのである。

そこで,いまもし,C1 が Δ C1 だけわずかに増加したとしよう。このときの R の変化分を -Δ R としよう。この変化分は通常は負またはゼロの値をとるだろう(すなわちΔ R > 0 )。そして,この Δ R/Δ C1 を v1 とすると,これは,消費を1単位増加させたときに環境の豊かさが阻害される量であるとみなすことができる。したがって,それはこの消費財1の環境価値*であるといえるのである。同じように,消費財2の環境価値 v2 も求めることができる。このような価値が求められれば,消費者がどのように消費の水準やその組合せをかえれば,自然を豊かにすることができるか,あるいは逆に,自然を劣化させることになるかがただちにわかるようになる(注32)。

このような価値原理は,価値均衡論*が環境にたいしておこなった価値付けとまったく逆のものになっていることがわかるだろう。自然環境にたいする価値付けは,その環境を失うことの経済的な損失を測ることによって与えられた。それにたいして,物質循環論に立つ環境価値は,その財の利用を増加させることによって失われる自然環境の豊かさをあらわすのである。

物質循環論*の立場から,自然環境の利用水準をその閾値によって設定し,それを与件として経済を機能させる方法と,このように財の自然環境価値を与えることによって経済を環境保全型に向かわせることは,一見大きくちがったことのようにみえるかもしれない。もちろん,後者を厳密に実行することは社会にとってよりラディカルな変革とならざるをえないことは明らかである。しかし,二つの方法は決定的に異なったものとはならないだろう。閾値の設定を厳密におこなえば,いくらそれを与件として経済活動の自由を認めたとしても,すでに述べたようにその限界は深刻なものとならざるをえない。そして,その制限された市場経済のもとでの財の相対価格は,現在よりも財の環境価値に近づいていくだろう。

5.17 社会システムと物質循環論の限界   (副目次へ

物質循環論が経済にたいして加える制限は厳しいものになる。そこでは,個別企業や消費者の広い自由で支えられた経済の活力は抑制されていく。また,効率的な資源配分を目的にした市場の調整機能も弱体化していくだろう。それは経済の持続的な停滞とそれに付随するさまざまな社会的問題を引きおこす。このような社会的な活力の低下や,経済そのものの崩壊を回避し,環境制約のなかでも持続可能な社会を実現していくためには,全体としての社会すなわちマクロシステム*クロシステム}が重要な役割を発揮せざるをえない。つまり,個人や個別企業といった経済の個別主体をこえた全体としての社会が,経済の活力を支えまた個別主体のあいだの経済的調整に乗り出すことになるだろう。もちろんそれには,すでに述べたように大きな政治的,社会的改革が必要となる。しかし,そのような改革をどのように巧妙に実行したところで,このような全体としての社会が大きな力をもつ状況には,克服できない問題がつきまとう。それは,個人の自由にたいする制限である。

社会がその全体性を,それを構成する個別主体すなわち個人の相互依存関係から自立させた状態にあるとき,その社会は社会システム化していることを前章で明らかにした。読者の便宜のためにくりかえせば,一般にシステムは対象の全体としての機能がそれを個別要素に分解できないような対象をさす。社会システム*は,全体が抽象的な機能としてとどまっているのではなく,それ自体が相対的に自立した目的や組織を形成して機能しているものなのである。私たちの近代工業社会もまた社会システムである。ただし,その社会において個別主体の全体にわたる連関は経済,より明確には市場というシステムによって実現されているのにたいして,全体性*は政治によって組織化されている。個別的な相互連関と全体性*が経済と政治に形式的に分離しているのである。しかし,その政治もまた実態としては経済の全体としての目的である経済成長*にむけて全体的な調整をおこなう機関となり経済的な機能を果たしているのである。しかし,工業社会は本来考慮されるべき自然環境の制約を徹底的に軽視したために,このような社会システムのなかで個別主体の自由をある程度実現することができたのである。

しかし,この社会システムという社会のあり方を維持したまま,物質循環論が要求するような自然環境の強い制約を前提にした経済を持続させることは不可避的に個人の自由にたいする強い制約を要求するようになるだろう。それは,社会が全体として自然環境の強い制約を意識し,それを個人に賦課するという構造になっているからである。したがってこの袋小路から抜け出す方法は,社会を社会システムというあり方から少しずつ解放していくことしかない。

歴史的にみれば,社会が社会システム*という存在形式を採用するようになったのは,人間が自然の制約を積極的に克服する姿勢に転換したことによる。具体的には,灌漑*によって水の流れを積極的に制御することを始めたことによって社会の全体を代表するような個人や機関が必要になったのである。それは,さらに財の流れすなわち交易*にたいする積極的な制御のための社会全体を代表する機関へと展開していった。このような社会のあり方が選択される前は,それぞれの自然環境に応じた相対的に自立した小集団が分散的に存在しそれぞれが物的なものに媒介されないで直接的な関係で一つの全体としての社会を形成していたのである。そこには,社会の全体性を代表するような個人や機関はなかった。社会の全体性は,道具や精神世界*の共通性としてのみ,すなわち単に抽象化したものとしてのみ存在していたのである。

社会を社会システムから可能な限り解放し,個人の自由と自然環境の保全が両立するような社会を構築するためにどのような社会改革が必要かを明らかにすることが切実な課題となっているのである。

脚注

(1)公共経済学*などでは,環境問題を外部不経済*と呼ぶことが多いが,その場合は環境問題の影響が価値的なものであらわされる以前の状態をさして用いられたり,また必ずしも望ましい状態との比較が問題になる以前でも用いられるために,ここでのとらえ方とは異なっている。(もどる
(2)ただし,価値均衡論の場合も物質循環論にしても,一般には自然環境の利用が望ましい状態を超えている場合を環境問題とする。しかし,これらの定義によれば過少利用も環境問題となるが,そのことは大きな問題ではない。(もどる
(3)本来,Δ B, Δ D ともにごく狭い幅の棒グラフが横に並んだ図として描かれるべきである。ここではその幅が十分に狭く棒の頂点を結んだ線が図のように描かれていると考えていただきたい。(もどる
(4)自然環境は,排除不可能性か非競合性のいずれかを備えているという点で経済学にいう公共財*に対応している。公共財の最適供給理論はそれが個人にとって望ましいものであるならば,各個人の限界便益の総和が限界供給費用(公共財の価格)に一致するというものである。この図の場合は便益と被害の関係が逆になっていて,個人の限界被害の合計があらわされている。限界被害と限界便益の一致は,いずれにしても公共財の最適供給の条件と同値である。(もどる
(5)鷲田~ 参照。(もどる
(6)Baumol and Oates~ の Chapter 14 を参照。(もどる
(7)以下の議論はBaumol and Oates~ に依拠している。(もどる
(8)Coase~ において示された。ただし,この論文の中心的な主張は,ピグー税が前提としているような被害をだす側の責任をつねに問題にするというのではなく,与えられた状況を全面的に考慮しながら結論をだす必要性である。コースの定理はその前提となるものとして与えられているのである。他に,コース~ も参照。(もどる
(9)コース自身は,この定理が示すような状況が交渉の実施のための費用がかからない状況のもとではじめて実現するものであることを強調し,問題の全面的把握の必要性をくりかえしている。(もどる
(10)一般に,価値均衡論の方法論的枠組みは公共経済学*の分野で精力的に議論される。そこでは,環境問題が外部不経済*の問題として扱われている。ただし多くの場合,問題が環境をめぐって加害者と被害者の経済的な損益が明確になっていることを前提としている。しかし,今日,自然環境をめぐって経済的な利害が明確になっていない環境問題が重要になってきている。このような今日的環境問題は公共経済学の射程にはいっていないようだ。単純な一般均衡モデルを用いて,ここでの価値均衡的な理論を体系的に説いている公共経済学の教科書として柴田・柴田~ ,数学的に精密な議論と事例とを織り混ぜた教科書として岸本~ などがある。 (もどる
(11)仮想市場法にかんする一連の論争を課題を明らかにした好論文として竹内~ がある。また,環境の価値評価にかんする理論と実証をまとめた好著として Hanley and Spash~ がある。 仮想市場法の具体的手順についてはこの著書への依存度は高い。他の価値評価方法についてもこの著書と,その他に,Pearce~ , ピアス, マーカンジャ, バービア~ ,末石~ ,Turner, Pearce, and Bateman~ など参照。(もどる
(12)この戦略的バイアスについては,公共財の最適供給のために個人の選好を正確に表明させる問題のなかで研究されてきた。この点については岸本~ ,柴田~ など参照。このような戦略的バイアスの影響が大きくないことを示した実証例としては,Bohm~ 。(もどる
(13)この点については,岡~ 参照。(もどる
(14)このような間接効用関数(partial indirect utility function)*については,たとえば Luenberger~ など適当なミクロ経済学のテキストを参照。(もどる
(15)ただし,Hanemann~ は,対象になっている公共財の他の財への代替効果*が小さい場合に支払い意志額と受け取り意志額の大きな差異があらわれることを示した。また,この点にかんする実証的研究としては,Shogren et al.~ などがある。(もどる
(16)初期に存在価値*にかんする指摘をおこなった論文の一つとして Krutilla~ がある。(もどる
(17)Walsh~ では非利用価値の内容についての理論的分類と実証結果が示されている。理論的分類は,ピアス~ , Pearce~ なども参照。 (もどる
(18)たとえば,コロラドの野性地域の保存について示された全価値のうち40\%が非利用価値であった。あるいは水質保全の全価値のうち63\%が非利用価値であったという例もある。Hanley~ , p.66 参照。 (もどる
(19)Stevens~ は存在価値の大きさを示すとともに,仮想市場法によるこの種の価値評価が不安定で環境政策の基礎としてはふさわしくないと指摘する。 (もどる
(20)Sen~ は仮想市場法によって価値を決定することが市場による価値の決定を決定することとはまったく異なっていると指摘する。前者は個人による社会的な選択であり,後者において個人は個人的な決定しかおこなっていないというわけである。(もどる
(21)``embedding effect''* と呼ばれる。これについて,竹内~ は「包含効果」*と呼び,このような規模の差異の評価にかかわる問題の他に,より包括的な財の一部として聞かれた場合と単独で聞かれた場合の価値がちがってくるという問題についてもこれに含めて議論している。(もどる
(22)この仮想市場法による実証結果は Devousges et al.~ による。この評価については Arrow~ など参照。また,Carson~ はDevousgesらの結果について,跳び値を刈り込むことで規模と評価価値の正の相関がでてくる可能性を示している。(もどる
(23)Diamond and Hausman~ は仮想市場法による価値評価が経済的選好にもとづく価値評価ではなく,公共的意見の投票であり,環境破壊などによる経済的被害の価値評価には適用すべきでないと結論し,環境の保護のためには経済的評価ではなく,政治的規制の方が有効であると述べている。 (もどる
(24)環境価値評価の問題について包括的な分析が Hanley and Spash~ および Spash~ でおこなわれている。(もどる
(25)仮想市場法によってこのような限界被害曲線を求めることは一見難しそうにみえるが次のようにすればよいだろう。すなわち,環境の利用規模,あるいは被害の規模に応じた価値評価をいくつか求めて,そこから回帰分析などによって近似的な曲線を推定し,それを微分したものが限界被害曲線となる。(もどる
(26)Constanza~ はある湿地生態系*の価値を商業価値,リクリエーションの価値*,気象被害を緩和する価値などから計測し,もう一方でその生態系の植物による1次生産を石油換算した価値から計測して比較分析した。生態系の1次生産能力をその価値としたことは注目に値する。しかし,それを経済的価値に転換しなおすのでは,結局,ここで指摘した価値均衡論の問題を避けることができなくなる。(もどる
(27)生態系の冗長性については本書の補論参照。(もどる
(28)民主主義の機構原理としての多数決の擬制的性格についてはたとえば,福田~ ,p.139 を参照。(もどる
(29)また,仮想市場法の手続きは,関係する個人の選好を集計する手続きであり,社会的な選好決定問題である。一般に環境問題は同時に多数存在しているために,一つ一つについて仮想市場法を実行し価値を決定していくことは,個人が自己の所得という予算制約のもとで付け値を与えることから問題を生じる。すなわち,提起されている環境問題にかかわるすべての環境価値決定のための付け値を同時に要求することが本来必要である。それは,また,人々にはつねに少なくとも三つ以上の環境要素にたいする順序づけが問われていると考えることができる。そして,そこには当然,次章で詳細に検討するような,社会選択論によって提起された集合的な選択ルールにかんする困難が存在するのである。(もどる
(30)環境政策における売買可能許可証については Baumol and Oates~ ,Pearce and Turner~ などに詳しい。(もどる
(31)前章,\pageref{firstmrh}ページ以下を参照。(もどる
(32)以上の点についての数学的に精密化した議論は鷲田~ で詳細に分析している。 他に鷲田~ も参照されたい。 (もどる



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