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「環境と社会経済システム」

副目次
第 3 章 社会システムと社会選択論
  1 節 経済成長指向の自立性
  2 節 社会的選好決定の公正な手続きはなにか
   2.1 個人的選好順位と社会的選好順位
   2.2 無関係な選択肢からの独立
   2.3 社会的選好の推移律
  3 節 公正な社会的選好手続きの不可能性
   3.4 公正さのための要請
   3.5 アローの一般不可能性定理
   3.6 自由主義と不可能性定理
   3.7 社会的選好領域の自立と社会システム
  4 節 不可能性定理と社会システム
   4.8 選挙制度と公正さの要請
   4.9 代表制と社会システム


第 3 章 社会システムと社会選択論   (副目次へ

社会システム*はモノの流れによって媒介されることが不可欠の形成要因だった。すなわち,社会を構成する個別主体のミクロ目的*と社会の全体としての目的であるマクロ目的*クロ目的}が,融合することなく相対的に自立しているという社会システムの本質的状況は,個別主体がモノの流れによって秩序付けられることによって生成し持続するのである。しかし,近代工業社会においては二重化された目的がモノに媒介されているという事実からはなれ,全体としての秩序が個別の意志,個人の意志から合理的に形成されるべきであるという理念が広く受け入れられるようになる。すなわち,民主主義的理念*の普及である。

この民主主義が社会的に実践されることによって,個人の意志と社会の意志のあいだの調和が実現できるのであれば,目的の二重化*も解消し社会は社会システムというあり方を止めるのであろうか。あるいは,個別主体のあいだの関係がモノに媒介されているという事実を変えないまま,社会の意志的な側面における調和は達成できるのであろうか。私はこれは不可能であると考えている。すなわち,意志関係というレベルで機能するだけの民主主義*では社会の社会システムというあり方を変更しない程度にしか,力を発揮することはできない。より正確には,民主主義は,それが人々の物的な関係のあり方の変更を求めるほどに実践と結びつかない限り,マクロ的な意志形成の完全な手続きとはなりえないのである。したがって,意志的な関係で民主主義の手続きをみているだけでは,そこにつねに欠陥があらわれる。このような民主主義の欠陥の一つを表現している理論として,社会選択論がある。

この章では,このような目的で社会において個別意志から全体意志を合理的に形成することの困難性を解明した社会選択論の内容とその含意をとらえておく。また,この社会選択論が示す集合的意志形成にかんする問題は,前章で示した環境の価値評価にかんする個人の評価と全体の評価との整合性の問題と深い関連をもっている。より一般的には,自然環境はつねに全体として存在しており,単なる個人の意志や行為との関係だけでは扱うことができないために,集団としての意志や行為が問題となり,それらのあいだの整合性が問題にならざるをえないのである。ここではやや技巧的な議論が多くなるが,この問題を考える共通の一つの視点を与えるものとして必要であると理解していただきたい。

1 節 経済成長指向の自立性   (副目次へ

社会選択論の具体的な内容にはいるまえに,個別主体と全体という問題が近代工業社会において具体的にどのようにあらわれているのかという点についてふれておこう。また,社会選択論が社会システムにかかわる問題としてあらわれざるをえない理由を考えてみよう。

近代工業社会においては,経済を軸にしてみると企業や消費者個人などの個別経済主体の目的あるいはその分布としてのミクロ目的と経済全体としての目的すなわちマクロ目的である経済成長が相互に相対的に自立して存在している。ここで経済成長*とは,国内で生産された付加価値の集計値としての国内総生産*(GDP)の実質的な増加を意味している。

「相対的に自立して存在している」とは,たとえば個別企業からみると,経済が成長しているからといって企業自身の業績が必ず良くなるとは限らない点にもあらわれている。経済全体の成長にもさまざまなパターンがあるのであり,経済がなんらかの理由である特定のパターンの成長をおこなっているときに,特定の企業が没落していくことは実際に数多く観察されてきた。そして,経済がどのような成長パターンを選択するか,それによってどれほどの成長率を達成できるのかは個別企業の自由にはならないのである。しかし,個別企業がとる経営態度の集計した結果が経済全体の動態に大きな影響を与えることは確実である。

消費者としてみた個人についても,全体経済との関係は企業と似たようなことがいえる。企業に勤務し労働を供給することを所得の源泉としている場合には,消費可能な水準が企業の業績に依存するという意味で,個別企業と全体との関係がそのまま消費者自身に反映する面をもっている。しかし,もちろんそれにとどまらない。消費者がどのような消費財の組合せ(バスケット)を選択するかは,明らかに経済の成長パターンに影響を与えるが,個別消費者の消費行為が直接に影響を与えるわけではない。しかし,明らかに消費者行動を集計した結果は経済の運行の方向に大きな影響を与える。

経済成長*は,このように経済をになっている経済主体の集合的な結果によって影響を受けながら,また一方で相対的に自立した目的であるとはいえ,無数ともいえる個別主体の上に浮いている水草のような不確かなものではない。まず,工業社会を維持するためには経済成長という目標の追求は避けることができない。この社会では,成長しない年,あるいはマイナス成長*イナス成長}となる年が数年もつづけば,経済のシステムそのものが深刻な危機に陥る可能性がある。したがって,この経済成長という目的の実現,遂行に責任をもつ主体が必ず必要になるのである。工業社会では,それは行政権力をもっている主体であり,具体的には政府である。原則的に政府は,特定の企業や消費者の経済行為にたいする責任をとらない。一般に企業や個人が破産しても政府の責任ではないのである。しかし,経済の全体としての出来ばえに政府は責任をもっている。つまり,経済成長の追求の責任は政府にあるのである。

政府は,工業社会において行政権力をもっているという理由によって経済の成長に責任を負う。したがって,工業社会の政府は国民からのなんらかの請託を受けることによって経済成長にたいする責任を負っているのではない。社会が工業社会として構成されているために政府は経済成長にたいする責任を負わざるをえなくなるのである。

政府がマクロ目的*クロ目的}の経済成長にたいして責任をもつということは,それを一種のお題目のように唱えていればよいというものではない。直接に関係しそうな経済政策でいえば,公共投資など総需要管理政策,課税などの所得政策,雇用政策,物価政策,金融政策,産業政策,国際経済にかかわる政策,エネルギー政策,土地政策,環境政策など具体的な政策の内容やそれらのあいだの優先順序のなかに経済成長を促進し方向づけをし,それを阻害しないような配慮をしなければならないことを意味する。あるいは,教育政策や社会福祉政策,あるいは一般的な外交や軍事にかかわる政策まで,一国の経済を成長させるための視点を貫かなければならないことを意味している。

政府が経済を構成する個別主体の意志から独立に,経済成長という目的を追求するということは,これらの政策の配置,内容,順序について,各個別の経済主体のもっている意志によってさまざまな修正を強制されたとしても,経済成長という目的によって許容される範囲でしか応じないということを意味する。個別主体のさまざまな意志や目的の分布によってこのマクロ目的の追求が不安定になることは,社会システムの維持という観点から必ず回避されなければならないのである。しかしこれは,民主主義を原則とする社会においては奇妙なことである。政府を構成する代表者は,選挙*によって国民の審判を仰いで選出されたはずである。国民が政府のとるべき経済政策にかんしていだいている意志が選挙によってあらわれるはずであり,したがって,政府はその意志を尊重しなければならないはずである。

工業社会*が景気循環*にさらされつづけられながらも,長期的にみれば経済的な拡大を実現してきたことは,マクロ目的としての経済成長が各個別経済主体あるいは国民の目的・意図の分布から守られてきたことをあらわしている。

この社会においてマクロ目的とミクロ目的のあいだの相対的な自立性が保たれてきた要因は単純なものではない。政府がとっている行動,政策が最も望ましいものであるかのように国民に思い込ませるイデオロギー的な努力が系統的になされてきたことは最も重要な要因の一つであろう。「豊かになりたい」という常識的な動機ですら,どこまでが自主的なものでありどこまでがつくられたものであるかは明確でない。このイデオロギー*にたいして客観的で,したがって批判的な論評ができないマスコミの問題もあっただろう。経済学もまた代替的な社会像をもちえなかったために,経済成長という観点が貫かれた経済政策のさまざまな選択肢に明確な批判的見地をだせずに,結局片棒をかついできたことも忘れてはならない。

しかし実は,このようなイデオロギー的な問題よりももっと深いところでこのような全体と部分の対立,マクロ目的とミクロ目的のあいだの相対的自立性を可能にしている重要な要因が一つ存在している。それは,個別意志の分布から全体の意志を形成することの可能性の問題である。すなわち,どのような討論の過程を経たとしても全員の意志が同一化することが困難なほどに巨大化した社会システムのなかでは,個別的な意志の分布から全体の意志を公正な手段で集計することが不可能であるという事実が存在するのである。そしてこのことによって,ミクロ目的とマクロ目的の相対的自立性の持続と近代工業社会という社会システムの構造の維持が可能になり,経済成長の成功をもたらしてきたのである。

現代はこの工業社会のマクロ目的である経済成長と社会の持続可能性の両立が不可能であることが鮮明になっている時代である。すなわち,経済にとっての本質的な環境は,微小なものからグローバルなものまでさまざまなスケールと形態で存在している生態系*である。工業社会における経済規模の巨大化は,いたるところでこの環境としての生態系の限界にぶつかっている。そして,この生態系はその非生物的自然のなかで成熟し定常状態となるような規模と能力の限界をもっていて,経済にたいするフローとしてのサービスをどこまでも増加させることは明らかに不可能なのである。

たしかに,自然利用技術の進歩率だけの経済成長は不可能ではない。つまり,たとえば自然資源の利用効率が1\%高まれば,その自然にたいする負荷をそのままに1\%の経済成長が可能になる。しかし,これまで自然環境にたいしておこなってきた破壊と劣化の積み重ねを考えれば,経済成長の不必要な社会を真剣に構想しなければならない時期にきているのである。

このような新しい社会を構想する前提として,この工業社会においてマクロ目的としての経済成長が国民,個別経済主体の意志からどのように保護されてきたのかを理解することが不可欠である。なぜならそれによって,国民がマクロ目的の変更を求めるようになったときに生じるであろう問題をある程度予測することが可能になり,また新たな社会から再び,全体目的と個別目的の対立のなかで,環境を破壊したり劣化させたりする要素が発生しないようにできるからである。マクロ目的とミクロ目的の二重化の継続を可能にしたものは,工業社会の政治理念として一般に普及している民主主義の限界である。この点を指摘することは,民主主義を葬り去ろうとしていることを決して意味しない。民主主義という理念が個々の人間のもつ固有の権利を拡大した歴史的意義の大きさは明らかである。逆に,本書が意図しているのは,地球環境という制約に直面した現実のなかで,社会と自然環境の調和を可能にする理念としてこの民主主義を発展させることである。

2 節 社会的選好決定の公正な手続きはなにか   (副目次へ

2.1 個人的選好順位と社会的選好順位   (副目次へ

ここでは,個別意志を集計することによって全体の意志とすることの問題の具体的で簡単な例を示そう。本章の主題からして,必ずしも環境問題から例を引く必要はないのだが,親しみやすさを考慮してある沼を含む湿地にかかわる環境問題を例としよう。前節での社会的規模の問題とギャップがあると受け取られるかもしれないが本質は同じである。

物語は次のようなものである。その湿地はかなり広い面積をもっていたが近隣の住宅開発のあおりと,各家庭が排水を簡単な浄化槽だけをとおして沼地にながれる河川に流していたために水質の悪化,ゴミ,異臭などによって環境の劣化が激しくなっていた。住民のなかでは,各家庭の浄化設備の改良や排水浄化の工夫あるいは湿地の汚物・汚泥を回収するなどによって環境改善をはかるべきだという意見とそのような費用の支出をするくらいなら現状のままでよいという意見が対立していた。そこに新たに,湿地全体を埋め立てて化学工場を建設する計画がもちこまれた。化学工場の建設を受け入れれば,排水問題の解決のために,河川を暗渠にし流路も変更して環境劣化を防ぐことを工場側は約束していた。しかし,工場による大気汚染を恐れる住民と湿地を残すべきだという意見の住民がこれに反対していた。

湿地の利用にかんして,三つの意見があらわれたことになる。第一は,工場の進出を認めようというものであり,このなかには湿地の悪臭などがなくなることにたいする期待の他に,雇用機会の増加や,一層の開発の進行や人口増加による地域の利便性の上昇にたいする期待などもある。第二の意見は,現状をそのまま放置しようというもので,費用の支出を回避するというメリットだけにたいする期待である。第三は,追加費用を住民が負担して湿地の環境を改善しようというものである。この三つの意見を,順に記号で x, y, z で簡単にあらわすことにしよう。すなわち,

x : 工場誘致賛成
y : 現状放置
z : 湿地環境改善

である。この場合,人々の意見とは単に「どの選択肢を最も選好するか」ということではない。人々は選択肢にたいする選好の順序をもっているはずである。したがって,住民の個別意志を集計し全体の意志を確定するということは全体の選好順序を確定することでなければならない。湿地のあり方をめぐって一つの選択肢しかありえないというのであれば,人々が最も選好するものを確定することしか意味がないかもしれない。しかし,三つの選択肢の選好順序が全体の意志として明確になることによって第二順位のものの部分的な採用などということもおこりうるのである。この例からはなれて,政府の政策ということになれば,政策どうしの相互連関もあり,国民の全体意志としては政策の内容とともにそれらの優先順位が必ず重要な意味をもってくるのである。このような,個人の選好順位の分布から全体としての選好順位を導き出す手続きをここでは「社会的選好手続き」*と呼ぶことにしよう(注1)。

この湿地の利用にたいする住民の選好の分布が次のようであったとしよう。

x > y > z : 積極的開発推進 (35\%)
y > x > z : 消極的開発推進 (10\%)
y > z > x : 消極的環境改善 (22\%)
z > y > x : 積極的環境改善 (33\%)

ただしここで,> は左側の項が右側のそれよりもより好まれることをあらわす記号である。このような個人の選好の分布の状態で社会的選好手続きとしてはさまざまなものが考えられる。たとえば,各個人に最も選好する選択肢を一人一票という制約で投票し,その結果として票の多い選択肢から順序付けそれを全体としての選好順序であるとする方法が考えられる。この場合,開発(x),環境改善(z),放置(y)の選好順序となる。すなわち,

x > z > y

である。このような選好順序をもった個人や集団は存在しないが,社会的順序として新たなものが形成されたことになる。

2.2 無関係な選択肢からの独立   (副目次へ

現実には,人々の選好順序の全体がこのように確実にわかることはあまりない。しかし,もしわかっていたら,このような投票結果を全体の順序とすることには疑問がだされる可能性が高い。なぜなら,全体として開発よりも環境改善を望む人の方が多いからである。

この点を示そう。いまどの個人についても,一般的原則として任意の選択肢 a, b, c について a > b かつ b > c が成立するならば,a > c が成り立つとしよう。これを否定することは困難であろう。りんごよりもみかんが好きで,みかんよりもバナナが好きな人がりんごよりもバナナが好きであることを否定すると,この人の選好の一貫性が疑われることは確実である。このような規則を選好の推移性*(推移律)*が成立しているという。この選好の推移性を前提にすると,住民のなかで z > x という選好をもっている人は,55\%で過半数になるのである。住民の過半数が工場進出よりも環境改善を望んでいるにもかかわらず,社会的選好としては,環境改善よりも工場進出がより選好されるというのでは,結果を批判する側にも道理があることになる。

これにたいして次のような反批判もありうるだろう。つまり,環境改善を最も優先順位の高い選択肢とする人とそれを第二の選択肢とする人を同列に扱うことは妥当ではないという批判である。この批判にも道理があるようにみえる。しかし,まずこの批判のように各個人の優先順位を考慮するというのであれば,第一位と第二位の優先順位を考慮するだけではなく第二位と第三位の優先順位のちがいも考慮すべきであろう。最初に示した方法は,第一位とそれ以外の順位だけを考慮した社会的選好手続きとなってしまっているのである。そこで,一人一票の投票ではなく,順位を明確にした投票をおこない,その個人の第一位の順位の選択肢には3ポイントを与え,第二位には2ポイント,第三位の選択肢には1ポイントを与え,各選択肢がえたポイントを集計することによって順位を決定するという社会的選好手続きをおこなったらどうだろうか。

表~T1は順位投票をおこなったときのポイントの集計をあらわしている。

選好順位 住民構成比 x y z
x > y > z (35%) 105 70 35
y > x > z (10%) 20 30 10
y > z > x (22%) 22 66 44
z > y > x (33%) 33 66 99
(600%) 180 232 188

表(T1)順位投票によるポイントの集計

第三列以降は,各選好態度を示すグループについて,各選択肢の順位のポイントにそのグループの構成比をあらわすパーセントをかけたものである。したがって,全ポイントの合計は600ポイントとなる。これをみると,少し驚かされるが,放置(y)のポイントが最も高くなり,第二位は環境改善(z),そして第三位にようやく工場進出(x)がくるのである。この結果は,最初の各個人の第一位順位だけを投票する一人一票の投票とはまったく逆の結果になってしまった。

つまり,全体として工場進出より環境改善を望む人が多いという批判から,第一位順位の投票結果を守るために各個人がもっている順位の重要性を強調するためにそれをより徹底し順位投票をおこなうと,結果がまた逆になってしまったのである。

しかし,この個人の選好の順位にしたがってなんらかの重みをつけることには無視できない問題がある。全体として,工場進出と環境改善を比べれば,環境改善をより選好する人の方が多い。それにたいして,環境改善を一位にあげる人と二位にあげる人を集計において同列に扱うことの反批判があったのであるが,これは実は人々の選好の強さが比較できるものだという前提に立っているのである。つまり, y > z > x という選好順序で z > x である人と z > y > x という選好順序において z > x である人とでは後者の方が環境改善にたいする選好が強いという前提に立っているのである。かりに,個人間である対象にたいする選好の強さが比較できるという前提に立ってみよう。すると奇妙なことが起こる。

いま,前者の選好順序に立つ個人 A と後者の選好順序に立つ個人 B の二人がいて,図~F1 のような選好強度がとらえられたとしよう。



図(F1) 選好強度が比較可能である場合の例

この図で,oo' 線が同一強度の選好水準を示す基準で,そこから右側に向かって同じ割合で増加する選好強度が描かれている。そして,各選択肢の選好の水準が位置づけられているのである。先の議論によれば,環境改善を筆頭にあげているのであるから環境改善にたいする強度が強いはずだということになるが,この例の場合では,それでも消極的環境改善論者である個人 A の方が環境改善にたいする選好は強いのである。

このように,選択肢にたいする順位だけでは選好強度が測れない。そして,そもそも個人のある対象にたいする選好の強さを他の個人と比較する公正な方法は存在していない。もちろんそれは人々が私的に選好強度を比較することの不可能性を指摘しているわけではない。実際には,たとえば自分の利用量をこえた水をわずかにもっていて,他の二人がのどが渇いているという場合,一方が渇きから倒れんばかりになっていれば,そちらに多くの水を与えようとするだろう。個人間の選好強度の比較*はできないといって,同じ量を与えることは必ずしもしないのである。それでも,そうした私的な判断ではなく,一般に人々を説得しうる道理をもった選好強度の測定方法は存在しないのである。選好の強さにしたがって所得のうちからの寄付が強要されるとしても,貨幣にたいする選好の強さを比較する方法がない。結局それは,それは人々の感覚の強度を測ることであり,ある選好にたいする脳細胞の物理的な機能を測ることが不可能であるように,選好強度を個人間で比較することはできないのである。

個人間の選好強度を公正にとらえることが不可能であるとするならば,先の例でいくと工場誘致と環境改善との社会的な選好の順位は湿地の放置にたいする選好の状態とは無関係に決まらなければならない。これを,社会的選好手続きにおける「無関係な選択肢からの独立」*の原則と呼ぶことにしよう。

2.3 社会的選好の推移律   (副目次へ

この無関係な選択肢からの独立の原則を満たす選好手続きはどのようなものになるのかを次に問題にしよう。

上の例でも明らかなように,三つの選択肢のなかから二つを取り出して投票をおこない支持の多さから順序を決定するというのが一つの有力な選好順序決定の手順である。この手順であれば,それぞれの二つのあいだの順序について残りの一つの選択肢にたいする選好がどのような順序にあろうと無関係になる。すでに指摘したように,工場誘致と環境改善の二つの選択肢については後者が選好されるから z > x である。次に放置(y)と環境改善(z)では,積極的環境改善を主張するグループを除いて他のすべての人が y > z となっていて,社会的選好もそうなる。したがって,推移性の規則から社会的選好は y > x となるべきであるが,これは積極的工場誘致を主張するグループを除いてすべて満たしていて,社会的にも満たされる。したがって,この社会的選好手続きによると,求める社会的選好は y > z > x となるのである。

では,このような無関係な選択肢からの独立の原則を満たす方法によってつねに公正な社会的選好をえることができるだろうか。そこで,状況を少し変更して,その場合でも妥当な結果を満たすかどうかを検討しよう。これまでのグループの分布状況がすこしかわって次のようになったとしよう。

x > y > z : 積極的開発推進 (35%)
y > x > z : 消極的開発推進 (10%)
y > z > x : 消極的環境改善 (22%)
z > x > y : 積極的被害回避 (33\%)

すなわち,これまでの積極的環境改善グループがなくなって,そのかわりに環境の改善が最も望ましいがなにもしないで悪臭を放ち汚れた湿地をみるよりはいっそ工場にしてしまった方がよいという,積極的被害回避を主張するグループになったとしよう。それぞれの人数の割合はかわらないとする。このとき,先と同様に二つについて投票によって順序を決定し社会的順序を形成するという作業をやってみよう。まず,工場誘致と放置では全体として工場誘致の方が優勢で,x > y である。環境改善と工場誘致では環境改善の方が優勢で z > x である。したがってこれだけで z > x > y となる。したがって,推移律*が成立するためには z > y で放置より環境改善の方が選好されなければならない。しかし,個人的選好の分布から環境改善と放置を比較すると,y > z となっていて,環境改善よりも放置の方が優勢になっているのである。したがって,このような個人の選好の分布において,二つの選択肢にたいする投票によって社会的順序を決定すると,その社会的順序は推移律を満たさなくなってしまうのである。

社会的選好の順序においてこのようなかたちで推移律を満たさなかったならば,そのような社会的選好は決して承認されることはないだろう。したがって,この無関係な選択肢から独立の要請にこたえられる社会的選好手続きは,必ずしも満足できる社会的選好をもたらさないことがわかった。

この最後の例において,もし社会的選好が推移律*を満たすように変更するために z > y を採用して,現実に多数を占める y > z を社会的選好として棄却すると,このようにしてえられる社会的選好は z > x > y となる。そして,これは積極的被害回避グループの選好順序と一致してしまう。 z > y という選好をもつグループはこのグループしかなくて,この選好にかんしては少数者であるにもかかわらずそれを社会全体の選好として押しつけることになるのである。すなわち,この最後のグループは,あたかも専制権力をもったグループのように振る舞うことを認めたようになってしまっているのである。

以上で,選択対象にたいする個人の分布から社会的選好を確定する手続きについて公正さを要求するといろいろな問題が生じてくる可能性があることを示された。実際,基本的な公正さを満足するような社会的選好手続きは存在しないことが証明されているのである。

3 節 公正な社会的選好手続きの不可能性   (副目次へ

3.4 公正さのための要請   (副目次へ

ここでは,上で議論したような個人的選好の分布から社会的選好を集計する手続きの問題についてより精密な議論をしておく。やや数学的な部分があるので,退屈である読者はその部分をとばしてもよいだろう。

そのためにまず,個人的選好と社会的選好そのものが満たすべき性質について確認しておこう。言葉を節約するために記号を定義しよう。任意の二つの選択肢 x, y を考えておこう。そして三つの記号を次のように定めておく。

\item x >eq y : x は y よりも強く好まれるか等しく好まれる\item x \simeq y : x と y は等しく好まれる\item x > y : x は y よりも強く好まれる

後の二つの記号は最初の記号によって表現することができる。すなわち,x \simeq y は x >eq y でありかつ y >eq x であることを意味する。また,x > y は x >eq y でありかつ y >eq x でないことを意味する。また,選択対象の集合を S としよう。この集合の要素は上で述べた例の場合は,工場誘致 x ,放置 y ,環境改善 z の三つである。選択対象は有限な数しかないと考えておこう。

個人的選好も社会的選好も次の三つの性質を満たすものでなければならない。第一に, S の要素である任意の選択肢 x について x >eq x である。反射性*と呼ばれる(注2)。第二に, S の要素である任意の選択肢 x と y について x >eq y か y >eq x のいずれかないしは両方が成り立たなければならない。連結性*と呼ばれる。そして,反射性と連結性の両方の性質を同時に満たすことを完全性*という。第三に, x >eq y かつ y >eq z ならば x >eq z でなければならない。推移性*と呼ばれる。この推移性が満たされるならば,x > y かつ y > z のとき x > z でなければならないことも,x >eq y かつ y > z のとき x > z でなければならないことも示せる(注3)。

推移性についてはすでに述べた。反射性についてこれを否定すると選好の整合性が疑われるから認めざるをえないだろう。完全性は,絶対に必要だとはいえない面もある。果物にもたくさんあるが,すべての果物について選好の順序を明確にすることができる自信は私にもない。しかし,社会的選好において選択対象が切実な場合,曖昧な態度をとることができないこともたしかである。これも認めよう。

このとき,社会的選好手続きとは与えられた個人的選好の分布から社会的選好を集計し確定する手続きである。この社会的選好手続きの例はすでにいくつか具体例で示してある。この社会的選好手続きが公正であるために必要な要請をここで確認しておこう(注4)。

第一は,個人的選好分布の非限定性*である。つまりこれは,選択対象にたいする選好態度が各個人間でどのようなものであっても,その社会的選好手続きは社会的選好を決定できることを意味する。各個人は, S という集合のなかの選択対象についてさまざまな選好を示す可能性がある。たとえば, S が三つの選択肢からなり,二つの対象についてどちらかをより強く好む(>)という選好しか認めないとしても個人が示す選好は x > y > z, x > z > y,y > x > z, など6個のパターンの可能性がある。各個人は,この6個のパターンのうちの一つを自分自信の選好としてもつのであるが,もしこの集計対象となる個人が二人しかいなかったとしても,6\times 6=36の選好の分布の可能性があることになる(注5)。選好の分布はこのうちの一つであるが,この個人の選好分布がいずれであったとしても,社会的選好手続きは社会的選好を決定できなければならないというのがこの条件である。

この条件は手続きの公正さとは直接には関係がないであるが,実際は次のように重要な意味をもっている。もし,個人の選好の分布がある特定の場合に,その社会的選好手続きが用いることができない,すなわち社会的選好を決定することができないとしよう。にもかかわらず,決定しないわけにはいかないとしたら別な選好手続きが用いられなければならないことになる。しかし,個人の選好分布に応じて異なった手続きが用いられるならば手続きの公正さが疑われることは明白である。

第二は,パレート原理*である。パレート原理とは, S に含まれるある二つの要素 x と y について,すべての個人が y よりも x を強く選好する,すなわち x > y ならば,社会的選好もそうでなければならないというものである。ある二つの要素について選好が全員一致しているならば,社会的選好も同じでなければならない。したがって,全員一致の原則*と呼んでもよいだろう。これも公正さの要件としては大切なものである。

第三に,無関係な選択肢からの独立性である。これは,先の具体例のなかでくりかえし述べたものである。 S に属する任意の x と y についての社会的選好は,個人的選好の x と y にかかわるものの分布からのみ決定され,それ以外の選択肢の選好の影響を受けてはならないことを意味する。

第四に,非独裁*の条件である。すなわち,個人の選好の分布がどのようなものであってもある特定の個人の選好が社会的選好となるような社会的選好手続きであってはならない。これは,ある特定の個人が自分の意志の問題というより,社会的選好手続きがその個人の選好を自動的に社会的選好としてしまうようなものであってはならないということである。これも,社会的選好手続きが公正であるためには欠くことのできない条件である。

社会的選好手続きにかんするこの四つの要請は,特殊なものといいがたい。おそらく誰もが,手続きが公正であるためには満たさなければならないと考えるであろう。しかし,このような社会的選好手続きは存在しないことがわかっているのである。

3.5 アローの一般不可能性定理   (副目次へ

公正な要請を満たす社会的選好手続き*が一般に不可能であることはK.J.アローによって示された。ここでは,この不可能性の証明を最近A.K.センが示した方法で与えておこう。証明は一般に考えられているほど難解なものではなく,集合と要素の関係を見落とさなければ誰にでも簡単に理解できるものである(注6)。しかし,証明を追うことがわずらわしい読者は定理そのものを理解しておくだけでもよい。

まず,選択対象にたいするグループの決定性*というものを定義しておこう。

定義:グループの決定性 ある選択対象 x と y の選好について,あるグループ(Gという個人の集合であらわす)に属するすべての個人が,G に属さない個人の選好にかかわらず, y よりも x を好むときはいつでも,社会的選好においても y よりも x がより好まれるならばグループ G は選択対象 x, y について決定的であるという。もし,どの選択対象についてもグループ G が決定的であるならば,それはグループ G は単に決定的であるという。

もちろんここでは「ある社会的選好手続きのもとで」ということが前提になっている。つまり,その社会的選好手続きのもとでは,G という人々の集合,グループの全員が x > y ならば,社会の構成員でそのグループに属さない人々のその対象にたいする選好がどのようなものであろうと社会的選好は x > y となる。このとき,このグループは対象 x と y について決定的であるというのである。また,その社会的選好手続きのもとでは,どのような選択対象のペアについてもグループ G が決定的であるならば,このグループは単に決定的であると呼ぶのである。

一般不可能性定理の証明は,先の四つの要請のうち,はじめの三つの要請を満たすような社会的選好手続きは必ず独裁的なものになることを示すことによっておこなう。そのために二つの補題を証明しておく。言葉を節約するために,ある個人 i にかんする選好をその記号にサフィックスをつけたもの,たとえば >i とあらわし,社会的選好については >s と s のサフィックスをつけたものであらわすことにしよう。

また,以下,問題となっている選択肢は三つ以上あると仮定する。

補題1: もしあるグループが,ある選択対象のペアについて決定的であるならば,そのグループは単に決定的である。

証明: あるグループ G が異なる選択対象 x と y について x > y で決定的であったとしよう。このとき,すべての選択対象の集合である S に含まれる任意の異なる二つの対象 a と b についてもこのグループは決定的となることを示そう。

x と y がそれぞれ a と b にまったく一致する場合は明らかに後者のペアにかんしてグループ G は決定的となる。 x と y が a と b のいずれとも等しくない場合について証明しよう。

(個人的選好分布の非限定性)の要請によって,Gに属するどのメンバー i についても,

a >i x >i y >i b

となっている場合も,社会的選好手続きは機能しなくてはならないので,このような状態を考えよう。また,同じ要請によって G に含まれないどのメンバー j についても,

a >j x かつ y >j b

となっているとしよう(図~F2参照)。



図(F2) 補題1のための参考図

このとき,Gの x と y にかんする決定性によって,社会的選好について,

x >s y (*)

が成立している。また, (パレート原理)*の要請によって,全体が一致している選好は社会的選好とならなければならないので,

a >s x かつ y >s b

が成立している。すると,社会的選好は推移律を満たさなければならないので(*)と上の式より,

a >s b

が成立していることになる。 (無関係な選択肢からの独立性)の要請によって,この最後の結果は a, b 以外の選択肢の選好状況から独立にえられた結果である。そして,グループ G に属さない個人の a, b についての選好から無関係に,G に属する個人の個のペアにたいする選好の全員一致性からえられたものである。したがって, a, b のペアについてもグループ G は決定的である。 この結果は,a, b のどちらか一方が x と y のどちらかに等しい場合にもほとんど同じような方法で証明することができる(注7)。(証明終り)

補題2: 一人をこえるメンバーからなるグループ G が決定的であるならば,G に含まれるメンバーからなるそれよりも小さいグループで同じように決定的なものがある。

証明: グループ G を二つにわけそれぞれを G1 と G2 としよう。個人の選好の状態について次のような場合を考えよう。 選択肢が三つ以上あるという仮定にもとづいて三つの異なる選択肢 x, y, z を考えることができる。G1 に属するどのメンバーiについても,

x >i y かつ x >i z

で, y と z のペアにたいするこのグループの選好ついては任意であるとしよう。また,G2 に属するどのメンバーjについても,

x >j y かつ z >j y

で x と z のペアにたいするこのグループの選好については任意であるとしよう(図~F3参照)。



図(F3) 補題2のための参考図

Gが決定的であるので,G に属さないメンバーの選好については任意でよくとくに考える必要がない。

いまもし,社会的選好が,

x >s z

であるならば,このペアについては G1 に属するメンバーが決定的となる。なぜなら,この選好は G1 のメンバーに一致し,G2 のメンバーについては,任意だからである。したがって,補題1により,このペアだけではなくすべての選択対象について G1 は決定的となる。

G1 が決定的ではなかったとしよう。このとき, G2 のメンバーのなかに z >eqj x となる個人jが存在しなければならない。というのは,もしG2のなかに,そのような個人が一人もいないとすると,Gのメンバーの全てが x > z になっていることになり,Gが決定的であるから,社会的にも x >s z となり G1 が決定的ではないという前提と矛盾するからである。また,社会的選好についても,

z >eqs x

が成立していなければならない。というのは,これが成立していないならば,G1 は決定的とならざるをえないからである。

このとき,Gのメンバーすべてについて x > y であり,G は決定的なグループであるから,社会的選好について,

x >s y

が成立していなければならない。したがって,推移律より,

z >s y

が社会的選好について成立していなければならない。これは,G2 がこのペアにかんして決定的であることを意味している。なぜなら,この選好は G2 のそれに一致し,このペアについては G1 は任意となっているからである。補題1によって,この場合,G2 は決定的となる。すなわち,G1 か G2 のいずれかが決定的となることを意味している。(証明終り)

以上をもとにアローの一般不可能性定理が次のように証明できる。

アローの一般不可能性定理: 個人が二人以上,選択肢が三つ以上ある場合に,個人的選好分布の非限定性,パレート原理,無関係な選択肢からの独立の要請を満たすような社会的選好手続きはすべて非独裁の要件を満たさない。

証明: パレート原理によってすべての個人からなるグループ(社会)は決定的である。補題2によってこの決定的な全体は次々により小さな決定的なグループに縮小でき,最後の決定的グループには一人しか含まれなくなる。その一人は独裁者である。(証明終り)

3.6 自由主義と不可能性定理   (副目次へ

A.K.センはこれとはややちがったかたちでの社会的選好手続きについての不可能性にかかわる議論を提出した。センの提出した新たな問題は,個人の選択問題にはその個人の自由な決定にゆだねられている部分があるのではないかということである(注8)。

たとえば,私たちは日々どのような衣服を身につけどのような自家用車に乗るとかいったことなど,あるいはセンのいうところでは,上向きで寝るのか横向きで寝るのかなどは誰の干渉も受けなくてもよいものである。センは,社会的な選好対象のなかには,このような普通に個人の領域と考えられているものも含まれるべきであると主張する。確かに,私的選択肢と社会的選択肢の区別は難しい面がある。私的領域と社会的領域は途切れなくつながっているといってもいい。自分のからだのことだから他人に迷惑をかけずに覚醒剤を使うことは許されるべきだという主張もあるだろう。自分が所有している森林だから,樹木をどれだけ伐採するかは自由であるべきだともいえる。このような例においては,私的な自由が許される領域と公的な領域が画然と区別できないのである。

このような区別のできない領域が存在すると,それにたいして先に示したパレート原理が入ることによって社会的順序が決定できなくなることをセンは一つの不可能性定理として示したのである。

先に示した湿地の環境問題にかんする例でこの問題を表現してみよう。その湿地帯は旧来からの町の住人によって共同所有されていたとしよう。そして,湿地帯の環境の改善のためには,旧来の町の住人ではなく新しく町に移住した住民グループが各家庭により質の高い浄化槽を取り付ける必要があったとしよう。旧来の住人の排水は湿地帯の沼に流れ込まずに,別の河川に流れ込んでいたとする。そして,新旧の住民グループの人数はほぼ等しかったとしよう。また,それぞれの住民グループが湿地をどうするかについて意見をまとめ町全体の意志を決定することにしたとしよう。旧来の住民は,湿地を放置するよりも,共同でその土地を工場に売ることが望ましいと考えた。そして,それよりも望ましいのは湿地帯の環境を改善することである,と意見をまとめたのである。これにたいして新しい住民は,新たな浄化槽に支出することは困難であるとして,環境改善よりも放置することが望ましいということになった。しかし,工場進出は大変困るので,そうするくらいなら新たな浄化槽にお金をだして環境改善した方がいいということになった。まとめると次のようになる。

新住民 (放置 y) > (環境改善 z) > (工場誘致 x)
旧住民 (環境改善 z) > (工場誘致 x) > (放置 y)

そして,町全体の選好すなわち社会的選好にあたって,社会的に認められているそれぞれの権利は尊重するとすると,新住民にとっての環境改善よりも放置という意見は尊重されるべきである。なぜなら,環境改善のためにお金をだすのは新住民だからである。一方,土地の所有者である旧住民の,放置するくらいだったら工場進出を認めるという意見も尊重されるべきであるだろう。しかし,工場誘致よりも環境改善が望ましいというのは町の住民全体の意見なのである。したがって,これもまた尊重すべきであろう。

まとめると,全体として尊重されるべき選好は三つ存在する。新住民の y > z,旧住民の x > y,そして全員が一致しているz > x である。しかし,これらの選好は堂々巡りになっていることがただちにわかるだろう。新住民と旧住民の選好によって x > z が全体としての選好にならなければならないが,これは全員が一致している選好と対立するのである。すなわち,自由主義的要請から与えられる全体の選好とパレート原理によって与えられる全体の選好が矛盾していることになる。

明らかにここには,社会的な選好の一部にかかわる決定権を私的なグループにゆだねることによって生じる問題があらわれている。センはこの問題にフォーマルな形と証明を与えている。定理と証明の基本点は,すでに上の例で明確になっているが,以下に与えておこう。無用と思われる読者はとばしてよい(注9)。

あらたに自由主義の要請*が定義される。それは,すべての個人 i にとって少なくとも一つの異なったペア x と y が存在し,社会的選好にかんしてその個人が決定的であり,もし,x >i y ならば x >s y であり,もし,y >i x ならば y >s x である。

センの不可能性定理: 個人的選好の非限定性,パレート原理,自由主義の要請を満たすような社会的選好手続きは存在しない。

証明: 社会の二人の個人 k および j について注目しよう。それぞれが決定的である選択肢のペアをそれぞれ x, y および z, w であるとしよう。それぞれのペアが完全に一致していれば,自由主義の要請が満たされないのは明らかである。

どちらか一つの選択肢が共通であったとしよう。たとえば, x と z が同じものであったとしよう。そして,個人 k は x >k y という選好であり,個人 j は w >j x という選好であり,また,社会の任意の個人 i が y >i w という選好であったとしよう。自由主義の要請によって,x >s y および w >s x となる。したがって,推移律によって w >s y が成立しなければならないが,パレート原理によって y >s w となり,矛盾する(図~F4参照)。



図(F4) 自由主義とパレート原理の問題

次に二人の個人のペアがまったく異なっていたとしよう。そして,個人 k は x >k y という選好であり,個人 j は z >j w という選好であり,また,社会の任意の個人 i が w >i x および y >i z という選好であったとしよう。自由主義の要請によって,x >s y および z >s w となる。また,パレート原理によって w >s x および y >s z が成立しなければならない。社会的選好にかんするはじめの三つの選好と推移律から z >s y をえるが,これは明らかに最後の選好と矛盾する。

二人の個人にかんする議論で示せたので,すべての個人に自由な選択のペアを認めた場合に同じように矛盾が成立することは明らかである。(証明終り)

3.7 社会的選好領域の自立と社会システム   (副目次へ

アローの不可能性定理と比較しながら,センの不可能性定理の含意するところを検討しよう。

セン自身はその不可能性定理を自由主義原理*とパレート原理*のあいだの衝突としてとらえている。この点は先に示した事例においても,センの不可能性定理の証明においても明確に示されているだろう。第一に,私たちは日常生活においてさまざまな私的決定をまさに自由主義的におこなっている。それらが実際に実行できているということは,それらに部分的にでもかかわる問題についてパレート原理の適用が抑止されていることを意味する。パレート原理の適用が抑止されていることは,私的選好領域に接する選好問題について社会がなんらかの秩序判断をすることが抑止されている,といった方がよいだろう。たとえば,私が自動車を通勤のために購入することと,そのかわりに職場が出勤時間に配慮することとどちらが望ましいかについて社会的な判断が下され,実行に影響を与えるというようなことは発生しない。

第二に,私たちの私的決定にさまざまな制約があることも事実であり,その場合,必ずしも完全なものではないがパレート原理が優先されているのである。たとえば,私たちが自動車を運転しているときに見通しの悪い交差点であるにもかかわらず,その交差点をつっ切るような大胆なことは避けるだろう。それは,法律で禁止されているというよりも,運転している自分自身が避けたいと考えているし,社会もまた一致してそれはすべきではないと考えるだろう。社会の他の構成員も,自分がなるべくそのような無謀な車と出くわしたくないと思っているからである。私たちが私的におこないうることで,法律によって制限されているものはやはりこのパレート原理が効いているのである。もちろん,その私的自由にたいする制限を破ろうと考えているものは,制限に合意していないのであるが,社会の意志として合意すべきである,あるいは合意可能であるというようなフィクションのもとでのパレート原理なのである。

社会的な秩序は,このように私的選好の自由が許される領域と社会的選好が許容される領域のあいだの歴史的,文化的バランスのもとで形成されていることをこのセンの不可能性定理は教えているのである。そして,アローの不可能性定理は,社会的選好領域がすでに確定されているもとでも発生する,公正な社会的選好手続きの不可能性を問題にしているといってよいだろう。

センの不可能性定理は,人間が社会という集団的形態をとる場合に最も原始的な形態で発生する社会的選好,したがってまた社会的秩序を形成することの困難を表現している。不可能性の証明にあらわれているように,一貫性のある社会的選好の困難性が直接的に示される。アローの不可能性とは異なり,実現できない事例を示すことによって不可能性が証明できてしまうのである。センの不可能性定理の前提になる自由主義の要請*によって独裁の発生はありえないので,非独裁の要請は不要になる。しかし,そればかりではなく,無関係な選択肢からの独立の要請も不可能性定理の証明に利用されないのである。ここにも,センの不可能性定理のアローのそれと比較した原始性はあらわれている。

このような原始性は,社会的な選好形成における二人をこえる個人に選好決定の優先性が与えられていることによってあらわれるのである。そしてそれが,社会的選好の領域と私的選好の領域の未分離となっているのである。その意味では,自由主義と呼ばれるものは,センが定式化したような要請によって表現されるのではなく,私的選好領域と社会的選好領域の分離という基礎によって表現されなければならないともいえる。

社会秩序の形成における社会的選好領域の分離と自立というのは社会システム*の観点からいうと重要な意味をもっている。社会システムにおいては,その基本的な構造の維持にかかわる社会的選好は私的選好から自立している。その場合の社会的選好とは,マクロ目的のための経済的,社会的政策にたいする選好である。それらは,私的,個別的選好によって攪乱される度合が低ければ低いほど望ましいのである。この望ましさの一面を表現しているのがセンの不可能性定理なのである。

したがって逆に,社会システム化されていない社会においては,私的選好と社会的選好の未分離が許容される可能性がある。たとえば,社会が小規模の相対的に自立した集団のネットワークによって構成されているような場合を考えてみよう。小集団の自立性が高ければ,小集団のあいだに求められる秩序が弱くなる。したがって問題は小集団内の全体的選好と私的選好のあいだの問題である。小集団内の個人の相互の了解を話合いやそのなかの家族的,血縁的秩序などによって自由主義的原理とパレート原理のあいだの対立は弱められるだろう。個人が相互に相手を尊重したり,個人がまた全体の秩序を受け入れるのに柔軟であれば,両者の対立は確実に希薄化する。

4 節 不可能性定理と社会システム   (副目次へ

4.8 選挙制度と公正さの要請   (副目次へ

ここでもう一度アローの不可能性定理にたちかえって,社会システムとの関連を検討しよう。

アローの不可能性定理は公正な社会的選好の形成手続きが存在しないことを証明しているが,一方で,現実には社会的選好は形成され続けている。したがって,アローが要請している公正さの条件は少なくともどれか一つが満たされていないのである。現実的な見方をすれば,四つの要請のどれも完全には満たされないような手続きで社会的選好は形成されていると考えられる。

人々が社会的選好の形成に参加する主要な場は選挙である。選挙制度*にすべての国民が満足するような状況はかつてなかったろうし,また選挙制度が政府の手によって恣意的に変えられたり,投票*の重みが地域的に異なった状態が放置されている現実をみれば,この社会的選好手続きには明らかに欠陥がある。しかし,それらの欠陥とは必ずしも関係のない要因で,選挙の結果に国民の意志が十分反映されていないと感じる人々は少なくないだろう。そして,このような人々の不満の重要な背景にアローの公正さの要請が満足されていない事実があるのはまちがいない。

各要請が満たされない状況を考えてみよう。最も明確なのは,無関係な選択肢からの独立の要請が満たされていないことである。それは,選挙においては,国民一人一人が一票を候補者に投じそれによって政党の順位が確定し政党の順位が政策の順位になるというのが基本的な手続きであるから,かりに選挙の結果,第一党が農産物の輸入化促進,第二党が農産物の輸入拡大阻止,第三党が国際経済環境の改善という政策を掲げていたとしよう。実際に政治家たちがどう動くかは別にしろ,選択肢にたいする国民の意志はこの順であると考えるならば,そこで無関係な選択肢からの独立の要請は無視されているのである。

個人的選好分布の無限定の要請も,選挙の争点というかたちでの選択肢が非常に狭いものにされる,選択肢の重要性に差異をつくり出すことによって実際には満たされなくなっている。たとえば,選択肢そのものが二つにまで絞り込まれると,単純多数決*によって他のすべてを満たすことができるようになることが知られている。そして,選挙の際に重要性が低いとされた多くの選択肢は,選出された議員や政党による相対的に自由な裁量による処理がなされてしまうことになるのである。

パレート原理*についても,確かに国民が完全に一致することがあるのかどうかははなはだ不明確ではあるが,現実の選挙制度のなかでは国民のほとんどが合意するような選好が社会的選好の形成において無視されている可能性は高い。もちろん,その選好にかかわる選択肢が選挙の最大の争点になっている場合は,このようなことはおこらないだろう。しかし,選挙の過程のなかでは全面にあらわれないままになっていて,国民がほとんど一致している選好とは異なる社会的選好が議会や政府によって確認され行使されているものがあることは確実である。

非独裁*の要請については,確かに民主制のなかで完全な独裁者はあらわれなかったかもしれない。しかし,政府やその責任者に大きな権力が与えられていることは事実であり,また彼らが国民の意志から相対的に自立しながら,多様な選択肢にかんして自由に権力を行使しているのを私たちは許容している。それは,現在の選挙制度に内在する公正な社会的選好形成のさまざまな困難性にたいする一種の暴力的な解決として「代表者」*たちへの権力の集中がおこなわれているからである。

社会が社会的選好を適切に形成している限りこれらの要請が完全には満たされていなことを意味しているのであるから,社会的選好の形成が不可欠であると考える限り,私たちは公正さの要請をゆるめざるをえないのである。したがって,このような問題を解決する,あるいは緩和するためには二つの方向がある。第一の方向は,社会的選好を明確にしなければならない領域を狭くするということである。あるいは,社会的選好の切実性を弱めることである。第二の方向は,社会的選好にかんする個人的選好のバラツキを小さくするということである。これは,公正さの要請が満たされないことの問題性を弱めるものでもある。

しかし,これらの解決策は社会が社会システムとして,社会構造を維持するためのマクロ目的を確実に維持していなければならないという状況では実施が困難である。それがかろうじて実現できるのは,小さな自立した小集団の連合というかたちで社会が維持されている場合であろう。人々は,この巨大化した社会システムを維持しようとする限りマクロ目的に支持を与えつづけなければならないのであり,したがってその目的を実現するための選択肢にたいする選好についても支持を与えつづけなければならないのである。そして,まったく逆説的なのではあるが,このようにつねに支持を与えつづけることができるのは,アローの不可能性定理が示しているように,社会的選好が同じ対象にたいする個人的選好から公正な手続きによって形成できないからなのである。もし,社会的選好がつねに同じ選好対象にたいする個人の選好によって一貫性あるかたちで形成されるようになれば,マクロ目的を確実に支持することができなくなるだろう。社会システムにおいては,行政権力の形成する選好にたいする任意性にマクロ目的は守られるのである。

4.9 代表制と社会システム   (副目次へ

民主主義の一つの重要な原理と考えられている代表制*は個人的選好と社会的選好のあいだのさまざまな矛盾を解決する主要な方便となっている。

代表制は一面では,人々のあいだで整合性がとれない社会的選好について専断的な決定を個人に許容するという点で部分的独裁制である。それは社会的選好にかんする公正な手続きのための非独裁以外の要請を,部分的な選択対象について完全に満たすために導入されているのである。アローの不可能性定理をみれば明らかなように,独裁者がいれば個人的選好の分布がどのようであろうとも,独裁者の選好を社会的選好とすればよいのであるから,第一の個人的選好の無限定性の要請と矛盾しない。また,独裁者といえども社会の構成メンバーの一人であるから,社会が全員一致していることについては,社会的選好となるのも確実であり,パレート原理を満たす。他の人の選好がどのようになろうとも独裁者*の選好で社会的選好が決まり,独裁者自身の二つの選択肢にたいする選好は他の選択肢の選好状況の影響をまったく受けないから無関係な選択肢からの独立の要請を満たすことも確実である。独裁者の存在は,多数者の意志が無視される場合があることは確実であるが,これら三つの要請は確実に満たしているのである。

私たちは,代表を選挙の投票によって決める独裁者を選んでいるという意識はもっていない。主要な選択肢にたいする選好については候補者の選好をとらえているので,候補者が当選したあかつきにはその選好を社会的選好とするように努力するだろうと考える。あるいはすでに議員となったものは,再び議員となるために人々の個人的選好の動向にたいする関心をもちつづけているだろうと考えている。しかし,一つは,議員の選好が社会的選好とは直結しないという意味で,もう一つには,議員はその選好についての公約を守らない場合が数多く存在するという意味で,私たちの期待は裏切られるのである。それは,代表者がそれを選出した個人や集団の制約から解放されて部分的独裁者として振る舞っていることを意味しているのである。

もう一面として,代表制*が機能している,あるいは機能せざるをえない状況は個人のもっている選好の整合性,一貫性に社会が頼らざるをえないという事実によって生み出されている。すでに述べたように,社会的選好は完全性と推移性を満たさなければならない。すなわち,どのような選択肢にたいしても選好が明確にならなければならないし,選好のあいだに推移律をおかすような矛盾があってはならない。このような選好の整合性を,選択肢が多数あったりまた複雑なものであったりする場合に,個人のもっている,選好の整合性を確保する能力に依存するのは最も有効な方法である(注10)。

このように,代表制は社会構成する個人の選好の分布から切断したかたちで社会的選好を実現する重要な原理なのである。したがって,それはまた社会システムという構造を維持する重要な手段なのである。集団を代表させることに無理がないといえる場合は,集団そのものが相対的に均質である,あるいは集団形成が偶然であるような場合はその集団が小規模である場合にならざるをえないだろう。

脚注

(1)社会選択論において社会的厚生関数*と呼ばれているものである。わかりやすい表現にしたつもりである。(もどる
(2)ややおかしな表現とみられるかもしれない。これは x \simeq x を意味する。(もどる
(3)直観的には明らかだが,精密な議論を求める読者は,アロー~ ,p.24,補助定理1の(c)および(f),あるいは Sen~ ,p.10,Lemma 1*a. を参照されたい。(もどる
(4)アロー~ ,Sen~ 参照。(もどる
(5)より強く好む(>)以外に等しい(\simeq)やより強くか等しく好む(>eq)もみとめると,この数はもっと大きくなる。(もどる
(6)ここでの証明については,基本的に Sen~ および Sen~ をもとにしている。アローの不可能性定理についての議論は他に アロー~ ,Sen~ ,村上~ ,ライカー~ ,鈴村~ などを参照。(もどる
(7)a が x に等しくて b がいずれとも等しくない場合について,証明の要点を示しておく。グループ G に属するどのメンバー i についても,x >i y >i b が成立し,それに属さないメンバーについて y >j b が成立したとしよう。G の決定性によって x >s y,パレート原理によって y >s b,推移律によって x >s b が成立する。したがって,G は x, b にかんしても決定的である。(もどる
(8)Sen~ ,セン~ ,鈴村~ ,長久~ を参照。(もどる
(9)証明は基本的に Sen~ にあるものに依存している。(もどる
(10)「人々の群衆が,一人の人間または人格によって代表されるときに,もしそれが,その群衆のうちの個別的な各人の同意によっておこなわれるとすればその群衆は一つの人格にされる。なぜなら,人格を一つにするのは,代表者の統一性(unity)であって,代表される者の統一性ではないからである。そして,人格をになうのは代表者であり,しかも,ただ一つの人格である。このようにしてでなければ,群衆のなかに統一性を理解することはできない」,ホッブス~ , p.258。(もどる



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