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「環境と社会経済システム」

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第 4 章 持続する経済停滞と民主主義
  1 節 環境制約と経済停滞
   1.1 新しい型の持続的経済停滞
   1.2 長期経済停滞の諸理論
   1.3 経済停滞の社会内化
   1.4 工業社会の精神的欠陥
   1.5 社会の活力と個人の活力
  2 節 社会システムにおける経済と政治
   2.6 マクロシステムとしての政治制度
   2.7 工業社会における代議制民主主義
  3 節 民主主義論の系譜
   3.8 民主主義的思想の本質
   3.9 ホッブスとルソー
   3.10 シュムペーターの民主主義
  4 節 社会活力の復活と民主政治の再構成
   4.11 直接民主主義
   4.12 地域自立性のある分権的な社会
   4.13 人的依存関係における閉鎖性
   4.14 物質循環の閉鎖性と地域の自立性


第 4 章 持続する経済停滞と民主主義   (副目次へ

この章では,自然環境の利用にたいする制約が引き起こす経済的困難とそれを回避できる社会構造の解明をおこなう。21世紀は,自然環境の保全が必要な水準まで追求されるならば,持続する経済停滞によって特徴づけられる時代となるだろう。しかし,このような持続する経済停滞を現在の社会システムは耐えることができない。現在の社会構造を前提とするならば,持続的経済停滞は,経済と社会そのものを危機におとしいれることになる。経済停滞が奪ってしまう社会と経済の活力を取り戻すためには,個人的な意志と社会的な意志との二重化を克服し,個人の活力を社会が取り上げてしまうような構造を終わらせる必要がある。そのためには,ルソー的な民主主義の復権が必要である。そしてこの章では,権力的で階層的な支配構造を必要とすることなく,このような社会を実現するためには,与えられた自然にたいして相対的に自立した小集団からなる分権的で分散的な社会を樹立することが求められていることを明らかにしよう。

1 節 環境制約と経済停滞   (副目次へ

1.1 新しい型の持続的経済停滞   (副目次へ

次々と捨て場を枯渇させていく大量の廃棄物の発生,および自然からの資源の搾取による環境の劣化や破壊は,すでに事実として私たちの眼前で進行している。

すでにある程度の継続的な環境対策のコストを国民所得*の水準を下げるかたちで支払っているにもかかわらず,環境の劣化と破壊はとどまる様子をみせていない。私たちの前には二つの選択肢が提起されている。第一は,このまま自然環境の利用水準を維持することまたは経済成長*に応じて増加させることを前提に,現在進行している環境の劣化や破壊が人類の生存に与える影響を甘んじて受けることである。第二の選択肢は,環境の劣化や破壊を回避するために,自然環境の持続的利用が可能になる範囲内に経済活動の水準を抑制することである。もちろん,経済にどの程度負担をかけるかによって,二つの選択肢のあいだの中間的な選択がありうることは確かである。

地球的な規模のものも含めたさまざまな汚染,生態系破壊*や廃棄物の大量廃棄などによる人間の生存基盤の劣化の深刻な現状をみれば,人類が第一の選択をおこなうことは困難である。また,経済的繁栄のわずかばかりの犠牲によって問題を回避できる可能性もないといわざるをえない。日本も含めた発達した工業国が自発的にそうするか,状況に強制されるかたちでそうするかは別にして,大きな経済的犠牲を払わなければならないことは確実である。新しい世紀は,世界が,経済的犠牲を決断できないままに環境基盤の劣化を許容するという最悪の状況にならない限り,環境制約からくる持続的な経済停滞によって彩られることになるのである。

すでに世界がその入口に立っている持続的経済停滞は,工業社会*を成立させている基本的な要因である利潤の一般的な実現の困難性をともなうものである。それは,環境の絶対的制約を経済が受け入れることを強制され,それにともない自然環境の利用にかかわる費用が上昇する結果として発生する。技術的な状況の変動や社会の嗜好の変化のなかで利潤と損失を発生させる産業のバラツキはあるものの,平均した利潤の水準は期待される水準よりはいちじるしく低くなる。それによって経済の全体としての成長にたいする原資は貧弱なものとなり持続的な停滞状態に陥ってしまうのである。

このような経済発展のあとにおとずれる長期経済停滞*は過去の著明な経済学者たちが考えてきたものと共通の性質をもつ面はありながらも重要な点で異なっている。共通性は,いわゆる古典派経済学者*の理論とのあいだのもので,経済の全体としての利潤の実現困難性を停滞の重要な内容あるいは原因とみていることである。異質性とは過去の長期経済停滞の諸理論が,経済発展がそれを緩和するいくつかの条件を満たさない限り,停滞への突入が不可避であるという理論であったのにたいし,現実に私たちが直面する持続的経済停滞は経済の内的なメカニズムによって利潤の低下が強制されるわけではないということである。直面する停滞は,あくまでも,経済の外部から経済にたいして環境利用水準を規制するという枠をはめることが原因となるということである。その枠をはめなければ,経済はその内的な動機にもとづいて自由な発展を継続するだろう。しかし,それは人類の生存基盤を破壊するものとなるのである。

その破壊された基盤が,経済にマイナスの影響を与えることはありうるし,また実際それはすでにおこっている。ただ,それが一般的な経済停滞を引きおこすまでに放置されることはありえないだろう。それ以前に,人為的な環境利用の枠がはめられなければならないことは,確実なのであり,それが経済停滞を引きおこし持続させるのである。

1.2 長期経済停滞の諸理論   (副目次へ

私たちの直面する経済の特質を理解するために,過去の長期経済停滞の理論に触れておくことは有効だろう。

工業社会の勃興期に登場した経済学者A.スミスは生産財の蓄積によって経済の規模が増加し社会が豊かになるにつれて利潤が低下すると指摘した(注1)。スミスは,資財の蓄積が競争を激化させ価格の低下をもたらしその結果として利潤が低下する,そしてそれが産業一般の傾向となるとみていたようである。もちろんこのような単純な見方は,現実の競争がもたらす利潤増加のための新技術導入や新規投資への動機づけなどをみれば受け入れがたいが,重要なことは,スミスが経済発展の彼方に利潤の実現困難性*をともなう経済停滞という見方を経済学のなかにはじめて導入したということである。

古典派経済学者のなかで最も優れた理論経済学者の一人であるD.リカードは,人口論で知られているT.R.マルサスの有効需要制約からくる経済停滞論には反対し長期的な工業社会の発展の可能性を指摘するとともに,もう一方で利潤の実現困難性*からくる経済停滞の可能性も指摘していた(注2)。リカードは,経済発展による生産財の蓄積が労働需要を増加させそれが人口の増加をもたらし,この増加した人口をやしなうためにより劣等な土地が耕作される必要が発生し,耕作される最劣等地の費用が食糧価格となるとすれば,実質賃金が上昇せざるをえなくなり,したがって利潤は低下すると指摘した(注3)。ただしリカードは,このような傾向が農業部門の技術革新と貿易によって阻止されることも指摘している。その意味では,リカードの経済発展にかんする主要な見方は楽観的なものであったと考えた方がよいだろう(注4)。

古典派経済学の枠のなかで,古典派経済学自身の最も鋭い理論的な批判者であったK.マルクスは,工業社会における技術選択の傾向が不可避的に利潤率の低下をもたらすと主張した(注5)。その論理は次のようなものである。マルクスは労働価値説*に立っていたので,ある生産物の価値はその生産に要した労働以外の生産財の利用によってその価値が転化した部分と新たに労働によって付加された部分からなっている。前者を死んだ労働*,後者を生きた労働*と呼ぶ。雇用者としての資本家*は,労働者が付け加えた価値以下の賃金しか支払わない。生きた労働部分から支払われた賃金を差し引いたものが剰余価値*といわれ,それが社会的に平均化されたものが利潤となる。生きた労働のなかの剰余価値の割合は一定であるとしよう。しかし工業社会においては,新しい生産技術はつねに生きた労働よりも機械や原材料に体化している死んだ労働の割合が大きなものとなり,生産物総価値のなかに占める剰余価値の割合は低下せざるをえず,したがってそれが社会的に平均化された利潤の割合も低下せざるをえなくなる。そして,マルクスはこのような利潤率の傾向的低下*を工業社会における危機の本質的な背景としてとらえたのである。ただし,これらの傾向を緩和する条件はマルクス自身によって,剰余価値率の変化などが,指摘されている。

マルクスの立論は,工業社会において,労働で測った生産財の価値(死んだ労働)がそれを利用して生産をおこなうのに必要な労働の量(生きた労働)より大きな技術が選択されつづけるという前提を受け入れる限り,主要な傾向として認めざるをえないものになっている。たしかに,直感的には生きた労働を節約する大規模な機械がより大きな割合で生産に利用されていく傾向は認められる。しかし,その機械により大きな労働価値が体化されているとは限らない。逆に資本家が,現在の「価格」で測ったより費用のかからない技術を選択する限り,労働者の実質賃金が変わらないという想定のもとでは,社会的に成立する一般的な利潤率は増大する可能性が高いことがわかっている(注6)。

このような古典派経済学の停滞論に共通するのは,利潤率の低下を停滞の本質的な指標としているだけではなく,なんらかの内的,外的な緩和条件が満たされない限り,その傾向が経済の展開とともに必然的に進行していくということである。いま,この利潤を本質的な指標とするという側面に目をつむって,経済発展が必然的に経済停滞をもたらすという理論を提起した経済学者としては,古典派経済学の時代よりはもっと後の経済学者で経済の集計量にかんする理論をうち立てたJ.M.ケインズがいる(注7)。

ケインズは,経済の発展が豊かな社会*をもたらし,その豊かな社会*では人々が所得の内から消費というかたちで支出する割合は不可避的に低下すると指摘した。すると残りの増大する貯蓄に対応するような需要を生み出さない限り,経済は有効需要不足*に陥り景気が悪化し失業者が増大することになる。しかし,豊かな社会はそれまでに各生産部門にすでに十分な資本が投下されていて,追加的な投資部分の収益率が低いために大きな投資需要が発生しなくなってしまっている(注8)。それは,投資機会が不足していると語ってもよいだろう。このような論理で経済停滞の可能性が指摘されているのである(注9)。ケインズの予言は,その後,政府による積極的な公共投資政策などが,不況からの脱出や経済発展に重要な役割を果してきたことをみれば,当たったといわざるをえない一面をもっている。しかし,アメリカ(米国)などで人々が高い消費性向*をいまだに維持しているのをみる限り,人々の消費性向が経済発展とともに低下することはいまだ実証されたとはいえない(注10)。

これらの経済学者による長期経済停滞の予言のなかで,リカードによるものを除けば,経済の発展が利潤(率)の低下あるいは有効需要不足をもたらす因果関係の系列が,経済のなかで閉じていることがただちに明らかになるだろう。リカードの場合は,食糧生産に必要な耕地がより劣等なところまで用いられるというかたちで,経済外部の要因との関連があらわれているようにみえる。しかしこの場合も,より劣等な耕地*の利用を強制するものは経済であり,それは,技術的進歩がなければ必然的に土地用役にかかわる費用を高めるのであるから,結局,経済の内的なメカニズムの結果として利潤率の低下が引き起こされることを意味している。

これにたいして,今直面している持続的経済停滞の場合,その本質的な要因としての自然環境の利用にたいする制約は,経済への政治の介入すなわち経済政策としてあらわれなければならないのである。この関係は図~F1 に模式的にあらわされているだろう。



図(F1) 持続的経済停滞をめぐる因果関係

経済は自然環境の利用を通してその劣化や破壊をもたらす。それが直接に経済にたいする悪影響も与える。図の直線 R であらわされるものである。たとえば,ある企業が引き起こした大気汚染が,別の企業により強力な空気浄化装置の設置と維持が必要になるという,いわゆる外部不経済*の場合が考えられる。また,その生産物の価格が上昇し別の企業の所得の低下を引き起こす可能性がある。あるいは上流における森林伐採が,下流の農耕地に被害を与えるということも別な例となる。しかし,これらのことが経済の全体的な停滞をもたらす可能性は高くない。先進工業国の経済において,このような環境からの経済への直接の影響が全体的な経済のできばえに影響を与えるようであれば,その環境の劣化と破壊はいちじるしいものになっているだろう。私たちは,そのような水準にいたる前に環境の劣化と破壊の進行をくいとめる手立てをうたなければならないのである。そのための経済政策の実施によって引き起こされる持続的経済停滞が本章の主要な問題なのである。

さらに私たちが直面しているこの経済停滞は,可能性があるというだけの単なる予言ではない。その点でも,過去の経済学者の経済停滞論と異なっている。すでに,環境の劣化や破壊はいたるところ,さまざまなレベルで進行している。すなわち,すでに現段階でも自然環境利用の制限と経済活動の抑制は要請されているのである。現状で経済成長が追求されつづけているとすれば,それは経済停滞を潜在化させより矛盾を累積させているのにすぎない。

1.3 経済停滞の社会内化   (副目次へ

古典派経済学の成果を高い水準で整理した古典派経済学者*であり,また19世紀の偉大な思想家の一人であったJ.S.ミルは長期経済停滞にたいする鋭い論評を残した。ミルは長期経済停滞の状況を停止状態*と表現する。そしてミルは彼以前の経済学者が停止状態を忌むべきものと考えてきたのとは逆に,人間のあり方として大きな改善になる可能性があると断言する。競争と成長がもたらす人間性のゆがみは,停止状態のもとで回復できる可能性があることを指摘している。そしてさらに,もし経済の成長が地球の生態系を破壊し地球に自然の豊かさがもたらす喜びがなくなるほどに進行するくらいなら,みずから進んで停止状態にはいることを人々に要請しているのである(注11)。

まさに,現在,人類はみずから停止状態にはいることが求められている。しかし,世界は自然環境利用にたいする適切で全面的な規制によって,持続的な経済停滞を選択できるだろうか。

注意しなければならないことは,このような選択が,ある時期ある年に一挙におこなわれるとは限らないということである。さまざまな分野にまたがる自然環境の利用規制が,分散した時期におこなわれることによって,徐々に経済的自由がきく範囲がせばめられ持続的経済停滞が進行していくという可能性が高い。たとえば,特定資源の利用に環境保全の観点からの課税がかけられる,特定廃棄物の排出が規制される,などが一つずつさまざまな時期におこなわれることによって追加的な費用が経済に要求されるようになり,生産物の価格上昇や需要の減退が発生する。また,追加的な投資にたいする収益率が,その生産資財を稼働させるためにかかる費用の高さのために低下することによって,投資の規模そのものが縮小する。また,世界的な環境利用の規制によって,輸入資源や輸入財の高騰,あるいは輸出品にたいする環境保全のための高い基準が要求されるようになる。このような事実の一つ一つの積み重ねが,経済停滞への後戻りできない歩みになってきつつあるのが今日の状況なのである。

このような自然環境の利用規制は,それぞれをとってみれば,技術的な改良によって経済全体の進行に重大な影響を与えないようにすることが可能な場合もありうるだろう。しかし,問題はそれらの全体的な進行は必ず経済から成長,発展の潜在能力(ポテンシャル)を奪うことになるということである。なぜなら,自然環境の劣化と破壊を回避するためには,自然環境とのあいだの物質的なバランスを回復し,少なくともそれを維持しなければならないからである。すでに,環境の劣化が地球的規模で確認される現状では,単なる回復と維持ではなく,より積極的な自然環境の再生のためのプロジェクトが要求されるような現状になっている。したがって,自然環境利用にかかわるさまざまな分野の技術が一般的に進歩しない限り,経済に成長と発展の自由は与えられない。そして,過剰な環境利用の現状をみれば,このような一般的な技術進歩*はひどく困難であるといわざるをえないのである。

したがって,環境制約からくる持続的経済停滞は,通常の景気循環の不況局面であるかのような装いをとって登場するのである。また,その不況局面は一時的にある程度回復をみせる可能性もある。しかし,回復してもその活況が十分高まらずまた短いものに終わり再び停滞局面にはいるというようなかたちで,持続的経済停滞は私たちの世界にはいりこんでくるのである。そして,持続的経済停滞においては通常の景気循環*の停滞局面がしめすものと同じ現象があらわれる。社会的生産における付加価値生産力が低下し,国民所得水準は停滞ないしは低下するだろう。また,企業の雇用意欲は全体として低下し失業者は増大する。弱小企業の倒産も増加する。それらは,人々の現行の経済制度にたいする不信を増加させざるをえない。もちろん人々の理性が十分発揮されれば,このような問題を事前に回避する手立てがとられるかもしれないが,それはまず容易ではなく,また対策は問題が発生してからとられるものと大きくは異ならないだろう。

ただし,通常の景気後退局面と現象が一致するのは,このような直接的なものに限られる。持続的経済停滞においては,停滞がほとんど常態となるという点で,通常の経済停滞*とは決定的に異なってくるのである。人々は,その経済停滞が通常のようには回復できないことを理解せざるをえなくなるだろう。通常の景気循環の一局面ということであれば,いずれ経済は成長,発展の道にもどるということを前提に運営されればよい。たとえば,失業者の増加も一時的なものであり,いずれ景気回復によって雇用機会が十分供給されることがわかっているならば,政策としては失業給付*の充実や一時的雇用機会の創出*が重要な意味をもち,過剰雇用を早急に解消するのが多くの企業にとっての課題とは必ずしもならないだろう。しかし停滞の持続が一般的な認識となるならば,政府も,企業も,労働者も,雇用と生活の維持のために異なった行動をとらざるをえないことは明らかである。

企業の倒産や,新規企業の育成にたいしても持続的経済停滞を前提とした対応をしなければならない。消費生活についても自然環境利用強度の高い消費生活は同時に費用のかかる生活様式とならざるをえなくなる。また,自然環境利用強度の高い産業も淘汰されざるをえない。そして,停滞経済にふさわしい産業構造が形成されていくことになるのである。

このような,経済停滞を社会的に内化する過程が困難な過程となることは,十分予測できる。それは,景気循環局面において,社会がヒステリックに現状の問題を叫び,経済界の代表者たちは政治家たちの尻を叩き,その無能さを声高に告発するのをみれば理解できるだろう。もちろん,それらの背景には,単に企業の利潤の実現困難性や遊休設備の問題だけではなく,失業*や中小企業の倒産*などによって生活苦に陥ってしまった多くの人々の声が反映している面もあるだろう。

経済的停滞は,ただそれだけで,利潤の一般的な実現困難性が発生している状況であり,経済の活力,したがってまた社会の活力を生み出す源泉を失っている状況である。さらに,この停滞が持続的なものとなり,実現する利潤が低下し必要な利潤の発生があったとしても一時的なものとならざるをえないうえに,停滞を内化するために社会が失業者の救済や産業構造の改革によってより多くの経常的な費用を払わなければならないということになれば,事態の深刻さははなはだしいものとならざるをえない。

それでも,この持続的経済停滞の社会的内化*をどのように実現するのかは世界が直面する,とくに先進工業国が直面する最重要課題の一つなのである。

1.4 工業社会の精神的欠陥   (副目次へ

ミルは,現在よりもはるかに優れた社会状態が経済の停止状態と両立するものであると喝破した(注12)。しかし,私たちの社会がそのような選択をすることには大きな困難が予想される。そのもっとも重要なものの一つが工業社会で生産をになう主要な主体である企業が経済停滞のもとで活力を失うということである。企業が活力を失い雇用意欲を減退させることによって,失業者が増大し,経済主体としての労働者がまた活力を失うことになる。工業社会*は,経済によってつくられている社会であって,その構成員の生活に占める経済の割合が圧倒的に大きい社会であることを考えれば,経済の活力の喪失はまた,この社会の活力の喪失である。

企業の活力の低下は,一種病的な経済状況をつくり出すだろう。この病的であることの意味をより詳しく述べるまえに,持続的停滞状況における利潤*について予想されることを明らかにしておく必要があるだろう。

この経済停滞状況下において,利潤の実現困難性*があらわれることはすでにくりかえし指摘したところである。それは,経済全体の成長を可能にするほどに自然環境の利用が許容されなくなるところからくる。社会的にみて,経済の規模を増大させるような環境利用の動きは,費用の高騰によってすべて吸収されてしまうのである。もちろん,ある企業が生産水準を低下させたり倒産することによって環境利用の余裕が発生し,別な企業における規模を拡大させる純投資を可能にするということはおこりうるだろう。しかし,社会全体として平均すれば,経済規模の拡大が困難になる。その結果として,個々の企業における需要不足と生産物価格の低下や設備の稼働率の低下による生産費用の増加が,平均利潤率を投資を困難にするほどの低い水準に低下させてしまうのである(注13)。

もちろん,それは必ずしも,利潤が完全に失われたりしなければならないということではない。また,利潤は結局は所得になるが,それは必ずしも貯蓄され投資の原資としてすべて用いられるというものではない。消費される部分も,あるいは公共的な利用にまわされる購買力部分も存在しているのである。しかし,経済停滞を内化させていく過程では,失業者にたいする追加的給付や,雇用水準が最適水準を上回ることを受け入れざるをえなくなり,利潤部分をこのような費用に追加的に用いなければならないなどの状況も発生する。このような意味でも,利潤の実現は困難になるが,利潤がゼロとなり私企業が成立しなくなることは必ずしも意味していないのである。

経済が持続的な停滞状態にはいる初期においては,景気循環*のように経済全体が不安定状態になるだろう。しかし,社会が全体としてこの経済停滞を内化するにしたがって経済は定常的な停滞状態に移行していく。利潤率は低くなるだろうが,このような経済状態は持続可能性をそなえている。単に環境との関係で持続可能だというだけではなく,経済の内部的機能においても,決定的な障害が発生しないようにすることは可能だろう。しかし,この経済停滞の持続がこのようなかたちで実現するとは限らないのである。そこで,先に述べたような病的な状況が発生する可能性があるのである。

病的な状況*とは,経済は定常的に持続可能な構造と潜在能力をもっているにもかかわらず,全体的な生産が必要以上に縮小していくことである。利潤の低下が企業家精神*を失わせ,困難を克服しながら企業そのものを持続させていく力が失われ,企業規模の縮小や企業からの資金の撤退が過剰に進行することを意味する。それは,利潤率の水準が低すぎて企業が予測する不確実性とそれにともなうリスクを十分にカバーできなくなっているのだなどと,合理的な説明を下されてしまう可能性もあるが,ここでは必ずしもそのようなことを意味していない。そのような意味でのリスクがどれほどの費用として評価されるかいなかにかかわらず生じる可能性のある企業活動の縮小が問題なのである。

これは企業が高い利潤率によって活気づけられることのちょうど逆の現象になっている。高い利潤率は,企業の将来の高い収益率にたいする予想を生み出すだけではなく,企業家の非合理的な意欲,衝動を生み出す。このような衝動が,将来の収益についての確実な予想が必ずしもできていなかったとしても投資をおこなおうとする動機となるのである。それは,ケインズのいう「血気(animal spirits)」*に対応するものである(注14)。もちろん,ケインズは現在と将来が関係づけられることが不可避である,投資の問題と関連して主要に述べているのであるが,企業家の自発的意欲の重要性は企業活動全般に適応されるべきものである。

経済が持続可能な経路をもっていながら,企業の活力が失われることによって経済が消費財の供給すら困難になるという意味での病的な状況は,工業社会の精神的な欠陥をあらわすものである。ここで精神的な欠陥*とは,工業社会の主要なにない手としての私企業が技術的な困難によって活動力を低下させるのではなく,精神的な萎縮によって社会的に期待される生産を放棄する現象をさしている。そしてそれは,工業社会が全体としてもっている精神の構造のなかに位置づけることによって,より理解を深めることができる。

工業社会の活力の源泉となる精神は二重構造*になっている。一つは経済成長という動機を受け入れる精神である。これは個々の経済主体にかかわるものではない。経済構造を主要な内容としている工業社会においては,社会全体としての精神である。経済成長を社会の進歩*としてとらえ,その進歩に向かって社会を指導しようとする精神である。それは明らかに経済にかかわる精神であるが,経済主体によってになわれる精神ではない。政治的な精神であり,また国家的な精神であるといってもよいだろう。そして,この精神が高揚していることは,社会に活力があることの象徴となる。社会システム*という視点からみれば,この精神の発露がマクロ目的そのものである。

もう一つは個別の経済主体の動機を内容としている精神であり,消費者としての個人の経済的な精神もあるが,主要なものは企業の利潤追求を内容としている精神である。それは予想されるように,個別経済主体の活力を支えている精神である。そして,ミクロ目的はこの精神の発露にほかならない。

この二つの精神は,工業社会のなかで相対的に自立しながらも,強い依存関係にある。一つ明らかなことは,個別企業の精神が失われるならば,少なくとも工業社会的な原理においては,社会的な精神が生きながらえることは不可能である。持続的経済停滞下の社会においてはこの逆方向の関係が問題になっている。この新しい経済停滞現象のもとでは,経済成長で測った進歩を希求する社会的精神の萎縮がより規定的な役割を果たす。なぜなら,絶対制約に直面しているのは経済進歩*だからである。構造としてみれば,この絶対的な制約が個別企業の利潤の社会的な平均水準を規定しているのである。したがって,社会がまず確実に失い,かつそのことが明瞭に認識できるのは,社会的精神である。しかし,この社会的精神の喪失*は,個別企業家たちに利潤にたいする幻想を失わせることになるだろう。強靭な個別精神のいくつかは,このような限界を認識してもなお果敢に闘うかもしれないが,一般性はもたないだろう。個別企業の精神を支えていた,利潤追求にたいする社会の是認が失われることも重要な要因となる。それは,会社人間*であることの意味が失われ,家族からも地域からも会社人間であることによって許されてきたものが失われていくサラリーマン*ン}のようでもある。

一つの精神が社会に浸透していることは,それ自体が欠陥を意味するものではない。工業社会*においては,社会の精神構造が二重化*し分裂してしまっていることによって病的な状態*が発生してしまうのである。このような状態は普通の健康な個人には発生しない。かれは,ただ一つの整合的な精神によってかれ自身の行動を導くだろう。そして,あたかも一個の個人のように振る舞える,個人の精神と全体の精神が統合された一貫性のある精神を全体の行動原理とする集団においてもこのような病的な状況は発生しないだろう。しかし工業社会においては精神が二重化し,一方の精神の困難はもう一つの精神にも困難を引きおこし社会的精神の全体構造そもののが崩壊するのである。

1.5 社会の活力と個人の活力   (副目次へ

二重化した社会の精神構造のもとで,持続的停滞に経済が陥ることは社会を全体として動機づける精神と社会構成する個別主体を動機づける精神がともに失われることを意味している。したがって,それは社会としての経済が活力を失うとともに,企業や消費者や労働者としての個人などの個別経済主体もまた活力を失うことである。このような状態は,社会あるいはその人格化された表現としての国家にとっては深刻な危機に見舞われた状態である。だからこそ社会あるいは国家はこのような危機を可能な限り回避しようとするのである。このような危機回避が,自然環境利用にたいする必要な規制を回避することであるならば,それはここで問題にしているような持続的経済停滞の問題ではなく,人類の備えている理性の信頼性*の問題になってしまう。

持続的な停滞経済のもとで社会や個別経済主体が活力を失うということは,社会がそれをひどく恐れていることにもあらわれているように,ありうべきこととして理解できるのであるが,視点を変えるとそれはひどく奇妙なことでもある。なぜなら,本来,社会の活力といわれるべきものは,結局はその社会を構成する個人の精神的,肉体的能力の一部にすぎないのであり,それらの個人の能力は社会が持続的停滞にあるとか経済的に成長し進歩する状態にあるとかとは無関係のはずだからである。

社会の活力が失われることによって,生産活動への個人の参加の程度が低下する。それはある個人にとっては労働時間が意図しないかたちで短くされることであったり,失業者となって生産活動への直接的な貢献が失われたり,自営している企業の活動を停止したりすることなどを意味する。生産活動に直接参加する時間が少なくなっても,彼が自由に生命活動を発露する時間はそのまま残っている。あるいは,労働というかたちで拘束されていた時間から本来の自由な時間を回復するといった方がよいかもしれない。つまり,経済が停滞しようがしまいが,生命活動の自由な発露としての個人の活力にはまったく関係ないのである。

ただ,個人の活力は失われていないから,個人にはなんの問題も生じないということではない。労働時間が減少したり失業者になったりすることによって失われる,生活の原資としての所得の問題がある。工業社会において,生活資材をえるための所得は社会が許容する経済活動に参加することをとおしてしか,確実にえることはできないような仕組みになっている。経済停滞によって,失業者になったりみずからが経営する企業が倒産したりすれば,そのことによって失われる所得はみずからの責任の範囲の問題でしかなくなる。しかし,本来経済が持続的停滞状態にあることはその個人の責任ではまったくないのであるから,所得を失った状態を社会が放置することは当然許されない。私企業が責任をとって企業活動を放棄することは,必要かもしれないが個人にまでその原理を適用することはできない。このようなかたちでの所得喪失にたいする救済は社会の当然の義務なのである。

ただし,このような持続的経済停滞のもとでの失業や企業活力の低下を,通常の景気循環の一局面としてあらわれる経済停滞と同じようなものとして考えることは問題がある。というのは,持続的な経済停滞が社会内化*していく過程では,企業の人々にたいする求心力は現在よりもはるかに小さなものになってしまっているだろう。企業は平均すれば活力を低下させてしまっている。そして,企業は経営者と一般労働者を問わず生活資材を獲得する手段でしかなく,人の創造的能力を駆り立てる夢を供給できなくなってしまっている。また,頂点に立つ経営者から階層的な支配構造*を維持するような企業では,企業が拡大する可能性がいちじるしく低下しているもとで,低い階層にいる労働者がその地位を改善する可能性もまた同じように低くなる。企業社会の没落*である。

このような企業の人々にたいする求心力の低下は,より根本には,経済というシステムにたいする人々の信頼や敬意そのものが失われることの一つのあらわれである。人々は,自己の生活を成立させるための経済への依存度を低下させるだろう。解放された労働力による自発的で自由な労働の供給を前提にした,必要な生活資材やサービスを獲得するための自立した小集団や比較的狭い地域のなかでの生産と消費の簡潔性を重視するようになる。それは,社会のなかでの経済の比重が低下せざるをえないことを意味している。

2 節 社会システムにおける経済と政治   (副目次へ

2.6 マクロシステムとしての政治制度   (副目次へ

ここで,社会システム*という視点からみた政治と経済の一般的な関係をとらえておこう。

まず,社会システムの基本的な構造は経済が規定していることを確認しておこう。それは,人が生きるためにはまず衣食住にかかわる生産による財が必要であるからなどという,素朴な意味ではない。社会そのものが,社会システムにおいては経済剰余の生産のために構造化されているということなのである。社会システムにおいては,人々に衣食住のための財を供給することが社会の構造を規定している動機ではないといういうことである。剰余*の生産は,工業社会においては個別経済主体の利潤と社会的な経済成長能力の実現である。すなわち,社会システム化された社会は剰余という経済動機が社会構造を規定しているのである。

読者は,ではなぜ,社会はそのような経済的動機に支配されてしまっているのかが問題なのだと,あらためて問うかもしれない。しかしそれは一つの歴史的現象であって,人類は自然の物質循環*に介入するような農業を開始する時期から,剰余の生産に支配された社会システムという構造によって社会を形成するようになってしまったのである(注15)。そしてその社会システムは自己再生的に維持され,現在の工業社会まで連綿とつづいてきたのである。

このような社会システムにおいて政治制度*はマクロ目的*クロ目的}の担い手になりマクロシステム*クロシステム}であることを本質として成立する。これは,常識的な政治制度の定義とかなり違っている。つまり,従来,政治は一つの自立した制度としてとらえられてきた。たしかにそのなかにはマルクス主義*ルクス主義}による,下部構造に規定される上部構造などというとらえ方のように,政治制度が経済に規定されているという議論はあった。しかし,ここで指摘しているのは政治制度というのは経済的な目的の担い手であることを本質的な内容としているということである。古典的世界では,政治には経済から独立に君主や人民全体といったちがいはあっても主権者*が存在し,その主権者の意志によって政治が機能しているとしてとらえられてきた。しかし,社会システム化した社会において, 「主権者」の意志があるとするならばその主要な内容は社会的な剰余の増加でなければならないのである。もちろん,政治は経済的色彩の強い政策から経済とはあたかも直接には関係しないような政策まで実施する。そのことが,政治の経済的機能の本質性を見落とさせる要因になるが,政治の主要な部分は直接・間接に経済的機能ないしは経済的意味をもっているのである。

このような政治制度は,直面する持続的経済停滞においてどのように機能し,どのような役割を果たしうるだろうか。まずいえることは,持続的経済停滞にいたる経済による自然環境の利用規制は政治的な決定によっておこなわれなければならないということである。個別経済主体にそのような決定をおこなう能力はないのである。しかしもっと重要なことは,持続的経済停滞においては,政治制度の本質を構成しているマクロ目的そのものが機能しなくなるということである。というのも,経済の成長が困難になるからである。それでは,政治は死んでしまうことができるかといえば,決してそうではない。

持続的停滞の開始は,先にも述べたように経済に病的な状態を引き起こす。すなわち,持続的停滞が定常的に進行しながらも,社会に必要な財を供給しつづけることは技術的にも制度的にも可能であるにもかかわらず,社会的な精神*および個別経済主体の精神の過剰な萎縮によって,経済そのものが崩壊してしまうのである。これを回避する究極的な力は,失われることのない個人の活力,その精神的および肉体的な能力にあり,それを吸収し組織しうるのは政治をおいて他にない。ここで,経済から自立した制度としての政治が重要な役割を果たさなくてはならなくなるのである。

必要ならば,政治は人々の意志に裏づけられた強制力を行使して生産を動機づけまたある程度直接組織せざるをえなくなる。また,生産水準の低下に伴う失業や労働時間の短縮によって労働者が失う所得を,新たな雇用機会,労働機会の確保や公的な支出によってある程度補償すること,産業構造や金融制度の調整,市場と価格への介入などによって,持続的経済停滞を社会内化*し定常性を回復するための必要な政策をとらなければならないのである。これは,社会システムにおける新たなマクロ目的の構成,マクロシステム*クロシステム}の新たな内容形成である。

政治がこのような新たな役割を果たすうえで次の二つの条件が考慮されなければならない。第一は,個人の活力を吸収し組織するための制度の問題である。工業社会においては,社会の活力は経済を通してうまく発揮されていた。個別経済主体の活力があり,その活力を源泉にしながら経済はマクロ的にも活力をもっていた。そして,この経済的活力が政治的活力の内容でもあったのである。これは,工業社会における政治の活力が主権者としての人民の委託から生まれたというような単純な考え方は受け入れられないことを意味している。逆に,工業社会における民主主義*は,政治権力がマクロ目的*クロ目的}にそった自由な権力の行使を可能にすることが前提になっているという意味で,限定されたものなのである。したがって,持続的経済停滞においてそれを社会内化する力をもった政治制度を構成するための原理,それはまた民主主義の一つの形態とならざるをえないだろうが,その原理がどのようなものであるかが明らかにされなければならない。

第二に,個人の市民的な自由と停滞経済における政治的な権力の行使をいかに両立させるのかがまた問題にならざるをえない。工業社会においては,経済的な自由を重要な内容とする市民的自由*をはめこんでミクロシステムが成立していた。そして,この自由と整合的なマクロ目的をマクロシステムとしての政治制度を構成してきたために,自由と政治的な権力的な支配構造が両立しうる条件があった。しかし,停滞経済における政治権力は経済的な自由にたいする直接の制限としてあらわれざるをえない。個人や企業の個別主体にたいする経済的な自由の制限は市民的自由の基本的な内容にたいする制限であり,それには個人の自由一般にたいする制限をもたらす危険性も存在している。したがって,経済的な自由にたいする制限を可能な限り回避するとともに,それが個人の自由一般にたいする制限に拡大されないような政治制度のあり方が同時に明らかにされなければならないのである。

2.7 工業社会における代議制民主主義   (副目次へ

問題の回答を性急に引き出す前に,工業社会における政治制度の構成原理としての民主主義がどのような特質をもっているのかを具体的に把握しておこう。

工業社会における政治制度*が,経済から独立に人々の意志によってつくり上げられているというのは,その手続きからだけみた見方で,本質をとらえていないということはすでに指摘した。政治制度は,経済のマクロ目的を実現する制度として成立していることは,工業社会が社会システムであることに規定されているのである。またそれは,工業社会以前の社会システムである農業社会*から継承したものである。農業社会は,社会的な剰余を農業生産部門だけでとらえる社会であった。農業社会では,歴史的にみればマクロシステムの担い手が政治的な権力を集中させていた一人の人間であることが多かった。それは王あるいは君主であり,領主*であった。そして,農業社会におけるこれらの集権的な制度の本質的な内容もまた,農業剰余*の最大実現という経済的なマクロ目的の実現だった。この経済的に要求された集権性はさまざまな神話*,宗教*,イデオロギー*を利用し非現実的信念を人々に抱かせることによって,個別経済主体のさまざまなミクロ目的からの相対的な自立性を保っていたのである。

工業社会にはいって個別経済主体の経済的自由が拡大し,この拡大した自由や平等性を前提にしながら,マクロシステムとしての相対的自立性を確保することが,社会システムが近代化されるうえでの重要な理論的課題だった。この課題に答えるかたちで登場したのが近代の民主制である。マクロシステムであるからには,それは縦の階層的な支配構造*とその頂点に立つ自立した権力を維持していなければならない。これを個別的な一般的自由と両立させる理論の構築は,かなり困難だったと思われる。これが歴史的にどのように実現していったかは次節でみることとしよう。

ここで確認すべき工業社会における民主主義*の重要な特徴は,マクロシステムのミクロシステムからの相対的自立が代表制*と多数決制*という二つの手続きにかかわる原理によって実現していることである。ただし,ここで多数決制というのは,より多く支持された人やことがらがより尊重されるという意味であり,必ずしも一対の選択肢にたいする投票という意味とは限らない。このような民主主義を代議制民主主義*と呼ぶ。

代議制は,二つのシステムを切断する巧妙な工夫である(注16)。代表*とはある社会集団全体を一人または少数の人格に擬制することであり,一般的な意味しかあらわしていない。代表のなかには単に集団の全体性にたいする象徴的な意味しかない場合もあれば,もっと実質的な機能をもつ場合もある。実質的な機能として,集団の個々の構成員にたいして強制力を行使する力をもつ場合には,その権能がどのようにして与えられているのかが問題にならざるをえない。与えられ方として自然なものの一つは,集団の完全な意志,全員の一致した意志として代表者に与えられていることが考えられる。もう一つは,投票によるものであり,一般には多数決によって代表者を決定することによって与えるものである。そして,工業社会では一般に後者によって代表者の権限は付与されるのである。

多数決*によって決定された代表者が,多数者の意志*を忠実に反映しているのであれば,人々の民主主義にたいする一般的な期待を裏切るものであるとはいえないだろう。しかし,日本においてそうであるように代議制民主主義における代表者は必ずしも多数者の意志を尊重して振る舞おうとしないし,またそのように振る舞うこともできない(注17)。代表性は人々の意志が一様で全員一致が可能な状況から離れていればいるほど,人々の意志のあいだの合理性や一貫性のなさを,強制的に一挙に解決するものとなる。このことの意義が大きいのである。代表者は,ある特定の焦眉のことがらにたいする支持の多数をふまえることはできるだろうし,またそれを尊重するように世論は注目するだろう。ところが,経済や社会の規模が大きくなればなるほど,その一般的な管理のために意志を明確にすべき事項は数多く存在し,それらの事項は相互に関連をもっていて,ある一貫した意志のもとに制御されるべきだと誰もが考えている。しかし,人民はある単一の事項にたいする支持の多数を投票において表明することはできても,多数の事項にたいする目的整合的な一貫した意志を投票によって表現することは不可能なのである。

たとえば,単純な例を出せば,人民は環境保全の政策を強化したいという意志をもっているが,雇用を確保し所得の増加のためにも経済は成長すべきだと考えがちである。とくに,個人の利害と社会の利害のあいだの整合性を人民の意志が全体として実現することは困難である。もちろん,さまざま意志と利害を調整することがいつでも不可能だということではない。整合的な意志を,選挙*という過程のなかで表明することがほとんど不可能なのである。したがって,そこには選出された代表者が選出した人民の意志*から独立に自由に振る舞うことになる可能性がいちじるしく大きくなる。もちろん,選挙において焦点となった事項にかんしても,代表者が多数者の意志を尊重しない場合もよくあることで,そうなれば,代表者は人民の意志*というフィクションを悪用した一人の独裁者に限りなく近づいていくことになる。

日本の国会議員のように選出された人民の代表者がある程度の数存在し,それらがまた首相という代表者を選出するのであれば,このような人民の意志からの隔絶はより完全に近いかたちで実現することになる。首相という「国民の代表者」は,ほとんど国民の意志からは独立に,マクロ目的*クロ目的}を実現するための政策の遂行という任務に没頭する。

代表者が人民の意志に従わないかたちで行動していれば,次の選挙において代表者として選出されないので,選挙された後も人民の意志を可能な限り反映する努力を代表者はするだろうという考え方があるが,それは誤っている。次回の選挙においても,人民は全体としての整合的な意志を表現することができないことは,わかっているのである。したがって,次の選挙はまた,そのときの人々のあいだの整合性のない意志の分布につけこんで,再選を勝ちとろうとするだけなのである。

このような代議制民主主義のもとでは,政治が個人の活力を吸収し生かすことができないことは明らかだろう。政治的領域における個人の精神は萎縮していく。それはまた,社会における経済の比重の高さ,したがってまた個人の生活における生産や消費といった経済にかかわる比重の大きさとちょうど対応しているのである。持続的経済停滞によって個人の経済的活力が低下し,そこから解放されればされるほど,人々の政治的領域,もっと一般的には社会の公的領域に個人の活力が発揮されることが求められるようになる。このとき,代議制では,活性化した個人の政治的,公的生活を生かすことはできない。代表者に吸収されないような精神を個人から吸い上げていく新しい政治制度が必要とされるのである。

3 節 民主主義論の系譜   (副目次へ

3.8 民主主義的思想の本質   (副目次へ

民主主義*には,現象形態としての政治的な手続きだけではなく,その背景にあって手続きがそなえるべきものを規定している本質が存在している。そして,人々が民主主義に支持を与えているのは,個々の手続きではなく,その本質にたいしてである。もちろん単なる用語としてみたときの民主主義は手続きをあらわすことも少なくない。しかし,ある社会の政治の構成原理としてみたときは,民主主義には手続きをこえた抽象的な理念がつきまとってくるのである。

民主主義の本質*は,もっとも洗練された現代的な姿においては「社会を構成する平等な個人の全体による社会そのものの支配」である。まず,最大多数者による支配では,相対的な少数者の抑圧が合理化できるが,これは民主主義の理念と必ずしも一致しないだろう。人民の支配という場合も人民に属さない少数の個人がいる場合には「人民」という語の正当性があらわれる。しかし,人民が平等な全体をあらわすならば,あえてその語を用いずに,私のここでの定義の方が妥当であるだろう(注18)。

この定義の抽象化の度合はかなり高い。したがって,解釈のしようによってはさまざまなものが民主主義的なものとなる可能性も否定できない。「全体による支配」*といっても,どのような状態でこの全体性への依存をみとめることができるのかが当然問題になる。単純に意志的な問題,つまり人民全体の意志と支配者の意志の共通性ということととらえてしまうと,軍事クーデターで成立した政権もまた人民の意志によって成立し民主主義的であるといわれてしまいかねない。したがって,民主主義は政治的な手続きの問題に関連して考えるべきである。つまり民主主義の理念は,現象的には政治的な決定のための手続きの選択においてあらわれるべきものなのである。その手続きにおいてすべての個人が平等に扱われているか,あるいは全体への依存のための手続きが存在しているかなどが注目されるべきだろう。

民主主義の本質が,単に抽象的であるのにとどまらず,現実の政治制度において,それを導く有効な理念と必ずしもならないのには,一種の歯がゆさを感じる読者もいるだろう。考えなければならないことは,民主主義の本質は理念として存在するのであり,理念は人々の共感があってこそはじめて力を発揮するものだという点である。したがって,民主主義を有効にするのはその理念を積極的に実現しようとする人民の意志と運動でなけばならない。それなしには,民主主義の理念はいつまでも力を発揮することにならないだろう。

3.9 ホッブスとルソー   (副目次へ

歴史上成立した政治制度としての民主制は多様な形態をもってきたし,また現代の民主制もそうである(注19)。私たちが注目すべきは,この多様な民主制の形態のなかにおける個人の全体と支配の能動的な主体のあいだの関係をめぐる差異性である。民主制においては,一般に能動的な支配の主体はその社会を構成する個人の全体から相対的に自立してあらわれているのは共通しているようだ。ただ,この自立の程度については,高いものと低いものを認識することができる。いずれにしても問題は,「能動的な支配の主体が成立すること」と民主主義の本質*であるところの「個人による全体の支配」がどのように両立しうるのかである。

17世紀のヨーロッパで,民主制の理論を構成する作業がT.ホッブスの著作『リバイアサン』によって開始されたといわれる。ホッブスはそのなかで人間は自然状態*において「万人にたいする万人の戦争状態」が発生すると指摘する。そして,人々は自然法*に導かれ共通の利益のための共通の権力を構成するという,仮想的な前提にもとづいて,その権力の構成原理を示したのである。ホッブスは次のように述べる。

かれらのすべての権力とつよさを,ひとりの人間または人々のひとつの合議体にあたえることであって,そうして,多数者意見によって,かれらすべての意志をひとつの意志とするのである。そのことは,つぎのようにいうのとおなじである。すなわち,ひとりの人間または人々の合議体を任命して,かれらの人格をになわせ,また,こうして各人の人格をになうものが,共通の平和と安全にかんすることがらについて,みずから行為し,あるいは他人に行為させるようにするあらゆることを,各人は自己のものとし,かつ,かれがその本人であることを承認する。そして,ここにおいて各人は,かれらの意志をかれの意志に,かれらの判断をかれの判断に,したがわせるのである(注20)。

ホッブスの政治的な論理がここに語られている。そして,ここでもっとも注目すべきことは,権力の担い手と社会を構成する個人の全体が「一つの意志」すなわち個人の意志の全体ではなく個人の全体の意志,共同の意志を媒介にしながら関係づけられていることである。すなわち,社会を構成する個人の全体は共同の意志を形成しその人格的な担い手を任命しすべての個人がこの人格の支配にしたがうというのである。ホッブス自身は,このような理念によって構成される政治体制には,代表する人格がひとりである場合として君主制*をあげ,この人格が自由に参加することのできる合議体によって人格が担われているものを民主政治と呼んだ。したがって,そこにはその当時の歴史的状況を反映して,君主制を理念的に合理化する内容も存在するのであるが,現代的な民主主義の理念*の萌芽が明確に述べられているのである(注21)。

このようなホッブスの論理を引き継いで,現代の私たちの視点からみてより完全な民主主義のあり方を構想したのがJ.J.ルソーである(注22)。ルソーは『社会契約論』のなかで,自然状態を社会状態に変え,自然的自由を社会的自由に変え,占有を所有権に変える社会契約*を一般意志*概念を用いて次のように表現している。

われわれのおのおのは,身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指揮の下におく。そしてわれわれは各構成員を,全体の不可分の一部として,ひとまとめとして受けとるのだ(注23)。

このように,社会契約の核心部分に登場する「一般意志」の理念はホッブスの「一つの意志」にちょうど対応する。この二つの意志は,主権者の共同した意志でありそれにもとづいて社会の法的支配が実現するという点では共通している。しかし,ホッブスの理論とルソーの理論を政治制度の構成原理としてみた場合に,もっとも重要な違いは,ホッブスが社会を構成する個人の全体と共同意志にもとづく能動的な支配の主体のあいだの相互の自立性を認めていたのにたいして,ルソーは両者の一体性にこだわりつづけているということである。ホッブスの場合は,彼の政治原理にもとづいて君主制*が成立することもあるとし,主権が代表されうることを前提にしている。しかし,ルソーは主権が代表されることを否定し,社会の構成において,個人と全体が対立することを許さないことで徹底している。

ルソーは,社会があたかも一人の人間のように統一性,一貫性を保持しながら自己を維持するという像を表現しつづけている。これを支えるルソーの論理は,二つの部分から構成される。まず第一に,社会を構成するすべての個人は,自己をその権利とともに共同体の全体に譲渡する。この過程は,先の引用にもあるようにホッブスと共通であり,またその後のJ.ロックとも共通するところである(注24)。ホッブスによれば,このような力の譲渡こそ統治者の権力の源泉であり,人々はこの失った力によってその支配を受け入れることになるのである。目を転じると,現代の民主制においても,各個人が法の支配,行政権力の支配を受け入れるのは,各自が失っている力の分だけである。いいかえれば,支配と従属の関係において支配する権力は従属する主体が受け入れることによって発生するのである。したがって,政治的構造を構成するうえでは,このような各自の力を譲渡するための条件そのものを明確にすればよいようにも思える。しかし,ルソーはこれにとどまらない。

第二に,ルソーは結局この個人そのものと力の譲渡は,各自が相互に与え合うことを意味するにすぎないから,少なくとも与えた力と同じだけ,あるいはそれ以上を受け取ることになるという。

自分が譲りわたすのと同じ権利を受けとらないような,いかなる構成員も存在しないのだから,人は失うすべてのものと同じ価値のものを手に入れ,また所有しているものを保存するためのより多くの力を手に入れる(注25)。

すなわち,ここで明らかになることは,ルソーが力を譲渡すべきだとした相手は,その個人の外部にあって,彼と対立するような主体であってはならないのである。譲渡は,各個人と一体の関係にある共同体*にたいしておこなわれるのであって,彼の自由を損なわせしめるような主体にたいしてではないのである。この部分に,ルソーのホッブスからの一大飛躍がある。

ルソーは第一の部分で,人々が共同体へみずからを結合させるための前提条件を規定している。そして,第二の部分では,その共同体の全体のあり方が個人対立するものであってはならないという,驚くべき条件を規定しているのである。そこにまた,ルソーの思想のホッブスを超える巨大な意義が存在しているのである。ルソーが,『社会契約論』やその後の著作で格闘しているのは,この第二の部分の条件はどのようにして実現しうるのかである。ルソーはこれについて,さまざまな提案をしているのであるが,それらは,今日の私たちがまのあたりにしている民主制からみれば,現実性をもたないということになるのかもしれない。しかし,ルソーの考えている共同体においては,個人の活力の集計したものが同時に共同体全体としての,すなわち社会の活力としてあらわれる。すなわちそこには,いま活力を失おうとしている私たちの社会にとって重要な意味をもった洞察が含まれているのである。

3.10 シュムペーターの民主主義   (副目次へ

ホッブスとルソーの政治理論において共通してあらわれる,社会あるいは共同体の全体としての意志すなわち共同意志*は,多数者の意志である(注26)。ルソーにおいては,社会を成立させる社会契約における意志以外については,必ずしも全員一致ではなく,多数者の意志であればよいとされているが,それでも全員一致が希求されるべきものであることを強調している。そして,この共同意志は,同時に正しいものであり,法はその意志にしたがって成立しなければならなかったのである(注27)。今日の民主主義の理念に即して考えると,「個人の全体による社会の支配」とは個人の全体が共同意志を形成しその意志によって社会が支配される,具体的には社会の権力をになっている機関がその意志にもとづいて法を制定しそれを執行していることを意味する。共同意志はあくまで抽象的であり,実際の存在を確認することは困難であるが,今日の私たちの社会もこのような共同意志を媒介にしながら民主主義の理念*を実態化しているように思われる。しかし,そのような共同意志とはまったく異なった論理によって現代の民主主義をとらえる理論が存在する。それは,シュムペーターによって唱えられた。

まず,シュムペーターは共同意志を媒介にしたホッブス,ルソー的な理論を次のように否定する。

共通の意志ないしはある種の世論といったものは,個々人や団体のおかれている情勢,彼らのもつ意志,影響力,「民主主義過程」の作用と反作用等の無限に複雑な結びつきから生ずるものといえなくもないが,その結果は合理的統一に欠けているのみならず,また,合理的是認にも欠けている(注28)。

ここで,合理的統一性の欠如とは,共同意志が個々人の意志などからみて意味をもたない結果になるということであり,意味のない結果を支持しなければならないために,政治的形態を無条件に信頼しなければならなくなることを合理的是認の欠如とシュムペーターは表現しているのである。それは,ルソーやホッブスの提起した共同意志がまったくフィクションにすぎないと断言しているに等しい。シュムペーターは,そもそも前提となる個人の意志そのものが一般には曖昧で不明確なものであり,たとえ個人の意志が明確だとしてもそれを形成する過程で,共同意志が個人の意志を一般には明確に反映しなくなってしまうと指摘している。またそれは,ルソー的な個人と全体の対立が止揚された共同体という論理を非現実的なものであると暗に示していると考えてもよいだろう。

このようなホッブス,ルソー的世界を否定することは,私たちを一種の不安に陥れる。もし共同意志を媒介にしなければ,主権者としての個人の全体は意味をもつのだろうか,あるいは,個人の全体による社会の支配という民主主義的理念は成立しうるのだろうか,と不安になるのである。

シュムペーターはこれにたいして,次のような驚くべき民主主義の定義を提示するのである。

民主主義的方法とは,政治決定に到達するために,個々人が人民の投票を獲得するための競争的闘争を行なうことにより決定力を得るような制度的装置である(注29)。

これは,民主主義を共同意志に関連させる理論の陥穽を衝いている。すなわち,共同意志がもっていた抽象性,擬制的性格を見抜き,それを放逐するとともに,投票をえようとする側を財の供給者,投票する側を気に入った財を購入しようとする個別化された消費者としてとらえるのである。消費者は,財の購入にあたって個人的選好のみを考慮する。それが全体でどのような結果になるかについては,まったく無関係に財を選好するのである。一方,供給者は人々の選好が社会的にみて合理的であれ,非合理的であれ供給した財を消費者が購入すればよいのである。そして,より財を多く売った供給者が勝利者なのである(注30)。

シュムペーターの理論においては,政治的指導力が票の数に応じて与えられ,政治的決定をおこなう主体が投票をめぐって競争することが強制される点に,民主主義の理念である人民の支配がはめ込まれている。この理論の積極的側面は,投票を獲得するための「競争」が位置づけられていることである。それは市場において経済主体間の自由で完全な競争の存在が市場の効率性を測る基準となることにちょうど対応している。選択肢や候補者が意図的に絞られているために投票における実質的な制限が加えられているならば,このシュムペーターの民主主義の基準を完全に満たすとはいえなくなる。これは,ルソーやホッブスがほとんど予期していなかった問題であろう。逆に,共同意志の形成においてはこのような競争は障害にしかならなかったであろう(注31)。ルソーは,一般意志が代表制と両立しないと考えていたくらいであり,人民の側の努力によって一般意志の形成とその執行のための努力がなされることこそ求めたものなのである。

シュムペーターの民主主義において重要なことは,決定を支配する意志が人民の共同的な意志であるとか,個人の意志の全体をなんらかのかたちで代表するものであるとかがなんら問われない点である。決定を導く意志があるとするならば,それは投票を獲得した政治家あるいは議員の意志であればよいのである。投票する個人には,共同意志を形成するにふさわしいものなどがまったく要求されない。個人は,消費財の購入の理由をたずねられないのと同じように,投票する理由は問われないのである。

このシュムペーターの理論は,今日の民主主義の実態を明らかに鋭く反映している。人々はなんらかの選好にもとづいて投票にでかけるときだけ,民主主義の担い手なのである。みずから積極的に望ましい共同意志の形成に努力する必要などはまったくないし,個人的な意志を合理的で一貫性のあるものにする努力をする必要もない。この理論は,政治を政治の専門家に任せ,個人が政治以外の活動に生活時間の多くをさくことを可能にするものである。したがって,それは民主制という制約のもとで社会を構成する個人の全体と社会を支配する主体とのあいだの相互の自立を徹底的に高めるものになるだろう。ホッブスとルソーのあいだにこの点では差異があることは,すでに指摘したが,シュムペーターの政治制度はこの点ではホッブスの類型に属するのである。

工業社会*において,マクロ目的*クロ目的}追求のためのマクロシステム*クロシステム}が個別主体の目的とその実現のための行為から相対的に自立したものでありつづけなければならないのであるから,このような社会システムの要請にシュムペーターの民主主義はぴったりとあてはまるものであることは明らかだろう。したがって,このようなシュムペーター的民主主義は,持続的経済停滞のもとにおける政治制度の構成原理としては,妥当性をもたないと結論せざるをえない。

4 節 社会活力の復活と民主政治の再構成   (副目次へ

4.11 直接民主主義   (副目次へ

これまでの考察が明らかにしてきたことは,持続的経済停滞のもとにおける政治制度は,個人の活力を直接的なかたちで社会の活力に導くようなものでなければならないということである。それは,第一に環境制約から発生する経済停滞によって,経済および社会が病的に崩壊することを回避するために必要である。崩壊するのは社会システムとしての社会であって,そのなかの個人がもっている活力はそのまま保持されている。社会の全体性が各個人にたいしてよそよそしく対立しているような状況では,この個人的活力は死んだままなのである。私たちが親しんでいる代議制民主主義*はこのような課題にこたえるものではない。それは,民主主義の理念にそってはいるものの,工業社会で求められる個と全体の対立をそのまま安定的に維持する装置となっているのである。

第二に,個人的な活力を社会的に吸収できないままに,持続的停滞を社会内化する政策をとっていけば,個人の自由との衝突を発生せざるをえなくなる。もともと,工業社会において,経済活動は個人の所有権*の行使によって発生する。消費者からみれば,彼自身の所得を処分し,なんらかの財やサービスを購入することは市民的自由*に属することがらである。あるいは,自己のもっている資金を企業活動に投資することも同じようにこのような自由の一環である。もちろん,それは完全な自由ではない。公共の福祉*に反する活動は制限されている。たとえば消費者が,麻薬や覚醒剤などの購入は許されていない。また,自分自身をその全人格とともに他人に売り渡すことは許されていない。そして,当然,禁止されている企業活動も存在している。しかし,なによりも所有が経済的自由の源泉であり,また市民的自由*の限界も規定しているのである。

工業社会は,社会が経済に支配されているために,経済的自由が個人の全体的な自由を規定している度合はいちじるしく高い。持続的経済停滞を社会内化するためには,個人や企業などの個別主体の経済的自由に制限を加えざるをえなくなる。これを,社会がその構成員のたしかな支持をえないままに実行すれば,一つの強権政治になってしまうだろう。

このような課題にこたえるために必要なことは,政治制度の構成原理をシュムペーター的な民主主義からルソー的な民主主義に近づけていくことである。ルソー的な民主主義は,社会が共同体として統一性を保っていながら同時にそれによって個人に自由が最大限生かされることをめざすものである(注32)。そこでは,代議制民主主義は否定され,人民が政治に法律の決定やその執行にかんしても直接に参加することが必要とされる,今日の用語でいえば直接民主主義*が指向されているのである(注33)。

ルソーは共同意志*の決定やそれも含めた公共の職務を各自が他の人間に代理させることを厳しく批判した。

ひとたび,公共の職務が,市民たちの主要な仕事になることを止めるやいなや,また,市民たちが自分の身体でよりも,自分の財布で奉仕するほうを好むにいたるやいなや,国家はすでに滅亡の一歩前にある(注34)。

ルソーが人民に要求する水準がいかに高いかがここに端的にあらわれている。シュムペーター的な民主主義においては人民はほとんど投票することによってのみ政治に参加している。そして,その残りの時間と能力は経済的なものとして利用されればよいのであって,生活の十分に大きな部分を経済的に過ごせばよいのである。しかし,ルソーは公共の職務,すなわち共同意志の形成とそれによる法律の決定,そしてその執行などが「市民たちの主要な仕事」でなければならないと考えていたのである。ルソー自身も,人民が経済活動にとらわれすぎることが,公共的職務を金銭で代用させようとする動機となることを指摘していたのである(注35)。それとまったく同じ意味で,法律の制定における代議士*についても無効であると断言する。

主権は譲りわたされえない,これと同じ理由によって,主権は代表されえない。主権は本質上一般意志のなかに存する。しかも,一般意志は決して代表されるものではない。\cdots 人民の代議士は,だから一般意志の代表者ではないし,代表者たりえない。彼らは,人民の使用人でしかない。彼らは,何ひとつとして決定的な取りきめをなしえない。人民がみずから承認したものでない法律は,すべて無効であり,断じて法律ではない(注36)。

ルソーの民主主義は,このように直接民主主義*と呼ばれるべきものであるが,この直接民主主義そのものは,ルソーによってはじめて語られたものではない。理念よりも先に,すでに古代ギリシャの都市国家アテネでおこなわれた民主主義が直接民主主義的性格の強いものだったことはよく知られている(注37)。最高決定機関としての市民の全体会議エクレシア*(民会*)には20歳以上の自由市民のすべてが参加資格をもっていた。有権者の総数は3万あるいは3万5千人あったといわれ,通常出席者は5千人を超えることはあまりなかったが,重要な決定のためには6千人が定足数として必要だったといわれている。このエクレシアだけでは都市国家*を運営することは困難で,さまざまな機関をもっていたが,比較的少数の委員や執行者を選出するところでは選挙ではなく,籤(くじ)や順番制が採用された(注38)。古代ギリシャの直接民主制の制度的内容については,アリストテレスの次の文章によってある程度の総括が可能である。

次のようなことが民主制的なことである --- すなわちすべての人々がもろもろの役人をすべての人の中から選挙すること,すべての人々が一方において個々の人を支配し,他方において個々の人が順番ですべての人々を支配すること,もろもろの役はそのすべてかあるいは経験や技術を必要としないものである限りのものかを籤引きによって任命すること,もろもろの役は財産を全然その資格としないこと,あるいはできるだけ小額を資格とすること,同一人がどんな役にも二度と就かないこと,あるいは就くことを許すなら,少ない度数に限ること,あるいは戦争にかんする役以外の少数の役に限ること,もろもろの役の任期はそのすべてのもの,あるいはできるだけのものを短くすること。裁判はすべての人々,あるいはすべての人々のうちから選ばれた人々がすべてのことについて,あるいは大多数の,そして役人の報告査問や国制や私的契約のような最も大切で重要なことについてすること。民会はすべてのことについてあるいは最も重大なことについて主権を有するが,どんな役人も何ごとにも主権を有しないこと,あるいは有することを許すならできるだけ少数のことにかぎること(注39)。

ここには,なんらかの制度によって人民のなかから選出されたものが,そのために力をもつようなことがないように,さまざまな条件がつけられている。結局そこに貫かれているのは,ルソーと同じ思想である。シュムペーターが選出される過程にこそ選出されたものの力の源泉があり,またそのようになるべきであるとしたものとまったく逆の発想がそこには存在している。

直接民主制は,その後,古代ゲルマンの民会*,古代ローマにおける民会,中世までつづいたスイスの民会,などその後の歴史のなかで存在を失うことはなかった(注40)。しかし,スイスのいくつかの州ではいまだに制度的な集会をもつ直接民主主義が生きているが,全体としては,代議制が発達するとともに,直接民主制は代議制を補完するものとしての意味しかもたないことが多くなった(注41)。今日の日本においても,代議制を媒介しないで,国民の意志が直接国政にかかわるという意味での直接民主主義は,国政レベルでは憲法を変える場合における国民投票の必要や最高裁判所裁判官の審査などに部分的にあらわれているだけであり,地方自治においては,地方特別法*にかかわる住民投票*や条例にかかわる直接請求権*,地方議会の解散請求権*,議員のリコール権*など,きわめて限定されたものしか存在していない(注42)。ただし,法律や条例とかかわらない,都市や農村の地縁的な自治団体が住民集会などを制度化することによって直接民主制を実現していることは,よく知られている。

歴史の大きな流れのなかでとらえれば,代議制の発達は近代民主主義の発達と対応していて,その背景には工業社会が多くの社会システムをとらえていった事実がある。工業社会において,社会システム*は大規模化し,それ以前の農業社会のように今日からみれば小集団社会において部分的に成立していた直接民主制は社会システムのなかの部分としてしか生き残れなくなってしまったのである。ルソーの直接民主主義は代議制を軸にした近代民主主義の勃興期,揺籃期であるがゆえに登場することが可能だったのである。また,工業社会の発生期において社会システムが大規模化する予兆のなかで,小集団的な直接民主主義の不可能性が明らかになっていたがゆえに,あらわれざるをえなかったのである。

実際,ルソーの民主主義論のなかには農業社会にたいするノスタルジックな言及が散見できる(注43)。たとえば,『社会契約論』のなかでも人民の力が最大に発揮されるのは,耕作可能な土地と人口が釣り合っているときであり,自立性が弱く商業に依存しなければならない国家は弱いと述べている(注44)。また,『社会契約論』の理念を政策的に実現しようとした『コルシカ憲法草案』では,「農本的な体制*は \cdots 民主体制と不可分である」と指摘し,一国にとって農業がいかに重要であるかという議論を多面的に展開している(注45)。そして,そこでは農業剰余*が工業や商業を生み出していく過程を示し,また一国が保持する貨幣の量によって豊かさを測る立場も否定していることなどから(注46),ルソーは明らかに,農業剰余で社会の豊かさをとらえる農業社会の見地に立っていた。それは,当時の重農主義者*によって主張されていたものとも共鳴するものである。

4.12 地域自立性のある分権的な社会   (副目次へ

直接民主主義が*困難である最も明白な理由は社会の規模が大きなことである(注47)。ルソーもまたこのことをはっきりと意識していた。ルソーは,人民の定例的な全員集会の必要性を強調したが,『社会契約論』では,それが多くの都市をかかえた国家では事実上困難であること,そのかわりに首都を認めない程度の提案しか出されなかった(注48)。また,『コルシカ憲法草案』*では,首都を事実上認めるかわりに,人民集会の分割開催と人民権力の受託者たちの頻繁の交替を要求した(注49)。一般意志*と主権の理論において共同体*の全体性*と個人の自由との両立の不可欠性を徹底的に強調したルソーも,それを巨大化した社会のもとで実際に実現する方法の問題になると,とたんに歯切れが悪くなっている。社会の規模の問題は,直接民主制のアキレス腱なのである。

しかし,これは解決不可能な問題ではない。一つは,たとえば日本のような社会の規模を前提にしても,全体的政治制度のなかに国民投票*を位置づけるなど,部分的に直接民主主義的性格の強い手続きを導入するなどの可能性はある。ただし,国民投票がどの程度までに直接民主主義的であるのかについては,慎重な配慮が必要である。政党などを媒介にしないかたちで,国民の意見を交流するようなシステムを考慮することも,これだけメディアや情報処理手段が発達した現在においては,可能性を模索できるだろう。国民のあいだで,当面する政治的な課題において,何が問題なのか,どのような選択肢がありうるのか,それらの選択肢のあいだの相違は何であるかなどが,人々はどのような決定をおこなわなければならないのかについての確信をえることができるようになるだろう。

また,代議士の性格やそれに付随する権力をより低下させるようにすることも直接民主主義の要素を強めることにつながる。代議士たちによる決定のうち,主要なものは国民投票などによる追認が必要であるとすれば,法律制定における,民主主義の間接性*は低下させることができるだろう。それらに対応して,代議士の選出が国政の方向に与える影響も低下することになろうし,そうなれば投票による選出から一定の条件を満たせば誰もが立候補できるようにし,抽選などで選出するという方向も考えられる。つまり,国政レベルでの直接民主主義的要素の導入はさまざまな可能性が考えられるということである。

このような国政レベルでの直接民主主義的要素の導入は,現実性は高いが,個人と権力の距離が離れすぎているために,十分な成果をもたらすことは困難である。最も重要なことは,人民集会などの最も優れた直接民主主義の手段が選択できるような,地理的に規定される一定の集団規模に,より大きな権力的要素をあたえ,社会の全体性*をそれら分権的主体の連合によって実現するという方向をめざすことである。この分権性*をになう主体は,地域的小集団である(注50)。地域的小集団*といっても,町内会のような規模ではない。それは,集会がどのような規模で開くことができるのかに依存するが,すでに古代ギリシャで数万人を対象にした民会が開かれていたことを考えれば,現代的条件でもかなりの規模であっても可能であるといえるだろう。このような規模の地域的小集団において,より高い権力的要素が与えられるということは,その地域における行政が単に中央政府の下請けとなることなく,自立的支配が広範囲に可能となる法律を制定する権限が一定の範囲内で与えられることである。日本の場合,それは現行地方自治法における条例よりもより広い権能をもったものであるべきだろう。どのような立法権が与えられるべきかは,その集団がどのような機能をもつかに依存している。

このような権限の与えられた直接民主主義的な比較的小規模の地域的小集団の一つの例は,A.トクヴィルが19世紀前半のアメリカにおける共同体*(タウンシップ*)として報告されている(注51)。当時の東海岸沿い(ニューイングランド)の諸州のなかに存在した共同体は,平均して住民2千から3千人によって構成され,たとえばマサチューセッツ州では当時305の共同体が数えられたという。これは,日本でいえば一種の地方公共団体として機能しているのであるが,決定的な差異は,そのなかで直接民主制が貫かれていることであった。これらの共同体は,議決機関として古代ギリシャの民会に対応する共同体の大会(タウンミーティング*)をもっていた。そして,自らの共同体にかんすることがらは,州その他の干渉を排して自ら決定し執行する能力をもっていたのである。トクヴィルは次のように指摘している。

他のあらゆる所とにおいてと同様に共同体では,人民が社会力の源泉である。けれども,共同体におけるほどに人民がその権力を直接的に行使している所は,他のどこにもない。\cdots 共同体では,代表の法則は認められていない。共同体では立法並びに政治的行動は,被支配者たちに,より一層近づけられているのである。共同体には共同体の議会というものはない。選挙人団は共同体の役人たちを任命した後,州法律の純粋単純な執行以外のすべてのことで役人たちを自ら指導する(注52)。

そして,トクヴィルは共同体*が人々に自由を行使する能力を与える点にとくに注意を払っていた(注53)。そしてこのような観点は,ルソーが『社会契約論』のなかで示した民主主義の理念と,共同体という限界はありながらも,きわめて整合的なものであることは明らかだろう。

このような直接民主制による地域的小集団*がもつべき性質として最も重要なものは,自立性である。自立性は分権性*の不可欠の基礎である。この自立性は二つの側面からとらえることができる。一つは,人間の互助的な活動における自立性である。個人にたとえれば,「自分のことは自分でする」という意味での自立性である。もう一つは,自然資源の利用にかんする自立性である。物質循環*がその地域において可能な限り閉じているといってもよい。そして,このような自立性が明確になればなるほど,集団内の人民のあいだの利害の共通性は高まるだろう。それはまた,直接民主主義の基礎を強固にすることになるのである。これらの自立性について,以下でより詳しく検討しよう。

4.13 人的依存関係における閉鎖性   (副目次へ

人間は集団をつくることによって自己の生存を確保する能力をもった動物の一種である。ただし,ここで集団は社会を含む一般的な概念として使っている。その集団のなかで,人間は相互に助け合いながらより効率的な生活を確保しようとする。この依存関係のなかには,従来経済学で用いられてきた「分業」*も含まれる。ただ,この分業という概念は,人間が実現できる依存関係一般からみれば,かなり狭い概念であることを知っておかなければならないだろう。ある最終生産物をつくり出すために必要な工程の一部が特定の労働者の労働に帰属させられ,特化した労働の連鎖が生産の一般的な現象となることを分業という。分業が人間の相互依存関係の主要な内容としてとらえられることには,社会生活のための必要のほとんどが経済活動の結果として実現されるという工業社会特有の実態の反映がある。しかし,必要な財(モノ)やサービスが非経済的な過程によって供給されてはならないということはない。

行政によって供給されるサービスは,一面では人々が必要としていることを市場を経由せずに供給されるという点で非経済的過程を経ているといえるが,もう一面で,行政が公務サービスの生産者として一つの分業の担い手になっているとみることもできる。

ただし,このような経済的な財やサービスを獲得する能力,行政のサービスを受ける権利さえあれば,人は生活を維持することができるかといえば,それは困難であると答えざるをえないだろう。実際には,人はこれ以外の手段によって供給される財やサービスをかなり大量に受け取り,あるいは自らがそれらの供給の主体になったりしている。それがおこなわれている場は,家庭である。家庭内でおこなわれる食事をつくるサービスや住居や衣服など家庭のメンバーの生活条件を整えるためのサービス,親が子どもに与える成長に必要なことがらについての有形・無形の援助,逆に子どもがその親に与える精神的なものも含めたサービス,あるいは夫婦間のさまざまな協力などが,人々の生活に占めている割合は,いちじるしく高いのである。これらの家庭内で供給され,消費されているサービスの一部は,外部からの供給に任せることも可能である。食事のサービスや,さまざまな介護や,教育のサービスを外部に委託し,市場を介して利用することはできる。しかし,他の条件が同じで,このように一部のサービスを外部からえるようになった場合は,その家庭の自立性が低下したとみなすことは自然だろう。

この家庭の例から確認できることの一つは,無償で,あるいは自発的に供給されるサービスが人的な相互依存関係の重要な内容になっている場合が存在するということである。このような自発的に供給されるサービスあるいはモノの授受は家庭以外でも,たとえばなんらかの文化・スポーツサークルなどの組織において重要な役割を果たすが,私たちが注目すべきは,人々の基本的な生活にかかわる部分で供給されるサービスやモノの授受である。これはたとえば,町内会などによっても,公共の場の清掃やなんらかの互助的な活動などによって供給されたりする。

より普遍化すると次のようになる。いま,人々の生活のなかから経済的に吸収される活力部分が相対的に低下したとしよう。すると上で述べたような非経済的・非市場的に供給されるサービスやモノが,それまで経済的に供給されていたものと代替することが重要な意味をもってくるということである。とくに,持続的経済停滞のもとでは,社会を構成する個人の活力を社会的に吸収し組織することが困難になってくるのであり,この必要性が高まる。食糧,衣料,住居,教育,福祉,医療などにかかわる多様なモノやサービスが有償であろうが無償であろうが,あたかも家庭内におけるそれであるように,互助的に供給され利用されるような状況を考えなければならないのである。それは,地域的小集団*のもつ自立性を高めることを意味している。

また,それは単に経済的に供給されていたモノやサービスの代替という意味ばかりではなく,行政によって供給されていたサービスを,行政の専門家や公務員の職務から住民自身の自発的な活動に代替させるという意味も含んでいなければならない。地域的小集団においては,共同意志*による一般的な規則の制定への人民の直接の参加が要求されるだけではなく,その執行への直接の参加が要求されるべきである。このような決定と執行の統一性もまた,自立性の重要な内容となるべきなのである。いわゆるボランティア*といわれるものの機能を,このような地域的小集団の直接民主主義の機能のなかに位置づけることもできる。地域における環境保全や福祉などにかんするさまざまなボランティアの取り組みは,最近重要な関心を集めてきているが,それは単に行政を補完するものではなく,住民自身が決定しそしてみずからが執行者となることを意味している。このようなボランティアとしての活動が,個人的活力を社会の活力に転化する重要な媒体となりうるのである(注54)。

4.14 物質循環の閉鎖性と地域の自立性   (副目次へ

人的依存関係における閉鎖性だけではなく,物的な依存関係におけるより高い閉鎖性もまた地域の自立性の重要な要件である。人々の生活は人的な相互サービスばかりではなく,物的に必要資材が供給されることによって維持することができる。このような必要資材の供給は,自然から生物的あるいは非生物的な資源を搾取し,それを利用し廃棄物として再び自然に排出するという一連の過程によって成立する。自然は排出物をストックとして保持しつづけるか再びなんらかの資源として人間の利用が可能なかたちに変化させる。このような閉じた過程を物質循環と呼ぶのであり,したがって物的依存関係における閉鎖性は物質循環における閉鎖性に対応している。

工業社会においてはこのような物質循環*の閉鎖性*は追求されない。もともと工業社会は市場を通して物質流を制御することが可能な社会システムとして成立しているのであり,社会システム全体としてそのマクロ目的のために産業の地理的な配置を最適化しようとする。社会システムのなかでは,そのどの部分も閉鎖的ではないことが効率化の前提になっている。

地域の自立性のためにこのようなより高い物質循環の閉鎖性が要求される第一の理由は,それによって直接民主制がより実行力のあるものになるからである。その背景には,このような地域的集団の最も基礎にある共通性が,地域というもの,すなわち一定の区画された自然環境になっている事実がある。土地なども含めた生物的,非生物的自然環境の利用の仕方のなかに地域的な特殊性のある共通の利害があらわれる。このような共通利害の部分が大きければ大きいほど直接民主制の有効な領域が大きくなるのであり,それはその地域に住む人々の個人的活力がより有効に生かされることになるのである。逆にたとえば,他の地域から大量の物質が財や資源や廃棄物のかたちで移入される地域があり,またそれに対応して他の地域へ大量の物質を移出する地域があるとするならば,その地域で独立に決定し執行しうるものが限定されたものとなることは明らかだろう。

第二には,その地域の自然環境をより有効に保全することにつながるからである。物質循環の閉鎖性の要求にこたえることは,その地域の人々の生活が地域の自然に支えられたものにすることを可能にする。その地域の,自然と社会の物質的バランスがとれていることは,地域の持続的な自立性にとって不可欠の条件となる。そして,このような小地域であるがゆえに自然とのバランスをどのようにしたら維持できるのかについて,有効な方法を特定化することが容易になり,またその方法にたいする人々の合意も容易になるだろう。

このような議論の範囲における物質循環の閉鎖性*は抽象的なものであったが,具体的に考えると直接民主主義が要求する地域の小規模性と一種のトレードオフの関係があることに気づかされる。すなわち,直接民主主義の有効性を高めるためには,集団の単位としての地域の規模は小さい方が望ましいが,物質循環は小さければそれだけ困難になる。このことを念頭におきながら,現実的に考えた物質循環の閉鎖性*とはなにかを考えてみよう。まず第一に,地域の自然から搾取した物質,資源はその地域のなかの自然に返し,可能な限り自然の力によって再生させることである。これが,物質循環の閉鎖性の最も純粋の内容になるだろう。これは一次産業としての農林漁業における生産活動とその生産物の利用と廃棄の過程については,かなり明瞭に適用することができるだろう。その点では,生活の最も基礎的な部分をこの純粋な物質循環の閉鎖性の定義によってとらえることができる点は重要な意味をもっている。

しかし,このような純粋の閉鎖性の追求だけで生活することは地域規模の小ささからみて不可能であるだろう。そこで,第二に,他の地域から資源のかたちで移入し財を生産した場合は,可能な限りそのもとの資源にもどすこと,または自然の同化能力の範囲で処理可能な廃棄物にすることに地域が責任をもつということである。そして,第三に,他から生産物として移入した財は,廃棄物のかたちで他の地域に移出せず,また,そのような移入を極力減少させる。この二つは,かさなり合う,あるいは対立する面もあるが,一つの地域の観点からみれば,この二つは両者とも要求される。

また,社会の空間的なあり方の問題として,都市と農村*という問題も考慮されなければならない。都市というのは,先の,人的依存関係の閉鎖性を実現するうえでは人口が密集しているだけ障害が少ない。しかし,物質循環の閉鎖性を高めることはいちじるしく困難である。逆に,農村は地域的問題について決定と執行の一体性や互助的な活動を実現するなど人的閉鎖性を実現することは困難であるが,農林漁業の一次生産物にかんする閉鎖性を高めることは比較的容易である。もちろん,農村においてもさまざまな工業生産物を地域内で調達することは困難である。いずれにしても,都市と農村というかたちで人口の疎密の格差が大きいことは,分権という視点から望ましくない。もともと,日本の場合は工業的生産の過剰性に対応して,人口も日本のもっている耕地などの生物基盤からすれば過剰である。したがって,単に都市と農村というかたちでの人口の疎密の過大さを解消したからといってすぐに望ましい状態が実現するわけではない(注55)。

工業社会において都市に人口が集中するのは,一面では産業一般が農村という空間的な場から相対的に自立しているからである。またもう一面で,より重要なことは,社会システムが社会そのものに階層的な支配構造*をはめ込むことが必要になり,その支配構造を支援する空間的支配構造として,首都から末端の地方小都市にいたるまでの支配的な縦の構造が必要になるからである。したがって,逆に,経済の停滞は社会システム*の活力を奪うとともに,都市の活力をも奪っていくことは確実である。それによって,人々が都市に生活することによってえるものと比較して失うものの価値が大きくなり,人口は都市から非都市へと流れるようになり,それだけでもある程度,都市と農村のあいだの人口疎密の格差は縮小するだろう。そして,学校教育*やマスコミの報道などにおいて,都市にかんする情報を偏って与える姿勢を改めさせ,人々の価値観における都市選好への偏向を正していくことも,重要な意味をもっているだろう。そして,なによりも決定的なことは,物質循環の閉鎖性が都市的地域社会に強制されれば,日本における都市ゴミ*の問題一つをみても明らかなように,都市に居住することの費用は不可避的に高まらざるをえない。
脚注

(1)「資財の増加は,賃金を引き上げるけれども,利潤を引き下げる傾向がある」,スミス~ ,p.266。また次のようにも指摘している。 「その地味や気候の性質,ならびに他の国々にたいするその位置がゆるすかぎりで,富の全量をあますところなく獲得した国,したがってまた,これ以上前進も後退もできない国では,労働の賃金も資本の利潤もおそらくは極めて低いであろう」,同,p.281。 (もどる
(2)マルサスとの議論のなかでのリカードの長期的な経済発展観については鷲田~ ,第8章を参照。(もどる
(3)「そうしてみると,利潤の自然の傾向は低下することにある,というのは,社会が進歩し富が増進するにつれて,要求される食物の追加量は,ますます多くの労働の犠牲によって取得されるからである」,リカード~ ,p.141。(もどる
(4)三土~ 参照。同書は,次のマルクスの理論を理解するうえでも参考になる。(もどる
(5)マルクス~ ルクス1968},第三篇「利潤率の傾向的低下の法則」参照。(もどる
(6)置塩~ 参照。(もどる
(7)他にJ.A.シュムペーターが経済発展が進歩そのものを自動化し企業者職能*を不要にし利潤もまた失われるなどの主張を展開しているが,彼自身もみとめているようにそれはあまりに仮想的な性格が強いものである。シュムペーター~ 参照。(もどる
(8)この収益率は,追加的投資部分の利潤に対応するものであるから,この点では古典派的利潤の実現困難による経済停滞論と関連をもっているといえる。(もどる
(9)「社会が豊かになればなるほど,現実の生産と潜在的な生産とのあいだの差はますます拡大する傾向にあり,したがって経済体系の欠陥はますます明白かつ深刻なものとなる。なぜなら,貧しい社会はその産出量のきわめて大きな割合を消費する傾向にあり,したがって完全雇用の状態を実現するにはごくわずかな程度の投資で十分であるが,他方,豊かな社会は,その社会の豊かな人々の貯蓄性向*がその社会の貧しい人々の雇用と両立するためには,一層豊かな投資機会を発見しなければならないからである」,ケインズ~ ,p.31。(もどる
(10)長期経済停滞論については他に,宮崎~ の第4章2の「長期停滞に関する諸見解」を参照。(もどる
(11)次の引用はやや長いが十分にその価値がある。「自然の自発的活動のためにまったく余地が残されていない世界を想像することは,決して大きな満足を感じさせるものではない。人間のための食糧を栽培しうる土地は一段歩も捨てずに耕作されており,花の咲く未耕地や天然の牧場はすべてすき起こされ,人間が使用するために飼われている鳥や獣以外のそれは人間と食物を争う敵として根絶され,生垣や余分の樹木はすべて引き抜かれ,野性の灌木や野の花が農業改良の名において雑草として根絶されることなしに育ちうる土地がほとんど残されていない --- このような世界を想像することは,決して大きな満足を与えるものではない。もし地球に対しその楽しさの大部分のものを与えているもろもろの事物を,富と人口との無制限なる増加が地球からことごとく取り除いてしまい,そのために地球がその楽しさの大部分のものを失ってしまわなければならぬとすれば,しかもその目的がただ単に地球をしてより大なる人口 --- しかし決してよりすぐれた,あるいはより幸福な人口ではない --- を養うことを得しめることだけであるとすれば,私は後世の人たちのために切望する,彼らが,必要に強いられて停止状態に入るはるかまえに,みずから好んで停止状態にはいることを」,ミル~ ,p.108。(もどる
(12)「今日の社会状態よりもはるかにすぐれた社会状態は,ただ停止状態と完全に両立しうるというばかりでなく,また他のいかなる状態とよりも,まさにこの停止状態ともっとも自然的に相伴うようである」,ミル~ ,p.107。(もどる
(13)議論はややわかりにくいかもしれない。厳密には,数学モデルを用いて説明すべきである。これは結局,多部門線形モデル*を念頭におけば,利潤からの消費支出がある体系で,かつ利潤からの貯蓄がゼロ,したがって均斉成長率がゼロである均衡とその価格体系の均衡をなのである。より詳しく知りたい読者は二階堂~ あるいは鷲田~ など,あるいは適当な経済学のテキストにあたるとよい。(もどる
(14)Keynes~ ,p.161。animal spirits を「血気」としたのは邦訳にしたがった。ケインズがこのパラグラフで書いている次の文章も示唆的である。「企業が将来の利益の正確な計算を基礎とするものでないことは,南極探検の場合とほとんど変わりがない。したがって,もし血気が鈍り,自生的な楽観が挫け,数学的期待値*以外にわれわれの頼るべきものがなくなれば,企業は衰え,死滅するであろう。ただし,その場合,損失への恐怖は,さきに利潤への希望がもっていた以上に合理的な基礎をもっているわけではない」,ケインズ~ ,p.160。(もどる
(15)日本の場合は採集・狩猟・漁撈で主要な生計を維持していた縄文社会から灌漑水稲農耕*を主要な生業とする弥生社会に移行するとともに社会システムが発生した。詳しくは本書,第5章参照。(もどる
(16)「代表原理は,それ自体が民主主義的なものであるというふうに考えることはできない。それが民主主義の機構原理になっているのは,繰り返しますと,一つは,政治社会の規模の問題への一つの答えになっていること,それからもう一つは,政治のリアリズムを民衆の選択と結びつける意味を持ち得るということ,こういう事情があってのことにすぎない」,福田~ ,p.137。(もどる
(17)ここでは,代表制の問題性をより重視しているが,多数決そのものも民主主義の原理としてみたときに,問題がある。「多数決というものは一つの擬制にすぎない。現実には多数であるにすぎないものを全体とみなすわけですから」,福田~ ,p.139。「民主主義を無制限な多数決原則と乱暴に同一視するのを拒絶することにはしっかりした根拠がある。「人民」を単に人民の多数派と同一視するのも不可能ならば,「人民による統治」を多数者による統治と同一視するのも,ましてや多数者の代表による統治と同一視するのも不可能なのである」,アーブラスター~ ,p.106。(もどる
(18)「民主主義の定義がどれほど洗練され,また複雑になっても,その根本にはすべての人民の権力*という理念があり,権力とおそらくは権威もまた人民の側にあるような状況という理念がある」,アーブラスター~ 。(もどる
(19)民主主義の歴史一般については,福田~ ,アーブラスター~ など参照。(もどる
(20)ホッブス~ ,p.33。(もどる
(21)「ホッブスを絶対君主*の擁護者に仕立てあげてきたこれまでの解釈は,ホッブスの政治論の基調が,自己保存(生命の尊重)と絶対平和の確立を目指し,そのために,「法の支配」を貫徹する政治組織を構築しようとしていたものであることを見抜けなかった人々の作りだした俗説である」,田中~ 。(もどる
(22)「ルソーの政治理論は,ホッブスの政治理論の基本的枠組や思考方法をストレートに受け継いでいるのであって,その意味では,ルソーはフランスのホッブスであるとさえ言ってもよいだろう」,田中~ 。(もどる
(23)ルソー~ ,p.31.(もどる
(24)「それ故どこでも,何人かの人々がおのおの自分の自然法執行権を棄て,これを公共に委ねるような仕方で一つの社会を結成するならば,そこに,そうしてまたそこにのみ,政治的または市民的社会が存するのである」,ロック~ ,p.90。(もどる
(25)ルソー~ ,p.30。(もどる
(26)「社会」と「共同体」*という概念は区別されるべきである。社会が社会システム化しているもとでは,社会は経済に支配されその経済は物的に媒介された人々の関係によって構成されているために,共同体と呼ぶことはひかえるべきだろう。ルソーが意識したように共同体は人々の人格的な直接の関係によって成立していると考えるべきだからである。しかし,社会を政治的なものと限定して議論している限りにおいては,それは一つの擬制でしかないが,社会を共同体と同一視することも大きな問題ではない。(もどる
(27)W.H.ライカーはこのような立場をポピュリズム*と呼んだ。ライカー~ 。(もどる
(28)シュムペーター~ ,p.404。(もどる
(29)シュムペーター~ ,p.430。(もどる
(30)C.B.マクファーソンはこのシュムペーターの民主主義を均衡的民主主義*と呼んで,次のように指摘している。「民主主義は単に一つの市場メカニズムである。有権者は消費者であり,政治家は企業家である。最初にこのモデルを提示した人がその全職業生活を市場モデルを使ってすごしてきた経済学者であったということは,驚くべきことではない。また政治理論家たち(それから政治評論家たちや公衆)がこのモデルを現実主義的モデルとしてとりあげたことも,驚くに値しない。というのは,彼らもまた市場的行動様式の浸透した社会の中で生き,そして働いてきたからである。この市場モデルは政治体制の主要な構成部分 --- 投票者と政党 --- の実際の行動に照応し,したがってその体制全体を正当化するように思われたのである」,マクファーソン~ クファーソン1978},p.130。また,シュムペーター理論が内在させているこのような経済行為とのアナロジーについては,ダウンズ~ によって新古典派経済学的な解釈がおこなわれた。(もどる
(31)「会議において,協調がおこなわれればおこなわれるほど,すなわち,意見が全員一致に近づけば近づくほど,一般意志もまた一そう優勢なのである」, ルソー~ ,p.147。(もどる
(32)ここで,ルソー的な民主主義といったが,ルソー自身は民主制が市民の数よりも行政官の数の法が多い政治制度とし,このような意味での民主制は過去にも存在しなかったし,未来においても存在しえないものであると述べていた。ルソー~ ,p.94。ここでルソーの民主主義というのは,ルソーが述べている政治理念全体をさすものと考えていただきたい。(もどる
(33)マクファーソンは,直接民主主義ではなく,間接民主主義*の必要性を前提としたうえで,より広範な人々参加を前提とする参加民主主義*を提唱した。マクファーソンが直接民主主義を放棄したのは,それを成立させる規模を現在の社会と同じと考えているからである。私はあとで示すように地域的小集団*における直接民主主義と社会全体における分権化*によって,有効に個人的活力を引き出しうる社会を提案している。マクファーソンの議論で興味深いことは,参加民主主義に到達するためには,人々がそれに先だって政治に参加することによって意識を高めていなければならないという悪循環に陥ると指摘し,その悪循環からの出口として環境問題にたいする意識の高まりをあげていることである。「経済成長のその他のコスト,とくに自然資源のむちゃな消耗,回復のきかない生態学的な損害の可能性もまた,ますます注目されるようになっている。経済成長のコストの自覚は,人々を単なる消費者意識から脱却させる。各消費者の私的な利益によっても,政治的エリートの競争によっても,そのどちらによっても求められない,ある種の公共的利益についての意識をうちたてることが期待される」,マクファーソン~ クファーソン1978},p.168。(もどる
(34)ルソー~ ,p.131。(もどる
(35)経済生活にたいする否定的な考え方は次のようにあらわされている。「商業や工芸に大騒ぎをしたり,むやみに利益をほしがったり,軟弱で安楽を好んだりすることが,身をうごかしてはたすべき職務を,金銭で代用させるのだ」,ルソー~ ,p.132。(もどる
(36)ルソー~ ,p.133。(もどる
(37)国民投票制*を軸にした直接民主主義の歴史については,河村~ に詳しい。(もどる
(38)籤は選出されたものが選出したものの権限,力を奪うことを回避するための巧妙な工夫である。プラトンも『国家』のなかで民主制における役職は籤で決められることになる,と述べている。プラトン~ ,p.203。ルソーもまた,「抽籤による選挙は,真の民主制のもとでは,ほとんど不都合を生じないであろう」と述べている(ルソー~ ,p.153)。(もどる
(39)アリストテレス~ ,p.286。この他まだいくつかの条件を述べている。(もどる
(40)古代ローマにおける民会については,ルソー~ ,その他については,河村~ に詳しい。(もどる
(41)第一次世界大戦後のワイマール共和国*ール共和国}においては,議会が国民請願を採用しなかった場合,有権者の20分の1が要求した場合,大統領が求めた場合,両院の議決が相違した場合などに国民投票がおこなえる憲法を制定した。このようなかたちで,直接民主主義を採用した世界的な注目を集めた憲法だったが,結局ナチス*の登場を許すことになった。(もどる
(42)渡辺他~ など参照。(もどる
(43)アリストテレスもまた,農業が支配的な社会において最善の民主制が実現するであろうと述べている(アリストテレス~ ,p.290)。しかしその理由はルソーと同じではない。(もどる
(44)ルソー~ ,p.73。(もどる
(45)ルソー~ ,pp.289-294。(もどる
(46)ルソー~ ,p.311。(もどる
(47)アーブラスターは,直接民主主義が規模の大きな社会では困難だという考え方にたいして,その根拠を問い直し,あらためて「直接民主主義はなにゆえ実際には実行不可能なのか」と問題を出している。そして,今日ではテクノロジーなどの発達によってはるかに容易になっていると結論づけている。アーブラスター~ ,p.126。(もどる
(48)ルソー~ ,p.128。(もどる
(49)ルソー~ ,p.293。(もどる
(50)直接民主主義的要素を,ここで議論するような地域単位で加えていくのではなく,企業における労働者参加や,市場経済の管理への消費者自身の参加などによって参加型市場経済*を展望したものとして,飯尾~ がある。このような,参加型の民主主義論は,マクファーソンの場合もそうだが,個人の意識の高まり,自発性の強化などにより大きく期待するものとなっている。(もどる
(51)トクヴィル~ ,p.123 以降。(もどる
(52)トクヴィル~ ,p.127。(もどる
(53)「共同体的な諸制度は,自由を人民の手のとどくところにおくのである。それらの諸制度は人民に自由を平和的に行使する興味をもたせるようにし,そして自由を用うることに習熟させる」,トクヴィル~ ,p.125。あるいは,「小事に自由を使用することを知っていない大衆が,どうして大事に自由を用いることができようか」,トクヴィル~ ,p.190,と鋭く指摘している。(もどる
(54)先のトクヴィルによって次のような指摘がされている。「アメリカ連邦の住民は出生以来,生活上の災害と故障と闘うために自力に頼らねばならないことをよく知っている。\cdots 公道で故障が突発すると,通行が遮断され,往来は停止する。近所の人々は直ちに協議会をつくる。この応急的な会議から災難を救治する執行権力が出てくることになる。\cdots そこには諸個人の集団力の自由な発動によって達成しようとする,断固たる人間的意志のみが存在している」,トクヴィル~ ,p.45。(もどる
(55)R.リントンは,都市では人々が育てる子どもがつねに少なく,「都市の人口は決してそれ自身を再生産しなかったし,今もしていない。\cdots 都市人口は,いつも都市の開発地帯 --- 都市細胞の原型質 --- 内の村落や農村地帯からの個々の人々の流入によって維持されていた」と述べ,それによる人口集中によって「小さな顔見知りの社会」*では生じなかった問題が発生すると指摘している。R.リントン~ 。(もどる



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