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「環境と社会経済システム」

副目次
第 5 章 日本社会システムの起源
  1 節 日本考古学の成果
  2 節 原始社会と単位集団
   2.1 単位集団論の意義
   2.2 先土器時代の単位集団
   2.3 縄文時代の単位集団
   2.4 弥生時代の単位集団
  3 節 単位集団持続の特殊性と一般性
   3.5 先土器時代から縄文時代へ
   3.6 縄文時代から弥生時代へ
   3.7 単位集団持続の一般要因
  4 節 人格的ネットワーク社会としての先土器・縄文社会
  5 節 小規模灌漑農耕と社会システムの形成
   5.8 弥生社会形成についての二つの立場
   5.9 弥生時代における集団間抗争と秩序形成
   5.10 小灌漑と社会システムの発生
   5.11 物資流通と社会システムの広域的展開
  6 節 社会システムと物質流および剰余の機能


第 5 章 日本社会システムの起源   (副目次へ

1 節 日本考古学の成果   (副目次へ

この章では,日本の歴史においてシステム化された社会,社会システム*がいつどのような要因で発生し,その時点でどのような構造をもっていたのかを検討する。これまでの章で述べてきたように,システム化された社会とは抽象的にいえば,社会の全体性*が,その背景にある基礎的な主体の相互連関的構造から相対的に自立して存在する機構にになわれている一つの特殊な社会である。この自立的な機構を私たちはマクロシステム*クロシステム}と呼び,マクロシステムを動機づける目的をマクロ目的*クロ目的}と呼んだ。一方基礎的な構造をになう主体の目的をミクロ目的*と呼びそれらの相互連関的構造をミクロシステム*と呼んだ。

このような構造をもった社会は日本の歴史上いつまでもさかのぼって存在するわけではない。日本列島における人間の歴史は縄文時代*の開始,すなわちいまからおよそ1万2000年前よりも数万年,さらには数十万年さかのぼることがわかってきている。しかし,社会システムの発生を確実にさかのぼれるのは,ほんの2000年前までにすぎない。すなわち,日本列島で水稲農耕*を主要な生業とする社会が発生した弥生時代以降のことである。私たちの課題は,弥生時代*以前の縄文時代や先土器時代*の社会と比較させながらそれらの共通性や差異性をとらえること,そして弥生時代に社会システムを発生させるにいたった要因や構造を具体的にとらえることである。

水稲農耕の開始の時期に,日本人の祖先が文字を使用していた事実は知られていない。したがって,この時代の社会と文化を知るためには,発掘された資料と考古学*という知識の体系が必要である。社会システムの形成*の前後を歴史上でとらえるためには,集団の構成や相互関係が明らかにされなければならない。しかし,文字の記録がなく,遺物や遺構(注1*だけが与えられるなかで集団関係を抽出しようというのは困難で,推測の積み重ねが誤った像に収束する可能性もある。遺物や遺構は社会を構成していた物的な対象である。これに対して,集団間の関係は一種の規範にもとづくものであり,観念的なかたちでのみ表現可能で直接的には後世に残らないものである。しかし,遺構や遺物には,濃淡はあるが,それ自身や発見された状況に集団関係が反映している場合がある。

日本考古学*は,戦後の膨大な発掘資料を基礎に,日本の原始・古代の社会や文化を理解するための広い範囲におよぶ成果を生み出した。ここでは,この成果のなかから一筋の系列を利用するにすぎない。とくに,さまざまなクラスの集団の構造と相互関係に関連するものである(注2)。文字のない社会にかんするこの点についての成果は,現在にいたる日本考古学の最も重要な成果の一つであると,私は考えている。

本章を構成するにあたって数多くの日本考古学の研究者の研究成果を利用した。なかでも近藤義郎と都出比呂志の研究にたいする依存度はきわめて高い。ものを語らない考古学的な遺物や遺構から原始社会の集団関係,したがってその社会構造を描き出そうとする二人の研究者の執念は人を圧倒するものがある。しかし,二人の描き出す原始社会像には無視できない重要な差異が存在する。単純化による誤りを犯すことを覚悟しながらあえて述べれば,原始社会における集団関係の変遷を近藤はより包括的な,より上位のクラスの集団内部の下位クラスの小集団間の再編という軸にそって語り,都出は小集団の連鎖的社会から上位クラスの集団が形成されていく過程を軸に描いているのである。もちろん,二人が依拠している考古学的事実が大きく異なるわけではない。ほとんど差異がないといってよい。しかし,事実の解釈において異なってくるのである。私は,都出の描く原始社会像が,より考古学的事実に対して整合的なものであるという立場をとった。その理由は,以下で明らかにする。ただし,このような原始社会像の差異にもかかわらず,二人の研究者から学びとりえたことは同じくらい大きなものであった。

2 節 原始社会と単位集団   (副目次へ

2.1 単位集団論の意義   (副目次へ

原始社会*とは日本史上の時代区分で弥生時代も含めそれ以前の社会をさす。したがって,弥生時代に先行する縄文時代さらに先土器時代*も含む(注3)。戦後の日本考古学は,これら原始社会全体をとおして,さまざまな規模の集団が相対的に小規模で画一性のみられる単位集団*によって構成される傾向のあることを明らかにした。それはおよそ20人から30人,あるいはそれを大きくはずれない程度の構成人員からなる集団である。したがってそれは,両親と子供あるいはその近親者からなるまとまりとして家族を想定すれば,数家族からなる集団といってもよいだろう。集落*という,住居の空間的集住が認められる場合,もしそれが小集落であるならば一つの単位集団からなり,より大きな集落の場合はこのような単位集団が複数集まることによって構成される傾向が存在するのである。このような単位集団の確実性は,より新しい時代ほど高まるようだ。そして,原始社会において,この単位集団を認識することは,集団構造を把握するうえで特別な意義をもっている(注4)。

集団としての社会をとらえるうえで最も確実な接近方法は,社会の人口の全体の把握である。社会*という言葉には,必ずしも地理的に境界づけられた範囲内の人間集団という意味あいは含まれない。それよりも,集団の構成主体のすべてに共通のなんらかの指標がみられることが重視される。弥生社会,縄文社会,先土器社会も土器様式*や生業のあり方など,それぞれ構成主体に複数の共通の指標が存在する。もちろん,どの指標を社会の共通指標とするかについて,ときに意見の分かれることはある。しかしこの,共通の指標でとらえられた人口の全体は,すべての時代に確実に存在していた実体である。

原始社会を,構成主体間で差異性にとぼしく一様性が支配し,緊張感のないあるいは没個性的な平等性*が支配していた社会としてみるならば,人口の全体という一次的接近ですませてしまえばよいのかもしれない。もちろん,環境としての自然は多様であり,人間の住めない山岳や河川など自然の生み出す境界性による人口の区分が集団間の差異性を生み出すとしても,集団の特性をとらえるうえでの差異性にはならない。しかし,自然的な境界もこえて,集団の主体の小規模な単位性にこだわっているとするなら,この主体としての単位集団がより大きな集団あるいは社会をどのように構成しているかを問題にせざるをえなくなる。つまり,社会という集団の構造を認識しなければならなくなるのである。そして,単位集団を主体として社会の構造をとらえることは,まずどのように単位集団相互が関係し合っていたのかをとらえることである。

単位集団*は原始社会の認識のためのミクロ的な視座*を与えるのである。ミクロ的な視座とは簡単にいえばそれぞれの主体の側から,それによって構成される全体をとらえる視点である。しかし誤解のないように述べておけば,単位集団は単なる社会認識のための手段として意味をもつのではなく,社会の現実そのもののなかに客観的に存在しているものである。なによりも原始社会の人々が核家族*をこえた規模の集団でありながら,大集団ではない規模の集団のまとまりを意識的に維持したという現実がある。直接的な記録が残ることはないが,その単位集団の規模にたいしては「クニ」,「イエ」などに対応するような,なんらかの名前が与えられていたはずである(注5)。

単位集団が,家族や世帯といった集団の内容を問題にしていない,集団の構造のなかの相対的な位置ないしはクラスをあらわす概念にとどまっていることも注目すべきである。これは,それだけこの概念が抽象性の高いものとなっていることを意味する。そのことが,集団のなかの抽象性の高い構造をとらえることを可能にし,時代をこえた有用性を生み出すのである。

2.2 先土器時代の単位集団   (副目次へ

先土器時代*は日本において縄文時代に先だつ時代のすべてをさす。縄文時代への移行期をおよそ1万2000年前と考えると,それ以前の日本列島に人類が登場する時期までの全体が含まれることになる。人類の祖先である猿人*は400万年前には存在していたといわれている。そこまではさかのぼらなくても,200万年前までを考えるならば,先土器時代は地質時代で更新世*,氷期の区分ではドナウ寒冷期からヴュルム氷期までにあたることになる。そして,縄文時代の開始は地質時代で完新世*,氷期の区分ではヴュルム氷期*が終わって日本列島がだんだんと暖かくなりはじめた時期にあたる。また,先土器時代は石器時代の区分で旧石器時代*に対応する(注6)。

先土器時代の日本列島に住人がいたことが確かめられたのはそれほど古くはなく,群馬県の岩宿遺跡*における更新世の地層から旧石器が出土したのは1949年である。それ以降,たくさんの先土器時代の遺跡が発見され,宮城県の馬場壇遺跡などは10万年から20万年前のものである可能性も指摘されている。先土器時代の遺跡を残した人々は,氷期における海面の低下によって,日本列島が陸の橋や氷の橋で大陸とつながったときに,大陸性の大型哺乳類*とともに渡ってきた可能性がある。この時代の主要な生業は,狩猟と採集であったと考えられ,寒冷化した気候などを考慮すれば,狩猟の比重が相対的に大きかったようだ。岩手県の花泉遺跡や長野県の野尻湖立ヶ鼻遺跡ではナウマンゾウやオオツノジカなどの遺物が大量に出土し,キルサイト*(解体場)であったと推定されている。また,食べられる植物として,亜寒帯針葉樹林帯*ではチョウセンゴヨウの実など,落葉広葉樹林帯*ではクルミやクリなど,照葉樹林帯*(常緑広葉樹林帯*)でシイ・カシ類のドングリなどが利用されていたと考えられている(注7)。

こうした先土器時代における集団関係をとらえるうえで,縄文時代以降と比較していちじるしく不利な条件の一つは,住居跡が明確に残っていないことである。縄文時代や弥生時代においては,竪穴住居*が使われていたために,幅数メートルの掘こみが遺構として発掘されるが,先土器時代は簡単な組木に皮などをかけたものであったと思われ,遺構が残りにくい。そのために,先土器時代の集団のあり方の推定のためには,発掘された石器の空間的分布などが重要な役割を果たすことになる。もちろん,このような作業が大きな困難をともなうものであることは避けがたい。

近藤義郎は,1976年に発表した論文,「先土器時代の集団構成」のなかで先土器時代の集団関係の把握にかんする先駆的な見解を発表した(注8)。そのなかで,まず,先土器時代の遺跡における遺物の散布範囲が小さいことをふまえて,集団の構成単位が規模の小さいものであることを推定している。また,数メートルの範囲で遺物の集中する個所(ブロック)*があり,それらが三ヶ所ほど隣り合って存在する状況が,新潟県の神山遺跡,山形県の金谷原遺跡,埼玉県の砂川遺跡,長野県の石子原遺跡などによって確認され,それらの隣接ブロックが同時に存在した可能性の高いことを指摘する。そして,これらのブロックが一つの血縁的小単位をあらわし,一つの住居のなかか別々の住居のなかかは明確ではないとしながら,三つの隣接する小単位のまとまりもまた血縁性の高い集団であったとみて,このまとまりを単位集団*と呼んだ。先土器時代における遺跡の状況が大きく変化しないことに,この単位集団の安定性をみている。ただし,これらの単位集団は自立したものではなく,単位集団のいくつかが自然的に区画された領域のなかで集団群を形成し狩猟などの必要性からときには集中しながら生活していたと指摘する。

これとほぼ同じ時期に発表された論文のなかで春成秀爾は,先土器時代の遺跡について近藤とはちがった解釈を与えている(注9)。近藤は先土器時代の遺跡が全体として小規模であったとしているのにたいして春成は小遺跡とともに大遺跡が同時に存在していると推定する。その理由は,小遺跡のなかには未発掘地をかかえている可能性のあるものが存在すること,およびブロックが必ずしも住居跡を示すものではなくブロック群に囲まれた全体のなかに住居が存在した可能性をあげている。小遺跡は一つの単位集団によって構成されたものであるとしている。そして,大遺跡をいくつかの単位集団が,大型動物*などの狩猟のため季節的で一時的な野営地となった場所であるとみなすのである。この背景として,大型動物の移動範囲が数百キロメートルにおよび,集団の動きの範囲を大きくこえているために,集団にとっては大型動物の存在が季節的なものにならざるをえないという認識がある。単位集団は,このような共同狩猟*以外の時期は,採集や小動物の狩猟によって食糧をえていると考えるのである。大型動物の狩猟のための単位集団の集中の必要性は近藤が指摘した点でもあるが,春成はそれに一つの一貫した理論性を与えたという側面があることを見落とすことはできない。

この春成の議論にあるような先土器時代の大集団*の存在可能性について慎重な検討が必要であることを,稲田孝司は「旧石器時代の小集団について」と題する論文のなかで指摘した(注10)。稲田は,春成もとりあげた埼玉県の砂川遺跡の場合でも,三つのブロックが隣接する群が二つ存在するのは,同時存在というよりは一つのブロック群を残した集団が異なった時期に居住したものである可能性を指摘した。そして,先土器時代の大きな傾向として日常生活集団の規模の小ささと移動の激しさをあらためて強調した。

三つのブロックからなる単位性のある集団のあり方は鈴木忠司によっても示されている(注11)。静岡県の寺谷遺跡では,石器同士の接合関係を調べることによって,全体の遺跡群が隣接する15メートル幅の二つのグループに分かれ,それぞれのグループの利用した石器の組合せがまとまりと自立性をもつことからそれぞれが一つの世帯と呼ばれるものを形成したとみられる。そして,状況からこのような世帯がもう一つ存在する可能性があるため,この遺跡はおよそ三つの世帯の生活が遺跡となったものと考えられるのである。また,富山県の野沢遺跡でも,石器の接合関係と石器の種類の組合せから,三つの世帯が一列に並んで生活をしていたことが想定されると指摘している。

以上のように,先土器時代に,三つ前後の核家族的な世帯が一つの緊密な関係のもとにある小規模の単位集団を構成していた可能性については,他にも,戸沢充則や小林達雄によっても指摘されている。このような小集団のあり方は,先土器時代全体をとおしてはっきりとした存在感をもっていると考えられているのである(注12)。先土器時代が縄文時代に先行する時代でありながら,単位集団のあらわれ方では,次にみる縄文時代のそれとは必ずしも劣らない面が存在する。それは,この小単位集団の移動の激しさと関連していると,私は考えている。縄文時代にはいると相対的な意味でしかないが,定着性が高まる。そのことによって,住居が重複して建てられるなど,遺跡に残される集団の単位性が逆に不明確になってしまうのである。

2.3 縄文時代の単位集団   (副目次へ

縄文時代は弥生時代に先行し,主要な生業が採集・漁撈・狩猟によるものであった時代である。いまから1万2千年前,縄文土器の出現とともにその草創期が開始された。さらにすすんで,竪穴住居*の一般化や漁撈の開始などの指標による縄文時代の開始以降でも,約8000年ほどの期間がこの縄文時代にあたるのである。したがって,この期間は弥生時代以降現代にいたる期間の数倍の期間持続したことになる。この時代の社会は,野蛮が支配し人々が日々の食糧に事欠くような社会ではなかった。この社会は,自然がもたらす多様な恵みを巧妙に利用し,考えられていた以上に高い到達点をきずいた文化であることが近年明らかになってきている。縄文時代の人口*が中期にピークをみせるものの全体として停滞していることをとらえて,自然制約を克服できず停滞した社会とする評価がある(注13)。しかし,それは逆に自然の豊かさと人口の調和をとることができた柔軟な社会であるとみる可能性も同じ程度に存在するのである。縄文時代は局所的な自然破壊はありながらも,全体としては自然との調和を厳しく追及し,そのなかでの豊かさを享受し,結果として社会・文化の高い永続性を実現できた社会であると私は考えている(注14)。

縄文時代における集落としてあらわれた集団の最も重要な特徴の一つは,相対的に大きな集落がありながらも,全体としては分散した小集落が支配的なことである。そして,単位集団はこの小集落の形態において確認されている。縄文時代の単位集団について,理論的な言及は近藤義郎がおこなっているが(注15),ここではまず考古学的事実との関連で議論した小林達雄の論文「原始集落」に注目しよう。

小林はまず縄文時代の遺跡をA〜Fのセトルメント・パターン*に分類する(注16)。このうちA〜Cが住居跡をともなう。Aは「相当広い平坦面を有する台地上に立地し,ときには百棟をこえるほどの多数の竪穴住居跡や多数の貯蔵穴などのピット群あるいは墓壙群などがある」。このパターンの重要な特徴は,遺跡中央部に住居群に囲まれた広場があらわれていることである。また,「土偶・石棒などのいわゆる精神文化あるいは世界観にかかわる特殊な儀器などの遺物<第二の道具>*」を含んでいる。このパターンの村を縄文モデル村と呼んでいる。BはAよりも小規模で貯蔵穴や墓壙そして住居以外の遺構が少ない,あるいは存在しない遺跡である。Cは住居跡をともなう最も小さいパターンで,1・2棟の住居跡があるくらいのものである。

このセトルメント・パターンAの遺跡である埼玉県の高井東遺跡の場合,10段階にわたって住居が営まれ,各段階において全体で竪穴住居3棟ずつが中央広場を挟んで建てられていたと考えられている。あるいは,同じAパターンの遺跡であり,300棟以上の住居跡がみられる群馬県の三原田遺跡などでも一時期には3棟から数棟の住居が営まれていたと推定されている。このような同時存在の住居数の小規模性はBパターンの場合の遺跡についても確認できる。これらの事実を小林は次のようにまとめている。

こうして,同時に存在した住居数の割り出しを他遺跡にも進めてゆけば,おそらくいずれも三棟からせいぜい数棟程度であった事実を,ますますはっきりさせてくれるものと予想される。つまり,一つのムラには,通常は三家族から数家族の集団が居住していたことを物語っている。これをかりに単位集団とよべば,広場をもつセトルメント=縄文モデルムラの単位集団も広場をもたないセトルメントの単位集団も,その規模,すなわち構成人員の数はほとんど同じ程度であったのである。この単位集団の規模こそ,縄文社会の基本的な単位,すなわち縄文サイズともいうべきものとなるのであろう。・・・・・この縄文単位集団の集団性は,竪穴住居の三棟から数棟の寄せ集まりという点に集約される。

また,縄文集落の小規模性*について,多数の資料からえられるその傾向を定量的に示したものとして,羽生淳子の研究が注目される(注17)。羽生は,関東地方において縄文時代前期後半およそ5000年前に用いられた諸磯式土器の用いられた遺跡について,それらの住居跡数の分布を詳細に調べた。その結果,まず,各遺跡の総住居跡数を1000平方メートル以上の69遺跡についてみると4棟以下の住居跡数の遺跡が54で全体の78.3\%に達することがわかった。つまり圧倒的多数が,小林達雄が縄文サイズという単位集団の規模に近い小規模集落なのである。もちろんすべてが小規模ではなく,10棟をこえるような住居跡の遺跡がこのうち8遺跡存在し,また20棟以上残した遺跡も3存在する。しかし,縄文遺跡の小規模分散性は明確に示されているのである。

さらにこの69遺跡のうち,諸磯式土器*のより細かな6期の区分が可能な51遺跡について,遺跡のちがいと細分された期のちがいをともに考慮し区別すると,88.5\%が4棟以下の住居跡になってしまう。そして,10棟以上の住居跡をもつ区分は一つになってしまうのである。また羽生は,諸磯式土器の用いられていた時期である諸磯式期以外の四つの時期についても,利用可能の資料の範囲内で住居跡数の分布を調べているが,およその傾向は諸磯式期に等しい(注18)。

このように,小規模の集団が集落を構成するという意味でそれ以上分解できないような単位性を有していたことは推定できるが(注19),弥生時代にそうであったように,存在していたと考えられる大規模な集落においてもこのような単位集団が機能していたかどうかについて考古学による確認はおこなわれていない。しかし,集落規模にこのように強くあらわれた小集団性が大集落の一つの構成集団になっていた可能性は高いと考えられる。

2.4 弥生時代の単位集団   (副目次へ

弥生時代における集団関係をみるためには,考古学における縄文時代以降の原始社会全体にかんする集団性の問題を先駆的にとりあげた和島誠一の議論をふまえる必要がある。戦後間もない1948年に和島は論文「原始聚落の構成」を公表し,そこで考古学上の事実にもとづきながら原始社会における集落の変遷を理論的にとらえる試みをおこなった。考古学にもとづく集団関係の理論的把握に新しい境地を開いたものとして評価されている。この論文で和島は,縄文時代以前の集落においては血縁性が支配する集落ないしは氏族共同体の,共同所有にもとづく集団規制が強く,その集団のなかから集落の構成主体が自立性を確保することは困難であったと論じ,農耕が開始された弥生時代においてようやく集落内部の小集団があらわれたとしている。注目すべきは,弥生時代にかんして,福岡県の比恵遺跡における発掘結果をもとに「数個の竪穴が1単位として聚落の内部に分岐する事実」と集団の単位性にすでにこの段階で触れていることである(注20)。ここで,「竪穴」とは縄文時代,弥生時代をとおして最も広く用いられていた竪穴住居のことである。ただし,この論文の場合,小集団が氏族共同体*としての大集団のなかからの分岐の結果あらわれたものとしてとらえられ,歴史上の一貫性と確実性を有しているのはあくまで上位クラス集団としての共同体になっている。そして,集団規制*はこの段階でも強かったと主張され,集団の主体とその全体という緊張関係の位置づけは弱い。

弥生時代における単位集団論の発展の出発点をなす重要な論文は,近藤義郎が1959年に発表した「共同体と単位集団」である(注21)。近藤がこの論文で意図したことは考古学的事実にもとづく共同体概念の明確化であった。そこでは共同体*の構造をとらえ,共同体の構成主体として単位集団*の存在を指摘したのである。またそれは,社会の発生史的に単位集団が先行するという意味ではまったくないが,単位集団を基礎にした集団関係の認識の必要性を示した点で大きな意味をもっている。ただしその後,近藤は単位集団のまとまりを共同体とは呼ばずに,単に集合体と呼んでいる。単位集団という抽象概念にたいしては,共同体のような具体性をもった概念よりは集合体のようなより抽象性の高い概念を対応させる方がよいと考えたものと思われる。

近藤のあげている考古学上の事例を示そう。岡山県の沼遺跡(弥生時代中期)には溝と地形によって区画された領域に同時期に存在した可能性の高い5棟の竪穴住居の跡がみられる。さらに,共同で使用されたと思われる高床倉庫と作業小屋の跡も発見されている。近藤は,棟の遺跡が一つの単位集団を示しているとし,生産における経営の単位でもあったと指摘している。経営単位とは,ここでは,耕地や水利などでの条件が与えられたもとで,耕作と収穫という点での自立的な計画と作業をおこなう単位と考えればよい。そして,これらをただちに共同体とするのではなく,これらがいくつかのまとまりが水利・灌漑施設*の維持管理もおこなう生産単位としての共同体を形成するとしている。また,福岡県の比恵遺跡はこれらの単位集団が環濠に区画されながら集住した例としてとりあげている。近藤は,その後もいくつかの文献で単位集団論を展開しているが,1983年の『前方後円墳の時代』においては多くの事例にもとづいて多角的な議論をおこなっている(注22)。

近藤による単位集団論の提起以降も,多くの考古学者によって弥生時代の集団構成主体としての単位集団は確認されてきている(注23)。沼遺跡のような,単位集団が一つの集落を構成している場合や比恵遺跡の場合のような単位集団が区画されている場合は,単位集団の把握そのものも比較的容易である。前者の事例としては他に,17の竪穴住居跡(同時存在はおよそ4棟)と高床倉庫からなる大阪府の紅茸山遺跡あるいは岡山県の貝殻山遺跡などがある。後者の事例としては他にも,福岡県の宝台遺跡のように,数カ所の丘陵の尾根の一つ一つに単位集団が集住している場合や,岡山県の用木山遺跡のような,区別された段丘に単位集団が集住している場合などがある。このような場合は,沼遺跡の場合とはちがって,単位集団の集合体そのものもとらえやすい。

さらに,弥生時代の比較的大集落で竪穴住居跡の配置にそのものが区画されていない場合でも,単位集団の存在が確認されている。神奈川県の大塚遺跡は長径200メートル,短径130メートルの環濠によって区画された内部に同時存在の住居が25〜30棟存在し,150人程度の人口を抱えていたと考えられている。都出比呂志はこの集落の住人の共同墓地であったと考えられている歳勝土遺跡における方形周溝墓の配置から単位集団の存在を推定した。方形周溝墓とは,弥生時代に登場した周囲に溝をもちおよそ5〜6体が埋葬されているものである。歳勝土遺跡の方形周溝墓群には規則性があり,一つの世帯が2〜3世代営んだユニットが,数個集まって一つの支群を構成している。都出はこの支群が単位集団(都出の世帯共同体*)に対応するものだと推定している(注24)。

また甲元眞之は,大型住居跡*の存在比率によって大集落における単位集団の割り出しをおこなっている(注25)。先にあげた沼遺跡や貝殻山遺跡あるいは宝台遺跡でも大型住居が存在している。また,最古の農耕集落遺跡の一つである福岡県曲り田遺跡でも5〜6棟に1棟の割合で大型住居跡*が存在している。このような大型住居跡の混在は大集落,小集落であるかにかかわらず存在していることから,甲元はこれが弥生時代に共通するものであり,単位集団を有機的に結びつける共同家屋とみている。そして,大塚遺跡の場合も,およそ5棟に1棟の割合での大型住居の存在が想定されることから単位集団の存在を認めている。

このような単位集団*は,すでに述べたように集団関係上の相対的な位置ないしはクラスを与える概念であるが,その集団の内容,結合関係からとらえた概念も提示されている。近藤義郎は内容からみた単位集団を家族体*と呼んだ(注26)。これにたいして都出比呂志は世帯共同体*という呼び名を与え,高倉洋彰は家族集団*という名前を与えた(注27)。いずれも対象にしている単位集団のとらえ方にはほとんど差がない。ちがいは,単位集団の内部での緊密性あるいは共同性のとらえ方の差によるものと思われる。近藤義郎は初期の論文では弥生時代における竪穴住居跡が炉の跡をもたないことからその消費における自立性を相対的に低くとらえ,それにかわって単位集団が経営単位であるだけでなく消費の単位でもあったと論じた。その後,竪穴住居跡単位の消費生活を認めているが,このような単位集団の家族的な緊密性が家族体という名前に反映していると考えられる。高倉の場合も,食生活の共同性による家族的機能から家族集団と呼んだ。これにたいして,都出比呂志は竪穴住居跡から炉の跡が発見できないのは,西日本の弥生式の炉が炉底の過熱されない「灰穴炉」の構造をもっているためであるとし,竪穴住居単位の相対的自立性を高くとらえている。そして,大型住居跡についても家長の住居とみている。すなわち,単位集団内にも個別性と全体性の対立*という集団性の問題があらわれている点をみているのである。

3 節 単位集団持続の特殊性と一般性   (副目次へ

考古学的にとらえられてきた,先土器時代から弥生時代にかけての単位集団について以上のようにまとめてみたが,ここでなぜ小規模の単位集団がこの原始社会をとおして存在しつづけたのかについて検討しよう。単位集団がくりかえし,いたるところで再生産されつづけたのには,先土器時代,縄文時代,弥生時代のそれぞれに特殊な要因が存在したであろう。またそのちがいは,それぞれの社会のなかでの単位集団の機能のちがいとしてもあらわれたであろう。しかし一方で,この原始社会全体をとおして一般的な,共通の要因の存在も軽視することはできないと考えられる。この二つの側面から,原始社会において単位集団が成立し持続した要因を検討しよう。

3.5 先土器時代から縄文時代へ   (副目次へ

先土器時代において,それぞれの単位集団が分散して生活している状態と単位集団が集合して集団を形成している二つの形態をとったとする仮説は近藤義郎と春成秀爾に共通しているところである。大型動物*の狩猟をおこなう場合には一時的に集合し,日常的な採集活動や小動物の狩猟の場合には分散した形態をとっていたとみるのである。これを前提にしながら,近藤は「それではなぜ,単位諸集団は結集して常時的に存在しなかったのであろうか」という当然の疑問をみずから提出している。そして,それにたいする解答は,集団を維持するための採集と小動物の狩猟に必要な行動範囲が大集団の場合大きくなりすぎ,食糧確保のうえでの飢餓の危険に脅かされるからであると述べている(注28)。

この単位集団の形成要因であった大型動物の狩猟は,オオツノジカなどをのぞいてナウマンゾウやヘラジカなどの大型動物が先土器時代末期,つまりヴュルム氷期*が終わりに近づくにしたがって衰退し,それにつれておこなわれなくなったと考えられる(注29)。このことは,縄文時代へは集団の分散性の要因のみが引き継がれていったことを意味する。近藤義郎は論文「縄文文化成立の諸前提」のなかで先土器時代から縄文時代にかけて生活・生業にかかわる技術の変遷と集団性の関係を論じている。まず第一に狩猟における槍*から弓矢*への変遷である。弓矢は小型動物の狩猟に適するとともに,「槍による狩猟として発達してきた集団狩猟*という労働形態・労働組織に大きな影響を与えた」とみられる。そしてこれによって,単位集団あるいは個人のレベルでの狩猟が可能になり,単位集団の自立性*が促進された。

第二に土器の利用の開始である。これによって食糧として利用可能な植物の種類が増大し,生業のなかにおける採集活動の比重を飛躍的に高めた。そして,「採集は,原則として個々人による個別労働として行われるから,採取が多様化し発達してくることは,生産労働全体において個別労働が果たす役割が重要になってくることを意味する」のである。この個別労働の重要性の高まりは,また単位集団の自立性の高まりをも意味する。

第三に漁撈の発達である。漁撈*といっても,単位集団が集合しての大規模共同漁撈ではなく,単位集団ごとの分散的漁撈にとどまっていたと考えられる。そしてここにおいても単位集団の自立性の高まりがみられるのである。

このような単位集団の自立性の高まりが,すでに述べたような縄文社会における傾向としての集落の小規模分散性*につながっていくのである。そして,これは同時に縄文社会における単位集団の分散性*を意味する。また一方,以上に述べたような意味で,先土器時代から縄文時代にかけての単位集団の変遷には連続性があったと推定できる。この連続性の背景には,生業が狩猟・採集によって成立していたという二つの時代の共通性がある。

3.6 縄文時代から弥生時代へ   (副目次へ

次に縄文時代から弥生時代*への単位集団の変遷について検討しよう。この変遷をとらえる場合に,縄文時代の集団がどのように水稲農耕を受け入れていったのかをみることが不可欠の作業となる。弥生時代の開始については,大きくは土器の変化でとらえる立場と水稲農耕でとらえる立場があるが,ここでは後者のように,日本で灌漑水稲農耕*がはじめて開始された時期を弥生時代の開始としてとらえる(注30)。したがって,弥生時代にいたっても縄文社会と同様に狩猟・採集で生業を維持していた地域や集団の存在を認めるのである。またこの基準によれば,逆に,縄文時代に灌漑農耕以外の農耕が存在する可能性も否定しない。

水稲農耕は,技術的な完成された姿で北部九州の玄界灘に面する地域に導入された。そこには,灌漑技術も含めた水田の開発と維持の技術,機能分化した木製や石製の各種の農耕具,さらには鉄器などをともなっていたのである。この水稲農耕が普及し定着する過程は複雑であるが,3種類の動きとして整理しておこう。第一は,朝鮮半島からの渡来人*による水稲農耕のもちこみである。第二は,縄文の伝統をもつ在来人による水稲農耕の受け入れである。第三は,水稲農耕のもとで先行的に拡大した人口が他の地域に移住したことによる,新しい農耕文化の普及である。

まず第一に渡来人*の問題である。水稲農耕もたらした朝鮮半島からの渡来人が存在することはほぼ確実である。西九州の北半分に集中して存在する支石墓*について(注31),都出比呂志は「渡来集団の第一代目の墓」とする見方を述べている(注32)。これにたいして,小林達雄は,「もし真実そうであれば,西北九州一帯の支石墓の数から相当な渡来者数があったということになる」と指摘する(注33)。この渡来人の規模がどれだけであったかという問題の検討は,水稲農耕という技術が伝統的社会に与えたインパクトを評価するうえで避けてとおれないものである。水稲農耕はほんの数十年のうちに,西日本一帯に広がるとともに東北にまでその前線は到着している。また,それは単に体系的な水稲農耕技術にとどまらず,それにともなう農耕祭祀など多様な文化がもちこまれた。これらのことは,渡来者集団が与えたインパクトが決して小さなものではなかったということを意味している。もし,渡来者集団が小規模であれば,燎原の火のように広がった水稲農耕は,技術的情報の到来が契機になったとみることになろう。

埴原和郎は,縄文時代末期と古墳時代末期の推定人口および他の農業社会の人口の自然増加率とによる数値シミュレーションによって,この期間に150万人以上の渡来人が日本にきた可能性を指摘し,古墳時代人の身体的特徴の分布によっても指示されることを示している(注34)。一つの推定にすぎないが,この渡来人の数は当時の希薄な人口からみると膨大な数になる。従来考えられていた以上に,水稲農耕を伝えた渡来人の規模が大きかった可能性を示唆している。もしこのように渡来人の集団規模が大きかったとすると,この渡来人が移住した地域における集団関係に大きな影響を与えたと予想される。縄文社会の血縁的な集団関係は,渡来人との婚姻関係の進行などをとおしていちじるしい攪乱を受けたであろう。

第二の,縄文文化の伝統をもつ在来人による水稲農耕の受け入れという点では,突帯文土器に注目する必要がある。突帯文土器*は,口の大きい甕形で口縁に粘土の帯をはりつけてそのうえに刻み目を連続的にいれる煮沸用の土器を指している。この突帯文土器は,「くの字形に頚部と胴部の境(頚胴部界)でカーブが反転する器形,二枚貝の殻で擦って条痕をのこす表面の仕上げ方,浅鉢との組合せなど」縄文土器の伝統を残していた(注35)。しかし1979年から翌年にかけて,この土器の時期の福岡県の板付遺跡や佐賀県の菜畑遺跡から水田遺構や灌漑設備,木製や石製の農耕具が発見された。この土器形式の時期が水稲農耕の開始,そして弥生時代*の開始期をあらわすことがわかったのである。この突帯文土器の時期の水稲農耕遺跡はその後,中国,四国,近畿でも発見された(注36)。

この突帯文土器は縄文文化の影響のなかで成立した弥生土器である。この時期に,西日本においてこの土器を利用している社会が,水稲農耕という生業の技術を受け入れたのである。春成秀爾によれば,弥生時代において木製農耕具を制作する大陸磨製石器群は,この突帯文土器の段階では北部九州の唐津平野から福岡平野の範囲に限られているということである。他の突帯文土器の社会では,農耕は受け入れてもこれらの地方のような完全なかたちではなかったのである。このことは,唐津・福岡以外の地域では農耕を開始するにあたって,その技術をもった人々の移住が主要な原動力になっていないということを意味する。縄文人が農耕を受け入れて弥生人になったのである。またこれは,近畿の突帯文土器*の時期の遺跡から土偶と石棒が出土し,縄文的祭儀*がまだ残っていたことを示すことによっても裏づけられよう(注37)。そして,このように突帯文土器にあらわれた在来人の水稲農耕の受け入れは,この範囲内での縄文時代の集団関係の継承の可能性を示している(注38)。

第三の移住をとおした水稲農耕拡大の波は,突帯文土器とそれに続く弥生前期の土器である遠賀川式土器*の関係のなかからみえてくる。遠賀川式土器に属する九州の最初期の土器形式は板付I式と呼ばれているものである。春成秀爾は,この板付I式土器の成立は「北部九州玄界灘沿岸の集団の新しいシンボルの創出」であり「縄文人と渡来人のそれぞれの主体性の衝突と妥協の産物であった」と述べている。すなわちそれは,縄文文化の伝統を断ち切って水稲農耕のなかから成立した新しい土器形式であり,みずからの足で立った弥生式土器といえよう。この遠賀川式土器は西日本一円から東北まで広がっていった(注39)。しかしその西日本における広がり方には,突帯文土器とは異なった側面がある。まず,第二の点との関係からいえば,北部九州に伝わった完成された形式の水稲農耕技術というかたちで広がるのであり,また,突帯文土器をともなう農耕遺跡とは相対的に独立な分布をしながら広がっているのである。したがって,遠賀川式土器の普及は移住という形式でおこなわれたものが多いと考えられるのである。近畿地方においては,突帯文土器の集団と遠賀川式の集団がそれぞれに農耕を営みながら部分的な交流をおこない,時間を経るにしたがって遠賀川式土器に統一されている姿がとらえられている(注40)。このような移住形式の水稲農耕の普及があらわれるのは,水稲農耕の先進地における人口の加速度的な増加によるものと考えられる(注41)。

そしてこの,移住形式による水稲農耕が集団関係に与える影響は,血縁的な集団形式の連続性にたいする強い攪乱である。突帯文土器の集団において縄文時代の集団関係の継承,ないしは連続性が存在した場合でも,移住の大規模の進行はそのような集団関係をも破壊する力をもっていた可能性が強い。しかし,結果的に小集団性,単位集団性はこの弥生時代でも継承されるのである。都出比呂志は,縄文時代・弥生時代に共通する集落の特徴を次の3点にまとめている(注42)。第一は集落を構成する住居が基本的に竪穴住居であった点である。そして,第二に,この竪穴住居が消費生活の最小単位でありながら,単独で存在することはなく血縁性の高い小集団が実質的な小集落の構成単位になっている点である。第三に,弥生時代後期をのぞいて集落構成員間の階級的格差*がみあたらず原始的共同性*のなかにあったという点である。これらのことは,縄文・弥生の両時代に,集団性をめぐる連続性が存在したことの指摘とみることができよう。すなわち,縄文時代から弥生時代にかけて,集団関係に大きな攪乱が生じ,集団関係の異質な内容を生み出しながら,また同時に連続性も存在するのである。

縄文時代から弥生時代にかけての集団関係の不連続性のなかでも単位集団が再び成立してくる要因を,弥生時代の特殊性のなかから部分的にでもとらえるとすれば,その水稲農耕の特殊性にあるといわざるをえない。それは,縄文時代における小集団・分散性が生業である狩猟・採集に起因しているとみるのと同じである。弥生時代における小集団性をその水稲農耕との関連でとらえるうえで,第一に,初期の灌漑の小規模性*に注目する必要がある(注43)。すでに述べたように,弥生時代の水稲農耕は最初から灌漑をともなうものだった。最初期の水田遺構である板付遺跡においても,小さな河川からの用水が可能な施設をともなっていた。弥生前期における完成度の高い農耕の普及は移住の波によっておこなわれた可能性が高いが,灌漑設備の建設・維持能力の小ささは,移住が小河川や大きな河川の支流にそっておこなわれざるをえなかったと考えられる。それは,移住の単位の小規模性を意味する。このような農耕の普及過程においては生産の単位そのものも小規模で,灌漑適地の分散性に対応して,分散的にならざるをえなかった。また,灌漑が小規模であっても竪穴住居1棟分の単位では,小規模の灌漑*でも建設維持が困難であったことが考えられ,竪穴住居での数単位が必要になったであろう。すなわち,単位集団は水稲農耕普及の単位であったと考えられるのである。

第二に,弥生時代の中期以降に前期と比べて相対的に大きな集落が形成される場合も単位集団がそのなかに息づいている事実は,水稲農耕の経営の特殊性と小集団の関連を示している。高倉洋彰は灌漑施設の建設や維持における生産単位が水田の経営においてはより小さな単位に分解することを遺構にもとづいて示している(注44)。滋賀県の湖南遺跡の「第1号地域と第2号地域とでは,住居と水田を画する灌漑用水溝の護岸用杭列は同時に同一用材を使用してつくられていた」のにたいし「第1号地域の畦畔に矢板列・杭列による補強がみられるにもかかわらず第2号地域の畦畔には全く認められていないなど,水田の経営・維持に個性が認めうる」のである。また高倉は,水田の補修・管理も個々の水田単位におこなわれていると指摘する。そして,この水田の経営単位は単位集団であったとみなしているのである(注45)。

水稲農耕が拡大過程においても経営単位としての単位集団を持続させるのは,この技術の特性のなかに要因があると考えるべきであろう。この点にかんしては,水稲農耕の労働集約的性格に注目すべきである。近藤義郎も,水稲農耕の労働集約的技術のもとでは「ごく自然に,注意力を集中させ諸条件を熟知しうる小経営がはるかに有効である」と指摘する(注46)。「自然に」というだけでは,必ずしも必然性が語られたとは考えられないが,水田*という労働対象の特質と労働集約性*が結びついて小規模分散経営*が成立すると考えるべきだろう。

水田は,一面に広がっている場合でもその一つ一つが地味や灌漑における位置のちがいからくる多様性をかかえている。地味とは,その水田の土壌がもつ生態学*にいう栄養塩類*のバランスのちがいである。水稲の生育のためにも窒素,リン,カリなどの相対的に多量に必要となるものから,マンガンなどの微量であっても必要とされる元素が数十種必要となる。これらの分散状況は土壌ごとに少しずつ異なっているのである。

また,灌漑においても水量の豊富さや水田を灌水させる順序は必ず異なる。これらの水田の多様性は,もし粗放的な労働投入がおこなわれれば無視されるべきものとなるが,労働集約的技術においては,これらの個々の水田ごとのちがいを認識し,それを前提に労働投入することが生産量の増加につながる。したがって,荒起こしから,弥生時代から存在したと考えられる苗の育成と田植え,草取りの時期や収穫の時期を水田の特性に応じて決定するなどの水田経営上の問題などが小規模な集団単位でおこなわれたと考えざるをえない。

3.7 単位集団持続の一般要因   (副目次へ

このような,それぞれの時代に単位集団が成立し持続した要因は,時代の特殊性に規定されているという意味で特殊要因といえるものである。しかし,この特殊要因だけでは原始社会を貫き,くりかえし再生産された単位集団の成立の要因ととらえることはできない。なぜなら,時代ごとの生業の様式やその技術水準あるいは生活技術のようなちがいをこえて存在する,人間としての高い知性の水準とその発露,基本的な血縁関係や生活様式の共通性が存在し,集団性はまたそれらにも規定されているはずだからである。

いま,一夫一妻とその子供,場合によっては少数のその近親者が加わる集団を核家族*と呼ぶとしよう。縄文時代から弥生時代にかけての竪穴住居はこのような核家族によって営まれていたと考えられている。多くの論者によって議論されてきた単位集団はこの核家族と同じではない。核家族が数単位集まることによって単位集団が形成されていたのである。単位集団という概念には,この核家族まで分解されず,かといって「20〜30人を大きくこえる」ような大集団ともならない集団規模が,集団の構成単位として選好されたことを意味している。したがって問題は,原始社会の一般的状況のなかでこのような集団規模がなぜ選好され維持されたかである。

単位集団がブロックや竪穴住居の数棟をもって構成されていることから,単位集団が核家族をも無視して形成されたわけではない。この核家族が原始社会のなかで最も共同性の水準の高い集団である。共同性*とは,構成員のあいだの関係が物的なものによって媒介されているのではなく直接的である,すなわちそれぞれの個人が固有にもっている能力や属性そして意志などによって相互関係が構成されているような集団の特性をあらわす。この特性にあらわされた直接的な相互関係を人格的相互関係といいあらわそう(注47)。そして,この共同性によって維持されている集団を共同体*と呼ぶのである。核家族はこの意味で,質の高い共同性のもとで維持される一種の共同体*である。核家族は婚姻関係*と最も近い血縁関係で構成され共同体である。ところで,この婚姻関係*は近親者間の性的関係を回避するという意味で,血縁関係*の否定のうえに成り立つ関係である。したがって,この核家族の共同体もまた血縁性を否定する萌芽を含んでいることを忘れてはならない(注48)。

核家族が数単位集まった単位集団は,構成するそれぞれの核家族間にかなり密接な血縁関係があったと考えられる。しかし,それぞれの核家族に婚姻関係による非血縁的要素が入ってくることによって加速度的に血縁性が希薄になる。このことは,共同性の重要な内容であった血縁関係が集団関係の安定要因となりにくくなることを意味している。その意味で共同性*の水準は低下する。それでも,共同性は相互の交流と意志疎通によって維持することは可能である。ただ,交流と意志疎通があればそれぞれ個性的な集団である核家族間の共同性は自動的に保証されるというものではあるまい。相互の自由を拘束する制約的な約束や,その約束をつくり上げるための手続き,その過程における集団構成員や核家族の役割が前提となった交流や意志疎通が共同性実現のために必要になる。さらに,このような交流や意志疎通の精神的前提として,集団の構成員間の世界観*やそれにもとづく価値観の共通性*もまた必要とされたと考えられる。このような約束や手続きおよび世界観は集団維持のための共同性規範というべきものである。そしてこの共同性規範*は,集団によって蓄積され継承される文化の主要な内容だったと考えられる。

この共同性規範を用いて共同性のある集団すなわち共同体を維持するためには,集団の全体的な能力が存在しなければならない。すなわち,交流や意志疎通における空間的時間的制約を克服しうる能力が,集団全体としてあるいはその構成員個々人によって発揮されなければならないのである。

この能力の重要な内容の一つとして「語り」のための時間の問題がある。語り*とは,文字とそれによる記録を用いることができない世界における,その代用手段である。さまざまな記録や継承,交流や意志疎通が語りによっておこなわれなければならないのである。人々の生業に用いるべき時間が長ければ長いほど,集団性を維持するために必要な語りの時間を確保できない。したがって,共同性*を維持できるような規模はこの語りに用いることができるような集団の能力に依存するのである。また,このような語りをとおしての交流や意志疎通を容易にするためには,神話*などによる語りそのものの定型化や,さまざまな象徴的な記号あるいは道具,あるいは抜歯*など個人そのものの肉体による表現が用いられたと考えられる。

そして,集団の規模が増大にするにしたがって,全体的な共同性*を維持することの困難もまた増大する。そして,原始社会の状況のなかでは,共同性を持続できる規模の上限がちょうど単位集団の規模だったと考えられる。

この点については,西田正規が縄文時代の集落の規模の小ささについて展開している議論が興味深い。西田は,集団規模の小ささが「技術や環境とった側面より,むしろ高い知的能力を持ち個性的な個体が形成する社会の特性という側面にも大きくかかわる現象と思われる」とし,さらに次のように述べている(注49)。

「縄文時代の集落が小規模のままであり続けたという事実から読み取るべきことは,社会的な格差や個人の権威の突出を拒否し,平等性原理にもとづいた社会関係を維持しようとする確固たる姿勢である。彼らにとっての集落の理想像は,より大きな集落を作ることではなく,少人数でしか維持できない人間関係が維持されることにあったのだろう」

西田は,ある程度高い水準の共同性*が集団内の平等性を確保するための必要条件とみている。共同性が失われるような集団規模の拡大は,不可避的に全体をまとめ,全体から自立しながら,構成員にたいして支配者的に振る舞う個人や組織を必要とし,平等性の喪失につながると西田はみているのである。平等性を求める人々の傾向が,共同性を維持できる範囲の集団規模にたいする選好につながったというのである。この西田の主張は,人々が平等性原理*を希求したという点など検証困難な仮説を含むものではあるが,説明原理としての合理性をもっていることは確かである。

単位集団は,一定の高さの共同性を確保できる集団規模の範囲内で形成されていた。縄文時代に,竪穴住居一単位による遺跡が少なからず存在することは,単位集団規模が核家族の規模に近づくこともあったことを示している。しかし,原始社会全体をとおしてみれば,数家族が単位集団を形成していた事実を読み取ることができるのであり,それは生活上の必要性,危険の回避,さらにはそれぞれの特殊要因としての生業維持のための共同労働*の必要から集団規模は核家族以上に拡大する傾向が存在したことをあらわしている。それでも,共同性がある程度の高さをもった真の共同体の単位は単位集団規模に制限されていたと考えざるをえないのである。

4 節 人格的ネットワーク社会としての先土器・縄文社会   (副目次へ

原始社会の単位集団*は,原始社会をつくり上げている構成単位である。単位集団は,それを多数包含する上位クラスの大集団の必要や規制のもとにつくり上げられたという側面よりも,人間の共同的な存在の様式と環境が必然的に要求した集団形式なのである。このような小規模な集団の単位性が存在しながら,もう一方で,共通した特徴のもとでとらえられる多くの単位集団を含む大集団も存在した。たとえば,先土器時代については共通の形式をもった石器が列島全体を包むような範囲で用いられた。縄文時代においては土器の文様や形式,土偶などの呪術*のための道具が共通の様式で広範囲に存在していた。弥生時代においては,たとえば水稲農耕の技術における共通様式から大集団をとらえることができる。このような共通な指標でとらえられる大集団性*と単位集団はどのような関係にあるのかを以下で検討しよう。

まず,先土器および縄文時代から検討しよう。もちろんこの二つの時代のあいだに差異があることはまちがいないが,議論を弥生時代とそれ以前の断層に集中させるために,先土器・縄文時代の共通の特徴にとくに注目しよう。

先土器時代における単位集団をこえる集団性については,近藤義郎が集団群というとらえ方を先に取り上げた論文「先土器時代の集団構成」のなかで示している(注50)。集団群は,単位集団の小集団では困難な大型動物の狩猟のために集まるというかたちでの,現実的基盤をもった集団のクラスをさしている。近藤は,この集団群こそこの時代の集団の本質的なあり方とみている。すなわち,「この結合関係は,生産に直結したものとして強固に維持されていたが,同時に本源的にそれは氏族共同体的関係として共通の祖先と血縁関係を軸とする恒常的で強固な交流のなかにあったと考えられる」と指摘する。この強固な集団としての集団群が,狩猟・採集という生業の必要性から分化した形態を単位集団とみているのである。近藤の単位集団論の重要な特徴の一つは,このような,単位集団をこえるクラスの集団がより本質的であることを認めることにあり,これは弥生時代における議論においてもあらわれている。ただし,先土器時代においては集団群をこえるクラスの問題については積極的に言及していない。

春成秀爾もまた,近藤の集団群のような上位の集団クラスの存在を指摘している(注51)。ただし,春成の場合,住居跡そのものの大規模性を前提にしているという点で,集団群の現実的存在を基本にしながら,その集団が離散している状態における集団のレベルとして単位集団を想定しているのである。そして,この分散時の単位集団としてのあり方が,集団群という集団のあり方に「分裂の危機をもたらすたえざる契機」を与えるとみている。さらに,春成はこの集団群のさらに上位のクラスの集団の存在の可能性を,「部族*と呼ぶにはあまりに弱いが」としながらも,考えている。また,小野昭は,先土器時代における単位集団を世帯共同体とし,その集団群を氏族,さらにその上位クラスの集団を部族というかたちでとらえ,先土器時代の集団構成をより一般的な集団関係の概念に対応させている(注52)。ただし,どのクラスの集団性がどれだけの規定的な機能を果たしているのかについては,必ずしも明確に述べていないようだ。

先土器時代の単位集団をこえる集団性について,根拠となりうるものとしては大型動物の集団狩猟が提示されているにとどまっているといえる。石器材料としての黒曜石*やサヌカイト*の長距離移動については集団間交易の結果であるか,あるいはそれぞれの集団の広域的な石器の取得と運搬の結果なのかは明確になりきらないが,上位クラスの集団構成を不可避とするほどの重要性があったとは考えられない。小規模な単位集団の分散的存在が基本的集団性で,必要に応じて集団群を構成したと考えても,それを積極的に否定する材料が先土器時代の考古学的事実から明らかになったとは考えられない。

縄文時代になると集団群の本質性の背景になっていた大型動物の集団狩猟という契機が喪失する。そして,単位集団の変遷を論じたところで述べたように土器や弓矢の出現によって狩猟・採集という生業における分散の可能性がいちじるしく強まり,遺跡においても小規模分散性*が確認されている。そして,土器によって多様な採集食糧の利用が可能になったために,生業としては先土器時代よりもはるかに単位集団の自立性*は高まったと考えざるをえない。

単位集団の自立性が高まったとしても,血縁的な関係は単位集団内で閉じることはできない。単位集団をこえて婚姻関係が成立することによって,他の単位集団との関係が成立する。このような血縁関係によって,単位集団をこえるクラスのなんらかの上位の集団関係が成立したとしても,単位集団がその自立性を低下させるとは考えられない。

他の単位集団との関係が問題になるとすれば,やはり生業をとおしてのものである。すなわち,縄文社会の単位集団は狩猟・採集にかかわる領有圏*,テリトリー*をもっていたと考えられ,この領域の設定あるいは維持をとおして相互関係が不可避であった。たとえば鈴木公雄は,縄文時代に数千年にわたって人々が生活したことによって生まれた福井県の鳥浜貝塚の場合,「人口30人内外の集団を支えるために必要とされた領域は半径5キロメートル程度であったと思われる」と指摘している(注53)。この領有圏内の植物資源,水産資源をそれぞれの季節ごとに多面的に利用しながら,この鳥浜貝塚の住人は豊かな生活を営んでいたことがわかっている(注54)。この5キロメートルという領有圏は先土器時代と比較すれば小さな範囲となったことは確かだろう。しかし,狩猟・採集・漁撈に良好な地域には単位集団が集中することは自然である。したがって,この領有圏をめぐっては単位集団の自由な設定が困難であった可能性は高く,単位集団間の調整が必要とされただろう。

この単位集団間の調整については二つの対立したとらえ方が存在している。第一は,個々の単位集団をこえた上位クラス集団の自立した存在によってこの調整がおこなわれたとみる見方である。藤間生大は上位クラス集団としての氏族社会*が小集団を規制する力は絶対のものであったろうと指摘している(注55)。和島誠一は縄文集落が中央広場を囲むように存在していることをもとに,集団の規制がおこなわれていたと指摘し,それが「濫獲を防ぐような統制力の存在が必要」であった結果としている(注56)。また,近藤義郎は単位集団の縄文社会における自立性そのものが,それをこえる集団による規制を強化したと指摘している(注57)。近藤は,単位集団をこえる共同体*が全体の利益を擁護するために単位集団への規制をおこなったとしている。そして,この上位クラスの共同体の先土器時代からの連続性にも触れている。

第二は,単位集団の領域圏が関連する諸単位集団間の相互的な承認によって維持されたとする見方である。一種の単位集団間の「棲み分け」*の原理がはたらいていたと考えるわけである。小林達雄は,単位集団の生活領域(領域圏)について次のように述べている(注58)。

「単位集団の独立性,排他性は,主として日々の食糧資源の確保にかかわる生活領域に具体的に結びつくのである。そして,この生活領域の境界を維持する,あるいは侵犯させない,侵犯しない,そしてときには積極的に生活領域の一部を共有するという単位集団間の規制が了解される関係が,単なる単位集団の寄せ集まりの集合体ではなく,有機的な統合体として社会的な意味を持つのである」

都出比呂志も縄文時代における1個ないしは2個の単位集団による分散した領有圏*による棲み分けを指摘している(注59)。また,都出は先の第一の見方にたいして対立する命題として,狩猟・採集経済が単位集団(=都出の「世帯共同体」)の連鎖としてみる見方を強調する。都出は,「採集経済社会においても世帯共同体あるいは世帯群というべき小集団が狩猟・漁撈・植物採集の活動の基礎単位であり,これが一定のテリトリー*を占有する関係を重視する」とし,「土地所有を政治的に保証する上位の組織をあまりに重視すると現実の基礎的な集団関係が軽視されることになろう」と述べている。そして,社会形成が単位集団の連鎖によっておこなわれているとも述べている(注60)。

縄文社会における領有圏の棲み分け*について具体的形態をとらえるうえで,泉靖一による沙流アイヌ*における生活領域をめぐる集団間関係についての調査が重要な示唆を与える(注61)。それは,基本的なアイヌ*の経済生活が明治にはいって,日本政府の政策によって根本的に変化させられる以前の集団生活の状況を,聞き取り調査などによってとらえようとした研究である。この調査対象になった時代のアイヌの生活は農耕が始まっていながらも,基本的生業は狩猟・採集・漁撈である点で,縄文時代の集団関係に重要な示唆を与える。

沙流川は日高山脈から西に流れ落ち太平洋へそそぐ川である。この川にそって17のkotan(アイヌのムラ)が存在していた。共通の河川に分散するこれらのkotan*の全体を常時統括する機構や首長は存在していなかったが,この流域を一つのまとまったiwor*(生活の場,領域)としてとらえる共同意識は存在していた。というのは,他の地方とのあいだに抗争があるときは,いずれかのkotanの首長が全体を統率する首長として選出され,全体がその統制に服したのである(注62)。つまり,通常はこの全体性は集団の構成員の意識のなかにのみ存在しているが,非常時にはこの地域の一体性が顕在化したわけである。このような地域は多く河川にそって存在し,それぞれが相互に棲み分けていたわけである。

また,沙流川のiworはその17のkotanによって分割領有あるいは共同利用されていたが,これらもまたiworとしてそれぞれのkotanの生活の場だった。そして,すでに述べたようにそれらのkotanを統率する機構が存在していなかったという意味で,棲み分けがおこなわれていたわけである。他のkotanのiworに侵入することはきびしく禁じられ,単に通過することも規制されていた。実際には侵入はさまざまな理由によっておこなわれていたが,きびしい罰則が存在していた。そして,あるkotanが自己のiworの資源の不足を補うためなどの理由で他のkotanのiworを利用する場合には,定められた手続きをふむ必要があったのである。

このアイヌの例で最も興味深いのは,それぞれの河川単位の地域が領有圏をもっていながら,恒常的な調整機関を有していない点である。積極的に維持された棲み分け*の原理によってそれぞれの領域の占有が可能になっていた。そして,外敵の侵入があったときに「一体性が顕在した」ということは,個々の集落をこえた一体性,全体性が日常的には潜在化していたことを意味する。このような社会の特徴は,(1)領有圏の調整における棲み分け的な原理と(2)一体性の潜在化*にあるとみてよいだろう。

小林が取り上げているアラスカエスキモー*の例も興味深い。ヌナミュート部族は20のバンドに分かれ,各バンドは4家族かそれ以上の核家族を主体とし一人以上の指導者がいた。指導者は「普通は男性で,勇気と智恵と狩猟の技術にもたけて,遠くの獲物をいち早く発見できるものに資格がそなわっていた」ということである。この部族における領有圏の維持について次のように述べている(注63)。

「バンドは固有の領域(territory)を維持し,他領域を侵すこともなく,自領域をも侵されないだけの了承が部族間にあった。この領域が食糧庫であり,燃料庫であり,種々の道具の材料庫であり,大体において地形的な境界で引かれる。しかし,部分的に重なり合うことがないわけではない。バンド*の規模(人口)によって広さが決まる場合が多い・・・・」

このエスキモー*の場合にもアイヌ民族誌*にあるのと同じような棲み分け的原理が存在したことがわかる。

縄文時代の社会における,領有圏をめぐる集団間調整のおこなわれ方として,以上の二つの見方のどちらが妥当性を有するだろうか。この点を考えるうえで見逃すことにできない事実は,縄文時代の1万年近い期間の全体をとおして,単位集団間や個人間で社会のなかでの地位がいちじるしく異なる状況が,集落の内容や配置,あるいは葬制などをみてもあらわれなかったことである。縄文時代は全体として集団間や個人間で平等性*が強く支配していた時代だったのである。もし,多数の単位集団間の利害の調整,それらの領有圏*の間の調整をおこなうための自立した調整機関や組織が存在したならば,特定の単位集団にたいしては不利な状況を受け入れさせるための強制力,支配力が存在しなければならない。このような強制力,支配力は単に精神的なものだけではなく,物理的な背景をももたざるをえないだろう。またそのためには,個々の単位集団をこえた全体的な利害を代表する集団や個人が必要になる。しかし,これらの特定集団や個人の顕在化が,縄文時代をとおしては一般的にはあらわれなかったのである。このような平等性を維持したままでの社会形成がおこなわれたとすると,上に述べた第二の方法,すなわち棲み分け的な原理によるものの方が強い妥当性をもつといわざるをえない。

このような構成主体としての単位集団とその自然の分割単位としての領有圏の棲み分けによる社会をもう少し一般的な形で特徴づけておこう。まず第一に,この社会の構造は,基本的に相互に直接に認識しあった二つの単位集団間の関係の連鎖としてあらわされる。社会を構成する任意の二つの単位集団間の相互依存関係は複数の直接的な相互関係の連鎖となっている。直接的な関係をあらわす基準としての,相互認識の直接性が重要な意味をもっている。縄文社会においては,領有圏が隣接している,あるいは部分的な共有関係のある場合,その二つの単位集団は相互に相手の単位集団がどのような単位集団か,その個別性を知りながら関係している。共有部分がある場合はその利用の仕方にたいする相手の単位集団との了解,境界についての相互的な了解があるわけで,相手の単位集団を特定しながらの関係であることはまちがいない。血縁的な関係によって二つの単位集団が相互に相手を認識することもありうるだろう。夫あるいは妻の出身たる単位集団は,必ずしも空間的に隣接しているとは限らない,どの単位集団か特定化されていることは明らかである。さらには,互酬*によって認識しあっている単位集団もありうるだろう。

第二の特徴は社会の統一性あるいは全体性が潜在化し,特定の個人や特定の集団に帰属したり代表させられていないことである。社会が統一性をもっていることは,たとえば文化,生活様式やさまざまなシンボルのなかにあらわれている。しかし,それも特定の個人や集団に結びつかないのである。もちろん,ここでの社会とは必ずしも日本列島全体というような範囲ではない。単位集団をこえた集団のクラスであればいずれでもよい。この第二の特徴は第一の特徴と表裏一体の関係にある。つまり,社会を形成する相互依存関係が主体の直接的な相互の認識しあいとその連鎖からなるならば,そこに全体性が自立してあらわれることはないのである。

このような特徴をもった社会は,本書の第1章で示した人格的ネットワーク社会*と呼ぶものにちょうど対応している(注64)。ここでの,「人格的」という意味は,主体相互の認識の直接性をあらわしている。縄文社会はこのような人格的ネットワーク社会だったのである。先土器時代も,大型動物の狩猟にかかわる集団群の存在はありながらも,基本的にこのような,人格的ネットワーク社会だったといえるだろう(注65)。

5 節 小規模灌漑農耕と社会システムの形成   (副目次へ

5.8 弥生社会形成についての二つの立場   (副目次へ

水稲農耕が導入されて以降の社会,すなわち弥生時代以降の社会がどのように形成されたかという点については,縄文時代と同様に,二つの異なる見方が存在する。この点を理解することが重要である。

第一は,この時代の単位集団を多数包含する上位のクラスの集団がはじめから存在し,単位集団にたいして強い調整力や規制力をもち,水稲農業の発展が単位集団の上位集団からの相対的自立性の進展という意味しかもたないとする立場である。

先に触れた,藤間生大や和島誠一の議論もこの立場で展開されているが,ここでは近藤義郎の議論を取り上げよう。近藤は単位集団を原始社会全体に認められる集団概念として提示しているように,社会の集団構造に注目し,原始社会が一様な集団性によって維持されていたという立場をとらない。そして,それぞれの原始社会ごとに近藤のいうところの「集団性との矛盾」,すなわち単位集団とその上位クラスの集団とのあいだの緊張の程度についてつねに注意を払っている。たとえば単位集団と集合体について次のような議論をしている(注66)。

「これらの集合体も,単位集団がそうであるように,一つの血縁的共同体であったと考えられるが,単位集団の共同性と決定的に異なるところは,それが集団性との矛盾を不断に生み出す要因である分割労働をになう単位を,うちに含んでいる点である」

そして近藤は,弥生時代における単位集団の相対的自立性による集団性との矛盾の進展に弥生時代の社会の発展の契機をとらえる視点をくりかえし提示している。

しかし,近藤は単位集団より上位の集団は歴史上先行的に存在するという視点を一貫して保持しているのである。近藤は,集団関係のより広域的発展を問題にする場合,単位集団−集合体といった集団構造をとらえる概念ではなく,集団の結合関係の内容からみた概念を用いる。その場合,すでに述べたように単位集団は家族体と呼ばれ,それを包含する上位クラスの集団としての氏族共同体*,さらに上位クラスとしては部族*の概念を用いる。近藤は,この氏族共同体が「早くも旧石器時代後期までには成立し」,縄文時代においては「一定の領域占有をより明確にするにいたった」とみている。そして,それは弥生時代においては「一定の領域内に主要な生産手段としての水田を排他的に占有し,分業を統括する一個の経済整体であった」する(注67)。そして,氏族共同体はさらに上部の集団クラスとしての部族の構成主体をともなっていたとみるのである。そして,この部族的領有が「本源的・上位的」であるととらえている(注68)。

弥生時代における社会形成のとらえ方にかんする第二の立場は,高い自立性を有した単位集団が先行的に存在し,上位のクラスの集団関係が新たに形成されていった側面を強調するものである。この立場は,都出比呂志によって考古学的事実の評価から原始社会にかんする古典的理論にたいする批判的検討などの広い文脈のなかで主張されているものである。

都出は,考古学的事実にもとづいて原始社会*における集団関係の変遷についてたんねんにあとづけた論稿を数多く発表している。それらの議論のなかにこの立場が反映しているが,最もそれを明確なかたちで論じているのは,K.マルクスの原始・古代社会*の理論の評価にかんするところである。マルクスの理論の是非をここで論ずる必要はないが,都出の主張をとらえるために触れておく。マルクスはその晩年において平等性が支配した原始的社会の集団を原始共同体*として位置づけ,この共同体の分解が新しい集団としての農業共同体を生み出したとしている。この立場はマルクスの歴史理論*ルクスの歴史理論}を正しいとする多くの研究者によって受け入れられている。これにたいして都出は,農耕以前の社会における包括的な集団関係の存在に否定的な立場をとる(注69)。

「まず農耕開始以前の何十万年間にわたる採集経済社会においては小規模な集団が経済活動の基礎単位であったが,これを基礎として,農耕開始以後は小規模な農耕経営がまず成立し,人工灌漑や耕地拡大の必要から小経営を結びつける協業が成立し,その結果として農業共同体的関係が成立する(注70)」

都出の定義する農業共同体*は,単位集団の血縁的内容を表現する世帯共同体*を複数包括する生産単位としての集団である。そして,小経営とはこの単位集団による農業経営をさしている。これは,都出による世界史的視点からのとらえ方であるが,これを前提にして,日本史上での農業共同体の成立について次のように述べている(注71)。

「(原始的共同体としての)「アジア的共同体*が解体」して小経営が生まれたのではなく,農耕社会の成立期である弥生時代の社会そのものが,すでに世帯共同体の小経営とその協業をもとにした農業共同体的関係を基礎とする社会と考える。・・・・「原始的共同体」の経済的基礎は小経営の連鎖*であると考える筆者の視点に立てば,弥生時代の農耕開始期から中世にいたる千年以上の長期間にわたる農耕社会の時代的変化は,農業共同体およびこれを体現する首長層と小経営の矛盾の展開過程として分析することになる。すなわち,水稲農耕がはじまった弥生時代においては,小経営の協業体としての農業共同体の形成過程が問題になる」

すなわち,縄文社会以前においては単位集団が分散し,それらの連鎖が社会的な統一性を構成していたとみて,それを前提にして新しい社会形成が開始された弥生時代はこの分散的単位集団から農業共同体が形成されていく過程と,都出はみているのである。

弥生時代における社会形成にかんしてはこのような二つの見方が存在するのであるが,どちらの見方によるかによって,弥生時代の社会観がまったく異なってしまうとまではいえない。どちらの見方も,弥生時代において小集団とそれを包括する集団とのあいだの緊張関係の進行,それによる単位集団への規制力は強化されたとみる点では共通性がある。最も重要なちがいは,縄文時代と弥生時代における単位集団より上位クラスの包括的集団のとらえ方にあらわれる。第一の見方によれば,上位クラスの集団が縄文時代以前においても弥生時代以降においても程度の差はあれ,単位集団にたいして規制力,単位集団間の利害にたいする調整力を有して存在するのにたいして,第二の見方に立てば,縄文以前の社会にそのような能力をもつ包括的集団は存在しないとし,弥生時代以後の新しい性格をもった上位集団の形成を問題にすることになるのである。

これまで議論した点をふまえれば,第二の立場が支持されることは明らかであろう。すなわち,縄文時代の社会は自立した一体性,全体性を代表するような個人や組織をもたない社会であり,全体性そのものが潜在化している人格的ネットワーク社会だった。基本的にその社会は単位集団間の個別的な相互関係の連鎖によって構成されていたのである。また,縄文時代から弥生時代にかけては単位集団の形成そのものに大きな断層があった。単位集団という集団構成の基礎単位の形式は維持されたものの,人口の増加と移住によって地縁・血縁関係に大きな攪乱が加えられ,社会の再形成がおこなわれる時代だったのである。



5.9 弥生時代における集団間抗争と秩序形成   (副目次へ

弥生時代は水稲農耕が開始された時代であるとともに日本において戦争が始まった時代でもあった。一方,戦争*が縄文時代以前に存在したという資料はいまだみつかっていない。それは存在しなかったと考えるべきであろう。そして,弥生時代に開始された戦争はこの時期に開始された社会システム*の形成と不可分の関係にある。

戦争*をどのように定義するかは重要だが困難な側面をもっている。R.カイヨワは『戦争論』において次のように述べる(注72)。

「実のところ戦争は,社会のある一つの在り方以外の何物でもない。一国の国民が,その生産諸力の全部あるいは一部を,破壊的な仕事あるいは破壊から身を守るための仕事にふり向けるという,そのような一つの在り方以外の何物でもない」

戦争を単に武力抗争や戦闘行為の現象からみるのではなく,社会の存在様式からとらえる必要性をカイヨワは主張している。戦闘の行為そのものから戦争をみる場合も,このよう視点が重要である。すなわち,人々がその日常の生活や生業の必要から自立した,手段,空間,資材,組織などを備え,それを前提にしながらおこなわれる破壊や戦闘の行為が戦争なのである。したがって,日常生活や生業の延長からおこなわれた破壊や戦闘は戦争とはいえない。カイヨワは,戦争をそのような非日常性の発露であるととらえるから,また戦争と祭りの同質性にとくに注目している。

縄文時代にも暴力的抗争そのものは存在した可能性はある。それは,槍が刺さったり斧によって頭を割られて死にいたった人骨が発見されているからである(注73)。もちろんこの場合も事故の可能性はあるが,抗争による可能性も否定できない。ただし,そうであったとしても発見された縄文人骨4,5千体のうち,殺されたと考えられる人骨は10体ほどにすぎない(注74)。佐原眞は,縄文時代において抗争の存在を認めながら,戦争はなかった点を強調している。その最も重要な基準となっているのは,人を殺すことを目的とした武器*が存在しなかったことである(注75)。人を殺傷するための武器というのは日常の必要性,日常性をこえた存在である。抗争のための武器が独立につくられたことを戦争の存在の基準とする見方はこの点で,強い妥当性をもっている。このような武器が存在しなかった,そして,戦争のため手段となったような遺物や遺構をまったく欠いた縄文時代には戦争はなかったし,また,全体としては平和な時代であったと認めざるをえないのである。

これにたいして弥生時代は全体として戦争の時代であった。実は,弥生時代を特徴づける最も重要な指標の一つが,この時代全体を彩っている戦争の痕跡*である。

まず第一に,およそ紀元前3世紀以降の弥生時代の村は,ほぼこの時代全体を通じて,周囲をめぐらす広く深い濠で囲まれていた。つまり,環濠集落*だったのである。環濠集落は,九州から関東までの大規模調査がおこなわれたほとんどの弥生時代の遺跡で発掘されている。すでに触れた,弥生時代開始期の農村の一つである福岡県の板付遺跡も東西約80メートル,南北110メートルの卵形の環濠をもつ。この濠は,断面がV字形で,幅6メートル深さ3メートルほどあったと推定されている(注76)。さらに,この環濠の外側にさらにもう一本の幅10メートルもあるような濠が存在した可能性も高い。これは,弥生時代に水稲農耕が開始されてまもなく,単なる村の境という意味を明らかにこえた巨大な土木工事をともなう,環濠集落が出現したことを意味している。そして,このような環濠集落の直接の起源が朝鮮半島にあることが確認されてきている(注77)。

環濠集落の規模では,板付遺跡が0.67ヘクタールを囲む環濠集落,大阪の池上遺跡は11ヘクタール,先にも触れた神奈川県の大塚遺跡は2.3ヘクタールである。小規模のものでは,単位集団のところで取り上げた福岡県の比恵遺跡は発掘されている環濠としては0.1ヘクタールである。

佐賀県の吉野ヶ里遺跡*はこれまでに発掘された最大の環濠集落である(注78)。この遺跡を例に環濠集落の変遷,さらには弥生時代の集落の変遷の一側面をみておこう。この集落の歴史は紀元前300年頃に始まる。この地に分散的に数件の竪穴住居からなる小集落の営みが開始された。そして,おそらく紀元前3世紀のうちに約3ヘクタールの環濠で囲まれた環濠集落が出現している。この環濠集落は,近隣のその他の集落の中心的役割をもったと考えられ,紀元前2世紀までその機能を維持したとみられる。それ以後この環濠の外側の地域も含めて住居数が拡大し,新たな集落が生まれるなど人口の増大が進む。環濠は紀元前100年頃には機能を失ったが,同じ地域に大規模な集落は存在しつづけた。

紀元前1世紀前半には,明確な環濠は認められていないが,死者を葬った墳墓の数が爆発的に増加し,甕棺墓が整然と長大な列をなして埋葬されるようになる。またこの時期,巨大な土盛りをもち特別な家族が葬られたとみられる墳丘墓が形成される。さらに埋葬品から,特別に埋葬されたと考えられる墳墓が登場する。次に,紀元前1世紀中頃から紀元1世紀はじめまでに,かつての環濠集落の地域を含む丘陵全体に約40ヘクタールを囲む大環濠集落が出現する。大規模環濠集落は,社会の平等性の崩壊が深刻化するとともにあらわれたのである。紀元1,2世紀には環濠集落の内部に内濠に囲まれた特別の区域があらわれ,物見やぐら(櫓)や特別な住居があらわれる。そして,外堀には,枝木を立て並べて外敵の侵入を防ぐ逆茂木(さかもぎ)*状の設備がもうけられる。紀元2,3世紀には内濠が掘りなおされ,物見やぐらが増加し,さらに,北側にもう一つの内濠に囲まれた区域が登場し,社会は一層の複雑性をみせている。しかし,この大集落も弥生時代末期には外濠,内濠が埋没し,古墳時代にはいると大きな集落は姿を消してしまう。

環濠集落*の濠に逆茂木が設置された例は愛知県の朝日遺跡でも発掘されている。朝日遺跡で,最初に環濠集落が登場した紀元前2世紀だが,逆茂木をもつようになったのは紀元前1世紀の頃である。逆茂木は二重になった環濠に埋め立てられているが,さらにこの濠の外側にさまざまな方向に向けて打ち込んだ幅数メートルの乱杭列が存在している。またこの二重環濠のさらに内側に,内濠も存在している。

このような環濠の機能が,村落の防御にあったことは確実であり,弥生時代をとおしても時間を経るにしたがって,戦争における防御施設としての機能を強めていったことが明確に読み取ることができる。

第二には,環濠集落と同様に,集落の形態のなかにあらわれたものとして弥生時代の中期から後期にかけて成立した高地性集落*がある。都出比呂志によれば,「高地性集落とは沖積平野で水稲耕作に携わる人々にとって不便と思われる高地に立地し,水稲農耕民の集落としては異常と考えられる場所にあたる集落の総称であ」り,平野からの高さが100メートル以上もあり水稲耕作が不便なものから,20〜30メートルのところにあり,平野部集落との峻別が必ずしも明確にできないものも存在する(注79)。この高地性集落の遺跡は,瀬戸内海沿岸から大阪湾にかけて数多く残されているが,九州や四国の太平洋岸にも分布している。

この高地性集落の機能については,焼畑*などの畑作のための立地であったという説,集団間抗争にたいする防御的性格をもつという説,それらが見晴らしのよい高地に立地されていることをふまえた見張りや通信機能を有した集落とする説などがある。ただし,現在では後二者の説が確実視されるようなっている。防御的性格については,この種の集落の立地条件が敵から攻めにくい高所にあることをとらえており,平野部における集落が環濠集落として防御的性格を強めたのとちょうど対応しているとみる。最後の見張り通信機能については,立地の適合性のみならず,実際に佐賀県の湊中野遺跡ではのろしを焚いたと考えられる長期にわたる遺構が発見されている(注80)。また都出は,防御的性格での環濠集落との共通性を前提にして特殊性としての見張り通信機能をとらえ,淀川流域における高地性集落が通信可能なネットワークを構成していることを示している(注81)。

第三に,戦争のための武器*が独自に製作されたことをあげることができる。弥生時代においては本来人間が狩猟などによって自然に立ち向かうために用いていた道具の一部が,人の殺傷を目的として生産されるようになった。戦争が日常性をこえたところで発生することを象徴するのがこの武器である。銅剣,銅矛,銅戈などは大陸からもちこまれ,国内で制作されたのも含め,実際の戦闘にも用いられ,これによって死亡した人骨の例も近畿や九州に存在する。ただし,弥生時代をとおして実際に使うことのできない祭りのための道具,武器形祭器に変化している。また,鉄剣,鉄矛,鉄戈などの武器も弥生時代には登場している。

佐原眞は縄文から弥生時代にかけての石鏃(石でできた矢じり)*の変化から,弥生時代に戦争が広くおこなわれたことを示した。すなわち,縄文時代の石鏃は長さ3センチ未満,厚さ3ミリ未満,重さが2グラムまでのものがほとんどだった。1万年近い期間に及ぶ縄文時代をとおしてこの重さと形態が変わらなかったのはそれを用いる対象がシカやイノシシとほとんど変わらなかったからだと考えられる。しかし,弥生時代の中期には石鏃の形態が貫通力を増すかたちに変化し,重量も2グラムをこえるものが多くなり,さらに通常ならば石器が鉄器に変わる時期であるから石鏃が減ると考えられるのに逆に増加し,しかも粗製のものが増加する。これが,この時期における戦争の激化の結果だと,佐原は判断しているのである(注82)。

第四に,戦争*によって殺されたと考えられる人骨が多数出土するようになることである。福岡県のスダレ遺跡では石剣が刺さったままの人骨,吉野ヶ里遺跡では頭がない状態で葬られた人骨,そして武器の先端部や鏃が体内に残されたまま葬られたため,それらと一緒に発見された人骨が多数みつかっている。数えられたのでも,武器の先端部が体内に残されたまま葬られたと思われるものが80体近く発見されている(注83)。しかもそれらのうち性別が判別できるものはほとんどが男性であり,戦闘の犠牲者だったと考えられている。

これらの痕跡にあらわれているように,弥生時代は戦争に発展するような集団間の緊張が全体をとおして存在した時代だった。しかも,初期における環濠集落の小規模性にあらわれているように,比較的小集団間の抗争として出発している。このことはまず,小集団を包括する安定した上位クラスの集団が弥生時代のはじめには存在していなかったという,ここでの主張を裏づけるものであることを確認しておかなければならない。ただしこれは,弥生時代全体をとおして戦争の質と規模が同じようなものであったということを意味しない。弥生時代も中期から後期になるにしたがって,抗争の主体そのものが大規模化する。つまり,より広い地域を支配する大集団がその利害をかけて対立する大集団と戦争をおこなったと推定されるのである(注84)。

問題は,弥生時代全体をとおして形態や規模を変化させながら存在していた抗争はどのような意味をもっていたかである。考古学的事実から戦争の理由を探ることは,非常に困難である。状況証拠によって結論を引き出す以外にない。弥生時代の戦争の理由については二つのややちがった見方がありうる。第一は,戦争がなんらかの物的,具体的なものを奪うこと,あるいは奪われぬよう防御することによっておこなわれたとする見方である。第二は,直接的に物的なものを対象とするのではなく,支配−被支配の関係,ないしは集団間の上下の秩序を確定するためにおこなわれたとする見方である。もちろん,後者の場合もその結果としてなんらかの物的なものの獲得がおこなわれたこともありうるが,直接的な目的には掲げられなかったと考える見方である。

春成秀爾は1975年の論文で,「石器の世界に投げこまれた使用効果が著大で絶対量が少ない鉄器*」の所有の不平等,特定の集団への偏在が矛盾から「武力による鉄の略奪」を引き起こし,これを弥生時代中期以降の抗争の要因とする見解を示した(注85)。また,春成は別の著作で耕地そのものを奪うという抗争の契機にも触れているが,こちらは弥生時代前期に限定した議論である可能性もある(注86)。これらは,明らかに第一の見方に立つものである。田中琢も「土地資源の再配分と確保,さらに,確保した土地資源の保持,武力が個々で行使された」として,土地の争奪を抗争要因に位置づける(注87)。これらは弥生時代の基本的な生業である水稲農業の生産手段の争奪を抗争要因としてみたのであるが,佐原眞は,農耕によって発生する「蓄え」の争奪が抗争の原因であったとみている(注88)。すなわち,農耕の生産物余剰の争奪を主因としてみているのである。

これにたいして,第二の見方を強調する議論は近藤義郎や都出比呂志によっておこなわれている。近藤義郎は,水田の拡大や開発の過程のなかで水系の利用が「各種の武器の出現発達に示すような氏族間の緊張を,しばしばもたらしたにちがいない」と述べている(注89)。近藤の氏族とは,単位集団のまとまりをあらわすものである。水系の利用をめぐる争いとは,直接的に物的なものを奪い合うというよりも,水は滞留しつづけることはできずつねに流れることを考慮すれば,水系利用の秩序を争うものである。また近藤は,集団間抗争が,鉄器や青銅器,塩,玉類などをとおしての交流をめぐっておこなわれたとみている。この場合も,それらを直接奪い合うというのではなく,集団を経由したそれらの流通をめぐる秩序にかんしての抗争とみている(注90)。また都出も,基本的に近藤と同様の視点を,次のように述べている(注91)。

「(環濠集落の継続は)急速な農耕の拡大とこれに伴う人口増加を基礎に耕地と水利をめぐる利害の衝突,あるいは生産用具に不可欠の石器や鉄器の原材料の確保や供給ルートをめぐる争いなど,その契機は時期や地域によって異なったであろうが,弥生時代のほぼ全期間にわたって戦闘に備える緊張が存在したためであろう」

ただし,近藤と都出では意味づけにおける重要な差異が存在する。近藤にとっては,単位集団の集合体である氏族や,またそれらの集合体である部族は弥生時代に先行する時代の集団関係を引き継ぐかたちで先行的に存在しているために,よほど広域的な抗争でない限り部族内あるいは氏族内抗争としてしか位置づけられなくなる。しかし,弥生時代における戦争の痕跡は普遍的でありまた深刻であった。それを上位クラス集団の内部抗争としてみる見方は,この時代の集団形成あるいは社会形成における血縁性の過大評価,ないしは戦争そのものにおける過小評価につながる危険性が高い。これにたいして,すでに述べたように都出の場合は弥生時代を上部クラスの集団関係の形成の時代としてみているので,抗争の目的としての集団間秩序をめぐる抗争は,同時に秩序形成の抗争であり,さらにはまた弥生時代における新たな社会関係の形成という意味をもってくることになるのである。

第一の見方は,抗争における動機づけとして直接的であり具体的であるが,普遍的に存在し,抗争をめぐるクラスがより上位のものへと変化し,そして広範な統一が達成されるとともに収束していったという結果からみれば,集団間秩序形成の意味が明確な第二の見方の方が強い妥当性をもっていると考えざるをえない。また,それぞれの抗争の直接的な動機づけが生産手段や生産物の奪取であったことも否定することはできないが,その結果もたらされたものが集団間の秩序づけであったことはほぼまちがいないだろう。

5.10 小灌漑と社会システムの発生   (副目次へ

抗争による秩序づけを必要とした背景には,水稲農耕という生産の様式がある。弥生時代に大陸から移植された水稲農耕は,すでに述べたように最初から体系的な技術がそなわっていて,それには河川灌漑のための技術も含まれていた。この灌漑*という技術は,一つの流水にかかわる集団間の秩序を不可避的に要求するものであり,しかもその秩序のなかでは自立した個別集団の自由の抑圧が必要となるものである。この水利灌漑をとおした集団間秩序の特質をとらえる前に,弥生時代におけるこの技術の内容と変遷をみておくことにしよう(注92)。

灌漑技術の内容とその発展*を,弥生時代初頭から7世紀までについて整理した広瀬和雄の研究にそくしてとらえておこう(注93)。第一段階の技術は,「自然河川に堰を設けて水位を上昇させ,溝で導水する灌漑システム」で,弥生時代初頭から後期にかけては基本的にこの段階の技術で水稲農耕がおこなわれた。第二段階の技術は,「自然河川相互を結ぶ人工流路の掘削」が加わる灌漑技術で,弥生時代末期から5世紀の中頃まではこの段階の技術にとどまった。第三段階の技術は,「堤防を構築することによって自然河川を堰き止め流路を変更する,つまり,自然河川を途中から人工河川に転換する方式」が加わるものである。5世紀末あるいは6世紀初頭から使われはじめた技術である。第四段階の技術は,「長大な人工流路の掘削による計画的大開発と溜池灌漑の普及」によって特徴づけられ,7世紀初頭以降に用いられた。

したがって,弥生時代の灌漑技術は,このうちの第一段階から第二段階にかけてのものである。まず第一段階の灌漑技術の特徴をみておこう。福岡県板付遺跡の弥生時代初頭の突帯文土器の時代の遺構からは水田,水路,堰,取排水口が検出されている。堰は,幅2メートル,深さ1メートルの人工的な水路にもうけられている。また次の遠賀川式土器の時代においても,10メートル未満の自然水路に設置された堰がいくつか検出されている。弥生時代中期の大阪府の西浦橋遺跡からは,幅10〜20メートルの自然河川に,広瀬のいう直立形堰,すなわち横木を直立した前後の杭によって固定する堰が発見されている。また,大阪府の池上遺跡でも幅9メートル前後の流路に堰が設けられている。このように,この段階の堰は,幅10メートル未満,大きくても20メートルをこえることは少ない,また,深さも1メートル前後の河川の支流,分流に設けられたものであった。水位も大きく上昇させることはできなかったために,獲得できる水量は大きなものではなかった。また,この技術段階のもとでの耕地開発について,一つの堰からの樹枝状に延びる用水路の掘削,同一河川への堰の数の増加がおこなわれたともみている。このような技術的制約をふまえて,広瀬は次のような指摘をする。

「この段階の灌漑システムの景観は河川分流ごとに独立的,個別分散的であるし,また灌漑システム,水田ともに自然に依存する度合いのすこぶる大きな不安定,かつ不連続的なものであった」

この指摘は,弥生時代の集団の空間的配置をとらえるうえで念頭においておかなければならない重要なものである。分散的であることは,水流においてすべてが独立しているということを意味しない。当時の技術では制御できないより大きな河川流路を媒介して,それらの分散した灌漑システムは相互に関係づけられていたことを見落としてはならないだろう。

第二段階に対応すると推定される遺跡には,奈良県の纒向遺跡がある。幅5〜6メートル,深さ1メートルの二つの溝が発掘され,それらは大和川と辻旧河道の二つの河川を結んでいたと推定されている。そして,それらの溝からさらに多くの溝が分水し水田への灌漑がおこなわれていたと考えられる。このような自然河川を結んだ溝の可能性は,大阪府の東奈良遺跡の幅10メートル深さ3メートルの溝の跡についても指摘されている。そして,この時期の堰は,横木を支える材が上流側と下流側から合掌のかたちで組まれている,合掌形堰になりより強固なものになっている。そして,このような技術による灌漑システムの景観の変化について広瀬は次のように述べている。

「(自然河川を結ぶ)こういった人工流路が掘削されることにより,灌漑システムは第一段階の個別的,孤立分散的なあり方から一歩進んで,統一的な方向へ歩み出す。換言すれば,網羅的な灌漑システムの原初的な景観がこの段階を特徴づけるといえよう」

もちろん,弥生時代における灌漑技術の発展は第一段階から第二段階へある時期ある地域で一挙におこなわれたものではなく,時間的に連続的な発展とさまざまな地域への漸次的な普及がおこなわれたと考えるべきである。また,もともと河川はどれ一つとっても同じ形状であったり,あるいは他の河川と同じ距離をおいて流れたりはしないわけであるから,地理的,自然的環境や掘削技術や利用可能な労働力などに規定されながら多様なかたちの灌漑に依存した水稲農耕の発展があったはずである。弥生時代をとおして,初期の本流から離れた小水流に分散的な河川灌漑が発展し,平野に広く広がる網の目状の灌漑システムが展開していったのである。

弥生時代における水系とそれを媒介にした集団関係の発展についてはいくつか分析がおこなわれているが,大和川水系*と淀川水系*にかんするものをとりあげてみよう。大和川水系は奈良盆地に展開しているが,この地はその後全国的な統一権力形成の中心地になった地域である点で注目される。このような機能をこの地が果たしえた特殊性を特定化することは必ずしもできていない。この点について,自然条件の豊かさ,交易上の有利性などの考え方もあるが,水系の特殊性につなげることも可能なのである。つまり,大和川水系は盆地周辺の山々から流れ出したいくつもの水系が葉脈状に集まり最終的に大和川に合流し大阪湾に流れ出ている。このような水系の展開が,集団関係の形成上とくに有利な条件となった可能性が考えられるのである。弥生時代における大和盆地における遺跡の展開は石野博信や寺沢薫によって整理と詳細な評価がおこなわれている。それによっても,この水系の葉脈に分散するかたちで集落が発展していく状況がとらえられている(注94)。近藤義郎はこのような水系の特殊性に起因する集団関係について次のように指摘する。

「大和の場合は,・・・・河川水系への歴史的な関与を契機として形成される地域集団は,そこではその形成の初期においてさえ,他の集団とのなんらかの関係,その間の調整を必然にさせる条件にあった。このことが,奈良盆地における地域的集団間の系列化をはやめ複雑化し,いち早く強固な政治的支配関係を樹立させる要因になったと思われる(注95)」

淀川水系を媒介にした集団関係については,都出比呂志によって分析されている(注96)。淀川水系においては,古墳時代の古墳造営の系統性から16の首長の系譜が明らかになっている。これは,弥生時代の生産集団単位の首長の系譜が受け継がれている可能性が高いと,都出は推定する(注97)。淀川水系においては,大和水系のような分散水系から一挙に大河川へという形態ではなく,淀川という軸をもちながらも相対的に自立性の高い部分水系を有しているという特性があり,これが相対的に分散性の高い集団関係を維持することになった可能性がある。しかし4世紀には部分水系単位での盟主的首長が存在していたということは,この部分水系のなかでの集団関係の形成は弥生時代後期にはすでに進んでいたことを示唆している。

水系と灌漑がどのように集団間関係の形成の媒介になるかを理解するためには,水稲農耕における水のもつ重要性をふまえなければならない。水稲は水田に栽培される。区画された水田*は水を入れる容器である。必要に応じて水をたたえ,また必要に応じて排水する,このくりかえしが水田にたいしてなされるのである。これを自由におこなうための施設こそ灌漑システムである。水は,単に水稲の生育にとって直接必要となるばかりではない。水を十分に含んだ水田であることによって耕転が容易になり,通気性の確保など土壌の生態学的条件が整えられ,稲の移植の存在を前提にすれば雑草の生育が激しい時期には,水をはることによって雑草の生育を抑えられる。山から流れ来る河川水には,山間部の生態系を経由した植物に必要な栄養塩類を含んでいるために,湛水によって水稲栽培に必要な栄養塩類*が供給される。水田において連作障害*の回避が可能になる理由はここにある。また,降雨量が集中して多くなれば排水しなければならないし,また必要な時期には水田面を乾燥化させることによって土中,表面の有機物の分解が促進される。湛水と排水は水稲栽培によってこのように決定的に重要な機能を果たすのであり,ここに灌漑のあり方が集団関係の形成に大きな影響を与える最も基本的な背景がある。

灌漑は水の流れの制御である。流水は生産の要素であるが,水稲をめぐる他の要素である水田などの耕地とは本質的なちがいが存在する。耕地はそれを占有する主体によって自由な処分が可能であり,一定の距離をおけば特別なことがない限りその利用が直接に他の耕地に影響を与えることはない。しかしたとえば,ある占有地を小河川が流れていたとしよう。占有者にとっては河川を流れる水はその占有地を流れている限り,占有地にある耕地と同様にその処分が他の耕地に影響を与えないかといえば決してそうはならない。明らかに,その河川の下流のすべてで耕作をおこなう集団から,その流水のその時点での利用可能性を奪うことになるのである。一見,占有地にあるということで自由な処分対象という形態をもっているかのような錯覚を利用主体に与えるのがこの河川流水の重要な特徴である。

弥生時代の灌漑を利用する水稲農耕民にとって,流水を有利に利用するための秩序は「命をかける」のに十分に値するものだったと考えられる。縄文人は自然の多様な植物や動物をみずからの食糧としながら生活するのを基本にしていた。これにたいして,弥生時代以降の水稲農耕民は水稲栽培の一点に自然との関係を絞り込み,これによって生きる道を選択したのである。そして,この水稲農耕にとって取水・排水は決定的要因だったのであり,したがって水は命に直結していたのである。

このような水稲農耕における灌漑をめぐる秩序の絶対性は,現代的状況をみることによっても感じとることが可能である。今日においても,水利慣行*は民法上の法的な原則をこえたものとして多く存在する。民法*の制定以前の慣行が,民法上の法的な形式をもっていなくても,尊重されるのである。水稲農耕における水利慣行については,たとえば住谷一彦の「村落共同体と用水規制」という論文に示されている(注98)。そこでは,農地改革後の長野県の蓼科山麓地帯の三つの村の水利慣行が具体的に取り上げられている。そのうちの一つ塩沢村では,用水の運営は水利組合がおこなっているが組合長は用水開設者の子孫の世襲制になっている。用水の開設者,六川長三郎勝家が用水を開設し開墾許可をえたのが1646年(正保3年)であるから,300年間も世襲制が続いていたことになる。通常は水の取り入れ口の大きさを決めることによって用水規制がおこなわれているが,水田ごとの不均等が生じた場合は,組合長の専断で潤沢な水田への用水を不足している水田へまわすことがおこなわれる(廻水制*)。また,八重原村の場合は1717年(亨保2年)に定められた証文によって,分水の基準が示され,その基準にそって定められたそれぞれの水田への流量を守ることが鉄則となる。そして,盗水*には停水などのきわめて重い罰則が定められているのである。

弥生時代において水稲農耕を始めた,いくつかの単位集団からなる集合体としての相対的に自立した集団を生産集団*と呼んでおこう。この生産集団は,それぞれまず水系によって相互に関係づけられていた。それはやがて一つの平野全体をネットワーク状に覆っていった。これらの生産集団間の関係はモノである水によって媒介されている。すでに縄文時代の社会関係としての人格的ネットワークについては述べたが,この水系をめぐる相互関係にはその場合のような関係の人格性,その意味での直接性は失われている。生産集団はただ水系のどの位置を占める集団であるかによって個別化されるのであって,それ以外に個別化できないような相互関係が成立するのである。本書においては,このようにモノに媒介されたネットワークを物的ネットワーク*と呼んでいる。

したがって,個別集団間の相互的関係は縄文時代から弥生時代にかけて質的な変化をこうむったことになる。物的な流れによって集団が関係づけられている場合,媒体そのものが定常性を欠いたカオス的性質をもっているために,集団間関係そのものも定常性を維持することが困難となり,不規則に不安定化する(注99)。これらを調整するためには,まず,少なくとも関係を律するなんらかの規範が必要になる。先の塩沢村や八重原村の場合でもわかるように水利慣行の維持のためには絶対性をもった規範が必要なのである。弥生時代の場合,先行する時代にそれを求めることができなかった。彼らは戦争という命がけの方法で,調整のための規範,それを前提にした手続きや秩序の形成にあたらねばならなかったのである。

また,灌漑による水稲農耕が導入されたことによる集団関係の変化は物的ネットワークの形成にとどまらない。集団関係における秩序の形成が,灌漑をめぐる相互の秩序形成という次元をこえておこなわれる可能性が発生してくるのである。たとえば先の塩沢村の場合を考えてみよう。水が不足した水田にたいしては他の水をまわすよう組合長が決定するのであるが,十分な水量がある場合は単なる調整であって問題性が低い。しかし,他の水田がちょうど必要な量しか水量が存在しない場合,不足した水田にまわすことは他の水田の収穫を低下させる可能性がある。他の水田の耕作者にとっては,それは絶対的な収穫減の可能性である。もし,不足した水田に水をまわすことによる収穫の増加がその水を奪われた水田における収穫の減少を償っても十分にありあまる場合はどうなるだろう。水をまわされた水田の耕作者にとって絶対的減少であるから,全体としての収穫の増加は認められないとなるのだろうか。つまり,ここには,個々の耕作主体の利害をこえた「全体の問題」,全体の利害にかかわる問題が登場するのである。

弥生時代において,灌漑にかかわっている相対的に自立した単位集団と単位集団との関係,さらには生産集団と他の生産集団との関係においてもこのような全体性にかかわる問題が必ず存在していたはずである。それは個別集団どうしの調整をこえて,全体が独自の利害,独自の目的をもつ可能性であり,かつ灌漑をとおした物的ネットワーク*によって形成された諸集団の全体性*が自立する可能性を意味しているのである。そして,弥生時代の抗争をとおして上位クラスの集団の形成がすすんでいったことは,この全体性の自立が単なる可能性ではなく,現実に社会形成の過程として存在していたことを意味している。

複数の集団が水系をとおして物的ネットワーク*を形成する場合,相互関係のレベルとしては,利害の調整というレベルと自立した全体性をになう主体や組織を形成するレベルが存在する。もちろん,利害の調整のレベルにおいても,それらをおこなう機関は個別生産集団を離れて存在しなければならない。この二つのレベルの区別を理解するためには,剰余という問題を考えることを避けて通れない。全体性をになう主体や組織が自立する物的な条件は,それにふさわしい剰余の生産が可能になることである。剰余生産物*とは,一面では定常的生産に直接必要な部分をこえて生産される部分をさし,もう一面では生産に直接必要とされる組織ではない主体や組織を維持するために用いられる生産物の部分である(注100)。単位集団のあまりに小規模な結合では,それらの全体性の自立を可能にする物的条件としての剰余の規模にいたらない可能性もある。そのような場合は,個別単位集団をこえた機関は調整機能を中心にせざるをえない。

都出比呂志は,弥生時代におけるここでいう生産集団(都出の農業共同体)*の首長が果たした機能として,開墾や水利事業における単位集団間の調整,蓄積の管理,交易*の処理,農業祭祀の主宰,犯罪者の処罰,戦闘の組織をあげている(注101)。ここはすべて調整のレベルでとどまり,首長自身が個別単位集団から独自の利害,全体的剰余生産物の増加という目的などをもつことは指摘されていない。これらの生産集団が複数結合した集団,都出のいう結合体においては,そのなかの特定の生産集団の首長が結合体全体の首長となる可能性について触れている。そして,この結合体全体の首長が集団成員にたいしてより抑圧的になる可能性を指摘している。これはちょうど,ここで述べた全体性のより高い水準の自立化に対応している。

このような集団関係の形成,したがって社会の形成過程においては全体性*は特定の個人,都出のいう集団の首長に集中される傾向がある。つまり,全体性がなんらかの個別集団代表による合議制の機関で代表されるのではなく,あるいはそれは一時的で,基本的には特定の個人へ集中化,集権化*がおこなわれる。このような傾向の背景には,水稲農耕が基本的な生業であることによって,集団全体の剰余が米という単一生産物によって表現されるという事実がある。基本的な生産物が,主食としての米であることによって,集団全体の剰余の完全な集計が可能になる。個々の集団成員にとっては,物的に表現された集団全体の象徴は倉庫に蓄えにあらわれている,あるいはそこに含まれている米の剰余全体であり,それが自立した目的をもち,人格的に代表している人間が集団首長にほかならない。このような剰余生産物*の集中性が崩壊するのは,日本では近世社会*の崩壊,近代工業社会の開始期なのである。つまり,近代工業社会では,社会の剰余は多様な生産物によってになわれ,いちじるしく分散してしまうのである(注102)。

本書では,自立した集団の全体性,すなわち個別的な集団の目的とは相対的に独立な目的をもって振る舞う全体性をになう主体やそれをとりまく組織を,弥生時代に特殊なものとせずに,より一般的な社会科学的概念として,マクロシステム*クロシステム}と呼んできた。これにたいして,マクロシステムの基礎にある物的ネットワーク*によってとらえられるシステムをミクロシステム*と呼んでいる。物的ネットワークはミクロシステムの相互関係の特徴をとらえる概念である。ミクロシステムは,それぞれ個別的な目的をもった主体に注目している概念であり,単なる相互関係だけでは表現しきれない内容をもっている。そして,社会がこのようなミクロシステムとマクロシステムというかたちでの相対的に分離したあり方を示す社会を社会システム*と呼んでいるのである。マクロシステムは個別主体から相対的に独立した目的をもつがゆえに,より大きな物的基盤を求めることが不可避となる。社会システムはその意味で自己増殖的である。

社会システムがマクロシステムを保持することは,ミクロシステムを構成する主体の能力がマクロシステムに部分的に吸収されていることを意味する。主体の失った能力は,マクロシステムがその主体にたいする強制を可能にする支配の能力に転化せざるをえない。このように転化しているから,マクロシステムは自立できたのである。このようなマクロシステムの能力を一般に権力,あるいは特殊に政治権力*と呼ぶのである。

5.11 物資流通と社会システムの広域的展開   (副目次へ

水系*を媒介にして社会システムが形成されたとしても,それが可能な領域は日本の場合,一定の限界をもっている。生産集団やその結合体は,一つの水系,あるいは大河川がつくる水系の場合はその部分水系を単位として成立しただろう。しかし,弥生時代を通じておこなわれた集団間の抗争,戦争*はこのような結合体をこえて,さらに包括的な社会システムの形成に向かった。このことの確実性は,弥生時代の終わり古墳時代の開始の指標とされる前方後円墳の成立にあらわれている。前方後円墳*は結合体の首長の墓であるが,同時に大和の政治権力にたいする連合関係にあることを示す象徴ともなっている。

前方後円墳*は大和を中心にした畿内とその周辺に出現し,瀬戸内海沿岸から九州,山陰に広がり,やや遅れて東海,関東,北陸に広がり,東北に出現するにいたる。前方後円墳は,初期の埋葬格差のない集団墓地,副葬品における格差の発生,方形周溝墓の形成,弥生墳丘墓などの一連の墓制の発展の過程のなかから生まれたものであるが,いちじるしい画一性をともなってあらわれてきたのである。そして,副葬品として重要性を増大させる銅鏡,とくに三角縁神獣鏡*は政治的同盟関係の象徴として大和政権*から配布されたものと考えられている(注103)。

前方後円墳の成立は結果であり,水系単位の社会システムの形成とはかなりの飛躍が存在する。戦争を介した水系単位の秩序形成の動きから,大和政権による広域的連合にいたる過程はなんらかの連続的な変化に媒介されていると考えるべきであろう。集団間秩序の変化を考古学的事実から証明するのは簡単なことではない。生産集団からなるある結合体が徐々に力を形成していった過程は墓制の発展などをとおして,とらえることができる。しかし,他の結合体との関係でどのような秩序が形成されていったのかを,前方後円墳のようなかたちで示すことは容易ではないのである。しかし,いくつかの事実から間接的にそれをみることは可能である。その第一は,高地性集落*である。高地性集落はすでに述べたように見張りや通信機能を果たした可能性が高い。畿内,瀬戸内から九州に広がる多数の高地性集落*は数十キロ先まで展望できるような見晴らしのいいところに立地している。これは,この集落を必要とするような軍事的な緊張が単位水系の内部にとどまるものではなかったことを明確に示しているのである。弥生時代の終末期には畿内ではこの高地性集落は衰え,九州東北部や北陸などの畿内からみて周辺にみられるようになるのも,社会システム*の展開が広域化していったことを示している(注104)。

第二に墓制における地域色をあげることができる。近藤義郎は弥生時代後期における埋葬形式の二つの変化を指摘している(注105)。一つは,集団内の特定のグループが共同墓地から離れた墓域に埋葬されるようになることである。これは,生産集団の結合体の首長グループの自立性,したがってマクロシステムの自立性の高まりを反映している。もう一つは,「一定地方の諸集団が,一定の埋葬祭祀の形態を共有することによって,祭祀的同族*というべき関係に結ばれている場合が指摘できる」ことである。具体的には,吉備地方における埋葬用の特殊祭器,山陰における四隅突出形墳丘墓,北陸における小型方形墓,関東における方形周溝墓,北部九州における鏡の副葬と箱式石棺埋葬などである。弥生時代において,統合イデオロギー形成*の意味をもつものが祖霊祭祀*であり,この祖霊への参加を示す墓制の重要性からみて,この埋葬形式における共通性は祖霊そのものの擬制的共通化であり,高い政治的意味をもっていたと考えられる。それは,前方後円墳*の意義にも端的にあらわれている。これを考慮すれば,埋葬形式における地域性は,それらの地域が集団の連合をもとに統合性を実現したと考えるべきであろう。

このように,弥生時代は大和政権*による広域的社会システムの形成によって終わりを迎えるのである。ではこれはどのような集団間関係の発展の結果なのであろうか。一つは,水系を媒介にして形成された社会システム*がただ成長した結果としてみる見方もありうる。つまり,社会システムを維持する権力は,傾向としてより広域的でより強力な権力を求めると考えて,水系と連続する客観的背景がなくてもより広範な領域の支配権を求めるとする見方である。しかし,弥生時代の展開はこのような社会システムの拡大のために戦争*という多大の物的,人的犠牲や,墓制や集落の空間的構造あるいは青銅祭器*にあらわれた秩序の表出のためのさまざまな支出をおこなっていることは,抽象的動機によっておこなわれるほど,社会システムの発展が軽いものでなかったことを示している。命がけで守るべき対象としての水をめぐる秩序への渇望が初発的社会システム形成の動機となったように,水系をこえた社会システムにかんしても人々をそれに駆り立てる「絶対的動機」が存在したはずである。

まずこのような動機は,水稲農耕と直接に関連したものと考えるべきであろう。またそれは灌漑がそうであったように水稲農耕の生産性に直接かつ深刻に影響を与えるものでなければならない。そして明らかにそれは,生産集団の一つの結合体のなかで閉じてしまうようなものではない。それの利用可能性がさまざまな集団関係のあり方に依存しているものである。中期以降の弥生時代においてこのようなものとしては,鉄器,鉄素材の流通*以外には考えられない。

鉄器は弥生時代の初頭から利用されていた(注106)。福岡県の曲り田遺跡では突帯文土器*にともなって幅4センチ弱,厚さ4ミリの板状鉄斧の頭の部分と考えられる鉄片が出土し,福岡県の長行遺跡においても同じ時期かそれよりも古い時期の鉄片が出土している。大陸,朝鮮半島から鉄器として直接伝わったものと考えられる。

鉄器*の本格的な利用が開始されるのは弥生時代の前期の終わりから中期にかけてである。基本的な用途としては,木製農具*を制作する鉄製の工具,鉄製農具や鉄製の土木用具,そして鉄製武器*である。農具としては,方形の鉄板の両端を折り曲げて鍬の木製具に装着できるようにした刃先が登場する。また,鎌にも鉄が利用されるようになる(注107)。この時期の鉄器は大陸に直接その起源のないという形態的な特徴から国内で生産されたと考えられている。ただし,現在までのところ考古学的事実から製鉄*の開始が5世紀までしかさかのぼれないので,基本的に朝鮮半島から地金をもちこんで,国内では製品化のみおこなったものであろう。この時期においてある程度量産可能になったと考えられている。また,弥生時代の後期末以降の遺跡からは石器が出土しなくなり日本列島の鉄器化*が完了する。これを鉄の生産がおこなわれるようになったためとみる考古学者も少なくない。

鉄器は農具として,水稲農耕の生産性に重要な影響を与えただけではなく,灌漑設備の建設と維持にかんしても決定的に影響を与えたと考えられる。弥生時代の中期から後期にかけて沖積平野の灌漑は河川と河川を結び網の目状に展開していった。水田化されていない平地の開拓には木製具では明らかに限界があり,鉄器は不可欠であっただろう。また,定期的な浚渫や洪水などによる破壊からの回復などにも,鉄製土木具*が果たした役割は絶大なものであったことが想像される。

しかし,弥生時代における製鉄*はもしおこなわれていたとしても決して大規模なものではありえなかったので,中期以降に鉄器が急速に普及していった過程でも鉄素材にたいする需要はきわめて強かったと考えられる。鉄は絶対的といえる希少性をもった財だったのである。この時期における鉄素材は主に大陸や朝鮮半島から供給され,それは列島を横断しながら各地に普及していった。この鉄の流れは水の流れと同様に集団間の秩序に決定的な影響を受けたことは確実である。鉄を利用するためにはこの秩序のなかにはっきりとした位置を占めることが必要なのである。鉄を利用できなくなることは,それが可能な集団とのあいだに,水稲農耕の生産性したがって集団の能力や人口収容力*について決定的な差がつくことである。生産集団やその結合体にとってその存続をかけて利用可能にしなければならなかった資材だった。

まずなによりも,このような鉄や鉄器の流通の秩序形成のために水系をこえた社会システムの展開が必要だったのである。しかし,それは同時に他のさまざまな資材の流通のためにこの社会システムが機能することを否定するものではまったくない。鉄や鉄器*の他に,石材,木材,青銅器*やその素材,塩*,海産物などの食糧,玉,土器など多様な物資が集団間を流れていった。このような物資が,遠隔地にいくつかの集団を経由することによってどのように流れたかについて物証は少ない。都出比呂志は,完全の分業による交易は石器の一部に限られ,生産に有利な集団が自家消費をこえる素材や製品を他の集団に供給するかたちで,交易*がおこなわれていたと指摘する(注108)。

このような弥生時代の物資流通*のミクロシステム*,すなわち物資を媒介にして集団相互がネットワーク状に結合し,それぞれの集団が相対的に自立しながら全体を構成しているシステムについて,酒井龍一の畿内の拠点集落の分布にかんする研究はかなり具体的なイメージを与えてくれる(注109)。酒井は畿内で発掘された遺跡の分布を整理することによって,51の拠点集落が大阪湾南部などでは直線的に,河内平野や大和盆地では面的な広がりをみせながらネットワーク状に展開していることを明らかにした。このネットワークは弥生時代前期に設定され中期の長期間にわたって固定的に存続した。そして,それらの拠点集落は平均して5キロメートル,徒歩一時間程度の間隔でつながり,「それらの結合形態は,少数上位集落と多数下位集落によるピラミッド形ではなく,多数の同意集落群による網の目型であった」と指摘している。そして,このネットワークを経由することによって,畿内における物資の交易が進行したとみるのである。これはまさに,物資流通に媒介された物的ネットワークの空間的表現にほかならない。都出比呂志はこのネットワークを統括するような機構が存在していたと指摘し,それが畿内に少数存在している大集落を中心にしたものと考えているが,その機構とは物的ネットワーク*などからなるミクロシステム*から相対的に自立したマクロシステムにほかならない(注110)。これらは,物資の流通をとおして形成される社会システム*が,基本的に灌漑*をとおして形成される社会システムと同じ構造をもっていることを示しているのである。

6 節 社会システムと物質流および剰余の機能   (副目次へ

弥生時代を通じて,社会システムの形成は水という物質流と鉄を中心とした資材の物質流に媒介されながら広域的に,そしてより上位の集団クラスを組織する過程として進行していった。この時代の水稲農耕という主要な生業が要求する物質の流れの制御は,それに媒介された集団のネットワーク状の関係を形成する。物的ネットワークと呼んだものである。物的ネットワークのなかで個別集団は自立した目的をもって活動するが,つねに他の集団からの制約のなかにある。この個別集団の目的は本書においてミクロ目的*と呼んでいるものである。ミクロ目的をもった主体とそれらから構成される物的ネットワークの全体をミクロシステム*と呼んだ。しかし,このミクロシステムは物質的な流れによって媒介されているために,不可避的に全体的秩序の発生を可能にする。物質流を制御する基準に個別主体の利害をこえた全体的利害の問題が生ずるのである。全体的利害とは,個別主体の利害の調整に解消できない,その有利不利が全体の視点からのみ評価できるものである。そして,この全体の利害を代表する主体や機構があらわれ,これによって全体の利害を表現する目的が登場する。本書では,これをミクロ目的にたいしてマクロ目的*クロ目的}と呼んでいる。そして,この全体を代表する主体や機構をマクロシステム*クロシステム}と呼んだのである。

この社会システムは,入れ子構造*をもちうる。たとえば,弥生時代における単位集団のいくつかから形成される生産集団*も一つの社会システムであったと考えるべきである。それは,初期の小灌漑によって媒介された社会システム*であり,その生産集団のいくつかによって形成された結合体,これは灌漑*の水系単位の発展のなかで形成されたものであるが,これもまた生産集団を一つのミクロ的主体とした社会システムである。さらに,資材の流れによって媒介されたより広域的な社会システムは,主要にこの水系単位の社会システムをミクロ主体とした社会システムである。しかし,各社会システムのクラスの間の関係は,単純で整合的なものではありえないだろう。より上位のクラスの社会システムに規定されながら,その下位の社会システムが再編されていったり,逆に下位の社会システムにおける変化が上位のシステムに影響を与えるというようなダイナミックな変化の過程はありえたし,実際その後の日本社会システムの展開は,この変化のなかにとらえることができる。

以上のような総括を前提にしながら注意すべき点を取り上げておこう。第一は,このような社会システムの形成過程と,それがおこなわれなかった縄文時代以前の人格的ネットワーク社会の関係である。縄文社会においても,人間の生存は水や有機物などの物質的流れとの積極的なかかわりのもとに可能となっていた。にもかかわらず,なぜ人格的ネットワークにとどまり社会システムを形成しなかったのか,これが問題である。このちがいは二つの時代の生業のあり方のちがいであるが,もっと根本的には自然のなかにおける人間の位置のちがいというべきである。

狩猟・採集・漁撈を生業としていた縄文時代においては,人間は直接的な意味での自然の一員だった。もっと厳密な表現をすれば,人間はそれを含み込む大きな生態系の一つの個体群にすぎなかったのである(注111)。もちろん,弓矢や石器や釣り針などの生業のための技術,火の利用技術,土器や竪穴住居などの生活技術などによって生態系からの相対的な自立化は相当に進んでいたが,それでも決定的な一歩は踏み出さないでいた。人間を含むよりグローバルな生態系*を貫く物質流は水や大気を中心にした物質循環の部分を構成するものである。そして,この物質流によって秩序が形成されているのは生態系そのものである。この生態系は生物システム*として,マクロ目的をもっていた(注112)。もちろん社会システムのような意味の自立したマクロシステムをもつことはなかった。しかし,そこには自立した全体の目的と秩序は存在しているのである。そして,人間はこの生態系の秩序あるシステムによって生きることが可能になっていたのである。相対的な自立性は有していたが,あくまで生態系という物的ネットワークの一主体でいることにとどまっていた。

水稲農耕社会は,灌漑による水の制御とよりグローバルな生態系への依存度をいちじるしく低下させることによって,独自の物的ネットワークを構成する方向への決定的な転換である。それによって,自然との関係を絶ったわけではない。自然との多様なチャンネルのうえに生活し,かつそれによってはじめて生活が可能になったそれ以前の生業の様式を放棄し,自然とのきわめて単純化された関係,それは水という物質流と土壌という局所的な生態系という自然とのチャンネルによって可能な生業への変化を意味していた。

第二は社会システムにおける剰余*の特殊な機能である。剰余についてはすでに触れたが,ここまでの展開をふまえて再度定義を与えると,社会の全生産物のうちミクロシステム*を定常的に維持するために必要な部分を控除した残りの部分である。したがってそれはマクロシステム*クロシステム}の目的にそって利用される部分をさし社会システムの二重性*を維持するための物質的条件なのである。

この社会的剰余の生産と処分にかんする強制力は原始社会も含めて前近代社会においてはマクロシステムに属する。そして,剰余*をめぐるこのような集団や個人のあいだの関係のあり方は,所有という概念によって表現することもできるのである。もちろん,この所有概念*は国家の強制力と法によって規定される近代的所有概念とは異なる,あるいはそれの源泉となるようなものである。したがって,それはメタ所有と呼ぶことも可能である。つまり,水稲農耕を可能にする水田と灌漑設備がマクロシステム,あるいはそれを代表する首長によって所有されることによって剰余の支配力が発生しているとみることが可能になるのである。したがって,それは社会における剰余をめぐる集団や個人の関係のあり方の別表現にすぎない。所有概念がこのような意味でしかないとするならば,近代的所有概念との混同の可能性のあるこの概念を原始社会において積極的に用いる必要はなく,可能な限り回避するのが望ましいといえる。

社会システムが発生して以降,近代工業社会にいたるまでの剰余の内容や性格の差異をここで詳細に展開はしない(注113)。基本的な点を指摘しておくと,日本の場合,原始社会に社会システムが発生してから近世にいたるまで剰余は農業生産物,とくに水稲の生産によってとらえられてきた。私は,このような社会を農業社会*と呼んでいる。そして,近代工業社会にいたって,社会的剰余は特定の生産物によってあらわされるのではなく,すべての生産過程でとらえる形式に発展した。一つ興味ある問題は,社会システムが剰余にたいして否定的であるような場合に,その構造がどのように変質するかである。このような問題を考えるためにも,社会システムの構造が,歴史的にどのようにダイナミックに展開してきたかをより詳細に分析する必要がある。

脚注

(1)考古学的遺物,遺構の定義についてはチャイルド~ 。(もどる
(2)以下,諸集団が包含関係や上下の関係によって階層的に関係づけられている場合にその階層の一つを集団関係にかんするクラスと呼ぶことにする。(もどる
(3)縄文時代に先行する時代については,旧石器時代*,岩宿時代*,先縄文時代などの呼び名があるが,時代の区分そのものが同じである限り,少なくともここではどのように呼んでも問題はない。ただしこのような立場にたいする批判はある。小林~ 。(もどる
(4)単位集団はその後の古墳時代にいたっても存在しつづけたが,本章では弥生時代までについて議論する(広瀬~ )。(もどる
(5)原始社会から時代はずっとくだることになるが,律令制*において「イヘ」が建物ではなく家族集団をさしていたことについて,くわしい検討が吉田~ においておこなわれている。(もどる
(6)佐々木~ 。先土器時代の内部の区分については,小林~ 。(もどる
(7)鈴木~ 。(もどる
(8)近藤~ 。(もどる
(9)春成~ 。(もどる
(10)稲田~ 。他に稲田~ 。(もどる
(11)鈴木~ 。(もどる
(12)戸沢~ ,小林~ 。(もどる
(13)佐々木~ において中期以降の人口の停滞ないしは減少を気候の寒冷化と結びつける仮説が示されている。また,原始社会における人口動態については小山~ 。(もどる
(14)ただし,このことは縄文時代の人々が自然をまったく変えなかったということではない。近隣の植生は人の生活に望ましいものに変化させられただろう。たとえば,西田正規が指摘するようにクリなどの植物が選択的に残されたことはありうる(西田~ )。分散的なかたちでの農耕の存在も否定できない。しかし,自然の豊かさを前提にした社会である限り,それを損なうような生業はなかったと考えられる。小池裕子と大泰紀之は遺跡から出土したニホンシカの齢構成からこの個体群にかかった狩猟圧*について調べている。その結果,縄文時代の早期・前期では,保護されている個体群の平均齢と差異がないこと,後期でも平均齢は低下するが捕獲許容量の範囲内にとどまっていたことが明らかになっている(小池・大泰~ )。縄文時代に狩猟圧によるゆきづまりがなかったことは林謙作も指摘する(林~ )。(もどる
(15)近藤~ の「縄文時代の生産と呪術」。(もどる
(16)小林~ 。(もどる
(17)Habu~ ,羽生~ 。(もどる
(18)縄文時代の集落構成については他に林~ 。(もどる
(19)この点については以上の他に,鈴木公雄も4〜5棟の竪穴住居の30人前後が集落の基本単位になっていたと指摘している。鈴木~ 。(もどる
(20)和島~ 。他に和島・田中~ 。(もどる
(21)近藤~ 。(もどる
(22)近藤~ 。(もどる
(23)議論の流れについては田中~ 。(もどる
(24)都出~ 。(もどる
(25)甲元~ 。(もどる
(26)近藤~ 。(もどる
(27)都出~ ,高倉~ 。(もどる
(28)近藤~ 。(もどる
(29)春成~ 。(もどる
(30)佐原~ 。(もどる
(31)支石とそのうえに巨大な石をのせて埋葬部を形成している墓。朝鮮半島に起源があると考えられている。甲元~ 。(もどる
(32)都出~ 。(もどる
(33)小林~ 。(もどる
(34)埴原~ 。(もどる
(35)春成~ 。(もどる
(36)水稲耕作と密接な関係をもつ突帯文土器は現在の愛知県まで分布している。春成~ 。他に小林~ 。(もどる
(37)春成~ 。(もどる
(38)縄文人と弥生人との接点については他に甲元~ ,下条~ 。(もどる
(39)ただし,東北地方のは変容があることから遠賀川系土器と呼ばれる。(もどる
(40)春成~ 。(もどる
(41)増大した人口がもとの集落と関係を維持しながら近隣に移住した例としては大阪府の安満遺跡の例が知られている(原口~ )。この場合でも分岐した集団間の血縁性は弱まり地縁性が高まることは避けられなかったと考えられる。(もどる
(42)都出~ 。(もどる
(43)都出~ ,p.86。(もどる
(44)高倉~ 。(もどる
(45)日本農業における経営単位の小規模性は都出比呂志がとくに注目している点である。都出~ 。(もどる
(46)近藤~ ,p.14。(もどる
(47)第1章で議論した個人間関係の直接性と同じ意味である。本書 \pageref{directrelation} ページ以下を参照。(もどる
(48)古代社会における血縁関係についての分析のなかで吉田孝は次のように述べている。「たしかに血縁関係は古代日本の社会関係の基礎にあったことは否定できない。しかし一般に双系的な性格の強い民族においては明確な血縁集団は形成され難いので,日本の場合にも,単系の親族組織をもつ民族に比べて,血縁関係のもつ比重は相対的には低かったのではなかろうか」,吉田~ ,p.161。(もどる
(49)西田~ ,p.64。(もどる
(50)近藤~ 。(もどる
(51)春成~ 。(もどる
(52)小野~ 。(もどる
(53)鈴木~ 。(もどる
(54)森川~ ,西田~ 。(もどる
(55)藤間~ ,p.108。(もどる
(56)和島~ 。(もどる
(57)近藤~ ,p.72。他に近藤~ 。(もどる
(58)小林~ 。(もどる
(59)都出~ 。(もどる
(60)都出~ ,pp.470-473。ここでの土地所有という概念は,さしあたって第一で述べた,単位集団から自立したかたちでおこなわれる調整と規制の機能をあらわすと考えておこう。(もどる
(61)泉~ 。(もどる
(62)これとよく似た例をJ.ロックはアメリカインディアン*について報告している。ロック~ ,p.111。(もどる
(63)小林~ 。(もどる
(64)このようなとらえ方をすれば,K.マルクスの歴史の三段階把握との関連に触れざるをえない。マルクスは主著『資本論』に先立つ草稿である『経済学批判要綱』のなかで,「人格的な依存諸関係(最初は全く自然生的)は最初の社会形態であり,この諸形態においては人間的生産性は狭小な範囲においてしか,また孤立した地点においてしか展開されないのである。物象的依存性の上にきずかれた人格的独立性は第二の大きな形態であり,この形態において初めて,一般的社会的物質代謝,普遍的諸関連,全面的諸欲求,普遍的諸能力といったものの一つの体系が形成されるのである。諸個人の普遍的な発展のうえにきずかれた,諸個人の共同体的,社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることの上にきずかれた自由な個体性は,第三の段階である」(マルクス~ ルクス1981},p.138)と述べている。これは,人類史を人と人との横の関係のあり方からとらえたものとして重要な意味をもっている。また,マルクスの第一段階の記述は,ここでの人格的ネットワーク社会とよく対応している。ただし,私のいう農業社会*は,マルクスの第一段階と第二段階の過渡的なものとなる。さらに,第三段階は,本書の工業社会以降の歴史展望とは異なる。(もどる
(65)ネットワークシステムのさまざまな定義については,公文~ ,pp.221-249,塩沢~ など参照。(もどる
(66)近藤~ 。(もどる
(67)近藤~ ,pp.104-105。(もどる
(68)近藤~ ,p.117。(もどる
(69)都出~ 。(もどる
(70)都出~ ,p.405。(もどる
(71)都出~ ,p.469。(もどる
(72)カイヨワ~ ,p.9。(もどる
(73)佐原~ ,p.219。(もどる
(74)佐原~ ,p.138。(もどる
(75)佐原~ など。(もどる
(76)弥生時代における環濠集落については春成~ ,高倉~ ,小田~ ,田中~ ,都出~ ,佐原~ など。(もどる
(77)1990年韓国慶尚南道の検丹里(コムタンニ)遺跡で日本の縄文晩期に対応する一重環濠集落が発見された。(もどる
(78)以下,吉野ヶ里遺跡の変遷については七田~ をもとにしている。(もどる
(79)都出~ ,p.196。(もどる
(80)田中~ 。(もどる
(81)都出~ 。(もどる
(82)佐原~ 。(もどる
(83)田中~ ,p.42。(もどる
(84)村上・公文・佐藤~ では弥生時代を原ウジ社会と呼び血族性の高い集団による社会形成があったとしている。ただし,この原ウジ社会が「土地を自らの領土として占有・防衛しようとする傾向は強くない」とみていることはここで述べたような考古学的事実に反する。また,成員間の階層分化の未発達という指摘も事実と合わない。筆者らと本書の立場のちがいは,私が,筆者らが語るイエ社会的なものはすでに弥生時代とともにあらわれ,日本社会システムの基底を一貫して形作っていたとしている点にあるようだ。(もどる
(85)春成~ 。(もどる
(86)春成~ ,p.86。(もどる
(87)田中~ ,p.74。(もどる
(88)佐原~ ,p.356,佐原~ ,p.54など。(もどる
(89)近藤~ ,p.120。(もどる
(90)近藤~ ,p.122。(もどる
(91)都出~ ,p.202。(もどる
(92)灌漑が社会形成に影響を与えることは古くから議論されている。K.マルクスも1850年代に書いた草稿のなかでこれに触れている(マルクス~ ルクス1993},p.123)。しかし,灌漑の意義をはっきりと強調した点で注目を集めたのはウイットフォーゲルである(ウイットフォーゲル~ ,他に中島~ )。このウイットフォーゲル以来の灌漑と社会形成にかんする議論の整理および日本考古学がこの灌漑と社会形成にかんする理論にたいして貢献できた点の総括は都出比呂志によってもおこなわれている(都出~ )。近藤義郎による研究をはじめとして日本考古学の世界でこの点での議論の蓄積はすでに大きなものになっている。(もどる
(93)広瀬~ 。(もどる
(94)石野~ ,寺沢~ 。(もどる
(95)近藤~ ,p.180。ただし,寺沢薫はこの立論を,大和弥生社会が後期で地域外集団からの侵略を受けた可能性をもとに批判している。しかし,そのことによって水系の特殊性と結果的に成立した統一権力との関係が否定されるとは思えない。さまざまな集団間の調整を可能にする規範がこの水系の特殊性のもとに急速に形成されたという主張の説得力は大きい。この文化としての規範は,たとえ大きな集団変動があっても受け継がれる可能性が存在する。寺沢の議論の評価は,石野~ ,pp.307-321 も参照。(もどる
(96)都出~ ,p.378。(もどる
(97)都出~ ,p.165。(もどる
(98)住谷~ 所収。(もどる
(99)流水のカオス的不規則性については,鷲田~ の第1章参照。(もどる
(100)社会的な剰余については,本書,第1章 \pageref{pagesurlus} ページ以下を参照。(もどる
(101)都出~ 。(もどる
(102)鷲田~ 。(もどる
(103)近藤~ 。(もどる
(104)都出~ ,p.197。(もどる
(105)近藤~ ,p.167。(もどる
(106)以下について,春成~ ,潮見~ ,高倉~ 。(もどる
(107)都出~ ,p.27。(もどる
(108)都出~ ,pp.363-368。集団間交易の事例については他に下条~ ,酒井~ など。(もどる
(109)酒井~ 。(もどる
(110)都出~ ,p.370。(もどる
(111)本書,第1章参照。(もどる
(112)鷲田~ 。そこで展開されている生物システムについては,本書の第6章にあるように,これまで議論してきた社会システムや生態系を含むもので,構成する個別主体に相対的な自由が与えられたシステム一般をさすものである。(もどる
(113)これについては,第1章および鷲田~ を参照せよ。(もどる



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