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「環境と社会経済システム」

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第 6 章 全体論と世界観
  1 節 還元思考から全体思考へ
   1.1 生物システムと二重構造
   1.2 全体論と還元論
   1.3 環境問題と還元思考
   1.4 世界構造の一元化と多元化
  2 節 三浦梅園の全体論
   2.5 構造の秩序としての条理
   2.6 人間中心主義の克服
   2.7 物質循環と死生観
   2.8 シンメトリーと静的世界観


第 6 章 全体論と世界観   (副目次へ

今日の環境問題の根本的な解決への道は,人間の社会と生態系としての自然環境の構造を正しく認識することによってみえてくる。このような前提のもとで,本書では環境の構造や社会の構造がどのようなものであるか,あるいはそれはどのように機能するか,自然環境と社会の調和のためにはどのような構造が求められているのかを明らかにしてきた。しかし,自然環境や社会の構造を正しく認識するための見方や考え方そのものについてはまとまって取り上げることはなかった。この最後の章では,本書の理論の展開の背景にある認識論*について整理し,また日本史上にあらわれた一人の孤高の自然哲学者の思想を紹介することによって,それを豊かにしよう。

1 節 還元思考から全体思考へ   (副目次へ

1.1 生物システムと二重構造   (副目次へ

私たちは社会をシステム*としてとらえまた環境もまた構造をもったシステムとしてとらえてきた。システム一般ということであれば,時計もまたシステムである。すなわち,歯車や針や枠など,時計の構成要素は全体のなかに位置づけられていて,全体の機能は構成要素に分解できない。社会システムも環境としての生態系もこのような側面をもっていることは明らかである。

しかし,時計やコンピュータといったシステムと社会システムや生態系*のあいだにはある本質的なちがいがある。すなわち後者の主要な構成要素は,全体から自動的にその機能を規定されない,ある程度の自由度をもった主体なのである。前者は全体にとっての秩序のなかにすべての要素が位置づけられ,それぞれの要素の機能もまた全体の目的や秩序のなかにとらえられてしまっている。したがって,時計やコンピュータにおいては,個別要素とその機能,およびそれらの相互関係を統合すれば全体としての機能や目的全体として明らかになる。いい方を変えれば,それら要素の機能と相互依存関係を一片としたジクソーパズルなのである。統合によってそれらを適切に組み合わせていけば,全体を知ることができるのである。

一方,社会システムや生態系においては,個別の要素やそれらの相互関係から全体としての機能や全体としての秩序形成原理*のようなものはわからない。個別要素が自由度をもっている限り,あるいはその程度に応じて,私たちはそれらの集計や統合から,なにか首尾一貫性のないバラバラの現象を受け取らざるをえなくなるのである。そして,どのような仕方で貫徹されるかは別に,全体としての秩序は個別要素の機能からは相対的に自立して存在しているのである。

時計やコンピュータのような機械的システム*の場合も,そのシステムの設計者の意図を前提にしなければ理解できないような機能をもちうる。たとえば設計者が目の不自由な人にでも時間がわかるように,音声で時報を知らせる機能を時計に付加していれば,それにともなうさまざまな部品の配置は,そのような意図からでなければ理解できない。しかし,社会システムや生態系の場合には,全体としての秩序形成の目的が個別要素の自由度とそれにともなう揺らぎのもとでも貫かれるように物質化,構造化されているのである。

これらの社会システムや生態系*のような,相対的自由度をもった要素の相互依存関係からとらえられる全体と個別要素の合理性から自立した秩序形成原理*をもった全体というかたちで二重化した構造をもつシステムを,私は生物システム*と呼ぶことにしている。生物システムは,このようなクラスに属するシステムの総称である。そして,このような生物システムの全体としての秩序形成原理をマクロ目的と呼んできた。この生物システムの最も重要な特徴はシステムを構成する個別要素の相対的自立性である。したがって,それらの要素は主体*と呼んでもよいのである。もちろんその自立性は絶対的なものではない。すなわち,それらの個別主体はシステムのなかに位置づけられていなければ,自己を保存しつづけることはできないのである。

この生物システムには,生物それ自身も含まれるべきである。また,このような構造をもった生物システムは生物をまったく含まないかたちで構造化することも可能である。さらに,二重化した構造をコンピュータ上でシミュレートすることも十分考えられ,そのような人工物を構成することも可能であろう。いずれにしても,これまでの生態系や社会に限らず,生物であろうと非生物であろうと,すでに述べたような二重化した構造をもつシステムを生物システム*と定義するということである。

社会を構成する個別主体に加わる人間もまた一つの生物システムであり,生態系を構成する主体としてのさまざまな生物もまた生物システムなのである。最も身近な生物として人間を考えてみよう。人間も他の生物と同様に数十兆個の細胞*によって生物体がつくられているが,人間を構成する個々の細胞そのものがある程度の相対的自立性をもっていることは,それらが培養できることにもあらわれている。そして,多数の細胞からできるさまざまな器官も相対的自立性をもっている。というよりも,そもそも人間には絶対的な中心,中枢が確かには存在していない。意識が中心でないことは明らかである。意識がなくても人間は生きつづけることができるからである。脳が相対的な意味では,中心としての機能をしているといえることは確かであるが,しかし,細胞や器官の細かな代謝までコントロールしているのではないことも明らかであろう。人間が,相対的に自立した機能をもった部分に支えられているという点では,生物システム*であることを疑うことはできない。

人間の全体としての秩序形成原理は単に肉体の生理的な機能だけではなく,人間の行動というダイナミックな部面にもおよんでいるはずである。そのようにとらえると,人間の場合は他の動物と比較して巨大な大脳皮質*に行動の大半が支配されているために,人間の全体としての秩序形成原理は意識的な世界と無意識の世界にわかれているとみなさなければならない。それは,より大きなシステムである社会システムや生態系からみれば,人間という個別要素の大きな自由度を意味することになる。

人間だけではなくすべての生物はこのような二重化した全体構造*をもっている。すなわち,相対的に自由度をもった主体の相互依存関係からとらえた全体と,それらから自立した全体の秩序形成原理を体化した構造によってとらえられる全体の二重化した構造をすべての生物がもっているのである。社会システムも生態系もこのような生物から構成されていることを考えれば,生命そのものがこのような構造と深い関連をもっていることを予測させる。生命を定義することは容易ではないが,この二重構造をもったシステムが,その外部と区画するような境界を維持し存在しつづける能力をもった実態を生命として定義すると,私たちが意識している生命*という対象にかなり近いものになるのではないだろうか。

それぞれの生物システムは実態としては相対的な自由度をもった主体から構成されているのであるが,その自由は条件づけられているものであり自発的であるとか強制的であるとか多様な形態でシステムの全体的な秩序に従わなければならない。そして,社会システムや生態系を構成する生物主体そのものが生物システムであるということは,その生物の全体的秩序形成原理そのものが,その生物を含むより包括的な生物システムに規定されていることを意味している。ただその規定性は,主体としての相対的自由度を許容する面ももっているということである。

このような秩序の入れ子構造*は社会システム*とその構成主体としての諸個人,あるいは生態系*とそれを構成する個別生物あるいは個体群といった関係ばかりではなく,生態系そのもののなかに,あるいは社会システムそのもののなかにとらえることができる。社会システムの場合,社会が国民国家*として区分されていれば,その国家の領域が一つの最上位の境界として構造の出発点として与えられるかもしれないが,その国家のなかがさまざまな相対的に自立した中間的な社会システムによって部分化されている場合もある。連邦国家であれば,それぞれの連邦の相対的自立性を認めている。そして企業は共同体的性格をもちながらも,また一つの社会システムであるといえるので,国家*もまた企業とという中間的な構造をもっているのである。さらに,今日の世界では,国民国家そのものも入れ子構造の最上位の全体性であるとはいえなくなってきている。世界はそれほどに緊密化し,相互依存性を高めているのである。

生態系においてもこのような入れ子構造*が確認できる。たとえば,一つの森林生態系*を考えてみよう。まず,このような森林生態系が境界づけられると想定して考えてみよう。このような森林生態系のなかのある一角の土壌部分もまた一つの生態系を構成していると考えられ,さらにちょっとした水たまりもまた一つの生態系として考えられる場合もある。すなわち,一つの森林生態系が多数の生態系から構成されていると考えられるのである。そして,もとの森林生態系がそれを含むより大きな生態系の部分であると考えるべきであり,社会システムの場合とちがってこの生態系の場合は,最上位の全体性*をになっているのは世界のすべてを含みこむ地球そのものなのである。

また,社会の場合はそれぞれのレベルの生物システムがその境界を常に明確にしようと務めている。国家は国境*であり,企業の場合もある与えられた時点ではその活動の境界は決められていると考えられるだろう。しかし,生態系の場合は,境界は社会の場合ほど明瞭には与えられていない。というよりも,水や大気の地球規模の大循環のなかでしかそれぞれの生態系は持続できず,しかも生態系自身がなんらかの境界を維持しようとしたり,することがないことを考えれば,多くの場合,その境界はそれを認識する人間の側に仮想的に与えられているにすぎないといってもよいくらいである。

したがって,生物システム*をその二重構造とともに認識し理解するためには,認識対象をそれを含む全体のなかにつねに位置づける必要があることがわかる。しかし,ある対象を全体として認識するためにそれを含む全体を認識し理解していることが必要であるというならば,私たちの認識の作業はつねに地球という全体まで到達してしまうことになる。あるいは,地球をこえて宇宙全体の認識が問題になるかもしれない。したがって,このような認識の上向をあるところで切断しなければならない。ある生物のところで切断されるか,あるいはもっと上位のそれを含む生態系のところで切断されるかは認識する側の条件によるだろう。たとえば森林生態系を問題にする場合は,その森林生態系*の全体的な秩序形成構造を前提にしながら,個別主体やそれらの相互依存関係を分析しなければならなくなるだろう。また,企業はそれをめぐる市場や社会のなかに位置づけられて全体的な分析が可能になるだろう。

1.2 全体論と還元論   (副目次へ

このように生物システムをその二重構造とともに認識する理論を全体論(holism)*と呼ぶ。このような意味での全体論を生物システム*ではなく,機械的システム*にたいしても用いる立場もあるかもしれないが,ここでは全体論の対象は定義から生物システムに限られることになる(注1)。この全体論は,二つの認識の方向をもっている。第一の方向は,すでに述べたような全体的な秩序原理からその個別主体の機能や行動をとらえる方向である。したがってこの場合,あらかじめ全体の原理が与えられていなければならないという点では,より上位の全体秩序を求めて先に上向しなければならないが,なんらかの切断点において折り返し今度は下向しながら対象をとらえていくということになる。

第二の方向は,個別主体の機能やそれを規定する原理,そして主体どうしの相互依存関係から全体の方向へ認識を発展させていくことである。この場合は第一の方向とはまったく逆の認識作業がおこなわれることになる。すなわちある対象を理解するためには,それを構成する部分が理解されなければならず,またその部分を理解するためにはさらにそれを構成するより下位の部分が理解されなければならないというかたちで,分解されていくことになる。したがって,それは分析という作業の一つといえるだろう。そして,これもまたある切断点が存在し,それを折り返し点にしてまた全体を再構成する作業がおこなわれる。それは総合という作業の一つといえるだろう。ただし,全体論においては,第二の作業の方向だけで生物システムの全体をとらえることはできないことになる(図~F1 )。



図(F1) 全体論と還元論

このような全体論*において,対象そのものは一つのものであるために,二つの方向からとらえられる全体像によってバラバラな認識しかえられないのではないかということが問題になる。ただ,対象は単一の全体であっても,人間が概念を用いてそれを認識する場合に,対象の構造は二重のものとしてしかとらえられないのであるから,二つの映像としてしかみえないのはやむをえない。対象を二つの側面からとらえてはじめて奥行きをもった立体像が私たちの意識のなかに再生されるとでも考えるしかないのである。

これにたいして,上の第二の方向における認識の作業だけで全体をとらえることができるという立場を還元論(reductionism)*と呼ぶ。すなわちそれは,ある対象の理解はそれを構成する部分,すなわち要素とそれらの相互依存関係の分析と総合によってえられるという立場である。ある生物は,どのような身体あるいは精神の構造をもっているかを分析することによって理解できる,ある社会は,その社会がどのような主体によって構成され,それらがどのような相互依存関係をもっているかを把握することによって理解できると考える立場である。

全体論と還元論のあいだの認識の構造のちがいは,単なる論理の差でないことを確認しておく必要があるだろう。差異は,生物システムの客観的な構造についてのとらえ方のちがいなのである。すなわち,全体論は,対象そのものが二重化した構造をもっているととらえ,そこから二つの認識方法の必要が発生してくるのであり,還元論は生物システムであってもあたかも機械的システム*と同じような部分と全体の関係がそこにあるととらえているのである。

全体論は一見すれば,全体から部分をとらえる方向と部分から全体をとらえる二つの方向をともにもっているという点では,還元論よりも包括的な認識論*になっているようにみえる。その点からだけみれば,全体論の優位性が直ちに明らかになりそうである。しかし現実には,私たちが科学的認識論*と呼んでいるものは,ここでいう還元論の方に大きく偏ったものになっているのである。それは,さまざまな自然科学のなかで物理学*が人々の自然観形成*に占めている位置の大きさにもあらわれている。つまり,自然科学は生命的なものであれ非生命的なものであれ物質とその運動を対象としているという点では共通している。したがって,より下位の対象に認識の基礎を求めていけば,結局は素粒子*とその運動にいきつき,そこは物理学の独壇場なのである。村上陽一郎は次のように述べている。

それは,「科学的である」ということの定義として,「分析的である」ということをとっている,という点である。「分析的である」という表現をもう少し正確に言い直せば,「現象を,ただ現象としてとらえるのではなく,その現象を,それを成り立たせている何らかの要素群に分解し,その要素群が,時間 --- 空間のなかでどのような振る舞うか,その有り様を記述することによって,もとの現象を説明する」ということになろう。科学の専門領域は,結局,その「構成要素」をどこに求めるかによって決ってくる。その意味で,最も微細な物質構造にまで分析の段階を降りて行く物理学,なかんずく素粒子論が,「帝国主義」を主張することは,あながち理にはずれたことではないのである(注2)。

西洋医学*は,人間の体の微細な構造を実証的にとらえることから出発している。そこに科学的な医学の成立があったのである。その主流の考え方は,病気の発生を身体の部品の環境にたいする反応としてとらえる点にある。すなわち,還元論*である。生物学のなかでも生態学*が科学としてみるとやや響きが異なるのも,後者には全体論的な立場が容易にはいりこむことができるからである。生物の内部的機能ではなく,生物の存在している非生物的な環境とそのあいだの相互関係,あるいは他の生物のあいだの関係から生物を認識しようという立場がそこにあらわれるからである。

科学的認識論*が還元論*の方に偏っているのには理由がある。常識に染まった思考には,部分には全体の構造がより単純化したかたちで再現している,とみえるのである。生物でみれば,その全体の代謝構造は,その細胞*のなかでより単純に再現していると考える。その生物の代謝構造はまた,その生物を含む生態系全体のエネルギー代謝*や物質代謝*よりも単純であると考える。一国全体の生産や消費の構造よりもより単純な生産と消費の構造が個人や企業といった個別主体のなかでとらえることができる。したがって還元論の立場では,全体の複雑さは部分の単純さの総計としてあらわれているということになるのである。科学的思考の根源は,複雑な対象をその部分のより単純な対象の総合によって認識しようというところにある。

ただしこの場合,理解*とはなんであるかが問題になるだろう。人間がなにかを理解するということは,人間があらかじめもっている図式*式}に対象を対応づけることであり,その対応づけが実現したときに人間は理解というかたちでの精神的安定をえることができるのである。たとえば,ある特定の人の行動が「理解できない」とは,どういう状況ではどのような行動を人間はとるものであるというかたちでの図式を人は一般に数多くもっているにもかかわらず,対応する図式がない行動に直面したことを意味しているのである。あるいは,自然の対象の予測できない運動や変化は,それがより普遍性のある図式に対応させられない,すなわちたとえばそれまで理解している法則というかたちでの図式のなかにその現実をうまく説明するものがみつからないことを「理解できない」と表現しているのである。したがって,還元論*においてより単純な部分がより理解しやすいというのは,そのなかにより普遍的な法則あるいは図式にとらえられる現象が存在していると考えていることを意味している。

逆に還元論の立場からみれば,全体論*にある全体から部分を説明しようという方向は「非科学的」なものと映る。なぜなら,全体は部分よりも複雑であり説明が困難なものであるにもかかわらず,そのような説明原理を採用することは,独断や神秘論*をもちこむことになるようにみえるからである。それは,神の意志*から世界の秩序を説明しようとするものに等しいと考えられてしまうのである。

還元論の基本的な落し穴は,部分において全体の複雑さは緩和されていると考えるところにある。複雑さの程度をどのように測るのかは重要な問題だが,部分は全体と同じ程度に複雑であると考えるべきなのである。部分と全体の複雑さのクラスは同じなのである。たとえていえばそれは,0から100までの実数空間[0,100]は0から10のあいだでの実数空間[0,10]を10個だけ集めた程度のもののようにみえるが,どちらも同じ程度に無限である個数の実数が含まれているという点では,実数の濃度は同じであるというようなものである。生物とその細胞*という比較においても,全体としての生物という視点からみるから細胞は単純なようにみえるだけなのであって,細胞のもっている複雑さは容易な認識を否定するほどのものなのである。生物とそれを構成する細胞のあいだでちがっているのは,ただ複雑さをとらえる原理,認識の方法なのである。そしてまた,細胞を構成する核や細胞質とそれらの含まれている要素の複雑さは,その細胞自身と同じ程度に複雑なのである。全体としての細胞の視点から,その構成要素をみるから単純にみえるだけなのである。

還元論*にある,部分は全体よりも単純であるという原理が相対的なものであることを認めるならば,部分を全体から認識するという全体論*に含まれる論理もまた,還元論が考える非難から解放されるだろう。もし,部分から全体を認識する原理が科学的であるならば,全体から部分を認識するのも同等に科学的なのである。したがって,対象の構造を認識するためには,全体と部分を双方から条件づける,あるいは相対化する全体論的思考が求められているのであり,それこそが科学的認識論*でなければならないのである。

1.3 環境問題と還元思考   (副目次へ

現在のさまざまなレベルで深刻化する環境問題の背景には近代人の還元論的思考があり,それを全体論的思考に転換することが問題解決の重要な条件である。この全体論的思考を具体的に示すことが本書の基本的なテーマであり,それらはこれまでの諸章で示したところである。その際,主要な力点は自然や社会という生物システムの全体論の視点からの理解におかれていた。そこで,ここではそれと対になっている人間精神の還元思考が,どのように環境問題の精神的背景になるのかをあらためてまとめておこう(注3)。

環境にかんする還元論*の第一の問題は,そのもとでは自然構造の全体性*を理解できないことである。それは,人間による自然の理解を狂わせているといってもよい。近代の自然科学は,自然にたいする膨大な知識を蓄積してきた。しかし,そのほとんどは全体はその部分からよりよく説明されうるという還元論的思考にもとづいた知識なのである。したがって,ある生物やあるいはある生態系*について,部分的知識はその全体を覆うほどもっていたとしても,全体としての生物や生態系の理解は,単にその総和くらいにしか考えられていないのが多くの場合の現実なのである(注4)。

したがって,それは人がある錯覚に陥る危険性を示している。つまり,人間は自然の全体性については非常に貧弱な知識しかもっていないもかかわらず,自然の全体にわたって知識をもっているために「全体を知っている」かのような錯覚に陥ってしまうのである。全体性にかかわるある対象の知識と部分の集計からえられるその対象の知識は本来表裏一体のものでなければならない。しかし人々は,その片面の知識からだけ対象を知ったと錯覚して,行動してしまうのである。知っていないことを知っていることより,知っていないにもかかわらず知っていると錯覚することの危険性がはるかに高い。

膨大な水の存在量を誇る海に有機水銀*を流しても,その希釈の強さにたいする知識はもっていても,食物連鎖*による生物濃縮*の激しさに対する知識は貧弱であり,たくさんの被害をだしてしまう。森林の伐採が,保水機能*を破壊し,遠い下流に洪水を引きおこしてし,あるいは気候を変化させ砂漠化を進行させる。生物種の生息可能領域をある限界以下に縮小させたために種が絶滅していく。これら,今日の環境問題といわれているものの多くが,自然の全体的知識の貧弱さを自覚することなく,部分的知識の寄せ集めによって全体を知っているかのように錯覚していたために引きおこされているのである。

すなわち,還元論*が教えているのは,自然にたいする人間の行為による自然の部分的劣化や破壊は部分的意味しかもたないということである。それは,人間の知識が全体性よりも部分にたいしてより精密に与えられているために,人間によってよくみえているのがなによりもまず,部分とその寄せ集めだからである。したがって,自然の全体性のなかでの人間の個別行為の結果の意味は十分に見えてこないことになる。全体論*の立場からいえば,部分の知識と同等に全体の知識も与えられてはじめて,人間の自然にたいする行為の評価が可能になるのである。

第二の問題は,還元論では自然のなかにおける人間の位置が正しく理解できないことである。還元論の立場からは,人間は精神のうえでいとも簡単に自然から切り離されてしまう。そして,切り離された人間の側からの自然にたいする積極的,消極的な働きかけだけが問題になるのである。しかし,人間も含めた自然の全体性*には関心が十分およばない。

これは第一の問題と密接に関連している。すなわち,人間の自然との積極的かかわりは人間の知識が集約的におよんでいる自然の部分に限定されるようになる結果,人間が自然から自立している程度が高いと考えられるようになるのである。これは人間の自然にたいする知識が豊かであると錯覚すると同じように,自然にたいする人間の自立性の高さへの錯覚を生み出す。現実以上の自立性を実現していると錯覚するようになるのである。たとえば,現代の社会においては資源の獲得の問題が先行し,資源の利用の結果としての汚染の問題や廃棄物の問題がそれから遅れて深刻な問題と意識されるようになっていることにもあらわれている。消費生活や生産活動が水や大気を汚染し,二酸化炭素の大気中への蓄積による気候の温暖化*にまで発展し,大量のゴミの廃棄の問題を発生させるなど,人間の生活の自然への全面的な依存性が,資源問題から相当に遅れて深刻化しているのが現実なのである。

自然にたいする人間の相対的自立性については,人類の知識の蓄積の結果としてある程度もたらされていることが否定できないものの,自然への全面的な依存性は人間の本質的な性質,あるいはあり方の問題として避けることはできないものなのである。

農業が開始される以前の,日本でいえば縄文社会のような採取・狩猟社会が長期間の持続性のある社会構造を形成している場合には,なんらかのかたちで自然がその全体性とともに理解されていたと考えざるをえない。もちろんそれは,現在において可能であるような,自然のさまざまな部分的知識*に支えられたものではなかったのは明らかである。たとえば,アイヌ*などの古代の神話*にあらわれているように,さまざまな自然の存在に神性をとらえ,それらの自然の神々のなかに自然の構造を反映させることによって,人間の存在を自然の一員として調和的なものにとらえようとしていた(注5)。ただし,その場合,自然にたいする部分的な知識,したがって今日の自然科学的な知識が足りなかったために,自然の全体性*のもとでの人間に要求される自由の犠牲が大きかったことは間違いない。

第三に,還元論では私たちの社会そのもののもっている全体性が理解されないために,自然環境と調和的な社会のあり方にたいする正しい展望がえられない。社会にたいする還元論的な見方とは,社会を個別主体の存在と行動あるいはそれらの個別的な相互依存関係の集合として社会をみる見方である。

社会科学においてこのようなこのような還元論的な視点を提起し最も大きな影響を与えたのは A.スミスの「見えない手(an invisible hand)」*であろう。スミスは,経済活動において個人あるいは個別主体の合理的活動は社会全体としても望ましい結果をもたらすと指摘した。スミスがどこまで普遍的な概念としてこれを提起したのかは必ずしも明確ではないが,これは還元論的な経済学*あるいは社会観の形成に向けての要石となったことは確実である(注6)。すなわち,見えない手という概念は,経済やそこからみた社会の全体性を認識する必要性をばっさりと切り落としてしまったのである。もちろんそれは,国民経済の全体を無視するというものではない。全体とは,個別主体の合理的行動から組み立てられるべきものなのである。全体は,L.ワルラスらによって提起された一般均衡モデル*として表現されることになる。そこには,個別の企業や消費者の個別的合理性ある行動は確実に定式化されているが,全体的な秩序形成原理はなんら存在していない。

社会の経済としての全体は,このような還元論的な経済学がとらえているメカニズムだけによって機能しているのではない。工業社会は,社会システム化しているという点では一種の生物システム*であり,全体性それ自身が全体的な秩序形成機能を果たしているのである。経済構造に存在している全体性の,経済学への部分的な反映が J.M.ケインズによって創始された社会全体の集計的な所得の実現や操作を中心テーマとした経済学である。そこには,経済の全体性が要求する経済成長のための総需要の管理の必要性が体系的に述べられている。

経済現象にかんする還元論は,これまでの諸章で述べた概念を用いて表現すれば,経済をミクロシステム*としてだけとらえるというものである。これにたいしてケインズの経済学*は,経済が全体として秩序を失わないためにマクロシステム*クロシステム}が機能しなければならないことを示しているのである。

工業社会は,このようなマクロシステムとミクロシステムの二重化したシステムによって機能している社会システム*であり,したがってまた生物システム*なのである。この社会システムにおいては,マクロ目的*クロ目的}としての経済成長*はシステム全体の秩序を維持するために不可欠の要因となっている。そして,経済成長が環境のとどまるところを知らない劣化や破壊をもたらしている現実をふまえれば,深刻な現実が強制するものであれ社会構成員の自発的な選択としてであれ,社会構造の全体性*そのものの見直しは不可欠なのである。この点について詳細な分析は第4章でおこなったところである。

1.4 世界構造の一元化と多元化   (副目次へ

本書で社会という場合,基本的には今日の国民国家*に対応するものとして考えてきたが,加害者も被害者も一つの国家という枠をこえて発生している,あるいは発生する可能性のある地球環境問題*に直面している今日,このような限界をもうけることなく世界を一つの社会としてとらえた視点が切実に求められるようになってきている。すなわち,地球的規模での環境問題を解決しうる世界の構造がどのようなものであるかが明確にされなければならなくなってきているのである。

この問題は,もう一方で世界が市場経済*によって大きな構造変化を遂げようとしているときにあらわれている点で,より複雑な問題となっていることを私たちは認めなければならない。すなわち,第一に,これまで世界の一つの体制として存在してきた社会主義諸国家が一部を残して崩壊し,残された社会主義国家*のほとんどが市場経済*を経済の主要な構造として受け入れるにいたり,市場は世界の一般的な経済構成原理にまつりあげられた。第二に,これまでの世界構造の大きな揺らぎは,東アジアにおける爆発的な経済発展によってももたらされている。すなわち,韓国,台湾などのアジアNIEs*といわれる新興工業国の台頭,多くのASEAN諸国*における経済発展の進行,中国やインドといった巨大な人口をかかえた国の経済発展の開始など,東アジアは輸出工業化*による,実現の可能性は別にして,総日本化*ともいえる状況への展開がおこっているのである。

これらの経済からみた世界の構造の大きな揺らぎの基底にあるのは,市場経済が一国にとどまらず世界の構造を一元化しようとする傾向である。

市場は現象としてはまず一つの国民国家*をミクロシステムによって覆っていく。すなわち,相対的に自立した個別的経済主体とそのネットワークによって経済の全体が形成されるようになっていく。一国における市場経済の浸透は,その範囲内での経済の一元化である。すなわち,生産一般が交換のためにおこなわれる状況,すなわち商品生産が普遍化する。商品は,適切な有効需要がある限り,一国内のどの地域どの部面へも運ばれ消費されるようになる。しかしこのような一元化は一国内ではとどまらない。二つの国家が市場経済*を一般的な経済の組織原理として採用する限り,一次的な利益の不均等の可能性はありながらも,二つの市場は単一の市場に統合されることによって両方の経済のマクロ目的*クロ目的}である経済成長*が促進されるのである。

現在の時点で,自由貿易*を求める強さには各国でバラツキはあるが,これまで相対的に開発が遅れてきていた諸国が世界構造の揺らぎや,ほとんどマニュアル化したともいえる経済開発のための手法を実践する状況のなかで,高い生産と所得を実現するようになる。そして,経済成長を追い求めるマクロ目的をそれぞれの国が保持する限り,世界は自由貿易を全体として目指すようになっていくだろう。それは,21世紀の一つの基礎的な傾向となるだろう。世界が,市場経済という伝染病に席巻されるのが新しい世紀の一つの可能性なのである。

すなわちそれは,世界経済の一元化*の可能性である。世界が市場経済によって一元化されることは,世界が社会システム化*することである。すなわち,世界が経済的に統合された全体として維持されるためにはマクロシステムが必要になる。

しかし,このような世界が一つの社会システム化する可能性はきわめて低いと私は考えている。なぜならば,この東アジアに限定しても,ここで経済的な発展を追い求めている途上国のすべてが日本のような物質的繁栄を実現するのはほとんど不可能であると考えざるをえないのである。いいかえれば,東アジアのすべての国が,日本に近い一人あたりの国民所得を実現することほとんど不可能であり,それにいたるような一国のマクロ目的である経済成長を持続させることはできないということなのである。

中国やインドを含めた東アジア13カ国の人口は今世紀末の時点で世界人口の半分を占めている。国連の人口予想では,来世紀の前半の早い時期までにこの地域の人口は約10億人増加することになっている。そして,中国の場合,一人あたりのGDPが現在,日本の約80分の1であるにもかかわらず,二酸化炭素の総排出量では全体として2倍以上排出している。技術革新が進んだとしても,中国がいまの日本並みの一人あたりのGDPに到達する場合の二酸化炭素排出量はとてつもない数字になってしまうのである。そして,さらに現在8億の人口をかかえているインドもまた同じような経済発展をする可能性は十分にある。それだけの二酸化炭素排出量を実現することは,大気中に温暖化ガス*を大量に排出しているというばかりではなく,それだけの化石エネルギーなどの資源を使い,それだけ他の汚染物質,固形廃棄物を生産していることを意味している。東アジア全体が総日本化*するということになれば,この地域の大気汚染,水質汚染,自然破壊が自然の許容範囲をはるかにこえたものになることは確実なのである。

そして,そのとき,他の東アジアの国々がグローバルな環境制約のもとで成長が阻害されれば,日本だけが現在の水準での物的繁栄を維持することは困難であることも確実である。それはまさに,第4章で示したような環境制約からくる持続的経済停滞が日本にたいして強制されることを意味しているのである。

東アジアだけですらこのような状況であるから,経済的な意味での一元化傾向が世界全体として強まったとしても,実際にそうした構造が21世紀にかけて実現することはいちじるしく困難であるといわざるをえない。世界は,一般的な経済的一元化を達成する前にその活動能力の水準を失っていかざるをえないだろう。したがって,世界は一つの社会システムというかたちでの生物システム化することは困難とみなければならないのである。一元化実現の困難性が明らかになることによって生じる世界構造の今日以上の揺らぎを経て,世界が向かっていく方向は,地球システム*の地理的多様性と水や大気の物質循環*をとおしての一様な相互依存関係に対応したような,分散性と統一性をもったシステムであろう。それによって,はじめて地球がもたらす人間存在を可能にする余剰能力を適切に用いることができるし,地球という自然との調和が可能になるのである。それは,経済や文化をすべて含めたような文明の多様な紋様を人々が地球上に描き出さざるをえないような多元化した世界の姿である。

2 節 三浦梅園の全体論   (副目次へ

2.5 構造の秩序としての条理   (副目次へ

近代の科学思想が還元論に偏っている一方で,近代以前の自然哲学のなかには素朴な全体論*にたったものがある。ここでは,近世以前の日本において最も徹底した全体論に立つ自然哲学*を展開した三浦梅園(1723--1789)の思想を取り上げよう。梅園は,短い数回の旅行を除いて人生のすべてを今日の大分県の一地方で,仕官することもなく,医師の仕事をしながら思索と著述をかさねた思想家だった。その自然哲学は『玄語』という著作にまとめられている。30歳の頃から20回以上の改稿が重ねられた漢文で書かれたこの著作は,全体としての理解を拒絶する極端に難解なものである。したがって現段階では,梅園の自然哲学の全体像を明らかにすることではなく,そこにあらわれている全体論の基本的な内容と特徴,そしてその全体論が自然観にどのような刻印を与えているのかを部分的に明らかにすることに議論をとどめておかざるをえない(注7)。

まず,梅園の全体論の核心部分を示そう。それは全体論の本質をとらえるものでありながら,驚くほど単純な論理で構成されている。そしてそのもっている意味を後に示そう。

梅園は対象としての一般的な物の構造を「一」と「二」という二つの抽象的な数的概念によってとらえようとする。一あるいは二といっても,単なる数字をあらわすものではない。一は対象の全体そのものであり,あるいは全体としてあらわれている状態をあらわすものである。これにたいして二とは,全体が部分にわかれて存在している状態,あるいはそのようなものとして認識されている状態をあらわす。また,二とは一一であると梅園はいう。すなわち,二とはそれ自身が全体であるような部分によって構成されているものとしてとらえられた全体なのである。したがって,一とは二でありまた一一であるというのである。そして,この二の状態としてとらえられる一一は対になっている。対になっている状態とは一方の一が他方の一の存在を前提にしているような特性をもっている状態である。それは,中国古来の概念である陰陽*としてとらえられたり,天地,植物動物,精神と肉体などさまざまな対概念であらわされる。そして,物の構造にかんするこのような秩序を形成する論理を梅園は条理*と呼んだのである。

また,梅園は一が一一となり二の状態をとる,あるいはそのような認識の方向,関係を「経」としてとらえ,二の状態における一と一の関係を「緯」としてとらえた。これまでの議論と重なる梅園自身の言葉(口語訳)を一つ示しておこう。

分れると二が粲立し,合すると一が混成する。一が単なる一であれば分・合ということはなく,二が単なる二であれば剖・対(剖析・対待)ということはない。一が単なる一ではなく,二が単なる二でないならば,立てば(粲立すれは,個々に区別されて)各,成れば(混成すれば)全,である。そういう次第であるから,剖析の見方で一を分かち,対待の見方で二を合するのであって,剖析すれば経があらわれ,対待すれば緯があらわれる。経があらわれ緯があらわれると,条理というものが,おのずと分れて(区別だって,筋道だって)くるのである(注8)。

「剖析*の見方で一を分かち」とは,対象を分析的に認識すれば二としてとらえられるようになることを意味し,それによって一から二という経の関係があらわれるのである。「対待*の見方で二を合する」とは,二のそれぞれの一を一一として対であるもの,あるいは対立するものとしてとらえれば,すなわち緯の関係としてとらえれば,そこにもとの全体の一がとらえられるようになるというのである。

梅園は,自己の哲学を示すために数多くの円形の図を描いたが,経と緯の関係は 図~F2 の経緯剖対図といわれるものによってうまくあらわされている(注9)。



図(F2) 経緯剖対図

図で,対象そのものである最初の全体は中央の円のなかの一によってあらわされている。この全体を分析的に認識(粲立)*すれば一一としてとらえられ,それぞれは中央の円から実線でつながっている上下の二つの小円のなかの一をあらわす。すなわちこれが経の関係である。この二つの一一によってとらえられる全体は二の状態であり,それは二つの小円を結ぶ円形の点線であらわされ,これが緯の関係である。この条理は,さらにそれぞれの小円の一を出発点にしても同じような構造としてあらわれていく。ただし,ここには関係は平面上に描かれているが梅園自身の意図に則せば,これは球と考えるべきである。したがって,平面上では同じクラスの一,すなわち同じ点線の円によって接続された小円は隣の円とだけ関係をもつというよりももっと柔軟に他の小円との相互関係をもっているとも考えられるのである。

この梅園の条理の認識が一つの全体論であることは明らかだろう。すなわち,ある対象の全体はそれを構成する対の部分によってとらえられ,それぞれの対の部分もまたさらに対となる部分によってとらえられていくのである。また,逆に対となる部分を認識することによってその全体を認識することができるようになるのである。梅園はこの過程がどこまでも続いていくと強調している。

それゆえ大物にあっては,一は二を有し,二は一を成す,性と物とは剖・対(タテに剖析,ヨコに対待)される,これはどこまで往ってもそうなのである。一塵埃(ちり),一秋毫(動物の毛)において見てもやはりそうなのである(注10)。

このように梅園の論理は全体論*なのであるが,強烈な個性をもったものであることもまた明らかであろう。すなわち,全体を構成する部分はつねに対,あるいは対立する要素でなければならないのである。当然,なぜ三つではだめなのか,あるいはそれぞれの対象に応じてとらえられる部分の個数が変化することはなぜ問題があるのかといった疑問が生じる。しかし,以下で示すように,全体を対立した要素によって構成されるものとしてとらえるという論理は本質的でありまた普遍性をもったものであることがわかるのである。

梅園の全体論からは,私たちのいう生物システム*,すなわち生態系*や社会システム*がどのようにとらえられるのかを示そう(注11)。そのためにまず,『玄語』本文の冒頭の「本宗」の冒頭にある次の一文に注目しよう。

物は性を有し,性は物を具し,性と物とは罅縫(つぎ目)無きまでに混成している。ゆえに,その一は全である。また,性は体と偶する(ペアとなる)もの,物は気と偶するもの,であり,物と性とは粲立していて,そこに条理というものが存在する。ゆえにその二は偏(全にたいして偏)である。性は物において性なのであり,物は性において物なのである。ゆえに(生物混成の)一は一一(二のこと,一つは性一つは物)にほかならず,一一であれば一なのである。気は天を成し,物は地を成す。性は一を具しているが,体は一を闕いている(二である)。全体性を具えた一と全体性を闕いた二とは,剖析の見方で見れば,経の関係にあるのであり,気・物は対待の見方で見れば,緯の関係にあるのである(注12)。

これは,前編の冒頭におかれていることから推測できるように,梅園の自然哲学*からみた一般的な原則を示したものであろう。これを,生物システムとしての生態系についてみれば,それぞれの概念はどのように対応するのかを例示してみよう。

まず,ここで性とは対象であるところの生態系*の秩序の構成原理を指すものとして解釈できる。それは生態系を一つの全体として秩序づけている理(ことわり)であり,したがってまた生物などからなる物質的な物と区別することは可能であるが,その物が生態系であるためには生態系としての秩序と一体不二のものとなっていなければならないのである。まず,生態系も性と物というかたちで二重化したものとしてとらえられるのである。

生態系における性とは,より具体的には群集総呼吸*の最大化としてあらわれる秩序形成原理*,マクロ目的のようなものであると考えればよいだろう。また,この性は具体的な存在の形式としての体に対応する。これは,このマクロ目的(性)は,それ一般(性)とそのより具体的な存在形式(体)とに二重化する。そしてこの体は,生態系でいえばそれはエネルギーの最大固定化とその最大廃熱化という相反するものとしてあらわれ,再び二重化するのである。またそれは,梅園自身の言葉でいえば,ここにはあらわれていないが陽(エネルギーの最大固定化)と陰(エネルギーの最大廃熱化)という概念に対応させることができる。

一方,物は物質的なものとしての物とエネルギーあるいはエネルギーを体化した物質としての気に二重化する。そしてさらに展開すれば,この物質は生物的な物質と非生物的な物質に二重化し,さらにはこの生物的な存在は,エネルギーを固定化する生物(植物)とその分解によって生きる生物(動物,分解者)に二重化していく(注13)。そして,このような下のクラスに降りていった物の部分にもまた,全体としての秩序原理としての性から剖析によってとらえられていった部分的な秩序原理が働くことになるのである。

社会システム*もまた性と物との統一としてとらえることが必要であることは明らかだろう。性は,社会システムのマクロ的構成原理,マクロ目的に対応するものである。経済からみた社会システムのマクロ目的が経済成長であることはすでにくりかえし述べてきたところである。そして,この性の具体的存在形態(体)は生態系の場合に対応させれば生産と消費の最大化のように思われるかもしれないが,ここで,生態系が群集呼吸最大化という定常的な状態を秩序形成の目的にしているのにたいして社会システムが成長という非定常的な過程を秩序形成の目的にしていることのちがいがあらわれてくる。

社会システムの場合,体は経済の一般的な成長率の最大化(これを陽とすると)と市場競争と資本移動がもたらす一般利潤率の最小化*(これが陰となる)に対立し二重化していることになる。つまり,経済全体としては最大の利潤率を求めて資本が移動する結果として,その最大利潤率をもたらす産業にはより大きな資本が投下され潤沢な供給がもたらされ,その最大利潤率は最小に向かう傾向をもつことになる。このような,個別的,ミクロ的な目的がもたらすものはある市場価格の体系であるが,それはちょうど経済を最大成長に向かわす傾向と整合的なのである(注14)。そして,このような社会システムにおける秩序形成原理に対応するものこそ生産と消費というかたちでの経済の物的組織なのである。

以上のように,生態系や社会システムといった生物システムの構造を認識する場合に「一が一一であり二である」という梅園の全体論,すなわち全体をその対立する部分として認識し,その部分もまた全体であるという全体論は,認識論*として本質的な有効性をもつのである。すなわち,梅園の全体論は対象の構造を示すものであると同時に,認識論としての意味をもっている。梅園のいう「反観合一」*とは,そのような認識論をさしていると私は考えている。

条理*とは,一一である。分れてあい反し,合して一となる。そこで,反観合一,徴に正しきに依る(正しい証拠に依る)べきであって,私によって辻褄あわせをするべきものではない(注15)。

ここに梅園のいう反観合一とは,合すれば全体となる二つの対立要素の存在によって対象の構造を認識することをさしている(注16)。

ただ,一つ問題がある。私たちの認識はつねに概念を媒介にすることにならざるをえない。しかし,対象を対概念の入れ子構造*のなかでとらえる場合に,適切な概念を私たちがもちあわせているとは限らないということである。適切であるとは,対象の現存する構造を正しく反映しているという意味である。勝手な「辻褄あわせ」の概念をもちこむのではなく,実態を反映し,意味をもちうる対概念となっていなければならないのである。しかし,梅園の全体論のように一般理論が単純であり普遍的なものとなっているとつねに適切な概念が存在するとは限らない。

近代科学*は,膨大な知識*を概念として提供してきた。しかし,それらのたくさんの概念のほとんどは還元論のなかにぴったりと位置づけることができるような概念となっている。もちろん,それは全体論にとって無意味であるということではない。それらはまた,全体論のなかに位置づけることも可能であるものが少なくないのである。それは,生態系にしろ社会システムにしろ近代に成立した多くの概念を生かすかたちで,全体論的な視点からとらえなおすことができることにもあらわれている。ただ,梅園のいうように,すべての全体としてとらえられる対象が,合すれば全体となるような対概念によってとらえるべき,などと要請すれば,必ずしも適切な概念が存在しない場合も少なくない。しかし,適切な概念を欠くことから直ちに,反観合一*という認識論*が有効性をもたないという結論になるというわけでは決してない。まさに,全体論*のなかに位置づくような豊かな概念のディレクトリ*を育て上げることが,全体論において大事な課題となってきているのである(注17)。

以上のような梅園の『玄語』に表現された自然哲学*は,全体論として理解されなければならないのであるが,この点を見落とすとまったく無内容な論理のシンメトリカルな形式を示したもののように誤解される可能性がある。たとえば,山田慶兒は次のように指摘している。

だが,相互補完的に対立する二項は,ついに恣意的なものでしかありえない。かれが捉えたのは,その恣意的な原理と選択にもとづく対概念であり,対概念のあいだの関係であった。要するに,それは条理の言葉,いかに精緻に構成されていようとも,たとえば数学の言葉にまで抽象化されるといったことがなければ一般性をもたぬ,梅園みずからが生みだした人工言語体系にほかならなかったのだ(注18)。

対立する二項の認識や把握が恣意的なものであるととらえられるのは,ある対象の全体構成する要素は二つ以上ありうるかもしれないし,たとえ二つであったとしてもそれは対であるとは限らないという,その考え方が常識的発想の域を超えていないからなのである。それは,思考が還元論的*なもののとどまっているためであるといってもよいだろう。すなわち,全体は部分から構成されるものであるとだけ考えているために,生態系にしても社会にしてもたくさんのさまざまな種類の要素から構成されている事実しかみえないのである。そこでの主人公はあくまでも個々の生物であり人であり企業であり,またそれらのあいだの関係なのである。全体そのものが主人公として,全体を秩序づける能動的主体として意味をもっていることを認識していないのである。

全体が個別の部分を出発点として認識することはできず,それが全体性*を有し,その全体性から部分が位置づけられなければならないとするならば,そのようなシステムの構造はどう認識されるかが問題である。残念ながら,近代自然科学の背景にある自然哲学はいちじるしく還元論*の側に偏っていたために,このような全体論的見地に立つ概念も論理も十分育ててこれなかったのである。ある与えられた対象の全体をとらえる対立する二項を認識するという梅園の方法は生態系や社会といった生物システムの全体を生き生きと認識する手段となっている。おそらく,全体からなんらかのシンメトリカルな関係にある三項をとりだしたりするものよりも,あるいは項数を指定せずに対称性だけを要求するよりもはるかに単純であり,かつ現実の全体を本質的にとらえたものになっているのである。

山田慶兒は,梅園の自然哲学*に多くの言葉を費やすにもかかわらず,結局その自然哲学に次のように結論を下す。

初期の草稿以来,梅園が解こうとした問題は,自然学の領域にかんするかぎり,近代科学がすでにほぼ解きおえている,とわたしは思う(注19)。

事態はまったく逆である。自然の主要な存在形態である生態系についての理解が貧弱なために,知らずに引きおこしていった自然破壊のつけをいま一挙に払わされようとしているのが現実である。それは,人類の存在を根本的に脅かすまでになっているのである。近代自然科学がもたらしてきた自然認識の貧困さは,その還元論的な思考による。梅園が,その自然哲学で意図した自然の全体論的認識*は,いまだ十分な成果も生み出されないままなのである。あるいは,近代科学のもとで,生命についての理解もいまだに貧弱なままである。人体をいくら切り刻んで理解しても,あるいはそのDNAの構造にいたるまで理解できたとしても,生命の全体像はいまだはるかかなたにある。医学は,人間のからだが機械的に機能している部分,あるいは人間のからだを機械としてとらえた場合の技術としては驚くほどの進歩をとげた。しかし,いまだに多くの人々がその医学では説明のつかない身体的苦痛のもとにあるのである。生命*が一つの全体論的概念であることを前提にした科学は,まだ十分日の目をみていない。

たしかに,梅園がたくさんのシンメトリカルな図のなかで示した対概念とそのツリー構造のなかには,私たちの目からみれば恣意的である,あるいは「辻褄合わせ」であると思われるものも少なくない。しかし,それは第一に,このような論理的に完全性の高い全体論が梅園という一人の自然哲学者の独創的な仕事としてなされたという限界によるものである。『玄語』にあらわれる,気や陰陽*などの概念は中国古来の思想のなかで練られたものであり,この著書が多くの過去の思想の影響を受けているのも確かであろう。しかし,おそらくこのような全体論の論理形式を徹底的に追求したのは梅園が最初にして最後だったのであろう。もし,この哲学がその後の哲学者によって豊かにされたものならば,梅園自身の著作にあるそのような恣意性はよほど克服されたにちがいない。しかし,現実にはその後の自然哲学は西洋近代科学を補完するものが主流となっていったのである。歴史が梅園にとっては貧困すぎたのである。

第二に,梅園の時代には近代科学による還元論的なものであれ自然の理解そのものがすすんでいなかった,あるいは少なくとも十分には日本に届いていなかったことが,彼の全体論を豊かにするべき材料の欠乏という限界をもたらしたのである。近代自然科学がもたらした自然にかんする大量の理論とそれにともなう概念は,直接には自然の全体論的理解をもたらさないものであることはすでにくりかえし指摘した。しかし,還元論的な自然理解は全体論的な自然理解の一つの側面を成すものであることからも明らかなように,重要な前提条件なのである。したがって,いま私たちに求められているのは,あらためて,今日における自然科学の自然理解のうえに立脚した全体論的自然哲学*なのである。

2.6 人間中心主義の克服   (副目次へ

梅園の自然哲学における全体論の最も重要な帰結は人間中心主義*の否定にある。自然と人間の関係をみたときに,還元論の立場に立てば,自然は人間から出発してとらえられていく。しかし,全体論*においては人間は自然のなかに位置づけられることによってはじめて理解されうるものとなる。この人間を自然に条件づけられたものとしてとらえる梅園の立場は徹底したものである。200年以上も前に語られたエコロジーの思想*は驚くほかはない。『玄語』からいくつかの文章を引用し,それに解説を加えることによって梅園の主張にあらわれた日本思想の一つの到達点を確認しよう。

まず,次の文章に注目しよう。

「水火草木は,みな天である。水を飲んで渇きをいやし,草をくらって饑(うえ)をいやし,火を鑚(き)って煮ものをし,木を切って住居を作るのは,みな人である。人を以って天を窺えば,みな人の為めに設けられているが如くにおもわれるかもしれないが,しかし,無意(天)は,用を有意(人)に期した(有意が用いてくれることを期待した)わけではない。有意は,無意の物をして自分の用を為さしめんとするにすぎない。左足を生じたのは,右足のためであろうか。右手を生じたのは,左手のためであろうか。歯虫のために歯を生じたのでもなく,シラミのために皮膚を生じたのでもない。それゆえ,また,虎狼のために人を生じたのでも,暴主のために民を生じたのでもない。万物は相い依って,足らざるものは無いのである。もし,人の為にしたのだというなら,それは天が人に私する(人にだけ特権を与える)ことであり,人を以って天を窺うことなのである(注20)」

天とは,ある秩序の形成原理にもとづいて意識することなく天地すなわち自然界を支配する主体である。自然の水や火,あるいは草木などはこの天の精神をになって存在しているのである。人間はこの自然の物を自己の生活のために利用しているので,人間の立場から自然をみれば,あたかも自然が人のためにさまざまな必要物を供給しているように考えるかもしれない。しかし,そうした考えは誤りである。人間は自然の物をただ利用しているにすぎないのである。自然のものすべては,相互に依存しあって,全体として過不足なく調和のなかに存在するようになっている。あるものが一方的に他のもののために存在しているというようなことはないのである。自然が人間のためにあるというのでは,天が人にだけ特権を与えることになる。それでは,人間の身勝手な立場から天の秩序を利用しようとしていることになり,身分不相応のことを意図していることになるのである。

以上のような意味と私はこの文章を理解している。それは,人間もまた自然にたいしては,しかるべくして存在するもの,自然との調和のなかで存在すべき物でなければならないことを意味している。自然のなかにおける人間のより直接的な一体性,すなわち人間が自然の一部であることをより論理的に示したものとしては次の文章がある。

「ゆえに,植物といえば一であるが,植物について剖析してゆくと,あらゆる形が存在する。動物といえば一であるが,動物について剖析してゆくと,あらゆる物が存在する。ゆえに,人が有意を長所として恃(たの)んで天地の間においてあるのも,やはり万変のうちの一態にすぎず,その意・技をもって自らを天地の間において貴からしめているのであって,天が人に私している(特に人にだけ特権的地位を与えている)のではないのである(注21)」

つまり,意識をもっているという人間の長所も,生物の多様な存在の一つのあり方にすぎないと,梅園はみているのである。意識や技術も,自然のなかでは優れた特質であるが,それは天が人間に他の生物に比べてより特権的な地位を与えていることを示すものではないと。さらに次のようにいう。

「そもそも人は己の境を開き,己をもって貴しとし,ついにはその智をもって天を窺わんとするにいたる。それは,人の身は万物中の一物であり,その意も万神中の一神なるを知らず,天は独り人にのみ私する,と考えているのである。けだし,人の技はたとえ巧みでも,要するに人間的巧みさにおいての巧みさにすぎない。人の意はたとえ長(すぐ)れていても,人間的長れにおいての長れにすぎない。並び立っているもの(動植物などいわゆる与)と比較すると,互に巧拙通塞がある。(もし冷静に)傍観したならば,はたして,群才にぬきん出て突出していると見なし得るだろうか。…… 天と人とは反しており,反しなければ合しない。合しなければ,天地は支離(ばらばら)なものとなる。死生を観るも天地に融することなく,無意を観るも有意に反する(無意の反たる有意と考えあわせる)ことなく,造化中より己を観ないで,己より造化を観る。それでは,魚躍るも水を出ざるものであり,賊を養ってわが子を逐い出すようなものである(注22)」

いいかえれば次のようになろう。

人間はそこにおのずとそなわっている限界を踏み超えて,自然界のなかで自分を特別に貴重なものであると意識する。そして,その知識によって自然を支配する全体的な秩序を自己の利益のために利用しようとするようになる。それは,人間もまた自然のなかにある生物や非生物的存在の一つにすぎず,人間が自己を特別なものと考える根拠となっている意識も,自然界のなかに存在する秩序を形成するための無数の精神のなかの一つの精神にすぎないことを知らないで,自然界全体を支配する主体が人間にのみ特別な権利を与えたものと錯覚していることを意味しているのである。人間の技術といってもそれは,人間の視点からみて優れているというにすぎない。また人間が,自己の意識を特別に優れたものであると考えたとしても,それは人間の勝手な判断にすぎない。動物や植物などが意識することなくおこなっている巧みな生活と比較して,優劣を単純に決めることはできないほどなのである。

自然界と人間とは,相互に補い合って調和が保たれるようになっているのである。人間が自然界を支配する主体と同じことをやろうとすると,この調和は崩壊せざるをえないのである。死や生を観る場合も,自然界全体の秩序,あるいはそのなかの物質の変転のなかでとらえるのではなく,自然界の秩序を認識する場合も,人間の限られた知識からだけみようとしたりする,あるいは自然界の摂理*のなかでの人間の位置をみようとしないで,人間の視点から自然界の摂理をとらえようとするのは,分不相応のたくらみであり,誤った考えである。

前半では,自然の全体的な秩序のなかで人間の存在が相対化されているという意味で,梅園の全体論の重要な帰結であり,その優位性を示すものとなっている。「神」とは秩序づけようとする精神であり,人間においては「心」といってもよいものである。全体論においては,つねにこのような全体を秩序づける原理となるべきものが要請される。それは,生物システム*においてマクロ的な秩序形成原理*であるマクロ目的の存在を強調してきた本書の議論と呼応するものである。また,人間の技術の限界*を指摘している点もみのがすことはできない。

後半では,梅園の対概念による全体性*の認識,すなわち反観合一*という視点の優位性が明確にあらわれている。すなわち,自然界と人間は一つの対なのであって,すなわち,二の一一なのである。したがって,一方が欠いているものがもう一方は長じているというかたちで対になっているのである。したがって,天のすべきことを人間がかわりにおこなうというのは,対であることを放棄すること意味しているのである。対になってこそ調和があらわれるという,梅園のシンメトリカルな全体論的世界観*がここにはっきりとあらわれている。

2.7 物質循環と死生観   (副目次へ

梅園の自然哲学における全体論には,物質循環*も位置づけられている。上でもみたように,梅園は,自然における万物の変転のなかに人間のかりそめの存在を位置づけた。人間も含め自然界のあらゆるものが循環のなかにある。物質循環とは一面では空間のなかを物質がめぐりめぐっていることをさす。その意味では,ある閉じた空間のなかで物質が規則的に運動していることをとらえているものである。しかし,もう一面ではその規則的な変化は時間という次元のなかでおこなわれる。このことは,時間的な変化もある閉じた領域のなかでとらえられるということである。つまり,物質循環とは空間的現象としての規則性という側面と時間的現象としての規則性という側面の二つをもっている。そして,その循環においては,空間も時間もともにある閉じた領域のなかでの変化としてとらえられるのである(注23)。ただし,物質循環にかんするこれらの規則性はマクロ的なものであり,ミクロ的にはカオス的な不規則性がつねに存在していることを忘れてはならない。

一方で,梅園は時間的にくりかえされる現象すべてを循環としてとらえていたのではないこともみておかなければならない。梅園が循環と呼ぶものは太陽や月の運行など天体や気象にあらわれる一定の周期性をもった現象である。これにたいして,生命が生死をくりかえすことにあらわれる現象を鱗比*と呼んでいる(注24)。しかし,特別に梅園の主張にそう場合を除いて,時間的にくりかえされる現象,さらに空間のなかでくりかえされる物質の運動の両方を循環という概念で統一して表現することにする。

梅園の物質循環論で最も注目すべきなのは,この視点から生命*をとらえているところである。全体論の視点で人間をとらえると自然のなかでの人間の調和ある存在が要請され,人間中心主義*が克服されざるをえないことはすでにみたが,同じように全体論の立場に立てば,生命を物質循環の視点からとらえざるをえなくなるのである。梅園は次のようにいう。

「それゆえ,膏粱(こうりょう:肥えた肉うまい飯)を食らえば,その人は肥え,糞壌を培えば,その苗は長くなる。しかも膏粱は,人の肌膚でなく,糞壌は苗の枝葉ではない。ただ相い依るの間,彼の給し此の資るを見るのである。しかしながら,人が死ねば蘇らすことはできず,物(動物植物)が化しても(死滅しても)収めることはできない。ただ,生と死は一となるべき対である。混有の一という観点よりすれば,解(形が解ける,死)もまた一気,結(形を結ぶ,生)もまた一気,であり,生も得ることでなく,死も帰することではない,のである(注25)」

生命*としての人間も動植物もそれらがとりいれている物質の変化したものである。ただ,とりいれるものもとりいれられるものも,自然界全体の一時的な相互依存関係のなかでたまたまそうなっているだけなのである。しかし,人は死んだら蘇ることができないし,逆に動植物の個体は死んでも次から次へと新しい生命に継がれて絶えてしまうことはない。全体論的観点からすれば,死もまた「気」すなわち自然界の物質的エネルギー的実態の一つの形態への変化にすぎないし,生もまたその気の別の形態への変化にすぎないのである。したがって,生きているからといって何か新たなものをえているわけでもなく,死んだからといってなにかを完全に失ってしまうということではないのである。

生命*の死と生にかんする全体論的視点が語られていることを読み取ることができるだろう。さらにそれに続いて,「生ずるものが必ず化するのは,その一なるところ,生があくまで化でないのは,その二なるところである」と述べている。すなわち,全体論の観点からしてみれば,生は必ず死を迎えるものである。しかし,全体ではなく,生命の変遷を部分を独立させたかたちでみれば,あるいは還元論的にみれば,生は死とは異なる状態としてみられるだけなのである。

人間を自然のなかに位置づける全体論的な観点をもたない近代科学においては生命の生と死のあいだには巨大な断層,切断が存在している。そして,それを乗り越える論理を提示することはできない。しかし,全体論的な視点に立てば,この梅園のような位置づけも可能になるのである。もちろんそれは,死と生をまったく同じものとすることではない。死と生がそれらをこえる全体のなかに位置づけられるということである。生と死をみずからおこなわなければならない個人の観点からいえば死と生のあいだの大きなちがいを完全に超越することは困難であろう。それは,個人が生をすでに選択してしまっていることによる。すなわち,個人にとって次の大きな生命の変遷は死しかありえないのである。しかし,無意識のうちに体験した死の世界から生の世界への自己の物質的変遷も,彼がこれから体験するであろう,死と同じくらいに巨大な断絶があったのである。ある個人が,生きる機会を与えられること,あるいは,遺伝子*のほとんど無数の組合せのなかからその個人につながる偶然的な組合せにいたるのは,死と同じくらいに恐ろしいほどの偶然の産物なのである。

梅園の全体論的な死生観*には,彼の「一は一一であり二である」という条理*の認識が大きく働いている。しかし,このような死生観は,仏教*の輪廻思想*などにもあらわれているように,東アジアの思想のなかにしばしばあらわれるものの一つであるともいえる。『荘子』のなかにも,梅園の死生観の起源ともいえるような記述がある。該当部分の福永光司の解説的な訳をかかげておこう。

「生は死の同類,死は生の始めともいえるのであって,何びともその根本のけじめを明らかにすることはできないのである。というのは,人間の生命は「気」すなわち天地宇宙の間に遍満し,一切万物を一切万物として成り立たせる原素が集合することによって出来あがったものであり,この気が集合すれば生,離散すると死になる。そして,今もし死と生の現象がこのように同じ気の離合集散にすぎない同類一体のものであるとするならば,万物の生滅は天地の一気のあり方の変化にすぎないということになり,我々はなにも死生の問題に心を苦しめることはなくなるのであろう。かくて万物はみな天地の一気によって形づくられていることになり,この点からいえば万物は根源的には一つなのである(注26)」

ここでの気は,梅園の場合もそうだが単なる目にみえない微細な物質という意味だけではなく,その物質を機能させるエネルギーをも体化している物であるという点では,近代科学の,物質的な物とエネルギー的な物を区別する見方とは離れている。しかし,このような記述が非科学的で宗教的なものであると考えるならば,それは大きな誤りである。生と死が物質とエネルギーの状態の二つの側面にすぎないというとらえ方は,還元論的な科学ではとらえられない,世界の存在の秩序であり現実の客観的な反映なのである。

2.8 シンメトリーと静的世界観   (副目次へ

梅園の自然哲学にあらわれているきわだった特徴の一つは対称性,シンメトリーである。それはまず,全体を対となる二つの部分によってとらえる認識論にあらわれている。この対となっている二つの部分の対立性は,矛盾とか闘争している部分といった強い対立性を必ずしも意味していない。認識する側からいえば,その二つの部分にある対称性をより鋭く認識する重要性を梅園はくりかえしている。たとえば,彼自身のものではないが私が先にあげた例でいえば,生態系の機能をエネルギーの固定化の過程とその拡散の過程としてとらえると,その二つの過程の対称性を可能な限り鋭く認識しようというのが,梅園の要請なのである。あるいは,これは梅園も例としてあげているのであるが,人における肉体と精神の対称性もある。梅園は,対称性を認識することによってより本質的な理解をえられると考えていたのである。同じ意味だが,対称性は存在そのものが有している構造の普遍的な特性と梅園は考えていたのである。

この対称性*は,梅園が『玄語』のために描いた多数の図のなかにも明確にあらわれている。先の, 経緯剖対図(図~F2 )もはっきりとした対称性をもっている。それはいいかえれば,条理*という構造の秩序あるいはその認識論理そのものが対称性をもっていることを示している。もっと鮮明に対称性を表現している図の一つを示すと,剖対反比図一合という図~F3である(注27)。



図(F3) 剖対反比図一合

一見無意味な図のようであるが,先の経緯剖対図(図~F2 )と比較すれば少し意味がみえてくるだろう。すなわち,点線で描かれた同心円は二の関係,あるいは緯の構造をあらわしている。そして全体をあらわす中心から二又にわかれていく実線が一が二となる経の構造をあらわしている。この対称性*は,経緯剖対図と同じであるがさらにそれに陰画(ネガ)と陽画(ポジ)が対になっている。かりに右側を陽画とすれば左が陰画になる。この図をたとえば,陽画の方を秩序形成原理が条理によってわかれていくことをあらわしている図とすれば,陰画の方はその原理の構造にもとづいて組織される実態,物,私たちの問題でいえば,生物システムの組織そのものである。先に,梅園の図は立体的な物と考えなければならないといったが,この場合は陰画と陽画が表裏の関係にあるとみておけばよいだろう。

このような対称性にもとづく認識論*は,一般に機械的システム*にも意味をもつかいなかという問題はあるが,私たちの主要な関心は生物システム*であるから,この生物システムの構造を理解するうえでの対称性の意義をとらえることが重要である。この生物システムの構造をとらえるうえで,梅園が教えるように対称性の認識が重要なのは,実在の生物システムそのものがさまざまな対称性のある構造から成立しているからである。しかも,梅園のようにその対称性が入れ子構造*になっているのである。入れ子構造とは,一つの全体をあらわす対称性の二つの要素そのもののなかにさらに二つの対称性が構造を成していることをあらわしているのである。剖対反比図一合(図~F3)でいえば,実線であらわされるような分岐,すなわち経の構造がどこまでも進んでいくことを意味している。対称性による構造化*が生物システム,すなわちくりかえせば生態系や社会システムなどの本質を成すということである。

では,この生物システムの対称性は具体的にどのような意味をもっているだろうか。たとえば,生態系について考えてみよう。エネルギーの固定化とエネルギーの利用による発散すなわち廃熱の生産が対称的に機能しているというのは,明らかに生態系の健全性を意味している。この場合,対称性はバランスを意味しているのである。このようなバランスという意味での対称性は,たとえば,人間の精神と身体の場合に健康な状態の一つの条件とみなされるときにもあらわれてくる。あるいは,経済システムにおける分配を決定する価格のシステムと,財の需給条件を規定する物量システムのバランスとしての対称性もそうである。さらに,価格システムがもたらす,その内部における分配の対称性,たとえば労働にたいする分配と資本にたいする分配のバランス,あるいは物量システムのなかの需給バランスといったかたちで,簡単に対称性の入れ子構造*をとらえることができるようになる。

すなわち,対称性を認識することは生物システムの調和あるいはバランスをとらえることを意味しているのである。そして重要なことは,全体論的にもとづく対称性を前提にする場合,このような生物システムの構造における調和は一般に静的なものでなければならないということである。静的構造*とは,定常性を維持するような構造を意味している。したがって,もしある構造が非定常的,たとえばシステムの規模を持続的に増大させるものがあれば,同じシステムが逆の過程を,たとえば規模を持続的に縮小させたり,死滅したりする非定常的過程を対にもっていなければならないのである。

全体論におけるシンメトリーの意義について私に気づかせたのは山田慶兒の次の文章である。

シンメトリーの哲学が描きだすのは,均斉のとれた,静的な調和にみちた,安定した世界であるだろう。その世界では,回帰的循環的な運動,定常的な運動はあっても,質的な飛躍をともなう運動はおこらず,その意味で世界は不変のままにとどまるだろう。世界の構造が厳密に対称的であるならば,空間のみならず,時間もまたシンメトリーをなすだろう。いいかえれば,時間の矢はそこで意味を失い,世界を永遠の現在のなかに投げこむだろう(注28)。

ただし,定常性と時間の対称性*についての考え方は私のものとやや異なっている。それは,彼が,ある種の理想的な思想として完全な対称性にもとづく思想を考えていること,そしてまた対称性の思想を全体論的観点のなかに位置づけていないことに規定されている。対称性を時間の世界に適用することが一定の妥当性をもっていることは明らかであり,その点での指摘は重要な意味をもっている。しかし,定常性における時間的対称性を機械的に適用することは,昨日も今日も明日もすべてが不変であることになるが,そのような定常性は死んだ定常性*であり,死の世界でしかありえない。それは,生物システムの定常性がそれを構成するすべての主体の生死のくりかえしのなかで維持されていることをとらえられなくなるのである。

生物システム*の時間における対称性は,生が死によってつねに償われていることにあらわれている。そしてこの必然性はまさに,全体論的視点から明らかにできるのである。すなわち,ある生物システムにとって構成する要素のあいだの生と死の対称性*が崩壊することはその生物システム自身の崩壊,あるいは死を意味するのである。あるいは,その生物システムの構成要素が全体として成長に偏っていれば,そのシステムはより全体的な観点からいえば崩壊と死を迎えざるをえなくなる。逆に,構成要素が全体として縮小や死の側に偏っていれば,そのシステム全体が死を迎えざるをえなくなる。たとえば,人は生まれ成長し老化し死ぬ。そこには時間の対称性*がある。その成長過程には,人の構成要素は全体として成長の方に偏っているのである。もちろん,そこには新陳代謝*があり,死の要素*もつねに含んでいるのであるが,全体としては,成長の方への偏りがあるのである。逆に老化*や死の過程は,死の方へ人の要素が偏っているのである。

生態系についても同様のことがいえる。また,人を含めた自然のシステムについてもそれは適用できる。したがって,生物システムをより高次の全体的な生物システムのなかに位置づけていけば,それは,いずれは宇宙*にまで到達せざるをえないだろう。宇宙が死の方に偏っているか生に偏っているかは,わからない。私たちは,どこかで定常的な生物システムをとらえなければならない。その定常性をとらえるために切断は,地球という生態系のレベルでおこなわれるのが妥当かもしれない。それは,地球というレベルでシステムの定常的な持続を仮定するのである。もしそうならば,地球というシステムにおいては,その構成要素の生と死は対称でなければならない。

明確なことは,個別的な生物や人間のレベルでは,生は不可避的に死にいたり非定常的な対称性のなかに存在せざるをえないのである。そして,本書の全体的な考え方からいえば,定常性は,より低いレベルで支配的に実現していることが望ましいのである。

このような意味で,対称的世界観*は,静的世界観*である。この静的な世界は死んだ,あるいはエントロピー*が極大化してしまった世界ではない。なによりもそこには,物質循環*がある。閉じた空間と時間のなかのくりかえされる物質の移動と変化が存在しているのである。その物質の変転のなかに,人間も含めたさまざまな生物の生死のくりかえしが含まれているのである。

梅園の示したこの対称性による自然哲学が示した静的世界観は,近代の激流のなかで顧みられることもなく,飲み込まれ忘れられてしまった。近代自然科学,あるいは近代のさまざまな思想が提起したのは,動的世界観*である。世界はどこまでもより望ましい方向に進化していく,すなわち絶えまない進歩*が近代思想の基軸にあったのである。しかしこのような動的世界観のもたらしたものが,人間の存在を困難にするところまで変化させるほどに地球環境への物質負荷を増大させてきた世界である。そのためにあらためて,動的世界観の是非,進歩思想*の是非が問われざるをえなくしているのである。

それは,進歩にたいする根本的な疑いにまでいたらざるをえないだろう。そもそも,日本人は,あの採取・狩猟・漁撈によって1万年近い長い年月を基本的に定住性の高い生活様式で過ごしつづけることができた縄文社会よりも進歩したのだろうか。たしかに,現代においてはさまざまな文明の利器に囲まれた生活ができるようになっている。しかし,そのことがただちにあのいにしえの時代の人々よりもより大きな幸福をえていることの証明にはならない。飛行機や新幹線によって高速移動ができることがただちに,それができないことよりもより大きな幸福をえたことにはならない。たしかなことは,「私たちはそれらの文明の産物を利用しなければ幸福をえることができなくなっている」ということである。

文明のつくり出した利器は,いとも簡単に壊れてしまう。阪神大震災*で私たちがみたものは,自然の力の前で確実に壊れずにあるものは自然以外には存在しないということである。このような,はかなくつくり上げたもので,人間の進歩をはかってよいのかはひどく疑わしいのである。

縄文時代より人間の寿命が伸びたことが進歩の決定的な証拠であると考える人がいるかもしれない。私も,おそらく文明が確かに人間にとっての進歩をもたらしたといえるものとして最後に残るものはこれしかないと考えている。乳幼児の死亡率*が低下したことを進歩ではないと,いい切ることは困難であろう。ただし,この平均寿命が伸びたことの進歩的な意味も,ある程度割り引かれなければならないものである。なぜなら,私たちはこの社会のなかで長く生きなければならなくなってきている,長生きが強制されている面があることもまた否定できないのである。たとえば文明は,人間の教育の期間を長くすることを要求し,それを物的に保証するものとしての親はその長い期間を生きつづけなければならなくなっている。保険をかければよいと考える人がいるかもしれないが,多くの親がその子の教育期間をまっとうすることなく死ぬような社会では保険は実現できないのである。

人の寿命をめぐるような,進歩を否定できない事実がある一方で,退歩*を認めざるをえないような側面もある。それは,戦争や環境破壊といった文明の否定的な産物である。縄文社会には,社会の全体的秩序づけの必要もなく,また実行する剰余もなかったために戦争*がなかった。また,定住や持続的存在を不可能にするような環境破壊もなかった。

人類にいま求められているのは,近代がもたらしたプラスの成果と否定的な結果を厳しく峻別し,そのうえに近代を特徴づけている動的な世界観から解放されること,すなわち世界は進歩の方向に向かって変化しつづけなければならないという観念から解放されることである。日本人もまた,近代の激流のなかで見失ってしまった静的世界観*をあらためてみつめ直す必要がある。梅園の思想は,難解でありかつ深遠である。そこに含まれている,現代にとっても新たな時代の思想の萌芽となるものを汲みつくしていく作業がさらに求められているのである。

脚注

(1)生態学的全体論*については,Jo\llap/rgensen~ ,p.58 参照。(もどる
(2)村上~ ,p.107。(もどる
(3)R.B.Norgaard は,現在の環境,生態系の破壊をもたらした近代の思考方法の背景にある前提の一つに Atomism*,私たちのいう還元論をあげている。Norgaard~ ,p.62。(もどる
(4)全体論の観点からみた知識にかんするNorgaard の次の指摘はきわめて重要なものである。「システムがそれらの部分の和であるという考えに従えば,支配的な宇宙観*は暗に知識は追加的なことがらから成っていると仮定していることになる。思想的多元主義(conceptual pluralism)*は,私たちの分離した知識は加算可能なものではないと強調する」,Norgaard~ ,p.99。(もどる
(5)山田~ ,参照。(もどる
(6)『諸国民の富』においてスミスは,個別主体(企業)による付加価値生産を最大にする努力がひいては社会の総付加価値(国民所得)*の最大化にもなるとといた。それは,前者の総計が後者に等しいことからの理論的必然性においてとらえたのであるが,スミスは,それをさらに一般的に個人の利益の追求が公益の追求にもなるという命題として意識していたと思われる。スミス~ ,p.56。(もどる
(7)梅園の全体像については,小川~ を参照。梅園を環境問題との関係でとりあげているものとして山田~ がある。(もどる
(8)三浦~ ,p.39。筆者が一部加筆。(もどる
(9)三浦~ },p.551。一部改変。(もどる
(10)三浦~ ,p.14。一部筆者の責任で加筆。(もどる
(11)ただし以下の対応づけは,梅園の全体論を理解するための例示というのが主要な目的であり,これが絶対に正しいものだというわけではない。他にも,多様な対応づけが考えられるだろう。(もどる
(12)三浦~ ,p.38。筆者の責任で和訳を一部改変。(もどる
(13)梅園は,「一つの生物が二つに剖けると,植物と動物となる」(三浦梅園~ ,p.335)と述べている。 (もどる
(14)このことは理解が難しいかもしれない。理論的には,フォンノイマン型の成長均衡モデル*における賃金 --- 利潤フロンティアの問題である。関心のある読者は,森嶋・カテフォレス~ の第4章を参照されたい。(もどる
(15)三浦~ ,p.19。(もどる
(16)反観合一については,梅園の「多賀墨郷君にこたふる書」という手紙の一つで解説しているものが参考になる。この手紙は三枝~ 1972}に現代語訳が掲載されている。また,ほぼ原文に近いものが三浦~ に掲載されている。(もどる
(17)梅園は次のように書いている。「けだし条理*の剖析*は,睹ることができないようではあるが,しかも粲然として(区別だって)眼前に立っている。粲立*するものを獲得しているのに,その名がわからないと,結局,自分で命名せざるをえない」,三浦~ ,p.22。 (もどる
(18)山田~ ,p.188。(もどる
(19)山田~ ,p.292。(もどる
(20)三浦~ ,p.259。(もどる
(21)三浦~ ,p.292。(もどる
(22)三浦~ ,p.293。(もどる
(23)山田慶兒はこの点を次のように明確に指摘している。「この空間的のみならず時間的にも不変の,閉じた,自己完結的な構造は,梅園にとって,生涯をかけた探求のすえについに把握した,絶対的真理であった」,山田~ ,p.180。 (もどる
(24)梅園の時間論については,高橋~ を参照。(もどる
(25)三浦~ ,p.333を一部改変,一部加筆。(もどる
(26)福永~ ,p.182。(もどる
(27)三浦~ },p.550。一部改変。(もどる
(28)山田~ ,p.163。(もどる



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